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『青衣』138号収載「現代詩を考える 1」を読んで

*詩誌『POCULA』16号に載せていただいたエッセーの抜粋です。
 
 日本の「詩歌」は、和歌(やまとうた)と漢詩(からうた)との両輪からなる韻文として発展してきました。外来文化の象徴であり、教養水準のバロメーターともなった漢詩に対して、「人の心を種として」生まれ出る和歌は鳥が鳴き蛙が歌うように、歌わずにはいられない人間の本性に根差した、日本古来の文化として理解されていたようです。
 漢詩は見て意味が解る、いわば視覚的要素の強い詩文であり、読んで、それから朗誦する詩です。一方、和歌は聴いて判る、いわば聴覚的要素の強い詩文であり、詠い、聴く詩です。私たちはつい忘れがちですが、もともと日本には、それぞれ役割を異にする「読む詩」と「聴く詩」が併存し、しかも相互に翻案したり意味を写しあったりする、という密接なかかわりを持ち続けてきました。そして、漢詩と和歌の双方が知識人の基礎教養を形作る、という精神文化が、戦前まで存在していた、と思われるのです。

 大正元年に大学生となった西脇順三郎は、海外文化の摂取を経て、「純粋芸術はリズムを拒む・・・むしろリズムが美であるがため拒む」と詩論を展開し、韻律を持った「聴く詩」からの離脱を宣言しました。もともと画家志望であり、黒田清輝主催の白馬会に入会した経緯も持つ西脇は、視覚の人であった、と言えましょう。後にシュルレアリスム運動の中心人物となることもうなずけます。西脇の主張する「うた」からの離反は、単なる「韻律」からの離脱ではありません。「うた」の氷山の、いわば見えている部分を純粋に取り出す行為です。見える部分と見えない部分との相互浸透を拒否し、見える部分のみの純粋な自立を志向した、とも言えます。
 あるいは、次のような比喩で言いかえることが出来るかもしれません。「詩」は「歌」あるいは「響き」を母として、「イメージ」を父として生まれる子供です。聴覚は主に感性に関わり、視覚は主に理性に関わります。この比喩に従うなら、詩の「うた」としての側面は「母」(感性)から、思想性、想像性は「父」(理性)から受け継いだもの。西脇が目指した詩と音楽性の分離、あるいは音楽性(という感性的な美)の拒否、という実践は、「うた」という音楽性の母体(感性)から、父に極端に憧れた「息子」(現代詩)が、自立し独立しようとして示した「詩の反抗期」ということになります。
 「現代詩」が「成人」し、自立を果たした今、詩は父となるのか、母となるのか、自ら選び、その選択にふさわしい資質を身に着けていく時期に来ていると思います。父でもなく母でもない、モラトリアム世代ばかりが増えれば、子は産まれず「詩の家」は崩壊するでしょう。どちらか一方ばかりでも衰退します。
 いわゆる自己充足的な抒情詩、ポエム、が大量に生み出される一方、思想性、想像性と密に組んだ、一人格として自立性を持つ抒情詩が数えるほどしかない、というのは憂うべきことです。城戸朱理氏が『詩の現在』の中で「平明な詩への傾斜、それは・・・メタファーを主要な方法としてきた「戦後詩」が、その有効性を終えたあと語るべき主題を失って個人的な感慨を語る抒情詩に解体されていったもの」と喝破しているのは、現状において正鵠を射た抒情詩批判でありましょう。他方、難解、芸術至上主義、などと呼ばれる「父」となるはずの言語派の詩も、自己充足の自慰行為を繰り返すばかりで、「母」となるはずの抒情詩と手を結ぶことを恐れたまま迷走を続けているように見えます。人間の感情から遊離した「純粋芸術」に、感性の喜びはあるでしょうか。理性の充足はあるにしても・・・。
 言語派モダニズムの詩が、歌としての、音楽としての資質を保ち続けている抒情詩の側に歩み寄った時こそ、新しい詩が生まれ、育っていくのではないでしょうか。見えないものを観る理性と、聞こえないものを聴く感性双方が悟性によって結び付けられ、止揚された次元にこそ、新たな可能性が生まれる、そんな気がしてなりません。
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by yumiko_aoki_4649 | 2013-09-02 10:41 | 読書感想、書評、批評
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