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カテゴリ:伊東静雄( 11 )

伊東静雄ノート 9

前回、エクスカーション的に伊東静雄と妻の花子との関係を中心に考えたのだが、予想外に多方面の方から反響をいただいたことに、正直、驚いている。静雄の精神的次元における高次の愛・・・諸般の事情によって悲恋に終わらざるをえなかった、その愛を捧げる対象としての「わがひと」、その美しき幻影に向かって詩を綴る高踏派の詩人――いわゆる、「哀歌神話」。いまもなお、「伊東静雄」という詩人、とりわけ第一詩集の『わがひとに與ふる哀歌』に関しては、そうしたロマンチックな色合いのようなものが纏いついているらしい。たしかに、作品そのものから立ち上って来る「香り」には、寒蘭のような清楚で凛としたイメージと、硬玉を断ち割ったような鋭利な輝きがある。

「わがひと」とは誰か。研究史を辿ると、静雄の「初恋の女性」、たとえば酒井百合子である、と断定するものから、静雄自身の精神的半身、抽象的、観念的存在と解釈するものまで、様々な振幅を持っているが、鑑賞記にまで視野を広げると、伊東静雄に禁欲的なインテリ詩人、プラトニックな愛を夢想するロマンチスト・・・そんな面影を重ねているものが多いように思われる。いわく、内向的で、女性への熱い想いや芸術への激しい憧憬を秘めつつ、それを表に出すことなく高雅な詩文に綴る、青春の痛みを激しく抱えた詩人。

静雄の十七歳から二十三歳までの日記が公開された時点で、静雄はかなり多数の女性に想いを寄せていたこと、精神的な愛だけではなく、(当然のことながら)肉体的な愛も含めての交際であったらしいこと、その都度失望を繰り返しながら、理想の関係を求め続けていたことが明らかになったのではなかろうか。わりあい気さくに女性に声をかけ、一緒にお茶を飲んだりするなど、積極的なところもあったらしい。

小川和佑は、『伊東静雄論考』の中で、「哀歌」神話説、静雄悲恋説を強く否定している。この説に従うならば、静雄は「酒井百合子を熱愛しながら、父の負債返済という、ただそれだけの理由で、山本花子の経済力に眼をつけ、この旧家の娘と結婚し、その生活のすべてを妻の経済力に依存しながら、百合子への熱愛を抱き続け、自分は気楽に詩を書き、その熱愛の詩を含む詩集出版の資金を、愛情の一片ももてぬ妻から引き出そうとする、()しからぬ詩人になってしまう・・・静雄とはこのような卑しい心根の詩人であった」ことになってしまうと憤りつつ、詳細に手紙や日記なども傍証に引き、「わがひと」を山本花子その人とすら仮定しようと試みる最終的には、シュトラウスの歌曲「モールゲン」の歌詞が「わがひとに與ふる哀歌」の発想源ともなった史実を示した上で「つまり《わがひと》は現実の酒井百合子でもなく、山本花子でもない、静雄の精神の内部において文学に昇華された存在としての《わがひと》なのである」と結論づけている。私が読んできた限られた範囲ではあるが、小川和佑のこの結論が、私には一番納得のいく「わがひと」像である。

静雄の詩作品、随筆、入手し得る論文。書簡や日記、友人たちの証言などを読み続けているが、静雄像は鮮明な多面体として浮かび上がるものの、なかなかひとつの有機体へと定まろうとしない。涙脆いような人情に厚い面、シニカルな皮肉屋としての面、田舎っぽいざっくばらんな冗談を連発する面、あまりにも素直に人の言葉を受け入れ、信じてしまう面。人生の真を求道者のように求め、他者の差し伸べる手を撥ねつける強さを持ちながら、寂しさに耐えかね、弱みをさらしながら甘えたりもする。照れ屋でありながら高慢、謙虚でありながら強引、辛抱強く思いやりを見せるかと思えば、突然激高する偏屈な教師でもあったらしい。授業は厳しかったが、意欲ある生徒に対しては、実に面倒見がよかった。自分で𠮟りつけておきながら、生徒が泣きだすとおろおろと困惑するような、そんな人間臭いところもあった。

静雄が新婚の頃に書いた「秋の夜」を見てみよう。小川が、「市井の一隅のささやかな生活の楽しさを機会の詩(あいさつがわりの詩)として戯歌にした」と評する作品である。


私はねずみ好きです

私のおよめさんねずみ嫌ひです

私の 小さい家で 電燈の下で

ひつそりと二人ごはん食べてると

ちつちやいねずみが

かはい目して流しもとで

私達の夕飯みてる

私のおよめさん ごはんやめて

まあ いやなねずみ しいつしいつ

とおひます

こりゃなに言ふのぢや

かはいねずみぢやないか

とわたしも御飯やめて

ねずみのかはりに およめさんを叱る


『童謡の國』(昭和八年)への寄稿であり、子供向けの口調となっているが、ねずみが出るたびに追い回す潔癖な妻と、まあいいじゃないか、見逃してやれと笑う静雄の微笑ましい日常が活写されている。

この詩を読んで思い出すのは、翌年の昭和九年、『呂』に掲載された「今年の夏のこと」という静雄のエッセイである。


今年の夏は、妻、弟、親類の子供、その四人でやつた。妻は私の故郷の盆のさかんな習慣は、きいてゐるだけで、まだ見たことはなかつた。それで故郷にゐる私の母から、祭の次第や、お供へ物のことやを、細々と書き送つて貰ひ、それを台所の壁にはりつけて、それに違はぬやうにしようと骨を折つた(中略)私達は父の死後、やつと五十日目位にはもう父祖の土地を見捨てて、新しい家族の中心である私の、働いてゐるこの土地にやつて来る仕儀になつた。

「お父さんは、うまくこの家をみつけて来てくれるかな」と私達は冗談のやうな、真剣のやうな心配をした。私達の今のこの家と、父が建て、又そこで死んだ故郷の家とではあまり何百里も遠く、まるきり違つた種類のものであつたからだ(中略:故郷での盛大な盆の支度を記した後)

「結局はお盆といふものは、死んだ人の魂のまはりに、生き残つた家族の連中が集り、睦じく話したり、仲よく遊んだりすればいいんだよ」

と私は妻に言つた。然し妻にしてみれば、肝心の死んだ人とは、生前に一度も会つたことは無かつた。その上全く違つた風習のこの町に育つたとはいへ、私の代になつてから、父祖以来の祭の風を、絶やしてはすまないといふ、家の女らしい律儀から壁に貼られた紙のことばかりを気にした(中略)こんな少人数の家で、妻は台所にばかりゐて、ことことと忙しがつた。

「おい、いい加減にしないか」と私は度々声をかけ、習慣にばかり気をつかつて、一寸も仏壇の前で落ちつくことが、私の気に入るといふことを知らぬ妻を、不本意にまた、あはれんだ。(十五日の夜、新婚の静雄夫妻は、郷里長崎の風習に従って・・・とはいいつつも、恐らく「本式」からはだいぶ簡素に、菓子箱にお供えを詰めて、「精霊流し」に赴く。月影の弱い、暗い夜。うら寂れた海辺の港、嵐に備えて漁舟を係留していく防波堤の蔭で、風の強い晩に、二人は菓子箱を海に流す。)

私たちは、砂地に横はつた材木のかげで、線香と蝋燭をともしたが、すぐそれらは風のために吹き消され、吹き折れた。

「あゝお盆もすんだ」と妻のいふ言葉に、いつのまにか、私は妻と同じ複雑さで同感してゐる自分を発見した。


律儀な妻と、鷹揚な夫。大阪出身の新妻が、まだ一度も訪れたことのない、見聞きしたこともない夫の郷里の盆を、姑に委細を尋ね、誠実に再現しようとしている。必要な道具や材料も、思うように入手できない。そのことで、イライラと静雄に当たることもあったろう。夫も、初めての家に亡父の御霊を粗相なく迎える為に、妻が必死になっていることを熟知している。それでも妻の律義さや几帳面さに耐えかね、時に癇癪を起す。そんな小さな諍いを重ねながら、故郷の風習通りに「精霊流し」を終え、いつしか、夫婦ともに同じ安堵の心を宿していることに気付く。

文化、風習の異なる環境で育った二人が、ぶつかりながら生活を築いていく一端が見て取れる。妻は自身の役割に夢中になり過ぎてしまう性向があるらしい。そんな妻を、その必死さの由来を納得し、思いやり、時にやんわりと、時に厳しく対しながら、共にひとつの行事を終える姿が描かれている。不穏な海辺の光景の描写は、これから迎える生活の困難を予期しているのであろうか。その不穏な海に精霊舟を流すという「共同作業」を行いながら、二人で困難を乗り越えていく意志を固めた盆の行事であったように思われる。(紙幅により省略したが、丁寧な写生的筆致を重ね、控えめに心情を重ねていく情景描写は、それだけで一篇の散文詩とも呼びうる奥行きを有してもいる。)

子どもを設け、共働きで家計を支えた妻は、静雄がかなわない、とぼやくほどに授業も上手い才媛であった。疲れの為か、しばしば体調を崩す妻を、静雄は実によく面倒みている。昭和十一年に堺市の三国ヶ丘に居を移したのは、花子の勤務先に近いからであったと思われる。

日中戦争開始(昭和十二年)と共に、社会的な統制が強まり、物品や食料の配給切符などが支給されるようになっていく時代である。こうした困難な状況下で子供を設け「母」となった妻は、当然のことながら「強い女」にならざるを得ない。静雄が「われもまた 五黄(ごわう)(とら)の/()をこそ得たれ/無明(むみょう)凡下(ぼんげ)の是非なさに/(けもの)にあらぬわが妻を/(ぎょ)し兼ねたるぞ哀れなる」(「虎に()る」昭和十三年)と歌ったのは、あながち誇張とも言えまい。

「今年の夏」に描かれた妻花子の姿は、たとえば『春のいそぎ』の「菊を想ふ」の中で、久しぶりに筝を聴きたい、とせがむ夫の願いを、恐らくはにこりともせずに、この御時世にとんでもない、と拒否する妻の姿としても反復されるだろう。

日記に記された文字から浮かび上がる、産後や病気の妻、幼い子どもを甲斐甲斐しく世話する静雄。あるいは・・・静雄の妻との房事――富士正晴が小野十三郎との対談の中で明かしている一節を引く。


小野:あんがい助平やったな、伊東な。

富士:いやいやその位やったらええで、それはまあまあ見られるわいな。そやけど林富士馬やね庄野ね、島尾ね、あの位、年の隔たったやつと一緒に旅行したりしたら、もう猥談ばっかしや(中略)このごろは嫁さんと一時間かかるてな。何でそんなにかかるかいうたら腹の上にのって世間話するね。こうゆっくりゆっくり何やとか()実際か願望かどっちやかわからへん、()あればっかりや。

(昭和四十一年「日本浪漫派研究」創刊号)


猥談、というよりも、のろけ話と受け止めた方がよいだろうか。生理的欲望を満たすだけの行為としてではなく、妻とのコミュニケーションの場として捉えていることに、そしてそれを人前で話すということに驚く。閨での一幕を(事実かどうかはともかくとして)若者たちに面白おかしく話して聞かせたのは、富士に言わせれば「こう猥談したらそれでどっちゃも素裸になって仲ようなれると、こう思うてんねん。サービス精神や」ということになるのだが、それだけでもないような気がする。若くして戦場に赴く若人に「かくくもよき/たのもしき漢子(をのこ)に/あなあはれ/あなあはれうつくしき妻も得させで・・・」(昭和十九年)と酒宴の席の戯歌めかして歌いかけた静雄である。機会があれば(戦争に行く前に)とにかく結婚しろ、こんな楽しいことがあるぞ、と呼びかける気持ちもあったかもしれない。

戦後の昭和二十三年、家庭婦人向けの雑誌『家庭と料理』に掲載された散文詩「薪の明り」も紹介しておきたい。寒い冬の朝、傷心の涙を流しながら、薪の火に顔を照らされている女の姿を歌ったドイツの詩を思い出す、と述べた後、静雄は子供時代の想い出を綴る。


子供の時三里はなれた町の中学校に通学していた私もそういう時刻にふと目ざめて、御飯をたいている母や姉の姿を、かまどの明りのなかに度々見た。

そんな時、「もうしばらく寝ていなさい。」と彼らは言つてくれた。

今私は、田舎に罹災疎開したまゝ、まだ都会に帰れずにいるが、曾ての母や姉の代りをしてくれるのは、妻だ。

暗い冬の朝、かまどの前、まきの火の明りの中にうずくまる女の姿ほど、あわれなものはない。


 給料のほとんどすべてを注ぎ込んだかもしれない、洋書も含めた貴重な書籍のコレクションを、静雄は戦災で失った。保管していた書簡も同様だったろう。これは憶測だが、書きかけの詩篇や下書きもあったかもしれない。敗戦国の一市民としての茫然自失。さらに、文学者として、大きな失意を被ったであろう静雄が、静かに母子を見詰めている景が胸に迫る一篇がある。疎開地に住みついて、という添書きのある、「子供の絵」。


赤いろにふちどられた

大きい青い十字花が

つぎつぎに一ぱい宙に咲く

きれいな花ね 沢山沢山

ちがふよ おホシさんだよ お母さん

まん中をすつと線がよこぎつて

遠く右の端に棒がたつ

あゝ野の電線

ひしやげたやうな哀れな家が

手前の左の隅つこに

そして細長い窓が出来 その下は草ぼうぼう

坊やのおうちね

うん これがお父さんの窓

性急に余白が一面くろく塗りたくられる

晩だ 晩だ

ウシドロボウだ ゴウトウだ

なるほど なるほど

目玉をむいたでくのぼう(・・・・・)

前のめりに両手をぶらさげ

電柱のかげからひとりフラフラやつて来る

くらいくらい野の上を

星の花をくぐつて


母子で「お絵かき」をしている景を見つめている静雄。〈お父さんの窓〉は、草ぼうぼうの〈哀れな家〉に切られた、狭い窓である。視野を制限される窓。外部から近づいてくる不穏な影は、静雄の目には「でくのぼう」と映る。それは、静雄の不安の反映であると同時に、自身の姿を自嘲的に重ねてもいるからではないのか。子どもの描く星の花、それだけが鮮やかに、〈くらいくらい野の上を〉照らしている。これこそ、子どもの真っ直ぐな目が照らし出した真の光景・・・そう、静雄は感じていたのではないだろうか。

『千年樹』72号11月

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by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 21:06 | 伊東静雄 | Comments(0)

伊東静雄ノート 8


関東大震災が起きた大正末から昭和十年代の状況に、2010年代以降の現代の日本が近づいてきている・・・そんな危惧を覚える中、二〇一七年六月、治安維持法を連想する(人も多い)通称「共謀罪」、「テロ等準備罪」法案が成立した。

単純に歴史は繰り返す、とは思わない。しかし、反省的に歴史を学ぶこと、結果が誤った方向に向かったことが歴史的に証明されているなら、なおさら誤った道に足を踏み入れないように事前に回避することが、何よりも大切なことであろう。

・・・と大仰に書き始めたものの、私たち庶民は、自らの生活、自らの家族、地域社会といった、身近なところから物事を考えていく他はない。戦中期に生きた詩人がどのような考え方を辿り、どのような生き方をし、結果、どのような作品を遺したのか。「静雄ノート」の連載を始めて以来、考え続けている問いは、静雄の詩に惹かれ、詩を綴り始めた者として、単なる歴史的な興味、好奇心を越えた切実な問いでもある。

伊東静雄の『春のいそぎ』集中の作品を、現代に生きる私たちの感性で、まずは読んでみる。それから、当時の社会的背景や静雄の個人的・伝記的背景に基づいて、追体験してみる。その試みは、当然のことながら『春のいそぎ』一集に留まらず、第二詩集『夏花』や、第一詩集『わがひとに與ふる哀歌』に遡っていくことになった。日中戦争開戦以降、積極的に翼賛的な詩を書き始めた詩人たちを傍目に、家族や身近な物事を歌う、という私的な詩作に沈潜していったように見える静雄も、「大東亜戦争」開戦と同時に、(一時的にせよ)翼賛的な詩を書き記している。その時の心情を今後とも継続的に考えていきたいと思っているが、今回は、少し回り道をして、詩集公刊以前の静雄の私的世界、特に妻との関係について、考えてみたい。

伊東静雄が大阪の住吉中学に着任したのは、昭和恐慌が始まった昭和四年のことである。その二年後、静雄は『呂』(昭和七年六月)という同人誌を青木敬麿らと共に創刊している。

静雄は当時としては珍しい共働きであったが、『呂』を読むと、当時の進歩的な知識人であることをある種の矜持として自覚していた彼等が、女性に対して、また、いわゆる職業婦人に対して抱いていた共感と理解の一端を知ることができる。

社会の不正や不条理に抗し、男性と対等に文学や芸術を論じあえる知性と、自立した経済力、自分の意見を持った女性。恋愛においては(ゲーテのグレートヒェンやヘルダーリンのディオティーマのように)より高次の精神的次元に導いてくれる、憧憬の対象。

たとえば、昭和七年、九月号の『呂』(四号)に、竹内てる代の第一詩集『叛く』の書評が掲載されている。〈家風に合はないといふので不合理にも結婚に敗れ、腹を痛めて生みおとした坊やとは生別させられ、たゞ残つたのは病で歪んだ躰だけだつた〉〈著者の詩は、悲しみに泣き、叫び。喜びに雀躍する一人の血の通った生活人の、心からの叫びだ〉と、同人の鳥海齋は記している。

『呂』の三号に鳥海が寄せた芸術論は、当時のプロレタリア文学は視察記や社会記事から受ける感じとどれくらいの相違があるのか、千篇一律で面白くない、と批判する一方で、〈芸術とは具体的な政治方法や社会方法を企画するといった科学的機能をもつものではなく、先験的に意識の傾向を示唆する効果をもつものに過ぎない〉と、純粋芸術論的な思想を開陳しつつ、〈生殖組織(夫婦関係)に先験する恋愛のようなものである〉という比喩を用いるなど、浪漫派的な、恋愛を精神的次元で論じようとする志向も見て取れる。

静雄の手紙や日記、花子による静雄の回想録などを読むと、静雄は女性が文学や芸術に関して知識を深め、共に語り合うことを積極的に望んでいた。初期の日記に見られる「女性遍歴」も、〈ほんとうの恋〉を求め続けたゆえらしい。つきあってみて、やはり普通の女性だった、と失望を書き記したり、М子は哲学概論を送ってくれた、と喜んだり、これは淋しさふさぎであって、本当の恋ではないのではないか、などと悩んだりしている。有島武郎の『惜しみなく愛は奪ふ』を愛読し、倉田百三の『愛と認識との出発』を読みながら、他者との関係性から立ち上がる「自己」を問い、「人間」とは何か、という問題について考えていく時の、重要なファクターの一つが「恋愛」であった。もちろん、プラトニックな関係ばかりではなく、〈放恣なる本能の一日〉というような記述からもうかがえるように、性愛的な関係もまた、重要であったらしいが・・・。

中学教師といえば、『呂』の五号(昭和七年十月)に、中学教師と思しき中村倭枝という女性の、「紀元節」という名前の短編小説が掲載されている。紀元節の意義を、尊さを説き続ける校長の話と、バタバタ貧血で倒れる子供たちを対置しながら、何バカなこと言ってるのよ、話が長すぎる、寒すぎる、子供達は(貧困のゆえ)栄養不良、朝から何も食べていない、と批判する内容。まだ、このような文章の発表が許されていたのだ、ということに驚きを覚える程である。

この号に静雄は「事物の詩抄」という総題で、「母/新月/都会/秋/廃園/朝顔」というモダニズム風の詩を載せている。


 母

妻よ 晩夏の静謐な日を

糸瓜の黄花(きばな)と蔓とで

頃日の僕等の唯一の

 幻想である母の

 家の門を飾らう

            

結婚後半年の時期であるので、妻は新妻の花子であろう。しかし、具体的な妻のイメージを越えて、象徴的な〈母〉が呼び出されている。


  新月

淡淡しい穹窿をも誘うて

新月の

私の目の前で生々と凝固する夕方に

新月に啓示を拝しつゞける太古の

港を

私は静かに出て行った


現在の私たちにとっても難解な作風だが、当時の『呂』の仲間たちにとっても、それは同様であったらしい。当時の同人たちがコラム欄「ろれつ」に〈伊東静雄、詩人ぶった詩人〉〈彼のシンボリズムはシンボリズム自体に潜む、孤独、独りよがりの道に連なってゐる〉などと、かなり辛辣に記しているのが面白い。〈伊東はうまいなあ、皆は君のものをわからん云ふけれど、そんなこと云ふたら、君はひとりで悦んでしまふだらうから、おれだけは、わかる、云はねばならん。けれど、ほんとは、どうぞも少しわかるように、書いてほしい。きれいな空気を、ひとりきりで貪らずに、ひとりでも多くの人に、わけてほしい。理屈は言はぬ。できるならば、一日でも早く、以前の君に返ってほしい〉この文章は、恐らく『呂』の創刊者でもあり、静雄と親しかった青木敬麿であろう。以前の君、とは、勤務先の住吉中学の校内誌『耕人』に載せた、次のような作品であろうか。


庭をみると

辛夷の花が 咲いてゐる

この花は この庭のもの

人の世を苦しみといふべからず

花をみる時

私は

花の心になるのである

(「庭をみると」『耕人』昭和六年二月)

のの花を

いけて

ねてみる

よろしさ

ののはなのほそばな

かずしれぬはな

ののはなの

よろしさ

ねてみつつ

おもふ

(「ののはな」『耕人』昭和六年十月)


静雄の詩に出て来る〈花〉は、あるいは意中の女性、のことではなかったか?具体的な誰か、ということではないにしても、ある種のミューズのような、憧憬の対象として、詩情を掻き立ててくれる女性。昭和六年、一一月の酒井百合子あての書簡の中で、


私が泉のそばに坐った時

噴水は白薔薇の花の影を写した

私はこの自然の反省を愛した

私が青空に身を(ゆだ)ねた時

縫ひつけられた幾(すじ)もの銀糸が光つた

私は又この自然の表現を愛した

 

 さうして 私の詩が出来た


という、読み方によっては、ありとあらゆるものに貴女の姿をみます、と告白しているような短詩を書き記してもいる。日記などから推して、百合子が、青年期の静雄の憧憬の相手であったことは間違いない。百合子の後の証言によれば、封建的な気風が色濃く残る地での、士族の娘と商家の息子、という関係性や、静雄自身の批判的な物言い(恋慕の情の韜晦であったのかもしれない)などのゆえに、百合子の方では思いもよらず、静雄の片恋であったらしい。とはいえ、百合子は静雄の書簡や詩を大切に保管し続けている。人間として、友人として、深い敬愛の念を抱いていたことも、確かなようである。

 昭和六年秋の時点で、静雄がのちの妻となる山本花子と知り合っていたかどうかは、定かではない。しかし、昭和七年二月の百合子宛て書簡の中で、山本花子との縁談がなかなかうまく進まないことを案じている旨を記し、三月の手紙では、いよいよ結婚することになった、と百合子に報告している。花子は、満たされぬ愛の〝代わりに〟妻として選ばれた女性、なのだろうか?

日記によれば、静雄は今ならさしずめ「イクメン」だったらしい。子供の世話ばかりでなく、病に倒れた妻の看病も積極的に行っている。背負ってしまった借金を返済する為に、共働きの妻が良かったのだ、というようなことも口にしていたようだが、恐らくは照れ隠しであろう。静雄と親しかった富士正晴が、詩人の小野十三郎や静雄の教え子の斎田昭吉らとの座談会で語った思い出によれば、山本花子は、奈良高等女子師範を卒業し、堺市立高等女学校の教師となっていた大柄な美人であった。一歳年下で聡明な花子に、歌会で出逢った静雄がひとめぼれし、人を介してなんとか見合いに持ち込んだ、というのが実際のところらしい。それが、昭和六年の秋か冬、縁談が起こるのが昭和七年の一月ごろ。

しかし、七年の二月に父が亡くなり、借財を負うなどの困難で、結婚話が一時、頓挫しかけた。先にあげた百合子への手紙で、結婚が上手くいかない、と記している時点で、既に静雄は花子を妻として熱望していたことになる。そして花子は、静雄の困難を、いわば引き受ける形で伊東家に嫁してきたのである。(小川和佑『伊東静雄論考』他)

花子は、もっと手を抜いてもよいのに、と静雄が思うくらいに、盆の仕度を整え、準備するような、律儀でしっかり者の妻であった。授業は自分よりもうまい、かなわない、と友人にこぼしていたこともあるという。出征するかもしれない可能性が出てきた折(昭和十九年に記された遺言)まず最初に「花子よ お前の強さには自分は信頼してゐる この上は充分に優しい母であってくれ」と書き記しているほどである。だからといって、「かかあ天下」ということでもなかったらしい。静雄夫妻と一緒に銭湯に行った教え子が「お~い、花子、出るよ」と静雄が声をかけ、「は~い」と声が返って来るのを聞いた、という微笑ましいエピソードを記している。静雄の家を訪れた教え子たちを温かくもてなしたり、生活費を入れない(!)静雄を経済面で支えたり・・・(静雄自身の給料は、借金の返済と弟妹の世話、書籍の購入、自分の勉強や詩の付き合いに当てていたらしい)何より、静雄の詩作を全面的にバックアップするマネージャーの役割を果たしてもいたのではなかろうか。

雑誌『呂』の創刊の話は、結婚前の昭和六年の三月の時点で既に進んでいたが、静雄は結婚後も同人活動に積極的に参加している。そして、学内誌での趣味的な詩風から一転して、時代の先端を行くような実験的な詩風を試してみたり(それゆえに『呂』の同人たちにわからない、と言われてみたり)後の「わがひとに與ふる哀歌」にも通じるモチーフ(朝の風の命ずる場所、白い花輪、太陽に近い湖)が現れる「事物の本抄」という詩を『呂』六号(昭和七年一一月)に発表したりしており、新進気鋭の詩人として新作を世に問う、公刊の意欲に満たされていることが伺える。

昭和七年、十月に記された百合子宛ての書簡の中で「詩少しづつ自信が出来てゐます。自分で立派だと思ふものが五十もたまつたら、出版したいと考へてゐます。二百冊くらい刷つたら二三百円で出来るさうですから、花子に金の工面など、たのみ出してゐます。これが思ふ通りに行つたらと、大変希望をもつて暮らしてゐます」と記している。

マネージャーとして生活を支え、詩作や文学への情熱に理解を示してくれるしっかり者の妻を得、文学や芸術に関して語り合える異性、同性の友を持ち、新しい詩作に向かう仲間たちに、時には独りよがりの芸術至上主義だ、と批判されたりもしながら、静雄は着々と、『わがひとに與ふる哀歌』への道を歩んでいた。

なかなか『呂』の同人たちに理解されない時に、大阪の書店で見かけた『コギト』の創刊号は、いかに静雄の眼に眩しく映ったことだろう。

『コギト』はパトロンの肥下、理論的主導者としての保田與重郎、詩人の田中克己らが創刊した高踏的な詩と評論、ドイツ詩の翻訳などを載せた雑誌で、同人は、煙草のバットが七銭、タクシーが一円の時代に十円という高額の同人費を納めねばならなかった。高価なこともあって、なかなか売れなかったらしいが、大阪の本屋では必ず一冊売れており、しかも匿名で「コギトの詩人なかなかよろしい」との葉書が発行所に届いたという。静雄の詩は『コギト』向きである、と田中克己や中島栄次郎が静雄を訪ねて行った折に(いわば、スカウトである)、その葉書は静雄が認めたものであることがわかったという逸話が残っている。やがて、静雄は『呂』を離れ、『コギト』の詩人として活動を本格化させていくことになる。

                                             『千年樹』71号2017年8月


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by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 21:04 | 伊東静雄 | Comments(0)

伊東静雄ノート 7

昭和十八年刊行の『春のいそぎ』から少し離れて、昭和十五年刊行の『夏花』収載の詩を見てきた。先行きの見えない日中戦争、詩友たちの死――濃度を増していく不安の中で、それでも昭和十五年の初めごろに生まれ、『春のいそぎ』に収録されることになった「小曲」や「誕生日の即興歌」は、子供への温かい眼差しによって光彩を放っている。家庭詩、生活詩として、重視されることの少なかった作品だが、光に注目して鑑賞する時、闇に光を点じていくような配置が、詩集そのものの余韻となって深い印象を残す。

静雄の憂慮が現れた「わが家はいよいよ小さし」や、迫りくる破滅の予感に対峙する「夏の終」の後に置かれた「螢」は(ノート5で見たように)子供の看病の不安の中で生れた作品だが・・・情景として見るならば、重苦しい湿った闇に仄かな明るさを点ずる蛍の光、その捉え難いもどかしさが〈美〉として描きとられている。続いて置かれた「小曲」は、明方の光の中で、夜道を金の光で照らした燈火の美しさを回想する歌である。しかもその歌は、〈子供がうたふ をさな歌〉であるという。その景を想う時、私は吉原幸子の詩の一節を思い出すにはいられない。


とほいゆきやまがゆふひにあかくそまる

きよいかはぎしのどのいしにもののとりがぢつととまつて

をさなごがふたりすんだそぷらのでうたつてゐる

わたしはまもなくしんでゆくのに

せかいがこんなにうつくしくては こまる


明方と夕方、時間帯が異なるのは、自らを取り巻く世界の〝夜明け〟を願う詩人と、世界への哀惜を歌う詩人という、スタンスの差異であるのかもしれない。いずれにせよ、子供の澄んだ歌声に二人の詩人は〈美〉を感じ、そこに詩情を覚えている。

昭和十八年の時点で、明るい未来の願いを子供に託すような詩を詩集の最後に置いた静雄の想いはどのようなものだったのだろう。単純な逆編年体による詩集の編成とは異なる、深い意図が込められているのではなかろうか。子供の歌の響く「小曲」の後に置かれた「誕生日の即興歌」を、詳しく見ていきながら、そのことについて考えてみたい。冬の嵐に翻弄される小さな〈わが家〉で、愛娘に呼びかけるざれ歌、という趣向の詩である。


くらい 西の()(すみ)に 翻筋斗(もんどり)うつて そこいらに もつるる あの響 樹々の(さけ)と 警むる 草のしつ(・・)しつ(・・) よひ毎に 吹き()る風の けふいく夜 何処(いづこ)り来て あゝにぎはしや わがいのち 生くるいはひ まあ(・・)()や この父の為 (ともしび)さげて 折つて来い 隣家(となり)の ひと住まぬ (まがき)のうちの かの山茶花の枝 いや いや 闇のお化けや 風の胴間声 それさへ 怖くないのなら (とが)むるひとの あるものか 寧ろまあ(・・)() こよひ わが祝ひに あの花のこころを 言はうなら「あゝかくて 誰がために 咲きつぐわれぞ」 さあ 折つておいで まあ(・・)()

自註 まあ(・・)()はわが女の子の愛称。私の誕生日は十二月十日。この頃、海から吹上ぐる西風烈しく、丘陵の斜面に在るわが家は動揺して、眠られぬ夜が屡々である。家の裏は、籬で隣家の大きな庭園に続いてゐて、もう永くひとが住んでゐない。一坪の庭もない私は、暖い日にはよくこつそり侵入して、そこの荒れた草木の姿を写生する。


 長歌のようでありながら、自由にリズムを崩し、しかも完全に散文とはならないところで踏みとどまる。乱拍子の囃子唄のような不思議なリズムが、全篇を支配している。警むる、は、いましむる、と読むのだろうか。木々は叫び、草は軋むようにうめいている。

風当たりの強い丘の中腹にある静雄の家は、さほど大きくはない借家であった。訪れた学生に、寒いので(外套を脱がず)そのままで、と促したという話もある。風雨の度に烈しく家鳴りし、冬場は隙間風も吹き込む厳しさがあったろう。嵐の中で、〈あゝにぎはしや わがいのち〉というように〝生〟を実感する静雄の姿は、夏場の台風、野分の際にも見出される。

『夏花』所収の「野分に寄す」は、〈野分の夜半(よは)こそ(たの)しけれ〉と始まり、〈真に独りなるひとは自然の大いなる連関のうちに/(つね)に覚めゐむことを(ねが)ふ〉という哲学的箴言――一時の生(個々の人生)を永続の生(自然の命の循環、リルケの宇宙生命的な生や、禅や老荘思想における東洋的な生)の中に見る、覚者としての眼差しを願う心――を挟み、嵐に翻弄されて落果する葡萄や、地に叩きつけられる菊や薔薇の短い生を想いながら〈(もの)(みな)の凋落の季節(とき)をえらびて咲き出でし/あはれ汝らが(ほこり)高かる心〉を称える。嵐の〝時〟に生まれてしまったことを嘆くのではなく、自らこの〝時〟を選んだのだ、滅ぼされるのではなく、自ら滅ぶのだ、という、受動ではなく能動の生への転換、と言い換えてもいいだろう。そして、〈こころ賑はしきかな〉〈野分よさらば駆けゆけ〉と詩は閉じられる。花たちよ、滅ぶなら滅びよ、嵐よ、吹くならば吹け!と、意味としては反語的に、語調としては極めてパセティックに展開する「野分に寄す」は、『春のいそぎ』の「誕生日の即興歌」の予兆であり、即興歌は季節を反転させたものともいえる。

もちろん〝滅び〟を運命づけられた生を、いかに受容するか、という当時の若者たちが直面していた実存的問いに対して、たとえいかなる末路が控えていようとも、雄々しく斃れゆく〝英雄的生〟に悲壮な美を見出そうとする、ロマンティシズム――不安や苦悩による生の断念や放棄ではなく、短くとも烈しい生を受容し、肯定しようとした日本浪漫派のパトス(中でも保田与重郎の思想)が、戦場に向かう青年たちを鼓舞することになった過去の歴史を、忘れるわけにはいかない。その過去を二度と再来させないために、当時の青年たちの想いを辿り直し、私たちの未来への反省とするために、私は今、この稿を書いている。

パセティックな情動そのものは、人生の艱難に際して生きる事にくじけそうになっている人々にとって、今もなお魅力的である。情熱を燃やし続ける、ということ、生きる実感を得る、ということ。心が折れそうになるわたし、生を逃避したい、と死へ惹かれていくわたし。その背を押し、手を取って〝生〟の方向へ力強く引き戻してくれる情動を喚起するもの。そうした、詩情の在り方が、静雄の詩のひとつの魅力となっていることは否めない。そして、その魅力は普遍的なものでもあろう。そうした威力を持つものであるからこそ、過去の戦争でもロマン派の芸術(特に英雄的生のイメージ)は権力者によって〝利用〟された。その苦い過去の反省に立って、二度とそうならないように注意深く目を注ぎながら、生の鼓舞者としての詩情そのものは大切に受け継いでいきたい、と私は思っている。

浪漫派的詩情が歪められた理由は、個々の生の価値探求を否定し、公(戦時においては国家)の為に滅私奉公する生にのみ生きる価値がある、という壮大な欺瞞の中に回収されていったからであろう。静雄は、果たしてその国家的欺瞞の中に、どのようにして呑みこまれていったのか。あるいは、どこまで染まらずに在ることができたのか。

「誕生日の即興歌」に戻ろう。暴風に翻弄される〈わが家〉で、負けじと力強く歌い返す静雄。詩人は、夜の闇と吹きすさぶ風の叫び、それが怖くさえなかったら、父である私の為に、〈(ともしび)さげて〉荒んだ無人の庭に咲いている山茶花の枝を、一枝折ってきておくれ、と愛娘に歌いかける。人が住まなくなった後も、変わることなく咲き続ける花。国破れて山河あり、城春にして草木深し――人生のはかなさと、自然の永続とに深い思いを寄せていた静雄が、山茶花の一枝を求めるのは、なぜだろう。「庭の蟬」の一節にあるように〈おれはなにか詩のやうなものを/書きたく思ひ〉ながら、なかなか思うに任せなかった静雄に、詩情をもたらすもの、詩趣を喚起させるもの、その象徴的存在として、人の住まぬ家で、冬のさなかにも咲き続ける山茶花を求めたのではなかろうか。

父が娘に、花を取って来てやる、のではない。娘に向かって、暗闇の中を灯をともして、お化けや烈風の唸りをも恐れずに、父の為に花を取ってきておくれ、と呼びかける。もちろん、これはざれ歌であって、実際に娘に命じたわけではない。しかし、暗がりで憂鬱に沈んでいる父のもとに、娘が光と共に訪れ〝花〟をもたらす、という構図は、静雄ノート1で鑑賞した「春浅き」に顕著に表れているものでもある。

〈あの花のこころを 言はうなら「あゝかくて 誰がために 咲きつぐわれぞ」〉カギかっこに収められた部分は、誰かの詩の一節なのかもしれないが、未だ確認できていない。暫定的に、強調のためのカッコとして読み進める。父が自身の誕生日に、娘に花を取ってきておくれ、と頼む。そして、その花の心は、「ああ、誰の為に私は咲き継ぐのか」なのだよ、と、父は娘に伝える。誰が為に、という問いに反語として隠されているのは君が為、でろう。花は、大切なことを〝君″に伝えるために、〈自然が與へる暗示〉として、花開くのだ――昭和十二年に『知性』に発表された「そんなに凝視めるな」において、静雄が呼びかけたように。


そんなに凝視(みつ)めるな わかい友

自然が與へる暗示は

いかにそれが光耀にみちてゐようとも

凝視めるふかい瞳にはつひに悲しみだ

鳥の飛翔の跡を天空(そら)にさがすな

夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな

手にふるる野花はそれを摘み

花とみづからをささへつつ歩みを運べ

問ひはそのままに答へであり

堪へる痛みもすでにひとつの睡眠(ねむり)

風がつたへる白い(かど)(いし)の反射を わかい友

そんなに永く凝視めるな

われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち

あゝ 歓びと意志も亦そこにあると知れ


生きる途上で出会う〝花〟、すなわち〈美〉や〝詩情〟、心に豊かさをもたらすもの・・・それらに出会ったならそれを摘み、〝花〟と共に(その花によって)自らを支えて歩み続けよ。生きるとは何か。レゾン・デートル・・・その問いの答えを求めようと焦るのではなく、むしろ問い続けることこそが生きることなのだ、その辛い歩みを支えるものこそ、途上で出会う野の花の美しさであり、砕いた大理石の煌めきのような、一瞬の輝きなのだ。その辛い歩みに堪える痛みは、問う事こそが答えであり、確たる答えなどないのだ、と気づく(覚醒する)前の、睡眠のようなものだ。

(「野分に寄す」で述べたように)人は自然の大いなる連関の内で、目覚めていることを希う。その目覚めは、(「わがひとに與ふる哀歌」で歌ったように)〈音なき空虚を/歴然と見わくる目〉を得ることでもあるだろう。それは、〈凝視(みつ)める深い瞳にはつひに悲しみ〉を与えるだけのものであるかもしれない。なぜなら、鳥の飛翔の跡や、消えていく夕陽の美しさのように、必ず消え去って行くものの痕跡を追うことは、いかなるものも永続しない、という存在の根本的な悲しみ、存在の空虚を知ることでもあるからだ。だからこそ(そのことを知ってしまった)我々は、消え去っていくものを追うのではなく、〈われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち/あゝ 歓びと意志も亦そこにある〉と知らねばならない・・・

「誕生日の即興歌」の中で、幼い娘に呼びかけるざれ歌、として描かれていても、こうした静雄の思想/詩想を見て取ることができる。嵐も恐れず、闇も恐れず〝花‟を採りに行くことを、そうした果敢な前進をし続けることを娘に望むのである。そして、その花のこころを教え、花と出会うことの意味、為すべき行為を伝えるのが、父であり、詩人である静雄の役目であろう。

名が真を表すものであるなら、花の心、その真意を明かすことと、本当の名を告げることは同義である。ここにも、「春浅き」で花の名を娘に伝えようとする父の姿が反復されている。時系列でいえば「誕生日の即興歌」の方が先に創作されているので、即興的に生み出された詩情を、「春浅き」において、より深く詩人は造形化した、とも言える。〈即興歌〉という趣向は、自分の娘に愛称で呼びかけるという、本来なら極めて私的な行為を、公刊の詩集に納めるための方便としても機能しているだろう。

詩集冒頭の自序に、〈ひとたび 大詔を拝し皇軍の雄叫びをきいてあぢはつた海闊勇進の思は、自分は自分流にわが子になりとも語り傳へたかつた〉と静雄は記した。戦時中の公刊であり、表現の際には検閲の問題(恐怖)も大きくのしかかっていたであろうことを踏まえれば、とりわけ前半部は、当時の一般的市民の心情としてごく普通の反応であったと思われる。後世、詩集から除外されることになった「戦争詩」は七篇。二八篇の詩篇から構成される『春のいそぎ』の四分の一である。「戦争詩」は戦時のカモフラージュである、というような欺瞞的な〝弁護‟をするつもりはない。静雄は市井の一国民として、ごく自然な感情の発出のままに「戦争詩」を書いたであろうし、その経緯や作品としての質について、私たちは真摯に考え続けねばならない。しかし、皇国の御為に・・・という思いのみ(・・)から詩集が編まれたわけでは無い。詩集の四分の三を占める、詩人としての在り方、父としての思い、ごく私的な家族や友人への思いもまた、詩集を編む重要な動機になっていたはずである。

詩集の掉尾を、なぜ娘への呼びかけの歌で締めくくったのだろう。静雄は『春のいそぎ』を、〈わが子〉への贈り物、戦争で死ぬであろう自分の、遺言としたのではなかろうか。自らが精神的な葛藤、苦悩を経て見出したこと、〈音なき空虚を/歴然と見わくる目〉と引き換えに、自らが得た智慧を、娘と息子に伝えたかったのだ、と思う。

改めて、『春のいそぎ』の詩篇の配列を眺める。友人の妻を哀悼する「秋の海」、故郷に初めて妻を伴って帰郷する感慨を歌った「なれとわれ」を、静雄は「戦争詩」の間にはめ込むように配置している。日米開戦時の高揚を謳った「大詔」のすぐ後に、朝顔を楽しむ余裕も失い、琴を楽しむ風流も抑えねばならない庶民の日常を描く「菊を想ふ」、語りかける言葉を飲み込んだまま、友と川面を眺めた日のことを歌う「淀の河辺」、子供の看病をしながら医者を待つ心情に託して〈わが待つものの 遅きかな〉と記す「九月七日・月明」を配する。日中戦争に従軍した兵士の体験を聞き書きした「第一日」の後に、妻子に何か〈言つてやりたかつたが〉言うべき言葉の見つからないまま、各々が黙って初蟬に耳を傾ける姿を描きとめた「七月二日・初蟬」を置く・・・。言い差したまま言葉を飲み込む日々の中で、憂鬱に沈む自分に光をもたらしてくれるわが子へ、静雄は日々の想いを〈語り傳へ〉ておきたかったのだ。


                                  『千年樹』70号 2017年5月


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by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 21:02 | 伊東静雄 | Comments(0)

伊東静雄ノート 6

日記や手紙などから、『夏花』が成立した時期(昭和十一年~十五年頃)の静雄は、神経症に近いような精神的危機と戦っていたことが知られている。静雄はいかなる精神状況だったのだろう。『夏花』の後半に「孔雀の悲しみ」という不思議な小品がある。

 

 蝶はわが睡眠の周囲を舞ふ

 くるはしく旋回の輪はちぢまり音もなく

 はや清涼剤をわれはねがはず

 深く約せしこと有れば

 

 かくて衣光りわれは眠りつつ歩む

 散らばれる反射をくぐり……

 玻璃なる空はみづから堪へずして

 聴け! われを呼ぶ


 孔雀が尾を広げた時の、めくるめくような、万華鏡のような光景であろうとは思いつつ、冒頭の不眠を思わせる描写や、乱反射する光に飲み込まれながら幻聴を聴くような連に謎が残る。

 この詩と、芥川龍之介が不眠症や神経症、精神の破綻の恐怖におびえていた時期に書かれた『歯車』の一節とを比較してみよう。

 何ものかの僕を狙つてゐることは一足毎に僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つづつ僕の視野を(さへぎ)り出した。僕は(いよいよ)最後の時の近づいたことを恐れながら、頸すぢをまつ(すぐ)にして歩いて行つた。歯車は数の殖えるのにつれ、だんだん急にまはりはじめた。同時に又右の松林はひつそりと枝をかはしたまま、丁度細かい切子(きりこ)硝子を()かして見るやうになりはじめた。僕は動悸の高まるのを感じ、何度も道ばたに立ち止まらうとした。けれども誰かに押されるやうに立ち止まることさへ容易ではなかつた。

この後〈僕〉は、まな裏に〈銀色の羽根を鱗のやうに畳んだ翼〉の幻影を見、お父さんが死んでしまうのではないか、と家族が怯えるところで物語は終わる。静雄の描写との相似は比べるまでもないだろう。当時の静雄も、芥川が陥っていた精神の危機と同様の状態にあったことがうかがわれる。(就職して間もない頃にも、静雄は〈私の内の芥川的傾向を克服するために…芥川氏研究〉をしている、と手紙に記していた。自覚しつつの内省であったと思われる。)

日中戦争の行く末への不安、といった時代の諸条件に加えて、家族の病や、母や詩友たちの続けざまの死がもたらした〈茫漠・脱落の気持〉(「コギト」昭十五年)が静雄を追い詰めていた。その状況下で、時に七転八倒しながら静雄は詩を紡ぎ出していく。

『夏花』の冒頭には、〈おほかたの親しき友は(中略)さても音なくつぎつぎに憩ひにすべりおもむきぬ。//友ら去りにしこの部屋に、今夏花の/新よそほひや、楽しみてさざめく我等、/われらとて(つち)臥所(ふしど)の下びにしづみ/おのが身を臥所とすらめ、誰がために。〉という『ルバイヤット』の一節が置かれている。賑わしい生と、墓所に葬られて後の安息が、「誰がために」という問いで結ばれている。この問いは、後に詩集『春のいそぎ』の最終歌において〈あゝかくて 誰がために 咲きつぐわれぞ〉と反復されることになるのだが……『春のいそぎ』の味読に戻る前に、今しばらく、『夏花』について考えてみたい。

『哀歌』の成功の後、第二詩集の『夏花』を刊行するまでの間に〈田中克己、神保光太郎、中原中也、立原道造、津村信夫の諸氏が、大へん私を刺激した。その人達に見て貰ひたい気持が、私を元気づけたところもあつた〉と静雄は記している。さらに、〈この間に、立原道造、中原中也、辻野久憲、中村武三郎、松下武雄の諸氏が死んでゐる。これらの人々は、現実に深い交を結んだ友とは言ひ難いが、その詩精神は、私の最深部に強く作用したものである。人にはそれぞれ口には言ひ難い微妙な友情を感ずる「同時代の友」があつて、その友情は、その人の後半生をも支配する力をもつものと思ふ。上記の人々は、私にとつてそんな友ではなかつたであらうか。そして、「友ら去」つた後に、各自は、自己流に、「楽しみてさざめく」術を体得して、生きて行くのであろう〉(「コギト」昭十五年)と綴り、立原、辻野、中村の三名には、名を明記した追悼詩を捧げている。「夢からさめて」は、特に献辞はないが、母への追悼詩だろう。(怪しく獣めく夜鳥の声に夢を破られた静雄が、失われた故郷の家で独り酒を呑んでいる夢の中に母の姿を垣間見て、悲しみのあまり自ら歌っていたことに気付く、という詩である。)

『夏花』中、他に追悼と思われる詩は〈…かの蜩の哀音(あいおん)を、/いかなればかくもきみが歌はひびかする…曾て飾らざる水中花と養わざる金魚をきみの愛するはいかに。〉という、前年に発表した「水中花」に通じる詩想を持つ「いかなれば」と、〈N君に〉という献辞を持つ「若死」であろう。立原道造への追悼詩「沫雪」の直前に置かれた一篇である。


大川(おおかは)(おもて)にするどい皺がよつてゐる。

昨夜(さくや)の氷は解けはじめた。

  アロイヂオといふ名と終油(しゅうゆ)とを授かつて、

  かれは天国へ行つたのださうだ。

大川は張つてゐた氷が解けはじめた。

鉄橋のうへを汽車が通る。

  さつきの郵便でかれの形見がとゞいた、

  寝転んでおれは舞踏(ぶたふ)といふことを考へてゐた時。

しん(そこ)冷え切つた朱色(しゅいろ)小匣(こばこ)の、

真珠の花の螺鈿(らでん)

  若死をするほどの者は、

  自分のことだけしか考へないのだ。

おれはこの小匣を何処(どこ)(しま)つたものか。

 ()(うと)いアロイヂオになつてしまつて……。

   鉄橋の方を見てゐると、

   のろのろとまた汽車がやつて来た。


リフレインを用いた歌謡性の強い文体、キリスト教の用語や汽車といったモダンで垢抜けた印象、字下げの形式……N君とは、誰か。イニシャルから見て松下ではない。静雄が「コギト」に寄稿した松下への追悼文を読んでも、二人はさほど深い交友は持っていなかったらしい。残る一人は、〈私の最深部に強く作用したもの〉を持つと記された中原中也である。Nと名を伏せたのは、名を記すことに若干の躊躇い、もしくは屈折した感情を覚える相手だったから、ではあるまいか。

静雄は、中也の『山羊の歌』(昭和九年)を予約注文していたという。『わがひとに与ふる哀歌』(昭和十年)の出版記念会で初めて出会った中原中也の家に、その日の内に泊りに行ってしまったというエピソードも、静雄の抱いていた中也への親近感を示しているように思われる。しかし、二人は意気投合する、というわけにはいかなかった。中也は日記に〈コギトに、伊東静雄に関する原稿の断り状を出す。二三日前に来た伊東静雄の手紙、素直な手紙、而して素直なだけ。ああいふ人はどんな気持で生きてゐるのか。アイドントノウ〉とシニカルに記している。静雄も何か感じるところがあったろう。(高橋渡『雑誌コギトと伊東静雄』など)

エピソード的な事柄が評価にどこまで影響するものか留保すべきだが、静雄が中也の作品を批判的に見ていたことは確かなようである。富士正晴宛の手紙の中で、〈あなたの議論も、中原の晩年に完成を見てをられるやうですが、あそこから再出発を予想することは、矢張りわたしには困難です。彼の晩年が「運命的」であればあるほど、再出発は他の人によつて代つて行はるべきだといふ印象を却つてあなたの論からうけました。この点いかがです。そんなに一人の詩人に多くをのぞむべきかどうか私は甚だ疑問です。わたしはもう中原には「月の光」だけで充分。この一回きりの完成だけで充分詩人の光栄。生かしときたかつたのは矢張り立原。立原は中原について「彼は立ちどまつてゐる、問ひかけが彼にはない」と言つてゐます。〉(昭和十四年十月)と厳しい評価を下している。立原の詩を考える上で「問いかけ」は重要なキーワードであり、静雄の立原への共感の由来を探る上でも大切な問題だが、今はひとまず傍らに置く。ここでは静雄が言及している「月の光」(その一、その二)を見ておこう。


月の光が照つてゐた

月の光が照つてゐた

  お庭の(すみ)(くさ)(むら)

  隠れてゐるのは死んだ()

月の光が照つてゐた

月の光が照つてゐた

  おや、チルシスとアマントが

  芝生の上に出て来てる

ギタアを持つては来てゐるが

おつぽり出してあるばかり

月の光が照つてゐた

月の光が照つてゐた


月の光 その二 

 おゝチルシスとアマントが

 庭に出て来て遊んでる

 ほんに今夜は春の(よひ)

 なまあつたかい(もや)もある

 月の光に照らされて

 庭のベンチの上にゐる

 ギタアがそばにはあるけれど

 いつかう()き出しさうもない

 芝生のむかふは森でして

 とても黒々してゐます

 おゝチルシスとアマントが

 こそこそ話してゐる間

 森の中では死んだ子が

 (ほたる)のやうに(しゃが)んでる

※チルシスとアマントは、西欧の牧歌詩に歌われる少女と少年。ヴェルレーヌの詩などにも登場する。


 先に引用した「螢」に通じる詩想や童謡風のリズムは、中也の世界から静雄が学んだものであったかもしれない。死せる子が月下の物陰に隠れている。いなくなってしまったのではない、目に見えないだけ。気配は確かに、そこに居るのだ……子を失った中也の悲しみに、子煩悩な静雄が共鳴したことは想像に難くない。

〈夏花〉は、静雄自身が〈お盆に仏に供える花〉と語っており、また「()(ばな)」と呼ばれる仏事における供花のイメージが秘かに重ねられた、レクイエムともいえる詩集である。(田中俊廣「『夏花』*レクイエムとしての詩宇宙」『痛き夢の行方 伊東静雄論』)

『夏花』全体を覆う死のイメージ、その巻頭と中間、掉尾に配された、死の世界を振りきって生へと突き抜けていこうとする作品の放つ、エネルギーの強さ。

「燕」、「八月の石にすがりて」、「野分に寄す」「疾駆」といった作品が、生へと突き抜ける面を強調した詩だといえるが、その突破する力の源はどこから生まれるのか。「笑む稚児よ……」という詩を見てみよう。


笑む稚児(ちご)よわが膝に(すが)

水脈(みを)をつたつて(うしほ)(はし)り去れ

わたしがねがふのは日の出ではない

自若(じじゃく)として鶏鳴をきく心だ

わたしは岩の間を逍遥(さまよ)

彼らが千の()の白昼を招くのを見た

また夕べ(けもの)は水の(ほとり)に忍ぶだらう

道は遙に村から村へ通じ

平然とわたしはその上を()


我が子に膝にすがれ、と呼びかけてはいるが、すがってくれ、という願いであるのかもしれない。私を押し流そうとする大波が去ることを願い、今はまだ暗夜であるとしても、泰然自若として明け方を待つ心を欲する詩である。その先は難解。岩の間をさまようイメージは、『哀歌』に描かれた曠野における精神の彷徨を、〈千の日の白昼〉の訪れや、乾きに飢えた獣が水を得たり、村々に道が通じていくイメージは、明るく開放的な未来の訪れを祈念しているように思われる。

冒頭に引いた「孔雀の悲しみ」の中の〈深く約せしこと有れば〉という謎めいた一節、〈わが膝に縋れ〉という力強い宣言は――いささか飛躍した思考であるかもしれないが、父として子に約束しよう、どんなに辛くとも、生き抜く、ということを――という想いの現れではないだろうか。「孔雀の悲しみ」に描かれたような神経症的な逼迫、一向に黎明の兆しの見えない社会情勢、次々と死に打倒されていく詩友への想い、自身の将来への不安……そうした自己の内部に押し寄せる潮のような不安を打ち破るのは、外圧としての、やらねばならない、やらざるを得ない、という義務感ではなかったか。特に、静雄のように律儀な性格の人間にとっては。

「水中花」など、一見すると滅びを肯定し、美しく散ることを願うかのような詩句は、当時静雄が抱いていた閉塞感を突き抜けていくために自らを鼓舞する言葉であり、困難な生を前進させるための逆説的な死の措定であったように思われてならない。

蝶の生き様に、〝どんな困難が待っていようとも、最後まで生き抜け″という神(自然)からのメッセージ(言霊)を読み取りつつも、今の生は水槽の中で生かされている(ように見える)水中花に過ぎない、つくりものの生に過ぎない。これでも真に生きている、と言えるのか?いっそのこと、全てを投げ打ってしまいたい、全てを終りにしてしまいたい…そんな激情と生の渇望との間で、静雄の詩人としての精神は葛藤していたのではなかろうか。

むろん、生活者(父、教師)としての静雄は、生を投げ出してしまうわけにはいかない。いや、むしろ父であるからこそ、子供への愛、家族への想いの強さによって、生きる気力を奮い起こすことが出来たのではないか。そのために、あえて創作作品の中で、仮構としての死を疑似体験する。死の安息を希求する己の魂をいったん死の世界に鎮め、そこから再び日常生活圏に戻って来ることによって、自らの活力と成す。死への憧憬と生への義務感とに引き裂かれ、疲弊してしまった自らの精神を、一度死を疑似的に通過することによって――ふいごで衰えた炎に活力を取り戻すように――再生させる。その烈しい精神の振幅の軌跡を、『夏花』は基層としている。

『千年樹』69号 2017年2月


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by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 21:01 | 伊東静雄 | Comments(0)

伊東静雄ノート 5

 戦後公刊の『反響』に再録された際、『春のいそぎ』の作品群は「わが家はいよいよ小さし」という章題のもとに自序や〝戦争詩″七篇などを省く形で収められたが、作品順にも多少の入れ替えが生じている。

 戦時中刊の『春のいそぎ』では、「夏の終」の後に「螢」が置かれ、その次に童謡風の「小曲」、「誕生日の即興歌」が配されている。一方戦後の『反響』では「小曲」「誕生日の即興歌」「夏の終り」という順番に変わり、「螢」は省かれた。『反響』の復刻版を開くと

 

そんなことは皆どうでもよいのだつた

ただ壮大なものが(しづ)かに傾いてゐるのであつた

そしてときどき吹きつける砂が脚に痛かつた


という印象的な詩句の後に、大きく黒々と〈反響終〉の文字が印字されている。何かが終わろうとしているのだ、という詩と同じページに、この詩集はこれで終り、と厳然と記す、二重の〈終〉。

 気になるのは、戦争詩でもなく、(手紙などから推測すると)我が子の病が癒えることを祈る中で生まれた詩であったはずの「螢」が、省かれたことである。


 かすかに花のにほひする

 くらひ茂みの庭の隅

 つゆの霽れ間の夜の靄が

 そこはかとなく動いてて

 しづかなしづかな樹々の黒

 今夜は犬もおとなしく

 ことりともせぬ小舎(こや)(はう)

 微温(ぬる)い空気をつたはつて

 ただをりをりの汽車のふえ

 道往く人の(しはぶき)

 それさへ親しい夜のけはひ

 立木の闇にふはふはと

 ふたつ三つ出た螢かな

 窓べにちかくよると見て

 差しのばす手の指の()

 (たり)()逃げゆく(のき)のそら

 思ひ出に似たもどかしさ


この歌うような小品は、和泉式部の「物おもへば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞみる」(『後拾遺和歌集』)を本歌取りしたとする評を散見する。しかし、和泉式部の歌と重なるのは末尾の六行に過ぎない。しかも物狂おしいような熱情を吐露する式部の歌とは、いささか異なる質感を覚える。

かすかな花の匂いが、生き物の気配を確かに伝えてはくれるが、木々はもちろん、犬すらも息を殺す静けさが梅雨晴れの闇の中に漂っている。〝なにものか″が潜んでいそうな、生暖かい夜の闇の不気味さ。暗がりの向こうから聞こえて来る汽車の警笛や道行く人の咳払いなどが、わずかに人の気配を感じさせ、ほっと体の緊張を解く。その窓辺に、ふわふわと蛍が数匹、飛び交うのである。……ぬくみを持った闇。それは、生き物のようにのしかかってくる闇であり、子供が暗がりに怯える原初的な感覚に近いものがある。

先に触れたように、当時、静雄の家のそばには陸軍病院があって、軍馬や軍の車両が深夜に地響きを立てて通り過ぎることも度々だった。見えない軍勢が過ぎていく物音を、今後の日本の行く末を案じながら聞いている。そのような折に掻き立てられる不安が、静雄を責め立て(はあはあと息が上がるような)切迫感を感じさせていたのであろうし、何事もない静けさもまた、夜陰が生き物のように家を覆う感覚を覚えさせたであろう。子供が不安を振り払うために、大きな声で歌を歌ったりすることがあるが、「螢」の耳馴染みの良い歌謡体のリズム、〈そこはかとなく動いてて〉という口語口調のような軽やかさには、そんな〝闇払い″の意識も込められているのではないか、という気がしてくる。

〈看病の傍ら、(隆達や地唄などの)古い歌謡の本を読んでゐます。これは自分の鎮魂のためと、自分の文學の模索のためであります〉(六月、池田勉宛)といういささか大仰で重苦しい内容と、中也風とでも呼びたい軽快な「螢」の印象のズレ。それは、迫って来る闇の中、不安に苛まれるあまり〈あくがれ〉出でようとする魂の深刻さを、お囃子唄や小唄の軽妙さで笑いに転じ、やり過ごそうとする意識が生み出した、コミカルな声調、その〝かろみ″が醸し出す表面上のズレなのではないだろうか。

 この時期、『コギト』の詩人保田與重郎は、「和泉式部私抄」(昭和十一年~十七年)をはじめ、近世から記紀歌謡時代に至るまで、様々な詩人、歌人を採り上げ、旺盛な評論活動を展開していた。ドイツのみならずエセーニンなど海外の詩人にも目配りをしていた保田の評論を、静雄は深い敬意を持って(時には、自分もこのような仕事がしたい、というある種の羨望の気持ちも抱きつつ)享受していた。

戦後、痛罵を浴びることになった保田のことを、静雄はどう思っていたのだろう。なおのこと、戦後、静雄が「螢」を省いたことが気になるのだが……『日本浪漫派』と静雄との関係性に関わって来る問題なので先に譲り、今は子供の為の子守歌のような「小曲」を読み解くことにしたい。

 昭和十五年六月の富士正晴宛葉書に、静雄は〈佐藤春夫の『東天紅』感心して再読三読してゐます〉と記していた。実際、『東天紅』と『春のいそぎ』を比較すると静雄が佐藤春夫から形式的にも内容的にも強い影響を受けたことが見て取れる。(米倉厳『伊東静雄』1985年など)たとえば「自嘲」という佐藤の作品。


 よき父となり

 日もすがら

 子と独楽(こま)まはす

   木の(きれ)に命授けて

   時にまた憂国の論はあれども

   わが説は人うけがはず。

 よき兄子(せこ)となり

 日もすがら

 花をうつせり

   面影を花に見いでて

   時にまた反逆あれど

   わが恋は知る人もなし。

 あはれなる詩人(うたびと)なり

 夜もすがら

 歌成りがたし

   時にまた老杜(らうと)の集を(ひもと)けば

   わが歌は自嘲の(あかし)


 『春のいそぎ』冒頭に納められた歌う形式の詩の形は、『東天紅』に学んだものであろう。〈よき父〉〈よき兄子〉である小市民的な自己を正面から受け止め、肯定する一方で、高みを目指しながら(俗世間から離れ、風雅の境地に生きる文人に憧れつつ)果たし得ずにいる自分に、あえて自嘲という言葉を投げかける〝詩人″。佐藤春夫の「自嘲」に詠われた内面世界は、たとえば静雄の「山村遊行」において、より想像力豊かに、具体的な景を伴って再現されるだろう。

子供への愛情をストレートに歌う詩も印象に残る。

佐藤春夫の「りんごのお化」という童謡風の作品は、〈頭を洗ふことのきらひな子供がよくがまんして頭を洗つて来たのを見て、お父さんがうたひはやしてほめた歌です〉という詞書が付されている。〈そら出た。そら出た。/出て来たぞ。/りんごのお化が出て来たぞ。…りんごのお化はよいお化、/にこにこ笑つてよいお化。/おつむを洗つていい匂ひ、/りんごのお化は可愛いいな。/可愛いお化のいふことに、/おのどがかわいてしかたがない。/りんごのおつゆを下さいな。〉ほっぺを真っ赤に上気させた坊やをにぎやかに囃したてる、ほほえましい家族の光景が立ち上がって来る。爽やかな林檎の香りと、真っ赤でかわいらしい形象。それ以上の意味と感情を求める必要はないかもしれない。しかし、西欧の知識や思考法の偏重に対する疑問が提示されつつあった時代に〈りんご〉の持つ象徴性と〈お化け〉という不穏なイメージを結び付け――そのイメージを詩人のもとに運んできた童(坊や)が、リンゴをジュースにして飲んでしまう、という解決策を提示するという展開に、子供の告げ知らせることに耳を一心に傾けようとする詩人の姿が現れているのではなかろうか。

 静雄の「小曲」は、のどかな田園風景の景を彷彿とさせながら、子守歌のような美しいリフレインを響かせる佳作である。


 天空(そら)には 雲の 影移り

 しづかに めぐる 水ぐるま

   手にした (ともし) いまは消し

   夜道して来た 牛方と

   五頭の牛が あゆみます

ねむたい 野辺の のこり雪

 しづかに めぐる 水ぐるま

   どんなに 黄金(きん)に 光つたろ

   (ともし)の想ひ 牛方と

   五頭の牛が あゆみます

 

 しづかに めぐる 水ぐるま

 冬木の うれの 宿り木よ

   しとしと あゆむ 牛方と

   五頭の牛の 夜のあけに

   子供がうたふ をさな歌


 暗い(そして、昏い)夜道を歩き続けた牛方が、心細い暗がりを照らしてくれたささやかな灯の、金色の光の美しさを思い返しながら、ようやく明け始めた空の下を歩いている。夜明けの薄明りに野辺の雪が白々と光り、次第に強まって来る朝陽に水車の水が輝きを増していく。そこに響いてくる、幼子の歌声。まるで、幼子の歌が夜明けをもたらすかのようだ。五頭の牛とは、何を表すのか。牛を用いた農耕や運搬と、豊かな水の流れるアジアの風土のイメージ。当時盛んに標榜された五族協和のスローガンが脳裏をよぎる。夜道を歩き続けた牛方とは、日本のことなのであろうか。

 折口信夫が昭和四年に公刊した『古代研究』の中に、「万葉集のなり立ち」という評論がある。大歌(官家の歌、宮廷詩)に対して民謡や童謡は小歌(こうた)と称されたこと、大歌は声楽が大部分であるが、雅楽(器楽・外国曲)が盛んになると大歌は衰えて来ること、などの歴史的変遷の解説と共に、〈大歌所に昔から使はれて来た大歌と、大歌に採用する目的で蒐めて置いた材料〉の数々が列挙され、その中に〈支那の為政者・音楽者の理想となつて居た民謡に正雅の声があると言ふ考へが、我が国にも這入つて居て、在来の童謡に神道が(やど)つて出ると言ふ信仰と一つになつて…(あづま)歌其外地方の民謡などの可なりの分量が、大歌所に集められて居た〉という記述がある。学生時代から万葉集に深く傾倒し、研究も重ねていた静雄は、恐らく折口の文章(もしくは思想)を学んでいたことだろう。

 童の無心・無邪気な歌の中に、神慮、神意が宿っている、という考え方は、今でも様々な民族芸能や伝統行事の中に痕跡を見ることができる。神意は人間にとって都合の良いことばかりではない。無慈悲にも子供は真実を告げる、という言い方をしてもよい。『夏花』の中の「砂の花」と「自然に、充分自然に」の二篇は、子供なればこそ、知らぬ間に真実を告げることになった顛末を歌っている作品ではなかろうか。

 困難を乗り越えて日本にたどり着いた燕が、生の勝利を告げる、その瞬間を歌った「燕」の次に置かれた「砂の花」は、富士正晴に、と献辞がある童謡風の小品である。砂場で遊ぶ幼児が、つわの花を砂場に挿し、そこにやってきた蝶を捕えようとする。


 その一撃に

花にうつ俯す 蝶のいろ

あゝ おもしろ

花にしづまる 造りもの

「死んでる?生きてる?」

・・・・・・・・・・・


造りもの、であるのは蝶なのか、切り取られて砂場に挿され、あたかも生き生きと命を保っているように見えるつわの花なのか。子供の無邪気な問い「死んでる?生きてる?」の一行は怖ろしい。神の被造物という言い方もあるが、「つくりもの」という言葉の語感は、疑似的に生きているように見えるに過ぎない〝死せるもの″である。

「八月の石にすがりて」では、ギリギリまで生き抜く蝶と、人である〈われら〉一人一人、そして雪原に倒れ伏す孤狼が比肩され、生の讃嘆が歌われていた。

その次に置かれた「水中花」を見てみよう。


()(とし)()無月(なづき)のなどかくは美しき。

(……)

(しの)ぶべき昔はなくて

(なに)をか吾の嘆きてあらむ。

六月(ろくぐわつ)()と昼のあはひに

万象のこれは(みづか)ら光る明るさの時刻(とき)

()ひ逢はざりし(ひと)の面影

(いつ)(けい)(あふひ)の花の前に立て。

堪へがたければわれ空に投げうつ水中(すゐちゆう)(くわ)

金魚(きんぎよ)の影もそこに(ひらめ)きつ。

すべてのものは吾にむかひて

()ねといふ、

わが()無月(なづき)のなどかくはうつくしき。


滅びを目前として、あらゆるものが美しく見えるという逆説、あらゆるものが〈死ね〉と迫って来るような戦時下の緊迫した意識と、その強迫に一息に〈投げ打つ〉というパセティックな行為で対抗しようとする詩人の意識が歌われる。元来死せるものである水中花が、コップや水槽という限られた空間において、まるで生き物のように美しく咲いている(そこでしか開くことができない)という痛切な思いへのアイロニーも、そこには重ねられているだろう。水中花の美もまた〈つくりもの〉である。死んでる?生きてる?と子供に問われたならば、詩人はどう答えるのだろう。

「水中花」の次に置かれた「自然に、充分自然に」は、瀕死の小鳥を愛撫しようとした子供が、思いがけず必死の抵抗にあって〈小鳥を力まかせに投げつけた〉様子を描いている。小鳥は生命を取り戻したかのように〈自然にかたへの枝を〉選んで、そこに止まるかのように見えた。しかし、結局その小鳥は死に、子供は〈(こいし)のやうにそれが地上に落ちるのを〉見ることになる。死を運命づけられた者の最後のあがきに心動かされて、気まぐれに救済しようとし、掌を返すようにそれを打ち捨てる子供の理不尽さは、人の目には理不尽に映る自然(神)の行為の寓意そのものだ。

『千年樹』68号 201611


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by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 21:00 | 伊東静雄 | Comments(0)

伊東静雄ノート 4

戦争の予感と時代の閉塞感、文学探求における迷走、家族の病という切実な問題……その重苦しい沈鬱な心象が、昭和十五年から十六年にかけての詩、「春浅き」や「夏の終」などに描かれていることを見て来たわけだが、それらはいずれも詩集後半に置かれていた。『春のいそぎ』掲載順に初出を整理してみよう。


わがうたさへや      (17.4「文芸世紀」)(※昭和十七年四月 以下略記

かの旅          (18.6「コギト」)

那智           (18.7「文芸文化」)

久住の歌         (18.2「新文化」)

秋の海          (18.2「文芸世紀」)

述懐             (17.12「大阪毎日新聞」)

なれとわれ②       (17.10「コギト」)

海戦想望         (17.5「コギト」)

つはものの祈       (17.4「コギト」)

送別           17.3「コギト」)

春の雪           17.3「文芸文化」)

大詔           17.1「コギト」)

菊を想ふ        (16.12「日本読書新聞」)

淀の河邉          18.1「文芸文化」)

九月七日・月明      (17.1「四季」)

第一日          16.10「帝国大学新聞」)

七月二日・初蟬      (16.8「天性」)(※『全集』では「コギト」7月と誤記)

なかぞらのいづこより  16.4「文学界」)

羨望           16.10「天性」)

山村遊行        16.6「コギト」)

庭の蟬          16.7「コギト」)

春浅き         16.5「四季」)

百千の          15.12「文学界」)

わが家はいよいよ小さし 16.1「文芸」)

夏の終②         15.10「公論」)(※『全集』では「不明」と記載)

           15.8「天性」)

小曲           15.4「改造」)

誕生日の即興歌       15.2「文芸世紀」)  (※旧漢字は当用漢字に改めた)


太字は拙稿「静雄ノート」1~3で引用した詩、番号は各回に対応している。

並べてみると、「大詔」を中心にして前半に太平洋戦争開戦後の詩篇、後半にそれ以前の詩篇が収められていることがわかる。後半は沈鬱な開戦前夜の気分と、その中で子供の未来に寄せる希望や祈りが詠われ、前半には大詔渙発以来の明朗な心境、兵士たちへの共感や祈りを歌った詩が置かれていることになる。

「大詔」で歌われたのは、なによりもその〈清しさ〉であった。そしてその清々しさは、いよいよ本当の亜細亜創設のための戦いが始まるのだ、という自己正当性の確認であり、開戦当初の連日の戦勝の報道によって増幅された開放感であった。(子安宣邦『「近代の超克」とは何か』七章「宣戦になぜかくも感動したのか」など。)いつのまにか中国大陸で戦闘が始まっていた、という不透明感、欧米の圧力から亜細亜を解放する聖戦であるはずの戦いが、当の亜細亜で行われているという矛盾、国際的不況の中で日本が帝国主義列強に〝理不尽に″追い詰められている、というイメージが創り出され、強まって行く不満……そうした鬱屈した国民の思いを、一息に開放するのが昭和十六年十二月八日の「大詔」だったのだ。そして、その興奮の中に静雄も呑みこまれていく。

もっとも静雄の書いた〝戦争詩″は、十五年戦争期に、特に太平洋戦争期に大量に生み出された翼賛詩――命を捨てよ、と煽り、鬼畜米英と罵倒し、戦死者を軍神として崇め奉る――とは、いささか趣が異なっていた。詩集巻頭の「わがうたさへや」を見てみよう。


おほいなる 神のふるきみくにに

いまあらた

大いなる戦ひとうたのとき

(タケナワ)にして

()むる

くにたみの高き諸聲(もろごえ)

   そのこゑにまじればあはれ

   浅茅がもとの蟲の音の

   わがうたさへや

あなをかし けふの日の(カタジケ)なさは

(当用漢字に改めた。カタカナのルビは筆者の補注)


没個性的な六行の前歌と、行を減らし添えるように置かれた後歌、とでも称すべき二連構成。箏と共に奏するなら、重厚な始まりにのせて〈おほいなる~〉と歌い出し、諸聲、と途切れた後に華やかな手事、やがてゆるやかな単旋律が戻って来たところで〈わがうたさへや〉と静かに歌い納めることになろうか。

当時の愛国詩は、この詩の前半部分を漢文調の雄渾な調子で、あるいは大和歌の響きを生かして朗々と歌い上げる類のものが多い。『国民詩』や『辻詩集』など戦時中のアンソロジーでは〝個″を手放してしまった愛国詩が目につくのだが(逆に〝個″に徹した詩も散見される、)静雄のように〝個″を離れ集団に埋没するかのような詩句と、〝個″を手放さない詩句とを並置する詩は少ないように思う。静雄が二連構成の形式を取り、個の唄を添える意味、この詩を巻頭に置いた意図は、『春のいそぎ』全体の構成にも関わる、重要な意味を持つのではないだろうか。

『哀歌』の原稿を何度も差し替えるなど、静雄は詩集の構成に意を注ぐ詩人だった。『哀歌』の巻頭に置かれた「晴れた日に」は、分裂する自己もしくは理想化された恋人が登場し、故郷へのアンビバレントな感情が表出されるなど、詩集全体のテーマが複雑に織り込まれた作品である。詰屈の多い作品自体の印象と、傑作と凡作が入り混じるような『哀歌』全体の印象とは奇妙に符合している。第二詩集『夏花』の巻頭に置かれた「燕」は、死の波濤をくぐり抜けた燕が故郷で歓喜の声をあげる景を、きびきびとした音楽的な文体で歌った作品。この詩も、生と死がせめぎあう緊張感に満ちた『夏花』全体の印象を集約したような作品となっている。第四詩集『反響』の巻頭に置かれた「野の夜」は、虚脱感を抱えて〈くらい野〉を行く静雄が、〈野の空の星〉の光が水に映っていることに気付いた瞬間を描いた作品。夜の水辺にしゃがみ、水に映る星やまだ幼い螢の光の美しさに見とれる〈わが目〉を、困惑しながら見つめている〈自分〉、その静けさと虚無感、光を観る眼差しは、『反響』の中の、特に戦後作品の印象に合致する。

第三詩集『春のいそぎ』巻頭の「わがうたさへや」は、漢字の「聲」と、ひらがなの「こゑ」とが向き合い、公と私、大と小、讃嘆/歓呼と謙遜/恭順の心情とが対比されつつ響き合っている。〈まじれば〉という語からも分かるように、個の声が集団の中に吸収されていくことに〈あはれ〉を感じ、感慨を覚えている。〈あはれ〉はもちろん〝哀れ″ではなく、しみじみとした感動を呼び覚まされている様であるが、同時に〈浅茅がもと〉を頭韻的に呼ぶ詠嘆であり、無数の虫の音の一つに過ぎないささやかな〈わがうた〉ですら、〈くにたみ〉の声に和することができる今日のこの日が、もったいなくも嬉しく感じられる、と喜びを歌っているのである。

せっかく〝個″の声を歌っているにも関わらず、それを集団に埋没させることを、その機会を与えられたことを喜ぶのか……暗澹たる思いにとらわれるが、戦後民主主義教育の中で育った筆者の価値観をそのままあてはめることはできないだろう。ここでは、詩集前半の詩群が〈諸聲〉に没することによって生まれ、後半の詩群が没入直前で留まっている個の〈こゑ〉からなること――他の詩集と同様、巻頭詩が詩集全体のイメージ(配置)と相似していることを確認した上で、なぜ〝没入″が起きたのか、という問題について、静雄の教師としての側面、詩人としての側面、その双方から考えていきたい。

手始めに、「夏の終り」が掲載された『公論』昭和十五年の十月号(第一公論社)を開いてみよう。静雄を取り巻く思想状況の一端、当時の〝ムード″を知ることができる。(詩集収録時には「夏の終」と改題)

冒頭の社説は「皇国与論と宣伝教育」。「日本人の心性」というエッセイでは、小我を捨てて大我に生きることこそ日本人の美徳であることが説かれ、〈大君のへにこそ死なめ〉という「海行かば」の一節が引かれる。「旧世界の動揺と日本」という論文では、大英帝国の衰退とドイツの躍進、世界地図が塗り替えられようとしている現状が述べられ、アジアを経済的に支配下に置こうとする米国の〝野望″を断つために、日本は南進すべきである、という議論が展開される。七月に成立した第二次近衛内閣の国策にそった〝北守南進″論である。コラム的ページには「女子徴用論」などもあり、十七才になったら女子を看護婦として養成し、集団的に訓練して野戦病院の人員不足に対処せよ、と大学教授が〝女性の活用法″について論じている。「愛国運動の研究」と題した座談会や、「西北支那と回教民族」「南方アジア及西南アジア踏査記」など、広く世界に目を向けた(日本の版図拡大を意図する政府の意向に沿った)硬派な記事が続き、最後の方に紀行エッセイや詩歌の文学コーナーが設けられている。詩は伊東静雄、短歌は穂積忠、俳句は富安風生。「世界の動き」という情報コーナーの後、短編小説と連載小説が配置された、総合オピニオン誌であった。詩の寄稿に当たって、静雄が雑誌の性格を顧慮した可能性もある。

 穂積(きよし)は、北原白秋門下折口信夫に師事した歌人である。『公論』掲出の十首は


わが(いのち)またく思はね戦ふと曠野(あらの)の丘に(びょう)()捨て来つ

人間の言葉さびしとひた思ふ移動す軍を病馬追ひ来る

(いなな)きて(こた)ふる木魂(こだま)なかりけり草原(そうげん)の月に病馬さまよ


など、戦場の悲痛を格調高く詠う十首。日中戦争を主題にした〝便乗歌″と言えなくもないが、戦意高揚の翼賛歌とは誰も思わないだろう。凄まじいまでの月光の中で、疲弊した軍馬を捨てて立ち去る軍隊。戦争の非情が切々と伝わって来る。

富安風生は東京帝大独法科卒の官吏で、高浜虚子門の俳人。「四萬の夏」と題した十句は


蝉の木々(すだれ)おろせば(かす)かなり

(くつが)へす草刈籠に夏桔梗

清冽(せいれつ)山椒魚も(すん)ばかり


といった、明朗な自然観照の句である。『公論』に掲載された臨戦態勢のような論文を読んだ後にこの句と出会うと、意識的に戦争の気配から距離を置いたような印象を受ける。

 静雄の「夏の終り」は、この両者と比較するなら富安の句風に近い立場で歌われている。過度の感情移入や述志を律し、その場の自分が感じ取ったものとその時の心象を、写生した詩といえばよいだろうか。芭蕉の俳句を詩と呼ぶところから出発した静雄は、言葉の流れや響きよりもイメージの衝突や競合を重視することで『哀歌』中の秀作を生み出したように思われる。『夏花』の中の名作「八月の石にすがりて」も、苛烈なまでの自然観照と真夏と真冬、蝶と獣、明と暗といった激しいイメージの対比が作品の核となっている。「夏の終り」もまた、自然と我とを対峙させつつ写生風に綴る、俳句的発想法から生み出された詩群の中に位置づけられるだろう。だが、静雄は短歌的抒情、あるいは述志の方向へ、急速に傾いていく。その経緯を辿る前に、静雄を圧迫していく思想的な背景を、父/教師としての側面から見ておこう。

「夏の終り」が執筆された当時、静雄の家のそばには陸軍病院があった。〈ひつきりなしに、傷病兵が、バスで運ばれた。私は毎日のやうに子供をつれて路傍に立ち、敬礼した。家にじつと坐つてゐても、胸がはあ(・・)はあ(・・)と息づき強く、我慢出来ず興奮したりした。そんななかで、わたしの書く詩は、依然として、花や鳥の詩になるのであつた。〉(『コギト』昭和十五年五月号)坂下の大通りを、〈深夜覆ひをした大砲や恐ろしいほどの軍馬の数が地響きを立てて轟轟と行き過ぎていく。日中戦争の膠着状態を肌身で感じてもいた静雄が恐れていた、日本崩壊の予感、〝個″の消滅の不安……子煩悩の静雄にとって、国家の存亡と我が子の将来とは切り離せない懸念であったはずである。

この頃書かれた手紙に、〈文学は決して直接、個人の生活と体験をのみ(・・)土台としてはいけない……各自の苦しみを我慢して公の仕事をして行く、人間のいとほしさ〉(昭和十五年六月池田勉宛)という文言が見える。職場では教師に徹し、詩人であることをむしろ伏せていた静雄にとって、公の仕事、とは、まずは教師としての職務である

昭和七年、満州事変の勃発後に国民精神文化研究所が設立され、師範学校その他中等学校教員の思想再教育を行う事業部が設けられた。昭和十二年に発行された『国体の本義』の編集にも研究所は大きな影響を及ぼしている。『国体の本義』は和辻哲郎など一流文化人の助力も得て、当時の知識人層が納得できることを目安として国体概念を解説した本で、定価三十五銭の小冊子ながら初版二十万部、昭和十八年の段階で百七十万部が印刷されて一般に流布したという。中等学校では副読本的な扱いを受け、受験、特に陸海軍の学校を受験する者にとっては必読の書であった。受験指導の必要上、静雄も精読していたに相違ない。

さらに、昭和十六年には『国体の本義』に基づく国民(臣民)の道を明らかにしようとする意図で『臣民の道』が刊行されている。初版三万部、解説書も含めると百四十七万部余りも出版されたという。(阿部猛『太平洋戦争と歴史学』など)

『臣民の道』の第一章は「世界新秩序の建設」、二章は「国体と臣民の道」三章は「臣民の道の実践」――要するに、列強の圧力からアジアを開放するのが我が国の使命であり、そのために〈万世一系〉歴代の天皇は力を尽くしてきた、〈而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、()く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところ〉(『国体の本義』)という、皇国史観と武士道的倫理と宗教学や国学、民俗学……などを総合したキメラのような異様な書物が、青少年の指導者を中心に大量配布されたわけである

『公論』など民間の雑誌も動員して、国家の〝大義″は静雄のような市井の知識人をターゲットとして文章化されていった。日本の未来を憂うほど、この戦争に勝利する他に道はない、という隘路に静雄が導かれていったこともうなづける。

教師静雄にとっては、詩作は〝私″の仕事ということになろうが(教え子の西垣脩によれば、静雄は職場では詩人であることを伏せていた。知らない者も多かったという)、生涯を通じて求道者のように詩を求め続けた静雄にとって、詩作は天職(Beruf)としてのもう一つの〝公″の仕事でもあったろう。

『千年樹』67号 20168


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by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 20:59 | 伊東静雄 | Comments(0)

伊東静雄ノート 3

詩集『春のいそぎ』収載の「春浅き」や「夏の終」を読むたびに思い出す俳句がある。伊東静雄の一歳年長、静雄と同様教師であった、加藤楸邨の句である。


隠岐やいま木の芽をかこむ怒涛かな

ひとは征きわれ隠岐にありつばくらめ

十二月八日の霜の屋根幾万


昭和十六年、開戦の年に発表された三句を挙げた。名句として名高い「隠岐やいま~」の句は、奇しくも静雄の『春のいそぎ』と同年、十八年刊の『雪後の天』に収められている。

〈後鳥羽院のかゝせ給ひしものにも、これらは歌に(まこと)ありて悲しびをそふるとのたまひ侍りしとかや。さればこの御ことばを力として、その細き一筋をたどりうしなふことなかれという芭蕉の言葉を胸に秘め、独り隠岐に旅立った楸邨は、のちに私の心の中の怒涛が、次第に隠岐の怒涛と一つになりはじめていた。つまり、滲みあうように内と外とが重なり合ってきたわけであると記している。(随筆隠岐

芭蕉を研究していく中で〝主客浸透″の作句理念を得た楸邨と、既に卒業論文「子規の俳論」の中で〈芭蕉は物の形よりもその形以上のものを尊ぶ詩人〉であり、〈芭蕉に於ける自然描寫(子規の所謂記實)の目的は、自然をあるがままに模倣するのではなく、自然を寫すことによつて自己の「心の色」を表現することであつた〉と看破していた静雄。自然を描写することは、その自然と対峙した際の自己の心象を描くことであり、〝外″を描くことはすなわち〝内″を描くことなのだ、と考える二人の詩人が、荒れた海の景を共に自らの「心の色」と捉え、それを言葉に残したことになる。「ひとは征き~」の感慨と焦燥も、同世代であり共に教師でもあった二人が共有するものであったろう。征く側も、作品を通じて想いを受け止めていた。十七年秋、出征前に楸邨のもとを訪ねた俳人の森澄夫は、隠岐の一連の句を〈鬱屈した、暗い表情で、一句一句噛みしめるように読み上げてくれた〉楸邨の朗読を、自身の暗鬱とした未来と重ねながら聞いている。(『加藤楸邨全集 第八巻』講談社、月報6、1981

昭和十七年一月の静雄の日記に〈二十四日土曜 午後四時頃より阪急ホテル別館に田中克己君を訪問。同君は徴用令にて、南方出發前を同ホテルに宿泊中なり。此度徴用せられし人々中われの知る者は、他に神保光太郎、北川冬彦らなりの一文が見える。

〈後に田中繁君も来る。田中君よく喋る。同君の手帳に


神人が虚空にひかりみしといふ

みんなみのいくさ

きみもみにゆく


といふ歌一首かきておくる。神人云々は同君の詩句をとれる也」と日記は続き、〈二十七日 二日ほど前より風邪にて臥床中なりまき子(長女、筆者注)熱ひきしが、身體いまだだるげなり……みささぎにふるはるのゆき 以下詩なかなか成らず〉と、何度も推敲を繰り返している様子がうかがえる。

〈よく喋る〉のは、出征の不安の裏返しの饒舌であり、常態との差異に気づいた静雄の鋭敏な観察眼が、この一言を書き留めさせたに相違ない。〈ひかり〉という言葉を贈る心境と、我が子に〈ひかりありしや〉と問いかける(あれ、と願う)心境とに、どれほどの開きがあろうか。我が子の看病をしながら〈身體いまだだるげなり〉という一言を記す心境にも、不穏な時代状況を背景として、毎日の平凡な暮らしや子供との交流が、かけがえのないものとして深く心に残るようになってきている様がうかがえる。

静雄の日記は、毎日のように書きつけられたものではない。現存する限りではあるが、戦局が厳しくなっていく昭和十八年、十九年はほぼ毎月のように詳細に記しているのに対し、昭和十四年は二月と九月のみ。年頭に詩集『夏花』を公刊した十五年は、そもそも日記の記載がない。時代の暗雲を予感する詩として先に引いた「夏の終」が発表された年でもあるが、遺された書簡をみると、家庭内でも静雄を悩ませる事態が起きている時期であったことがわかる。

三月付の小高根二郎宛書簡には、〈いつものことながら呆然として暮らしてゐます。詩はなかなか書きにくい状態です。みな註文も断つてゐる始末〉とあり、教師としての日々に忙殺されているらしい様子がうかがえるが、更に六月になると〈家内に重病人出来まして、心身共に疲労の極にあり〉(六月十日潁原退蔵宛)〈看病の傍ら、古い歌謡の本を読んでゐます。これは自分の鎮魂のためと、自分の文學の模索のためであります〉(六月、池田勉宛)という文言が見える。池田氏宛書簡には、「螢」という詩が書きつけられているが、終り三行は〈差しのばす手の指の()を/垂火逃げゆく(のき)の空/思ひ出に似たもどかしさ〉という、逃げていく命の火掴もうとしながら成しえない、という哀調を帯びた詩行「螢」は和泉式部の「物おもへば沢のもわが身よりあくがれ出(タマ)かとぞみる」を踏まえていると言われるが、物狂おしく抜け出そうとするのは、我が魂なのか、あるいは大切な家族の命なのか……。自分の鎮魂、という言葉も、抑制された筆致ながらただ事ではない。

四か月後の十月、池田勉に〈お見舞い有難う……九分通り快癒、子供もあと十日もすれば退院できます〉と書き送っているので、ひとまず窮地は脱したとも見えるが、翌十六年三月の小高根宛書簡に〈このごろ漸く私も心身共に快調、これからたんと方々に書きますから……去年はいろいろなことがありました。口には一寸云へないほどです〉と記しているところを見ると、やはり、心身を消耗する相当の苦悩だったと思われる。

十六年は四月十一日の日記のみ。いささか煩雑だが、推敲の跡がよくわかる例として、この日の日記を引く。


〈四月 十一日 疲労甚し。酒欲し。

をさながくれし草の花

きい花 白花 名はしらず

「あゝくら」と まみをひそめて

わがをさない(き)ものは へやにいりくる

あゝくら と へやにいりくる

わがをさなきものは(の)まみひそみたり

「あゝくら」と へやにいりくる

わがをさなきものをみれば

そのまみ ひそめたり

あゝくらと まみをほそめて をさなきものの しつにいりくる

いつのまに くれししつない(くらきつくゑのあたり) のはいまだ

あゝくらと めほそめて をさなきものの しつ―に―いりくる いつのまに―くれし つくゑのほとり のはいまだ ひかりありてや ひとりつみて来し くさ〉


何度も微妙に表現を変えながら繰り返される「春浅き」の推敲課程。〈へや〉が〈しつ〉になり、〈ひかりありてや〉が〈ひかりありしや〉に変化するのは、音の響きの美しさを吟味したことによろうか。杉本秀太郎が「サ行偏愛」とすら呼ぶ静雄の音韻的特徴は、ささめくような響きへの偏愛とも言い換えられよう。

冒頭の新体詩張りの七五調の歌謡体も、完成作では姿を消している。「春浅き」を音韻の上から読み直すと、字余り、字足らずを織り交ぜつつ、いわゆる五七主体の長歌のリズムを自在に組み替えていくような進行と、三行ずつに整えられた詩形の美しさが印象に残る。


  冬が来た(高村光太郎)『道程』(大正三年)

きつぱりと冬が来た            (5・5)

八つ手の白い花も消え           (7・5)

公孫樹(いちょう)の木も箒になつた        (6・7)

きりきりともみこむような冬が来た     (5・7・5)

人にいやがられる冬            (3・8)

草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た  (8・5・5・5)

冬よ                   (3)

僕に来い、僕に来い            (5・5)

僕は冬の力、冬は僕の餌食だ        (3・6・3・7)

しみ透れ、つきぬけ            (5・4)

火事を出せ、雪で埋めろ          (5・6)

刃物のやうな冬が来た           (7・5)


 竹(萩原朔太郎)『月に吠える』(大正六年)

光る地面に竹が生え、           (7・5)

青竹が生え、               (7)

地下には竹の根が生え、          (4・7)

根がしだいにほそらみ、          (6・4)

根の先より繊毛が生え、          (6・7)

かすかにけぶる繊毛が生え、        (7・7)

かすかにふるえ。(以下略)        (7)


(いし)のうへ(三好達治)『測量船』(昭和五年)

あはれ花びらながれ             (3・7)

をみなごに花びらながれ           (5・7)

をみなごしめやかに語らひあゆみ       (4・5・7)

うららかの(あし)音空にながれ         (5・4・6)

をりふしに瞳をあげて             (5・7)

(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり(以下略) (5・7・6)


静雄は、先行詩人達の工夫や試行と比して、特別目新しいことや斬新なことを試みているとは言えないかもしれない。しかし、日記に残された推敲課程からは、何度も口ずさみつつ読み返しつつ、形も音も納得のいくまで整えていこうとする、言葉の彫琢者としての姿が立ち上がって来る。

「春浅き」と同様、推敲課程を日記に書き遺している作品に「春の雪」がある。昭和十七年、病欠の生徒を見舞い、出征前の田中克己を慰めた(一月二十四日)記述の後、娘の病のこと、妹りつの忘れ物を駅で尋ねたことが記され(二十七日)、続いて「春の雪」が、三度も書き直されているのが見える。それだけ思い入れの深い作品ということでもあろう。

「春浅き」が三行十連の形であるのに対して、翌年発表された「春の雪」は三行三連の、より引き締まった美しい詩形を取る。これは第二詩集『夏花』中の「沫雪」(十四年に亡くなった立原道造の追悼詩)の形を踏襲したものであり、昭和十四年の十月に書かれた富士正晴宛書簡中の〈具體的に云ふと、三行三聯の詩形式の完成といふのが、私のいまの野心です……そのために、リルケを殊に新詩集をしつかりよんでみようと思つてゐます〉という意欲を実証する試行でもある(田中俊廣『痛き夢の行方 伊東静雄論』参照)。第三詩集『春のいそぎ』では、この詩をはさむように「送別」と「大詔」が配された。「春の雪」については後にふれることにして、前後の二篇を左記に引用する。


 送別 田中克己の南征

みそらに銀河懸くるごとく

春告ぐるたのしき泉のこゑのごと

うつくしきうた 残しつつ

南をさしてゆきにけるかな

 大詔

昭和十六年十二月八日

何といふ日であつたらう

清しさのおもひ極まり

宮城を遥拝すれば

われら(ことごと)

――誰か涙をとどめ得たらう


「送別」は、芭蕉の「荒海や~」や万葉集の「石ばしる垂水の~」のように、君のうたも後世に残るだろう、という激励の意も含んでいよう。

「大詔」の後には、戦後、『反響』に再録される際に〈昭和十七年の秋〉という添え書きが加えられた「菊を想ふ」が置かれ、その後、〈秋は来て夏過ぎがての〉から始まる「淀の河辺」と続いていく。

「菊を想ふ」は不思議な読後感を呼ぶ作品である。我が子が朝顔の種を小箱に入れ、〈しまっておいてね〉と手渡すシーンから始まるのだが、朝顔は植えられることはなかったのだろう、こぼれ種が家の周りや野菜畑の隅に〈ひなびた色の朝顔〉ばかりを咲かせていた、という淋しい夏が回想される。朝顔、などという風流なものにかまけている余裕が無くなり、人々の関心は〈トマトや芋のほうに〉向いている。後半を引く。


十月の末 気象特報のつづいた

ざわめく雨のころまで

それは咲いてをつた

昔の歌や俳諧の なるほどこれは秋の花

――世の(すがた)と花のさが

自分はひとりで面白かつた

しかしいまは誇高い菊の季節

したたかにうるはしい菊を

想ふ日多く

けふも久しぶりに琴が聴きたくて

子供の母にそれをいふと

彼女はまるでとりあはず 笑ってもみせなんだ


満州を巡ってじりじりと孤立化していく日本の状況は、報道管制や情報操作によって、世界列強に追い詰められていく日本、というイメージを庶民に植え付けていった。当初はナチスに対して批判的だった日本の知識人たちも、ヒトラーの〝躍進″を英雄的なものとみなす風潮に次第に呑みこまれていく。静雄がかつて講読していた雑誌『改造』が治安維持法違反に問われ、発売禁止となったのは、十七年の夏のことである。

「大詔」という、開戦の日の異様な高揚感に満ちた一瞬を回想風に書き留めたすぐ後に、庶民の風流の代表格でもある朝顔ですら楽しむ余裕が無くなっている世の姿を配置した静雄の意図は、どこにあったのだろう。琴を聞きたいというわがままも、笑みをもっての否定ではなく、このご時世に何を寝ぼけたことを、とでも言わんばかりの冷たい拒否である。〈いま〉〈菊〉を想う、それも〈したたかにうるはしい〉菊を想う、といういささか屈折した表現に、人心が戦争一色に傾いていくことへのシニカルな、どこか斜に構えたような視線が秘められている、と読むのは、穿ちすぎだろうか。

静雄は、マルクス主義、あるいはその〝革命的思想″を、〈頭では〉納得しつつも、〈ヘルツ(ハート)が云ふことをきかない〉と、醒めた目で見ていた。国家によるマルクス主義の弾圧、という背景があったことを差し引いても、熱狂的に一つの思想の中に巻き込まれていくことに、本質的に忌避感情を抱く性向を持っていた詩人だったと思われる。それにも関わらず、戦後自ら否定することになる〝戦争詩″七篇を、なぜ書くことになっていったのか。   

                               『千年樹』66号 20165月 一部修正


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by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 20:58 | 伊東静雄 | Comments(0)

伊東静雄ノート 2

前号で採り上げた「春浅き」「わが家はいよいよ小さし」「山村遊行」は、一見すると庶民のささやかな生活や、詩人の内面の夢想世界が描かれているに過ぎないが、一歩そのうちに踏み入ってみると、ごく平穏な小市民の生活を脅かす不安が暗示され、若人が多数、兵士として散っていくことへの密かな悲憤があり、我が子の将来に重なる日本の命運に対する祈りにも似た感情が、静かにつづられている作品だった。この三点はいずれも開戦の年に発表されている。開戦は十二月だから、それを知る前に作詩されていたことになる。

日中戦争は既に始まっている。海外の文化や政治にも貪欲な知識欲を有していた静雄は、日本が全面的に戦争状態に入ることも予見していたように思われる。

昭和十四年九月一日、ヒトラーのポーランド侵攻の報を受けて〈思索ばかりで行動なきものは発狂す……自分の頭脳では果して戦争に堪へるだらうか〉と率直な不安を日記に記した静雄は、翌年の十月、「夏の終」を発表する。それは近衛内閣下で大政翼賛会が結成された月でもあった。(初出時は「夏の終り」)


月の出にはまだ()があるらしかつた

海上には幾重(いくへ)にもくらい雲があつた

そして雲のないところどころはしろく光つてみえた

そこでは風と波とがはげしく揉み合つてゐた

それは風が無性に波をおひ立ててゐるとも

また波が身体(からだ)風にぶつつけてゐるとも思へた

掛茶屋のお内儀(かみ)は疲れてゐるらしかつた

その顔はま向きにくらい海をながめ入つてゐたが

それは(ぼん)やり床几にすわつてゐるのだつた

同じやうに永い間わたしも呆やりすわつてゐた

わたしは疲れてゐるわけではなかつた

海に向かつてしかし心はさうあるよりほかはなかつた

そんなことは皆どうでもよいのだつた

ただ壮大なものが(しづ)かに傾いてゐるのであつた

そしてときどき吹きつける砂が脚に痛かつた


今にも嵐が起きようとする海のうねり、風の荒ぶり、吹き付けて来る砂の痛み。小さく鋭い痛みが予感させるものは何か。海を鎮めるすべはない。絶対的な無力感の中で、小さくともくっきりとした痛みを感じながら「終わり」を予感している詩人。そこには、虚無感に深く苛まれながら、時代の様相を書きとっていく他にすべのない、自身の無力感が投影されていよう。

 一時はマルクス主義に興味を抱き、小林多喜二なども執筆していた『戦旗』を購読していたことが知られるものの、静雄は行動する思想家ではなかった。

昭和四年の時点で、〈インテリゲンチヤの悩みは、唯物史観そのものの中に理論的矛盾を発見することによつておこるのではなく、頭は唯物史観を肯定しながらもヘルツ(ハート)が云ふことをきかない憂鬱なんですね……革命的情熱を持てぬ我々には頭でだけ肯定される。そして熱情的な革命理論が、熱情なしに理解される時、それが虚無的色彩を、然も破かいされたあとに茫然とたちすくんで、過ぎゆく白雲をながめる様な虚無を我々に感ぜしむるのですね〉(一二月二一日宮本新治あて書簡)と記しているが、青空を過ぎ行く白雲のような、どこか開放的な虚無感が印象に残る。およそ十年後の「夏の終り」において、詩人の世界を覆い尽くす黒雲となって、濃厚に押し寄せて来る体感的な不安との落差は大きい。

静雄が初めて詩作品「空の浴槽」を詩誌に公表するのは、宮本宛書簡を記した翌年の昭和五年。頭では理解し得ても、ヘルツ(心)が捉えきれない漠たる不安や虚無感を表現したいという想いが、静雄に詩の公表に踏み切る一つの契機を与えたのではあるまいか。「春浅き」の中に、薄暗い部屋の中で物思いにふける詩人の姿が描かれているが、『春のいそぎ』よりもう一篇、憂愁に沈む詩人の姿をとらえた詩を引こう。 

 

 なかぞらのいづこより

なかぞらのいづこより吹きくる風ならむ

わが(いへ)の屋根もひかりをらむ

ひそやかに音変ふるひねもすの風の(うしほ)

 

春寒むのひゆる書斎に (しよ)よむにあらず

物かくとにもあらず

新しき恋や得たるとふる妻の独り異しむ

思ひみよ 氷れる岩の谷間をはなれたる

去年(こぞ)の朽葉は春の水ふくるる川に浮びて

いまかろき黄金(きん)のごとからむ


 春先の澄んだ光に、静雄の「いよいよ小さき」家の屋根も美しく照らされている。肌寒いとはいえ、これから春になることを告げる風は、「ひねもすのたりのたりかな」と蕪村に詠われた春の海のような、やわらかな潮騒に似た響きを生む。(この頃、静雄の家は風当たりの強い丘の上にあったから、春の海を思わせる風とは微風であったろう。)そんなのどやかな景の中で、一人書斎で物思いに沈む詩人の姿は、なんとも不似合である。静雄と同様、教師でもあった妻の花子が、あら、また新しい恋でもしたの?と軽口をたたく。

詩人は自分に言い聞かせる。春先の雪解け水が透明にふくれあがるように流れ始めた。凍りついていた朽葉も、金色に光りながら軽やかに流れているだろう、その景のなんと美しいことか。それを思い浮かべよ。

 〈なかぞら〉は文字通り空の中程だが、古今集に「初雁のはつかに声を聞きしより中空にのみ物を思ふかな」と詠われたように、上の空で物思いにふけるイメージも呼び覚まされる言葉である。風は、家の周りを吹き通う微風であると同時に、心の中に漠然と吹き込んでくる不穏の兆でもあろう。詩人は美しい景を思い描くことで、不安から自らを解きほぐそうとしたのではないだろうか。べっとりと茶色く氷に沈んだ葉が、金の軽やかな一枚となって軽やかに流れ始める夢想と、凍てついたように締め付けられている心が解放されることへの希求とが、重なっていく。〈朽葉〉に言の葉を観ることもできよう。朽葉となって埋もれている自らの詩語を、軽やかに輝かせる清冽な流れをこそ、静雄は求めているのである。物を読む気にも書く気にもなれない、憂鬱を持て余しながら。

 『春のいそぎ』が上梓されたのは、学徒出陣が始まる昭和十八年である。島尾敏雄が処女創作集を携えて静雄のもとを訪れたのもこの頃。島尾が海軍予備学生として出征の途につくのを、静雄は教え子で後に小説家となる庄野潤三と共に見送ることになる。胸中、どれほど複雑な想いを抱えていたことだろう。武勇を祈る一般市民としての心情と、様々な不安や憂鬱から逃避したいと願う心情、前途ある若者が死地へと赴くことへの怒り、自身の無力感の自覚など、様々な感情が烈しく渦巻いていたに相違ない。

 戦後、静雄自身が頑なに全集に収めるのを拒否したいわゆる〝戦争詩″七篇も、このような時代背景と感情の中から生み出されている。今読み返すと、時代がかった言葉で装飾的に綴られたもの、ロマン的夢想に逃避しているものなどもあるが、敗走兵に深く共感を示すような作品や、戦争そのものに倦んだような、反戦とは言えないにしても非戦を望むような作品も含まれている。戦意を鼓舞するような、安易に時代に迎合した〝戦争協力詩″に類するものは、静雄は書いていないように思われるが、この問題は次号に譲ることにして、ここでは多少余談めくが、〈新しき恋〉という〈ふる妻の〉無邪気な言葉について考えてみたい。

若い頃、静雄は盛んに恋を繰り返していた。「詩へのかどで」と自ら記した若い頃の日記を読むと、イニシャルなどで伏せられた女性たちが次々に現れるのに驚くが、欲望のままに女性遍歴を重ねたというよりも、理想の恋、理想の人を求める心理的な探索であったように思われる。初恋の女性への激しい恋慕の情を、その愛の性質に到るまで問い、同時に哲学書を読み、ゲーテの『若きヴェルテルの悩み』を、有島武郎の『惜しみなく愛は奪ふ』を、倉田百三の『愛と認識との出発』を読み……

一九歳の頃の〈loverからstrangerに、strangerからloverに変転するのが今の若い女の特長である。なまぬるい刺戟では興奮せないほど神経がまひしているのが今の若い女である。自分はそんな関係よりか〝友達〟ということをどんなに嬉しく思うだろうに。M子もやっぱり普通の女だった〉などと記しているのを読むと、早熟の秀才の精神を満たす女性など、そもそも存在したのだろうか、と首を傾げたくもなるのだが、この「友達」という言葉に、静雄の求めた愛の形が隠されているような気がしている。文学的、芸術的素養を共有し、文学への情熱を理解してくれる存在。精神的な次元で対等に語り合うことの出来る、同士のような存在。

初期の代表作「わがひとに与ふる哀歌」の中で、〈太陽は美しく輝き/或は 太陽の美しく輝くことを希ひ/手をかたくくみあはせ/しづかに私たちは歩いて行つた〉と詠われる静雄と想い人(理想の恋人)の姿は鮮烈である。セガンティーニの画集の愛蔵や、やはり初期の代表作「曠野の歌」に現れるイメージを重ねていくと、恋人たちの前に開けている空間は、太陽が燦燦と照り輝き、遠くに雪を被った山稜が連なる広大な原野として見えてくる。〈ひと知れぬ泉〉が湧き、〈非時(ときじく)の木の実〉が熟れる彼岸のような場所でもあるが、そこには全く他の人影がない。

光に溢れ、泉や永遠の木の実が実る豊かな地であるにもかかわらず、曠野と呼ぶことに違和を覚えるが、手を繋いでこの場所に歩み入る恋人以外、誰一人いない、という孤独こそが〈曠野〉と名付ける他はない所以だろう。日記や書簡などからも、静雄が強烈な孤独感を抱えていたことが知られている。〈佐賀高から京大時代にかけての伊東の姿を通観してあらためて強く印象づけられるのは、そこで圧倒的に支配しているのは「孤独」「淋しい」〝einsam〟だということである〉(山本皓造「伊東静雄の詩的出発」『PO1102003

その孤独を分かち合い、共に〈曠野〉に歩み入ってくれる存在こそ、静雄が求めていた〈わがひと〉だろう。そして、わがひと、のモデルと言われる酒井百合子は、日記や、遺された百合子宛の書簡などから顧みるに、静雄の渇望を満たす数少ない存在の一人として恋慕されていたことは確かなようである。しかし結局その恋は実らず、百合子とは〝友達″、静雄文学の理解者としての関係が長く続くことになる。

だが、〈わがひと〉は酒井百合子、あるいは酒井家の姉妹のイメージのみが投影された想い人なのだろうか。〈自分は遂に人生詩人でなければならない。魂にふれるもののみを求める精進者でなければならない〉と記した二十歳の頃から、その情熱の共感者として想い続けた酒井家姉妹との交友の中からは、発表するに足ると静雄自身が決意した詩は生まれなかった。詩が次々と発表されていくのは、むしろ静雄が結婚してから後のことなのである。

小川和佑の作成した詳細な年譜を見ると、昭和七年、静雄が二十六歳の年の初めに、高等女学校教諭の山本花子との縁談が生じている。その後、二月に静雄の父親が一万円とも言われる負債を残して亡くなる。(親族の借財の裏書きをしたゆえの不幸であった。)この金額は、当時の静雄の月収の百倍近い額だったという。弟や妹の生活の面倒も静雄の肩にかかってきている。この頃、花子との結婚が上手くいかないかもしれない、という不安を、酒井百合子あての書簡に漏らしたりもしている。花子との結婚は四月。そうした困難のもろもろをすべて承知で、花子は静雄と結婚したことになる。花子が仕事を続けたのは金銭的な理由もあろうが、夫と同じ職種ということで、仕事を続けている方がお互いに資するところがあったのではないか。困難な生活を共有し、仕事上の困難も楽しみも理解し合うことができる者同士であり、なおかつ芸術文化に対しても相互に話題を提供し合える関係は、静雄にとって〈曠野〉に手を取り合って進む真の相手を得たことに他なるまい。

負債を負ってはいたものの、静雄の文学への情熱は、結婚後も衰えなかった。むしろ、盛んになったというべきだろう。結婚した年の六月、青木敬麿と同人誌『呂』を創刊。(『呂』はこの年の末に発行禁止処分を受け、編集者は警察の取り調べを受けた。)翌年、『コギト』に寄稿、盛んに詩を発表し、昭和十年の春には『日本浪漫派』の同人になる。そして同年の秋、処女詩集『わがひとに与ふる哀歌』を上梓するのである。

その頃、静雄の家を訪れたドイツ文学者の大山定一が、〈かれの書架の一段全部に、ぎっしりドイツ語の書物がつまっていて、そのすべてがヘルダーリーンとその文献だったのを、ぼくははっきりと覚えている。ヘルダーリーンの詩は極めて難解だし、当時の日本のドイツ文学者で、ようやく一部の人が注目しはじめた頃の話だ。にもかかわらず、伊東静雄は重要なヘルダーリーン関係の書物を、ほとんど洩れなく集めていた〉と記している。洋書を買い集めるのは並大抵のことではなかっただろう。借金の返済の傍ら、教職を果たしつつ同人誌を創刊するなどの文学活動を続けることもまた、容易ではなかったはずだ。妻花子の深い理解と支援、何よりも静雄の才能への敬意と、詩的情熱への共感がなければ、静雄はこんなにも自由に詩作できなかったに相違ない。妻花子という、もうひとりの〈わがひと〉を得たことが、静雄の詩の飛躍につながっているのではないだろうか。


新妻にして見すべかりし

わがふるさとに

(なれ)を伴ひけふ来れば

十歳を経たり

いまははや ()が傍らの

(わらべ)さび(かな)しきものに

わが指さしていふ

なつかしき山と河の名

走り出る吾子(あこ)に後れて

夏草の道往く なれとわれ

歳月(さいげつ)は過ぎてののちに

ただ老の思に似たり


『春のいそぎ』と後の『反響』双方に収められた作品「なれとわれ」である。『春のいそぎ』では、愛妻を失った友のことを想う「秋の海」の後に置かれているので、なおさら印象が強い。ここに、『哀歌』の中の「帰郷者」を、特にその「反歌」を並べてみる。


田舎を逃げた私が 都会よ

どうしてお前に敢て安んじよう


詩作を覚えた私が 行為よ

どうしてお前に憧れないことがあらう


芸術家としての矜持と孤独、生活者への憧憬、故郷を棄てたことへの苦渋は、トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』に通じるものがある。静雄の孤独と葛藤を誰よりも深く理解し、寄り添って共に故郷に立つのは、妻の花子をおいて他にはいない。

 〈僅か四年そこ〱の病気で……死なせて了った家族の者として色々の後悔が残る。最後まで積極的にあんなに力強く生きようと努めた人であるのに助力者として何といふ怠慢であったことか……せめて今二三年寿命を延ばし得たら作りたいといってゐた美しい小さい詩集、――戦後の優しい作品を二十程もいれて――が出来てゐたのではなからうか。なつかしい長崎へ帰って美しい故郷の山河をどんなにか得意な筆にのせたことであらうに。〉妻の花子の手になる「病床記」より引いた。〈助力者〉――この言葉の意味は重い。

『千年樹』6520162


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by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 20:57 | 伊東静雄 | Comments(0)

伊東静雄ノート 1

伊東静雄は、明治三九年(一九〇六年)、諫早に生まれた詩人である。日露戦争終結の翌年に生まれ、大正から昭和初期の、欧米文化が積極的に受容された時期に青春期を過ごしたことになる。表紙に自ら「詩へのかどで」と大書し、〈思索ハ自己の世界ヲ発見セントスル努力デアリ 創作ハ自己の世界の創造デアル〉という言葉から始まる「日記」を記し始めたのは、大正末期、旧制佐賀高等学校に在学中の十七~八歳頃。その後、京都帝国大学国文科を経て、大阪府立住吉中学校に教師として就職する。

静雄が詩を同人誌などに発表するようになった時期は、満州事変(昭和六年/一九三一年)が勃発し、日本が十五年戦争に突き進んでいく時代とまさに重なっていた。終戦後に編まれた『反響』は、冒頭に終戦直後に生まれた詩を配し、その後、自らの詩作の歩みを振り返るように既刊の三冊から自選した詩を配しているが、それは、十五年戦争期の日本を詩人として生きた者の、自己の世界の発見と創造(あるいは、その頓挫)の記録である、とは言えまいか。当然のことながら、自閉的な内向によってのみ、詩人は自己の世界を作り上げるものではない。むしろ、外部からの絶えざる刺激によって生み出される心の波立ちが生み出す軌跡が、詩人の内部世界を作り上げていくものであることを考えたとき、詩人の内部世界に分け入っていくことは、彼を取り巻いていた時代を、彼の感官を通じて逆照射することにもなるだろう。

詩集『反響』の冒頭に置かれた〈これ等は何の反響やら〉という謎めいたエピグラフが意味するものは何か。それは、静雄の内に響いていた、戦中期の自己の精神の咆哮ではないのか。

この時代を代表する詩人の一人として静雄の精神世界を振り返り、戦中期に生きた一人の詩人の内部宇宙に響いた反響を、その木魂を、今の〝私″の内に蘇らせてみたい。想起(アナムネーシス)は、再びその〝時″を生きて味わうことでもある。先学の援けを借りながら、一作ずつ、静雄の詩を味読していきたいと思う。


春浅き

あゝ(くら)と まみひそめ

をさなきものの

(しつ)に入りくる

いつ暮れし

机のほとり

ひぢつきてわれ幾刻(いくとき)をありけむ

ひとりして摘みけりと

ほこりがほ子が差しいだす

あはれ野の草の一握り

その花の名をいへといふなり

わが子よかの野の上は

なほひかりありしや

目とむれば

げに花ともいへぬ

()けり

春浅き雑草の

固くいとちさき

()ににたる花の(かず)なり

名をいへと(なれ)はせがめど

いかにせむ

ちちは知らざり

すべなしや

わが子よ さなりこは

しろ花 黄い花とぞいふ

そをききて点頭(うなづ)ける

をさなきものの

あはれなるこころ足らひは

しろばな きいばな

こゑ高くうたになしつつ

走りさる ははのゐる(くりや)(かた)


初出は昭和十六年、雑誌『四季』五七号。昭和十八年に刊行された詩集『春のいそぎ』に収められ、のちに『反響』にも収載された作品である。

 難しいところは何一つない。さりげなく書かれているので、読み過ごす人も多いかもしれない。けれども、父と子、親世代と子世代、そして、詩人と詩作を促すもの、という三つの層から見ていくとき、この詩は当時の静雄の心境が最もよく表れた一作であると思う。

 冒頭、暗い室内に、早春の夕刻の冷気と共に一条の光が差して、幼い子供が室内に入ってくる。父である静雄は、昼間から何事かを思い煩い、いつ夕刻になったのかも気づかぬほど、ぼんやりとうつつを忘れて座り呆けている。その精神の眠りを目覚めさせるように現れる幼子は、誇らしげに顔を上気させて、背後に戸外の光を負いながら、このお花、ひとりで摘んだの。このお花の名前を教えて、とせがむ。

実に似たる花、とは、まだつぼみのハルジオンだろうか。白と黄色が見えているのであるから、あるいは咲き初めのハハコグサであったかもしれない。静雄は、実際にこの花の名を知らなかったのか、それとも、その花の本質を告げる名を「知らない」ということなのか。とにかく、「父」は困り果てる。すべなし、とはいかにも大げさであるが、それほどに静雄は追い詰められている。観念して、これは、しろ花 黄い花、とあてずっぽうの名を教えると、子供は全く疑うことなく、満足気に〈しろばな きいばな〉と作り歌を歌いながら、台所の方へ駆けていく。太平洋戦争の始まる前夜ではあるが、まだ庶民の生活は、さほど逼迫してはいなかっただろう。質素ながらも温かい夕餉の匂いが、冷気と共に静雄のもとにも漂ってきていたに相違ない。母が忙しく立ち働く台所の方へ、パタパタと走っていく子供の足音。静雄は暮れなずんでいく部屋の中で、一人静かに、その音を聞いている。

 当時、静雄の家は堺市の三国ヶ丘丘陵にあった。雑誌『コギト』(昭和十五年五月 九五号)に、静雄は以下のような文章を寄せている。〈この家は、丘陵上にあるうへに……西風が烈しくあたり、殊に冬の間は、夜も眠り難い程にゆれることが多い……また、そんな冬から、一、二度の淡い雪を経て、早春の来る美しさも、ここではっきり見たと思ふ。

 大阪の家で生れた女の子が、この家で段々大きくなった。閑暇の全部を、この子と遊んでゐるうちに、私はこのごろ、この女の子のために、一冊の童謡集を作ってやりたい気持ちになつてゐる。〉

 「春浅き」の中に登場する「幼き者」は、当時四~五歳の長女。生命力の塊のような、明るく笑い、でたらめ歌を歌う愛娘を見つめながら、静雄は〈わが子よ/かの野の上はなほひかりありしや〉と優しく美しい響きの文語で問いかける。詠嘆の調子で留められた静雄の想いは、いかなるものであったか。

この〈ひかり〉とは、もちろん夕刻の光であり、字義どおりに読めば、お前のいた野原の上は、まだ明るかったかい、という問いかけに過ぎない。しかし、時代の暗雲を察知していた「父」の問いかけであることを考えるとき、まだ、お前のいる場所の上には、希望の光は残されているか、という象徴的な意味を持つ〈ひかり〉であり、文語の持つささやくような響きは、〈ひかり〉が子供の上にはせめて在り続けてほしい、と願う祈りであるように感じられてくる。寒風吹きすさぶ厳しい冬を過ぎて、早春の野に訪れた春の兆しを、いち早く見つけて摘み取ってきた幼い娘。娘は、その春の兆しを〈暗〉い部屋にいる詩人にもたらし、その花に、名付けよ、と迫る天使のような存在でもある。

「春浅き」の発表と同年の一月に『文芸』に発表された「わが家はいよいよ小さし」には、当時の静雄を捉えていた不安が、漠然と暗示されている。


(みみ)(はら)の三つのみささぎつらぬる岡の()の草

ことごとく黄とくれなゐに燃ゆれば

わが(いへ)はいよいよ()さし そを出でてわれの

あゆむ時多し

うつくしき日和つきむとし

おほかたは稲穂刈られぬ

もの音絶へし岡べは

ただうごかぬ雲を仰ぐべかり

岡をおりつつふと足とどむるとある枯れし園生

落葉まじりて幾株の小菊

知らまほし

そは秋におくれし花か さては冬越す菊か


耳原の三つのみささぎ、とは、当時の静雄の家から南方に臨まれた、百舌鳥(もずの)(みみ)(はら)の三つの古墳群。燃え盛る草紅葉の中、我が家はいよいよ小さく、はかない存在に思えてくる。詩人は思いにふけりながら散策することが多くなるうつくしき日和は尽きようとしている。落ち葉の中に咲く小菊は、秋に咲き遅れた名残の菊か、あるいは、これから訪れる厳しい冬を、乗り越えて咲き続ける菊なのか。私はどうしてもそのことが知りたい……秋に遅れた菊ならば、すでに命運は尽き、あとは枯れるだけの花である。冬を越す菊ならば、まだ生き延びる希望が残されている燃えるような草紅葉に囲まれたみささぎ、落ち葉の中の……いずれも天皇家ゆかりの言葉である。菊の命運を問うとは、当時の庶民にとっては、日本の命運を暗に問うことであった、という推測にもいざなわれる。

「春浅き」と共に詩集『春のいそぎ』に収録された、当時の心境を示す作品を、もう一点挙げたい。同年六月に『コギト』一〇七号に掲載された「山村遊行」は、東洋の水墨画を思わせる標題、〈ユーカリ〉の響きの醸し出す西欧のムード、静雄が好きだったというアルプスの画家セガンティーニを想起させる〈ひかる〉山肌、さくらや卯の花、山吹の花が喚起する、美しい日本の山里のイメージがないまぜになった、なんとも不思議な、桃源郷のような村の描写から始まる。


しづかなる村に来れるかな 高きユーカリ樹の

香ぐはしくしろき葉をひるがへせる風は

はやさくらの花を散らしをはり

枝にのこりてうす赤き萼のいろのゆかしや

迫れる山の斜面は 大いなる岩くづされてひかる見ゆ

その切石のはこばれし広き庭々に

しづかなる人らおのがじし物のかたちを刻みゐて

卯の花と山吹のはなと明るし

ふくれたる腹垂れしふぐり おもしろき獣のかたちも

ふたつ三つ立ちてあり


ここにも、白と黄色の花が咲いている。明るい、花盛りの村の〈広き庭々〉で、思い思いの〈物のかたちを刻みゐ〉る、〈しづかなる〉人々。〈ひかる〉切石とは、大理石のように断面が白くきらめく石であろう。切石が運ばれてきた広場で、思い思いの形を刻む、という一節は、石像を彫る人々の姿を想起させる。リルケを愛読していた静雄は、リルケのロダン論を読んでいただろうか。物の形を刻むとは、イメージを作り出す詩人や画家の行為のアナロジーにも思われてくる。そうであるならば、この桃源郷のような村は、芸術家の集う場所なのだろうか。静雄の心の中だけにある、イメージの原型を切り出す採掘場であり、それを〈かたち〉に仕上げる人々が住まう、美と平和に満たされた場所。信楽焼の狸のような、どこかユーモラスな〈かたち〉を刻んでいる人もいるのが楽しい。


あゝいかにひさしき かかる村にぞかかる人らと

世をあり()なむわが夢

あゝいかにひさしき 黄いろき塵の舞ひあがる

巷に(から)くいきづきて

あはれめや

わが歌は漠たる憤りとするどき悲しみをかくしたり

なづな花さける道をたどりつつ

家の戸の口にはられししるしを見れば

若者らいさましくみ戦に出で立ちてここだくも命ちりける

手にふるるはな摘みゆきわがこころなほかり


長いこと、こんな村に暮らすことを夢見ていたのに、実際には塵の舞い上がる巷間にからくも生きている。私の歌は、漠たる憤りと鋭い悲しみを隠すものと成ってしまった……ここで、恐らく夢想世界の遊行は終わる。ナヅナの咲く現実の野道を静雄は歩いている。家々の戸口には、こんなにもたくさん、若者が戦死したという印が貼られている。怒りと悲しみをどうすることもできない私は、せめて手に触れる野花を摘み、心を鎮めるほかはない……。

〈ここだく〉と、いきなり上代古語が出てきて驚かされるが、迸る想いが、時代を遡行する語を選ばせたのかもしれない。未来ある若者の戦死が、教師でもある静雄にとっては何よりも悲しく、やり場のない憤りだったのではないだろうか。〈摘みゆき〉〈なほかり〉と韻を踏むように歌われる終行には、野花を摘む、という行為への深い想いが秘められているように思う。

「山村遊行」に先立つ二年前、静雄の代表作とされる「そんなに凝視めるな」が雑誌『知性』に発表されているが、そこに現れる〈白い(かど)(いし)のイメージ、手に触れる野花を摘んで歩みゆくという行為が、この詩の中でも繰り返されていることに留意したい。「山村遊行」は、抽象度の高い「そんなに凝視めるな」を、より具体的な景の中で再現して見せた、ある種のヴァリエーションだと言えるのかもしれない。この点については、また改めて考えることにして、今は「春浅き」に話を戻す。

詩人は何よりもまず、一人の「父」であった。大戦のさなかに生まれた長男の将来を憂い、〈戦争中には、その子の顔見るごとに、あゝこの子だけは死なせたくないと切に思ひました〉(昭和二〇年十一月 酒井百合子宛書簡)と、率直な心情を明かしてもいる。

幼子によって差し出された、白と黄色、光を暗示する色彩を持つ素朴な一握りの野花。幼子の上にいつまでも光があることを願う父の想いと、差し出された野花を「名付ける」という行為を成すことによって、暗い物思いに沈む〈われ〉から、幼子の未来へと思いを馳せる〝詩人″へと移行した〝私″。それはたとえ仮初のものであっても、詩を綴る、という行為が祈りとつながった瞬間ではなかったか。

野の上は なほ ひかりありしや……この美しい一節に触れるたび、光あれ、と願う静雄の強い願いが心中に響いてやまない。

『千年樹』64号 201511

 ※〈引用文〉、「作品名・強調」、『書名』の別で表記。旧漢字は当用漢字に改めた。 


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by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 20:55 | 伊東静雄 | Comments(0)

伊東静雄「八月の石にすがりて」を読んで

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雪景色の清里から
『ぜぴゅろす』12号が
とどきました。

小説家や詩人、歴史家、
社会学者、評論家などが、
アットホームな雰囲気の中で静かに集う文芸誌です。

以前から愛読していた
『ぜぴゅろす』に、
伊東静雄の一篇の感想と、
オマージュとしての詩一篇を載せていただきました。
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『ぜぴゅろす』12号 編集人 桜井本子/発行人 桜井節 (頒価 700円)
0551-48-3574(桜井さん宅)(ご購入のお問合せなどの際は、青木のブログを見たと、お申し添え下さい)
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by yumiko_aoki_4649 | 2017-01-18 11:17 | 伊東静雄 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
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