毎月第3木曜日のお昼休みに、獨協大学で行われる、ポエトリーリーディング。
4月20日は暁方ミセイさんでした。ふわっとやわらかい、しかし芯のある語り口。右側は獨協大学の原先生。
いずれユーチューブにアップされるとのことなので、詳細は省略しますが、お話を伺っていて面白いなあ、と思ったのは、散歩の時、通学途上など、「歩きながら」ふっと詩が浮かぶ・・・そんな暁さんの「詩」との出会い方でした。
人の声がざわざわとしているような場所の方が、詩が浮かびやすいとのこと。
人声が木々の葉のそよぎや風の息吹などに聞こえて来るような瞬間、あるいは逆に、草や葉のそよぎ、雲の流れ、ビルの間から吹いてくる風、そんな「わたしをとりまく世界」から吹き寄せて来るもの、やってくるものに「ことば」を感じる瞬間、暁方さんの中に「詩」の扉が開くのかもしれません。
自分の肌の内側を流れている血が、自分を取り巻いている世界と混ざり合っていくような感じ・・・正確な表現ではないですが、暁方さんのお話を聞いていて、「詩」がやって来た時の「体感」は、そのような感じなのだ、と妙に納得しました。外部の自然と接している肌、体の境界線が、ふっと消えてしまうような感じ、とか・・・外を流れるものと内を流れるものとが一体化する、交感しあうような感じ、とか・・・肌の内側で、ざわざわと何かが疼くような感じ、とか・・・人によって、「詩」をとらえた瞬間の感覚は様々だと思いますが、暁方さんの体から目に見えない触覚が無数に伸びていて、それがゆらいだり震えたりする瞬間に、「詩」が来るのだ、そんな印象を受けました。
詩を書き始めたきっかけを問われ、文筆で生きて行きたい、と思っていたけれど、そのためには小説やエッセイしか発表の方法がないと思っていた。
詩の投稿欄を教えられ、詩による発表の方法があるんだ、と知って投稿を始めた、それがきっかけだった、とのこと。そんな「きっかけ」で、いきなりあんなスゴイ詩を書けるの?と驚きました。
もちろん、詩歌含め、文芸全般にもともと深く興味を持っておられたから、だとは思いますが・・・。(投稿欄、かなりのモチベーションになるようです。)
たくさんの詩を朗読してくださいましたが、中央アジアを旅した時、目の前で(観光客向けに)生きた子羊を捌いて調理する、という出来事に遭遇した時に感じたこと、頭に浮かんだこと、心や体に訪れてきたもののこと・・・その時に生まれた詩を読んでいただいた時、体が熱くなるような体感がありました。
死を悟っている羊が、最初は怯えているけれども、やがて・・・まるですべてを許すかのような目をして、じいっと周りを取り巻いている観光客を見る、じいっと、ゆっくり見て行く、それを「わたし」も見ている、視られている。そんな、いのちの瀬戸際の静けさに接しているような緊張感と虚脱感。その両方を、その場で(少しだけ、ですが)分かち合うことができた、そんな感覚が残りました。