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カテゴリ:読書感想、書評、批評( 26 )

高良留美子著『女性・戦争・アジア』感想

『女性・戦争・アジア』の、広範で膨大、一つ一つの項目を突き詰めて考えていく高良留美子の仕事に圧倒されながら、関連書を繙きつつ、少しずつ読み進めた。高良氏の知識量と思索の深さはもちろんのことであるが、大きく包括的にとらえたり、異なった側面から光を当ててから緻密に検証していく論法からも、多くの学びを得る評論集だった。


読みながら、「modern」とは何か、ということを、考え続けていた。自然界の岩も川も、動植物もすべて「神」の作りだした被造物、という西欧の考え方が、対象を「物」と観る思考を促進し、自然界の事物を遠慮なく「利用」する発想へと繋がっていくのだとしたら・・・そして、神の似姿でもある人間には、それが許されている、という思考法が、産業革命以来の文化を創り出したのだとしたら・・・人が自然から切り離されていく(世界から分断されていく)近代化の帰結は、自然界への畏怖を忘れた人間にもたらされた「報い」であるような気がしてならない。


「詩における東と西」の中で、高良は〈日本人は過去一世紀以上のあいだ、西洋の文明をとり入れ、それに適応してきた。しかしそこには過剰適応の面が〉あった、と指摘している。漠然と抱き続けていたものの、言葉にならなかった違和感を、まさに言い当ててもらったような一節だった。本来アジアの一員である日本人が、「脱亜入欧」を急いだことが生み出すひずみ、自然との隔絶が生む不安や孤独、孤立感。西欧から見れば前近代的な心性の現れと認知されるかもしれない、龍神を祀ったり山の神や海の神への祭礼を行ったりするアニミズム的な伝統的な行為は、日本も含めアジア諸国において、自然への畏怖や敬意を次世代に引き継いでいく重要な役割を果たす儀礼でもあったはずだ。人も自然の事物も、自然(大地)が生み出した「もの」である、という、より大きな「全体」の中に、「物」も「者」も包含されている。意味の差異によって異なった漢字を当てられても、「もの」という音韻は同じ、おそらく発想の原点も同一。動植物だけではなく、岩や土や川などの自然の事物も人と同じように「一緒に存在するもの」である、という意識の中に、本来の平等が根差しているのではないのか。〈東と西のもつ二つの価値観の統一は、男性的なものと女性的なものの統一と共に、現代文化の緊急で本質的な課題である〉という言葉に、深く共感する。


人と人だけではなく、自然界に存在するものは皆平等、共に自然(大地)から生まれ、やがてまた土に還っていく。大地どうしをつないでいる海から「命」が生まれ、やがてまた大地に戻っていく、という循環。あらゆるものが平等に存在をゆるされているならば、本来そこに「価値の差」など生まれて来るはずがないのに、人間は優劣をつけ、自らを高い所に置こうとし・・・中には、より容易に自らを相対的に高めるために、他者を貶めようとする人もいる。

「戦争」がなぜ起きるのか、どうして「人間」「人類」は、それを防ぐことができないのか・・・文学には「起きてしまったこと」を伝えることはできても、事前に防いだり未然に留めることはできないのではないか、「現実」に対しては無力なのではないか、という、絶望的な気持ちになるが、「植民地主義の原罪と文学―9.11以後を考える」などを読むと、「戦争」を引き起こす直接的、表層的な要因が欲望や野望の衝突であったとしても、その衝突に到る過程に、他者の文化への無理解や差別意識、自分たちの文化や思想を押し付けようとする独善性(正当化する宗教、思想、理念)がある、ということを鮮明に意識させられる。この段階であれば、文学は未然に戦争と関わり、防ぐことができるかもしれない、という希望を持つこともできる。もちろん、微力であり、淡い希望であるには相違ないが。

「事実」を探り、確かめるということ、それを伝え、明らかにする、ということ・・・その時に、「出来事」を記述するのが歴史だとすれば、その時の「心情」を、同じ人間である、という普遍性を根拠として推し量り、自らのもののように感じて、心の中で再体験して、同時代の人々や後世に伝える、問いかける、その行為が文学なのだと思う。そして、同様の悲劇や苦悩を再び引き起こさない為に、人間には何が出来るのか考えさせる、自発的な行動へと促す・・・その段階における重要な役割を、文学は担っているのだと考え直す。外交交渉の現場や、国際会議の議場における弁論に、根の部分で繋がっているのが、そうした文学的な思考なのだ。


「弱いもの」に寄り添う、その立場に立って考える、理不尽や悲惨な現実について抗議し、非難し、改善を働きかける・・・そのことの「正しさ」についても考えさせられた。真の同情(憐憫ではなく)、真の共感とは何か。自身の理不尽や憤りを越えて、誰かの「為に」行動する、という行為に素朴な憧憬を抱いたり、理想的な生き方を見たりもするのだが・・・それは、自分自身にも内在する「英雄願望」の発露でもあるのではないか。そう考えた時、「為に」という行為の持つ両義性(それは「正義」の両義性でもある)そうした価値観にとらわれることの「恐ろしさ」について、考えざるを得ない。

「恐ろしい」というのは、ここしばらく、戦時中の詩人たちの日記や手紙を読んだり、行動について考えているせいかもしれない。戦時中の文学青年をとらえたある種のヒロイズム願望のようなもの、時代の「閉塞」を突破する為のモチベーションとなる思考。人は、何のために生きるか。レゾン・デートル、青臭い「自分探し」ともいえる、狭隘な思考かもしれないが・・・青年期だけの、あるいはある時代だけに見られる特殊なものではなくて、いつでもどこでも再び沸き起こる可能性のある感情なのではないか。その感情の渦が、熱狂的に再び「戦争」を引き起こすことに繋がりはしまいか。そして、知らぬ間に自分自身も加担することになっていく、ということになりはしまいか。その、熱狂の渦に巻き込まれずにいることと、傍観者として加担せずにいることとの相違は何か。巻き込まれないように注意喚起し続ける、という役割が、文学には求められているのではないか。


植民地主義や物質的豊かさ、国力としての強さを得ることが「近代化」であり「進歩」であると信じ、アジアのどの国にも先駆けてその「豊かさ」を「実現(獲得)」した明治維新以降の日本。日清戦争、日露戦争の「勝利」が、第一次大戦やロシア革命に揺れる「欧米列強」の勢力後退に由来するものでもあることを忘れ、「亜細亜」における「先進国」の地位を獲得したと自負していた日本。そこには西欧的近代に対するコンプレックスがあり、かつて憧憬と学びの対象であった中国や朝鮮の学問や文化への近親憎悪的な感情や、乗り越える、ために他者を矮小化し、侮蔑的に見下すことによって自らを相対的に高める、という歪んだ自尊感情の充足がある。「戦争」はもはや避けられない、武力が唯一の突破口なのだ、という「情報操作」があり、そうした中で目前に「死」が突きつけられたとき・・・(どうせ死ぬなら)野垂れ死ぬような無駄な死に方、無名の死に方ではなく、国家の「為」、英雄的な死を死ぬことによって、有名の死に方を得たい、死後に名前を残したい。なにか大きなものに自身の命を捧げることによって、無価値な死を価値ある死にしたい、というような願望が生起するだろう。同じような状況が現れた時、「国家の為」「公共の為」が強調されていくに相違ない。そのような時代的傾向が現れた時こそ・・・本来の「公共」とは何か。個々の相互的な尊重に基づく公共、権力者によって統括され、付与される公共、ではない、市民による自発的な公共をこそ、考えなければならない、と思う。

今現在の政治の動きや、「嫌韓・嫌中」のヘイトスピーチや書籍の横行、歴史修正主義者の主張などが、日中戦争や太平洋戦争が始まる前の日本と重なって見えて来る。歴史が単純に「再来」「再生」されるとは思わないが、過去を学ぶ、反省的に歴史を検証し、未来へとつなげていく、その歴史の潮流の(分子レベルの微細さではあっても)個人は一部を担っている、ということを、忘れてはならないだろう。その、庶民レベルの直感、庶民レベルの警戒心を、おろそかにしてはならないとも思う。昨今の投票率の低さや、政治的話題を日常化することへの嫌悪感、最近話題になった「お笑い」が政治風刺を行うことの是非、についての議論などについても、一人一人の市民が、自覚的に引き受けて行かねばならない課題であるはずだ。


宮沢賢治が、もう少し長生きしていたら・・・グスコーブドリのような自己犠牲を賞讃する傾向、世の為人の為、皆の幸せを考える、という生真面目さや「誠実さ」が、賢治を「国」の為に命を捧げよ、と主張する「愛国者」にしていたかもしれない。賢治の「国柱会」への入信などを見るにつけても、誠実に国家の未来を憂う青年であればあるほど、全体主義的な理想論、英雄主義に引き込まれていく恐ろしさを感じるし、それは今、現在に生きる私たちにも、突きつけられている課題であると思う。いつまた同じような選択の前に立たされるかもしれない、そのことに対する真の警戒心を、持つことができているか。

個々の命を尊重することと、自らの死を死ぬことは、きっと同義なのだ。国家や理念、といった、大きなもの、壮大なものに、自らの死を引き渡さないこと・・・同時に、死を私物化しない、自分だけのものとはしない。自然の中に還っていく始まり、としての死を意識することが、自然の一部として生き、個物としての孤独や孤立の不安を解消していくことになるのではないか。


思いが多方面に広がってなかなか自分でもまとめられずにいるのだが、以上のようなことを、『女性・戦争・アジア』を読みながら感じたり、考えたりしたのだった。


一章の「女性詩人」を読みながら思い出したことについても、書いておきたい。それは、最近読んだ三十代の男性詩人が執筆したブログ記事のことだった。日本の詩の百年を、ラップミュージックや現代のネット文化に詳しい「現代っ子」の眼で読み直す、という、面白い視点の文章だったのだが・・・そして、ほぼすべての話題に、同意したり感心したりしながら、読み進めたのでもあったが・・・戦時中の特攻隊戦士の遺した詩文に、企業戦士として疲弊していく自分たち男性の視点を重ねて共感する一方で、茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき」を、戦死した男たちのことなんか忘れて、新しい文化を享受しよう、そんな女性の変わり身の早さ、したたかさのようなものの現れ、という読み方をしていて、その一点に関しては、大きな違和感を覚えたのだった。(個人的に、批判のメールも送った。)もちろん、詩の読解は自由であるし、男性側からの貴重な視点として、尊重もしたいと思っている。思ってはいる、ものの・・・。

ときどき、男性たちの視線に、自分たちは企業戦士、労働力として社会で必死に働いていて、自分のための時間も満足に取れないのに、女性は楽をしている、得をしている、そんな「専業主婦」や「パートタイム主婦」への冷ややかな眼差しを感じることがある。逆にフルタイムで仕事をする女性に対して、女性としての役割(子育て)をなおざりにしている、一番大事な「仕事(家事育児)」をおろそかにして、自己実現に躍起になっている、というような見方が(姑など、女性の側からも)なされたりすることもある。

最近では、「女性詩」という言葉は死語になった、などと言う人もいるようだが(文学の世界で女性、男性、と分けること自体に問題もあるかもしれないが)、女性が女性の視点で女性の作品を読む、という行為は、男性が見落としたり誤解したりしている部分に光を当てていく、という意味でも、継続されていかねばならない。性差や社会的な差異を無くしていく、均質化していくという方向ではなく、むしろ差異を際立たせ、その際立つ中から立ち上がる、異なった視点、多様な視点をこそ、尊重すべきだ。多様な視点をぶつけ合い、共感は出来なくとも(安易な共感なら、むしろしない方がいい、)理解し合い、時には一定の譲歩もし、相互に尊重していく。意見、異見の尊重は、個人相互の尊重でもある。


五章の「詩と会い、世界と出会う旅」にも、強い感銘を受けた。

ムハンマド・オダイマ氏からの質問への〈人は言葉の海のなかに生まれ、言葉によって養われ、そして言葉の海のなかに死んでいきます。人は言葉を手段にすることも、目的にすることもできますが、人が本当にできるのは、言葉を生きることです〉(p194)という高良の回答に、深く感動した。また、マジシ・クネーネ氏の〈世界はバランスを失ってしまった。もう一度世界に調和を、秩序をもたらすことができなければ、わたしたちは大地への責任を果たすことができない〉(p243)という言葉にも、強く心を揺さぶられた。

人は、いのちを大地からいただき、言葉の海のなかで「人間」へと育っていくのかもしれない。そのことを忘れ、大地を所有物であるかのように切り刻み、「快適で便利」な生活の為に「役立つ物質」のみをかき集める行為。工業的物質文明が「進歩」と呼ぶもの・・・そんな、普段忘れていることを、思い出す、考え続ける、そしてそれを「言葉」にしていくことから、「言葉を生きる」ことは始まるように思う。言葉を欲望の伝達の為の手段として、「物」として使役するのではなく、「大地」の声を聴く、ということ。「言葉」が私たちの中を通り抜けていく時に、揺さぶったり満たしたり持ち去ったりしていく、その感覚を思い出す、ということ。〈人間はその土地に生える木に似てくる〉(p238)その土地こそが「ふるさと」「くに」なのだ。「国家」や「領土」は、その「くに」に生える木々をすべて無視して、模式図のように色分けできる平面と考える、そんな「いのち」を無視したやり方から生まれる発想なのではなかろうか。


カーリー女神など大地母神のイメージが、母系社会から父系社会へと変わっていく過程で残虐さや恐ろしさを強調する方向に変わって行った(貶められていった)であろう、ということも興味深かった。日本でも、伊弉諾と伊弉冉、両性の共同作業で世界は生み出されていったのに、火(文明)を手に入れると伊弉冉は穢れの域に追いやられて、「父」から生まれた天照が国全体を照らす、という構図に移っていく。伊弉冉は「いのち」を生み出す存在から、奪う存在としての側面ばかりが強調されていく。山姥の物語に以前から興味があるのだが、伊弉冉(大地母神)の多産、豊穣の面が「山姥」伝承に強く残されていて、興味深い。このあたりもしっかり調べていきたいと思う。


「日本の掛け合い恋歌の伝統について」の章で、高良は折口説を検討しているが、男女の役割分担のようなものが固定化している、その枠内から見ている折口の視点を、さらに超えたところから見ていく、ということの重要性にも気付かされた。今、自分が捕らわれている思考の枠組みや、社会通念から離れて、あるいはそれができなくとも、その枠内から見ている、ということを意識して、考えていくことが大切だと思う。

以上が、雑感的な補記も含めた、『女性・戦争・アジア』感想である。


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by yumiko_aoki_4649 | 2018-01-01 10:45 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

『ことづて』柏木勇一著 書評

長年、新聞記者を務めた著者による、生と死を巡る普遍的命題に触れていく作品、社会への真摯な眼差しを垣間見る重厚な喩を多数含んだ、読み応えのある作品を収めた詩集である。全体は四部に分かれている。一部の最後に置かれた「龍の眠る海」より、引用する。

 海と大地がざわついている

 この島の地底深く

 一匹の大きな龍が深い眠りから覚めようと舌をなめている

 (中略)

 龍がひとたび寝返りを打てば

 この島 あの大陸でも

 海と大地は真っ逆さまにひっくり返る

 消えたひと

 失われたものにふたたび光が当たる時がくる

 (中略・昭和十九年に弘前から招集された、著者の父と思しき男性の来歴、〈汚泥とも糞とも区別がつかない灰になった〉顛末が語られた後)

 海と大地と いよいよ天空もざわついている

 地底から響く轟音

 黒い空に鳴る弔砲

 龍よ

 目覚めて地の底を 海の底を逆転させよ

 街を森を砂浜を あらゆる墓地をひっくり返せ

 (中略)

 この美しすぎる言葉の幻想をけちらし

 鬱憤の血を今一度黒々と蘇えさせ(ママ)るのだ

 龍よ

 世界の再生を祈る時間などはじめからない

 龍よ

 龍は嗚咽が止まらない君たちだから

読みながら、震災以来続く大地の鳴動のおおもとに死者たちの憤怒や無念が渦巻いているのではないか・・・と感じているらしい著者の想いを(明示されてはいないが)強く感じた。人は地球上の生命のごく一部でしかなく、その〝思い″が天地をも揺り動かす、などと考えるのは人間の不遜でしかないのかもしれないが・・・そんな「ちっぽけ」な人間が、第二の太陽のような核技術を手にしてしまった以上、世界を滅ぼし得る怪物になってしまったことを自覚しなければならないのに、それが出来ているとは、到底言い難い現状がある。大地の鳴動は、天地の警告、あるいは懲罰なのではないか。そのことに、お前たち人間よ、気づいているのか?そんな著者の憤りのような悲しみが、激しい行間に滲んでいる。

詩集冒頭に置かれた「薔薇の殺意」には、切腹の介錯人の覚悟に通じるような鋭利な詩行が置かれている。終連を引く。

薔薇の殺意

切断するわたしは委託された加害者

犠牲と寛容の薔薇

切断は喪失ではない

薔薇のことづてをしるしたこの手首を見よ

緑と淡紅色の萌芽のために お前を切ったこの青白い手を

園芸植物に仕立てられてしまった〈薔薇〉は、新たな命の芽吹きの為に、人の手による剪定を必要とする。剪定を加害と捉え、さらに〈喪失ではない〉と畳みかける。切断もやむなし、とする自覚の思想と覚悟。それは、苦しみを断つために、名誉を贈り鎮魂の念を込めて振り落とす太刀の一閃である「介錯」に通じるものではないのか。〈ことづて〉とは、次の命のために、我を切断せよ、と告げる薔薇の言葉でもあろう。

「棘」「喪失と誕生」と続く〝ことづて″への想いは、命を引き継いでいくために生命が払う犠牲への思いであり、犠牲者への残念(思い残し)を断ち切るために、著者が獲得した鎮魂と再生の祈りなのだと思う。

「荒地の豚」「何も変わらない」など、戦後まもなくの世相を実際の体験から描き出した作品に描かれたリアルさは、過去の記憶を今の記憶に引き寄せ、直接〝現在″の感覚として体験する切実さに支えられている。「喉」の修羅のような〈〉の姿は、とりわけ鬼気迫るものがある。二連を引用する。

酒類食品販売業の父が戦死

病弱だった母は

肉屋も営み生きた鶏を捌いた

二本の足を左手でつかみ

右手に握った剃刀で鶏の柔らかい喉を刺す

キーン 鉄のような悲鳴をあげる鶏

どす黒い生血を茶碗一杯

母はごくりと飲みこむ

母の喉が脈打つ

その夜 子どもたちは

鶏のあらゆる部位を食べあさった

すべての言葉は喉をふるわせて発せられる

(以下略)

発話の根幹である喉を搔き切り、生血をすする母。子供たちを育てるために生き延びねばならない、そんな母としての愛とも執念ともつかない何かが〝そうさせた″姿であったのだろう。

二部の最後に置かれた「新年」の中にも、母の姿が印象的に描かれている。

砂粒がいっぱいしまわれた貝を抱いて母は嫁いできた

ひと粒 ひと粒

砂を弾き

貝を撫でながら

遠く光る海の方角を見てきた

大陸から還らなかったひとをしのび

還らなかったことへの恨みと哀しみ 悔いと怒り

寂しさの炎 焔 炎 焔

たいせつな貝をそっと踏みつけて高まりを抑え

ひと粒 ひと粒ずつ捨てて生きた

(中略)

ふるさとではあの三月

母の着物がしまわれていた土蔵も流された

みんな消えた

息絶えた人々の口の中は砂でいっぱいだったよ

そう耳元にささやいた

(中略)

百一年目の新年

この先は人さまに話すことではないが 

母は

クロスを張り替えたばかりの壁に汚物をこすりつけた

ふりむいた瞬間 勝ち誇ったようににんまりと笑った

まだ少女だった母が過ごした故郷、その思い出までもが流されてしまった〈あの日〉のことは、砂を口に含んだまま、今もなお故郷を探し続ける死者たちの想いと共に記憶され続ける。しかし、その想いを叙述する抒情・・・だけでは、この詩は終わらない。命の実像を見据える透徹した眼差しの鋭さ。

この詩集では、矩形に整えられた詩行(矩形に抑制された、あるいは〝押し込められた″詩行)を組みこんだ作品が複数収められていることも印象に残った。例えば最後に置かれた「救済」の冒頭。

わたしは身体である

わたしはわたしというひとつの身体である

血を吐き

涙を流し

震え凍え

笑い叫び

ときどき感情という部外者の侵入に息をひそめる身体である

神社の植え込みに身をひそめて鳩を襲い食いちぎる猫である

連絡船から飛び降りて溺死した男の血を吸いつくす蛭である

すみれのちいさな花粉を口元でほぐしながらはこぶ蟻である

(以下略)

矩形の詩形は、感情の暴発を防ぐために施された試行錯誤の結果であるのかもしれない。言葉は、溢れかえるような感情を、その音と響きの内に収めきれるのか。かならず、その枠から溢れ出し、流れ去ってしまうなにか、があるに違いない。それでも、言葉という入れ物になんとか詰め込まねば、他者に手渡すことができない。そう考えて行くと、まるで、流れ続ける川や、水平線はるかに広がる海や湖を汲み上げるような、そんな徒労であるかのようにも思われて来るのだが・・・世界、という膨大な場所で起きていることを、感じ取るのはちっぽけな「体」に過ぎない。その「体」の中に、宇宙全体を、さらにはもっと広大な世界までをも思惟の射程に収めるような、そんな「精神」や「意識」の働きがあり、「心」の働きがある。とても不思議な想いに囚われる。

私たちの「体」や、「体」が感じ取る世界の様々な「物」を通じて、はるかなところからやってきて、なんらかの痕跡を残し、また立ち去っていくもの。その痕をなぞることしかできないとしても、後ろ姿ならば思い描くことができるかもしれない。そんな「なにか」の通り過ぎた後に残るものを、「ことづて」として読み取ること・・・音やイメージで読み取る者は音楽家、画家、と呼ばれ、言葉で為そうとする人は作家、と呼ばれるのだろう。身体性を持った言葉、体の感覚を通してしか現れ得ない言葉こそが、他者に伝え得る強度を持った言葉なのかもしれない。

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by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-14 18:27 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

『夜明けをぜんぶ知っているよ』北川朱実著 書評

 本当に素晴らしい詩集だった。詩的跳躍のスプリングのきいた、余白の多い行分け詩と、散文を読みの呼吸に合わせて改行したような、物語性の強い行分け詩(改行詩)との、絶妙な混交。

行分け詩から、見て行きたい。どうしてここで、こんな鮮やかな転換や飛躍を、ふっと、いかにも自然な素振りで置くことができるのだろう。断絶したり途切れたりしているのではなく、奥深いところでつながっている、目に見えない深い穴の底でつながっているような感覚。たとえば、「地図をつくる」


(前略)

貼りつけるたびに

この天体は

たくさんのシワをつくる

(中略)

――みんな、みずのあるほうへあるいたの

子供たちは目の中に

ワニとカバを連れていて

世界は

まあたらしい地図を通過する彼らのものだ

川べりで傾いたまま

無数の青い実を降らす木

おーい、

そこの空は誰の空ですか?


はるか南方(アフリカ)の子供達へのまなざし。彼らの背後に流れる目に見えない水を、北川は透視している。国境など存在しない、子供達の未来への呼びかけが温かい。

続いて置かれた「九月の境界」の中には、飲み屋のカウンターで〈〉をたぐりよせる〈一年ぶりに帰国した人〉が登場する。日常の風景が〈はげしく時化た更地〉となり、〈人だけがいなくなった〉シャッター街を見えない海がうねっていく。震災の津波の翳を感じると共に、日常に詩を呼び寄せる際のうねりが、そこには重ねられているように思う。一枚の絵のように美しい「窓」という作品では、〈岬の家は/どこか傷ついているのか/いつまでも明かりがつかず〉という詩行に、はっとさせられる。後半を引く。


日暮れて

金色の波をかぶって

沖へ出ていくもの

あれは

小さな花と

地図を抱いた私だ

美しい水をすくうように

あの窓から

名前を呼ばれたことがある


 挿入されるように置かれた、幻想掌編小説風の散文詩(長めの行で改行していく作品)にも引き込まれた。小説も書く北川らしい、いきいきと情景の立ち上がって来る細やかな文章。日常の中で出会う、違和感や驚きを覚える一瞬。憐憫や困惑、焦燥を感じた時の主人公の心理に、知らぬ間に同調して、その世界に入り込んでしまう。

「プラスチックの旅」という作品では、電車に偶然乗り合わせた若い女が、〈ここに一歳になる息子と三歳の娘が住んでいるの〉と、自らの茶髪の頭を指さすところから始まる。女の夢物語のような〈かわいいお子さんたち〉との生活(の妄想)に語り手もつい、話を合わせてしまうのだが・・・女がイチジクを取り出し、共に食しながら〈このやわらかさ〉は、〈赤ん坊の脳みたい〉と呟くあたりから、一気に不穏な世界へと突入していく。女が離婚して子供と会えなくなった顛末、〈髪の中から子供たちの声が聞こえてきた〉話を聞かされるうちに、語り手自身も〈女の髪の中〉の世界に、入り込んで行ってしまう・・・。

「水の中の用意された一日」では、がんの再発を告げられた主人公が、〈公衆電話〉に置き忘れられたビニールポーチの中に、自分と瓜二つの別人の免許証を見出すところから、話が始まる。手帳には、かつて同級生を海水浴場で溺れさせた悔恨が記され、〈あやまりたい 住所はわかっているが会う勇気がない〉と逡巡が綴られている。主人公は、自分が本人に成り代わって謝りに行くことを思いつく。14年ぶりに会った〈同級生〉は、様々な人生の重荷を負っており、〈十四年前にあなたがうらやんだ〉私ではない、と言いながらも〈あの時の海水が 何年たっても耳からこぼれる〉ことを告げ・・・〈同級生〉に対して、何の罪も犯していない主人公が、罪を犯した女性に成り代わって〈ふくよかな耳から 生温かい水が流れ出る〉のを見届ける。

人生がもうすぐ終わる、と告げられた時、あの日、あの時に言いそびれた言葉、謝りたかったのに時期を逸してしまった悔恨が、未練となって胸を締め付けるのではなかろうか・・・そんな、誰にでも起こり得るシチュエーションに重ねて、トラウマのように残り続ける出来事や、その出来事に対して、人は償い得るのか、伝え得るのか・・・そんな言葉にならない気持ちの往還が、14年という時を隔ててもなお流れ続ける〈〉というイメージの中に濃縮されているように感じた。

散文体の改行詩、「鳥カゴの鳥」は、死者と生者とを結ぶ鳥、であると同時に、死者の想いにとらわれた心、そのものを描いているように感じた。粗筋は省略するが、死者と生者とがすれ違いながら出会い、互いに深い余韻を残す掌編小説のような詩。ぜひ、一読してほしい。


◆水

この詩集で、〈〉は見えるものと見えないもの、時空の異なる空間、異質な世界どうし・・・を結びつける溶媒のような役割を果たしている。再び、行分け詩に戻る。「なにもすることがない日に」では、子供たちの遠足の群れに紛れて入り込んだ水族館で感じた、心がしんと静まっていくような感覚、解放されるような浮遊感を持った一瞬を〈この天体に/水が生まれた日のような静けさ〉と時空を超えて把握する。「末広橋」では、見えない水の上に〈死者たちと夜ふかしをした跳ね橋〉がかかっており、そう感じた瞬間を〈天体の運行のような/この一瞬〉と言い当てる。

「夜の地図」の〈立ちあがる波に/さびしい砲弾を投げ込んだ〉という、鮮烈な一行は、時代の波が、夜のような暗さと濃厚さで押し寄せて来る、そんな目に見えない海のイメージを喚起する。〈細く砂をこぼしつづける/鉢植え〉と砂時計が重なり、世界の崩壊へと静かに時をこぼしていく〈鉢植え〉に、花が咲く時は来るのだろうか、そんな北川の、祈りにも似た問いかけを背後に感じた。


◆天体

天体〉もまた、キーワードだ。「ナイトサファリ」にも、天体が出てくる。〈この天体が/海ごと空ごと/流星になる日を知っているのだろう〉夜の獣たちの咆哮/彷徨。〈体じゅうの水が/氾濫する〉という終行に描かれた見えない水、それは、命そのものが湧き立つ瞬間、ともいえる時間なのかもしれない。「小さな図書館」にも、水と天体が登場する。〈私はいつのまにか/遠い星の水に還って//青い天体を移動する/ヌーの群れをぬらす//プラチナに光る海〉書物の中に広がっている、異界。その異界に想像力ですべりこむ、それは遠い星の・・・死後の、そして未生の羊水、イマージュを生み出す世界の羊水でもあるような気がした。

具体的な風景をテーマにしている「北上川」も、〈遠く/森が揺れ/太鼓の音が轟いてくる〉と、原始のアフリカ大陸(人類の発生の地)を思わせるような詩行から詩が始まる。〈忘れてきた時間は/忘れて来た土地から流れだすだろう〉という時間の捉え方にも、時空を超えた、見えない水が、とうとうと流れ続けている。それは、時空が存在を始める、その流れの発生する地点への想いであり、命が存在を始める、その源泉への想いでもあろう。


◆夜明け

「サシバ」の〈空は土中深くしまわれたのか/歩いても歩いても/夜に入っていけず〉も鮮烈に印象に残った。反転する世界。見えない海、触れない水に満たされた夜、そこに下降/書こう、していく時間こそ、詩の生み出される時間、なのかもしれない・・・そのことがわかるのは、きっと、早朝、〈夜明け〉という、あわい、の時間なのだ。否応なしに明けてしまう世界。

「漂流するもの」の〈夏がしずくをこぼして/すぽんと抜け落ちた〉体感的な喪失感。ここでも、見えない海が寄せている。「記憶は、」の中では、〈記憶は/来なかった夜明けを口につめて/体の外側を/旅しているのではないか〉見えない水に乗って、記憶が押し寄せて来る、あわい、の時間、夜明け。

記憶とは、物語る主体であり、物語る者、と言い換えることもできるだろう。物語は見えない〈〉に満たされ、見えない〈〉の中で寄せて来る〈〉に乗って、〈夜明け〉に、私たちのもとに還って来るのだ。

「天空のポスト」、これは実際に空の中にある、ように思われるポストであると同時に、死者たち(夜に生きている者たち)が投函するポストでもあるのかもしれない。〈この天体の/不在届のような静寂〉に満たされた場所から・・・〈あなたの詩集〉がやって来た後に訪れる、輝かしい夜明け、〈肩から背中から/まぶたから/太陽が昇ってくる〉という身体感覚に、まさに共振させられた。


◆アフリカ

「演習」は、幼児が〈物語の途中で/すばやくページを〉くると、〈瞬間/冬の緯度がかたむく〉驚きが記されている。幼児が物語の時空に傾きを加えた瞬間。幼年期の持つ未来の時間と、その未来を脅かすなにか、と闘う為の演習でもあるような気がした。「虹売り」に現れる〈アフリカ〉と、〈ひるまからシャッターが降りた/駅前商店街〉。そこに響く、虹売りの声は、見えない〈〉をたたえた湖に〈ゴーギャンが描きわすれた/虹を〉渡していく。それは、見えない水の中に泳ぎ出す子供たちの時間への想い、言い換えれば希望である。

最後に置かれた作品、「夏の音」の中で、再び原始の生命力を放つ〈アフリカ〉そして、人類の祖先である〈ネアンデルタール人〉への憧れが謳われている。〈中央アジアで消えた三万年〉〈うまれた場所へ帰ろうとしてという、回遊魚のようなイメージ。「北上川」に響いていた太鼓の響きは、同時に太古の響きであり、原始からの太鼓の響きは、人類の鼓動なのだと思う。最終連を引く。


(夜明けをぜんぶ知っているよ

遠い足をもつ人々が

裸足で街を通過していく


いのちが寄せて来る夜の岸辺のような、死せる者たちも生ける者たちと共に通過していく場所が姿を現す、日の出の時刻、夜明けの時間。

(夜明けをぜんぶ知っているよ〉このフレーズは・・・目に見える者と見えない者とが交錯する一瞬、そこから物語が生まれる瞬間を目撃した、詩人のつぶやきであるように感じた。

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by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-12 18:19 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

中村純さんの『女たちへ Dear Women』と、森崎和江さんに関する研究発表(西亮太氏)について

中村純さんの新詩集が公刊されました。
『女たちへ Dear Women 』です。

表紙に引かれた「かげ絵―女たちへ」の一節は、三「無名」の女たちの痛みに の最終連。この作品には、中村さんが2001年に出版社に勤務されていた頃、作家の吉武輝子さんと落合恵子さんの対談を企画された折の思いや、沖縄で(またしても)起きてしまった、若い女性の性暴力殺人への、言葉にならない思いについて、ショートエッセイが添えられています。

吉武輝子さんから頂いた「純さんへ 平和憲法を次世代に無傷で手渡す」というメッセージは、「女から女への手渡しの運動」であり、「私たちは、そのようにして、多くの女性の先輩たちから、どれだけの言葉と行動の花束を肉声としていただいてきたことでしょう・・・小森香子さん、石川逸子さん、高良留美子さん、麻生直子さん、森崎和江さん、落合恵子さん。詩や文学、女性運動に関わる女性たち・・・女性がひとりで夜も歩けないような街を、女性が自分を生きられない国を、若い人が自分のやわらかな新しいいのちを、無残にも戦地にさらすような社会を、望んではいません・・・」

この詩集に関連して、偶然よりも必然に近いタイミングで拝聴の機会を得た研究発表について、ご紹介したいと思います。

昨日、中央大学法学部准教授の西亮太さんの
「九州サークル村と森崎和江 炭鉱と労働運動、女性、そしてエロス」という研究発表がありました。(中央大学 政策総合文化研究所 公開研究会)

ポストコロニアル批評を本来とする西さんが、なぜ、森崎和江を読むに至ったのか。

エドワード・サイード、レイモンド・ウィリアムズ等の批評研究を通じて、炭鉱、労働問題、搾取、所有、etc. などの諸問題に興味を抱いておられたそうですが、エネルギーを使うことは、本来ポリティカルなものであるはずなのに、それが見えなくなっていた、その問題の大きさに、3.11以降、改めて気づかされたのだそうです。

被爆労働を前提とする原発が、クリーンエネルギーと呼ばれる違和感。炭鉱における危険や劣悪な労働環境、構造的搾取の問題、朝鮮人労働者の問題等に深く通じるものがあり、谷川雁らと生活を共にしながらも、谷川たちの(男性主体の)運動そのものに強い違和感を覚えていた森崎和江による、女性視点からの運動の総括(なぜ、谷川たちの運動が挫折するに至ったのか、という根元的な問も含めて)を、再読、精読する必然を覚えた、とのことでした。

谷川雁個人の資質もあると思うのですが、理想を掲げ、革新を目指して「連帯」する谷川たち(男たち)の「運動」の陰で、女たちは切実に、したたかに、生活の糧を得るための労働に従事していたこと・・・階級、民族、性差が別個のものとしてではなく、連続体として捉えられていた森崎の広範な視野について、今一度見直す必要があること。

女たちは自らの言葉で男たちや社会と「対話」する手段を拒絶されている、そこに森崎は問題の根元を見ていたのではないか、という西さんの指摘は、明解かつ鮮烈で、説得力がありました。谷川雁の(たぶんに男性社会が作り上げてきた既成概念に影響されたであろう)「ロマンティシズム」に基づくような「エロス」の概念と比較しながら提示された、森崎の「エロス」・・・両性の均等な立場における「対話」が心身を開いていく中から噴出するエネルギーとしての「エロス」、生命力の根源としてのエロスについての考察も、非常に示唆に富むものでした。

(男性中心社会からは、対話の対手としては)非在のもの、とみなされてきた女性が、男性の論理、思考回路、男性の言葉を用いて、男性中心社会の一員となって語る、という「社会参画」ではなく、女性が女性のままで語る・・・中村さんの言葉をお借りすれば、「女性が自分を生きる」中で成立する「対話」とは、男性が自然に基づく(社会的、外部的に押し付けられたものとしてではない)男性らしさを保ち、女性も同様に自然に基づく女性らしさを保ったまま、それぞれの個性に従って、自由に、対等に意思や想いを交わしあうことの出来る「対話」ということになるでしょう。

もちろん、旧来の家父的な社会制度は、かなり変化してきていますし、男性、女性という「括り」ではなく、性差を越えた、個人としての在り方、個人としての生き方が問われる時代になって来てはいますが、ゆるやかな「男性」「女性」という差異を一元化していくことが望まれているわけではない。

より多様な価値観を持った者同士が、同じ地平で言葉を交わしあうことの大切さ。社会的に、外圧として押し付けられた「性差」や「性的役割」ではなく、自ら選びとった、その人らしさ、としての立場に、人間本来の自然な在り方で立つことが出来るように、後方支援をするための「男性/女性」という差異・・・肉体的な性差からは自由な、男性性、女性性の共存、共闘を担保する性差について、改めて考えさせられました。

『女たちへ』土曜美術社出版販売 定価1000円

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by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-10 11:39 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

宮城ま咲詩集『よるのはんせいかい』感想

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宮城ま咲さんの詩集『よるのはんせいかい』が、第31回福田正夫賞を受賞されました。おめでとうございます。昨年末になりますが、宮城さんに私信でお送りした感想を公開します。


『よるのはんせいかい』ご恵送ありがとうございました。

谷川俊太郎さんが、童心や幼心というものは、大人になるにつれて失われてしまうのではなく、年輪のように真ん中に残っている、そしてポエジーはその芯の部分から発してくるのだ、とどこかで書いていましたが・・・宮城さんが少女のころの気持ちにストンと入り込んで、そこで弾むように語ったり歌ったりしておられる印象があり、心惹かれる詩集でした。

悲しすぎると、困惑して微笑むしかない、そんな時がありますが・・・宮城さんの詩行の間を蝶のように飛び回っている微笑みの妖精がいて、少女が堪えられなくなって泣きそうになると、ふっと肩に手を触れて微笑ませてくれるのではないか・・・全体に適度に配された、ユーモアを感じさせる表現の数々に、そんな温もりを感じました。

「けんとうし」の〈バックアップをとる間もなく〉、「八時二十分」のリズミカルな進行や〈父が怒らなくなる予定だったことも〉、あるいは「からあげ」の中の〈香ばしい本日のひとしな〉というような、ふっと痛切さや深刻さから気持ちをずらしてくれるようなユーモア、「雪は確かに好きだけど」の〈肉体の使用権を返却しに〉行く、というような想念(私も、魂が肉体を借りて、この世でひとときの生を過ごすのだ、という想いを抱いています)が、とても魅力的だと思います。「おめかし」に描かれる体の反応は、意識では把握できていない(あるいはあまりに悲しみが大きいので、心が感じないようにセーブしている)事柄を、体は正直に素直に表現してしまうのだということの証のように感じられました。

夜の底に押し付けられるような息苦しさの中で夢想を働かせたり孤独に耐えたりする時間が、宮城さんの詩人としての資質を育んだのかもしれません。「消しゴム買わずに」の〈息の仕方を勉強し直す〉という表現や、「物知りお父さん」の〈のしかかってくる黒い天井〉にはっとさせられました。私は幸い喘息になったことはありませんが、未体験の者にも実感として伝わってきます。

 「笑顔じゃなくても」の中で、思わず写真を探し回ってしまう自分自身に出会うという部分や、「ハズレを引き当てる」の中で思いがけない共通項に嬉しくなるところが素敵ですね。怒ってばかりいるお父さんなんてキライ・・・と思っている子ども心と、そんな自分を、どこかで好きになれなかったり、お父さんの期待に応えられない、自分はダメな子なんだ、と自信を無くしてしまったりする思春期の心、そして、やっぱり自分はお父さんが大好きだったんだ、と気づいた、大人になった今の心。好きだったんだ、と気づいたとき・・・病弱な娘を力強く、たくましく育てたかったのかな、とか、病気に負けない、強い心を持った子供になってほしい、とか、自分の娘なんだからできて当たり前だ、という〝親ばか″的な絶対的な信頼が背後に隠れていたのかもしれない、とか・・・色々なことが一気に〝わかって″くる。そんな〝はんせいかい″を行っている時間が、宮城さんにとっての詩作だったのだろう、と思いました。

「未完のなぞり絵」で、お父様が手を止めてしまった瞬間を読んで、涙がこみ上げてきました。その時、娘が成人するまで生きてはいられない、ということを、ひしひしと感じて辛くなってしまったのかもしれません。娘さんの中で生き続けているからこそ、詩に現れる。詩の中で動き出す。止まっていた「お父さんの時間」が、宮城さんの中で再び動き出す・・・もしかしたら、これからお父様のイメージは、白髪が増えて、皺が増えて、腰が曲がって・・・立派になったなあ、などとニコニコ笑いながら現れる、そんな好々爺のイメージになって行くかもしれません。

私の父は64歳で亡くなりました。高校の歴史教員でした。喘息の生徒さんを、学校で亡くしてしまったことがありました。授業を抜け出すことの多い生徒さんだったので、教室にいないな、と思いながらも、すぐには探さなかったのだとか・・・トイレで強い薬を吸引していて、心臓発作で亡くなっていたことが、後でわかり・・・それからしばらく、父は言葉を失った人のように過ごしていました。どうしてすぐに探しに行かなかったのか、と悔やまれてならなかったのだと思います。授業を抜け出していたのも、苦しさを紛らわしたり、他の人に心配をかけずに薬で抑えようとしていたから、なのかもしれません。苦しいなら、そう言えばいいじゃないか、と思いがちですが・・・伝えても、きっとわかってもらえない・・・そんな孤独を積み重ねていくうちに、喘息の苦しさを自分一人で抱え込んでしまうようになるのかもしれない・・・「物知りお父さん」の中の、救急車を呼んでもいい病気だということを、大人になってから知った、というフレーズは、さりげないけれど、とても重い一行だと思いました。

 ユーモアや子供時代の瑞々しい感性、弾むような言葉のリズム感などを、大切に詩作に励んでいただきたいと思いました。良い年をお迎えください。
                                    2016年12月30日

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by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 15:17 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

二宮清隆詩集『消失点』感想

近頃めずらしい、函入りの詩集である。しかも窓が切ってあって、エメラルドグリーンの海と銀色に輝く水平線、控えめに(波間の煌めきのように)記された書名、あわいブルーの空(を思わせる風景)が見えるという、凝った造本。
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 抜き出してみると、鮮やかなグリーンが現れる。
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緑の草原を思わせるカバーを外すと、
d0264981_13220382.jpg一転して雪原のようなストイックな白が広がる。

栞ひもは目の覚めるようなブルー。


ISBNの記されていない私家版の様だが、
丁寧なハードカバーの造本とハイセンスな装幀が素晴らしい。

表紙を開くと、見返しにまで表紙の「風景」がつながっている。

あとがきによれば、詩集の編集は大学時代のクラスメートで親友の
杉村勉氏、装幀デザインは天宅正氏とのこと。

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詩集は、一章「視野狭窄」、二章「追憶」、三章「帰還」、そして最後に添えるように置かれた表題作からなるが、ひらがややカタカナの意識的な使用、読みのリズムや時間差を意識した改行やレイアウトの工夫など、随所に音読を意識した、こまやかな心遣いが伺われる。たとえ黙読であっても、心の中で文字が音声化され、その響きが他者へと届けられる・・・そんな「詩(うた)」への想いが全篇から感じられる。

巻頭に置かれた「地図がない」は、人生の見取り図としての「地図」を未だに手にし得ない・・・そんな自分を、鏡像のように客観視するところから始まる。ラストが鮮烈だ。
〈鏡の向こうのぼくに/引き返すために地図を画いておくなんてと/一直線に反撃すると/一瞬にして鏡は割れ/鏡の中の地図を持ったぼくは/細かく砕け散り/ぼくは一人で立っていた/鏡のない部屋で〉

一直線・・・その一途さが、二宮の芯を貫いている。〈エゴの晒し合い〉〈その場しのぎの小さな嘘〉〈逃げ場のない小さな裏切り〉を許せず、忘れることもできない詩人の〈眠れぬ夜〉に、心身を冷たく濡らし続ける〈そぼ降る感情の霧雨〉(「霧雨」)。あらゆる〈うそ〉を、ひらがなの柔らかな表記に置き換えてみても、うそはうそ、許せない苦悩が薄まるわけではない(「うなされる」)。学生時代に、衝動的に死を望んだ時のエピソードが「開かない扉」に記されているが・・・欺瞞や不正を許すことのできない生来の一途さが、時には生き辛さともなって二宮を繰り返し苦しめたのではあるまいか。
「殺すな」に現れる〈黒いヘルメットの中にしまい込んであった〉記憶とは、学生運動期の苦い思い出なのかもしれない。〈無定形な自由への渇望の夢も覚め/互いに生きることを認め合わないで/刺し違えるようにして/死んだまま生きることを選んでしまった/何もかも愚劣 と奥底で渦のように笑い/拠って立つべきものを失った・・・敗北という二文字を焦げるほどに烙印された〉その後の人生。〈拒める訳もなく歯を食いしばって〉生きるために打ち込んできた仕事、内心〈しゃらくせえこちとら/何でも咀嚼しなくちゃ生きちゃいけないのさ〉とうそぶきながら生きて来た人生(「磨く」)。その殺伐とした心象を癒してくれるものが〈小さな花や虫たちに教えられる慈しみ〉(「霧雨」)であり、主に二章にまとめられた少年期の故郷(北海道)への追憶であり、三章で触れられる自然や他者との交感、饗応であったのだろう。

全篇を通じて、〈雨〉が印象深く心身を濡らしていく。〈春を前にして降る雨は・・・寒く乾いた季節を生き抜くために/潔いほどきれいさっぱり/裸になっていた木々を冷たく濡らし〉鳥たちをも容赦なく凍えさせる冷酷さを持っているが、同時に〈この春生まれてくる/もの達への祝福の雨〉でもある(「春を前に降る雨」)。「長雨の」「流れ雨」「にわか雨」・・・それは身体を濡らす雨であると同時に、〈時という雨に打たれ/日々という風に吹かれ〉(「花の言葉」)生きて来た詩人の心に降り注いだ雨であり、記憶を冷たく湿らせたり、驟雨となって押し流そうとした、過去の悲哀、時には涙の喩としての雨でもあろう。

第二詩集『消失点』を、今、なぜ二宮は編もうとしたのか。人生の消失点、〈まっすぐの線路の遠いとおい先は/点になっていた〉(「消失点」)その帰着点が、いよいよ見えて来る時期に差し掛かったから、だろうか。集中には、自身の老いを予感したかのような詩句も仄見える。しかし、〈こっかいぎじどうにむかって/ひゃっぽんの せんぼんの まんぼんの旗が/こくびゃくをきっするために〉(「八月のバラ」)押し寄せるのを目撃したこと・・・そのことによって、学生運動期の熱い情熱を、再び心中に蘇らされたこともまた、詩集を編む動機になっているのではないか、という気がしてならない。
(2017年5月発行)


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by yumiko_aoki_4649 | 2017-07-30 14:58 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

陶原葵さん『帰、去来』感想

 陶原葵さんの新詩集『帰、去来』を読みながら、感じたこと、想ったことなどを記したい。

古風で格調の高い表紙、冒頭にエピグラフのように置かれた、禅の公案・・・この詩集の世界に、入っていけるだろうか?かすかに不安を抱きながら読み始めたのだが・・・余白の多い詩行の間から、向う側へと静かに迎え入れられるような、そんな広がりと奥行きを持つ詩集だった。

今、ここにある時間と、かつてあった時間、あるいは今、ここにない時間・・・その間に広がっている、河原のようなところ。中也の「観た」であろう、抑えたきらめきで光がさらさらと流れて行くような、しん、と静まり返っている空間・・・へ、降りていく、あるいは訪ねていく。その中で佇んでいる。そんな気持ちに誘われていく。

「卯木」の小花の白、のイメージ。うらじろの森、全体に白く、抑えたハレーションを起こしているような、何処とも、いつとも知れない森、の中で・・・孵化する寸前の〈青い卵〉を、そっと手にする。ひっそりと、自分のものにする。飛び立つかもしれないものを、ひそかに私のもの、にする、どこかうしろめたいような感覚を思い出す。

「眠、度、処方」、夢の狭間に広がる、不思議な空間の中で、いったい、誰と、何と、話をしているのか・・・声を聞いているのか。茫洋とした中で、くっきりしたものに触れる、ということ。〈それは切っ先が 刹那 に 触れたと思われます〉この一節に身震いした。神経のもっとも尖った、澄んだ切っ先・・・が、〈間〉から生まれて来るものに触れた。そんな気がしたのだった。

「柱」の冒頭、〈耳のおくに澄むものが〉ここは、住む、ではなくて、澄む、を用いている。何か透明に、鎮まっていくような、存在そのもの、の気配、のような。〈通夜の果て〉に出会う人は、誰なのだろう。たどり着くのは、何処なのだろう。その人の記憶、から逃れるように、前に進まなければならない足取りの重さ・・・濃度のある大気にとらわれているような、そんな重みの中で、ゆっくりと前進していく、そんな歩行を感じる。大地そのものとなっている体を、引きずって歩いているような不思議な質感もあり・・・〈翅のない蝶〉が眼をあける、目覚める最後が鮮烈だった。

「あつまってくる夜に」は、吉原幸子さんの「をさなご」を思い出しつつ・・・孩児、という耳慣れない言葉を辞書で調べることになった。幼子であると同時に、幼児の戒名でもあるという。〈金の梨地の川〉、ここはまるで、絵の中に入っていくような感覚。金粉を撒いた日本画の、墨の濃淡が茫漠と広がる世界。死者の居る場所の方が生きた空間で、永遠の春のような、秋のような、花や果実の盛りが続いているような・・・。

「著莪」、シャガ。胡蝶花とも呼ぶことを知った。〈鏡の裏に 階段をおりてくる痛みが映る/展翅板に刺されたまま 発光する螢よ〉痛み、そのものが、存在である、ということ。哀しみ、を通り越して。針で止められた、飛び立てぬまま誰かを待っている、魂、の気配。

詩集表題ともなっている「帰、去来」。しんだわたし、と、生きているわたし、が出あう様な感覚を覚えた。過去の記憶が発芽する、想い出のはざま、のような場所。何度も何度も訪れては、またそこを立ち去らねばならない。既に記憶にない、もしかしたら祖先たちの記憶であるのかもしれない、そんな古いものが、地層から芽を出しているような感覚があった。

〈(つかれていた/意味を問うことに)言葉を、すべて意味から解放できたら。どうしても、言葉が通じない、論理が届かない。そんな時、いくら説明を尽くしても、尽くしきれない、そんな時・・・なおさら、言葉、の意味を、そっと水に流してしまいたい、そんな気持ちになる。〈自転の鼓動に呼ばれてしまって〉地球そのものと一体化しているような、時を超えた存在と同化しているようなスケールに惹かれる。

44頁あたりからの、言葉がポロポロと散らばりながら集まって来るような、その余白から聞こえて来る、声。南洋で兵士として戦った者の声・・・それは、御父上なのか、あるいは・・・。書架の奥で、埃にまみれた手記を繙いているうちに、時の狭間に置き去られたような感覚になる、しんと穴ぐらの底に坐っているような気がしてくる・・・そんな想いに引き寄せられていく。

「淵」も不思議な質感を持つ作品だった。鳥の姿となった死者・・・自らはそのことに気付かないまま、そんな死者たちが、ひとり、またひとり、と訪れる、そんな明るい谷間を想い浮かべる。〈あんがい深い根 なのだと知る/なつかしいものなのだ永遠とは〉戻っていく場所。根の国、という言葉があるが、ねむりの間にながれだしているもの、とは、なんだろう・・・意識が夜ごと体を抜け出し、形をとるのかもしれない。「減築の庭」、これはまるでわらべ歌のようなリズムに乗せられて、何か懐かしい空間に呼び込まれていくような作品だった。〈ひとであることを証明できるものはなにもない〉そう、私たちは、人、であるけれど・・・人って、なんだろう。増築、ではなく、少しずつ減っていく改築、とは・・・。家を建て直す。取り壊す。そのたびに掘り返す庭・・・過去の重層の中から現れて来る、骨、影、姿・・・。記憶の中にだけ残る、かつてあった、家の形。庭の姿。

「20×5」、この題は、人の一生を示しているのだろうか。記憶にあるのは、10代から?20代から?〈それにしても正しさは寂しさを肯い続ける〉正しくあろうとすれば、寂しさに出会わねばならないのか。〈どこにも還ることのできない宇宙葬ほど/ざんこくなものはないのです〉どこにも受け入れられない、彷徨い続ける躯。もし、〈正しさ〉を選択したがゆえに、寂しさの海を漂うのだとしたら。

生きて流れて行く、その時間の中で出会う、くっきりとした硬さ、のようなもの。それが、〈高い氷点〉であるのかもしれず・・・〈冷え の純度〉であるのかもしれず・・・それこそが、〈それは切っ先が 刹那 に 触れた〉瞬間であるのかもしれない。

死者たちが集う空間に、現身のまま招き入れられるような、そんな静けさを感じる詩集だった。私の亡くなった父も、こんな場所にいるのではないか。出会ったことはないけれど、過去の詩人たちとも、ここでなら出会える。言葉が形をまとって、透き通った幼子の躰をとって、河原にしゃがんでいる、ような・・・そんなイメージの中を旅していく、そんな時間を、味わうことができる。部分引用ではなかなか、感じたことを伝えられそうにない。ぜひ、全体を通読してほしい。

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by yumiko_aoki_4649 | 2017-06-21 11:06 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

平井達也さん『積雪前夜』書評

この世を詩の眼で観てみよう……ユーモアという拡大鏡 

 日本人はユーモアが足りない、としばしば言われるけれども……深刻過ぎて心身に異常をきたしかねない事態を、笑いに転換することでベクトルを変え、新たに課題に取り組むエネルギーの糧とする……平井達也詩集『積雪前夜』は、そんなユーモアの効能をたっぷり味わうことが出来る。巻頭の「ネクタイ」は、こんな軽妙さで始まる。
 
 ネクタイに誘われて茶色いのを買う
 茶色いネクタイにぶら下がって仕事する
 昼にはネクタイが窮屈そうなので
 解いてポケットに収めてやる
 
 物に過ぎないはずの〈ネクタイ〉が、友人のように〈私〉を誘う。つり革のように〈私〉を支える。昼休み、〈私〉は愛玩動物のように〈ネクタイ〉を愛おしみ、休ませてやる。スピーディーに繰り出されるネクタイとの様々な関係性は、仕事をする〈私〉(の喩としてのネクタイ)と、その〈私〉を見ている書き手の〈私〉との絶妙な間合いから生まれている。
 一連目では〈ネクタイ〉はいかにも〈私〉の味方、といった顔つきだが……〈上司の席に行き叱られる〉私を見て〈しわしわ笑っている〉ネクタイは同僚のミスを力なく笑う周囲の目線となり、〈口下手なくせに余計なことを言ってしまう〉私と違って〈賢いから黙っている/単純な結び目を固く締めている〉四連あたりになると、要領よく振る舞って手堅くトラブルを回避する同輩の喩へと、いつのまにか変貌している。

 シャツとネクタイの合わせ方がわからない
 色々な帳尻の合わせ方もわからない
 実は結び方が間違っているのかもしれない
 ネクタイは意地悪だから
 困っていても助けてくれることはない(五連)
 
 文字通り〝ないない尽くし″の終連では、ネクタイは世渡りベタな自分自身であると共に、意地悪な傍観者に姿を変える。読後に爽快感が残るのは、言い切りの形を多用した軽快なリズムのゆえだろう。サラリーマンの悲哀や孤独を、読者の誰もが共感可能な平易な比喩に託し、いわば洒落のめしているところに読後のカタルシスがある。
 『積雪前夜』の第一部は、カレンダー、クリアホルダー、複合機(コピー機)、穴あけパンチなど、職場で〈私〉を取り巻く〝物たち″が、それぞれの特性や適性に応じた絶妙な喩となって〝働く人達″を風刺している。人達、と複数形にしたのは、サラリーマンとして働く自分自身にも均等に批評眼が注がれているからだ。皮肉を効かせた詩句が続いても辛辣に成り過ぎないのは、たとえば「複合機」の最終行〈とはいえ嫌いにはなりきれないな〉に垣間見えるように、作者の根底に人間への愛情や信頼があることにもよるのだろう。
 「商談」のような働く行為そのものも、ユーモアで世界を塗り替えていく平井の腕にかかれば……

 フレアスカートの裾みたいにひらひらした
 商談にみんな夢中で電卓が悲鳴を上げる(一連)

 営業マンというのも大変だ
 都内で雪男が発見されるくらいに大変だ
 山手線の外回りと内回りが結婚して
 小さな山手線を産むくらい大変だ(三連)

といった具合、実に愉快。過重なストレスを笑い飛ばして、最後は〈電卓と正直さは叩かれっぱなしだ/ほんとうに私たちが交わすべき契約は/どこかの錆びた金庫にしまいこまれたまま〉と、ピリリと社会風刺も効かせて、詩をきっちりと締めるところがニクイ。
 少し〝仕事″から離れて〈私〉の私生活の方に踏み込んだ第二部に、「ペンキ塗りたて」というユニークな作品がある。〈私の魂はペンキ塗りたて/だから 触れないで〉……長年痛めつけられ、〈地の色が/あらわになってきてしまったから〉魂にペンキを塗り直した、〈今度はあざやかな原色に/目を射るような色に/もう直視させないし/好きに揺さぶるような真似もさせない〉という、生まれ直しの意志と強さを感じさせる詩。この強さを〈私〉に与えたものこそ、詩の力だったのではないか。とりわけ、平井が得意とする喩の力。
 ユーモアの喩に鋭角の批評精神が備われば、身辺を歌う行為も社会批評となる。第三部では、ともすると陰湿で閉塞感に満ちた現状把握となりかねない状況を、乾いた質感で塗り替え、軽妙に風刺していく。飄逸さと文体の勢いが心地よい。
 「積雪前夜」は、〈雪は降らなかった。空が我慢したのだな…こっちには我慢しきれないものがある〉と不穏に幕を開ける。〈指先は冷えっぱなしだし停止線は無視されっぱなしだ〉、〈潰れた文房具店の前で酔い潰れた自分がいる。邪魔なので蹴りのける〉、〈幸い風がないから連帯の旗はだらしなく失神している〉など、昨今の政治情勢やリストラなどの社会不安、個々人が分断され、一人一人が孤独に社会に対せざるを得ない時代を、さりげなく風刺している。〈コンビニで使い捨てカイロに同情の眼差しを向けられる。同情される筋合いはねえよ。こっちは冷えて固まって終わりというわけにはいかない。〉滾るような怒りが行間から滲み出る秀作である。
 「グミの両義性について」もユニーク。飄逸な筆致で、詩の社会性の問題に切り込んでいく。ナチス誕生の時代に、小児の歯を強くするという目的でドイツで開発されたお菓子のグミの硬さを〈詩の硬度〉に比しつつ、わが国のグミは〈柔らかめ〉であったのに〈最近わが国でもゼラチンを多く含むグミが売られるようになった〉と軽やかに警鐘を鳴らす。
 〈穏健派の夢は幸福な結末へと向かっている。遺失物になりそうな私は鍵を握りしめる〉(「おはよう」)現状に違和感を覚える〈私〉が、握り締めている鍵こそが言葉だろう。現状肯定の多数派に取り込まれずに、ちょっと斜(はす)から世の中を見ていようぜ、そして声を上げようぜ……そんな詩人の心意気が、軽妙な筆致の中にしたたかに盛り込まれた詩集である。
『潮流詩派』249号(2017年4月刊)掲載
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by yumiko_aoki_4649 | 2017-04-24 14:31 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

ジェフリー・アングルスさんの『わたしの日付変更線』書評

ジェフリー・アングルスさんへの手紙

     ――『わたしの日付変更線』書評に代えて

青木由弥子

                       

はじめまして。ジェフリーさんの(と呼ぶことをお許しください)詩作品をいつも楽しみに拝読しております。このたびは、「読売文学賞」のご受賞、本当におめでとうございます。

二〇一七年の〝読初め〟に選んだ『わたしの日付変更線』。〈四十四歳で初めて会った母に〉という一行は衝撃でした。一九七二年生まれの私が、ちょうど四十四歳で迎えるお正月に、この詩集を読んでいる。

「日付変更線」を拝読し、ついさっきまでは明日、未来、という未知のものであった時間が、今日、という現在になる不思議について、考えずにはいられませんでした。どうしてその間に、明確な線が引けるというのでしょう。ジェフリーさんは、ゆっくりと水に包まれていく肌感覚になぞらえておられますが、これ以上ない程にしっくり当てはまる表現だと思います。無い、が、有る、になる時・・・必ずそこには、目に見えない、変化の為の準備期間があります。言葉が生まれて来る時も、人が生まれて来る時も。ジェフリーさんが用いる言葉たちは、意味を運ぶ〝乗り物〟や意味を入れる〝入れ物〟ではなく、意志を持って自由に振る舞う〝生き物〟であるように感じるのですが、それはきっと、感覚の生まれるところ、皮膚の内と外、その繊細な感受の場所に意識を集中し、そこで外界を受け止め、受け入れ、あるいは内なるものを感じようとしているからなのだ、という気がします。

「翻訳について」や「文法のいない朝」を読むと、融けあうこと、一つになること、境界を越える、あるいはなくすことへの切望を感じ、そこに〝交感〟へと向かう強いエネルギーを感じます。「同居人」「字間の静寂」と読み進めながら、内と外との間に壁を設けるのではなく、窓や扉、隙間といった〝交流〟〝交換〟の仕組みを模索し、合一を求めて流出するエネルギーの自在な出入りを促す、キラキラと輝く眼差しが見えます。〈静寂を分泌する言葉〉の持つ体温。出ていくものが多い程、流入してくるものへの渇望を呼ぶ。その静かな対流は、はるか古代に生命が誕生した時に始まった、内と外との交換を連想させます。

原始の、アミノ酸やミネラルのたっぷりとけこんだスープのような海の中で、ぶつかり合ったり、刺激を受け合ったりする中でcellが生まれ、内と外、その間に境界が生まれる。その一枚の膜を物質が透過していく、流入と排泄という対流、交換を繰り返す。その運動が始まる瞬間のことを、生命の誕生、と呼ぶのだそうですが・・・。肌や壁、時間といった境界を越えて交感を求め続けるジェフリーさんの言葉たちを〝生きている〟と感じるのも、ごく自然なことなのかもしれません。もっとも、本当に一つになる、ということは・・・自身の境界の喪失であり、解体であり、無へと拡散していくことでもある。無の海の中から個という膜で囲み取られ、交換/交感を切望しながら(摩擦や孤独に堪えながら)個を保ち続ける、それが有、ということなのであるならば・・・有ることによって生じる時間の経過を生きるということは、喜びと共に、なんと厳しい運命を個の上に課すのでしょう。

『ミて』131号に転載された、伊藤比呂美さんとの往復書簡を拝読し、ジェフリーさんを探し続けていたお母様が電話口で〈泣いて泣いて泣いていた〉という一節を読んで・・・思わずもらい泣きしました。子が母から生まれる時、母の感じる胎動の不思議。そっと押し返すと、内から応えるように押し返してくる、自分の中にあって、自分ではない存在。子もきっと、母の心音を聴き、声を聴き、体温を感じているに違いない。その子を手放さねばならないことを知りながら、生まれ出ようとする子の存在を痛いほどに感じていた御母堂のことを想いました。

「見なかった息子」・・・見せてもらえなかった、見えなかった、ではなく(のみならず)、見ない、という意志を持った言葉。その自らの選択が・・・致し方なかったとはいえ、四十四年間、お母様の胸を刺し続けていたことだろうと思います。母ではなく〈母体〉と〈新生児〉という単語が用いられている距離感も、私にはとても大きなものでした。それは、「時差」を読んだ時に感じた隔たりの大きさに匹敵するかもしれません。母からの、そして子からの、想いの流入と流出。二人の間に生きて流れるはずだった時間が、凍結されたまま流れを止めてしまっていたことの重さ。「時差」を読みながら、深い谷を隔てて向き合う二峰の、そそり立つ険しさを思わずにはいられませんでした。背面を凍てつかせたまま、野に開かれた側では花を咲かせ、生き物を養ってきた、二つの季節に引き裂かれ続けた二つの山。二つの峰の間には、空間と共に空白の時間が霧のように充満していて、姿を見ることもままならない・・・そんなもどかしさが、〈時間が進むのは わたしだけ〉〈ひとり残されて わたしは〉という悲痛な詩行の間から迫って来ます。けれども、お母様の胸の中では、時は止まっていなかった、とも思うのです。顔の見えない、ぼんやりとした人影のような存在であったとしても〝息子〟は母の胸の中で育ち続け(だからこそ探し続け)、共に四十四年の時を歩んでいたのではないか・・・。

「見なかった息子」には、あらゆる子供たちに息子の面影を見、いつしか自然の中に息子の気配を感じとろうとするようになる母の姿が描かれています。それは、日本で昔から月に人を想い、山に愛する人を重ね、野を渡る鳥に想いを託して来た、アニミズム的な感覚に似ている。〈どの山の下にも/どの鳥の中にも/宿るようになった〉〈多数になった〉息子を想う母の姿は、山川草木、花鳥風月、あらゆるものの中に母の影を見る息子の姿でもあるように思われました。ジェフリーさんの日本文学への興味や、ネイティブ・アメリカンの世界観や文化への興味にも、繋がって行くように思います。

「地震後の帰国」の中に、大地に描かれた文字を読み解きたい、という願いが現れるのも、「風の解読」の中で風が描き出す軌跡を〈未来の言葉〉〈起こっていないことを語る〉言葉として読み解きたい、と欲するのも、「ミシガンの冬」で〈風の声〉を読み取ろうとするのも、自然の中に拡散していったご自身の思い――母との凍りついた〝時〟が、いつ雪融けを迎えるのか、友が安心と平穏をいつ得られるのか、そんな未来の見通しを、烈しく求めておられるからなのでしょう。『わたしの日付変更線』は、「未来へ」という章が最後に置かれ、やがて春を兆して閉じられます。凍てついた過去が、萌え上がる春になる時、喪失であった空間にはきっと、色とりどりの花畑が現れることでしょう。また、私の宝物が一冊、増えました。素晴らしい詩集をありがとうございました。どうぞ、お元気で良い春をお迎えください。   かしこ 

『ミて』138号掲載 とても素敵な詩誌なので、写真も掲載します。

ミてのサイトは、http://www.mi-te-press.net/

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by yumiko_aoki_4649 | 2017-04-13 11:29 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

山下洪文さんの『夢と戦争「ゼロ年代詩」批判序説』書評

「現代詩」が戦後辿って来た道のりは、本当に正しかったのか。実存の闇や社会的苦悩との闘いを回避し、言語空間に逃避して安らっているだけ、言語的実験、新領域の開拓を試みているつもりが、実は言葉の破壊に過ぎなかったのではないか……そんな問いを烈しく突きつける評論集が出来した。戦時中から現代に到るまでの創作主体の様態を探り、現代(の詩や言葉)を侵食する「虚無」の増大と今後の方向性に警鐘を鳴らす、極めて意欲的な評論集である。

 山下は吉本隆明の論を継承しながら、「戦争と戦争のもたらした切断から、平穏な日常へ、詩的主題はうつっていった。そして、それだけだった。荒地を忘れた詩人たちは、始原にふれることも未来に向かうこともなく、ただ〈現在〉を蕩尽した」と批判する。断片化する世界を主体的に統合し、言葉によって意味づけていく主体の喪失を厳しく批判し、「断片の継ぎ接ぎが詩になってしまう情況」を積極的に称揚するかのような批評の在り方を批判する。そして、「虚無」の懐胎と詩の変質を七〇年代詩に見て、以降にトップランナーと目された詩人たちとその作品を、各論で容赦なく断罪していく。

批判を展開する際に山下が用いる暴力的、罵倒的な表現は、読者の議論や興味を喚起する為の戦略なのか、山下自身を鼓舞する為の必然なのか判然としない。その手法に疑問が残るものの、現代詩の向かう方向性そのものに関して、一石を投じる一書である。

『夢と戦争「ゼロ年代詩」批判序説』山下洪文 未知谷 2000

   『詩と思想』2017年4月号「新刊selection」コーナー掲載


600字という字数制限があり、書けなかったことを補足しておきたい。

『詩と思想』1・2月合併号の座談会において、山下氏の『夢と戦争』について意見を交わした際、私は「方向性としては間違っていないと思うんですが、徹底して罵倒的な表現で批判するという方法論は、私は間違っていると思いました(以下略)」と述べた。付言するなら、男性主体の批評言語の中で、女性蔑視的な意味合いを持った言葉が、それと意識されないままに「比喩」として用いられて来た過去があるが(戦後すぐの「日本浪漫派批判」の中で展開された「政府の公娼」といった表現など)山下氏の評論の中でも「凌辱」「売春宿」「石胎女」といった言葉が――もちろん、女性蔑視の目的で用いられているのではなく、文学的比喩、としての用法であるけれども――作品批判に用いられている点にも違和感があった。

現状を分析し、評価し、批判する。そして、原因を推定し、より良い方向(批評者が信じる、理想とする「詩」の在り方)に向かって糺していく。この手法と方向性において、私は山下氏と近い立場にいる、と思っている。しかし、その際に――排他的かつ感情的な表現を用いる、という方法で糾弾するのは、適切な手法なのだろうか?という疑念を払拭することができない。(多数の団塊世代の中高年男性詩人から、あれくらいの激しさが無いと批判できないんだよ、とか、若いうちは、あれくらい尖がっている方がいいね、とか、痛快だね、伐って伐って伐りまくるところがよかった、というような肯定的な評価を多く聞いているので、なおさらである。)


新しい現実、として現れる外界と、戦ったり折り合いを付けたりしながら、いかに交流、交通していくのか、という、外へ向かっていく言葉の発話と、自己の実存を問う、内へと遡行する詩の言葉の探求、その双方が機能しなければ、よりよい詩は生み出されない、と思っている。外に向かっていく創作は、常に時代の変化に翻弄される。その表現手法が、仲間内でのみ共有・交換される閉鎖的なものであれば、普遍性は得られないだろう、その点においても――また、かつて「主体」のあった場所は「無」となってしまったのではないか、という山下氏による現状の診断にも、全面的にではないが、同意しつつ――語る主体が分散し、拡散しつつ一つの構造として外殻を作り、その外殻において世界との交通を試みる。世界を敏感に察知、感受し、それを(断片的な表出であったとしても)編集する主体、というような、新しい主体の在り方が、表現の中に現れている、そんな読み方は出来ないか、という異論や、「ゼロ年代詩」を十把一からげにして批判、断罪するのではなく、今をよりよく表現しているものを選択し、後世に残していくことも重要ではないのか、という疑問を抱き続けている。


1・2月合併号に山下氏が寄稿している「世界は朝霧のように――「ゼロ年代詩」以後――」において、「歴史」を作りだす側ではなく、まるで「歴史」の傍観者の側に立たされているかのような現代の状況を、詩人はどのように把握しているのか、という問い――山下氏の表現を借りれば〈事後性すら去った後の、奇妙な場所に立っているのではないか?事後性の後にいったい何が書かれうるのか?世界を失った詩人の世界観は、いかなるものなのか?〉という問いに、的確な批評と分析で山下氏自身が答えていることも、付記しておきたい。





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by yumiko_aoki_4649 | 2017-04-12 11:18 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
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