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中村純さんの『女たちへ Dear Women』と、森崎和江さんに関する研究発表(西亮太氏)について

中村純さんの新詩集が公刊されました。
『女たちへ Dear Women 』です。

表紙に引かれた「かげ絵―女たちへ」の一節は、三「無名」の女たちの痛みに の最終連。この作品には、中村さんが2001年に出版社に勤務されていた頃、作家の吉武輝子さんと落合恵子さんの対談を企画された折の思いや、沖縄で(またしても)起きてしまった、若い女性の性暴力殺人への、言葉にならない思いについて、ショートエッセイが添えられています。

吉武輝子さんから頂いた「純さんへ 平和憲法を次世代に無傷で手渡す」というメッセージは、「女から女への手渡しの運動」であり、「私たちは、そのようにして、多くの女性の先輩たちから、どれだけの言葉と行動の花束を肉声としていただいてきたことでしょう・・・小森香子さん、石川逸子さん、高良留美子さん、麻生直子さん、森崎和江さん、落合恵子さん。詩や文学、女性運動に関わる女性たち・・・女性がひとりで夜も歩けないような街を、女性が自分を生きられない国を、若い人が自分のやわらかな新しいいのちを、無残にも戦地にさらすような社会を、望んではいません・・・」

この詩集に関連して、偶然よりも必然に近いタイミングで拝聴の機会を得た研究発表について、ご紹介したいと思います。

昨日、中央大学法学部准教授の西亮太さんの
「九州サークル村と森崎和江 炭鉱と労働運動、女性、そしてエロス」という研究発表がありました。(中央大学 政策総合文化研究所 公開研究会)

ポストコロニアル批評を本来とする西さんが、なぜ、森崎和江を読むに至ったのか。

エドワード・サイード、レイモンド・ウィリアムズ等の批評研究を通じて、炭鉱、労働問題、搾取、所有、etc. などの諸問題に興味を抱いておられたそうですが、エネルギーを使うことは、本来ポリティカルなものであるはずなのに、それが見えなくなっていた、その問題の大きさに、3.11以降、改めて気づかされたのだそうです。

被爆労働を前提とする原発が、クリーンエネルギーと呼ばれる違和感。炭鉱における危険や劣悪な労働環境、構造的搾取の問題、朝鮮人労働者の問題等に深く通じるものがあり、谷川雁らと生活を共にしながらも、谷川たちの(男性主体の)運動そのものに強い違和感を覚えていた森崎和江による、女性視点からの運動の総括(なぜ、谷川たちの運動が挫折するに至ったのか、という根元的な問も含めて)を、再読、精読する必然を覚えた、とのことでした。

谷川雁個人の資質もあると思うのですが、理想を掲げ、革新を目指して「連帯」する谷川たち(男たち)の「運動」の陰で、女たちは切実に、したたかに、生活の糧を得るための労働に従事していたこと・・・階級、民族、性差が別個のものとしてではなく、連続体として捉えられていた森崎の広範な視野について、今一度見直す必要があること。

女たちは自らの言葉で男たちや社会と「対話」する手段を拒絶されている、そこに森崎は問題の根元を見ていたのではないか、という西さんの指摘は、明解かつ鮮烈で、説得力がありました。谷川雁の(たぶんに男性社会が作り上げてきた既成概念に影響されたであろう)「ロマンティシズム」に基づくような「エロス」の概念と比較しながら提示された、森崎の「エロス」・・・両性の均等な立場における「対話」が心身を開いていく中から噴出するエネルギーとしての「エロス」、生命力の根源としてのエロスについての考察も、非常に示唆に富むものでした。

(男性中心社会からは、対話の対手としては)非在のもの、とみなされてきた女性が、男性の論理、思考回路、男性の言葉を用いて、男性中心社会の一員となって語る、という「社会参画」ではなく、女性が女性のままで語る・・・中村さんの言葉をお借りすれば、「女性が自分を生きる」中で成立する「対話」とは、男性が自然に基づく(社会的、外部的に押し付けられたものとしてではない)男性らしさを保ち、女性も同様に自然に基づく女性らしさを保ったまま、それぞれの個性に従って、自由に、対等に意思や想いを交わしあうことの出来る「対話」ということになるでしょう。

もちろん、旧来の家父的な社会制度は、かなり変化してきていますし、男性、女性という「括り」ではなく、性差を越えた、個人としての在り方、個人としての生き方が問われる時代になって来てはいますが、ゆるやかな「男性」「女性」という差異を一元化していくことが望まれているわけではない。

より多様な価値観を持った者同士が、同じ地平で言葉を交わしあうことの大切さ。社会的に、外圧として押し付けられた「性差」や「性的役割」ではなく、自ら選びとった、その人らしさ、としての立場に、人間本来の自然な在り方で立つことが出来るように、後方支援をするための「男性/女性」という差異・・・肉体的な性差からは自由な、男性性、女性性の共存、共闘を担保する性差について、改めて考えさせられました。

『女たちへ』土曜美術社出版販売 定価1000円

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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-10 11:39 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

伊東静雄ノート 9

前回、エクスカーション的に伊東静雄と妻の花子との関係を中心に考えたのだが、予想外に多方面の方から反響をいただいたことに、正直、驚いている。静雄の精神的次元における高次の愛・・・諸般の事情によって悲恋に終わらざるをえなかった、その愛を捧げる対象としての「わがひと」、その美しき幻影に向かって詩を綴る高踏派の詩人――いわゆる、「哀歌神話」。いまもなお、「伊東静雄」という詩人、とりわけ第一詩集の『わがひとに與ふる哀歌』に関しては、そうしたロマンチックな色合いのようなものが纏いついているらしい。たしかに、作品そのものから立ち上って来る「香り」には、寒蘭のような清楚で凛としたイメージと、硬玉を断ち割ったような鋭利な輝きがある。

「わがひと」とは誰か。研究史を辿ると、静雄の「初恋の女性」、たとえば酒井百合子である、と断定するものから、静雄自身の精神的半身、抽象的、観念的存在と解釈するものまで、様々な振幅を持っているが、鑑賞記にまで視野を広げると、伊東静雄に禁欲的なインテリ詩人、プラトニックな愛を夢想するロマンチスト・・・そんな面影を重ねているものが多いように思われる。いわく、内向的で、女性への熱い想いや芸術への激しい憧憬を秘めつつ、それを表に出すことなく高雅な詩文に綴る、青春の痛みを激しく抱えた詩人。

静雄の十七歳から二十三歳までの日記が公開された時点で、静雄はかなり多数の女性に想いを寄せていたこと、精神的な愛だけではなく、(当然のことながら)肉体的な愛も含めての交際であったらしいこと、その都度失望を繰り返しながら、理想の関係を求め続けていたことが明らかになったのではなかろうか。わりあい気さくに女性に声をかけ、一緒にお茶を飲んだりするなど、積極的なところもあったらしい。

小川和佑は、『伊東静雄論考』の中で、「哀歌」神話説、静雄悲恋説を強く否定している。この説に従うならば、静雄は「酒井百合子を熱愛しながら、父の負債返済という、ただそれだけの理由で、山本花子の経済力に眼をつけ、この旧家の娘と結婚し、その生活のすべてを妻の経済力に依存しながら、百合子への熱愛を抱き続け、自分は気楽に詩を書き、その熱愛の詩を含む詩集出版の資金を、愛情の一片ももてぬ妻から引き出そうとする、()しからぬ詩人になってしまう・・・静雄とはこのような卑しい心根の詩人であった」ことになってしまうと憤りつつ、詳細に手紙や日記なども傍証に引き、「わがひと」を山本花子その人とすら仮定しようと試みる最終的には、シュトラウスの歌曲「モールゲン」の歌詞が「わがひとに與ふる哀歌」の発想源ともなった史実を示した上で「つまり《わがひと》は現実の酒井百合子でもなく、山本花子でもない、静雄の精神の内部において文学に昇華された存在としての《わがひと》なのである」と結論づけている。私が読んできた限られた範囲ではあるが、小川和佑のこの結論が、私には一番納得のいく「わがひと」像である。

静雄の詩作品、随筆、入手し得る論文。書簡や日記、友人たちの証言などを読み続けているが、静雄像は鮮明な多面体として浮かび上がるものの、なかなかひとつの有機体へと定まろうとしない。涙脆いような人情に厚い面、シニカルな皮肉屋としての面、田舎っぽいざっくばらんな冗談を連発する面、あまりにも素直に人の言葉を受け入れ、信じてしまう面。人生の真を求道者のように求め、他者の差し伸べる手を撥ねつける強さを持ちながら、寂しさに耐えかね、弱みをさらしながら甘えたりもする。照れ屋でありながら高慢、謙虚でありながら強引、辛抱強く思いやりを見せるかと思えば、突然激高する偏屈な教師でもあったらしい。授業は厳しかったが、意欲ある生徒に対しては、実に面倒見がよかった。自分で𠮟りつけておきながら、生徒が泣きだすとおろおろと困惑するような、そんな人間臭いところもあった。

静雄が新婚の頃に書いた「秋の夜」を見てみよう。小川が、「市井の一隅のささやかな生活の楽しさを機会の詩(あいさつがわりの詩)として戯歌にした」と評する作品である。


私はねずみ好きです

私のおよめさんねずみ嫌ひです

私の 小さい家で 電燈の下で

ひつそりと二人ごはん食べてると

ちつちやいねずみが

かはい目して流しもとで

私達の夕飯みてる

私のおよめさん ごはんやめて

まあ いやなねずみ しいつしいつ

とおひます

こりゃなに言ふのぢや

かはいねずみぢやないか

とわたしも御飯やめて

ねずみのかはりに およめさんを叱る


『童謡の國』(昭和八年)への寄稿であり、子供向けの口調となっているが、ねずみが出るたびに追い回す潔癖な妻と、まあいいじゃないか、見逃してやれと笑う静雄の微笑ましい日常が活写されている。

この詩を読んで思い出すのは、翌年の昭和九年、『呂』に掲載された「今年の夏のこと」という静雄のエッセイである。


今年の夏は、妻、弟、親類の子供、その四人でやつた。妻は私の故郷の盆のさかんな習慣は、きいてゐるだけで、まだ見たことはなかつた。それで故郷にゐる私の母から、祭の次第や、お供へ物のことやを、細々と書き送つて貰ひ、それを台所の壁にはりつけて、それに違はぬやうにしようと骨を折つた(中略)私達は父の死後、やつと五十日目位にはもう父祖の土地を見捨てて、新しい家族の中心である私の、働いてゐるこの土地にやつて来る仕儀になつた。

「お父さんは、うまくこの家をみつけて来てくれるかな」と私達は冗談のやうな、真剣のやうな心配をした。私達の今のこの家と、父が建て、又そこで死んだ故郷の家とではあまり何百里も遠く、まるきり違つた種類のものであつたからだ(中略:故郷での盛大な盆の支度を記した後)

「結局はお盆といふものは、死んだ人の魂のまはりに、生き残つた家族の連中が集り、睦じく話したり、仲よく遊んだりすればいいんだよ」

と私は妻に言つた。然し妻にしてみれば、肝心の死んだ人とは、生前に一度も会つたことは無かつた。その上全く違つた風習のこの町に育つたとはいへ、私の代になつてから、父祖以来の祭の風を、絶やしてはすまないといふ、家の女らしい律儀から壁に貼られた紙のことばかりを気にした(中略)こんな少人数の家で、妻は台所にばかりゐて、ことことと忙しがつた。

「おい、いい加減にしないか」と私は度々声をかけ、習慣にばかり気をつかつて、一寸も仏壇の前で落ちつくことが、私の気に入るといふことを知らぬ妻を、不本意にまた、あはれんだ。(十五日の夜、新婚の静雄夫妻は、郷里長崎の風習に従って・・・とはいいつつも、恐らく「本式」からはだいぶ簡素に、菓子箱にお供えを詰めて、「精霊流し」に赴く。月影の弱い、暗い夜。うら寂れた海辺の港、嵐に備えて漁舟を係留していく防波堤の蔭で、風の強い晩に、二人は菓子箱を海に流す。)

私たちは、砂地に横はつた材木のかげで、線香と蝋燭をともしたが、すぐそれらは風のために吹き消され、吹き折れた。

「あゝお盆もすんだ」と妻のいふ言葉に、いつのまにか、私は妻と同じ複雑さで同感してゐる自分を発見した。


律儀な妻と、鷹揚な夫。大阪出身の新妻が、まだ一度も訪れたことのない、見聞きしたこともない夫の郷里の盆を、姑に委細を尋ね、誠実に再現しようとしている。必要な道具や材料も、思うように入手できない。そのことで、イライラと静雄に当たることもあったろう。夫も、初めての家に亡父の御霊を粗相なく迎える為に、妻が必死になっていることを熟知している。それでも妻の律義さや几帳面さに耐えかね、時に癇癪を起す。そんな小さな諍いを重ねながら、故郷の風習通りに「精霊流し」を終え、いつしか、夫婦ともに同じ安堵の心を宿していることに気付く。

文化、風習の異なる環境で育った二人が、ぶつかりながら生活を築いていく一端が見て取れる。妻は自身の役割に夢中になり過ぎてしまう性向があるらしい。そんな妻を、その必死さの由来を納得し、思いやり、時にやんわりと、時に厳しく対しながら、共にひとつの行事を終える姿が描かれている。不穏な海辺の光景の描写は、これから迎える生活の困難を予期しているのであろうか。その不穏な海に精霊舟を流すという「共同作業」を行いながら、二人で困難を乗り越えていく意志を固めた盆の行事であったように思われる。(紙幅により省略したが、丁寧な写生的筆致を重ね、控えめに心情を重ねていく情景描写は、それだけで一篇の散文詩とも呼びうる奥行きを有してもいる。)

子どもを設け、共働きで家計を支えた妻は、静雄がかなわない、とぼやくほどに授業も上手い才媛であった。疲れの為か、しばしば体調を崩す妻を、静雄は実によく面倒みている。昭和十一年に堺市の三国ヶ丘に居を移したのは、花子の勤務先に近いからであったと思われる。

日中戦争開始(昭和十二年)と共に、社会的な統制が強まり、物品や食料の配給切符などが支給されるようになっていく時代である。こうした困難な状況下で子供を設け「母」となった妻は、当然のことながら「強い女」にならざるを得ない。静雄が「われもまた 五黄(ごわう)(とら)の/()をこそ得たれ/無明(むみょう)凡下(ぼんげ)の是非なさに/(けもの)にあらぬわが妻を/(ぎょ)し兼ねたるぞ哀れなる」(「虎に()る」昭和十三年)と歌ったのは、あながち誇張とも言えまい。

「今年の夏」に描かれた妻花子の姿は、たとえば『春のいそぎ』の「菊を想ふ」の中で、久しぶりに筝を聴きたい、とせがむ夫の願いを、恐らくはにこりともせずに、この御時世にとんでもない、と拒否する妻の姿としても反復されるだろう。

日記に記された文字から浮かび上がる、産後や病気の妻、幼い子どもを甲斐甲斐しく世話する静雄。あるいは・・・静雄の妻との房事――富士正晴が小野十三郎との対談の中で明かしている一節を引く。


小野:あんがい助平やったな、伊東な。

富士:いやいやその位やったらええで、それはまあまあ見られるわいな。そやけど林富士馬やね庄野ね、島尾ね、あの位、年の隔たったやつと一緒に旅行したりしたら、もう猥談ばっかしや(中略)このごろは嫁さんと一時間かかるてな。何でそんなにかかるかいうたら腹の上にのって世間話するね。こうゆっくりゆっくり何やとか()実際か願望かどっちやかわからへん、()あればっかりや。

(昭和四十一年「日本浪漫派研究」創刊号)


猥談、というよりも、のろけ話と受け止めた方がよいだろうか。生理的欲望を満たすだけの行為としてではなく、妻とのコミュニケーションの場として捉えていることに、そしてそれを人前で話すということに驚く。閨での一幕を(事実かどうかはともかくとして)若者たちに面白おかしく話して聞かせたのは、富士に言わせれば「こう猥談したらそれでどっちゃも素裸になって仲ようなれると、こう思うてんねん。サービス精神や」ということになるのだが、それだけでもないような気がする。若くして戦場に赴く若人に「かくくもよき/たのもしき漢子(をのこ)に/あなあはれ/あなあはれうつくしき妻も得させで・・・」(昭和十九年)と酒宴の席の戯歌めかして歌いかけた静雄である。機会があれば(戦争に行く前に)とにかく結婚しろ、こんな楽しいことがあるぞ、と呼びかける気持ちもあったかもしれない。

戦後の昭和二十三年、家庭婦人向けの雑誌『家庭と料理』に掲載された散文詩「薪の明り」も紹介しておきたい。寒い冬の朝、傷心の涙を流しながら、薪の火に顔を照らされている女の姿を歌ったドイツの詩を思い出す、と述べた後、静雄は子供時代の想い出を綴る。


子供の時三里はなれた町の中学校に通学していた私もそういう時刻にふと目ざめて、御飯をたいている母や姉の姿を、かまどの明りのなかに度々見た。

そんな時、「もうしばらく寝ていなさい。」と彼らは言つてくれた。

今私は、田舎に罹災疎開したまゝ、まだ都会に帰れずにいるが、曾ての母や姉の代りをしてくれるのは、妻だ。

暗い冬の朝、かまどの前、まきの火の明りの中にうずくまる女の姿ほど、あわれなものはない。


 給料のほとんどすべてを注ぎ込んだかもしれない、洋書も含めた貴重な書籍のコレクションを、静雄は戦災で失った。保管していた書簡も同様だったろう。これは憶測だが、書きかけの詩篇や下書きもあったかもしれない。敗戦国の一市民としての茫然自失。さらに、文学者として、大きな失意を被ったであろう静雄が、静かに母子を見詰めている景が胸に迫る一篇がある。疎開地に住みついて、という添書きのある、「子供の絵」。


赤いろにふちどられた

大きい青い十字花が

つぎつぎに一ぱい宙に咲く

きれいな花ね 沢山沢山

ちがふよ おホシさんだよ お母さん

まん中をすつと線がよこぎつて

遠く右の端に棒がたつ

あゝ野の電線

ひしやげたやうな哀れな家が

手前の左の隅つこに

そして細長い窓が出来 その下は草ぼうぼう

坊やのおうちね

うん これがお父さんの窓

性急に余白が一面くろく塗りたくられる

晩だ 晩だ

ウシドロボウだ ゴウトウだ

なるほど なるほど

目玉をむいたでくのぼう(・・・・・)

前のめりに両手をぶらさげ

電柱のかげからひとりフラフラやつて来る

くらいくらい野の上を

星の花をくぐつて


母子で「お絵かき」をしている景を見つめている静雄。〈お父さんの窓〉は、草ぼうぼうの〈哀れな家〉に切られた、狭い窓である。視野を制限される窓。外部から近づいてくる不穏な影は、静雄の目には「でくのぼう」と映る。それは、静雄の不安の反映であると同時に、自身の姿を自嘲的に重ねてもいるからではないのか。子どもの描く星の花、それだけが鮮やかに、〈くらいくらい野の上を〉照らしている。これこそ、子どもの真っ直ぐな目が照らし出した真の光景・・・そう、静雄は感じていたのではないだろうか。

『千年樹』72号11月

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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 21:06 | 伊東静雄 | Comments(0)

伊東静雄ノート 8


関東大震災が起きた大正末から昭和十年代の状況に、2010年代以降の現代の日本が近づいてきている・・・そんな危惧を覚える中、二〇一七年六月、治安維持法を連想する(人も多い)通称「共謀罪」、「テロ等準備罪」法案が成立した。

単純に歴史は繰り返す、とは思わない。しかし、反省的に歴史を学ぶこと、結果が誤った方向に向かったことが歴史的に証明されているなら、なおさら誤った道に足を踏み入れないように事前に回避することが、何よりも大切なことであろう。

・・・と大仰に書き始めたものの、私たち庶民は、自らの生活、自らの家族、地域社会といった、身近なところから物事を考えていく他はない。戦中期に生きた詩人がどのような考え方を辿り、どのような生き方をし、結果、どのような作品を遺したのか。「静雄ノート」の連載を始めて以来、考え続けている問いは、静雄の詩に惹かれ、詩を綴り始めた者として、単なる歴史的な興味、好奇心を越えた切実な問いでもある。

伊東静雄の『春のいそぎ』集中の作品を、現代に生きる私たちの感性で、まずは読んでみる。それから、当時の社会的背景や静雄の個人的・伝記的背景に基づいて、追体験してみる。その試みは、当然のことながら『春のいそぎ』一集に留まらず、第二詩集『夏花』や、第一詩集『わがひとに與ふる哀歌』に遡っていくことになった。日中戦争開戦以降、積極的に翼賛的な詩を書き始めた詩人たちを傍目に、家族や身近な物事を歌う、という私的な詩作に沈潜していったように見える静雄も、「大東亜戦争」開戦と同時に、(一時的にせよ)翼賛的な詩を書き記している。その時の心情を今後とも継続的に考えていきたいと思っているが、今回は、少し回り道をして、詩集公刊以前の静雄の私的世界、特に妻との関係について、考えてみたい。

伊東静雄が大阪の住吉中学に着任したのは、昭和恐慌が始まった昭和四年のことである。その二年後、静雄は『呂』(昭和七年六月)という同人誌を青木敬麿らと共に創刊している。

静雄は当時としては珍しい共働きであったが、『呂』を読むと、当時の進歩的な知識人であることをある種の矜持として自覚していた彼等が、女性に対して、また、いわゆる職業婦人に対して抱いていた共感と理解の一端を知ることができる。

社会の不正や不条理に抗し、男性と対等に文学や芸術を論じあえる知性と、自立した経済力、自分の意見を持った女性。恋愛においては(ゲーテのグレートヒェンやヘルダーリンのディオティーマのように)より高次の精神的次元に導いてくれる、憧憬の対象。

たとえば、昭和七年、九月号の『呂』(四号)に、竹内てる代の第一詩集『叛く』の書評が掲載されている。〈家風に合はないといふので不合理にも結婚に敗れ、腹を痛めて生みおとした坊やとは生別させられ、たゞ残つたのは病で歪んだ躰だけだつた〉〈著者の詩は、悲しみに泣き、叫び。喜びに雀躍する一人の血の通った生活人の、心からの叫びだ〉と、同人の鳥海齋は記している。

『呂』の三号に鳥海が寄せた芸術論は、当時のプロレタリア文学は視察記や社会記事から受ける感じとどれくらいの相違があるのか、千篇一律で面白くない、と批判する一方で、〈芸術とは具体的な政治方法や社会方法を企画するといった科学的機能をもつものではなく、先験的に意識の傾向を示唆する効果をもつものに過ぎない〉と、純粋芸術論的な思想を開陳しつつ、〈生殖組織(夫婦関係)に先験する恋愛のようなものである〉という比喩を用いるなど、浪漫派的な、恋愛を精神的次元で論じようとする志向も見て取れる。

静雄の手紙や日記、花子による静雄の回想録などを読むと、静雄は女性が文学や芸術に関して知識を深め、共に語り合うことを積極的に望んでいた。初期の日記に見られる「女性遍歴」も、〈ほんとうの恋〉を求め続けたゆえらしい。つきあってみて、やはり普通の女性だった、と失望を書き記したり、М子は哲学概論を送ってくれた、と喜んだり、これは淋しさふさぎであって、本当の恋ではないのではないか、などと悩んだりしている。有島武郎の『惜しみなく愛は奪ふ』を愛読し、倉田百三の『愛と認識との出発』を読みながら、他者との関係性から立ち上がる「自己」を問い、「人間」とは何か、という問題について考えていく時の、重要なファクターの一つが「恋愛」であった。もちろん、プラトニックな関係ばかりではなく、〈放恣なる本能の一日〉というような記述からもうかがえるように、性愛的な関係もまた、重要であったらしいが・・・。

中学教師といえば、『呂』の五号(昭和七年十月)に、中学教師と思しき中村倭枝という女性の、「紀元節」という名前の短編小説が掲載されている。紀元節の意義を、尊さを説き続ける校長の話と、バタバタ貧血で倒れる子供たちを対置しながら、何バカなこと言ってるのよ、話が長すぎる、寒すぎる、子供達は(貧困のゆえ)栄養不良、朝から何も食べていない、と批判する内容。まだ、このような文章の発表が許されていたのだ、ということに驚きを覚える程である。

この号に静雄は「事物の詩抄」という総題で、「母/新月/都会/秋/廃園/朝顔」というモダニズム風の詩を載せている。


 母

妻よ 晩夏の静謐な日を

糸瓜の黄花(きばな)と蔓とで

頃日の僕等の唯一の

 幻想である母の

 家の門を飾らう

            

結婚後半年の時期であるので、妻は新妻の花子であろう。しかし、具体的な妻のイメージを越えて、象徴的な〈母〉が呼び出されている。


  新月

淡淡しい穹窿をも誘うて

新月の

私の目の前で生々と凝固する夕方に

新月に啓示を拝しつゞける太古の

港を

私は静かに出て行った


現在の私たちにとっても難解な作風だが、当時の『呂』の仲間たちにとっても、それは同様であったらしい。当時の同人たちがコラム欄「ろれつ」に〈伊東静雄、詩人ぶった詩人〉〈彼のシンボリズムはシンボリズム自体に潜む、孤独、独りよがりの道に連なってゐる〉などと、かなり辛辣に記しているのが面白い。〈伊東はうまいなあ、皆は君のものをわからん云ふけれど、そんなこと云ふたら、君はひとりで悦んでしまふだらうから、おれだけは、わかる、云はねばならん。けれど、ほんとは、どうぞも少しわかるように、書いてほしい。きれいな空気を、ひとりきりで貪らずに、ひとりでも多くの人に、わけてほしい。理屈は言はぬ。できるならば、一日でも早く、以前の君に返ってほしい〉この文章は、恐らく『呂』の創刊者でもあり、静雄と親しかった青木敬麿であろう。以前の君、とは、勤務先の住吉中学の校内誌『耕人』に載せた、次のような作品であろうか。


庭をみると

辛夷の花が 咲いてゐる

この花は この庭のもの

人の世を苦しみといふべからず

花をみる時

私は

花の心になるのである

(「庭をみると」『耕人』昭和六年二月)

のの花を

いけて

ねてみる

よろしさ

ののはなのほそばな

かずしれぬはな

ののはなの

よろしさ

ねてみつつ

おもふ

(「ののはな」『耕人』昭和六年十月)


静雄の詩に出て来る〈花〉は、あるいは意中の女性、のことではなかったか?具体的な誰か、ということではないにしても、ある種のミューズのような、憧憬の対象として、詩情を掻き立ててくれる女性。昭和六年、一一月の酒井百合子あての書簡の中で、


私が泉のそばに坐った時

噴水は白薔薇の花の影を写した

私はこの自然の反省を愛した

私が青空に身を(ゆだ)ねた時

縫ひつけられた幾(すじ)もの銀糸が光つた

私は又この自然の表現を愛した

 

 さうして 私の詩が出来た


という、読み方によっては、ありとあらゆるものに貴女の姿をみます、と告白しているような短詩を書き記してもいる。日記などから推して、百合子が、青年期の静雄の憧憬の相手であったことは間違いない。百合子の後の証言によれば、封建的な気風が色濃く残る地での、士族の娘と商家の息子、という関係性や、静雄自身の批判的な物言い(恋慕の情の韜晦であったのかもしれない)などのゆえに、百合子の方では思いもよらず、静雄の片恋であったらしい。とはいえ、百合子は静雄の書簡や詩を大切に保管し続けている。人間として、友人として、深い敬愛の念を抱いていたことも、確かなようである。

 昭和六年秋の時点で、静雄がのちの妻となる山本花子と知り合っていたかどうかは、定かではない。しかし、昭和七年二月の百合子宛て書簡の中で、山本花子との縁談がなかなかうまく進まないことを案じている旨を記し、三月の手紙では、いよいよ結婚することになった、と百合子に報告している。花子は、満たされぬ愛の〝代わりに〟妻として選ばれた女性、なのだろうか?

日記によれば、静雄は今ならさしずめ「イクメン」だったらしい。子供の世話ばかりでなく、病に倒れた妻の看病も積極的に行っている。背負ってしまった借金を返済する為に、共働きの妻が良かったのだ、というようなことも口にしていたようだが、恐らくは照れ隠しであろう。静雄と親しかった富士正晴が、詩人の小野十三郎や静雄の教え子の斎田昭吉らとの座談会で語った思い出によれば、山本花子は、奈良高等女子師範を卒業し、堺市立高等女学校の教師となっていた大柄な美人であった。一歳年下で聡明な花子に、歌会で出逢った静雄がひとめぼれし、人を介してなんとか見合いに持ち込んだ、というのが実際のところらしい。それが、昭和六年の秋か冬、縁談が起こるのが昭和七年の一月ごろ。

しかし、七年の二月に父が亡くなり、借財を負うなどの困難で、結婚話が一時、頓挫しかけた。先にあげた百合子への手紙で、結婚が上手くいかない、と記している時点で、既に静雄は花子を妻として熱望していたことになる。そして花子は、静雄の困難を、いわば引き受ける形で伊東家に嫁してきたのである。(小川和佑『伊東静雄論考』他)

花子は、もっと手を抜いてもよいのに、と静雄が思うくらいに、盆の仕度を整え、準備するような、律儀でしっかり者の妻であった。授業は自分よりもうまい、かなわない、と友人にこぼしていたこともあるという。出征するかもしれない可能性が出てきた折(昭和十九年に記された遺言)まず最初に「花子よ お前の強さには自分は信頼してゐる この上は充分に優しい母であってくれ」と書き記しているほどである。だからといって、「かかあ天下」ということでもなかったらしい。静雄夫妻と一緒に銭湯に行った教え子が「お~い、花子、出るよ」と静雄が声をかけ、「は~い」と声が返って来るのを聞いた、という微笑ましいエピソードを記している。静雄の家を訪れた教え子たちを温かくもてなしたり、生活費を入れない(!)静雄を経済面で支えたり・・・(静雄自身の給料は、借金の返済と弟妹の世話、書籍の購入、自分の勉強や詩の付き合いに当てていたらしい)何より、静雄の詩作を全面的にバックアップするマネージャーの役割を果たしてもいたのではなかろうか。

雑誌『呂』の創刊の話は、結婚前の昭和六年の三月の時点で既に進んでいたが、静雄は結婚後も同人活動に積極的に参加している。そして、学内誌での趣味的な詩風から一転して、時代の先端を行くような実験的な詩風を試してみたり(それゆえに『呂』の同人たちにわからない、と言われてみたり)後の「わがひとに與ふる哀歌」にも通じるモチーフ(朝の風の命ずる場所、白い花輪、太陽に近い湖)が現れる「事物の本抄」という詩を『呂』六号(昭和七年一一月)に発表したりしており、新進気鋭の詩人として新作を世に問う、公刊の意欲に満たされていることが伺える。

昭和七年、十月に記された百合子宛ての書簡の中で「詩少しづつ自信が出来てゐます。自分で立派だと思ふものが五十もたまつたら、出版したいと考へてゐます。二百冊くらい刷つたら二三百円で出来るさうですから、花子に金の工面など、たのみ出してゐます。これが思ふ通りに行つたらと、大変希望をもつて暮らしてゐます」と記している。

マネージャーとして生活を支え、詩作や文学への情熱に理解を示してくれるしっかり者の妻を得、文学や芸術に関して語り合える異性、同性の友を持ち、新しい詩作に向かう仲間たちに、時には独りよがりの芸術至上主義だ、と批判されたりもしながら、静雄は着々と、『わがひとに與ふる哀歌』への道を歩んでいた。

なかなか『呂』の同人たちに理解されない時に、大阪の書店で見かけた『コギト』の創刊号は、いかに静雄の眼に眩しく映ったことだろう。

『コギト』はパトロンの肥下、理論的主導者としての保田與重郎、詩人の田中克己らが創刊した高踏的な詩と評論、ドイツ詩の翻訳などを載せた雑誌で、同人は、煙草のバットが七銭、タクシーが一円の時代に十円という高額の同人費を納めねばならなかった。高価なこともあって、なかなか売れなかったらしいが、大阪の本屋では必ず一冊売れており、しかも匿名で「コギトの詩人なかなかよろしい」との葉書が発行所に届いたという。静雄の詩は『コギト』向きである、と田中克己や中島栄次郎が静雄を訪ねて行った折に(いわば、スカウトである)、その葉書は静雄が認めたものであることがわかったという逸話が残っている。やがて、静雄は『呂』を離れ、『コギト』の詩人として活動を本格化させていくことになる。

                                             『千年樹』71号2017年8月


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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 21:04 | 伊東静雄 | Comments(0)

伊東静雄ノート 7

昭和十八年刊行の『春のいそぎ』から少し離れて、昭和十五年刊行の『夏花』収載の詩を見てきた。先行きの見えない日中戦争、詩友たちの死――濃度を増していく不安の中で、それでも昭和十五年の初めごろに生まれ、『春のいそぎ』に収録されることになった「小曲」や「誕生日の即興歌」は、子供への温かい眼差しによって光彩を放っている。家庭詩、生活詩として、重視されることの少なかった作品だが、光に注目して鑑賞する時、闇に光を点じていくような配置が、詩集そのものの余韻となって深い印象を残す。

静雄の憂慮が現れた「わが家はいよいよ小さし」や、迫りくる破滅の予感に対峙する「夏の終」の後に置かれた「螢」は(ノート5で見たように)子供の看病の不安の中で生れた作品だが・・・情景として見るならば、重苦しい湿った闇に仄かな明るさを点ずる蛍の光、その捉え難いもどかしさが〈美〉として描きとられている。続いて置かれた「小曲」は、明方の光の中で、夜道を金の光で照らした燈火の美しさを回想する歌である。しかもその歌は、〈子供がうたふ をさな歌〉であるという。その景を想う時、私は吉原幸子の詩の一節を思い出すにはいられない。


とほいゆきやまがゆふひにあかくそまる

きよいかはぎしのどのいしにもののとりがぢつととまつて

をさなごがふたりすんだそぷらのでうたつてゐる

わたしはまもなくしんでゆくのに

せかいがこんなにうつくしくては こまる


明方と夕方、時間帯が異なるのは、自らを取り巻く世界の〝夜明け〟を願う詩人と、世界への哀惜を歌う詩人という、スタンスの差異であるのかもしれない。いずれにせよ、子供の澄んだ歌声に二人の詩人は〈美〉を感じ、そこに詩情を覚えている。

昭和十八年の時点で、明るい未来の願いを子供に託すような詩を詩集の最後に置いた静雄の想いはどのようなものだったのだろう。単純な逆編年体による詩集の編成とは異なる、深い意図が込められているのではなかろうか。子供の歌の響く「小曲」の後に置かれた「誕生日の即興歌」を、詳しく見ていきながら、そのことについて考えてみたい。冬の嵐に翻弄される小さな〈わが家〉で、愛娘に呼びかけるざれ歌、という趣向の詩である。


くらい 西の()(すみ)に 翻筋斗(もんどり)うつて そこいらに もつるる あの響 樹々の(さけ)と 警むる 草のしつ(・・)しつ(・・) よひ毎に 吹き()る風の けふいく夜 何処(いづこ)り来て あゝにぎはしや わがいのち 生くるいはひ まあ(・・)()や この父の為 (ともしび)さげて 折つて来い 隣家(となり)の ひと住まぬ (まがき)のうちの かの山茶花の枝 いや いや 闇のお化けや 風の胴間声 それさへ 怖くないのなら (とが)むるひとの あるものか 寧ろまあ(・・)() こよひ わが祝ひに あの花のこころを 言はうなら「あゝかくて 誰がために 咲きつぐわれぞ」 さあ 折つておいで まあ(・・)()

自註 まあ(・・)()はわが女の子の愛称。私の誕生日は十二月十日。この頃、海から吹上ぐる西風烈しく、丘陵の斜面に在るわが家は動揺して、眠られぬ夜が屡々である。家の裏は、籬で隣家の大きな庭園に続いてゐて、もう永くひとが住んでゐない。一坪の庭もない私は、暖い日にはよくこつそり侵入して、そこの荒れた草木の姿を写生する。


 長歌のようでありながら、自由にリズムを崩し、しかも完全に散文とはならないところで踏みとどまる。乱拍子の囃子唄のような不思議なリズムが、全篇を支配している。警むる、は、いましむる、と読むのだろうか。木々は叫び、草は軋むようにうめいている。

風当たりの強い丘の中腹にある静雄の家は、さほど大きくはない借家であった。訪れた学生に、寒いので(外套を脱がず)そのままで、と促したという話もある。風雨の度に烈しく家鳴りし、冬場は隙間風も吹き込む厳しさがあったろう。嵐の中で、〈あゝにぎはしや わがいのち〉というように〝生〟を実感する静雄の姿は、夏場の台風、野分の際にも見出される。

『夏花』所収の「野分に寄す」は、〈野分の夜半(よは)こそ(たの)しけれ〉と始まり、〈真に独りなるひとは自然の大いなる連関のうちに/(つね)に覚めゐむことを(ねが)ふ〉という哲学的箴言――一時の生(個々の人生)を永続の生(自然の命の循環、リルケの宇宙生命的な生や、禅や老荘思想における東洋的な生)の中に見る、覚者としての眼差しを願う心――を挟み、嵐に翻弄されて落果する葡萄や、地に叩きつけられる菊や薔薇の短い生を想いながら〈(もの)(みな)の凋落の季節(とき)をえらびて咲き出でし/あはれ汝らが(ほこり)高かる心〉を称える。嵐の〝時〟に生まれてしまったことを嘆くのではなく、自らこの〝時〟を選んだのだ、滅ぼされるのではなく、自ら滅ぶのだ、という、受動ではなく能動の生への転換、と言い換えてもいいだろう。そして、〈こころ賑はしきかな〉〈野分よさらば駆けゆけ〉と詩は閉じられる。花たちよ、滅ぶなら滅びよ、嵐よ、吹くならば吹け!と、意味としては反語的に、語調としては極めてパセティックに展開する「野分に寄す」は、『春のいそぎ』の「誕生日の即興歌」の予兆であり、即興歌は季節を反転させたものともいえる。

もちろん〝滅び〟を運命づけられた生を、いかに受容するか、という当時の若者たちが直面していた実存的問いに対して、たとえいかなる末路が控えていようとも、雄々しく斃れゆく〝英雄的生〟に悲壮な美を見出そうとする、ロマンティシズム――不安や苦悩による生の断念や放棄ではなく、短くとも烈しい生を受容し、肯定しようとした日本浪漫派のパトス(中でも保田与重郎の思想)が、戦場に向かう青年たちを鼓舞することになった過去の歴史を、忘れるわけにはいかない。その過去を二度と再来させないために、当時の青年たちの想いを辿り直し、私たちの未来への反省とするために、私は今、この稿を書いている。

パセティックな情動そのものは、人生の艱難に際して生きる事にくじけそうになっている人々にとって、今もなお魅力的である。情熱を燃やし続ける、ということ、生きる実感を得る、ということ。心が折れそうになるわたし、生を逃避したい、と死へ惹かれていくわたし。その背を押し、手を取って〝生〟の方向へ力強く引き戻してくれる情動を喚起するもの。そうした、詩情の在り方が、静雄の詩のひとつの魅力となっていることは否めない。そして、その魅力は普遍的なものでもあろう。そうした威力を持つものであるからこそ、過去の戦争でもロマン派の芸術(特に英雄的生のイメージ)は権力者によって〝利用〟された。その苦い過去の反省に立って、二度とそうならないように注意深く目を注ぎながら、生の鼓舞者としての詩情そのものは大切に受け継いでいきたい、と私は思っている。

浪漫派的詩情が歪められた理由は、個々の生の価値探求を否定し、公(戦時においては国家)の為に滅私奉公する生にのみ生きる価値がある、という壮大な欺瞞の中に回収されていったからであろう。静雄は、果たしてその国家的欺瞞の中に、どのようにして呑みこまれていったのか。あるいは、どこまで染まらずに在ることができたのか。

「誕生日の即興歌」に戻ろう。暴風に翻弄される〈わが家〉で、負けじと力強く歌い返す静雄。詩人は、夜の闇と吹きすさぶ風の叫び、それが怖くさえなかったら、父である私の為に、〈(ともしび)さげて〉荒んだ無人の庭に咲いている山茶花の枝を、一枝折ってきておくれ、と愛娘に歌いかける。人が住まなくなった後も、変わることなく咲き続ける花。国破れて山河あり、城春にして草木深し――人生のはかなさと、自然の永続とに深い思いを寄せていた静雄が、山茶花の一枝を求めるのは、なぜだろう。「庭の蟬」の一節にあるように〈おれはなにか詩のやうなものを/書きたく思ひ〉ながら、なかなか思うに任せなかった静雄に、詩情をもたらすもの、詩趣を喚起させるもの、その象徴的存在として、人の住まぬ家で、冬のさなかにも咲き続ける山茶花を求めたのではなかろうか。

父が娘に、花を取って来てやる、のではない。娘に向かって、暗闇の中を灯をともして、お化けや烈風の唸りをも恐れずに、父の為に花を取ってきておくれ、と呼びかける。もちろん、これはざれ歌であって、実際に娘に命じたわけではない。しかし、暗がりで憂鬱に沈んでいる父のもとに、娘が光と共に訪れ〝花〟をもたらす、という構図は、静雄ノート1で鑑賞した「春浅き」に顕著に表れているものでもある。

〈あの花のこころを 言はうなら「あゝかくて 誰がために 咲きつぐわれぞ」〉カギかっこに収められた部分は、誰かの詩の一節なのかもしれないが、未だ確認できていない。暫定的に、強調のためのカッコとして読み進める。父が自身の誕生日に、娘に花を取ってきておくれ、と頼む。そして、その花の心は、「ああ、誰の為に私は咲き継ぐのか」なのだよ、と、父は娘に伝える。誰が為に、という問いに反語として隠されているのは君が為、でろう。花は、大切なことを〝君″に伝えるために、〈自然が與へる暗示〉として、花開くのだ――昭和十二年に『知性』に発表された「そんなに凝視めるな」において、静雄が呼びかけたように。


そんなに凝視(みつ)めるな わかい友

自然が與へる暗示は

いかにそれが光耀にみちてゐようとも

凝視めるふかい瞳にはつひに悲しみだ

鳥の飛翔の跡を天空(そら)にさがすな

夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな

手にふるる野花はそれを摘み

花とみづからをささへつつ歩みを運べ

問ひはそのままに答へであり

堪へる痛みもすでにひとつの睡眠(ねむり)

風がつたへる白い(かど)(いし)の反射を わかい友

そんなに永く凝視めるな

われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち

あゝ 歓びと意志も亦そこにあると知れ


生きる途上で出会う〝花〟、すなわち〈美〉や〝詩情〟、心に豊かさをもたらすもの・・・それらに出会ったならそれを摘み、〝花〟と共に(その花によって)自らを支えて歩み続けよ。生きるとは何か。レゾン・デートル・・・その問いの答えを求めようと焦るのではなく、むしろ問い続けることこそが生きることなのだ、その辛い歩みを支えるものこそ、途上で出会う野の花の美しさであり、砕いた大理石の煌めきのような、一瞬の輝きなのだ。その辛い歩みに堪える痛みは、問う事こそが答えであり、確たる答えなどないのだ、と気づく(覚醒する)前の、睡眠のようなものだ。

(「野分に寄す」で述べたように)人は自然の大いなる連関の内で、目覚めていることを希う。その目覚めは、(「わがひとに與ふる哀歌」で歌ったように)〈音なき空虚を/歴然と見わくる目〉を得ることでもあるだろう。それは、〈凝視(みつ)める深い瞳にはつひに悲しみ〉を与えるだけのものであるかもしれない。なぜなら、鳥の飛翔の跡や、消えていく夕陽の美しさのように、必ず消え去って行くものの痕跡を追うことは、いかなるものも永続しない、という存在の根本的な悲しみ、存在の空虚を知ることでもあるからだ。だからこそ(そのことを知ってしまった)我々は、消え去っていくものを追うのではなく、〈われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち/あゝ 歓びと意志も亦そこにある〉と知らねばならない・・・

「誕生日の即興歌」の中で、幼い娘に呼びかけるざれ歌、として描かれていても、こうした静雄の思想/詩想を見て取ることができる。嵐も恐れず、闇も恐れず〝花‟を採りに行くことを、そうした果敢な前進をし続けることを娘に望むのである。そして、その花のこころを教え、花と出会うことの意味、為すべき行為を伝えるのが、父であり、詩人である静雄の役目であろう。

名が真を表すものであるなら、花の心、その真意を明かすことと、本当の名を告げることは同義である。ここにも、「春浅き」で花の名を娘に伝えようとする父の姿が反復されている。時系列でいえば「誕生日の即興歌」の方が先に創作されているので、即興的に生み出された詩情を、「春浅き」において、より深く詩人は造形化した、とも言える。〈即興歌〉という趣向は、自分の娘に愛称で呼びかけるという、本来なら極めて私的な行為を、公刊の詩集に納めるための方便としても機能しているだろう。

詩集冒頭の自序に、〈ひとたび 大詔を拝し皇軍の雄叫びをきいてあぢはつた海闊勇進の思は、自分は自分流にわが子になりとも語り傳へたかつた〉と静雄は記した。戦時中の公刊であり、表現の際には検閲の問題(恐怖)も大きくのしかかっていたであろうことを踏まえれば、とりわけ前半部は、当時の一般的市民の心情としてごく普通の反応であったと思われる。後世、詩集から除外されることになった「戦争詩」は七篇。二八篇の詩篇から構成される『春のいそぎ』の四分の一である。「戦争詩」は戦時のカモフラージュである、というような欺瞞的な〝弁護‟をするつもりはない。静雄は市井の一国民として、ごく自然な感情の発出のままに「戦争詩」を書いたであろうし、その経緯や作品としての質について、私たちは真摯に考え続けねばならない。しかし、皇国の御為に・・・という思いのみ(・・)から詩集が編まれたわけでは無い。詩集の四分の三を占める、詩人としての在り方、父としての思い、ごく私的な家族や友人への思いもまた、詩集を編む重要な動機になっていたはずである。

詩集の掉尾を、なぜ娘への呼びかけの歌で締めくくったのだろう。静雄は『春のいそぎ』を、〈わが子〉への贈り物、戦争で死ぬであろう自分の、遺言としたのではなかろうか。自らが精神的な葛藤、苦悩を経て見出したこと、〈音なき空虚を/歴然と見わくる目〉と引き換えに、自らが得た智慧を、娘と息子に伝えたかったのだ、と思う。

改めて、『春のいそぎ』の詩篇の配列を眺める。友人の妻を哀悼する「秋の海」、故郷に初めて妻を伴って帰郷する感慨を歌った「なれとわれ」を、静雄は「戦争詩」の間にはめ込むように配置している。日米開戦時の高揚を謳った「大詔」のすぐ後に、朝顔を楽しむ余裕も失い、琴を楽しむ風流も抑えねばならない庶民の日常を描く「菊を想ふ」、語りかける言葉を飲み込んだまま、友と川面を眺めた日のことを歌う「淀の河辺」、子供の看病をしながら医者を待つ心情に託して〈わが待つものの 遅きかな〉と記す「九月七日・月明」を配する。日中戦争に従軍した兵士の体験を聞き書きした「第一日」の後に、妻子に何か〈言つてやりたかつたが〉言うべき言葉の見つからないまま、各々が黙って初蟬に耳を傾ける姿を描きとめた「七月二日・初蟬」を置く・・・。言い差したまま言葉を飲み込む日々の中で、憂鬱に沈む自分に光をもたらしてくれるわが子へ、静雄は日々の想いを〈語り傳へ〉ておきたかったのだ。


                                  『千年樹』70号 2017年5月


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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 21:02 | 伊東静雄 | Comments(0)

伊東静雄ノート 6

日記や手紙などから、『夏花』が成立した時期(昭和十一年~十五年頃)の静雄は、神経症に近いような精神的危機と戦っていたことが知られている。静雄はいかなる精神状況だったのだろう。『夏花』の後半に「孔雀の悲しみ」という不思議な小品がある。

 

 蝶はわが睡眠の周囲を舞ふ

 くるはしく旋回の輪はちぢまり音もなく

 はや清涼剤をわれはねがはず

 深く約せしこと有れば

 

 かくて衣光りわれは眠りつつ歩む

 散らばれる反射をくぐり……

 玻璃なる空はみづから堪へずして

 聴け! われを呼ぶ


 孔雀が尾を広げた時の、めくるめくような、万華鏡のような光景であろうとは思いつつ、冒頭の不眠を思わせる描写や、乱反射する光に飲み込まれながら幻聴を聴くような連に謎が残る。

 この詩と、芥川龍之介が不眠症や神経症、精神の破綻の恐怖におびえていた時期に書かれた『歯車』の一節とを比較してみよう。

 何ものかの僕を狙つてゐることは一足毎に僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つづつ僕の視野を(さへぎ)り出した。僕は(いよいよ)最後の時の近づいたことを恐れながら、頸すぢをまつ(すぐ)にして歩いて行つた。歯車は数の殖えるのにつれ、だんだん急にまはりはじめた。同時に又右の松林はひつそりと枝をかはしたまま、丁度細かい切子(きりこ)硝子を()かして見るやうになりはじめた。僕は動悸の高まるのを感じ、何度も道ばたに立ち止まらうとした。けれども誰かに押されるやうに立ち止まることさへ容易ではなかつた。

この後〈僕〉は、まな裏に〈銀色の羽根を鱗のやうに畳んだ翼〉の幻影を見、お父さんが死んでしまうのではないか、と家族が怯えるところで物語は終わる。静雄の描写との相似は比べるまでもないだろう。当時の静雄も、芥川が陥っていた精神の危機と同様の状態にあったことがうかがわれる。(就職して間もない頃にも、静雄は〈私の内の芥川的傾向を克服するために…芥川氏研究〉をしている、と手紙に記していた。自覚しつつの内省であったと思われる。)

日中戦争の行く末への不安、といった時代の諸条件に加えて、家族の病や、母や詩友たちの続けざまの死がもたらした〈茫漠・脱落の気持〉(「コギト」昭十五年)が静雄を追い詰めていた。その状況下で、時に七転八倒しながら静雄は詩を紡ぎ出していく。

『夏花』の冒頭には、〈おほかたの親しき友は(中略)さても音なくつぎつぎに憩ひにすべりおもむきぬ。//友ら去りにしこの部屋に、今夏花の/新よそほひや、楽しみてさざめく我等、/われらとて(つち)臥所(ふしど)の下びにしづみ/おのが身を臥所とすらめ、誰がために。〉という『ルバイヤット』の一節が置かれている。賑わしい生と、墓所に葬られて後の安息が、「誰がために」という問いで結ばれている。この問いは、後に詩集『春のいそぎ』の最終歌において〈あゝかくて 誰がために 咲きつぐわれぞ〉と反復されることになるのだが……『春のいそぎ』の味読に戻る前に、今しばらく、『夏花』について考えてみたい。

『哀歌』の成功の後、第二詩集の『夏花』を刊行するまでの間に〈田中克己、神保光太郎、中原中也、立原道造、津村信夫の諸氏が、大へん私を刺激した。その人達に見て貰ひたい気持が、私を元気づけたところもあつた〉と静雄は記している。さらに、〈この間に、立原道造、中原中也、辻野久憲、中村武三郎、松下武雄の諸氏が死んでゐる。これらの人々は、現実に深い交を結んだ友とは言ひ難いが、その詩精神は、私の最深部に強く作用したものである。人にはそれぞれ口には言ひ難い微妙な友情を感ずる「同時代の友」があつて、その友情は、その人の後半生をも支配する力をもつものと思ふ。上記の人々は、私にとつてそんな友ではなかつたであらうか。そして、「友ら去」つた後に、各自は、自己流に、「楽しみてさざめく」術を体得して、生きて行くのであろう〉(「コギト」昭十五年)と綴り、立原、辻野、中村の三名には、名を明記した追悼詩を捧げている。「夢からさめて」は、特に献辞はないが、母への追悼詩だろう。(怪しく獣めく夜鳥の声に夢を破られた静雄が、失われた故郷の家で独り酒を呑んでいる夢の中に母の姿を垣間見て、悲しみのあまり自ら歌っていたことに気付く、という詩である。)

『夏花』中、他に追悼と思われる詩は〈…かの蜩の哀音(あいおん)を、/いかなればかくもきみが歌はひびかする…曾て飾らざる水中花と養わざる金魚をきみの愛するはいかに。〉という、前年に発表した「水中花」に通じる詩想を持つ「いかなれば」と、〈N君に〉という献辞を持つ「若死」であろう。立原道造への追悼詩「沫雪」の直前に置かれた一篇である。


大川(おおかは)(おもて)にするどい皺がよつてゐる。

昨夜(さくや)の氷は解けはじめた。

  アロイヂオといふ名と終油(しゅうゆ)とを授かつて、

  かれは天国へ行つたのださうだ。

大川は張つてゐた氷が解けはじめた。

鉄橋のうへを汽車が通る。

  さつきの郵便でかれの形見がとゞいた、

  寝転んでおれは舞踏(ぶたふ)といふことを考へてゐた時。

しん(そこ)冷え切つた朱色(しゅいろ)小匣(こばこ)の、

真珠の花の螺鈿(らでん)

  若死をするほどの者は、

  自分のことだけしか考へないのだ。

おれはこの小匣を何処(どこ)(しま)つたものか。

 ()(うと)いアロイヂオになつてしまつて……。

   鉄橋の方を見てゐると、

   のろのろとまた汽車がやつて来た。


リフレインを用いた歌謡性の強い文体、キリスト教の用語や汽車といったモダンで垢抜けた印象、字下げの形式……N君とは、誰か。イニシャルから見て松下ではない。静雄が「コギト」に寄稿した松下への追悼文を読んでも、二人はさほど深い交友は持っていなかったらしい。残る一人は、〈私の最深部に強く作用したもの〉を持つと記された中原中也である。Nと名を伏せたのは、名を記すことに若干の躊躇い、もしくは屈折した感情を覚える相手だったから、ではあるまいか。

静雄は、中也の『山羊の歌』(昭和九年)を予約注文していたという。『わがひとに与ふる哀歌』(昭和十年)の出版記念会で初めて出会った中原中也の家に、その日の内に泊りに行ってしまったというエピソードも、静雄の抱いていた中也への親近感を示しているように思われる。しかし、二人は意気投合する、というわけにはいかなかった。中也は日記に〈コギトに、伊東静雄に関する原稿の断り状を出す。二三日前に来た伊東静雄の手紙、素直な手紙、而して素直なだけ。ああいふ人はどんな気持で生きてゐるのか。アイドントノウ〉とシニカルに記している。静雄も何か感じるところがあったろう。(高橋渡『雑誌コギトと伊東静雄』など)

エピソード的な事柄が評価にどこまで影響するものか留保すべきだが、静雄が中也の作品を批判的に見ていたことは確かなようである。富士正晴宛の手紙の中で、〈あなたの議論も、中原の晩年に完成を見てをられるやうですが、あそこから再出発を予想することは、矢張りわたしには困難です。彼の晩年が「運命的」であればあるほど、再出発は他の人によつて代つて行はるべきだといふ印象を却つてあなたの論からうけました。この点いかがです。そんなに一人の詩人に多くをのぞむべきかどうか私は甚だ疑問です。わたしはもう中原には「月の光」だけで充分。この一回きりの完成だけで充分詩人の光栄。生かしときたかつたのは矢張り立原。立原は中原について「彼は立ちどまつてゐる、問ひかけが彼にはない」と言つてゐます。〉(昭和十四年十月)と厳しい評価を下している。立原の詩を考える上で「問いかけ」は重要なキーワードであり、静雄の立原への共感の由来を探る上でも大切な問題だが、今はひとまず傍らに置く。ここでは静雄が言及している「月の光」(その一、その二)を見ておこう。


月の光が照つてゐた

月の光が照つてゐた

  お庭の(すみ)(くさ)(むら)

  隠れてゐるのは死んだ()

月の光が照つてゐた

月の光が照つてゐた

  おや、チルシスとアマントが

  芝生の上に出て来てる

ギタアを持つては来てゐるが

おつぽり出してあるばかり

月の光が照つてゐた

月の光が照つてゐた


月の光 その二 

 おゝチルシスとアマントが

 庭に出て来て遊んでる

 ほんに今夜は春の(よひ)

 なまあつたかい(もや)もある

 月の光に照らされて

 庭のベンチの上にゐる

 ギタアがそばにはあるけれど

 いつかう()き出しさうもない

 芝生のむかふは森でして

 とても黒々してゐます

 おゝチルシスとアマントが

 こそこそ話してゐる間

 森の中では死んだ子が

 (ほたる)のやうに(しゃが)んでる

※チルシスとアマントは、西欧の牧歌詩に歌われる少女と少年。ヴェルレーヌの詩などにも登場する。


 先に引用した「螢」に通じる詩想や童謡風のリズムは、中也の世界から静雄が学んだものであったかもしれない。死せる子が月下の物陰に隠れている。いなくなってしまったのではない、目に見えないだけ。気配は確かに、そこに居るのだ……子を失った中也の悲しみに、子煩悩な静雄が共鳴したことは想像に難くない。

〈夏花〉は、静雄自身が〈お盆に仏に供える花〉と語っており、また「()(ばな)」と呼ばれる仏事における供花のイメージが秘かに重ねられた、レクイエムともいえる詩集である。(田中俊廣「『夏花』*レクイエムとしての詩宇宙」『痛き夢の行方 伊東静雄論』)

『夏花』全体を覆う死のイメージ、その巻頭と中間、掉尾に配された、死の世界を振りきって生へと突き抜けていこうとする作品の放つ、エネルギーの強さ。

「燕」、「八月の石にすがりて」、「野分に寄す」「疾駆」といった作品が、生へと突き抜ける面を強調した詩だといえるが、その突破する力の源はどこから生まれるのか。「笑む稚児よ……」という詩を見てみよう。


笑む稚児(ちご)よわが膝に(すが)

水脈(みを)をつたつて(うしほ)(はし)り去れ

わたしがねがふのは日の出ではない

自若(じじゃく)として鶏鳴をきく心だ

わたしは岩の間を逍遥(さまよ)

彼らが千の()の白昼を招くのを見た

また夕べ(けもの)は水の(ほとり)に忍ぶだらう

道は遙に村から村へ通じ

平然とわたしはその上を()


我が子に膝にすがれ、と呼びかけてはいるが、すがってくれ、という願いであるのかもしれない。私を押し流そうとする大波が去ることを願い、今はまだ暗夜であるとしても、泰然自若として明け方を待つ心を欲する詩である。その先は難解。岩の間をさまようイメージは、『哀歌』に描かれた曠野における精神の彷徨を、〈千の日の白昼〉の訪れや、乾きに飢えた獣が水を得たり、村々に道が通じていくイメージは、明るく開放的な未来の訪れを祈念しているように思われる。

冒頭に引いた「孔雀の悲しみ」の中の〈深く約せしこと有れば〉という謎めいた一節、〈わが膝に縋れ〉という力強い宣言は――いささか飛躍した思考であるかもしれないが、父として子に約束しよう、どんなに辛くとも、生き抜く、ということを――という想いの現れではないだろうか。「孔雀の悲しみ」に描かれたような神経症的な逼迫、一向に黎明の兆しの見えない社会情勢、次々と死に打倒されていく詩友への想い、自身の将来への不安……そうした自己の内部に押し寄せる潮のような不安を打ち破るのは、外圧としての、やらねばならない、やらざるを得ない、という義務感ではなかったか。特に、静雄のように律儀な性格の人間にとっては。

「水中花」など、一見すると滅びを肯定し、美しく散ることを願うかのような詩句は、当時静雄が抱いていた閉塞感を突き抜けていくために自らを鼓舞する言葉であり、困難な生を前進させるための逆説的な死の措定であったように思われてならない。

蝶の生き様に、〝どんな困難が待っていようとも、最後まで生き抜け″という神(自然)からのメッセージ(言霊)を読み取りつつも、今の生は水槽の中で生かされている(ように見える)水中花に過ぎない、つくりものの生に過ぎない。これでも真に生きている、と言えるのか?いっそのこと、全てを投げ打ってしまいたい、全てを終りにしてしまいたい…そんな激情と生の渇望との間で、静雄の詩人としての精神は葛藤していたのではなかろうか。

むろん、生活者(父、教師)としての静雄は、生を投げ出してしまうわけにはいかない。いや、むしろ父であるからこそ、子供への愛、家族への想いの強さによって、生きる気力を奮い起こすことが出来たのではないか。そのために、あえて創作作品の中で、仮構としての死を疑似体験する。死の安息を希求する己の魂をいったん死の世界に鎮め、そこから再び日常生活圏に戻って来ることによって、自らの活力と成す。死への憧憬と生への義務感とに引き裂かれ、疲弊してしまった自らの精神を、一度死を疑似的に通過することによって――ふいごで衰えた炎に活力を取り戻すように――再生させる。その烈しい精神の振幅の軌跡を、『夏花』は基層としている。

『千年樹』69号 2017年2月


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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 21:01 | 伊東静雄 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
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