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詩と絵本と童話のお店 ティール・グリーンに行ってきました☺

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詩と絵本と童話のお店、ティール・グリーン。子供たちが小さかった頃、ずいぶんお世話になりました。色々なイベントも行っていて、中庭に面した素敵なティールームで、作家さんのお話をうかがったり、親子で工作や手芸を楽しんだり。
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ライアーという小さな竪琴の演奏会や、絵本原画展等も行われています。
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右側に立っておられるのが、店主の種村さん。ご主人が庭先で花壇の手入れをされていました。
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面出しの飾り棚の一角にもうけられた、子どもとお父さん、お母さんのための憲法の絵本コーナー。
けんぽうカフェ、等も定期的に開催されています。政治色は強くなく・・・一般庶民の目線で、子供たちの未来を考えましょう、という雰囲気でしょうか。
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ゆめある舎の新装復刊、松井啓子の『くだもののにおいのする日』を購入。美しい・・・
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最寄り駅は東急多摩川線の武蔵新田、と、ちょっとマイナーなんですが(笑)谷川俊太郎さんも何度も訪ねてくださっているとのこと。
素敵な時間を過ごせます。よかったら、ぜひ。

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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-05-16 16:03 | 随想 | Comments(0)

「微塵光―原民喜」を鑑賞して

5月7日、両国門天ホールで、宮岡秀行監督による「微塵光(みじんこう)―原民喜」というドキュメンタリー映画を鑑賞した。

 室内なのに、テント内のようなムード、裸電球(風のLEDライト?)、打ちっぱなしの風情の床板、小さめのスクリーン。パイプ椅子に絣模様の座布団を並べた、小劇場風の空間で、上映は2011年に同監督によって制作された「夏の花」という短編から始まった。

 広島カープの応援歌がドーンと観客を包み込む。暗転。やがて、爆心地の模式図がクローズアップされ、遠くから飛行機のエンジン音のようなブルルルル・・・という音が響いてくる。息づまるような緊張感の中で現在の広島の光景に切り替わると、ブルルルル・・・というエンジン音は、川面を行く遊覧船のものであることがわかる。ほっと心が緩んだ、そのほどけていく感じに合わせるように、次第に蝉の声が聞こえて来る。やがて、真夏の照りつける陽射しと共に、観客は驟雨のような蝉の大合唱に包まれる。心の動きに合わせた音響の手加減が素晴らしい。

 原民喜の当時の資料映像などを重ねながら、「夏の花」の朗読が始まった。野村喜和夫のハイ・バリトンは、柔らかく、しかしくっきり、克明に、民喜が見たもの、感じたことをなぞっていく。民喜にゆかりの深い人や、深く共感を寄せる人たちのインタビューを交えながら「夏の花」が終了すると、いよいよ本編の「微塵光―原民喜」の上映が始まった。

 冒頭、そして映画全体に差し挟まれていく舞台公演――広島の高校演劇部による渾身の原民喜伝は、プロの俳優たちとは異なる鋭さで胸に刺さった。伝えねばならない、その切実さが、明るい十代の声のトーンを鋭く尖らせるのか。詩人野木京子が、民喜が妻の貞恵とささやかな幸せを嚙みしめた旧居跡を訪ねるシーン。生前の民喜を知る人による、今、すぐそこに民喜がいる(いた)ような、声による再現。現在の空間の中に、そこにいないのに仄灯りが集う場所があって、映画が進んでいくにつれて、そこに民喜の姿が浮かび上がって来るような気がする。

 上映後、広島に生まれた詩人中本道代と、広島に住んだことがある野木京子によって対談と朗読が行われた。「夏の花」で示される克明な観察眼、抗議の自殺といった強靭な側面に光が当たりがちだが、二人の女性詩人は、寡黙な民喜が態度や文字の中に残した優しさ、弱いもの、小さいものへの眼差しを丁寧にたどっていく。「両国門天」の空間に、ぼんやりと現れてきたもの・・・その気配に溶け込むように、二人の詩人は言葉を添えていく。野木が広島に住んでいた時に感じた事・・・知識として知った過去の歴史が、見えない圧となって、体感となって大地からせりあがり、青い空からもなにか圧するような力が押し寄せ、その狭間であえぐような感覚を味わったこと・・・民喜の甥の時彦が、民喜の遺品である被災時の手帳を黙って取り出し、見せてくれた時のこと・・・民喜が座っている青年の後ろに静かに立って、黙って肩に手を置いた、そんな気持ちの伝え方をした、ということ・・・

 終演後のアフターパーティーで、先日の『詩と思想』座談会でお世話になった陶原葵さんと映画の感想について語り合ったり、吉田文憲さんから「微塵」が喚起するイメージ、両国という場所の持つ歴史性(関東大震災の折のもろもろ、折口信夫のこと、など)について伺ったり、細田傳造さんと「現代詩」と「現代の詩」について話し合ったりすることができた。

 映像と音楽、そして語りの醸し出す一連の流れの中で、スクリーンの奥と観客席とがつながり、その空間に民喜の居た気配が立ち上がって来るような、不思議な実感があった。微塵光となって、遺された言葉が降り注いでいる。空間を仄かに発光させている。そんな言葉を浴びる数時間だったように思う。


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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-05-09 21:41 | 随想 | Comments(0)

暁方ミセイさんのトーク&朗読を聞いて

 毎月第3木曜日のお昼休みに、獨協大学で行われる、ポエトリーリーディング。
 4月20日は暁方ミセイさんでした。ふわっとやわらかい、しかし芯のある語り口。右側は獨協大学の原先生。
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いずれユーチューブにアップされるとのことなので、詳細は省略しますが、お話を伺っていて面白いなあ、と思ったのは、散歩の時、通学途上など、「歩きながら」ふっと詩が浮かぶ・・・そんな暁さんの「詩」との出会い方でした。
 人の声がざわざわとしているような場所の方が、詩が浮かびやすいとのこと。
 人声が木々の葉のそよぎや風の息吹などに聞こえて来るような瞬間、あるいは逆に、草や葉のそよぎ、雲の流れ、ビルの間から吹いてくる風、そんな「わたしをとりまく世界」から吹き寄せて来るもの、やってくるものに「ことば」を感じる瞬間、暁方さんの中に「詩」の扉が開くのかもしれません。

 自分の肌の内側を流れている血が、自分を取り巻いている世界と混ざり合っていくような感じ・・・正確な表現ではないですが、暁方さんのお話を聞いていて、「詩」がやって来た時の「体感」は、そのような感じなのだ、と妙に納得しました。外部の自然と接している肌、体の境界線が、ふっと消えてしまうような感じ、とか・・・外を流れるものと内を流れるものとが一体化する、交感しあうような感じ、とか・・・肌の内側で、ざわざわと何かが疼くような感じ、とか・・・人によって、「詩」をとらえた瞬間の感覚は様々だと思いますが、暁方さんの体から目に見えない触覚が無数に伸びていて、それがゆらいだり震えたりする瞬間に、「詩」が来るのだ、そんな印象を受けました。

 詩を書き始めたきっかけを問われ、文筆で生きて行きたい、と思っていたけれど、そのためには小説やエッセイしか発表の方法がないと思っていた。
詩の投稿欄を教えられ、詩による発表の方法があるんだ、と知って投稿を始めた、それがきっかけだった、とのこと。そんな「きっかけ」で、いきなりあんなスゴイ詩を書けるの?と驚きました。
 もちろん、詩歌含め、文芸全般にもともと深く興味を持っておられたから、だとは思いますが・・・。(投稿欄、かなりのモチベーションになるようです。)

 たくさんの詩を朗読してくださいましたが、中央アジアを旅した時、目の前で(観光客向けに)生きた子羊を捌いて調理する、という出来事に遭遇した時に感じたこと、頭に浮かんだこと、心や体に訪れてきたもののこと・・・その時に生まれた詩を読んでいただいた時、体が熱くなるような体感がありました。
 死を悟っている羊が、最初は怯えているけれども、やがて・・・まるですべてを許すかのような目をして、じいっと周りを取り巻いている観光客を見る、じいっと、ゆっくり見て行く、それを「わたし」も見ている、視られている。そんな、いのちの瀬戸際の静けさに接しているような緊張感と虚脱感。その両方を、その場で(少しだけ、ですが)分かち合うことができた、そんな感覚が残りました。

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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-05-04 15:45 | 随想 | Comments(0)

平井達也さん『積雪前夜』書評

この世を詩の眼で観てみよう……ユーモアという拡大鏡 

 日本人はユーモアが足りない、としばしば言われるけれども……深刻過ぎて心身に異常をきたしかねない事態を、笑いに転換することでベクトルを変え、新たに課題に取り組むエネルギーの糧とする……平井達也詩集『積雪前夜』は、そんなユーモアの効能をたっぷり味わうことが出来る。巻頭の「ネクタイ」は、こんな軽妙さで始まる。
 
 ネクタイに誘われて茶色いのを買う
 茶色いネクタイにぶら下がって仕事する
 昼にはネクタイが窮屈そうなので
 解いてポケットに収めてやる
 
 物に過ぎないはずの〈ネクタイ〉が、友人のように〈私〉を誘う。つり革のように〈私〉を支える。昼休み、〈私〉は愛玩動物のように〈ネクタイ〉を愛おしみ、休ませてやる。スピーディーに繰り出されるネクタイとの様々な関係性は、仕事をする〈私〉(の喩としてのネクタイ)と、その〈私〉を見ている書き手の〈私〉との絶妙な間合いから生まれている。
 一連目では〈ネクタイ〉はいかにも〈私〉の味方、といった顔つきだが……〈上司の席に行き叱られる〉私を見て〈しわしわ笑っている〉ネクタイは同僚のミスを力なく笑う周囲の目線となり、〈口下手なくせに余計なことを言ってしまう〉私と違って〈賢いから黙っている/単純な結び目を固く締めている〉四連あたりになると、要領よく振る舞って手堅くトラブルを回避する同輩の喩へと、いつのまにか変貌している。

 シャツとネクタイの合わせ方がわからない
 色々な帳尻の合わせ方もわからない
 実は結び方が間違っているのかもしれない
 ネクタイは意地悪だから
 困っていても助けてくれることはない(五連)
 
 文字通り〝ないない尽くし″の終連では、ネクタイは世渡りベタな自分自身であると共に、意地悪な傍観者に姿を変える。読後に爽快感が残るのは、言い切りの形を多用した軽快なリズムのゆえだろう。サラリーマンの悲哀や孤独を、読者の誰もが共感可能な平易な比喩に託し、いわば洒落のめしているところに読後のカタルシスがある。
 『積雪前夜』の第一部は、カレンダー、クリアホルダー、複合機(コピー機)、穴あけパンチなど、職場で〈私〉を取り巻く〝物たち″が、それぞれの特性や適性に応じた絶妙な喩となって〝働く人達″を風刺している。人達、と複数形にしたのは、サラリーマンとして働く自分自身にも均等に批評眼が注がれているからだ。皮肉を効かせた詩句が続いても辛辣に成り過ぎないのは、たとえば「複合機」の最終行〈とはいえ嫌いにはなりきれないな〉に垣間見えるように、作者の根底に人間への愛情や信頼があることにもよるのだろう。
 「商談」のような働く行為そのものも、ユーモアで世界を塗り替えていく平井の腕にかかれば……

 フレアスカートの裾みたいにひらひらした
 商談にみんな夢中で電卓が悲鳴を上げる(一連)

 営業マンというのも大変だ
 都内で雪男が発見されるくらいに大変だ
 山手線の外回りと内回りが結婚して
 小さな山手線を産むくらい大変だ(三連)

といった具合、実に愉快。過重なストレスを笑い飛ばして、最後は〈電卓と正直さは叩かれっぱなしだ/ほんとうに私たちが交わすべき契約は/どこかの錆びた金庫にしまいこまれたまま〉と、ピリリと社会風刺も効かせて、詩をきっちりと締めるところがニクイ。
 少し〝仕事″から離れて〈私〉の私生活の方に踏み込んだ第二部に、「ペンキ塗りたて」というユニークな作品がある。〈私の魂はペンキ塗りたて/だから 触れないで〉……長年痛めつけられ、〈地の色が/あらわになってきてしまったから〉魂にペンキを塗り直した、〈今度はあざやかな原色に/目を射るような色に/もう直視させないし/好きに揺さぶるような真似もさせない〉という、生まれ直しの意志と強さを感じさせる詩。この強さを〈私〉に与えたものこそ、詩の力だったのではないか。とりわけ、平井が得意とする喩の力。
 ユーモアの喩に鋭角の批評精神が備われば、身辺を歌う行為も社会批評となる。第三部では、ともすると陰湿で閉塞感に満ちた現状把握となりかねない状況を、乾いた質感で塗り替え、軽妙に風刺していく。飄逸さと文体の勢いが心地よい。
 「積雪前夜」は、〈雪は降らなかった。空が我慢したのだな…こっちには我慢しきれないものがある〉と不穏に幕を開ける。〈指先は冷えっぱなしだし停止線は無視されっぱなしだ〉、〈潰れた文房具店の前で酔い潰れた自分がいる。邪魔なので蹴りのける〉、〈幸い風がないから連帯の旗はだらしなく失神している〉など、昨今の政治情勢やリストラなどの社会不安、個々人が分断され、一人一人が孤独に社会に対せざるを得ない時代を、さりげなく風刺している。〈コンビニで使い捨てカイロに同情の眼差しを向けられる。同情される筋合いはねえよ。こっちは冷えて固まって終わりというわけにはいかない。〉滾るような怒りが行間から滲み出る秀作である。
 「グミの両義性について」もユニーク。飄逸な筆致で、詩の社会性の問題に切り込んでいく。ナチス誕生の時代に、小児の歯を強くするという目的でドイツで開発されたお菓子のグミの硬さを〈詩の硬度〉に比しつつ、わが国のグミは〈柔らかめ〉であったのに〈最近わが国でもゼラチンを多く含むグミが売られるようになった〉と軽やかに警鐘を鳴らす。
 〈穏健派の夢は幸福な結末へと向かっている。遺失物になりそうな私は鍵を握りしめる〉(「おはよう」)現状に違和感を覚える〈私〉が、握り締めている鍵こそが言葉だろう。現状肯定の多数派に取り込まれずに、ちょっと斜(はす)から世の中を見ていようぜ、そして声を上げようぜ……そんな詩人の心意気が、軽妙な筆致の中にしたたかに盛り込まれた詩集である。
『潮流詩派』249号(2017年4月刊)掲載
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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-04-24 14:31 | 読書感想、書評 | Comments(0)

ジェフリー・アングルスさんの『わたしの日付変更線』書評

ジェフリー・アングルスさんへの手紙

     ――『わたしの日付変更線』書評に代えて

青木由弥子

                       

はじめまして。ジェフリーさんの(と呼ぶことをお許しください)詩作品をいつも楽しみに拝読しております。このたびは、「読売文学賞」のご受賞、本当におめでとうございます。

二〇一七年の〝読初め〟に選んだ『わたしの日付変更線』。〈四十四歳で初めて会った母に〉という一行は衝撃でした。一九七二年生まれの私が、ちょうど四十四歳で迎えるお正月に、この詩集を読んでいる。

「日付変更線」を拝読し、ついさっきまでは明日、未来、という未知のものであった時間が、今日、という現在になる不思議について、考えずにはいられませんでした。どうしてその間に、明確な線が引けるというのでしょう。ジェフリーさんは、ゆっくりと水に包まれていく肌感覚になぞらえておられますが、これ以上ない程にしっくり当てはまる表現だと思います。無い、が、有る、になる時・・・必ずそこには、目に見えない、変化の為の準備期間があります。言葉が生まれて来る時も、人が生まれて来る時も。ジェフリーさんが用いる言葉たちは、意味を運ぶ〝乗り物〟や意味を入れる〝入れ物〟ではなく、意志を持って自由に振る舞う〝生き物〟であるように感じるのですが、それはきっと、感覚の生まれるところ、皮膚の内と外、その繊細な感受の場所に意識を集中し、そこで外界を受け止め、受け入れ、あるいは内なるものを感じようとしているからなのだ、という気がします。

「翻訳について」や「文法のいない朝」を読むと、融けあうこと、一つになること、境界を越える、あるいはなくすことへの切望を感じ、そこに〝交感〟へと向かう強いエネルギーを感じます。「同居人」「字間の静寂」と読み進めながら、内と外との間に壁を設けるのではなく、窓や扉、隙間といった〝交流〟〝交換〟の仕組みを模索し、合一を求めて流出するエネルギーの自在な出入りを促す、キラキラと輝く眼差しが見えます。〈静寂を分泌する言葉〉の持つ体温。出ていくものが多い程、流入してくるものへの渇望を呼ぶ。その静かな対流は、はるか古代に生命が誕生した時に始まった、内と外との交換を連想させます。

原始の、アミノ酸やミネラルのたっぷりとけこんだスープのような海の中で、ぶつかり合ったり、刺激を受け合ったりする中でcellが生まれ、内と外、その間に境界が生まれる。その一枚の膜を物質が透過していく、流入と排泄という対流、交換を繰り返す。その運動が始まる瞬間のことを、生命の誕生、と呼ぶのだそうですが・・・。肌や壁、時間といった境界を越えて交感を求め続けるジェフリーさんの言葉たちを〝生きている〟と感じるのも、ごく自然なことなのかもしれません。もっとも、本当に一つになる、ということは・・・自身の境界の喪失であり、解体であり、無へと拡散していくことでもある。無の海の中から個という膜で囲み取られ、交換/交感を切望しながら(摩擦や孤独に堪えながら)個を保ち続ける、それが有、ということなのであるならば・・・有ることによって生じる時間の経過を生きるということは、喜びと共に、なんと厳しい運命を個の上に課すのでしょう。

『ミて』131号に転載された、伊藤比呂美さんとの往復書簡を拝読し、ジェフリーさんを探し続けていたお母様が電話口で〈泣いて泣いて泣いていた〉という一節を読んで・・・思わずもらい泣きしました。子が母から生まれる時、母の感じる胎動の不思議。そっと押し返すと、内から応えるように押し返してくる、自分の中にあって、自分ではない存在。子もきっと、母の心音を聴き、声を聴き、体温を感じているに違いない。その子を手放さねばならないことを知りながら、生まれ出ようとする子の存在を痛いほどに感じていた御母堂のことを想いました。

「見なかった息子」・・・見せてもらえなかった、見えなかった、ではなく(のみならず)、見ない、という意志を持った言葉。その自らの選択が・・・致し方なかったとはいえ、四十四年間、お母様の胸を刺し続けていたことだろうと思います。母ではなく〈母体〉と〈新生児〉という単語が用いられている距離感も、私にはとても大きなものでした。それは、「時差」を読んだ時に感じた隔たりの大きさに匹敵するかもしれません。母からの、そして子からの、想いの流入と流出。二人の間に生きて流れるはずだった時間が、凍結されたまま流れを止めてしまっていたことの重さ。「時差」を読みながら、深い谷を隔てて向き合う二峰の、そそり立つ険しさを思わずにはいられませんでした。背面を凍てつかせたまま、野に開かれた側では花を咲かせ、生き物を養ってきた、二つの季節に引き裂かれ続けた二つの山。二つの峰の間には、空間と共に空白の時間が霧のように充満していて、姿を見ることもままならない・・・そんなもどかしさが、〈時間が進むのは わたしだけ〉〈ひとり残されて わたしは〉という悲痛な詩行の間から迫って来ます。けれども、お母様の胸の中では、時は止まっていなかった、とも思うのです。顔の見えない、ぼんやりとした人影のような存在であったとしても〝息子〟は母の胸の中で育ち続け(だからこそ探し続け)、共に四十四年の時を歩んでいたのではないか・・・。

「見なかった息子」には、あらゆる子供たちに息子の面影を見、いつしか自然の中に息子の気配を感じとろうとするようになる母の姿が描かれています。それは、日本で昔から月に人を想い、山に愛する人を重ね、野を渡る鳥に想いを託して来た、アニミズム的な感覚に似ている。〈どの山の下にも/どの鳥の中にも/宿るようになった〉〈多数になった〉息子を想う母の姿は、山川草木、花鳥風月、あらゆるものの中に母の影を見る息子の姿でもあるように思われました。ジェフリーさんの日本文学への興味や、ネイティブ・アメリカンの世界観や文化への興味にも、繋がって行くように思います。

「地震後の帰国」の中に、大地に描かれた文字を読み解きたい、という願いが現れるのも、「風の解読」の中で風が描き出す軌跡を〈未来の言葉〉〈起こっていないことを語る〉言葉として読み解きたい、と欲するのも、「ミシガンの冬」で〈風の声〉を読み取ろうとするのも、自然の中に拡散していったご自身の思い――母との凍りついた〝時〟が、いつ雪融けを迎えるのか、友が安心と平穏をいつ得られるのか、そんな未来の見通しを、烈しく求めておられるからなのでしょう。『わたしの日付変更線』は、「未来へ」という章が最後に置かれ、やがて春を兆して閉じられます。凍てついた過去が、萌え上がる春になる時、喪失であった空間にはきっと、色とりどりの花畑が現れることでしょう。また、私の宝物が一冊、増えました。素晴らしい詩集をありがとうございました。どうぞ、お元気で良い春をお迎えください。   かしこ 

『ミて』138号掲載 とても素敵な詩誌なので、写真も掲載します。

ミてのサイトは、http://www.mi-te-press.net/

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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-04-13 11:29 | 読書感想、書評 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


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