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カテゴリ:読書感想、書評( 20 )

ジェフリー・アングルスさんの『わたしの日付変更線』書評

ジェフリー・アングルスさんへの手紙

     ――『わたしの日付変更線』書評に代えて

青木由弥子

                       

はじめまして。ジェフリーさんの(と呼ぶことをお許しください)詩作品をいつも楽しみに拝読しております。このたびは、「読売文学賞」のご受賞、本当におめでとうございます。

二〇一七年の〝読初め〟に選んだ『わたしの日付変更線』。〈四十四歳で初めて会った母に〉という一行は衝撃でした。一九七二年生まれの私が、ちょうど四十四歳で迎えるお正月に、この詩集を読んでいる。

「日付変更線」を拝読し、ついさっきまでは明日、未来、という未知のものであった時間が、今日、という現在になる不思議について、考えずにはいられませんでした。どうしてその間に、明確な線が引けるというのでしょう。ジェフリーさんは、ゆっくりと水に包まれていく肌感覚になぞらえておられますが、これ以上ない程にしっくり当てはまる表現だと思います。無い、が、有る、になる時・・・必ずそこには、目に見えない、変化の為の準備期間があります。言葉が生まれて来る時も、人が生まれて来る時も。ジェフリーさんが用いる言葉たちは、意味を運ぶ〝乗り物〟や意味を入れる〝入れ物〟ではなく、意志を持って自由に振る舞う〝生き物〟であるように感じるのですが、それはきっと、感覚の生まれるところ、皮膚の内と外、その繊細な感受の場所に意識を集中し、そこで外界を受け止め、受け入れ、あるいは内なるものを感じようとしているからなのだ、という気がします。

「翻訳について」や「文法のいない朝」を読むと、融けあうこと、一つになること、境界を越える、あるいはなくすことへの切望を感じ、そこに〝交感〟へと向かう強いエネルギーを感じます。「同居人」「字間の静寂」と読み進めながら、内と外との間に壁を設けるのではなく、窓や扉、隙間といった〝交流〟〝交換〟の仕組みを模索し、合一を求めて流出するエネルギーの自在な出入りを促す、キラキラと輝く眼差しが見えます。〈静寂を分泌する言葉〉の持つ体温。出ていくものが多い程、流入してくるものへの渇望を呼ぶ。その静かな対流は、はるか古代に生命が誕生した時に始まった、内と外との交換を連想させます。

原始の、アミノ酸やミネラルのたっぷりとけこんだスープのような海の中で、ぶつかり合ったり、刺激を受け合ったりする中でcellが生まれ、内と外、その間に境界が生まれる。その一枚の膜を物質が透過していく、流入と排泄という対流、交換を繰り返す。その運動が始まる瞬間のことを、生命の誕生、と呼ぶのだそうですが・・・。肌や壁、時間といった境界を越えて交感を求め続けるジェフリーさんの言葉たちを〝生きている〟と感じるのも、ごく自然なことなのかもしれません。もっとも、本当に一つになる、ということは・・・自身の境界の喪失であり、解体であり、無へと拡散していくことでもある。無の海の中から個という膜で囲み取られ、交換/交感を切望しながら(摩擦や孤独に堪えながら)個を保ち続ける、それが有、ということなのであるならば・・・有ることによって生じる時間の経過を生きるということは、喜びと共に、なんと厳しい運命を個の上に課すのでしょう。

『ミて』131号に転載された、伊藤比呂美さんとの往復書簡を拝読し、ジェフリーさんを探し続けていたお母様が電話口で〈泣いて泣いて泣いていた〉という一節を読んで・・・思わずもらい泣きしました。子が母から生まれる時、母の感じる胎動の不思議。そっと押し返すと、内から応えるように押し返してくる、自分の中にあって、自分ではない存在。子もきっと、母の心音を聴き、声を聴き、体温を感じているに違いない。その子を手放さねばならないことを知りながら、生まれ出ようとする子の存在を痛いほどに感じていた御母堂のことを想いました。

「見なかった息子」・・・見せてもらえなかった、見えなかった、ではなく(のみならず)、見ない、という意志を持った言葉。その自らの選択が・・・致し方なかったとはいえ、四十四年間、お母様の胸を刺し続けていたことだろうと思います。母ではなく〈母体〉と〈新生児〉という単語が用いられている距離感も、私にはとても大きなものでした。それは、「時差」を読んだ時に感じた隔たりの大きさに匹敵するかもしれません。母からの、そして子からの、想いの流入と流出。二人の間に生きて流れるはずだった時間が、凍結されたまま流れを止めてしまっていたことの重さ。「時差」を読みながら、深い谷を隔てて向き合う二峰の、そそり立つ険しさを思わずにはいられませんでした。背面を凍てつかせたまま、野に開かれた側では花を咲かせ、生き物を養ってきた、二つの季節に引き裂かれ続けた二つの山。二つの峰の間には、空間と共に空白の時間が霧のように充満していて、姿を見ることもままならない・・・そんなもどかしさが、〈時間が進むのは わたしだけ〉〈ひとり残されて わたしは〉という悲痛な詩行の間から迫って来ます。けれども、お母様の胸の中では、時は止まっていなかった、とも思うのです。顔の見えない、ぼんやりとした人影のような存在であったとしても〝息子〟は母の胸の中で育ち続け(だからこそ探し続け)、共に四十四年の時を歩んでいたのではないか・・・。

「見なかった息子」には、あらゆる子供たちに息子の面影を見、いつしか自然の中に息子の気配を感じとろうとするようになる母の姿が描かれています。それは、日本で昔から月に人を想い、山に愛する人を重ね、野を渡る鳥に想いを託して来た、アニミズム的な感覚に似ている。〈どの山の下にも/どの鳥の中にも/宿るようになった〉〈多数になった〉息子を想う母の姿は、山川草木、花鳥風月、あらゆるものの中に母の影を見る息子の姿でもあるように思われました。ジェフリーさんの日本文学への興味や、ネイティブ・アメリカンの世界観や文化への興味にも、繋がって行くように思います。

「地震後の帰国」の中に、大地に描かれた文字を読み解きたい、という願いが現れるのも、「風の解読」の中で風が描き出す軌跡を〈未来の言葉〉〈起こっていないことを語る〉言葉として読み解きたい、と欲するのも、「ミシガンの冬」で〈風の声〉を読み取ろうとするのも、自然の中に拡散していったご自身の思い――母との凍りついた〝時〟が、いつ雪融けを迎えるのか、友が安心と平穏をいつ得られるのか、そんな未来の見通しを、烈しく求めておられるからなのでしょう。『わたしの日付変更線』は、「未来へ」という章が最後に置かれ、やがて春を兆して閉じられます。凍てついた過去が、萌え上がる春になる時、喪失であった空間にはきっと、色とりどりの花畑が現れることでしょう。また、私の宝物が一冊、増えました。素晴らしい詩集をありがとうございました。どうぞ、お元気で良い春をお迎えください。   かしこ 

『ミて』138号掲載 とても素敵な詩誌なので、写真も掲載します。

ミてのサイトは、http://www.mi-te-press.net/

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by yumiko_aoki_4649 | 2017-04-13 11:29 | 読書感想、書評 | Comments(0)

山下洪文さんの『夢と戦争「ゼロ年代詩」批判序説』書評

「現代詩」が戦後辿って来た道のりは、本当に正しかったのか。実存の闇や社会的苦悩との闘いを回避し、言語空間に逃避して安らっているだけ、言語的実験、新領域の開拓を試みているつもりが、実は言葉の破壊に過ぎなかったのではないか……そんな問いを烈しく突きつける評論集が出来した。戦時中から現代に到るまでの創作主体の様態を探り、現代(の詩や言葉)を侵食する「虚無」の増大と今後の方向性に警鐘を鳴らす、極めて意欲的な評論集である。

 山下は吉本隆明の論を継承しながら、「戦争と戦争のもたらした切断から、平穏な日常へ、詩的主題はうつっていった。そして、それだけだった。荒地を忘れた詩人たちは、始原にふれることも未来に向かうこともなく、ただ〈現在〉を蕩尽した」と批判する。断片化する世界を主体的に統合し、言葉によって意味づけていく主体の喪失を厳しく批判し、「断片の継ぎ接ぎが詩になってしまう情況」を積極的に称揚するかのような批評の在り方を批判する。そして、「虚無」の懐胎と詩の変質を七〇年代詩に見て、以降にトップランナーと目された詩人たちとその作品を、各論で容赦なく断罪していく。

批判を展開する際に山下が用いる暴力的、罵倒的な表現は、読者の議論や興味を喚起する為の戦略なのか、山下自身を鼓舞する為の必然なのか判然としない。その手法に疑問が残るものの、現代詩の向かう方向性そのものに関して、一石を投じる一書である。

『夢と戦争「ゼロ年代詩」批判序説』山下洪文 未知谷 2000

   『詩と思想』2017年4月号「新刊selection」コーナー掲載


600字という字数制限があり、書けなかったことを補足しておきたい。

『詩と思想』1・2月合併号の座談会において、山下氏の『夢と戦争』について意見を交わした際、私は「方向性としては間違っていないと思うんですが、徹底して罵倒的な表現で批判するという方法論は、私は間違っていると思いました(以下略)」と述べた。付言するなら、男性主体の批評言語の中で、女性蔑視的な意味合いを持った言葉が、それと意識されないままに「比喩」として用いられて来た過去があるが(戦後すぐの「日本浪漫派批判」の中で展開された「政府の公娼」といった表現など)山下氏の評論の中でも「凌辱」「売春宿」「石胎女」といった言葉が――もちろん、女性蔑視の目的で用いられているのではなく、文学的比喩、としての用法であるけれども――作品批判に用いられている点にも違和感があった。

現状を分析し、評価し、批判する。そして、原因を推定し、より良い方向(批評者が信じる、理想とする「詩」の在り方)に向かって糺していく。この手法と方向性において、私は山下氏と近い立場にいる、と思っている。しかし、その際に――排他的かつ感情的な表現を用いる、という方法で糾弾するのは、適切な手法なのだろうか?という疑念を払拭することができない。(多数の団塊世代の中高年男性詩人から、あれくらいの激しさが無いと批判できないんだよ、とか、若いうちは、あれくらい尖がっている方がいいね、とか、痛快だね、伐って伐って伐りまくるところがよかった、というような肯定的な評価を多く聞いているので、なおさらである。)


新しい現実、として現れる外界と、戦ったり折り合いを付けたりしながら、いかに交流、交通していくのか、という、外へ向かっていく言葉の発話と、自己の実存を問う、内へと遡行する詩の言葉の探求、その双方が機能しなければ、よりよい詩は生み出されない、と思っている。外に向かっていく創作は、常に時代の変化に翻弄される。その表現手法が、仲間内でのみ共有・交換される閉鎖的なものであれば、普遍性は得られないだろう、その点においても――また、かつて「主体」のあった場所は「無」となってしまったのではないか、という山下氏による現状の診断にも、全面的にではないが、同意しつつ――語る主体が分散し、拡散しつつ一つの構造として外殻を作り、その外殻において世界との交通を試みる。世界を敏感に察知、感受し、それを(断片的な表出であったとしても)編集する主体、というような、新しい主体の在り方が、表現の中に現れている、そんな読み方は出来ないか、という異論や、「ゼロ年代詩」を十把一からげにして批判、断罪するのではなく、今をよりよく表現しているものを選択し、後世に残していくことも重要ではないのか、という疑問を抱き続けている。


1・2月合併号に山下氏が寄稿している「世界は朝霧のように――「ゼロ年代詩」以後――」において、「歴史」を作りだす側ではなく、まるで「歴史」の傍観者の側に立たされているかのような現代の状況を、詩人はどのように把握しているのか、という問い――山下氏の表現を借りれば〈事後性すら去った後の、奇妙な場所に立っているのではないか?事後性の後にいったい何が書かれうるのか?世界を失った詩人の世界観は、いかなるものなのか?〉という問いに、的確な批評と分析で山下氏自身が答えていることも、付記しておきたい。





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by yumiko_aoki_4649 | 2017-04-12 11:18 | 読書感想、書評 | Comments(0)

『とんてんかん』3号 感想と紹介

『とんてんかん』3号。東日本大震災の翌年に、「私たちの詩を」と出発した現代詩講座(講師 清岳こう)が、その後「とんてんかんの会」として継続発展していく中で発行されている詩誌である。各人の孕む詩世界のエネルギー、奥行きの深まりは、相互研鑽の成果だろう。心に残ったフレーズを紹介したい。

(行分けはスラッシュで一行に圧縮、連分けは改行、中略は・・・で表示)


安部 信嗣「ひきちぎれ」

叩き落とせ 差し出された手を/信じるな 笑顔を/使われるな 痛みを/ 心に 橋は 掛けさせない

この世で一番強いものと 戦うために/おまえの 病んだ両親を 殴り殺せ/泥の中に転がし 背骨を 踏み砕け

烈しい言葉の連打にひるみながら読み進めていく。「どこにも 安全地帯は ないぞ/海の向こうまでも 追いかけて・・・やつらの 子供たちを 病ませ/やつらに 定住の地を 与えない」という呪詛の重さ、「ひきちぎれ おまえを 制御しようとする 鉄の鎖を/ぶったぎれ/おまえを 引き留めている 真綿の鎖も」という沸騰する怒りに遭遇する。「おまえ」は作者自身であると共に、沈黙と忍耐を強いられた人々一人一人であるかもしれず・・・日本を牽引する未来のエネルギーと盛り立てられ、事故後には諸悪の元凶と指弾されている「原発」そのものであるのかもしれず・・・確定できない「おまえ」の向こうから、悲痛な叫びのようなエネルギーが直球で押し寄せて来る。抑圧されている悲しみと怒り、その母体である「おまえ」と読めば、「病んだ両親」とは、経済偏重主義に歪み、天災の悲惨の上に人災の無念をもたらすに至った人間のことではないのか。行間から血が滴るような、強烈な作品だった。


川原 あずさ「寄せては返す」「とんちき大臣 前へ」

毎年 弥生の月に/言葉が振って来る浜辺があると聞いた

そこで降り積もった言葉の見守り人を/探していると知り/あわてて名乗りを上げた・・・前任者は・・・たびたび私の様子を見に来てくれる/毎年 弥生の月には/杖を頼りに浜辺に降りて/言葉を拾い過ぎないようにと/私に声を掛けるために

短いながら、静かに胸に残る一篇。三月に降り積もる言葉とは、死者たちの声に他ならない。前任者は、その言葉を、想いを語り継ぐことを自らに課した、寡黙に言葉を紡ぐ人のことだろう。既に帰天されているのかもしれない。想いが忘れられることのないよう、寄せて来る言葉の「見守り人」になること、詩人として言葉を紡ぐことを決意し、名乗りを上げた「私」。言葉を「拾い過ぎないよう」見守られる存在でもある、という部分に深い陰影と温もりを感じる。

同じ作者の「とんちき大臣 前へ」は、ユーモアに満ちた語り口ながら、辛辣な風刺を効かせた一篇。「とんちき大臣 あんたの故郷は/まっすぐに雨が降りますか」「私が生まれた町は いかなる時もどんな場所でも風が強いから/ななめにしか 傘をさしたことがないんです・・・私はそんな 風の町を捨ててきた/ふるさとにも捨てられた お互いさまと生きてきた」「とんちき大臣 あんたは真っ直ぐな傘だけをさして大きくなったのですか」国会の質疑応答場面を彷彿とさせながら、故郷を離れざるを得ない苦悩と怒りをにじませる。


カエン「家路」

家に帰る道を教えてください/どうして帰れないのかわからないのです・・・誰かに聞こうにも/ここにはあまり人は来ないのです/誰か私を家に連れて帰ってくれませんか・・・もう一度/玄関の扉を開けて/ただいまと言いたいのです

ただ黙って、静かに読む(聴く)一篇。


いけ みき「We

わたしの痛みは/親指の腹にささった 煮干しのえら/銀色に光り 皮膚を裂いた

あなたの痛みは/のどを切り裂いた テロリストのナイフ/暗闇の中で 血管は破断した

わたしの涙は/昏睡状態だった姪の 命が助かったから/バスが揺れた拍子に 一粒こぼれた

あなたの涙は/津波から自分だけが助かったことへの 無念/バスが満員でも 嗚咽は止められない

わたしに染みついているのは/九十歳のそそうの臭い/洗っても洗っても 鼻の奥にはりついている

あなたに染みついているのは 大切にしてきた故郷が なすすべなく崩れ落ちる瞬間/冷静に話している今でも 目には映っている

こんなわたしが/あなたの思いを 受け止められるはずもなく

3パートに分かれている詩の、第1パートを全文引用した。対句や、体言止めや終止形の作りだすリズム、アンダンテのテンポ感を滲ませる整った詩形。言葉の選択が鮮烈で、意外性があるのに日常から乖離していない。他者への共感、共苦の難しさと希求とが交錯する。第2パートは、「ヒロシマの静かな公園」でオバマ大統領が行ったスピーチ。

三十九個の We/二回の We can choose

あなたの「わたしたち」の範囲に/わたしは 入っていますか

あなたが 今から選べる と言っていることは/わたしが 以前に選んだことです/七十年たっても 実現できないのは/ずっと だれかが 選ばなかったからです

唯一の被爆国である日本は、核の恐怖、放射能の脅威を世界中のどの国よりも強く、深く、知っていなければならないのに。その痛みを、二度と繰り返してはならない、という信念に基づいた願いを、発信し続けなくてはいけないのに。

第3パートは、「わたしたち」を使う時の人間心理を抉る。

「わたしたち」を使うとき

一体感という塊を持たせる/安心感を包んで持ち帰る/下心を隠して薄笑いを添付する/共感を強いて考えることを止める/結束バンドで意志を固定する

被害者同士なんだから手を携えろ/同罪なんだから同じ罰はしかたない/オレの意見には口をはさむな/オマエには選ぶ権利はない

「わたしたち」を胃に詰めたまま/ひとりで 歩いていく

いささか生硬というのか、直球過ぎる印象も受けるが、日本政府の用いる「わたしたち」に強い違和感を感じているせいか、まっすぐに言葉が入って来た。


西田 かな「進め 進め」は、文字の形を象形文字のように用いたり、音の響きによって生理的な感覚を喚起させたりするところが面白かった。「現」は小品ながら、外景が内景として反転する終行に余韻が残る。


橋本 信乃「夏の夜」「客席」は、花火を見上げる人々を「たった一人/はじめからひとり/大勢のひとりがここに居合わせ/くり返す爆音と光に心を寄せる」ととらえたり、「歌い出す楽器に息を合わせる」というように、個の集合体がひとつの空間を共に体験する様に、焦点を当てていく視点に惹かれる。


氏家 国浩「風葬の町」

誰もいるはずもない場所に辿り着いた/誰かが結んだ草が 気づかれずに枯れてしまっている

盛り土が覆い隠したのは 何丁目何番地でなく/泣き笑いし 下の名前で呼び合った面影だった

自分の過去を語れない/自分の故郷を話せない

誤解や差別に晒されるのが怖くて/生い立ちを塞ぎ 今を取り繕ってばかり・・・

飾り気のない、ナマの言葉がストレートに畳みかけられる。行間の区切り方や飛び方にリズムがあり、「語れない/話せない」「なった/しまった」「呼びかける人も もういない」「化けて出てもらってもいいのだが それも叶わない」と脚韻的な響きを残した止め方が、余韻を作りだしている。語られなかったこと、飲み込まれた言葉、省かれた言葉の奥に広がる、殺伐とした風景は、作者の心象風景でもあるだろう。

同じ作者の「運命線」「感情線」「生命線」という、手相になぞらえた三篇の小品も、「いじめられている子供に 運命ですねと言えるか/病床で苦しんでいる人に 運命ですねと言えるか」「先細りの生命線の上で狼煙を上げろ/まだ ここで生きていると表明しろ/のた打ち回ってでも 生き延びろ」など、簡潔でストレートな、力強い言葉が印象に残った。


安田 宙生「アレッポの石鹸」

オリーブオイルから手作りで作られた、アレッポの石鹸。アレッポは、現在、欧米各国やISが利権を求めて入り乱れる「内戦」に蹂躙されている国、シリアの首都である。シリアの被災者が難民として海を漂流する様を想いながら、その先の「不寛容」に心を痛めながら、作者は「紙のように薄くなった石鹸を/洗面台に置いておく」。忘れないために。シリアの内戦が始まったのは、東日本大震災が発生した2011年である。


白鳥 由紀栄「ウソ」は子供のように素直な眼差しが眩しい。「拈華微笑」は二篇の詩を呼応させているようにも、内面の応答を形にしたようにも見える工夫が楽しい。ねんげみしょう、禅問答を意識した形式でもあるのだろうか。


木村乙「アリス」は、言葉の止め方で進行のリズムを作りながら、若い女性の生態を「饒舌体」とでも呼びたい文体で活写しようとしているように見える。


實苫 潤「朝の拳銃」「淋しいオレンジ」は、モダニズム風の新鮮なイメージの展開が面白かった。「電話の傍には象がまだ眠っている。カットグラスの底に残った夢が、芝生の下のダイヤを捜している・・・いつも拳銃は窓のあちら側から狙っている。/朝のオレンジを。」


竹野 滴「病み枕」は、「草枕」を踏まえながら、自らの病の現状と治療の様相を、ユーモラスかつ克明に記していく筆力にインパクトがあった。


清岳こうの「大阿蘇」は、肥後椿の名品のイメージに託して、熊本の震災が鎮まることを願った祈りの歌。


「結い結いコーナー」(寄稿欄?)には、谷川俊太郎と植村勝明の二氏が詩篇を寄せている。
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by yumiko_aoki_4649 | 2017-03-29 16:34 | 読書感想、書評 | Comments(0)

『ベルリン詩篇』冨岡悦子著 書評 『千年樹』68号

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by yumiko_aoki_4649 | 2016-11-23 20:55 | 読書感想、書評 | Comments(0)

伊藤桂一さん詩集『竹の思想』感想

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by yumiko_aoki_4649 | 2016-11-01 13:53 | 読書感想、書評 | Comments(0)

詩人・安水稔和さんを囲む会 に出席して・・・詩集『春よ めぐれ』を読む

 冬が過ぎれば、春は自ずから巡ってくる…それなのに、なぜわざわざ、「めぐれ」と強く念じるような言葉をつぶやかねばならないのか。本書を手に取り、なんどか読み返すうちにおぼろげながら伝わって来たこと――不毛の荒野となった心に、再び亡き人の面影が、春の芽吹きのように訪れることへの、切ない願い――について思いを巡らせていた時、安水さんをお招きして読書会を行う、とのお知らせを頂いた。五月九日、深い問いかけと熱い祈りが凝縮されたような一冊を手に、初々しい緑の風に包まれた五月の清里を訪ねた。

 1995年1月17日の阪神・淡路大震災から20年の間、著者は震災の詩を書き続けた。その中から130篇を択び文庫版にまとめたものが、この一冊である。冒頭の詩は、震災の日の光景から始まる。

 目のなかを燃えつづける炎。

 とどめようもなく広がる炎。
 炎炎炎炎炎炎炎。
 また炎さらに炎。

 目のまえに広がる焼け跡。
 ときどき噴きあがる火柱。
 くすぶる。 

 異臭漂う。

作者の中に、50年前の神戸大空襲の記憶が再来する。

 壊滅したまち。
 眼前のこのまちに
 どんなまちの姿を重ねあわせればいいのか。
 これから。(神戸 五十年目の戦争)

燃え落ちる町を前にした呆然自失の心境に、さらに、少年の日の恐怖や不安、その後の辛く苦しい時間…あの日の絶望が、その記憶が、否応もなく引き出され、重なっていく。それは50年という時を、その間に育んできたものを、尽く破壊せしめる激震でもあっただろう。

崩れた屋根のしたの/倒れた壁のなかの/折れた梁のあいだの/噴きあがる炎のむこうの//人の顔の/人の髪の毛の/人の手の/手の指の先の//あたたかさ/なつかしさ/いとおしさ/くやしさ。//人の形の/くやしさ。/人の/くやしさ。(くやしい)

焼けた水。/焦げた風。/垂れさがった電線。//ひび割れて。/傾いて。/揺れる足もと。//きしむような。/奇妙な違和感。/嘔吐。//不意にきしむ。/またきしむ。/不意にまた。(きしむ)

「いのちの焦げるにおいの漂う街」は、「いのちの記憶の引きちぎられた街」だ。生きていてよかった、という安堵と、なぜ自分だけが生き残った、という悲痛が心を引き裂く。中には、罪悪感すら感じてしまう人もいるだろう。話したい/話したくない 聞きたい/聞きたくない 覚えていたい/思い出したくない 忘れてしまいたい/忘れたくない…揺れる気持ちは、繰り返し訪れる〝痛み″となって心身を襲う。「暖をとるために一口飲んだ。/味がなかった。」(会いたいなあ ほんまに 痛い 揺れる でも このごろ 等)

角を曲がると/闇のむこうに/闇のかたまりが見える。/天から落ちてきたかたまりが。//肩口のあたりが裂けているのが/夜目にもはっきり見える。(見える)

あれから/季節がなくなって。/あるとすれば/それは冬かしら。/冬のつぎは夏で/夏のつぎは冬ということ。(あれから 季節が)

震災の冬、焦土と化した終戦の夏…季節が無くなる、という言葉が胸に刺さる。悲惨な「あのとき」以来、身体の周りで季節が巡っても、心の中は時が止まったままなのだ。時を失った心の目に留まる景は、荒涼とした更地、「草ばかりの空地」、失われた場所だ。(更地 更地があって 生きているということ 等)しかし作者の眼は、同時に新しい命の芽吹きを認める。

焦げた幹の割れ目から/おずおずと/黄みどりが/のぞいて。//焦げた幹の根もとから/われさきにと/押し包むように/のびあがって。(光る芽が)

心の中に、木が、戻って来る。

ここに帰って来る。あった木。ない木。見えない木。見えてくる木。花が帰る。葉が帰る。鳥が帰る。人の視線も。人の記憶も。人もまた。(木のねがい)

まだ眠っているのに/目を閉じているのに/ぼんやり見えている。/木の形したものが近づいてきて/幹のまわりが息づいて/枝のあたりが揺れはじめて。//土がゆっくりと盛り上がる/水が少しずつ流れる/空気が震える。/見えない町の音/遠い人の気配/わたしの心が戻ってくる。(朝の声)

冬の心を抱えた身体を、何度も春の手が抱いたことだろう。木々の芽吹きが、再び開く花が、帰って来る鳥が、心の手を引いて安水さんを春の野に連れていく。やがて、詩人は確かに実感する。

むこうから歩いてくる/すこしずつ近づいてくる。/顔の表情も読めるようで/手を振って走り出しそう。/声あげて/ああ やっと会えたんだ。//そこで姿が消える/なぜか いなくなる。(そこで)

すぐとなりに立っている/立っているのがわかる。/見なくてもわかる/おたがいにわかる。/会えてよかった/そう言いたいのを押えて。//歩き出すと/いつのまにか ひとり。(いつのまにか)

 心の中に訪れる気配を感じるだけではなく、「人の顔した花」「人の形した枝」が、「風もないのに/揺れている」のを、実際に目でも〝見る″(震えている)。思い出すことが辛さ、痛み、であった時間は、凍りついた冬の時間だったのかもしれない。自然の息吹に触れるうちに、雪解けのように流れ始める心の時間。心が春を迎えるとき、身近な草花の中に、明け方の夢の覚め際に、想い出の場所で目をつむるたびに…大切な人が、そこにいたこと、いつもいること、これからも居続けることが、実感されるのだ。
手で触れることのできない出会いは、かすかにこころに翳りをおびた出会いでもある(光のいのち)。それでも、凍りついた時間の中から、静かに流れ続ける時間の中に戻って来た心で、作者は子供たちの笑顔を見ながらつぶやくのだ。

 君たちのなかにすべてがあると言ったことがある
 それはこういうことだ。
 君たちのなかにわたしたちもいる
 わたしたちのこれまでが これからがある。
 君たちは君たち。
 わたしたちも君たち。
 
 沈む空 割れる空。
 燃える木 枯れる木。
 遠い水 見えない芽
 揺れてこぼれる花の記憶。
 ほかならぬこの世界で
 いまここに立つ君たち。

 君たちといっしょなら
 生きていける。
 君たちといっしょに
 生きたいとおもう。
 君たちの笑顔とともに
 ほかならぬこの世界で今。(君たちの笑顔とともに)

 含蓄深い安水さんのお話の後、詩集に込められた祈りについてうかがうことができた。その時の力強いひとこと、「生きる、ということです、生きている、ということです」が忘れられない。柔和な笑顔と共に、ハリのある声で、身を乗り出すようにして答えて下さった安水さん。素敵な読書会を企画してくださった清里のギャラリー「ぜぴゅろす」の桜井さんご夫妻にも、深く感謝したい。
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「春よ めぐれ」安水稔和詩集 編集工房ノア(本体1500円+税)
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by yumiko_aoki_4649 | 2016-05-26 21:29 | 読書感想、書評 | Comments(0)

詩誌『蒐』5号より 小柴節子さんの‶Wind”

札幌で発行されている詩誌『蒐』(Syuu)5号が届いた。2016年3月31日の日付。
その中から、小柴節子さんの作品、‶Wind”をご紹介したい。

 Wind

さようならで始まり
さようならで終わる物語を
思い出を開くように聞いている
さらには
樹々の葉脈が
ふるえる舌の音のように聞こえてくる朝もある

寝室にはあちこちで拾ってきた
あるいは捨ててきたものたちが
血を流し
狂い咲いている
行きつくところまで
行かなければならなかったのに
行けなかった

わたしはいつか
みうしなった耳になるかもしれない
ぬきさしならない存在を
蝸牛にみたてて
孤独の坂をくだってゆくが
辿りつけない

まだかすかに声の残っている下着を
身にまとえば
胎内にいたはずのいのちが
記憶だけになって
戻ってくる
死体を焼く臭いはいまも
つんと鼻腔をついて

四十年めの夏がきて
てのひらのなかに
死の国が宿っていることに
気づかされる
日付は無限にあとずさり
還ろうとする道には
さようならの風だけが
こっちへおいでと手招きしている

聴くということに、全神経を集中しているような静けさ。4、5連目を読むと、もしかすると亡くなったお子さんがいらしたのだろうか、という想いにもかられる・・・が、1、2、3、と畳みかけていく、乾いた砂をすくいあげるような諦念、穏やかな哀しみは、語り手自身のもののように思われる。
樹々が吸い上げ、葉脈を巡り葉先を柔らかくのばしていく命のかすかな漲り。その気配を、見るのではなく、音として聴いている。あるいは心の耳で聴いているのかもしれない。これから葉をのばすであろう裸木を想いながら。
振り返る過去が、芥子の花のように赤く、涙をしたたらせるように血を流しながら、語り手のいる寝室のそこかしこで花開いている。
蝸牛、は、かたつむり、ではなく、かぎゅう、と読みたくなる。孤独と響きあう、Kの音、硬質な響き。
手招きしている風の中には、誰が立っているのだろう。

注記が記されている。

※小柴節子同人は二月一日に急逝しました。享年六五歳。
 遺稿の中に本誌5号用と思われる作品があり、ここに掲載しました。

注記を読んで、感動したわけではない。何か胸を突かれるような、静かな哀感を感じながら読み終えたところに、控え目な、しかしそれゆえになおいっそう万感のこもる、同人への追悼の一節があらわれたのだ。

庭先で咲き始めた勿忘草を捧げたいと思う。
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by yumiko_aoki_4649 | 2016-04-12 20:52 | 読書感想、書評 | Comments(0)

「託されたものを手のひらに受けて」 稲葉真弓著『心のてのひらに』書評

 『エンドレス・ワルツ』など、小説家としても著名な稲葉真弓が亡くなって、一年が過ぎようとしている。遺志に添って上梓された詩集は、開くたびに、痛みは悼みでもあったことを思い出させる。
 詩集冒頭、稲葉が文明の毒気に痛めつけられたかのような「春の皮膚」を脱ぎ捨てて、「祖母あるいは父母の腕に手渡される赤ん坊へと縮み……銀色のモロコかフナか小さな川魚になって」故郷の「木曾三川の汽水域」から遡っていったのは、あの日の三陸沖の海の底だった。目の前を流されていく人々、一瞬にして奪われた団欒の悲惨を、のたうつ海のうねりの中で目撃しながら、「しかし無力であるわたしは目を見開き岩陰の洞に身を寄せたままなすすべを知らなかった」と記す時、稲葉の魂そのものであるかのような魚の心は、あの日、テレビの前で言葉を失っていた私達の心でもあった、と思う。
 「三月を過ぎてみれば/ミリシーベルトという耳慣れぬものが降り注ぐ地に/すべてのわたしたちは立っていた」。「おお 恥シラズ/私たちの心のなかに/またもそだちつつある椿の実のような胎児/私こそが文明だ と/腹を蹴りながらささやく黒いもの」を誰もが抱えて呆然としていた。確かに、そうだった。稲葉の刻む一語一語は、言葉にならなかった思いを、読む者に鮮明に思い出させる。
 お盆を迎えた故郷の海で、北の海からやってくる「無明世界のクラゲたち」に出会い、「わたしの肌を刺す鋭いとげ」の痛みを、「刺すものと刺されるものが海の上で/ともに痛みをこらえながら」過ごす夜を感じる詩人は、「海ではカツオの群れが/泡立って黒く光っている/その海底で/顔を尖らせたたくさんのたましいが/立ったまま眠っている」のを観てしまう。詩人の過敏な精神が感じ取ったものを、それを言葉にすることを、稲葉は抜き差しならない切実さで自らに課していたのかもしれない。「わたしの柔らかな肉になったものは/沈黙だけ」と嘆じ、「血肉にならなかったわたしの言葉が/少し傾いて 墓標になっている町」のありかを厳しく求めながら、「わたしの言葉は/その常世のものたちのすきまから/そこ あちら むこう かなたへとこぼれていく」「詩を書くこととは……/このこぼれていくものたちを森へと帰すこと/あの湿った大地の暗がりへと眠りに行くこと/屋根や壁のない場所で裸になること」だとつぶやく時、稲葉は、この世とあの世との間にある穏やかな広がりの中に、独りで立たされていたに違いない。それは、過ぎ去りゆくものが、ことのほか美しく映る場所でもある。
 「学校帰りの子供たちの/ビブラートを帯びた高い声」が「波打ち際の水のように……ひいては寄せる……ランドセルが/路上にふっくらとした影を落とし/子供たちは つま先で明日の背中をまさぐる」のが見える所。あの日、その穏やかな日常が突然断ち切られたのだった。「悲哀と放心と嘆きと怒り」の中で、「切り立った崖のような沈黙に金縛りになっている」詩人が、拾い上げ「森」に返そうとしていたものは何か。
 花粉となって「飛散と受粉の旅をつづけましょう」と呼びかける最後の詩篇は、こぼれていく言葉を拾い上げ、実らせ続けなさい、という、稲葉真弓が私たちに託した、深い祈りに思われてならない。
 港の人 定価(本体1800円+税) 『びーぐる』28号 書評欄掲載
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by yumiko_aoki_4649 | 2015-07-19 20:38 | 読書感想、書評 | Comments(0)

渡辺めぐみさん『ルオーのキリストの涙まで』 書評

「羽の生えた緑の馬が雪原を走る」

 テロの報が、空爆の悲惨が、テレビ画面に流れるたびに、心の中のどこかのスイッチをオフにしている自分がいる。そんな日々に、渡辺の言葉は鋭い楔を打ち込んでくる。「遠くの火は関係ないですか 生のラディッシュの硬さほどにしか もしかして関係ないのですか/流産し続けたために疲れ切った母がいた 血溜まりを愛しすぎないように泣いていた」(「遊撃」)この一節を読んだとき、なぜかヨハネ黙示録の「女と竜(12章)」を連想した。直前に、「姦淫する者の額に震えを うそぶく者のまなこに権威を 見てはいけない」という言葉があったからかもしれない。黙示録では、光をまとった女は鷲の翼を与えられ、産んだ子(救済者)を食い殺そうとする竜から無事に逃げおおせるが、「遊撃」の中では、母は子を産むことすらかなわない。「わたしは人間の奴隷ではありません」と、悲痛なつぶやきを漏らしながら、「とにかく行きます」と叫ぶ「わたし」は、使命を帯びて天界から派遣される何者かであろうか。だとすれば、渡辺はその代弁者ということになる。
 「遊撃」「晴天」「遥か」「白いもの」と続く一章の作品を通読していくと、「この世のものとあの世のもののいさかいのしるし」が「油として浮いて」いる川を「流され続け」ることを拒否し、「ハルモニアという名で/この地が眠るのはいつだろう」と慨嘆しつつ、「わたしには故郷(ふるさと)はもうありません」と決然と進んでいく「わたし」の姿が立ち現れる。続く「跛行」の中で、「羽の生えた緑の馬」に乗って飛行する「わたし」が求めているものは何だろう。親しかった死者たちに見守られつつ、「光にのみ/わたしはこの身を捧げてもいいと」願いながら、「夏が来るというのに」「雪が降る」「眠る故郷」の「地上七メートルぐらいのところを」走る緑の馬。赤い馬、の補色としての緑。テロリズムが緊迫の度を強めている現在、「子羊が第二の封印を開いたとき」「火のように赤い馬」が現れ、「その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた」(黙示録6章)という凄絶な幻視の、対極の願望としての緑であるように思われてならない。
 パセティックな使命感をにじませる一章に対して、二章では、望まない戦いを強いられたあげく、「大志のため犬になったものだけが生き残」り、「わたしは脱走した」(「娑婆」)、「明かりの足らないところに/明かりを足しにゆく仕事をしていました/その仕事のせいで/火傷をしますので」(「小笛記」)など、自らの身が負う痛苦や、逃避の願望が吐露されている。「療養型病床群の片隅で/蝋細工のように/手を組み合わせていた」祖母を看取る心象に、父や祖父や、親しい者の死の哀惜を重ね、死者を「忘れない」ことによって「喪のすべてを断ち切って」「ルオーのキリストの涙まで」進んで行こうとする三章は、死を受容してからの再生の章と言えるだろう。詩集冒頭の「夜勤」では、既に大切な人は逝去している。無人の夜の病院で、犬だけが時を超えて詩人を呼び、「犬は逆巻く星の雲海に消えていった」。詩集全篇を通じて、無言の対話者として守護霊のように何度も現れる犬。静かに、詩人の心の痛みを見守り続ける影である。

『ルオーのキリストの涙まで』渡辺めぐみ著 思潮社 定価(本体2600円+税)
『びーぐる』27号書評欄掲載
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by yumiko_aoki_4649 | 2015-04-19 17:35 | 読書感想、書評 | Comments(0)

柴田 三吉 『角度』 書評

第48回日本詩人クラブ賞 柴田 三吉 『角度』(ジャンクション・ハーベスト)

2014年『詩と思想』12月号 「新刊selection」コーナーに掲載した書評を、再掲します。

 灰色の表紙の縁に、モノクロームの福島の地図。白で印字された詩集名と作者名は、角度を変えると灰色の地と地図に紛れてしまう。さりげない趣向を凝らした表紙が、ある種の予感に誘う。
 本文は、被災地のボランティアに応じた人の、その折の心情を細やかに拾い上げた行分け詩と、震災時を含む東京における日常を、日記体で綴った散文詩とからなる。浜辺で拾った壊れたオルゴールを鳴らそうと試み、「そうか 共鳴板が必要なんだ・・・ひとの胸に重ねたら/ひとの心の響きがするだろうか」(「空」)とつぶやく。アルバムから泥を洗い落とす作業中、不手際によって写真の一部が消えてしまい「あとに残された、存在の空白」に胸を衝かれる(「洗う」)。規制線の前で「手を上げて立ちふさがる男たちの、苦しげな顔」「火葬できない柩たちの/しずかなあえぎ」に直面し、「狂った時計のような」自らの心音を聴く(「消滅」)。その時々の作者の心が、リアリズムの手法で丁寧に描かれ、胸に迫る。
 他方、窓辺に置かれた三角フラスコが、日々増えていく「水」によって育って行く、という物語を介在させつつ、衰えていく母との日常を綴る散文詩は、現実でありながら夢を内在させているような不確かさを抱えている。平穏な日常とは何か。被災地、という圧倒的な現実を前に、薄れてしまった日常を言葉で確かめつつ取り戻していく。そんな作者の思いが静かに記録されている。
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by yumiko_aoki_4649 | 2015-04-01 11:17 | 読書感想、書評 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by yumiko
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