Yumiko's poetic world

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カテゴリ:随想( 18 )

ほのめかすこと

たとえば、月を描かずに、月を指差す行為、で月を暗示する仙厓の禅画。
翻る葉の動きで風を示す抱一の大和絵。

対象を直接描かずに、影や気配、対象を見る人、風の痕跡、名残りなどでほのめかすこと。家、のイメージ
心、のイメージ。夢の宿る場所、魂の居場所。

描くことも書くことも、対象を直接かき表すことが出来なくとも、ほのめかすことはできる。直截な表現は、 その表現以上の感興を見る者に引き起こさない。暗示されたものは、見る者の心に届いた時、見る者の心の底に眠っていたイメージまでをも引き出し、表現者の観たイメージに、さらに多角的な側面を与える。

恐らく、万人が共通の基盤として「持っている」あるいは「受け継いでいる」イメージ、というものが、心の底に横たわっているのだ。個々人の心は、矮小なのぞき穴に過ぎないが、その小さなのぞき窓に釣竿を垂れ、共通の基盤のごく一部を釣竿にかけることの出来た者が、小さなのぞき穴から普遍的なもの(の片鱗)を引き出すことが出来る。

できるだけ多くの人が、それぞれののぞき窓から共通の基盤を見つめ、それを世界中の至る所でたゆむことなく引き上げ続ければ、一瞬かいま見えた断片の集合が、共通の基盤のミニチュアの模式図、あるいは一部を取り出した標本として、把握できない「全体」を暗示するものとなるだろう。点描によって示された輪郭線のように。

描くことも書くことも、その断片を暗示する媒体として機能するならば、人類共通の古層の漠然とした全体像を浮かび上がらせることができる。
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by yumiko_aoki_4649 | 2013-07-07 21:12 | 随想 | Comments(0)

角野栄子さん講演会

 久が原図書館でJBBY主催の講演会があった。講師は角野栄子さん。何が何でも聞きに行かねばならない。
 森の中で童話の主人公がかくれんぼしているような、夢のある模様でありながら、甘くなり過ぎないスタイリッシュな茶と水色のニットに、赤の差し色を利かせた角野さんは、上品でおしゃれで、なおかつ気さくな、「雰囲気の良い」方だった。明確な発音、美しいアルトの声、穏やかに語りかけるような調子。理路整然と語りながら、学者のような硬さは皆無で、小学生の子どもでも理解できるような言葉を自然に選んで話されている。そんな印象を受けた。
 内容ももちろん素晴らしかった。一人の女性であると同時に魔女でもあるキキの物語、全6冊を、24年間かけて完成させた、という。いわば角野さんのライフワークのお話が中心であったが、物語の創造すべてに関わる「たいせつなこと」、角野さんが“物語の神様”から教わったことのエッセンスが、語りの向こう側に垣間見えるような気がした。
 物語の主人公たちは、「つくりだした」もの、というよりは、「むこうがわ」からやってきて角野さんと「出会った」という感覚の中で生み出されるのだ、という。たとえば魔女のキキは、お嬢さんがいたずら描きのようにして描いた、ラジオをぶらさげて飛ぶ魔女の絵から発想を得たとのこと。私も空を飛んでみたい、という若いころからの夢、自由に冒険してみたい、という誰もが抱く夢を、主人公に託して実現させたい、という作者としての想い。何百歳も年を取った魔女の話は書いている人がいるけれど、13歳(という大人と子供の境い目)の魔女を描いた人はまだいない、という、書き手としての矜持。子どもが実際に社会の中で経済的に自立しうるかと、主人公と共に悩み、工夫し、解決していく作者の姿。
 現代に魔女の物語は成立するか、という、物語としてのリアリティーへの目配りも、具体的で面白かった。魔女と人間との「ハーフ」だったらあり得るかもしれない、という発想。現代だからこそ、魔女になるかならないかは自分で決めさせてあげたい、という、広げていけば女性や子供の人権にまで広がる社会的な視点。魔法は一つだけにしたい、なんでも魔法で解決してしまう、というのは安易だしリアリティーに欠ける、一つしか使えなければ、その分工夫することになるだろう・・・という条件の設定方法。
 「普通」と違う、ということは、誰にとってもプライドであると同時にコンプレックスであるだろう。その両面を意識した主人公が、1年間、自分の力で生きていく話にしよう、という、心理学的な深みにまで至る物語の構想。「普通」の人以上に敏感で鋭敏で、夢想の力も強かった子どもであり、そのことにコンプレックスとプライドの双方を怜悧に感じ取っていたであろう角野さん自身の姿が、キキに重なって見えてくるような気もした。
 くらやみ、に対する感性も興味深かった。昔は夜になるとそこいらじゅうに「暗闇」があった。そして、子どもの感性は、その「暗闇」の中に、「なにか」が蠢いているのを敏感に感じ取った。それは、「不思議」がそこにある、ということを感じ取る機会でもあったろう。(角野さんは、不思議、という言葉を、言葉本来の意味での用法、思議/人間の理解、を越えたもの、という意味で使用しておられるように感じた)
 文明が発達すると同時に、明るさ、という表層的な面においても、科学の発達、という内在的な面においても「不思議」が消えていく。様々なことを感じたり、考えたりする「静けさ」もまた、消えていく。角野さんの描き出す魔女、の役目は、「不思議」がこの世にあるんだよ、ということを伝え知らせることではないか、という言葉に、物語作者の在り様そのもの、存在意義に対する思想まで含まれているように感じた。
 魔女のキキ、が「生まれた」後に、魔女のことを調査することになったお話も興味深かった。魔女が古来女性であったのは、医療の未発達の時代に、自分の子どもを何が何でも助けたい、という、母親としての想いが、知識と経験の累積を生んだのではないか、ということ。人類学的な部分にまで広げれば、「復活」を祈るアニミズムにつながるであろう、ということ。ヨーロッパ、とくにドイツや東欧では、魔女、とは、垣根の上、城壁の上にいる人、というのが本義であった、ということ。そこから敷衍して、「くらやみ」と「あかり」の世界、見える世界と見えない世界、野蛮と文明、感性と理性の境界上で、その両方を見ることの出来る存在が魔女、だったのではないか・・・お話を聞きながら、角野さんご自身が「魔女」そのものだ!という気がした。
 物語は、見えない世界で「出会ったもの」を見える世界に引っ張り出してくること、だという。人の気持ちは「見えない世界」に属している。行為や言葉が、それを見えるもの、にする。「境い目に居る時、人は生き生きする」という言葉が、とりわけ印象に残った。想像、空想によってしか「見えない」世界と、今「見えている」世界との境い目。そこに立つ、ということ。
 「本の表紙を開けると、とびら、と呼ばれるものがありますね。扉を開けて、見えない世界に、私たちは家出するんです」微笑みながら話される角野さんの言葉を聞きながら、見えない世界と見える世界を自在に飛び越え「本の扉」という私たちにも自由に出入りできる「とびら」を用意してくださった練達の魔女角野さんに、深く感謝を申し述べたい。
 ステキな講演会を企画してくださった、JBBYのスタッフの方々と久が原図書館の方々にも・・・。
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by yumiko_aoki_4649 | 2013-03-09 10:10 | 随想 | Comments(2)

小林秀雄再考

大学入試センター試験、国語の平均点が大きく下がった、という。
小林秀雄が難解かどうか、それは好むか好まざるか、という審美眼の問題にも関わるだろうけれども、
彼のように直観的に物事を感得し、それを散文詩のような飛躍した形態で提出する作家の文体は、
点数をつけなければならない試験には本来不向きであろう、と思う。
小林秀雄の文章を読み、思うところを述べよ、という小論文の設問ならまだしも・・・

行間に余情や言葉にならざる情緒が潜む。その広がりの大きさは、言葉の飛躍に比例する。
それは、漢文を読みなれていた戦前の文学者たちには容易に越えられる距離かもしれないが、
現代の若者には千尋の谷より広い懸隔なのではないか。
あるいは・・・一つの文章に、おおよそ正しい解釈、というものが一つ対応する、
そんな試験用の文章を読みなれた者にとっては、多種多様の解釈をゆるし、
しかも一つの情緒に収斂していく、というような直観的な彼の文体は、読解不能であるかもしれない。
読み解く、のではなく、感じて、それを言葉で語る、のであるから。

残念なことだが、言わずともわかることを解説するのは無粋、というような、
ある種高踏派的な矜持はこの際脇において、様々な分野の「有識者」が、
それぞれ小林秀雄を読む、というような形でそれぞれの「卓見」を披露する文集のようなものが
あれば楽しい、と思う。おそらく、一つのテキストが、多種多様の展開を見せるだろう。
小林秀雄の文章は、それを読むひとりひとりに、それぞれ別箇の詩情をもった世界を開くであろうから。
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by yumiko_aoki_4649 | 2013-01-24 14:49 | 随想 | Comments(0)

轡田隆史先生の文章講座

 轡田隆史先生の文章一日講座(朝日カルチャーセンター新宿校)を受講しました。三月の講座に引き続き、
二度目の受講です。

 ユーモアに満ちた語り口に笑いを誘われつつも、随所にちりばめられた卓見を聞き逃すまい、と思わず
身を乗り出してしまいます。リラックスしながらも、なおかつ適度な緊張に満ちた、充実した二時間でした。

 印象に残ったのは、「ものごと」と「自分」との関わりを、いかにして「切実な体験」へと昇華させていくか
という課題を自らに課し、それを楽しみながら実践しておられる轡田氏の「方法」の数々でした。

 「他者」や「物事」、「場所」と関係を持つ、ということは、意識しなければ「通りすがり」の、自分にとってなんら意味を持たない対象として過ぎ去ってしまうであろうはずのものを、あえて自分にとって「かけがえの
ないもの」「感動や感興を呼び覚ます対象」として自らに引き寄せ、自らの記憶、体験、として記憶していく
ことであるはず。それを、黙って待っているのではなくて、積極的に関係を作り出しましょう。
あるシチュエーションに自らを置いて、その際に「どんな気分」が生じるか、その未知を、わくわくしながら
待ちかまえましょう。やってみなきゃわからない。行ってみなきゃわからない。わからないことを、わからない
ままに面白がっちゃう、そんな余裕が、人生を豊かにするんですよ。その為に、僕はたとえばこんなことを
やっています、こんな方法もいいですね、と、具体的な方策を例に挙げて、わかりやすく、正直に、熱心に
伝えてくださる、そんな講義だったように思います。
 氏の具体的な実践の数々は、実際に轡田氏の講義を聴講するなり、著作を読んでいただくのが一番
なので、ここではご紹介しませんが、漫然と過ごしていれば忘れ去られてしまう記憶、無かったことに
なってしまう「時間」を、明らかに在ったものとして自らの心に、そして他者の心に記録していくことが
文章を書く最大の効用である。それは人生をより深く、より濃く味わい深いものにする実践である。
その素晴らしさに気づいてもらいたいから、僕は誰にでもできる方法を探究し、提案しているんですよ。
・・・そんな轡田氏の生き生きとした情熱を、間近で感じることができました。

 特に印象に残ったのは、自分自身を「演出」する気分で、という言葉。行動する自分(肉体)と、それを
命じたり観察したりする自分(精神)、その両者が明晰に意識されているのです。自分(肉体)を「感動」が
引き起こされるであろう場に「持っていく」。ただその場に「置く」のではなく、何らかのアクションを課し、
その結果、自分(肉体)の中に起こる様々な情動を観察する。まずはそれが第一段階。その感動を他者に
伝えたい!と思ったとき、それが自然に言葉になる。文章を書く、ということは、そういうことでしょう・・・
 
 関係を「取り結ぶ」「切り結ぶ」という厳しい語感の言葉が、さりげない調子で現れることにも驚きを覚え
ました。自分と「自分を取り巻く世界」との関係に常に真剣勝負で向き合っていなければ、こんな言葉は
思い浮かばないのではないでしょうか。その「感動」を伝えるために、いかなる創意工夫をするか。
そのために本を読む。様々な名文に触れ、時には表現を借り、他の人にわかりやすく伝わるよう心を砕く。
その苦労と達成感が、いわば文章を書く、ということの醍醐味なのでしょう。
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 絶え間なく問い続けること、それが生きるということではないでしょうか、と講義を締めくくられたのですが
問う、という積極性、能動性こそが、氏の生き方そのもののように感じました。
 聴く、感受する、という受動的な方法に徹する生き方もあるでしょう。でも、待っているのではなく、自分から出かけて行った方が、「関係」の生じる確率が高まります。もちろん、傷つく可能性が高まる、ということでもあるけれども・・・。問いかけること、自ら飛び込むことによって、「関係」を作り出す。その「関係」によって生じた「個人的な体験」を、良きにつけ悪しきにつけ、他者に伝えるときに必要となるのが「言葉」。
 講義後の雑談の際、「言葉は、親にもらったものでしょう」と何気なくつぶやかれたことも、強く印象に
残りました。言葉は、父祖伝来のもの、一つの民族の歴史と文化を担うもの、一個人の私物ではない、
という、言葉に対する明確な意識が背後に感じられたからです。 
 意識して「書こう」とするだけで、人生が味わい深くなる。書くことによって、今の自分が見えてくる。
そんな轡田先生の言葉を実践していくためにも、自分のペースで書き続けたい、そう思いました。
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by yumiko_aoki_4649 | 2012-09-16 23:56 | 随想 | Comments(0)

山本 美香さんのこと

ジャーナリスト山本美香さんの訃報に、どうして・・・と絶句。予測できないのが戦場とはいえ、もどかしさや無念さばかりがつのります。
思い出した詩があります。谷川俊太郎作、千羽鶴(『生きていてほしいんです』所収)

感傷の糸につながれて
鳴かず
飛ばず
ただそよかぜにゆれて―
あまりにはかない祈りのかたち
千人針を縫った手が
性こりもなく千羽鶴を折る
ああもどかしい日本!
千羽は無力万羽も無力
あの巨大な悪の不死鳥と戦うには

もう折るな不妊の鶴は
祈るだけでは足りない
誓うだけでは足りない

・・・そして、「伝えずにはいられない」と「行動」した山本さんが、凶弾の犠牲になってしまった。
「悪の不死鳥」によって故郷を戦場にされた人々の想いを、現状を、特に女性や子供たちの状況を伝えなければならない、と山本さんは決意しておられたのでしょう。折る、と祈る、という文字が、同じかたちに見えてくるのが切ない。
ロバート・キャパの自伝を読んだ折に、自分の両脇に居た兵士が死んだ、という極限状況を、淡々と記しているのに仰天しましたが・・・山本さんのお父様が、「素晴らしいジャーナリストでした」とコメントしておられたのが、痛みとなって胸に残りました。

戦争は、「人と人とのいさかい」から始まるのでしょうか。武器商人や、土地や市場を狙う資本家たち、思想や宗教にかこつけて権力を欲する支配者たち、体面を守り、自分の利益を守ることに汲々とする指導者たちが、戦争を利用して自分の欲を満たそうとしているようにしか思えません。

平和な日本に暮らしているとだんだん感覚がマヒしてきますが、世界のあちらこちらで未だに戦争が続いている、という現実を、しっかり受け止められる子どもに育ってほしい。・・・と思うと同時に、危険な目に合わせたくはない、という自分勝手な願いも抱いてしまいます。山本さんのご両親の無念は、いかばかりか・・・

彼女の伝えたかったことを、子どもたちに伝えていくことこそが「冥福を祈る」行為だと思います。
金銭や欲得に流されることなく、正義、という相対的かつ人工的な「ただしさ」に惑わされることなく、平和を強く願う子に育ってほしい。まずは山本さんの書いた本を読むところから・・・。d0264981_2254889.jpg
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by yumiko_aoki_4649 | 2012-08-26 22:11 | 随想 | Comments(0)

またイジメのニュースです

 テレビの報道で、中学二年の少年が命を絶ったことを知りました。
 なぜ、イジメが起きるのでしょう。報道を見ている限りの私見ですが、先生や学校側の黙殺が、イジメを助長し、周囲の子どもたちを沈黙させ、少年を追い込んで行った様子が見えてきて、胸が痛くなります。
 私が五年生の時、○○菌が付いた~と、○○さんが触れた机や椅子に触らない、というような「イジメ」がありました。最初は鬼ごっこの延長のような、本当に他愛無いものでしたが、いつでも○○さんだけが「鬼」にさせられるのは、やはりおかしい、と感じました。そこで、「触らない側」から離れ、○○さんと一緒にいるようにしたとたん、「点取り虫」やら「(いいこ)ぶりっ子」などと言われ、私もクラス全体から「シカト」されたり、日記を盗まれて回し読みされたりしました。自分が「からかっている側」にいる間は、大したことだとは感じない。でも、「集団にからかわれる少数者」になったとたん、孤独感と絶望感に打ちのめされそうになりました。当時、急性胃炎になって内科医を受診したのですが、先生は聞き上手で、親にも先生にも話せなかったクラスの状況を、その内科医の女医さんにだけは話すことができました。そして、話しただけで、たいした薬も飲まないで「病気」は治ってしまったのでした。その後、担任の先生に勇気を持って打ち明け、先生が上手にフォローしてくれて、集団イジメというか「集団によるからかい」は消えていきました。
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 子どもの心は善でも悪でもない。同じ感情が、他者に対する尊敬や憧憬になったり、ねたみやそねみになったりします。自分自身に自信や誇りを持っている子ども、あるいは、将来に対して何らかの希望を抱いている子どもは、素直に他者を認め、自分も頑張ろう、と前向きになれる。でも、将来に対して希望を持てない子どもは、卑屈になり、他者を攻撃することで腹いせや八つ当たりをしたりする。そんなことから、イジメが始まるのではないでしょうか。
 他者の立場になって感じたり考えたりする「想像力」も、イジメをなくしていくためには大切でしょう。
 子どもたちが希望を持てること。自分に自信を持てること。他者の感情を想像する心の豊かさを持つこと。自分の行為が、「からかい」であるのか、「イジメ」であるのか、自己判断できる良心を持つこと。
 絵本や童話は、子どもの心に一番近いメディアです。子どもたちが自分の心を見つめ直すことができるような上質なものが、子どもたちの身近にあることを願ってやみません


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by yumiko_aoki_4649 | 2012-07-05 09:12 | 随想 | Comments(0)

星の王子様

 『星の王子さま』の原題は“Le Petit Prince”。星の、というコトバはありません。内藤濯氏の、まさに超訳。生前の内藤先生を知る方から、「人は誰でも自分の心の中に学校を持っている」という珠玉の言葉を教わりました。含蓄があります。
 子どもの頃は、様々な星をめぐってきた王子と、地球人との対話、という表のストーリーしか読むことができませんでした。終わり方も不可解。なぞばかりが残る厄介な本でした。でも、大人になって読み直して、王子と王子が愛した薔薇との、切ないまでの行き違いが、胸に迫ってくることに気が付きました。
 王子を愛しながら、それを素直に表現できない薔薇。自分は動くことができず、人間になって王子に近づくこともできない、そんなもどかしさが、薔薇のわがままを加速させたのかもしれません。薔薇に振り回された挙句、薔薇の気持ちを読み取れないまま自分の「ふるさと」をすら捨てて、逃げ出そうとする王子。薔薇のそばを離れて初めて、自分の星の素晴らしさや薔薇の想いの深さに気づくのです。
 自分の星を守るために、バオバブをヒツジに食べさせたい、という王子のセリフも、象徴的です。ヒツジはイエス・キリストを連想させます。星をめちゃくちゃにする、虚栄の大木を、まだ小さな内にヒツジに食べさせたい、という作者の願いでしょうか。でも、そのヒツジが「愛する薔薇」を食べてしまったらどうしよう、と、また小さな王子は思い悩みます。
d0264981_16222940.jpg王子の住んでいた小さな星、は、いったいどこにあるのでしょう。誰もが心の中に持っている、自分だけの領域のような気がしてなりません。
 こどものまなざしで「世間」や「社会」を見るとき、私たちは王子と同じ小さな星の上に立って、地球の上の出来事を驚きの目で見ることができるのかもしれません。
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by yumiko_aoki_4649 | 2012-06-28 16:26 | 随想 | Comments(0)

沖縄全戦没者追悼式に思う

金城さんの素晴らしい詩を聞いて、青い海の底からすくいあげた「声」を、白い砂浜にそっと置いていく、そんな印象を受けました。・・・失われた声を汲み取り、代弁し、引き継いでいく、という新たな決意とともに若者の志を提示する、金城さんの美しい言葉の後に続いた野田総理の言葉が、白々しく色あせて聞こえました。
「声」に耳を澄ますこと。聞く心を持つこと。今の、そしてこれからの私たちの、共通の課題です。d0264981_14503830.jpg
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by yumiko_aoki_4649 | 2012-06-23 14:52 | 随想 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
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