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カテゴリ:随想( 22 )

詩と絵本と童話のお店 ティール・グリーンに行ってきました☺

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詩と絵本と童話のお店、ティール・グリーン。子供たちが小さかった頃、ずいぶんお世話になりました。色々なイベントも行っていて、中庭に面した素敵なティールームで、作家さんのお話をうかがったり、親子で工作や手芸を楽しんだり。
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ライアーという小さな竪琴の演奏会や、絵本原画展等も行われています。
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右側に立っておられるのが、店主の種村さん。ご主人が庭先で花壇の手入れをされていました。
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面出しの飾り棚の一角にもうけられた、子どもとお父さん、お母さんのための憲法の絵本コーナー。
けんぽうカフェ、等も定期的に開催されています。政治色は強くなく・・・一般庶民の目線で、子供たちの未来を考えましょう、という雰囲気でしょうか。
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ゆめある舎の新装復刊、松井啓子の『くだもののにおいのする日』を購入。美しい・・・
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最寄り駅は東急多摩川線の武蔵新田、と、ちょっとマイナーなんですが(笑)谷川俊太郎さんも何度も訪ねてくださっているとのこと。
素敵な時間を過ごせます。よかったら、ぜひ。

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by yumiko_aoki_4649 | 2017-05-16 16:03 | 随想 | Comments(0)

「微塵光―原民喜」を鑑賞して

5月7日、両国門天ホールで、宮岡秀行監督による「微塵光(みじんこう)―原民喜」というドキュメンタリー映画を鑑賞した。

 室内なのに、テント内のようなムード、裸電球(風のLEDライト?)、打ちっぱなしの風情の床板、小さめのスクリーン。パイプ椅子に絣模様の座布団を並べた、小劇場風の空間で、上映は2011年に同監督によって制作された「夏の花」という短編から始まった。

 広島カープの応援歌がドーンと観客を包み込む。暗転。やがて、爆心地の模式図がクローズアップされ、遠くから飛行機のエンジン音のようなブルルルル・・・という音が響いてくる。息づまるような緊張感の中で現在の広島の光景に切り替わると、ブルルルル・・・というエンジン音は、川面を行く遊覧船のものであることがわかる。ほっと心が緩んだ、そのほどけていく感じに合わせるように、次第に蝉の声が聞こえて来る。やがて、真夏の照りつける陽射しと共に、観客は驟雨のような蝉の大合唱に包まれる。心の動きに合わせた音響の手加減が素晴らしい。

 原民喜の当時の資料映像などを重ねながら、「夏の花」の朗読が始まった。野村喜和夫のハイ・バリトンは、柔らかく、しかしくっきり、克明に、民喜が見たもの、感じたことをなぞっていく。民喜にゆかりの深い人や、深く共感を寄せる人たちのインタビューを交えながら「夏の花」が終了すると、いよいよ本編の「微塵光―原民喜」の上映が始まった。

 冒頭、そして映画全体に差し挟まれていく舞台公演――広島の高校演劇部による渾身の原民喜伝は、プロの俳優たちとは異なる鋭さで胸に刺さった。伝えねばならない、その切実さが、明るい十代の声のトーンを鋭く尖らせるのか。詩人野木京子が、民喜が妻の貞恵とささやかな幸せを嚙みしめた旧居跡を訪ねるシーン。生前の民喜を知る人による、今、すぐそこに民喜がいる(いた)ような、声による再現。現在の空間の中に、そこにいないのに仄灯りが集う場所があって、映画が進んでいくにつれて、そこに民喜の姿が浮かび上がって来るような気がする。

 上映後、広島に生まれた詩人中本道代と、広島に住んだことがある野木京子によって対談と朗読が行われた。「夏の花」で示される克明な観察眼、抗議の自殺といった強靭な側面に光が当たりがちだが、二人の女性詩人は、寡黙な民喜が態度や文字の中に残した優しさ、弱いもの、小さいものへの眼差しを丁寧にたどっていく。「両国門天」の空間に、ぼんやりと現れてきたもの・・・その気配に溶け込むように、二人の詩人は言葉を添えていく。野木が広島に住んでいた時に感じた事・・・知識として知った過去の歴史が、見えない圧となって、体感となって大地からせりあがり、青い空からもなにか圧するような力が押し寄せ、その狭間であえぐような感覚を味わったこと・・・民喜の甥の時彦が、民喜の遺品である被災時の手帳を黙って取り出し、見せてくれた時のこと・・・民喜が座っている青年の後ろに静かに立って、黙って肩に手を置いた、そんな気持ちの伝え方をした、ということ・・・

 終演後のアフターパーティーで、先日の『詩と思想』座談会でお世話になった陶原葵さんと映画の感想について語り合ったり、吉田文憲さんから「微塵」が喚起するイメージ、両国という場所の持つ歴史性(関東大震災の折のもろもろ、折口信夫のこと、など)について伺ったり、細田傳造さんと「現代詩」と「現代の詩」について話し合ったりすることができた。

 映像と音楽、そして語りの醸し出す一連の流れの中で、スクリーンの奥と観客席とがつながり、その空間に民喜の居た気配が立ち上がって来るような、不思議な実感があった。微塵光となって、遺された言葉が降り注いでいる。空間を仄かに発光させている。そんな言葉を浴びる数時間だったように思う。


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by yumiko_aoki_4649 | 2017-05-09 21:41 | 随想 | Comments(0)

暁方ミセイさんのトーク&朗読を聞いて

 毎月第3木曜日のお昼休みに、獨協大学で行われる、ポエトリーリーディング。
 4月20日は暁方ミセイさんでした。ふわっとやわらかい、しかし芯のある語り口。右側は獨協大学の原先生。
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いずれユーチューブにアップされるとのことなので、詳細は省略しますが、お話を伺っていて面白いなあ、と思ったのは、散歩の時、通学途上など、「歩きながら」ふっと詩が浮かぶ・・・そんな暁さんの「詩」との出会い方でした。
 人の声がざわざわとしているような場所の方が、詩が浮かびやすいとのこと。
 人声が木々の葉のそよぎや風の息吹などに聞こえて来るような瞬間、あるいは逆に、草や葉のそよぎ、雲の流れ、ビルの間から吹いてくる風、そんな「わたしをとりまく世界」から吹き寄せて来るもの、やってくるものに「ことば」を感じる瞬間、暁方さんの中に「詩」の扉が開くのかもしれません。

 自分の肌の内側を流れている血が、自分を取り巻いている世界と混ざり合っていくような感じ・・・正確な表現ではないですが、暁方さんのお話を聞いていて、「詩」がやって来た時の「体感」は、そのような感じなのだ、と妙に納得しました。外部の自然と接している肌、体の境界線が、ふっと消えてしまうような感じ、とか・・・外を流れるものと内を流れるものとが一体化する、交感しあうような感じ、とか・・・肌の内側で、ざわざわと何かが疼くような感じ、とか・・・人によって、「詩」をとらえた瞬間の感覚は様々だと思いますが、暁方さんの体から目に見えない触覚が無数に伸びていて、それがゆらいだり震えたりする瞬間に、「詩」が来るのだ、そんな印象を受けました。

 詩を書き始めたきっかけを問われ、文筆で生きて行きたい、と思っていたけれど、そのためには小説やエッセイしか発表の方法がないと思っていた。
詩の投稿欄を教えられ、詩による発表の方法があるんだ、と知って投稿を始めた、それがきっかけだった、とのこと。そんな「きっかけ」で、いきなりあんなスゴイ詩を書けるの?と驚きました。
 もちろん、詩歌含め、文芸全般にもともと深く興味を持っておられたから、だとは思いますが・・・。(投稿欄、かなりのモチベーションになるようです。)

 たくさんの詩を朗読してくださいましたが、中央アジアを旅した時、目の前で(観光客向けに)生きた子羊を捌いて調理する、という出来事に遭遇した時に感じたこと、頭に浮かんだこと、心や体に訪れてきたもののこと・・・その時に生まれた詩を読んでいただいた時、体が熱くなるような体感がありました。
 死を悟っている羊が、最初は怯えているけれども、やがて・・・まるですべてを許すかのような目をして、じいっと周りを取り巻いている観光客を見る、じいっと、ゆっくり見て行く、それを「わたし」も見ている、視られている。そんな、いのちの瀬戸際の静けさに接しているような緊張感と虚脱感。その両方を、その場で(少しだけ、ですが)分かち合うことができた、そんな感覚が残りました。

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by yumiko_aoki_4649 | 2017-05-04 15:45 | 随想 | Comments(0)

うゆらら・・・私が「詩」と出会った頃

はじめて「詩」を書いたのはいつだったろう……1人で本を読めるようになったころ、『ねえ、おはなし よんで』という分厚い本の中に「まど・みちお」という不思議な名前の人をみつけた。その人の数行の文字列を、探しては繰り返し読んでいた。その時は「詩」という言葉も「詩人」という言葉も知らなかったけれど、作品としての詩との出会いは、きっとその頃だと思う。

住宅街から森を抜け畑を抜け、川を渡り……ようやくたどりつく小学校は、大人の足で40分、子供の足では2時間近くかかる遠路の果てにあった。(東京の東久留米市に生まれたが、3歳からは川越の郊外…霞が関カントリークラブの近郊に長いこと住んでいた。)白鷺が飛ぶ空の向こうに、秩父連山が青く望まれ、時には富士山も薄っすら姿を見せる。通学仲間といつのまにかはぐれてしまう極度にマイペースな子供にとって、それは想像力の森をくぐり抜ける豊かさに満ちた時間だった。私の「詩」との出会いは、あの通学路で既に準備されていたのかもしれない。

教科書を手に入れると、その日のうちに国語は全部読んでしまう、そんな本好きの子供にとって、「詩」は読むものではあっても、書くことなど思いもよらない、なにか特別なものだった。だから、授業で「詩」を書くことになった時は、本当に緊張した。10歳くらいの頃だったと思う。考えあぐねた末、「生命の門」という題で、一篇の詩を書いた。暗い灰色の空間に、ほのかに明るんでいるところがあって、その境目に虹色のチューブのような門がある。生き物はその向こうからやってきて、またその向こうに還って行く……絵も添えたかもしれない。先生にめちゃくちゃ褒められ、自分としては非常な居心地の悪さが残った。なぜならその「詩」は、当時夢中になって読んでいたミヒャエル・エンデの『はてしない物語』の中の、ウユララの門、という印象的なエピソードを、言葉に直したに過ぎなかったからだ。

ウユララとは、世界の真実を告げ知らせる巫女のような存在だが、声だけで実体を持たない。そのお告げ所に入るためには、現世の記憶を全て忘れなければならないので、大抵の者は何のためにウユララに逢いに行ったのかすら忘れてしまい、二度と戻ってくることができない。それでもなお強い念に引かれて、この世に戻って来られた者だけが、ウユララの声を人々に伝えることができる……大人になってから読み直していないので、当時の記憶のままに記しているのだが……そんな異界の声をこの世に連れて来る者、それが詩人であり、その声こそが「詩」なのだと、10歳の私が考えていたのか、どうか……定かならぬものの、今でも、たぶんそのあたりに「詩」が漂っている、ような気がしている。

『千年樹』69号エッセイ


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by yumiko_aoki_4649 | 2017-02-27 09:28 | 随想 | Comments(0)

スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ講演会感想

 『戦争は女の顔をしていない』『チェルノブイリの祈り』などの著者、スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチの講演を聴講した。易しい言葉ながら、静かに、重く、くっきりと胸に残る。身近な事柄や自身が見聞きした事から出発しているのに、時代や空間を俯瞰するような広大な視野へと広がって行く。走り書きのメモの域を出ないが、備忘録として記しておきたい。

 自己を消し、様々な声が交響する「場」を作り上げるようなあなたの文学は、どのようにして生まれて来たのか、という聞き手(小野正嗣氏)の問いへの返答の中で印象に残ったのは、祖母の話、あるいは語り方、だった。1948年生まれのスヴェトラーナが育ったベラルーシの農村地帯は、男たちの4人に1人が前線やパルチザンで命を落とし、女子供(と老人)ばかりの世界だったという。スヴェトラーナの祖母は、戦争中の悲惨な出来事を、比喩をもって語った・・・荒地を歩きながら、戦争が終わった時、ここにはたくさんの兵士たち(ドイツ兵やソ連兵の死体)が横たわっていた、だから、大地は今でも産むことを嫌がっているのだ、という風に、メタファーで語ったという。
 長い冬を、昔話や伝承を語り継ぐことを楽しみとして過ごしてきた文化が、背景にあるのかもしれない。スヴェトラーナの両親が教師であり、本に囲まれた環境にあった、ということも大いに影響しているとはいえ、他者の話を、想像力を豊かに働かせて聞き、自らの体験に同化させていく・・・そして、自らを器として他者の声を響かせる。そんなスヴェトラーナの文学的才の一端は、祖母や、その土地に古くから根付く「語りの文化」に醸造されたもののように思う。
 女たちに囲まれた中で、女たちから聴く「戦争」は、男たちがいかに英雄的に死んだか、ということではなく、いかに男たちとの時を過ごしたか、どのように戦地に送り出したか、そして、いかに男たちの帰りを待ちわびているか、という話ばかりだった、「女たちの話の内容が死についてではなく愛についてだった」「両手がなくても、両足がなくてもいいから帰ってきてほしい。私がこの腕に抱いて運ぶから」(ノーベル賞受賞記念講演録参照)という話も深く印象に残った。
 今日行われたアレクシェーヴィチの講演の中で、特に鮮烈だった部分を抜き出してみる。「男たちは〝戦争の文化″の人質になっている」「女たちはその文化(歴史)からは自由だ、肉体や宇宙、自然の中から語る」「男たちは人間の苦しみばかり語るが、女たちは鳥や獣、大地、小麦の苦しみをも語る」「自分は村で育った。村は、自然、全ての生き物と結びついている」「文学とは、いたみを語ること」などだろうか。メモによるもので、正確な再現ではないことを断った上で・・・人間らしく生きる、ということ、自然の一部としての人間であることを意識すること、それが自然に成されているのが、大地と共に生きて来た農婦たちであること、そんな確信に満ちた人間讃歌が背景にあることが、力強く伝わって来た。
 なぜ、「戦争」について書こうとしたのか・・・その応答の中で、自分が育った全体主義(ソ連時代)の世界は、「冷たいヒロイズム」の時代だった、という言葉が胸に刺さった。冷たい英雄主義・・・それは「人のいのちなど何の価値もない時代」「命をなにか大きなもの(理念、理想など)に捧げること、死に価値がある時代」だった、という言葉に、戦前のファシズム期の日本をどうしても重ねてしまう。あなたの本には、英雄が出てこない、なぜ、悲惨な死ばかり書くのか、と問われた、というアレクシェーヴィチの言葉、「小さな人」ばかりを書き続けた姿勢にも呼応している。
 「戦争」は、どれほど高邁な理念や理想を掲げたとしても、結局は「人殺し」であり、惨めで陰惨で吐き気をもよおすようなものであること・・・しかし同時に、死のドラマの中には人を引き込み、魅惑し、激しく情動を掻き立てるものがある、善なるものよりも、悪の方が芸術性が強い、文学としての魅力に満ちている、ということ・・・・武器は「美しい」、なぜそれを美しいと感じるのか。「死と美が隣り合っている、ということがしばしばある。(そのことに気付いたことが)私のトラウマでもある」という言葉・・・そうした冷静な自己分析と省察、文学者としての非情さのようなものがあって初めて、悲劇的な物語を聞き書きしながらも、その世界に飲み込まれたり埋もれたり流されたりせず、「記録」として残す、という行為を成し得たのだろう、と思う。
 聞き書きの際に重視していることは、自分が興味を持ったこと、なおかつ、既にジャーナリズムや文学書などに書かれたことではない、新しいことである、という。その際、時代の迷信や迷妄から自身を引き剥がすことが大切である、自分が語ること(創作の過程も含め)には実態がないとさえ思う、ジャーナリストはまず、謙虚であるべきだ、という言葉に、文学者としての矜持や聴き手としての真摯さが垣間見えた。
ロシア文化の中での「文学」の位置は、ドイツでの「音楽」、イタリアにおける「美術」のように中心的なものである、そして、それゆえに(言葉中心主義の文化であるゆえに)プロパガンダとして言葉が全体主義に利用された、という省察は、戦時中の日本にも通じるものがあると思う。
 ソヴィエト時代は「本」が世界の窓のような、唯一の情報源であった、それがペレストロイカ以降、「物」「商品」が「本」に取って代わった、「世界に裂け目ができ、物質的な世界から吹いてくる風に吹きさらされて生きるようになっていった」という言葉は、精神的なものが荒廃していく世相を冷静に見つめつつも、悔しさや憤りを暗に感じさせる。そして、世界がグローバル化し、「赤いユートピア」という理想も「涙の海」となって潰え、民主主義もいかに脆く、はかないものであるか、ということを露呈しつつある現在、複雑で困難な時代であるからこそ「知識人は一般の人達を勇気づけ、助けになるべき存在」「人々の諦めや、かつては充足であった「消費」にも満たされることのなくなった人々に対して、言葉の力で希望をもたらす存在」だという言葉が、まっすぐに打ち込まれた杭のように揺らぎないものとして輝いて見えた。
 アレクシェーヴィチの言葉を「崇拝」せよ、ということではない。だが、翻訳者が質疑応答の際に語ったこと・・・翻訳中に、右手が血でべたべたになっているような気がして、手が止まってしまったことがあった、という生々しさ、聴くことも、その中から「書くべきこと」「残すべきこと」を選び出し、記していく作業の困難さ、その困難を乗り越える精神力は、後の世に「記録」を遺さねばならない、という強い理念に支えられているものであろうし、『セカンドハンドの時代』を翻訳した沼野氏が語ったこと・・・死や絶望を描くことによって、逆説的に生や愛を、その讃歌になっている、という言葉が、アレクシェーヴィチの向かおうとしているところを示しているだろうと思う。
 フクシマに関して問われた時、数十年も続くカタストロフィーをどう語るのか、それは私にとっても大きな問題だ、と前置きした上で、今は理解できなくとも、それを記録していくことで後世の人が理解できるようになるかもしれない、と未来を見据えて語る姿に打たれた。今の自分の「仕事」を謙虚に、しかし誇りを持って受け止めている人の確信なのだと思う。充実した講演会だった。
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by yumiko_aoki_4649 | 2016-11-25 18:12 | 随想 | Comments(0)

たとえば 吉野弘 黒田三郎 まど・みちお・・・事実と真実

 吉野弘の「I was born」、完全なノンフィクションだとずっと思っていたのだが、吉野さんのエッセーによると、創作であるらしい。少年時代にI was bornという英文に引きとめられ、それが何かわからないまま大人になった、という「事実」と、図鑑で見た蜉蝣の卵、そこで見た生と死の鬩ぎ合う哀しさへの感動、という「事実」が、詩的真実の種、だったということになる。死を暗示する寺の境内、生を象徴する身重の女、そして、自分が生まれた事によって母が死んだ、という、伝聞によって知る「事実」。生と死、それを、自分をこの世に生み出した一人である父から聴く、というシチュエーションの設定。完璧なまでの情景の創作が、詩的真実をリアルに読者に届けるひとつの舞台となって、そこに詩が生まれたのだ。(吉野弘『現代詩入門』など)
 黒田三郎の「夕方の三十分」は、恐らく「事実」に基づく作品だろう。それでも、イメージの詩的誇張や言葉運びのリズム、場合によっては娘のユリの発言の前後を入れ替えたり、自分の言葉で補ったり言い換えたり・・・といった操作が行われているに相違ない。その行為は、「事実」を捻じ曲げる虚飾だろうか?いや、そのときの心情、関係性、思惟の真の姿を伝えるための「編集」であり、「デフォルメ」であり「加筆」「補筆」であるはずだ。黒田さんが感じ取り、伝えたい「詩的真実」を、もっとも効果的に伝えるための場の設定。そこに詩の生まれるフィールドがあり、そこで生動する詩情が「詩」を立ち上げる。
 まど・みちおの「地球の用事」を読むたび、透き通った赤い水滴が連なり、宇宙の果てから二重螺旋のように絡まりながら「わたし」の元にまでのびてくる空間的イメージに誘われる。まどさんが冒頭に置いた、赤いビーズ・・・これもまた、「事実」とは少し異なっている。仁丹を口に放り込んだ時、たまたまこぼれた一粒がころころと転がってこたつぶとんの窪みに落ち着いた・・・その様子を見ていたところからの発想だというから驚く。さらに、仁丹を赤いビーズに替えたのは「商品名になってしまうから」であり、「こどもらしいビーズ遊び」にした、という、気が抜けるような微笑ましい理由であるらしいが・・・まどさん自身が気づかぬうちに、命の滴、としての赤い透き通った一滴のイメージに魅かれて「詩」が紡がれていったのではないか、という気がしてならない。(阪田寛夫『まどさんのうた』より)
 いずれも著名な作品なので引用するまでもないが、便宜上、三者の詩をここに転載しておきたい。出典は童話屋のポケット文庫に拠った。

   I was born   吉野弘

 確か 英語を習い始めて間もない頃だ。
 或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。

 女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。

 女はゆき過ぎた。

 少年の思いは飛躍しやすい。その時 僕は〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
――やっぱり I was bornなんだね――
 父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
――I was bornさ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね――
 その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。 僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。 僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
――蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね――
 僕は父を見た。父は続けた。
――友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見るとその通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。つめたい光りの粒粒だったね。私が友人の方を振り向いて〈卵〉というと 彼も肯いて答えた。〈せつなげだね〉。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは――。

 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裏に灼きついたものがあった。
――ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体――。


   夕方の三十分   黒田三郎

コンロから御飯をおろす
卵を割ってかきまぜる
合間にウィスキイをひと口飲む
折紙で赤い鶴を折る
ネギを切る
一畳に足りない台所につっ立ったままで
夕方の三十分

僕は腕のいい女中で
酒飲みで
オトーチャマ
小さなユリの御機嫌とりまで
いっぺんにやらなきゃならん
半日他人の家で暮したので
小さなユリはいっぺんにいろんなことを言う

「ホンヨンデェ オトーチャマ」
「コノヒモホドイテェ オトーチャマ」
「ココハサミデキッテェ オトーチャマ」
卵焼をかえそうと
一心不乱のところに
あわててユリが駈けこんでくる
「オシッコデルノー オトーチャマ」

だんだん僕は不機嫌になってくる
味の素をひとさじ
フライパンをひとゆすり
ウィスキイをがぶりとひと口
だんだん小さなユリも不機嫌になってくる
「ハヤクココキッテヨォ オト―」
「ハヤクー」

癇癪もちの親爺が怒鳴る
「自分でしなさい 自分でェ」
癇癪もちの娘がやりかえす
「ヨッパライ グズ ジジイ」
親爺が怒って娘のお尻を叩く
小さなユリが泣く
大きな大きな声で泣く

それから
やがて
しずかで美しい時間が
やってくる
親爺は素直にやさしくなる
小さなユリも素直にやさしくなる
食卓に向い合ってふたり坐る


   地球の用事   まど・みちお

ビーズつなぎの 手から おちた
赤い ビーズ

指さきから ひざへ
ひざから ざぶとんへ
ざぶとんから たたみへ
ひくい ほうへ
ひくい ほうへと
かけて いって
たたみの すみの こげあなに
はいって とまった
いわれた とおりの 道を
ちゃんと かけて
いわれた とおりの ところへ
ちゃんと 来ました
と いうように
いま あんしんした 顔で
光って いる
ああ こんなに 小さな
ちびちゃんを
ここまで 走らせた
地球の 用事は
なんだったのだろう
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by yumiko_aoki_4649 | 2016-08-22 10:56 | 随想 | Comments(0)

好きな詩 ふたつ 吉野弘・伊東静雄より

 いつも、“お守り”のように大切に引き出しにしまっている一篇の詩がある。吉野弘さんの「一枚の絵」。
 恐らく、エッセー集からコピーしたものだろう、1978年12月と吉野さんの自注があるが、吉野さんのどの本で読んだのか、どうしても思い出せない。

 一枚の絵がある

 縦長の画面の下の部分で
 仰向けに寝ころんだ二、三歳の童児が
 手足をばたつかせ、泣きわめいている
 上から
 若い母親のほほえみが
 泣く子を見下ろしている
 泣いてはいるが、子供は
 母親の微笑を
 陽射しのように
 小さな全身で感じている

 「母子像」
 誰の手に成るものか不明
 人間を見守っている運命のごときものが
 最も心和んだときの手すさびに
 ふと、描いたものであろうか

 人は多分救いようのない生きもので
 その生涯は
 赦すことも赦されることも
 ともにふさわしくないのに
 この絵の中の子供は
 母なる人に
 ありのまま受け入れられている
 そして、母親は
 ほとんど気付かずに
 神の代りをつとめている
 このような稀有な一時期が
 身二つになった母子の間には
 甘やかな秘密のように
 ある

 そんなことを思わせる
 一枚の絵

 電車の中ですれちがった母子の景に心を動かされた吉野さんが、何度か改稿しながら得たという作品。読む、というよりも眺めていると、ラファエロの聖母子像が重なっていく。
 読み直すたびに、「上から」という言葉で切る吉野さんの繊細さに、はっとさせられる。電車の中で他者の眼を気にしながら、早く泣き止んでちょうだい、と幼子の意志を押しとどめようとする、社会人としての親の困惑と苛立ちが一瞬現れ、重なり……さらに、そんな自分に対する自制や自責の念がにじんでくる。その沈黙の時間と緊張感を生み出す切断、そのあとに続く空白。息を飲んで次の行に移ると、そこには上から“押さえつける”のではなく、あらゆるものを柔らかく包み込み、ありのままを赦してくれるような、春の陽射しのような「若い母親」の視線が、静かにあたりを満たしているのである。
 泣きわめくことを“赦す”まなざし。そんな一瞬が、間違いなく、確かに存在する、と高らかに宣言するような、「ある」という断固とした一節、その切り方、置き方、潔さにも強く惹かれる。ごく平凡な母子の情景が、いつのまにか人間そのものについて、さらに、人を見守るなにか大きな存在との関係へと展開していく見事さ。そして、初めてこの詩を読んだときのことを、かすかな痛みとほのかな色合いと共に思い出す。

 今から13年ほど前、かろうじて「児童館デビュー」と「公園デビュー」を果たしたものの、まだ「ママ友」との上手な付き合い方を推し量れぬまま、図書館に通っていた頃があった。帰りがけに児童コーナーに立ち寄ると、息子は決まって「のりもの」の棚から『しょうぼうじどうしゃ じぷた』を抜き出し、黙って私の前に差し出す。「そんなに好きなら、この本、買ってあげようか?」と聞くと、息子は黙って首を横に振る。それはまるで、毎日繰り返される儀式のような行為だった。
 児童コーナーの絨毯の上で、息子にだけ聞こえる声で、「じぷた」の物語を読む。僕なんか、なんの役に立つんだろう、と落ち込んでいる、小さな小さな消防自動車のお話。ジープを改良した「じぷた」は、町の建物が火事の際にもまるで役に立たない。出動の際にはいつもポツンと消防署に残されてしまう。大きな消防自動車が胸を張って帰ってくるたびに、肩身の狭い想いをしていた「じぷた」だが、ある日、山小屋が火事にみまわれ緊急出動、他の消防車が入れない山道を駆け上り、大活躍するのだ。絵本を閉じると、息子はすっきりした顔をして、自分で次の本を探しに行き、黙って広げて読み始める。その様子を視野の隅におさめながら、私も自分の本を探す。そんなとき、決まって手に取るのは詩集や、詩人たちの書いたエッセー集だった。
 もうすぐ四歳になるというのに、息子は二語文を話せなかった。砂場や遊技場で、スコップやブロックなどのおもちゃを取られても、まったく怒ろうとしない。集団お遊戯の時間になると、ふっとその場を離れて、一人で何事かを始めてしまう。若い保健婦に「言語療法士」を紹介されたり、児童館の職員に発達障害に関する書籍を読むように勧められたりするたびに、笑顔で断りながらも、内心では焦りや苛立ちを覚えていた。子供には、蘭のように育てるのが難しい子供と、タンポポのように容易い子がいる、そんな話を拾い読みしたり、言葉遊びの本を、必死に暗唱させようとしたり……今となっては笑い種だが、当時の私は、軽いノイローゼに陥りかけていたのかもしれない。
 そんなとき、吉野さんの詩が、まるで陽射しのように私を暖めてくれたのだった。初めてこの詩を読んだとき、詩を読んでいる空間が、はちみつ色の光に満たされているような気がしたことをはっきりと覚えている。色を持った詩、というものが、確かにあるのだ。
 私と息子との間にも、そのような瞬間が、ある、かもしれない。いや、今までもあった、ただ、単に忘れているだけだ。そう思わせられるだけでなく……この幼子のように泣きわめいている内面の私自身を、新米の「若い母親」であるもう一人の私が、それでいいのよ、とほほえみながら見下ろしているような、そんな不思議な、自己分離の感覚にうたれた。そのページをコピーし、大事に折りたたんで、息子の着替えやオムツ、弁当の入った大きなトートバッグにしまい……鼻歌を歌いながらベビーカーを押して帰った。道端のイチョウ並木の黄葉が、昨日までは寒色系の緑色をおびた寂しい色だったのに、その日はオレンジ色をおびた金色となって、ひらひら、小鳥のように舞っていた。晶子の記した通りに。

 縁に恵まれてごく普通に結婚し、一人目の子を出産し、二人目を身籠り……当時の私は、大学で美術史を学んだものの、取り立てて将来の展望というものも持ちえないまま、それなりに楽しく忙しく日々を過ごす専業主婦となっていた。自分の将来のことは、子育てが落ち着いてから改めて考えよう、そう、心の底で自分自身に言い聞かせながら、実際には、研究者の道を選んだ同期の学友たちが次々と論文を発表していくのを、焦燥感と孤立感とがないまぜになった感情で眺めていたように思う。息子が「じぷた」の物語を持ってくるたび、それを私自身の物語としても読んでいたのかもしれない。
 息子も既に高校2年生。今では、当時のことはすっかり笑い話となった。パワーポイントを駆使して科学の授業用のプレゼンテーション資料などを作成する、快活でお人よしの、ごく平凡な人懐っこい少年。小学六年生までおねしょと縁が切れなかったから(ホルモン異常や内臓疾患を疑い、入院させてまで検査したことがある)、単に他の子よりも発達のスピードが遅かったに過ぎないのだろう。
 義父母と同居だったので、あ~とか、う~と言えば「あっちに行きたいのか?」「あら、お茶がほしいのね」と、意志疎通にまったく不自由しなかった。そのことも、言葉を発する遅さにつながっていたのだと思う。息子は、いわゆる喃語を話すことは一切なく、いきなり文章を話し出して周囲を驚かせた。
 言葉によるコミュニケーションは、意志を伝えたい、という強い欲求が無ければ、生まれないものなのだろう。大人四人に囲まれる生活と、大きなポンプ車やハシゴ車、大型救急車に囲まれた、小さな小さな消防自動車の話とのアナロジー。息子は子供ながらに母親の焦りや苛立ちを敏感に感じ取り、自分を重ねていたのかもしれない。
 そんなタイミングで出会ったからこそ、この一篇の詩が、はちみつ色の光と共に私の記憶に刻まれることになったのだと思う。詩は、出会うべき時というものがあり、その「時」になると、自然に目の前に現れてくるものなのだ。新川和江さんの「私を束ねないで」も、学校の授業などでも何度も読んでいるはずだが、私の心に楔を打つように飛び込んできたのは、私が35歳を過ぎ、それでもなお、一生を賭して悔いないもの、がまだ見つからない、という焦りに追われている時だった。二人の子供の幼稚園の同級生ママと、「三原色によるお絵描きの会」を立ち上げ、画用紙は心の運動場です、と威勢のよいキャッチコピーを掲げて子供たちの生み出す多種多様な造形や色彩に瞠目し、展覧会や写生会を楽しみつつも、いつか子供たちは、私のもとから離れていく。その時、お前はどうするのかという問いが、空が菫色に暮れてくるたびに夕方の鐘のように鳴り響いていた。
 図書館に子供たちの展覧会のチラシを配りに行った帰り道、いつものように立ち寄った詩集の棚で、「私を束ねないで」に出会った。涙があふれて止まらなかった。調べてみたら、新川さんがこの詩を書かれたのは、当時の私と同じ、37歳の時だった。心が震えた。平易な詩であればあるほど、その奥行きにたどり着くには、それなりの心構えも体験も必要なのかもしれない。新川さんの言葉にエネルギーをもらいながら、学生時代にリルケを教えて下さった先生が思索のための詩作、と称してソネットを連作しておられたことを思い出し、見よう見まねで詩、らしきものを書きだした。その時は、いずれ子供たちには見せるかもしれない、とは思っていたものの、他の誰かに見せよう、などとは、まったく思いもしなかった。大震災が起きた、2011年までは……。
 困惑している、ある日、ある時の、誰かの心に響く。それが、詩の役割なのかもしれない。私が、ふわっと心を暖めてもらったように、私の書くものが、いつか、誰かの心に届くことがあればいい。そんなことを思うようになった頃に出会った一篇の詩がある。伊東静雄の「夕映」。この詩も、はちみつ色の光に満たされている。私の、もう一つのはちみつ色の記憶である。

 わが窓にとどく夕映(ゆうばえ)は
 村の十字路とそのほとりの
 小さい石の祠(ほこら)の上に一際かがやく
 そしてこのひとときを其処にむれる
 幼い者らと
 白いどくだみの花が
 明るいひかりの中にある
 首のとれたあの石像と殆ど同じ背丈の子らの群
 けふもかれらの或る者は
 地蔵の足許に野の花をならべ
 或る者は形ばかりに刻まれたその肩や手を
 つついたり擦つたりして遊んでゐるのだ
 めいめいの家族の目から放たれて
 あそこに行はれる日々のかはいい祝祭
 そしてわたしもまた
 夕(ゆふ)毎(ごと)にやつと活計(かっけい)からのがれて
 この窓べに文字をつづる
 ねがはくはこのわが行ひも
 ああせめてはあのやうな小さい祝祭であれよ
 仮令(たとい)それが痛みからのものであつても
 また悔いと実りのない憧れからの
 たつたひとりのものであつたにしても
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by yumiko_aoki_4649 | 2016-07-25 09:14 | 随想 | Comments(0)

知覧に行ってきました。

知覧は、「散華」された青年たちと同数の石灯籠を建てよう、ということから始まった様々な灯籠が、道の両脇にびっしり並んでいて、町全体が参道のようだった。
祈りの場所、忘れないための場所、二度と繰り返させない、為に、決意を新たにする場所。そして、自らを犠牲にして逝った青年たちに、平和を守り抜く、と誓うための場所。

戦闘機は、予想外に大きく、そして、驚くほど薄く、ペラペラと言ってもいい金属で機体が作られていた。軽さと速さ、性能だけを追求した戦闘機。燃料タンクの代わりに、爆弾を積めばいい、などと、どうして「思いつく」ことが出来たのだろう。机上でゲームのように駒を動かして「作戦」を練る、そんな意識で戦争に突入したのではないか・・・。「亜細亜」を、西欧列強の侵略から護る、という「大義」を信じ、あるいは信じさせられていたことの怖ろしさ。実際に「解放」という結果をもたらしたとしても、それが新たな侵略ではない、と言い切る根拠は、いったいどこにあるのだろう。

兵士たちの遺書の、文字の美しさ、教養の高さに圧倒された。あの年齢で、という驚き。これだけ優秀な若者が、「選ばれて」死地に赴いた(行かされた)ということ・・・。優秀「だから」死なせたら惜しい、ということではない。しかし、未来の日本を支え、築き、盛り立てていくはずの有為の青年たちが、その才能を花開かせることはなかった、ということ、その重さを、永遠に語り継いでいかねばならない、と思う。

出撃していった青年たちの「遺書」は、最初の内は父母や親しい女性にあてた手紙など、どこか人間的なぬくもりを持った「決死の覚悟」の表明が多かったように思う。それが次第に、大君の為に、とか、神と成りて皇国を護らん、といった文言が増えて来る。家族への「想い」や「ふるさと」への「想い」などが、むしろ剥奪されていくような、「おもい」が封殺されて、「意志」「決意」へと置き換えられていくような寒々しさを感じた。
右翼のロマン主義者が「家族のため」「恋人のため」「故郷を護るため」俺は死にに行くのだ、というような「英雄的な死」として「特攻作戦」を描こうとするが、そんな甘美さを、少なくとも私は、一切感じることが出来なかった。

一番純粋で信じやすい時期に「洗脳」されて、人間兵器として派遣されていった・・・その非人道性が辛い。

亡くなった青年たちが、真剣に国を思い、決死の覚悟で出撃していったことに、深く敬意を表する。彼らの犠牲の上に、現在の平和が守られていることに、感謝の念を捧げる。だが、何よりも天上の彼らに対する慰霊は、二度と繰り返さない、繰り返させない、と誓う事なのではないか。

青年たちが遺した文字の美しさ、健気さ、秘められた思いを、多くの人に肉眼で見てもらいたい。そして、彼らを追い込んでいった「戦争」というものそれ自体について、考えてほしい、と思う。私も、考え続けたい。
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by yumiko_aoki_4649 | 2015-11-12 08:36 | 随想 | Comments(0)

いつも、この時期に咲くさくら

今年も我が家の鉢植えの桜が咲きました。
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二年前も、三年前も。
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変えて行かねばならないこと、変えてはいけないこと。変わらないていてほしいこと。

いろいろな思いにかられる春です。
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by yumiko_aoki_4649 | 2014-03-12 10:15 | 随想 | Comments(0)

夢という名の椿

夢、という名の椿が、今年も咲きました。
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数年前に、名前と写真に惹かれて購入したものの、すぐに葉が黄ばみ、ぽろぽろと散り始めました。
気になって鉢から抜いて調べてみると、毛根の先に粒状の塊りがいくつも出来ています。
調べたら、ウイルス性の根頭癌腫病、の可能性が高い。
治療法はないので、土ごと焼却するのが望ましい、とありました。

ショックでした。なんとかならないか、と思い切って「手術」を試みることにしました。
葉の黄ばんでいない枝は一本しかなかったので、その枝のみ残し、主幹ごと切り落としました。
根も、半分以下に切り詰め、残った枝に近い数本のみを残す、という荒療治でした。

その後、バーミキュライトと焼き赤玉土で養生させ、翌年からは燻炭や腐葉土を混ぜた土に植え替え、
大切に育てました。三年目に、ようやく花を一輪付けました。そしてまた、今年も一輪。

昼間はカラリと開いて、夜はしぼみます。この写真は、朝、これから開こうとしているところ。

待つこと。あきらめないこと。信じること。夢、を育てるのは、なかなか大変です。
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by yumiko_aoki_4649 | 2013-12-18 17:18 | 随想 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by yumiko
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