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白隠展

 渋谷文化村で開催中の白隠展に行った。近年まれにみる充実した内容だった。個人コレクションや日本各地の寺宝が集められ、テーマごとに円環を描くように作品が展示されている。
 隻眼達磨図は、未だ意図が読み解けない、というようなキャプションがついていたが、じっと見つめていると丸い雲に包まれた朝日が遠い山の端に昇ってきて、全容を見せたまさにその瞬間、を描いたもののように見えてくる。太陽は、昇り始めた時は肉眼で見つめることが出来る。でも、昇りきった途端に人の眼には堪えがたい激しい光の束となって世界を照らし始める。隻眼達磨図は、まさにその得難い瞬間、人の眼にとらえうるギリギリのところを描いたのではないか。そんな印象を受けた。
 40代の頃、白隠は驚くほど繊細かつ華麗に線を駆使し、素人目にも「上手」な作品を描いている。一方、60代以降になると、線は伸びやかさを増し、時に酔狂や出鱈目に筆を走らせたのではないか、という自在さを見せる。白隠ですら、見せる、という「こだわり」から自由になれぬ時があったのだ。誰に何を思われようとたいしたことではない、私は私、という達観、理解ではなく情解、あるいは心解、とも呼ぶべき境地を得られた、ということか。体取、という言葉を想起する。
 慈、という一文字を、ふとぶとと大きく、豊かに描いた作品があった。白隠の文字にしては珍しく字形が美しく整っている。不思議に思って近づいてみると、現代でいう「レタリング」のごとく、輪郭線を細筆で描き、中を塗り絵のように塗りつぶしているのだった。この茶目っ気と余裕には脱帽である。
 白隠が好んだ、という「人心見性佛性」という六文字の讃。今、ここにはない「はるか彼方」にしかないという「なにか」を追い求めていくのではない。求めているものは、今、ここにある。自分の内に潜み眠っている。その「なにか」を、仮に佛性と呼ぼう。佛性を目覚めさせることが大切なのだ。佛性は外にはない。内にある。そして目覚めの鍵は、外の自然の風物の中に隠されている。さらに言えば、外と内の差も大したことではない。小我を脱し、自然、宇宙と一元となるとき、その目覚めは自ずから訪れよう・・・覚者の慈言は、今もなお我々の心を惹きつけて止まない。
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by yumiko_aoki_4649 | 2013-02-07 13:32 | 美術展感想 | Comments(2)
Commented by tomomato at 2013-02-07 17:54
母も見に行って、本当に素晴らしかったと申しておりました。 見にいけなくて本当に残念です! 亡くなった父もとても尊敬していたそうで。 後年の自由な作品、 とても好きです。 自由さと、ユーモアは、どこかでつながっているのですよね!
Commented by yumiko_aoki_4649 at 2013-02-11 21:13
そうでしたか、どこかですれ違っていたかも(^^;)煙管の煙を吐いたら、中からお多福が出てきたり、金かね亡者の男が立小便(!)している傍若無人ぶりを、痛烈に、それでいて温かい目線でユーモラスに描いていたり。『批判」を笑いに転換するエネルギーと、人間(くささ)を温かくみつめるまなざしが心地よかったです♪
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