Yumiko's poetic world

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カテゴリ:美術展感想( 13 )

声ノマ 全身詩人、吉増剛造展 の感想を、吉増風に記してみる。

『我が詩的自伝』は、「声ノマ 全身詩人、吉増剛造展」に行ったときに、買いました、お土産に、と思って。剛造ってスゴイ響き、つよい、コワイ、ひびき・・・なんだけれど、すごくやわらかいのね、実際に声を、音声で、聴くと。上品で、ふわ~んと漂っている。ひとつひとつ、掘り出すというのか、つもり重なっている、少しぬれた薄い膜、のようなものを、すうっとめくって、裏表をゆっくり、たっぷり眺めて、ああ、この言葉ね、と嬉しくなるような感じで、言葉を抜いて、空中に並べていく。それが、ひだみたいに、天井から釣り下がって、つらなっている。

 東京国立近代美術館の、館内は全部黒、黒い空間に黒い幕を巡らせて、黒、でした。どこからでもはいれる、でられる。ひびいているんだ、かん、かん、かん・・・銅を、銅板をうがつ、音が。それから、声。文字を、ふうっと手のひらから吹いて、空間に浮べる、ような感じ、その声が、いろんなところから、流れて来る。写真の部屋、というか、ゾーン、空間。いちばん感動したのは、そこでしたね。薄い膜に写した、景色が、フューシャピンク、黄緑、カーマインイエロー・・・彗星みたいに、星の尾みたいにぼわーんとひろがって、重なって、そこに、あるんです、その、時間が。多重露光。その、場所にいた、その時の、こと。言葉を付けていく、これは、あっても、なくても、いいのね、なくてもいい、ということではないけれど、あると、もちろん、後から読む。読んだ時の、その今が、またふわあっと広がって、重なる。

 MOMAT みゅーずぃあむ おぶ もだあん あーと の略称なのかな、そのパンフレット、7を写しますね。〈怪物君 Dear Monster 2011年の東日本大震災から約一年後に制作がスタートした作品。前半の巻物仕立ての部分は吉増自身による詩作で、後半は、主として吉本隆明の著作のうち、『日時計篇』や『マチウ書試論』などを書き写した上に、水彩が施されています。前半部分では、吉増自身による本作の朗読をお聴きいただけます。また最後の部分では、〈New gozoCine〉、すなわち〈怪物君〉後半部分の制作風景を吉増自らが撮影した映像作品をモニターで見ていただけます(8台とも内容は同じです)。〉漢字と平仮名、カタカナ、全部読むのね、丁寧に、裏返すように、味わいながら。文字の大きさは声の大きさなのかと思っていたら、そうじゃなかった。ぜんぶ、ゆっくり、間を楽しみながら、読む。沈黙の間に、息が、流れたり、止まったり、する、している。絵の具をたらしたりぐしゃぐしゃにこすったり、その間も、ずっと話しているのね、隆明さんと。書き写された向こうに、ゆらゆら立ち上がる、その像をすうっとつかんだり、混ぜ合わせたり、また梳き込んだりしながら、たのしそ~うに、色を塗る、重ねる。対話、なんですよ、ずっと、そのあいだ。手を留めると、声が、終わっちゃう。だから、とめられない、えんえん、えんえん、続く。

 4のゾーンは、〈声ノート〉等、でした。カセットテープが、柱のように、といっても、横に伸びていく柱、なのですけれど、ぎっしり、並べられている。300本くらい、かな。いや、ちがうな、〈声ノート〉が300で、「声」のコレクションがあるんだ。〈ここでは総計約1000本のカセットテープを展示。天井から吊り下げられたスピーカーからは、〈声ノート〉を中心に10の音源を聞いていただけます〉伸びていく声。半分透き通った、プラスティックの箱に入った、声が、ぎっしり、並んで。

 1のゾーン、最初のところは、日誌・覚書、でした。〈19611月(22歳になる直前)から2012年までの日誌や覚書を展示しています。年を経るにつれて、「内なる声の吐露」から「(読書などを通して)外の声を聞き、内なる声を蓄えるためのメモ」へと、日誌の役割が変化したことがわかるでしょう。筆跡の変化も興味深いところです。〉同じようなノートが、たくさん、たくさん。ぜんぶ、とってあるんだなあ。残る、と思っていたのかな、死んだ後も。遺書でしたよ、全部、そう考えると。この執拗さ、丁寧さが、吉増剛造なのかな、と思うくらいに。

 螺旋階段みたいに、裏側をぐるっと回って眺めたり、その上をトントンと登って行ったり、するみたいに、声が、ありました。ずうっとソフトに、傷口にガーゼをあてるときみたいに、ふわりと覆う、声、少しだけ鼻にかかっていて、しぼりだすよう、ではなくて、内側から抜き取ってそっと置いていく、ような声。間がすばらしい。読むときの、間合い。対話、なんだと思います。亡くなって、向こう側に行った人たちとの、白い紙を突き抜けて、紙の上にゆらいでいる場所での。
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(2016.6.7~8.7 東京国立近代美術館)

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by yumiko_aoki_4649 | 2017-03-15 11:20 | 美術展感想 | Comments(0)

「明日への美」展に参加して

震災後に李景朝、三代沢史子、森田直子さんら三人の画家によって
「平和を願う美術家の集まり」という会が立ち上がりました。
五回目にあたる昨年、初めて参加した折のことをエッセイに記しました。
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by yumiko_aoki_4649 | 2017-02-04 13:08 | 美術展感想 | Comments(0)

青木 繁 画 「大穴牟知命」に想う

 父に私の乳を飲ませたことがある。
 父は当時癌で入院していた。脊髄に癌が転移し、もう歩けない状態だった。私は子供を産んで三か月ほどたち、ある程度安定して乳が出始めた時分だった。赤ん坊を同居している姑に預け、お見舞いに行くと、数時間で胸が張ってくる。そこで搾乳機を病院に持ち込み、病室の蔭で乳を搾った。
 乳白色という言葉があるが、母乳は少し象牙色がかった液体で、実に美しかった。手についたものを舐めると、意外なほど甘い。乳児用の粉ミルクを湯に溶けば近似値は味わえるだろうが、全体に白濁した粉ミルクに比べ、母乳には半透明といってもいい、透き通った美しさがあった。コロイド状に攪拌された(ホモジナイズされた)市販の牛乳と、搾りたてのノンホモ牛乳との差異を思い浮かべていただければよいだろうか。
  自宅ならば冷蔵庫に保管し、あとで哺乳瓶で飲ませたりもするのだが、ここは出先の病室である。病院の流しに捨てながら、なにかもったいないような、切ないような気持ちに駆られた。しばしば母乳の免疫力が云々される。ならば父に飲ませてみたら、多少は病気がよくなるのではなかろうか。
 匙ですくって、何回か父に飲ませた。騙すようなやり方はしたくなかったので、きちんと説明してから口にしてもらった。結局、唇を湿す程度で互いに照れ笑いをするにとどまったが、父が亡くなって10年以上経った今でも、あの時の私の行為、についてしばしば考える。
 薬、として真剣に飲ませるつもりなら、黙って食事の際に「飲み物」として添えればよい。何度も繰り返して飲ませる必要もあるだろう。たった一度きりの、まるで思いつきのような、しるしだけの乳飲ませ・・・。

 青木繁が、古事記を題材として描いた「神話画」と呼ばれる作品に、『大穴牟知命』という作品がある。オオナムチ、いわゆるオオクニヌシが兄弟の裏切りにあい、灼熱の岩を抱かされて死ぬ。その死骸を、カミムスヒに使わされた二人の女神が、貝の粉と母乳を混ぜたものを薬として体に塗り、蘇生させる物語である。
 美術史学科だった私は、もちろんその絵も、その絵に描かれた物語も知っていたはずである。既に学問の世界を遠く離れていた私は、そんなことを露ほども意識していなかったけれども・・・今思い返せば無意識の内にあの絵が、そして背後の物語が、私をいささかエキセントリックな行為に駆り立てていたような気がする。乳を成人に、それもよりによって父に飲ませる、という、ある種の呪術的行為。父の病を癒すというよりも、私自身のやるせなさを緩和する、自己治癒の性格を持っていた行為だったのかもしれない。
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by yumiko_aoki_4649 | 2013-10-19 14:01 | 美術展感想 | Comments(1)

谷文晁展

谷文晁展に行く。漢画・大和絵・禅画・韓国や中国の古典的仏教画などが混然とちりばめられ、
時にキッチュな印象すら受けるが、絶妙なバランスで統合されているので、整然と整った感を与える。
大量の模写や写生が残されていることからわかるように、自分の興味のあるもの、面白いものを
貪欲に吸収し、それを常識にとらわれずに組み合わせたところに、谷文晁の総合美があるのだろう。
しかも、ただ漠然と合わせているのではなく、今自分が何をしているのか、どんな効果を意図しているのか、
ということを、きっちり認識したうえで、確信犯的に「統合」させている。中国風の山水を8割、
2割の花と木に大和絵の手法、というような、遠景と近景に分離した「統合」や、大和絵オンリーの中に、
岩だけ中国風、あるいは狩野派山水風の岩や木々、といった塩梅で、テーマやモチーフ、領域ごとに
区分した上で、その領域内は完全にひとつの技法で描ききっている。
曖昧な、特徴のとらえがたい「混ぜこぜ」ではなく、この部分はこの技法、と明確に区分できる潔さと
その自在さに強く興味を曳かれた。25日まで。
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by yumiko_aoki_4649 | 2013-08-01 21:57 | 美術展感想 | Comments(0)

琳派、そして速水御舟の『錦木』のこと

 山種美術館『琳派から日本画へ:和歌のこころ・絵のこころ』を観に行った。31日までだったので、文字通り駆け込み、である。
 俵屋宗達の「西行法師行状絵」、御簾の筋を1mmよりも細かい間隔で均等に描きこむ精緻さと、襖絵まで微細に描きこむ集中力に圧倒された。屏風絵などの大作は言うまでもないが、絵巻断簡は間近で見ると、迫力が違う。公達たちのあでやかな衣装や岩、木の幹などには、絵の具だまりを作ったりぼかし込みを入れたりして、微妙なニュアンスを醸し出している。粉吹きの群青に鮮やかな紅葉の朱が点景として入り、ごく控えめな金泥と緑青が色を添える。極めて具体的な鹿と、池を挟んで対峙する西行の淡さ(存在感の薄さ)。大胆に後景と前景を区切る横一直線の雲の斬新さ。
 抱一の作品をごく間近で見られたことも非常に嬉しかった。おおどか、という古風な言葉がふさわしい伸びやかな画面と、きりっとしまった輪郭。ごく細い筆で迷うことなく、ぶれることも震えることもなく引かれた、金泥の葉脈。女郎花の花や萩に施された盛り上がるような点描や毛描きの見事さは、印刷図版ではとうてい知り得ない。
 モチーフを大胆に断ち切る構成力、デザイン感覚に驚かされる。写真や映画のフレームに納められたような、人工的に切り取る潔さ。その切断によって画面の外に広がる、空間の連続性。直接の師弟関係があるわけではなく、いわば作品によってつながれた宗達、光琳、抱一の存在は、日本美術の力強い流れが、地底に渦巻くマグマとなって時間の底を流れ続け、時を得て噴出した三連山である。
 その流れが、近代の画家にどのように受け継がれたのか、という二部構成になっていることも貴重な体験だった。
 個々の作品を文字通り堪能したが、特に、速水御舟の『錦木』と間近で対面できたことは嬉しかった。女のもとに、想いを伝える錦木を立てに行く若者の道行きを描いた作品。雲母粉を人物ギリギリまで塗りこまず、わずかに、体温の温もりを感じさせるほどの幅に塗り残し、一方、黒髪の部分には雲母を少しかぶせ、触れれば冷え冷えとした感触まで伝わってきそうな黒さに仕上げている。前方をきりりと見据えつつ女の家に急ぐ若者のまなざしは、柔らかくかすかな靄にけぶるように描かれている。あたかも、決意をこめて歩む若者の上気した肌が、秋のキリッと冷えた冷気を寄せ付けずに熱気を放っているようだ。
 
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 上着と下着の間に、上着から引き続いてひと刷け刷かれた胡粉の美しさ。芯を崩さずすっすっと歩く若者の、わずかに揺れる足元の動きが、残像のように浮かび上がる。当時19歳の御舟が、未知と不安を乗り越え、決然と画業に歩み出す様が重ねられているような、気迫の感じられる作品。画像では質感まで写せないのが残念でならない。
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by yumiko_aoki_4649 | 2013-04-02 15:41 | 美術展感想 | Comments(0)

エル・グレコ展

 都美術館のエル・グレコ展に行く。フェルメール展の時の、ほとんど狂騒的な混み様を想定し、喧騒を覚悟して出かけたのだが、予想以上に空いていて、じっくり鑑賞することができた。
 絵のそばに立つ。未完成にすら見えるマチエールの奔放さが目に飛び込んでくる。親指の幅ほどの筆跡を残した画面。一方向に流れるように、なでつけるように、しかし筆跡は残しながら、5㎝~10㎝くらいのタッチをリズミカルに重ねていく。フランチェスコ像などでは、ぶれずに焦点の定まった部分と、放射状に広がるタッチによりかすかなブレを与えられた画面とが意識的に使い分けられ、まるで、放射状にぼかしが入る特殊フィルターを装着して撮影した写真のような迫力すら生み出している。画面の奥から、ゆらぎながら現れ出るような、動きを感じさせる画面。人物の輪郭を明確に区切らず、勢いではみ出してしまった部分をそのまま残したような一見無造作な処理が、かすかなブレを捉えた写真のような、動きの残像として人の眼に映るのだ。
 無地の背景に聖人が描かれた作品も、近寄ってみるとレンガ色と青灰色を巧みに画面上で混ぜ合わせ、変化を出していることがわかる。柔らかな筆でなでつけるようにぼかしこみながら、境い目が消える直前で止める手加減の見事さ。
 もともとイコン画家から出発した、という画家の出自のせいか、あるいはイタリアを経由してスペインに至るまでにフレスコの技法を学んだものか定かではないが、表面を強めに洗浄したらしい作品の前に立つと、人物の下地に緑系の顔料を用い、その上にピンクや黄を混ぜた白を盛り上げて、透明感のある白人の肌を表現していることがわかる。頬やあごの影、腕や体の筋肉の影などは、墨色を柔らかな筆でぼかしこむように重ねている。全体に、グレコ特有の蒼ざめた肉体の生々しい質感と、上昇していくような、あるいは手前に抜け出してくるような運動感が漂う。
 人物のプロポーションなどのダイナミックな引き伸ばしは、ミケランジェロなど同時代の画家に学ぶだけではなく、グレコ自身が書物などから多くを学び、研究していたことを知った。ウィトルウィウスなどの書物に、グレコ自身が極めて丁寧な文字で(ということは、後世の人々が読む、ということを想定していた、ということでもある)彼の発見や反論、着想などを書き込んでいる。非常に理知的な探求者であったようだ。
下から煽って観る位置に設営されていればそれほど不自然には感じなかったと思うが、視線と同じ高さで展示された作品の前に立つと、手が顔に比して大きい作品が目立つ。肉体の引き伸ばし以上に、手の比率の大きさが印象に残った。
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by yumiko_aoki_4649 | 2013-02-12 13:34 | 美術展感想 | Comments(1)

白隠展

 渋谷文化村で開催中の白隠展に行った。近年まれにみる充実した内容だった。個人コレクションや日本各地の寺宝が集められ、テーマごとに円環を描くように作品が展示されている。
 隻眼達磨図は、未だ意図が読み解けない、というようなキャプションがついていたが、じっと見つめていると丸い雲に包まれた朝日が遠い山の端に昇ってきて、全容を見せたまさにその瞬間、を描いたもののように見えてくる。太陽は、昇り始めた時は肉眼で見つめることが出来る。でも、昇りきった途端に人の眼には堪えがたい激しい光の束となって世界を照らし始める。隻眼達磨図は、まさにその得難い瞬間、人の眼にとらえうるギリギリのところを描いたのではないか。そんな印象を受けた。
 40代の頃、白隠は驚くほど繊細かつ華麗に線を駆使し、素人目にも「上手」な作品を描いている。一方、60代以降になると、線は伸びやかさを増し、時に酔狂や出鱈目に筆を走らせたのではないか、という自在さを見せる。白隠ですら、見せる、という「こだわり」から自由になれぬ時があったのだ。誰に何を思われようとたいしたことではない、私は私、という達観、理解ではなく情解、あるいは心解、とも呼ぶべき境地を得られた、ということか。体取、という言葉を想起する。
 慈、という一文字を、ふとぶとと大きく、豊かに描いた作品があった。白隠の文字にしては珍しく字形が美しく整っている。不思議に思って近づいてみると、現代でいう「レタリング」のごとく、輪郭線を細筆で描き、中を塗り絵のように塗りつぶしているのだった。この茶目っ気と余裕には脱帽である。
 白隠が好んだ、という「人心見性佛性」という六文字の讃。今、ここにはない「はるか彼方」にしかないという「なにか」を追い求めていくのではない。求めているものは、今、ここにある。自分の内に潜み眠っている。その「なにか」を、仮に佛性と呼ぼう。佛性を目覚めさせることが大切なのだ。佛性は外にはない。内にある。そして目覚めの鍵は、外の自然の風物の中に隠されている。さらに言えば、外と内の差も大したことではない。小我を脱し、自然、宇宙と一元となるとき、その目覚めは自ずから訪れよう・・・覚者の慈言は、今もなお我々の心を惹きつけて止まない。
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by yumiko_aoki_4649 | 2013-02-07 13:32 | 美術展感想 | Comments(2)

世田谷美術館

 ケヤキの葉の散り敷くなか、世田谷美術館に行ってきました。
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 現代の美術作品の中で、コンテンポラリーアート、と呼ばれるジャンルの作品を網羅的に展示する、という、小さな百科事典のような試み、という印象でした。収蔵品を用いて、という制約の中で、意欲的な展示構成だと思う一方、お宝を並べました、見てください、という印象もぬぐえず。d0264981_14211730.jpg
 わたし個人の趣味から言えば、「騒然」とした「現代美術」の中で、舟越桂の木彫が、途方に暮れて遠くを見つめているような気がしました。駒井哲郎と舟越桂を、独立した展示スペースの中で鑑賞したかった・・・
 第3章のコーナー展示(柳原義達のブロンズとルオーの版画を、素描と共に展示)が魅力的でした。今度西洋美術館で行われる企画展にも通じる、創造過程の展示。いかにして作品が生み出されるのか、という、道程。

 続いて、前回の記事でお知らせした「アトリエ・アウトス展」を鑑賞したのですが、市川浩志さんの作品は「別格」という感じでした。こちらも立派な「コンテンポラリーアート」。世田谷美術館企画展のバスキアやニキ・ド・サンファールと同室に並んでいても違和感はないのではないか、という印象すら受けます。

 「現代美術」の中でも、特に「激情的」な方法で表現している作品が、人間の感情をあえて逆なでするような、意識的に「混沌」をさらけ出すことによって成立しているのに対して、市川浩志の作品は、「氾濫」「過剰」という言葉がふさわしいほどに「色彩」を用いているにも関わらず、落ち着いた秩序ある空間を作り出しています。
 意識して学んだ、というわけではないはずなのに、ネイティブインディアンやアボリジニ・アート、あるいは縄文土器といった「文化的遺産」の持つ民俗的・土俗的な懐かしさに通じるものを持っているのはなぜなのだろう。「自閉症」という「特性」を持つ彼の中に眠る非凡な才能、「集合的無意識」に触れ、そこから自らの肉体を濾過させて「なにか」を取り出す才能を持ちながら、それを十二分に発揮できずにいたであろう彼の中に、表現、への欲求を見出した「他者」の存在。表現する場、表現する方法を用意した「他者」の介在。
 人と人との間、と書いて人間と読む、としばしば言われますが、人間の芸術とは何か、ということを、改めて考えさせられた展覧会でした。
 両方とも、11日までです。
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by yumiko_aoki_4649 | 2012-11-07 14:27 | 美術展感想 | Comments(0)

アトリエ アウトス展のお知らせ

今年も世田谷区障害者施設アート展のお知らせが届きました。アトリエ・アウトス展。
二子玉川の高島屋で行われていた頃から、毎年楽しみにしている展覧会です。

世田谷美術館 区民ギャラリーBにて、11月6日(火)~11月11日(日)まで。
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市川 浩志 「コブシとコマタとコムナアラジン」

近年は、アール・ブリュット、というような言葉も市民権を得ているように思いますが、
彼らのエネルギーにあふれた作品を見ていると、障害とはなんぞや?と自問自答してしまいます。
障害、ではなく、生涯を感性の発露の場としている芸術家集団、あるいは、感性の完成している人たち(だからこそ、現代、という感性を鈍らせなければ生きていけない社会では生きづらさを感じる人たち)と言い直したくなってきます。
感性から感性へ、直に訴えかけてくる作品たち。ぜひ足をお運びください。
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by yumiko_aoki_4649 | 2012-11-04 11:03 | 美術展感想 | Comments(0)

山崎 優子さんの絵本原画展

本日10月17日(水)から31日(水)まで、池袋で、大好きな絵本作家さん
山崎優子さんの絵本原画展示があります!

詳細   絵本横丁 えほんの原画とことばのスケッチ展  http://ehon-yokocho.com/

我が家のスキャナーではごく一部しかコピーできなかったのですが
私の好きなシーンを少しご紹介します。(原画展で展示される作品ではないかもしれませんが…)
こっくりとした色と、ぶわあっと画面から溢れ出す「いのち」のようなもの、そして「父と子」の無言の対話、そのぬくもり、のようなものが、ジーンと伝わってきます。

「こどものあこがれ」としてのお父さん、頼りになる力強い存在、としてのお父さん、でも、じわっとあったかい、お父さん。
「お父さん」が描かれた絵本って、意外に少ないのではないでしょうか。特に、子どもを暖かく見守る存在、としてのお父さんが描かれたもの、は・・・
佐野洋子の『ねえ とうさん』とか、シャーロット・ゾロトウの『おとうさん』とか。

ぜひ足をお運び下さい!
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by yumiko_aoki_4649 | 2012-10-17 09:55 | 美術展感想 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
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