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B=REVIEW 2017年12月投稿作品 選評

大賞候補 仲程 連音/ほうげんふだ 


◆優良

・地球 ケーキと福音 

・桐ケ谷忍 籠の外 

・日下悠実 冷たい夜明けの湖畔にて 


◆推薦

・弓巠 空をひらく

・北 埃立つ

clementine 産毛

・夏生 黙々と


大賞候補

★仲程 連音/ほうげんふだ http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1040

〈前に進むことを停めた友へ〉という呼びかけが意味するものは、何だろう。進歩、前進、目標に向かって・・・そんな一見するとポジティブな思考を、やめた、のではなく、停めた、友への呼びかけ。友は、前進するエネルギーを失って、小休止をせざるを得ない状況に追い込まれているのか。そんな友を励ますために、幼いころの共通の話題を、懐かしく語りかけている、のだろうか。

あるいは、葛藤に悩むことを放棄し、一時停止した友、への呼びかけ。悩みに直面することを避け、今現在の安定を「やすらぎ」と読み替え、自己欺瞞から目をそむける。葛藤しなければいけない苦悩から逃れるために、停戦状態に棚上げにして、それは善である、正しい行為である、と自分に言い聞かせて受容してしまう、そんな状態にある友への、かすかな批判も含みつつ、寄り添っていこうとする呼びかけなのか。

子供時代の思い出を、〈アガー〉という「方言」から語りだす自然な導入に惹かれる。大人になった語り手が、街角の風景から「ふと思い出す」やんちゃな子供時代の思い出。〈親父が子供の頃に本土政策で使われた方言札〉とあるので、語り手が子供の頃には、既に「罰則」として使われることはなくなっていたのだろう。それでも、方言を使わない、使わせない、ことが良いこと、であると信じ、自分の使命であると信じていたかもしれない〈本土から赴任してきた中年の女性〉である〈先生〉。

身体的な痛みという根源的な苦痛を表現するとき、自分の生まれ育った土地の言葉、生まれながらに身に着けた言葉、いわば母語が、自ずから口をついて出るのは当然のことだろうに、それを使ってはいけない、痛い、と言い換えなければいけない、と強要されることの不自然さについて、考える。教育、という名のもとに、その不自然を押し付けることに葛藤を覚える良心を持った教師は、制度と現場との間で苦悩し続けるだろう。その苦悩から逃れ、「やすらぎ」を得るには、自らの行為を正しいものと信じる他はない。子どもたちの「良心」は、〈汚い言葉を使った場合は/ちょっとは反省したのかもしれない〉というところにあり、それは他者を傷つける(痛みを与える)ことを知っているがゆえの、自然な反応なのだろうと思う。他方、〈方言での場合は/誇らしげに正座したもので〉という子供たちの反応は、方言を用いることの正当性が、子供達にも浸透していることを示している。規範を与える、規則で縛る、従わない場合は、罰則を与える。それは子供のよりよい成長の為であると信じているがゆえに、葛藤を覚えることのない〈先生〉は、罰則を与えることで反省したり羞恥を覚えたりすることを当然期待するだろうけれども・・・〈そんな僕らの明るい顔に〉恐らく気づいてしまうのだ、自己欺瞞としての「正義」に。そして、そのことを子どもたちも見抜いている。

〈先生のほうが痛かったのだろうな〉という中盤の「痛み」は、〈先生〉が自らの権威を示すことができない、自らの信じるところを実践できない、思い通りにならない。そうした苛立ちから発せられるものであり、それを子供心に見抜いていた、ということであるのかもしれない。しかし、最終連で繰り返される〈先生もやっぱり痛かったのかな〉という言葉には、〈前に進むことを停めた友〉の〈落ち着いた顔〉が重ねられている。

自らの心が、自然な呼びかけに応じることによって生じる葛藤とは、制度や社会的規範を指導する側、強制する側の立場と、その規範そのものを疑う、自然な人間としての感性の葛藤である。それが正しいことなのだ、と、確信を持つことができるならば・・・つまり、社会制度や規範と、自らの心が聴きとる自然の呼びかけとが一致している時には、なんらの葛藤も起きないだろうが、自らの人間としての感性を抑圧しながら、社会制度や規範を正しいもの、として受容する時、そこには葛藤を棚上げにした、一時的な小休止としての、仮の〈やすらぎ〉しか存在しない。

〈先生〉と〈僕ら〉の関係性を、「本土」と「沖縄」の関係性のメタファーとして読むことによって見えて来るものがある。それは拡大解釈かもしれないが、また別の拡大解釈として、社会的規範や、組織における規範、あるいは制度や慣例といったもの、人為的に作りだされたルールの適用などに際して生じる諸々の葛藤に際し、適用する側だけではなく、する側の覚える痛み、といった普遍的な問題に敷衍し得る。

語りかける文体の持つ、誰にでも届く優しさと易しさ、〈前に進むことを停めた友へ〉という、様々な読み込みの可能なフレーズで全体を挟み込むように整える形式の安定性。同一内容をリフレインしているように見えて、痛み、という同一の言葉が、異なった側面から捉えられているように読める奥行きなど、たくさんの魅力を備えている本作を、大賞作品に推したいと思う。


◆優良

☆地球 ケーキと福音 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1135

コメント欄より 〈幾つものいのちが死んで終わる〉 〈いのち全体が過呼吸〉 〈今年もまた 死にきれなかった〉 刻んでいくひとことひとことが、とても印象に残りました。 生きているかのごとく(生きるばかりに)光る月・・・物質としては「死んで」いるはずなのに。 ずっと、私なんかより、生きているじゃないか・・・その冷たくあたたかく浸みて来る月の光。 泣きながら食べるクリスマスケーキ。 なぜか、生きていることの「罪深さ」を抱えて、今年もまた生き延びてしまった、ことを歌っている語り手。 生き延びてしまったことを、言祝いでほしい。そんなクリスマスでありますように・・・


大賞候補に推したいと思った作品のひとつ。以前大賞を受賞されていることも踏まえて、優良に推した。クリスチャンである人も、そうでない人も、当たり前のように「お祝い」する習慣ができてしまっているクリスマス、ではあるが・・・人間の罪を贖う為に十字架上で苦しんで死ぬ、という運命を負った「救済者」の生誕を祝う日である。祝福の日の〈すこし前にも〉生誕に立ち会えずに死んでいったいのち、があり、「わたし」の罪を負って死ぬ命を祝福する、という、引き裂かれるような矛盾を抱えた日でもある。コメントでも引用したが、〈いのち全体が過呼吸〉この一行を中心に捉えたことを評価したい。


☆桐ケ谷忍 籠の外 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1072

コメント欄より 逃げ出さないように、風切り羽を切る。それは、語り手による、「ピーコ」への執着であったのかもしれません。花緒さんが「ダーク」と評したのは、〈もがれた翼をばたつかせるのは/見ていて不憫だった、いや、不愉快だった/私にではなく、窓の外に向かって啼くのも〉このあたりなのではないか、と思いました。 〈私〉は、自分では「飛べない」ことを自覚していて、「飛べるもの」に憧れている。なおかつ、その「飛べるもの」が自由に飛び立つ(飛び去る)ことを許さない。許さない自分に、「飛べるのに、飛べなくされたもの」がいっそ反抗しれくれればいい、と願っているのに、その「願い」は果たされない。「飛べるはずだったもの」が、ひたすら空に憧れているのを、胸騒ぎと共に見つめている・・・。 「籠の中の鳥」が、単なる愛玩動物やペット、家族、を越えて、自分自身の魂の象徴のようにとらえられているから、なのではないか、と思いました。自分の魂が、自由に羽ばたくのを、自らの意志が阻止している、というジレンマを抱えていて・・・自らの魂が、自らの意志に徹底的に抗弁してくれる、そんな強さを持つことを、実は願っているのではないか。 それなのに、魂は肉体から抜け出して、空へ還ることばかりを願っている。意志(と肉体)は、そのことに対してついて行く事ができない。 〈一緒にいる為に、だから翼をもいだ〉魂を、自らの内につなぎとめておくためには、魂の翼をもがなければならなかった・・・生きて行くために、誰もが経験するはずのこと。その痛みを、いつまでも覚えている(それゆえに、魂が、肉体の中に、なかなか居場所を見いだせない)人と、すぐに忘れて(折り合いをつけて)、魂が肉体の内に居場所を見つける人、とが、居るような気がします。

 

 自らの魂を、自由にさせたい、手放したい、と思うと同時に、執着し、手放したくない、と願うあまりに、自らその翼を切る。自分で自分の魂を切り苛むような、過酷な行為をせずにはいられない、そんな自分を、冷静に見つめる他者としての自分。空を飛びたい私と、飛べないことを知っている私、飛べることを知っているのに、飛ばしたくないがゆえに飛べなくする私。「私」の多面性を小鳥と飼い主の関係という具体的な映像に託して描いた点に惹かれた。


日下悠実 冷たい夜明けの湖畔にて http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1074

コメント欄より 指先に走る痛み、に焦点が当てられているのではなく、〈撫でる〉という言葉に含まれる愛おしむようなニュアンスが印象に残りました。 指先に刃をすべらせ、うっすら滲む血液、その血が〈誰かの/同じ血〉へと混ざっていく、とけこんでいく、のを夢想しながら・・・実際には、血が乾いて、痛みだけがそこに残されるのを、一人で見つめて居なければならない。 わたし、であることを離れて、大きな一群、誰でもない群、の中に溶け込んで、消えてしまいたい、という願望が、満たされないまま、孤独だけが切々と・・・指先にこびりついて乾いた血が目の前に突きつけられるように、そんなリアルさで迫って来る。 そんな心情が描かれているように感じました。 二連目の、〈誰か〉という、漠然とした対象設定が、全体をなんとなく曖昧にしている感もあります。耽美的な心象風景への傾きが前面に出ている、というべきか。 命のエネルギー、あふれ出す心情・・・その熱の象徴ともいえる流れる血が、乾いてしまう、というイメージと、心が冷えて、凍り付いてしまう、液体が固体になってしまう、というイメージと〈凍える指先〉〈溶けはしない〉〈霜が訪れ〉という冬の寒さのイメージとが重なっているように思いました。 〈深い底〉とは、集合的無意識が心象映像として描き出した、群青色の湖、ということになるでしょうか。 茨木のり子の「みずうみ」という作品に、〈人間は誰でも心の底に/しいんと静かな湖を持つべきなのだ〉 〈田沢湖のように深く青い湖を/かくし持っているひとは〉という印象的なフレーズがありますが、そんな心の奥底の湖を連想しました。


 普遍的な湖の心象風景と、鮮烈な血の色。白と青、そして赤。ナイフに傷つけられる、のではなく、自ら刃を迎えに行く。一滴が湖の底に落ち、誰かの同じ血へ混ざる、という2連からイメージするのは、あらゆる人々の痛みや哀しみ、苦しみの一滴を集めて、しんと静まり返っている湖の姿だ。一滴だけ、自分自身を湖に逃して(哀しみの集合体の中に、自らを溶け込ませて)、岸辺で指先の血が乾く(再び、自分自身を孤立させる)のを見ている、とも読めるかもしれない。4連に整えられた安定した詩形の美しさも評価したい。


◆推薦(優良次点)

☆弓巠 空をひらく http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1041

ひらがな、カタカナ、漢字の使い分けは、詩面の印象だけではなく、音読(脳内再生)する時のニュアンスにも影響してくる。いわば、テクストの質感にあたるものだろう。体言で止めて、助詞で改行する区切りや、言葉を重ねながら変容させていく手つきなどから、音として響かせることと、目視した時の質感の追求と言った、意味よりもニュアンスやムードといった「とらえどころのないもの」を文字に置き換えようとする意欲が感じられる。空、という文字の持つ意味と、文字そのものを解体していったときに現れて来る意味が、どのように関係してくるのか。空を分解すると穴が現れ、さらにウ、八、工(たくみ、と読める)カタカナでウハエ、どこまで行っても「文字」としての意味を見てしまいそうになる視覚の性向を問おうとするように見えて、そら、という音に戻り、何も捉えられないところに回帰していく。空を写す水、映し出すだけで、何もとらえられなかった、という喪失体験の想起が繰り返される。開放的な場の提示、文字の解体も含めた、場の解体が意図される一方で、この循環の中に閉塞、安住していくような空間の作り方に、もどかしさのようなものも覚えた。


☆北 埃立つ http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1132

ぎっしり文字を詰めることで生れる切迫感や焦燥感と、読みやすさとの兼ね合いを考えさせられた。論理に収まることを拒否するような自在な言葉の運びで詩句を進行させつつ、エキゾチックな、童話の世界で触れている外国の街のような都市空間が、断片的な描写の中からぼんやり浮かび上がって来る。蝋燭の火、火事、指先の炎、渦巻く夕陽、と、火や情熱を喚起する言葉が断続的に現れ、全体にひとつの色を付与していく(調性を整えていく)一方で、留まることなく先へ先へと進んでいく詩句の進行、全体を主導する疾走感に惹かれた。濡れたように注がれる月の光、月の光に濡れる町を映し出す最終行は、水の世界への回帰、羊水の世界への回帰願望とも読める。胎児の時の記憶までイマジネーションで遡って呼び返しつつ〈俺に故郷がない、ただ景色だけを持っていて、そこに奏でるギターがない〉と畳みかけていくあたり、ないからこそ、求める、という切迫感が伝わって来て強く惹かれるものがあったが、ロジックからの飛躍が大きすぎて、連想が追い付かすに意味を取りこぼしてしまう詩句も多く、手元に留まらず、すり抜けて行ってしまうような感覚が残った。


clementine 産毛 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1050

本文一行目と題名が被っているのだろうか。詩の立ち上がりは重要なので、一行めを整えたい。全体に、とらえられないものを捉えようとする試みが、名付けるという行為において確認される展開、匂いを感じ取る感覚、産毛を揺らすようで揺らさない、気配だけを残していく感覚と、名付けようのないものを(たとえば、みぞれと)名付けていく感覚に連続させているところに惹かれた。比較的短めの詩行の中で、リフレイン的に繰り返される〈みぞれとよんだ/呼んだ〉という詩句の重なりや、〈カルキのにほい〉といったフレーズは、淡色の絵の具を重ね塗りしながら強めていくような効果をもたらしているが、同じ色が繰り返されることによって画面が単調になっていく傾向も否めない。〈指先にぎりぎり届かない/日向〉〈産毛をかすかに揺らさない/風〉どちらも否定の強さが、逆にリアリティーを喚起する印象に残る詩行。こうしたアクセント的な部分を大切にしてほしい。


夏生 黙々と http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1058

動作を丁寧に描写していくと共に、連用止めと改行で続けていく詩句のつづりが生み出す律動感が印象に残る作品だった。糸、という言葉に喚起されるイメージが、関係が崩れないように、ほつれないように、という願いであったり、絡まることへの怯えであったり、その絡み合いを断ち切らねばならない、そうした場面に立ち会わされることへの恐れ、というように、多方向に展開していく。それでいて、全体を糸のイメージがつなげている一貫性、粘り強さが良い。いとも簡単、と糸の音にかけたユーモアが、全体のシリアスな調子とうまく調和しているか、どうか・・・ユーモアや笑いに転化する部分の取り込み方は難しいが、笑いには、息づまるようなシリアスな重さをひと息に開放する効果がある。〈一生懸命の/もろさ/と/堅さ〉は、そのままこの作品の持ち味であり、特質でもあるのだが・・・もろさ、堅さをしなやかさでつなげていくような余裕が加わると、もっと作品に自在さがうまれるのではないか、と感じた。


◆参考 優良候補作品 (順不同)

渡辺八畳 市営のシエスタ http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1122

徐々にでいいから 回送 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1053

クワン・アイ・ユウ 声だけの無名、酷い、酷いにおい http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1077

二条千河 口実 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1144

まりにゃん * http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1075

渚鳥 再開 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1086

shun kitaoka 高橋先生 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1102

蛾兆ボルカ 黄色くて丸いパン http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1107

静かな視界 shima  http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1107

北村灰色 海に砂糖を、僕には何を? http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1107

アラメルモ ドライフラワー http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1088

くつずりゆう 東風 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1039

大熊あれい 芝生で覆われた土手一面に、霜が降りて光っている http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1099

芦野夕狩 姉の自慰 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1154


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# by yumiko_aoki_4649 | 2018-01-15 04:12 | B-REVIEW | Comments(0)

高良留美子著『女性・戦争・アジア』感想

『女性・戦争・アジア』の、広範で膨大、一つ一つの項目を突き詰めて考えていく高良留美子の仕事に圧倒されながら、関連書を繙きつつ、少しずつ読み進めた。高良氏の知識量と思索の深さはもちろんのことであるが、大きく包括的にとらえたり、異なった側面から光を当ててから緻密に検証していく論法からも、多くの学びを得る評論集だった。


読みながら、「modern」とは何か、ということを、考え続けていた。自然界の岩も川も、動植物もすべて「神」の作りだした被造物、という西欧の考え方が、対象を「物」と観る思考を促進し、自然界の事物を遠慮なく「利用」する発想へと繋がっていくのだとしたら・・・そして、神の似姿でもある人間には、それが許されている、という思考法が、産業革命以来の文化を創り出したのだとしたら・・・人が自然から切り離されていく(世界から分断されていく)近代化の帰結は、自然界への畏怖を忘れた人間にもたらされた「報い」であるような気がしてならない。


「詩における東と西」の中で、高良は〈日本人は過去一世紀以上のあいだ、西洋の文明をとり入れ、それに適応してきた。しかしそこには過剰適応の面が〉あった、と指摘している。漠然と抱き続けていたものの、言葉にならなかった違和感を、まさに言い当ててもらったような一節だった。本来アジアの一員である日本人が、「脱亜入欧」を急いだことが生み出すひずみ、自然との隔絶が生む不安や孤独、孤立感。西欧から見れば前近代的な心性の現れと認知されるかもしれない、龍神を祀ったり山の神や海の神への祭礼を行ったりするアニミズム的な伝統的な行為は、日本も含めアジア諸国において、自然への畏怖や敬意を次世代に引き継いでいく重要な役割を果たす儀礼でもあったはずだ。人も自然の事物も、自然(大地)が生み出した「もの」である、という、より大きな「全体」の中に、「物」も「者」も包含されている。意味の差異によって異なった漢字を当てられても、「もの」という音韻は同じ、おそらく発想の原点も同一。動植物だけではなく、岩や土や川などの自然の事物も人と同じように「一緒に存在するもの」である、という意識の中に、本来の平等が根差しているのではないのか。〈東と西のもつ二つの価値観の統一は、男性的なものと女性的なものの統一と共に、現代文化の緊急で本質的な課題である〉という言葉に、深く共感する。


人と人だけではなく、自然界に存在するものは皆平等、共に自然(大地)から生まれ、やがてまた土に還っていく。大地どうしをつないでいる海から「命」が生まれ、やがてまた大地に戻っていく、という循環。あらゆるものが平等に存在をゆるされているならば、本来そこに「価値の差」など生まれて来るはずがないのに、人間は優劣をつけ、自らを高い所に置こうとし・・・中には、より容易に自らを相対的に高めるために、他者を貶めようとする人もいる。

「戦争」がなぜ起きるのか、どうして「人間」「人類」は、それを防ぐことができないのか・・・文学には「起きてしまったこと」を伝えることはできても、事前に防いだり未然に留めることはできないのではないか、「現実」に対しては無力なのではないか、という、絶望的な気持ちになるが、「植民地主義の原罪と文学―9.11以後を考える」などを読むと、「戦争」を引き起こす直接的、表層的な要因が欲望や野望の衝突であったとしても、その衝突に到る過程に、他者の文化への無理解や差別意識、自分たちの文化や思想を押し付けようとする独善性(正当化する宗教、思想、理念)がある、ということを鮮明に意識させられる。この段階であれば、文学は未然に戦争と関わり、防ぐことができるかもしれない、という希望を持つこともできる。もちろん、微力であり、淡い希望であるには相違ないが。

「事実」を探り、確かめるということ、それを伝え、明らかにする、ということ・・・その時に、「出来事」を記述するのが歴史だとすれば、その時の「心情」を、同じ人間である、という普遍性を根拠として推し量り、自らのもののように感じて、心の中で再体験して、同時代の人々や後世に伝える、問いかける、その行為が文学なのだと思う。そして、同様の悲劇や苦悩を再び引き起こさない為に、人間には何が出来るのか考えさせる、自発的な行動へと促す・・・その段階における重要な役割を、文学は担っているのだと考え直す。外交交渉の現場や、国際会議の議場における弁論に、根の部分で繋がっているのが、そうした文学的な思考なのだ。


「弱いもの」に寄り添う、その立場に立って考える、理不尽や悲惨な現実について抗議し、非難し、改善を働きかける・・・そのことの「正しさ」についても考えさせられた。真の同情(憐憫ではなく)、真の共感とは何か。自身の理不尽や憤りを越えて、誰かの「為に」行動する、という行為に素朴な憧憬を抱いたり、理想的な生き方を見たりもするのだが・・・それは、自分自身にも内在する「英雄願望」の発露でもあるのではないか。そう考えた時、「為に」という行為の持つ両義性(それは「正義」の両義性でもある)そうした価値観にとらわれることの「恐ろしさ」について、考えざるを得ない。

「恐ろしい」というのは、ここしばらく、戦時中の詩人たちの日記や手紙を読んだり、行動について考えているせいかもしれない。戦時中の文学青年をとらえたある種のヒロイズム願望のようなもの、時代の「閉塞」を突破する為のモチベーションとなる思考。人は、何のために生きるか。レゾン・デートル、青臭い「自分探し」ともいえる、狭隘な思考かもしれないが・・・青年期だけの、あるいはある時代だけに見られる特殊なものではなくて、いつでもどこでも再び沸き起こる可能性のある感情なのではないか。その感情の渦が、熱狂的に再び「戦争」を引き起こすことに繋がりはしまいか。そして、知らぬ間に自分自身も加担することになっていく、ということになりはしまいか。その、熱狂の渦に巻き込まれずにいることと、傍観者として加担せずにいることとの相違は何か。巻き込まれないように注意喚起し続ける、という役割が、文学には求められているのではないか。


植民地主義や物質的豊かさ、国力としての強さを得ることが「近代化」であり「進歩」であると信じ、アジアのどの国にも先駆けてその「豊かさ」を「実現(獲得)」した明治維新以降の日本。日清戦争、日露戦争の「勝利」が、第一次大戦やロシア革命に揺れる「欧米列強」の勢力後退に由来するものでもあることを忘れ、「亜細亜」における「先進国」の地位を獲得したと自負していた日本。そこには西欧的近代に対するコンプレックスがあり、かつて憧憬と学びの対象であった中国や朝鮮の学問や文化への近親憎悪的な感情や、乗り越える、ために他者を矮小化し、侮蔑的に見下すことによって自らを相対的に高める、という歪んだ自尊感情の充足がある。「戦争」はもはや避けられない、武力が唯一の突破口なのだ、という「情報操作」があり、そうした中で目前に「死」が突きつけられたとき・・・(どうせ死ぬなら)野垂れ死ぬような無駄な死に方、無名の死に方ではなく、国家の「為」、英雄的な死を死ぬことによって、有名の死に方を得たい、死後に名前を残したい。なにか大きなものに自身の命を捧げることによって、無価値な死を価値ある死にしたい、というような願望が生起するだろう。同じような状況が現れた時、「国家の為」「公共の為」が強調されていくに相違ない。そのような時代的傾向が現れた時こそ・・・本来の「公共」とは何か。個々の相互的な尊重に基づく公共、権力者によって統括され、付与される公共、ではない、市民による自発的な公共をこそ、考えなければならない、と思う。

今現在の政治の動きや、「嫌韓・嫌中」のヘイトスピーチや書籍の横行、歴史修正主義者の主張などが、日中戦争や太平洋戦争が始まる前の日本と重なって見えて来る。歴史が単純に「再来」「再生」されるとは思わないが、過去を学ぶ、反省的に歴史を検証し、未来へとつなげていく、その歴史の潮流の(分子レベルの微細さではあっても)個人は一部を担っている、ということを、忘れてはならないだろう。その、庶民レベルの直感、庶民レベルの警戒心を、おろそかにしてはならないとも思う。昨今の投票率の低さや、政治的話題を日常化することへの嫌悪感、最近話題になった「お笑い」が政治風刺を行うことの是非、についての議論などについても、一人一人の市民が、自覚的に引き受けて行かねばならない課題であるはずだ。


宮沢賢治が、もう少し長生きしていたら・・・グスコーブドリのような自己犠牲を賞讃する傾向、世の為人の為、皆の幸せを考える、という生真面目さや「誠実さ」が、賢治を「国」の為に命を捧げよ、と主張する「愛国者」にしていたかもしれない。賢治の「国柱会」への入信などを見るにつけても、誠実に国家の未来を憂う青年であればあるほど、全体主義的な理想論、英雄主義に引き込まれていく恐ろしさを感じるし、それは今、現在に生きる私たちにも、突きつけられている課題であると思う。いつまた同じような選択の前に立たされるかもしれない、そのことに対する真の警戒心を、持つことができているか。

個々の命を尊重することと、自らの死を死ぬことは、きっと同義なのだ。国家や理念、といった、大きなもの、壮大なものに、自らの死を引き渡さないこと・・・同時に、死を私物化しない、自分だけのものとはしない。自然の中に還っていく始まり、としての死を意識することが、自然の一部として生き、個物としての孤独や孤立の不安を解消していくことになるのではないか。


思いが多方面に広がってなかなか自分でもまとめられずにいるのだが、以上のようなことを、『女性・戦争・アジア』を読みながら感じたり、考えたりしたのだった。


一章の「女性詩人」を読みながら思い出したことについても、書いておきたい。それは、最近読んだ三十代の男性詩人が執筆したブログ記事のことだった。日本の詩の百年を、ラップミュージックや現代のネット文化に詳しい「現代っ子」の眼で読み直す、という、面白い視点の文章だったのだが・・・そして、ほぼすべての話題に、同意したり感心したりしながら、読み進めたのでもあったが・・・戦時中の特攻隊戦士の遺した詩文に、企業戦士として疲弊していく自分たち男性の視点を重ねて共感する一方で、茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき」を、戦死した男たちのことなんか忘れて、新しい文化を享受しよう、そんな女性の変わり身の早さ、したたかさのようなものの現れ、という読み方をしていて、その一点に関しては、大きな違和感を覚えたのだった。(個人的に、批判のメールも送った。)もちろん、詩の読解は自由であるし、男性側からの貴重な視点として、尊重もしたいと思っている。思ってはいる、ものの・・・。

ときどき、男性たちの視線に、自分たちは企業戦士、労働力として社会で必死に働いていて、自分のための時間も満足に取れないのに、女性は楽をしている、得をしている、そんな「専業主婦」や「パートタイム主婦」への冷ややかな眼差しを感じることがある。逆にフルタイムで仕事をする女性に対して、女性としての役割(子育て)をなおざりにしている、一番大事な「仕事(家事育児)」をおろそかにして、自己実現に躍起になっている、というような見方が(姑など、女性の側からも)なされたりすることもある。

最近では、「女性詩」という言葉は死語になった、などと言う人もいるようだが(文学の世界で女性、男性、と分けること自体に問題もあるかもしれないが)、女性が女性の視点で女性の作品を読む、という行為は、男性が見落としたり誤解したりしている部分に光を当てていく、という意味でも、継続されていかねばならない。性差や社会的な差異を無くしていく、均質化していくという方向ではなく、むしろ差異を際立たせ、その際立つ中から立ち上がる、異なった視点、多様な視点をこそ、尊重すべきだ。多様な視点をぶつけ合い、共感は出来なくとも(安易な共感なら、むしろしない方がいい、)理解し合い、時には一定の譲歩もし、相互に尊重していく。意見、異見の尊重は、個人相互の尊重でもある。


五章の「詩と会い、世界と出会う旅」にも、強い感銘を受けた。

ムハンマド・オダイマ氏からの質問への〈人は言葉の海のなかに生まれ、言葉によって養われ、そして言葉の海のなかに死んでいきます。人は言葉を手段にすることも、目的にすることもできますが、人が本当にできるのは、言葉を生きることです〉(p194)という高良の回答に、深く感動した。また、マジシ・クネーネ氏の〈世界はバランスを失ってしまった。もう一度世界に調和を、秩序をもたらすことができなければ、わたしたちは大地への責任を果たすことができない〉(p243)という言葉にも、強く心を揺さぶられた。

人は、いのちを大地からいただき、言葉の海のなかで「人間」へと育っていくのかもしれない。そのことを忘れ、大地を所有物であるかのように切り刻み、「快適で便利」な生活の為に「役立つ物質」のみをかき集める行為。工業的物質文明が「進歩」と呼ぶもの・・・そんな、普段忘れていることを、思い出す、考え続ける、そしてそれを「言葉」にしていくことから、「言葉を生きる」ことは始まるように思う。言葉を欲望の伝達の為の手段として、「物」として使役するのではなく、「大地」の声を聴く、ということ。「言葉」が私たちの中を通り抜けていく時に、揺さぶったり満たしたり持ち去ったりしていく、その感覚を思い出す、ということ。〈人間はその土地に生える木に似てくる〉(p238)その土地こそが「ふるさと」「くに」なのだ。「国家」や「領土」は、その「くに」に生える木々をすべて無視して、模式図のように色分けできる平面と考える、そんな「いのち」を無視したやり方から生まれる発想なのではなかろうか。


カーリー女神など大地母神のイメージが、母系社会から父系社会へと変わっていく過程で残虐さや恐ろしさを強調する方向に変わって行った(貶められていった)であろう、ということも興味深かった。日本でも、伊弉諾と伊弉冉、両性の共同作業で世界は生み出されていったのに、火(文明)を手に入れると伊弉冉は穢れの域に追いやられて、「父」から生まれた天照が国全体を照らす、という構図に移っていく。伊弉冉は「いのち」を生み出す存在から、奪う存在としての側面ばかりが強調されていく。山姥の物語に以前から興味があるのだが、伊弉冉(大地母神)の多産、豊穣の面が「山姥」伝承に強く残されていて、興味深い。このあたりもしっかり調べていきたいと思う。


「日本の掛け合い恋歌の伝統について」の章で、高良は折口説を検討しているが、男女の役割分担のようなものが固定化している、その枠内から見ている折口の視点を、さらに超えたところから見ていく、ということの重要性にも気付かされた。今、自分が捕らわれている思考の枠組みや、社会通念から離れて、あるいはそれができなくとも、その枠内から見ている、ということを意識して、考えていくことが大切だと思う。

以上が、雑感的な補記も含めた、『女性・戦争・アジア』感想である。


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# by yumiko_aoki_4649 | 2018-01-01 10:45 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

比留間一成先生のお話を伺って

比留間一成先生のお話を伺って(※詩人 小山正孝の御子息、俳人の小山正見氏発行の『感泣亭 秋報』122017に寄稿した文章を再録。一部補筆。)


 ブレーメン通り・・・童話のような名前のその通りは、洒落た石畳とこざっぱりした街並み、それでいて活気にあふれた商店街だった。一歩、奥に入ると、閑静な住宅街が広がっている。小雨がそぼふる中を、「感泣亭」への道を急ぐ。前方にシャキッと背筋を伸ばして、雨の中を傘も差さずにゆく老紳士。追いついてみると、やはり比留間一成先生、その人だった。

比留間先生の畏友である小山正孝さんを記念する「感泣亭」でのお話は、鈴木亨さんの作成された詩史年表を基に、ご自身が文学を志した初心の頃を思い起こしながら、その想いを同席者に伝える、といった心配りを感じるものだった。内容については別途掲載されるようなので、ここでは補完的に、折に触れて私が比留間先生から受け取ったものをご紹介したい。

 「日本現代詩文庫」99巻、『比留間一成詩集』に収められた年譜に、1945年、21歳時の記載がある。「終戦。会社は当分休業となり、知人より借りた宮沢賢治全集六巻をくまなく読み通し、教師になる決意を固める。死に損ないの念を強くす。」文科進学の夢を‶お国に奉公する‴ために断念させられた青年時の想い。人の心や精神を養う、もっとも基盤となる人文系の学問が、戦争の狂気の中で軽んじられ、将来のある若者たちの命が数多失われていった時代・・・教師となって、戦後の日本を立て直す、その決意は、現在に生きる私でも共感できる。しかし、「死に損ないの念」この一言は強烈だった。私の父も、高校の歴史教員となって戦争のことを考え続けていたが、終戦時10歳だった父には、そんな想いは生まれなかったろう。ましてや、私も含めた戦後世代は、何一つ、当時の青年たちの想いを知り得ていない。

知り得ていない私たちが、夢を奪われて死んでいく仲間たちを目前にした青年の想いに、どこまで肉薄できるのか。外交的な軋轢や摩擦を、安易に武力で解決しようとする風潮が強まっている現在、実際に戦場に駆り出されることになる青年たち――私の息子も、その一人である――に、二度と同じ思いをさせてはならない、そのためにも、知っておきたい。日常感覚、主婦感覚の発想かもしれないが・・・『暮らしの手帳』編集長の花森安治の、私たちは自分たちの「暮らし」を大切にしなかった、だから戦争が起きた、という述懐や、映画『一枚のハガキ』を撮影した時の新藤兼人監督の言葉・・・戦争は一人の兵士を殺すだけではなく、そのすべての家族、家庭も壊すおろかな行為である、という明白な断言・・・そこから出発するのでなければ、私たちは真に戦争を阻止することはできないだろう。

出来事を知ることは出来ても、当時の心情を知るには、文学作品に拠る他はないだろう。小説、随筆、ドキュメンタリ―・・・様々な文学作品に、青年たちの「心情/真情」は描かれてきた。とはいえ、どの作品も、感情移入して心情を追体験するまでには、相応の時間を要する。それでは、詩歌はどうだろう。象徴的表現や、寓意的表現を用いて凝縮されているがゆえに、腑に落ちるまでには時間がかかるかもしれない。でも、凝縮された真情が、確かにそこには保たれている。心でそれを受け取ることができれば、小説や随筆以上に、直接的に、作者の心情に触れていくことができる。豊かな想いの広がる平野に導かれる。

比留間先生の考える詩歌とは、そのような心と心の出会いをもたらす言葉を読み、そして書く、ということに尽きるような気がする。もっとも、「現代詩」は、今、現在の知識や感覚で読み解けるものばかりではない。明治以来の口語自由詩が果敢に開拓してきたもの――イメージの飛躍がもたらす驚きや、西洋的な思想の導入、新しい文学思潮の積極的な受容――を真に受け止めるためには、日本文学の二千年の歴史が蓄積され、その中で変容し、変遷してきた歴史を、ある程度把握しておかねばならないだろう。比留間先生は、通信講座においても、対面講座においても、受講生が自ら気づくように、時に応じてピンポイントで教えて下さる。聞き逃したらアウト。そこは厳しい。

日本語が大和言葉と漢語の双方によって生み出されてきた歴史、それぞれの言語が孕む思考法の相違、漢語の導入がもたらした思想の導入。様々な多様な思考法や文化が、混在することはあっても状況によって使い分けられ(和漢朗詠集に象徴されるような、多様性を重んじる文化。漢字と平仮名、カタカナの併用であったり、水墨画や大和絵の併存など)一方が他方を打ち負かし、排除することがない。和をもって尊っとしとなす、その寛容の文化、多様を活かした、多彩な使い分けの工夫。多彩、多様を保つがゆえに、繊細なニュアンスの表現が可能となった、日本文学の特質。漢詩のこと、折口信夫、芳賀檀のこと、カントやヘーゲルなど、観念論や実存主義哲学のこと・・・。たとえば源氏物語は、古来から受け継がれてきたアニミズム的な自然との親和、美しい響きへの感性、豊かな自然への感受性といった、大和言葉が受け継いできた文化と、漢籍のもたらした仏教的思想との出会いがなければ、生まれなかった。

人智を越えたものに訴える、称える・・・ところから始まった歌が、長歌から短歌へと変じ、さらに俳諧が生まれていく過程において、大きな役割を果たした芭蕉や蕪村は、古来からの大和文化と共に、豊かな漢籍の教養が生み出す実存的思考を有していた。しかも、漢文の読み下しは、既に「漢の国の文学」ではなく、日本の詩歌と呼んでもよい響きや詩想に溶け込んでいる。漢詩の豊かな幻想性は、より自由な和訳によって伝えられるべきだ・・・(実際に、比留間先生は実践されている)。

比留間先生のおじい様は、漢文の深い素養を持つ方だったという。お母様は歌に秀でていたとのこと。教育が国策に向かう時代、息子の将来を慮って実学への道に進ませようとするお父様に反発しながら、文学への情熱と憧憬を保ち続けた中学時代。その時以来の情熱が自ずから呼び寄せたような、糸屋鎌吉さん、高橋渡さんや伊勢山俊さん、鈴木亨さんや西垣脩さん、「山の樹」の先輩同人であった小山正孝さんと比留間先生との出会い・・・。 

詩歌が繋ぐ縁に、改めて思いを馳せている。


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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-20 23:46 | 随想 | Comments(0)

『ことづて』柏木勇一著 書評

長年、新聞記者を務めた著者による、生と死を巡る普遍的命題に触れていく作品、社会への真摯な眼差しを垣間見る重厚な喩を多数含んだ、読み応えのある作品を収めた詩集である。全体は四部に分かれている。一部の最後に置かれた「龍の眠る海」より、引用する。

 海と大地がざわついている

 この島の地底深く

 一匹の大きな龍が深い眠りから覚めようと舌をなめている

 (中略)

 龍がひとたび寝返りを打てば

 この島 あの大陸でも

 海と大地は真っ逆さまにひっくり返る

 消えたひと

 失われたものにふたたび光が当たる時がくる

 (中略・昭和十九年に弘前から招集された、著者の父と思しき男性の来歴、〈汚泥とも糞とも区別がつかない灰になった〉顛末が語られた後)

 海と大地と いよいよ天空もざわついている

 地底から響く轟音

 黒い空に鳴る弔砲

 龍よ

 目覚めて地の底を 海の底を逆転させよ

 街を森を砂浜を あらゆる墓地をひっくり返せ

 (中略)

 この美しすぎる言葉の幻想をけちらし

 鬱憤の血を今一度黒々と蘇えさせ(ママ)るのだ

 龍よ

 世界の再生を祈る時間などはじめからない

 龍よ

 龍は嗚咽が止まらない君たちだから

読みながら、震災以来続く大地の鳴動のおおもとに死者たちの憤怒や無念が渦巻いているのではないか・・・と感じているらしい著者の想いを(明示されてはいないが)強く感じた。人は地球上の生命のごく一部でしかなく、その〝思い″が天地をも揺り動かす、などと考えるのは人間の不遜でしかないのかもしれないが・・・そんな「ちっぽけ」な人間が、第二の太陽のような核技術を手にしてしまった以上、世界を滅ぼし得る怪物になってしまったことを自覚しなければならないのに、それが出来ているとは、到底言い難い現状がある。大地の鳴動は、天地の警告、あるいは懲罰なのではないか。そのことに、お前たち人間よ、気づいているのか?そんな著者の憤りのような悲しみが、激しい行間に滲んでいる。

詩集冒頭に置かれた「薔薇の殺意」には、切腹の介錯人の覚悟に通じるような鋭利な詩行が置かれている。終連を引く。

薔薇の殺意

切断するわたしは委託された加害者

犠牲と寛容の薔薇

切断は喪失ではない

薔薇のことづてをしるしたこの手首を見よ

緑と淡紅色の萌芽のために お前を切ったこの青白い手を

園芸植物に仕立てられてしまった〈薔薇〉は、新たな命の芽吹きの為に、人の手による剪定を必要とする。剪定を加害と捉え、さらに〈喪失ではない〉と畳みかける。切断もやむなし、とする自覚の思想と覚悟。それは、苦しみを断つために、名誉を贈り鎮魂の念を込めて振り落とす太刀の一閃である「介錯」に通じるものではないのか。〈ことづて〉とは、次の命のために、我を切断せよ、と告げる薔薇の言葉でもあろう。

「棘」「喪失と誕生」と続く〝ことづて″への想いは、命を引き継いでいくために生命が払う犠牲への思いであり、犠牲者への残念(思い残し)を断ち切るために、著者が獲得した鎮魂と再生の祈りなのだと思う。

「荒地の豚」「何も変わらない」など、戦後まもなくの世相を実際の体験から描き出した作品に描かれたリアルさは、過去の記憶を今の記憶に引き寄せ、直接〝現在″の感覚として体験する切実さに支えられている。「喉」の修羅のような〈〉の姿は、とりわけ鬼気迫るものがある。二連を引用する。

酒類食品販売業の父が戦死

病弱だった母は

肉屋も営み生きた鶏を捌いた

二本の足を左手でつかみ

右手に握った剃刀で鶏の柔らかい喉を刺す

キーン 鉄のような悲鳴をあげる鶏

どす黒い生血を茶碗一杯

母はごくりと飲みこむ

母の喉が脈打つ

その夜 子どもたちは

鶏のあらゆる部位を食べあさった

すべての言葉は喉をふるわせて発せられる

(以下略)

発話の根幹である喉を搔き切り、生血をすする母。子供たちを育てるために生き延びねばならない、そんな母としての愛とも執念ともつかない何かが〝そうさせた″姿であったのだろう。

二部の最後に置かれた「新年」の中にも、母の姿が印象的に描かれている。

砂粒がいっぱいしまわれた貝を抱いて母は嫁いできた

ひと粒 ひと粒

砂を弾き

貝を撫でながら

遠く光る海の方角を見てきた

大陸から還らなかったひとをしのび

還らなかったことへの恨みと哀しみ 悔いと怒り

寂しさの炎 焔 炎 焔

たいせつな貝をそっと踏みつけて高まりを抑え

ひと粒 ひと粒ずつ捨てて生きた

(中略)

ふるさとではあの三月

母の着物がしまわれていた土蔵も流された

みんな消えた

息絶えた人々の口の中は砂でいっぱいだったよ

そう耳元にささやいた

(中略)

百一年目の新年

この先は人さまに話すことではないが 

母は

クロスを張り替えたばかりの壁に汚物をこすりつけた

ふりむいた瞬間 勝ち誇ったようににんまりと笑った

まだ少女だった母が過ごした故郷、その思い出までもが流されてしまった〈あの日〉のことは、砂を口に含んだまま、今もなお故郷を探し続ける死者たちの想いと共に記憶され続ける。しかし、その想いを叙述する抒情・・・だけでは、この詩は終わらない。命の実像を見据える透徹した眼差しの鋭さ。

この詩集では、矩形に整えられた詩行(矩形に抑制された、あるいは〝押し込められた″詩行)を組みこんだ作品が複数収められていることも印象に残った。例えば最後に置かれた「救済」の冒頭。

わたしは身体である

わたしはわたしというひとつの身体である

血を吐き

涙を流し

震え凍え

笑い叫び

ときどき感情という部外者の侵入に息をひそめる身体である

神社の植え込みに身をひそめて鳩を襲い食いちぎる猫である

連絡船から飛び降りて溺死した男の血を吸いつくす蛭である

すみれのちいさな花粉を口元でほぐしながらはこぶ蟻である

(以下略)

矩形の詩形は、感情の暴発を防ぐために施された試行錯誤の結果であるのかもしれない。言葉は、溢れかえるような感情を、その音と響きの内に収めきれるのか。かならず、その枠から溢れ出し、流れ去ってしまうなにか、があるに違いない。それでも、言葉という入れ物になんとか詰め込まねば、他者に手渡すことができない。そう考えて行くと、まるで、流れ続ける川や、水平線はるかに広がる海や湖を汲み上げるような、そんな徒労であるかのようにも思われて来るのだが・・・世界、という膨大な場所で起きていることを、感じ取るのはちっぽけな「体」に過ぎない。その「体」の中に、宇宙全体を、さらにはもっと広大な世界までをも思惟の射程に収めるような、そんな「精神」や「意識」の働きがあり、「心」の働きがある。とても不思議な想いに囚われる。

私たちの「体」や、「体」が感じ取る世界の様々な「物」を通じて、はるかなところからやってきて、なんらかの痕跡を残し、また立ち去っていくもの。その痕をなぞることしかできないとしても、後ろ姿ならば思い描くことができるかもしれない。そんな「なにか」の通り過ぎた後に残るものを、「ことづて」として読み取ること・・・音やイメージで読み取る者は音楽家、画家、と呼ばれ、言葉で為そうとする人は作家、と呼ばれるのだろう。身体性を持った言葉、体の感覚を通してしか現れ得ない言葉こそが、他者に伝え得る強度を持った言葉なのかもしれない。

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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-14 18:27 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

B=REVIEW 2017年11月投稿作品 選評

◆はじめに

2017年2に開設されたB=REVIEW現代詩投稿=批評プラットフォーム」に、開設当初から投稿者として、4からは「選考」を担当する「キュレーター」として参加している。

「現代詩」と名前がついているが、「クリエイティブ・ライティング」という理念を導入し、いわゆる狭義の「現代詩」(暗黙の了解の内に、なんとなく作り上げられた、マニアックとも呼びうる作品群。一般の文芸好きの読者からは若干隔たりを感じさせるような、実験的、前衛的作品を主とする「イメージ」に立脚するもの)に拘らない作品を広く募集する、という方向性に、魅力と可能性を覚えたのが、参加の理由である。

匿名投稿を主体とする投稿掲示板では、しばしば「議論」と称する不毛な罵倒合戦などが繰り広げられているが(そうした行為は、日々の鬱屈などの捌け口としている一部投稿者に限定されることは、今更いうまでもない)そうしたストレスを、明確なマナー基準を提示することにより防ぎ、対面の合評会におけるような、スムーズかつ有意義な批評、議論が展開されることを促進する、という運営に携わる若者たちの意欲に、強く共感している。


◆「選考」とは、何か

B=REVIEWでは、当初から「大賞」「優良」「推薦」の区分を設け、相応しい作品をサイト内に「展示」している。個人的な見解になるが、それは、

・サイト外のメディアや読者が、多量の投稿作品の中から、良作に容易にアクセスできる環境を提供する

・投稿者どうしの「学び」や「気づき」のために、作品向上に寄与する

といった目的から行われているものと理解している。さらに、個人的な見解を述べるならば、選考とは

・埋もれた良作を見出し、世に広めたい、そのために推奨する

・投稿の励みとなる目標を提示し、より良質の作品を生み出そうとする意欲を促進する

という目的があるだろう。私はさらに、

・未知の読者との出会いの場を提供する

・読み手の感性に響いた作品を、その読み手のナビゲーションと共に提供し、他者がその作品と出会うための懸け橋となる

という2点を付加したい。

運営に参加し、選評のやり方などについても様々な議論に加わって来た。まずは、彼らの熱意に敬意を表したい。10月分の選評(breview2017.10選評会議 part1(大賞合議編))に記されている通り、11月からは大幅な選考方法の改変を行うこととなった。ついては、私はいったん「運営」から離れ、独自に「選考」を行いたいと思う。多少なりとも彼らの熱意に寄与できるように願うと共に、紙媒体を主体として活動している私の先入見や、狭義の「現代詩」のイメージに影響を受けているであろう私の主観が、新たなメディアの創設を意図する彼らの進行の妨げとならないよう、一歩後ろに引いた地点から、彼らの活動を応援していきたい、と思っている。


◆私の詩観

詩とは、何か。言語表現に関わる者たち一人一人が、自分なりの「定義」を見出す、その道程こそが「口語自由詩」が負っている宿命ともいえるわけだが(それゆえに、千差万別の「定義」が存在する、であろうが)ひとまず、私が現時点で考えている「詩」の定義を、提示する。(投稿掲示板を主体とした「定義」であること、また、今後、新たな作品との出会いによって、この定義は変化していくであろう、という、あくまでも暫定的なものであることを、強調しておきたい。)

・他者への伝達性を放棄していない作品

一般的に流布している日本語を用いる、という共通解に立った上で、新たな試みに挑戦している作品や、詩歌の歴史を踏まえた上で、さらなる「前進」を目指す試みに果敢に挑戦している作品に出会いたいと切に願っている。その意図が他者に理解されにくい場合には、批評、解説という懸け橋を通じて、読者に新たな発見や新たな視点を提供することが、批評を志す者の責務である、とも思ってはいるが、あまりに先走り、汎用性を失った独自の言語や文体を多用するのは、一般読者との乖離ばかりが広がるだろう、という懸念がある。もちろん、絵文字の与える感覚的印象や、記号が作りだす絵画的な感動など、言語分野以外の視点を導入することによって新たな魅力が開示される場合もあるだろう。「批評」や「解説」は、私個人の読解の限界を曝け出す行為でもある。そのことを理由とした批判も、積極的に受けたいと考えている。

・心に響く作品、「わたし」を感動させてくれる作品

「私個人の読解の限界」という言葉に起因するが、「選評」は、あえて主観を前面に出したいと思う。人間の本能的な、自然的な部分に訴えて来た作品、および(私が現状で学びえた範囲における)詩歌の歴史に照らしたとき、新たな魅力や美、可能性を提案している、その驚きを与えてくれる作品、ということになろうか。同時に、詩史的に見た時には、特に新しい試みを行っているわけでは無いが、人間の普遍的な情動や感動に触れて行こうとしている作品、自然や事物から得た「気づき」などを自分なりの表現で模索しようとしている作品なども、「わたし」に大きな感動を与えてくれる。子どものつぶやきなどが(既に先人によって「言い古された」発見であった、としても)鋭く心に射し込んでくる場合があるが、誰にでも「はじめて」の瞬間があり、その時の新鮮な感動やまぶしさは、かけがえのないものだと信じている。

・詩情を感じさせる作品

「わたし」を感動させる作品、と定義した時、行分け詩、改行詩、散文詩、掌編小説、批評、エッセイ・・・といった「分類」は、意味を持たないものとなるだろう。投稿掲示板においては、一定の分量内に収まる、言語を主体とした表現、であれば、あらゆるものが許容されることになる。その上で、人間の実存に触れていこうとしているもの、日々の生活の中で得た「気づき」や、個人的に見つけた「美」などを、独自の表現(喩法や文体の律動、レイアウトや構成etc.)によって他者に伝えようと腐心している、格闘している、そんな作品に、「わたし」は強く惹かれる。詩情、とは何か。何が、詩情を喚起するのか。その、問いを発し続ける場として、投稿掲示板が機能して行ってほしい、と願っている。加えて、できるだけ新しい投稿者に光が当たるように努めたいと思う。

前置きが長くなったが、以下に11月投稿作品の「選考」結果と、「選評」を述べたい。


◆大賞候補 るるりら 砂の中の海 


◆優良(投稿日順、運営より3作と指定)

・弓巠 なガれ 

cotono とうとう 

・くつずりゆう 蹄の音 

◆推薦(投稿日順、運営より4作と指定)

survof  蝶々 

・桐ケ谷忍 「空蝉」 

・沙一 地下鉄 

・ふじりゅう 小さなクリーチャー 

以下に、投稿掲示板の各作品のコメント欄に書き込んだ私のコメントを貼り、補筆する形で選評とする。作品のURLを貼るので、作品それ自体を参照していただきたい。なお、参考として私の優良作候補、推薦作候補を、最後に挙げておく。


★るるりら 砂の中の海 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1006

冒頭から一気にファンタジーの世界に引き込む。そして、ファンタジーの世界こそが真である、という作者の思いが伝わって来るような気がします。これだけ優しい、易しい言葉で、深い思いを綴れることがすばらしい。

隠れたテーマとして、人は「泣き方」を知っている、という思いがあるのでしょう。そして、人が再び海に抱かれるとき、人の悲しみは潮騒や桜など、より普遍的なものに変容し、歌い続ける存在となるだろう・・・そうあってほしい、という作者の願いも含めて、綴られた作品のように思いました。

海の縞模様、という不思議な生き物(光に煌めく広大な海の姿を想う人も、ウミウシのようなかわいらしい生き物を想う人も、砂浜に残されていく、波打ち際の潮の跡を想う人もいるでしょう)について、客観的な第三者が語っているような冒頭から、いつのまにか、その生き物の目線に視点が移動する。最後は、その生き物の姿も溶け込むように消えて、私、という、作者と同一人物であるかのような位置にたどり着く。

この視点は、作者のものであると同時に、作者が思いを馳せる、死者の視点でもあるでしょう。この世の人間である作者が、想像の世界でしか出会えない死者たちと、いつのまにか2重の存在となって、その厚みを通して語っているような気がしました。

※書くこと、によって表現するという陽刻の美だけではなく、書かないこと(書けないこと)によって、抑制的に表される陰刻の美というものに、目を向けたいと思う。人が、いつか還っていく場所、その「実在」を信じるか、否か。それは、ひとりひとりの信(既成宗教からは離れた、本来的な意味での宗教性)に基づくものであって、なんぴとも否定も肯定も出来ないが、詩であるからこそ、断定が可能となる、そんな世界観の提示がある。


☆弓巠 なガれ http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=904

題名から既に、ひらがな、カタカナ混交ですね。指をすべらせていく手つき・・・指で文字を辿りながら、その世界に入り込んでいく景を想起しました。

言葉を、意味として辿る、音として辿る・・・さらには、質感、語感、触感のようなものとして辿る。そういう読み方をするしかない文字列もある、わけですが・・・そのようにして(意味を解体され、音の連鎖や質感の連鎖となって浮遊している文字列を追っていくと)見えて来る景が〈ある渓谷には秋がおりていた/葉葉は黄や赤にぬれ、緑は弱り/あらゆるものの背中に/枯れの清流がうつりこんで〉と一瞬立ち上がる。言の葉の森、と読み替えてしまったらつまらないのかもしれないけれど、その森で、「意味」が解体されていく快感に、むしろ身を任せているような「読み方」をする作品を読んでいる(辿っている)時の感覚を思い起こしました。

そうした作品を読んで(辿って)いる時、作者はどこにいるんだ、という思いに駆られることもあるのですが・・・〈ヒカリ、君は/ここで、どこにいたりする〉まさに、そう問い掛けたくなる時があるのですね。そんな共感もあったので、なおさら・・・意味、としてではなく、テクストとして辿る他はないような、そんな作品を読んでいる時の印象を作品化したような読後感があって、新鮮でした。

※ひらがな、カタカナ、漢字が与える質感、詩形の中の配分、余白の具合。フォントや行間などは、投稿掲示板における規定に従う他ない、という制約がある中で、テクストとしての質感を追求した作品、ともいえる。紙そのものの皺や折り目、そこに印字された文字列が強いインパクト、弱いインパクトで心象に刻んでいく皺や折り目。意味やイメージが心に与える強度を、遠い、近い、という距離感に置き換えた上で、それをテクスト(テキスタイル)に還元していくと、このような指ざわりになるだろうか、という追体験と共に、思考や想像力が導く心象風景の鮮やかさにも惹かれた。


cotono とうとう http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=977

とうとう、○○してしまった、の「とうとう」かと思いきや、滔々と流れる豊かな水を想起させつつ・・・夜中の台所でしょうか。老いた蛇口、少しサビの出た蛇口。家と共に歴史を重ね、家族を見守り・・・時には、蛇口から水を流しながら、皿を洗いつつ泣いたりしたことも、あったかもしれない。(お皿を洗う時って、正々堂々と泣けますよね()

素敵だなと思ったのは、〈出会いが呼び水となり〉から、夢想の中ではるかかなたの水源地に意識を向けていくところ、そして、〈夢の支流に沿って〉から、さらに異国の街並みへと、自由に夢想を羽ばたかせていくところ。そこから、手元の暗がりに戻り(現実の生活に戻り)〈排水溝へ流すしかない夜の溜まりが/酷く惜しくて〉夜の溜まり、は、暗くて黒くて捨ててしまいたいイメージ、を予期するのですが・・・流してしまう他ないものが、惜しくて、という、そこの驚き。

夜の溜まり、これは、夜の間に少しずつ溜まっていった自由連想や夢想、そうしたイメージの堆積、なのかもしれません。実生活には、特に何かの役に立つ、というものではないけれど。そうしたイメージの堆積こそが、詩、になっていく、そんな・・・あるかないか、わからないような、でも、虹色に輝いているような、なにか。胸の中を去来する思い。その想いが湧きおこるたびに、涙腺が緩む。それを、感傷と呼ぶのはたやすいですが、感傷そのものに浸るのではなく、軽やかにそこから自分の身を引き離して、遥かな水源や遥かな異国の街並みに夢想を馳せる、その心の動きに惹かれました。

連ごとに位相を変えていくところが、上手いと思います。

※比較的、起承転結にそった「正攻法」で綴られた作品。難解になり過ぎない隠喩が、作品に多義性と重層性を与えている。最後に蛇足的に付けられた終連も、とうとう、溢れてしまった・・・という思いを伝えるものとなっている。


☆くつずりゆう 蹄の音 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=992

いいなあ、という、まずは第一印象を。

ひらがなと漢字のバランス、視覚的な情景から始まり、音、あるいは音が喚起する質感へとスライドしていくときの自然な(意図したものではないでしょうけれど、計算された)そぶり。〈わたしの誕生日をわすれて/割れてしまった果実のような気持ちを/接着しました〉男の人は、わりあい簡単に記念日や誕生日を忘れますね(私も忘れる方なので、男っぽいのかもしれません)女の人は、そのことに、かなりショックを受けたりする、ようですが・・・。

〈あなたは きっと/自由で苛酷な/馬になれるでしょう/わたしは きっと/どこかの土になれるでしょう〉読者が、自由に〈あなた〉と〈わたし〉の関係性を「物語」として思い浮かべればよい、のでしょうけれど(恋人同士とか、先生と生徒、とか、あるいは、離れて暮らす母と息子、とか・・・)私は、父と娘の切なさ、いとおしさを重ねながら読みました。それぞれの読者が、それぞれの関係性を思いながら読むことができる。そうした奥行きというのか、余白が残されているところに惹かれます。

〈あなたが生きている/手をつないで/あったかい、つめたい/毛布をかけて/あったかい、さむくない/口の動きで/心が色づく それだけで〉最後に、心の高まりのままに歌い上げる部分も、声高に叫ぶわけでは無く、あくまでも控えめに畳みかけていく。素敵な作品でした。

※作者のコメントから、作者と母との関係を歌った作品であることを知った。父と娘、という私の読みは、ゆえに「誤読」である。誤読であるが、読者がそれぞれの大切な人との関係性を重ねていく余地が残されている作品である、その奥行きに惹かれる。


survof  蝶々 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=891

雨粒はスタッカート、で切り、落とした羽根は濡れた雨、でも切る・・・花や蝶のイメージ(ある種の質感、物質性を持った像)と、そこに入って来る雨や風のイメージ(動き、触感)が、すべて等質に均されているような、不思議な感覚がありました。気高さや優しさ、といった抽象的な語彙のせいかもしれません。

「その言葉の意味をあなたは知ることができない」「浮かんで揺れてその行く先、あなたを置き去りにする」言葉になりかけたまますり抜けていったイメージ、そのとらえどころのなさ、肌をかすめていった感覚を、あえて捉えようとするような印象でした。言葉の流れの美しさや、響きの心地よさに「流されて」いないか、という部分(それは、好みの問題にもなってきますが)が、少し気になるところでした。

※自動筆記的な、流れるような律動で記された本文。思考の流れ、意識の流れ、付随して生起するイメージを、その場で捉えようとする試み、と言えばよいか。知的な操作と感性の発露とがずれながら重なっていく。アクセント的に置かれた詩的断定が、意味を越えた説得力で腑に落ちる。発話のタイミングによる説得力について、考えさせられる作品だった。


◇桐ケ谷忍 「空蝉」 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=958

空蝉は、うつしみ、現身から来た言葉でもあると教わったことがあります。

『源氏物語』の空蝉・・・からっぽ、のからだ、のイメージ。

中央部分の、かっちり矩形にまとめられた、それでいて情動溢れる部分、一気に迸るような筆致、ここに強く惹かれました。突然、痙攣しながらバッと起き上がって、こちらの感傷を吹き飛ばしていく蟬の勢い、強さ・・・たじろぎますね。

細かいことで恐縮ですが、題名、これでよいでしょうか・・・先に書いたように、うつせみ、は、うつしみ、でもある、けれど・・・蝉そのものに関していうと、蝉の抜け殻のことを指してしまう。ベタですが、飛翔、とか・・・そういった題名の方が良いかもしれません。他の読者は、どんな題名を思いつく、でしょう。

※なぜ、いつも題名を「 」に入れるのだろう。自らのノートに控える時、題名が本文に紛れないようにしているのか。コメントにも記したが、いつもは一般的な「詩」の形・・・国語の教科書などで見慣れた、いわゆる行分け詩の詩形で投稿している作者だが、今回は想いのクライマックスの部分を矩形に収めて、ひと息に読み切らせようとしている。読みの呼吸(律動)を持ち込もうとする意図が新鮮だった。


◇沙一 地下鉄 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=996

地下への下降は、無意識世界への沈降へのアナロジーでもありますね。

のぼりくだりという水平方向の運動が、砂時計の上下運動に変換される。外界の事物が、立体から平面に変換され、内界にホログラムが出現して、存在感を増していく。ここにも、平面から立体への変換があります。

花緒さんの評を読んで、うまいこと言い当てたな、と、若干、くやしさのようなものがありますが()(※変性意識が深くなるプロセスそのものを文章にしたもの)

地下鉄に乗り込むところから、砂時計の幻視、外界の後退、そしてホログラムの現出まで、一気にスピーディーに進行させても良かったかもしれない。その方が、垂直的下降、水平運動へのまなざし、再び、時間経過も含んだ上下運動、さらには立体から平面に、平面から立体への領域移動といった、身体感覚的な思考の流れが、より明確に現れるような気がしました。

※文章それ自体は、もう少し絞り込むことができるような印象もあるが、日常から思弁的思考へと到る過程が緻密に観察されているところに魅力を覚えた。


◇ふじりゅう 小さなクリーチャー http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1021

クリーチャーと、クリエーター・・・詩のクリエーターが、自ら〈巨大なクリーチャーになり〉たい、とつぶやき、即座に〈そんなつまらない夢だから/台所で洗われるんだろうな〉と、自らツッコミを入れる。ショートコントのような面白さがあります。

冒頭、交わり、という言葉と胡瓜の形状から、男女の交合の隠喩でもあろうか、とも考えたのですが、同時に、軽やかな筆致のゆえに、カッパが語っているようでもあり・・・。

中盤で登場する〈君〉と、(智慧の)リンゴの、皮を全て剥きとった、はだかの気持ちの付き合い、というようなニュアンスと・・・まだまだ頼りない、情けない僕、だけど、君を守れるような、そんな存在になりたいんだ、そんな僕の〈つまらない夢〉を、頬を染めながら聞いている〈君〉、そんな二人が見えるような気がしました。

※新しい(私にとっては未知の)作者。中盤のカタカナの固有名を〈大丈夫ここにいる〉という連呼で挟んだリフレインの部分が、リズミカルで面白かった。


◆参考(紙媒体で既に活動していることを知悉している作者は除外。できるだけ、私にとって未知の作者、先に挙げた「詩観」に添った作品を中心に推挙した)

優良候補(投稿日順)

祝儀敷 寂しくて辛い/仲程 フラグメンツ/連音/佐久間直子 交差でぼろぼろ~/白島真 ゆうゆうとしろながすクジラ/二条千河 不毛の神/新染因循 雨に溶ける/まりにゃん 補遺

推薦候補(投稿日順)

静かな視界 amaoto/夏野ほたる 光/夏生 海の唄/stereotype2085 カップリング/なないろ 喧騒/エイクピア 埖


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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-13 11:47 | B-REVIEW | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
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