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カテゴリ:読書感想、書評( 17 )

『ベルリン詩篇』冨岡悦子著 書評 『千年樹』68号

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by yumiko_aoki_4649 | 2016-11-23 20:55 | 読書感想、書評 | Comments(0)

伊藤桂一さん詩集『竹の思想』感想

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by yumiko_aoki_4649 | 2016-11-01 13:53 | 読書感想、書評 | Comments(0)

詩人・安水稔和さんを囲む会 に出席して・・・詩集『春よ めぐれ』を読む

 冬が過ぎれば、春は自ずから巡ってくる…それなのに、なぜわざわざ、「めぐれ」と強く念じるような言葉をつぶやかねばならないのか。本書を手に取り、なんどか読み返すうちにおぼろげながら伝わって来たこと――不毛の荒野となった心に、再び亡き人の面影が、春の芽吹きのように訪れることへの、切ない願い――について思いを巡らせていた時、安水さんをお招きして読書会を行う、とのお知らせを頂いた。五月九日、深い問いかけと熱い祈りが凝縮されたような一冊を手に、初々しい緑の風に包まれた五月の清里を訪ねた。

 1995年1月17日の阪神・淡路大震災から20年の間、著者は震災の詩を書き続けた。その中から130篇を択び文庫版にまとめたものが、この一冊である。冒頭の詩は、震災の日の光景から始まる。

 目のなかを燃えつづける炎。

 とどめようもなく広がる炎。
 炎炎炎炎炎炎炎。
 また炎さらに炎。

 目のまえに広がる焼け跡。
 ときどき噴きあがる火柱。
 くすぶる。 

 異臭漂う。

作者の中に、50年前の神戸大空襲の記憶が再来する。

 壊滅したまち。
 眼前のこのまちに
 どんなまちの姿を重ねあわせればいいのか。
 これから。(神戸 五十年目の戦争)

燃え落ちる町を前にした呆然自失の心境に、さらに、少年の日の恐怖や不安、その後の辛く苦しい時間…あの日の絶望が、その記憶が、否応もなく引き出され、重なっていく。それは50年という時を、その間に育んできたものを、尽く破壊せしめる激震でもあっただろう。

崩れた屋根のしたの/倒れた壁のなかの/折れた梁のあいだの/噴きあがる炎のむこうの//人の顔の/人の髪の毛の/人の手の/手の指の先の//あたたかさ/なつかしさ/いとおしさ/くやしさ。//人の形の/くやしさ。/人の/くやしさ。(くやしい)

焼けた水。/焦げた風。/垂れさがった電線。//ひび割れて。/傾いて。/揺れる足もと。//きしむような。/奇妙な違和感。/嘔吐。//不意にきしむ。/またきしむ。/不意にまた。(きしむ)

「いのちの焦げるにおいの漂う街」は、「いのちの記憶の引きちぎられた街」だ。生きていてよかった、という安堵と、なぜ自分だけが生き残った、という悲痛が心を引き裂く。中には、罪悪感すら感じてしまう人もいるだろう。話したい/話したくない 聞きたい/聞きたくない 覚えていたい/思い出したくない 忘れてしまいたい/忘れたくない…揺れる気持ちは、繰り返し訪れる〝痛み″となって心身を襲う。「暖をとるために一口飲んだ。/味がなかった。」(会いたいなあ ほんまに 痛い 揺れる でも このごろ 等)

角を曲がると/闇のむこうに/闇のかたまりが見える。/天から落ちてきたかたまりが。//肩口のあたりが裂けているのが/夜目にもはっきり見える。(見える)

あれから/季節がなくなって。/あるとすれば/それは冬かしら。/冬のつぎは夏で/夏のつぎは冬ということ。(あれから 季節が)

震災の冬、焦土と化した終戦の夏…季節が無くなる、という言葉が胸に刺さる。悲惨な「あのとき」以来、身体の周りで季節が巡っても、心の中は時が止まったままなのだ。時を失った心の目に留まる景は、荒涼とした更地、「草ばかりの空地」、失われた場所だ。(更地 更地があって 生きているということ 等)しかし作者の眼は、同時に新しい命の芽吹きを認める。

焦げた幹の割れ目から/おずおずと/黄みどりが/のぞいて。//焦げた幹の根もとから/われさきにと/押し包むように/のびあがって。(光る芽が)

心の中に、木が、戻って来る。

ここに帰って来る。あった木。ない木。見えない木。見えてくる木。花が帰る。葉が帰る。鳥が帰る。人の視線も。人の記憶も。人もまた。(木のねがい)

まだ眠っているのに/目を閉じているのに/ぼんやり見えている。/木の形したものが近づいてきて/幹のまわりが息づいて/枝のあたりが揺れはじめて。//土がゆっくりと盛り上がる/水が少しずつ流れる/空気が震える。/見えない町の音/遠い人の気配/わたしの心が戻ってくる。(朝の声)

冬の心を抱えた身体を、何度も春の手が抱いたことだろう。木々の芽吹きが、再び開く花が、帰って来る鳥が、心の手を引いて安水さんを春の野に連れていく。やがて、詩人は確かに実感する。

むこうから歩いてくる/すこしずつ近づいてくる。/顔の表情も読めるようで/手を振って走り出しそう。/声あげて/ああ やっと会えたんだ。//そこで姿が消える/なぜか いなくなる。(そこで)

すぐとなりに立っている/立っているのがわかる。/見なくてもわかる/おたがいにわかる。/会えてよかった/そう言いたいのを押えて。//歩き出すと/いつのまにか ひとり。(いつのまにか)

 心の中に訪れる気配を感じるだけではなく、「人の顔した花」「人の形した枝」が、「風もないのに/揺れている」のを、実際に目でも〝見る″(震えている)。思い出すことが辛さ、痛み、であった時間は、凍りついた冬の時間だったのかもしれない。自然の息吹に触れるうちに、雪解けのように流れ始める心の時間。心が春を迎えるとき、身近な草花の中に、明け方の夢の覚め際に、想い出の場所で目をつむるたびに…大切な人が、そこにいたこと、いつもいること、これからも居続けることが、実感されるのだ。
手で触れることのできない出会いは、かすかにこころに翳りをおびた出会いでもある(光のいのち)。それでも、凍りついた時間の中から、静かに流れ続ける時間の中に戻って来た心で、作者は子供たちの笑顔を見ながらつぶやくのだ。

 君たちのなかにすべてがあると言ったことがある
 それはこういうことだ。
 君たちのなかにわたしたちもいる
 わたしたちのこれまでが これからがある。
 君たちは君たち。
 わたしたちも君たち。
 
 沈む空 割れる空。
 燃える木 枯れる木。
 遠い水 見えない芽
 揺れてこぼれる花の記憶。
 ほかならぬこの世界で
 いまここに立つ君たち。

 君たちといっしょなら
 生きていける。
 君たちといっしょに
 生きたいとおもう。
 君たちの笑顔とともに
 ほかならぬこの世界で今。(君たちの笑顔とともに)

 含蓄深い安水さんのお話の後、詩集に込められた祈りについてうかがうことができた。その時の力強いひとこと、「生きる、ということです、生きている、ということです」が忘れられない。柔和な笑顔と共に、ハリのある声で、身を乗り出すようにして答えて下さった安水さん。素敵な読書会を企画してくださった清里のギャラリー「ぜぴゅろす」の桜井さんご夫妻にも、深く感謝したい。
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「春よ めぐれ」安水稔和詩集 編集工房ノア(本体1500円+税)
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by yumiko_aoki_4649 | 2016-05-26 21:29 | 読書感想、書評 | Comments(0)

詩誌『蒐』5号より 小柴節子さんの‶Wind”

札幌で発行されている詩誌『蒐』(Syuu)5号が届いた。2016年3月31日の日付。
その中から、小柴節子さんの作品、‶Wind”をご紹介したい。

 Wind

さようならで始まり
さようならで終わる物語を
思い出を開くように聞いている
さらには
樹々の葉脈が
ふるえる舌の音のように聞こえてくる朝もある

寝室にはあちこちで拾ってきた
あるいは捨ててきたものたちが
血を流し
狂い咲いている
行きつくところまで
行かなければならなかったのに
行けなかった

わたしはいつか
みうしなった耳になるかもしれない
ぬきさしならない存在を
蝸牛にみたてて
孤独の坂をくだってゆくが
辿りつけない

まだかすかに声の残っている下着を
身にまとえば
胎内にいたはずのいのちが
記憶だけになって
戻ってくる
死体を焼く臭いはいまも
つんと鼻腔をついて

四十年めの夏がきて
てのひらのなかに
死の国が宿っていることに
気づかされる
日付は無限にあとずさり
還ろうとする道には
さようならの風だけが
こっちへおいでと手招きしている

聴くということに、全神経を集中しているような静けさ。4、5連目を読むと、もしかすると亡くなったお子さんがいらしたのだろうか、という想いにもかられる・・・が、1、2、3、と畳みかけていく、乾いた砂をすくいあげるような諦念、穏やかな哀しみは、語り手自身のもののように思われる。
樹々が吸い上げ、葉脈を巡り葉先を柔らかくのばしていく命のかすかな漲り。その気配を、見るのではなく、音として聴いている。あるいは心の耳で聴いているのかもしれない。これから葉をのばすであろう裸木を想いながら。
振り返る過去が、芥子の花のように赤く、涙をしたたらせるように血を流しながら、語り手のいる寝室のそこかしこで花開いている。
蝸牛、は、かたつむり、ではなく、かぎゅう、と読みたくなる。孤独と響きあう、Kの音、硬質な響き。
手招きしている風の中には、誰が立っているのだろう。

注記が記されている。

※小柴節子同人は二月一日に急逝しました。享年六五歳。
 遺稿の中に本誌5号用と思われる作品があり、ここに掲載しました。

注記を読んで、感動したわけではない。何か胸を突かれるような、静かな哀感を感じながら読み終えたところに、控え目な、しかしそれゆえになおいっそう万感のこもる、同人への追悼の一節があらわれたのだ。

庭先で咲き始めた勿忘草を捧げたいと思う。
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by yumiko_aoki_4649 | 2016-04-12 20:52 | 読書感想、書評 | Comments(0)

「託されたものを手のひらに受けて」 稲葉真弓著『心のてのひらに』書評

 『エンドレス・ワルツ』など、小説家としても著名な稲葉真弓が亡くなって、一年が過ぎようとしている。遺志に添って上梓された詩集は、開くたびに、痛みは悼みでもあったことを思い出させる。
 詩集冒頭、稲葉が文明の毒気に痛めつけられたかのような「春の皮膚」を脱ぎ捨てて、「祖母あるいは父母の腕に手渡される赤ん坊へと縮み……銀色のモロコかフナか小さな川魚になって」故郷の「木曾三川の汽水域」から遡っていったのは、あの日の三陸沖の海の底だった。目の前を流されていく人々、一瞬にして奪われた団欒の悲惨を、のたうつ海のうねりの中で目撃しながら、「しかし無力であるわたしは目を見開き岩陰の洞に身を寄せたままなすすべを知らなかった」と記す時、稲葉の魂そのものであるかのような魚の心は、あの日、テレビの前で言葉を失っていた私達の心でもあった、と思う。
 「三月を過ぎてみれば/ミリシーベルトという耳慣れぬものが降り注ぐ地に/すべてのわたしたちは立っていた」。「おお 恥シラズ/私たちの心のなかに/またもそだちつつある椿の実のような胎児/私こそが文明だ と/腹を蹴りながらささやく黒いもの」を誰もが抱えて呆然としていた。確かに、そうだった。稲葉の刻む一語一語は、言葉にならなかった思いを、読む者に鮮明に思い出させる。
 お盆を迎えた故郷の海で、北の海からやってくる「無明世界のクラゲたち」に出会い、「わたしの肌を刺す鋭いとげ」の痛みを、「刺すものと刺されるものが海の上で/ともに痛みをこらえながら」過ごす夜を感じる詩人は、「海ではカツオの群れが/泡立って黒く光っている/その海底で/顔を尖らせたたくさんのたましいが/立ったまま眠っている」のを観てしまう。詩人の過敏な精神が感じ取ったものを、それを言葉にすることを、稲葉は抜き差しならない切実さで自らに課していたのかもしれない。「わたしの柔らかな肉になったものは/沈黙だけ」と嘆じ、「血肉にならなかったわたしの言葉が/少し傾いて 墓標になっている町」のありかを厳しく求めながら、「わたしの言葉は/その常世のものたちのすきまから/そこ あちら むこう かなたへとこぼれていく」「詩を書くこととは……/このこぼれていくものたちを森へと帰すこと/あの湿った大地の暗がりへと眠りに行くこと/屋根や壁のない場所で裸になること」だとつぶやく時、稲葉は、この世とあの世との間にある穏やかな広がりの中に、独りで立たされていたに違いない。それは、過ぎ去りゆくものが、ことのほか美しく映る場所でもある。
 「学校帰りの子供たちの/ビブラートを帯びた高い声」が「波打ち際の水のように……ひいては寄せる……ランドセルが/路上にふっくらとした影を落とし/子供たちは つま先で明日の背中をまさぐる」のが見える所。あの日、その穏やかな日常が突然断ち切られたのだった。「悲哀と放心と嘆きと怒り」の中で、「切り立った崖のような沈黙に金縛りになっている」詩人が、拾い上げ「森」に返そうとしていたものは何か。
 花粉となって「飛散と受粉の旅をつづけましょう」と呼びかける最後の詩篇は、こぼれていく言葉を拾い上げ、実らせ続けなさい、という、稲葉真弓が私たちに託した、深い祈りに思われてならない。
 港の人 定価(本体1800円+税) 『びーぐる』28号 書評欄掲載
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by yumiko_aoki_4649 | 2015-07-19 20:38 | 読書感想、書評 | Comments(0)

渡辺めぐみさん『ルオーのキリストの涙まで』 書評

「羽の生えた緑の馬が雪原を走る」

 テロの報が、空爆の悲惨が、テレビ画面に流れるたびに、心の中のどこかのスイッチをオフにしている自分がいる。そんな日々に、渡辺の言葉は鋭い楔を打ち込んでくる。「遠くの火は関係ないですか 生のラディッシュの硬さほどにしか もしかして関係ないのですか/流産し続けたために疲れ切った母がいた 血溜まりを愛しすぎないように泣いていた」(「遊撃」)この一節を読んだとき、なぜかヨハネ黙示録の「女と竜(12章)」を連想した。直前に、「姦淫する者の額に震えを うそぶく者のまなこに権威を 見てはいけない」という言葉があったからかもしれない。黙示録では、光をまとった女は鷲の翼を与えられ、産んだ子(救済者)を食い殺そうとする竜から無事に逃げおおせるが、「遊撃」の中では、母は子を産むことすらかなわない。「わたしは人間の奴隷ではありません」と、悲痛なつぶやきを漏らしながら、「とにかく行きます」と叫ぶ「わたし」は、使命を帯びて天界から派遣される何者かであろうか。だとすれば、渡辺はその代弁者ということになる。
 「遊撃」「晴天」「遥か」「白いもの」と続く一章の作品を通読していくと、「この世のものとあの世のもののいさかいのしるし」が「油として浮いて」いる川を「流され続け」ることを拒否し、「ハルモニアという名で/この地が眠るのはいつだろう」と慨嘆しつつ、「わたしには故郷(ふるさと)はもうありません」と決然と進んでいく「わたし」の姿が立ち現れる。続く「跛行」の中で、「羽の生えた緑の馬」に乗って飛行する「わたし」が求めているものは何だろう。親しかった死者たちに見守られつつ、「光にのみ/わたしはこの身を捧げてもいいと」願いながら、「夏が来るというのに」「雪が降る」「眠る故郷」の「地上七メートルぐらいのところを」走る緑の馬。赤い馬、の補色としての緑。テロリズムが緊迫の度を強めている現在、「子羊が第二の封印を開いたとき」「火のように赤い馬」が現れ、「その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた」(黙示録6章)という凄絶な幻視の、対極の願望としての緑であるように思われてならない。
 パセティックな使命感をにじませる一章に対して、二章では、望まない戦いを強いられたあげく、「大志のため犬になったものだけが生き残」り、「わたしは脱走した」(「娑婆」)、「明かりの足らないところに/明かりを足しにゆく仕事をしていました/その仕事のせいで/火傷をしますので」(「小笛記」)など、自らの身が負う痛苦や、逃避の願望が吐露されている。「療養型病床群の片隅で/蝋細工のように/手を組み合わせていた」祖母を看取る心象に、父や祖父や、親しい者の死の哀惜を重ね、死者を「忘れない」ことによって「喪のすべてを断ち切って」「ルオーのキリストの涙まで」進んで行こうとする三章は、死を受容してからの再生の章と言えるだろう。詩集冒頭の「夜勤」では、既に大切な人は逝去している。無人の夜の病院で、犬だけが時を超えて詩人を呼び、「犬は逆巻く星の雲海に消えていった」。詩集全篇を通じて、無言の対話者として守護霊のように何度も現れる犬。静かに、詩人の心の痛みを見守り続ける影である。

『ルオーのキリストの涙まで』渡辺めぐみ著 思潮社 定価(本体2600円+税)
『びーぐる』27号書評欄掲載
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by yumiko_aoki_4649 | 2015-04-19 17:35 | 読書感想、書評 | Comments(0)

柴田 三吉 『角度』 書評

第48回日本詩人クラブ賞 柴田 三吉 『角度』(ジャンクション・ハーベスト)

2014年『詩と思想』12月号 「新刊selection」コーナーに掲載した書評を、再掲します。

 灰色の表紙の縁に、モノクロームの福島の地図。白で印字された詩集名と作者名は、角度を変えると灰色の地と地図に紛れてしまう。さりげない趣向を凝らした表紙が、ある種の予感に誘う。
 本文は、被災地のボランティアに応じた人の、その折の心情を細やかに拾い上げた行分け詩と、震災時を含む東京における日常を、日記体で綴った散文詩とからなる。浜辺で拾った壊れたオルゴールを鳴らそうと試み、「そうか 共鳴板が必要なんだ・・・ひとの胸に重ねたら/ひとの心の響きがするだろうか」(「空」)とつぶやく。アルバムから泥を洗い落とす作業中、不手際によって写真の一部が消えてしまい「あとに残された、存在の空白」に胸を衝かれる(「洗う」)。規制線の前で「手を上げて立ちふさがる男たちの、苦しげな顔」「火葬できない柩たちの/しずかなあえぎ」に直面し、「狂った時計のような」自らの心音を聴く(「消滅」)。その時々の作者の心が、リアリズムの手法で丁寧に描かれ、胸に迫る。
 他方、窓辺に置かれた三角フラスコが、日々増えていく「水」によって育って行く、という物語を介在させつつ、衰えていく母との日常を綴る散文詩は、現実でありながら夢を内在させているような不確かさを抱えている。平穏な日常とは何か。被災地、という圧倒的な現実を前に、薄れてしまった日常を言葉で確かめつつ取り戻していく。そんな作者の思いが静かに記録されている。
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by yumiko_aoki_4649 | 2015-04-01 11:17 | 読書感想、書評 | Comments(0)

草野理恵子さん『パリンプセスト』書評

「硝子絵の向こうに」    

 ぬかるんだ校庭に、白い便器が並んでいる。裸で陽に照らされている少女。他には誰もいない。冒頭に置かれた「土」の、あまりにも異様な静けさに息を呑む。少女は、あえて便器を使わず、大地に自らの排泄物を流す。金色に輝きながら土に吸われ、大地の滋養となっていくそれは、やがて、「たましいの菌糸」を育み、「豊饒の地になったはずだ」と過去形で語られる。神話的な転回点。ここには、草野が詩を生み出すまさに根底が、鮮やかな価値観の反転と共に示されている。
 「土は腐っている」と断じ、少女を病だと思い込ませているのは、人物としては出てこないが、社会的な倫理や常識の代弁者たる“教師”であろう。あるいは、草野自身の“良識”であるのかもしれない。たとえば羨望や憎悪のような負の感情、真面目な“優等生”たちなら水に流して、そしらぬ顔をしているはずのもの。それこそが、実は豊かな詩の土壌を作り出しているのだ、という発見と高揚が、「土は腐っていなかったと思う」という静かな抗弁に表れている。
 「半月」や「対岸の床屋」の中で喉元から這い出ようとしていたり、強制的にあふれ出させられる虫や得体の知れない「何か蠢くもの」は、負の感情が言葉となって喉からあふれ出してくる、やり場のない苦しみと諦念を物語に託して描いた作品だと言えるだろう。「深紅山」や「焼かれる街」に出てくる赤いむくろのイメージは、自分が殺してしまった無数の自分自身でもあるような気がして、切ない。「焼かれる街」や「剥製を被る」に出てくる、人間と獣として永遠に隔てられ、意思疎通を断念させられている「君」や「彼」との関係。届かないことを知りながら、それでもなお、手紙を書き続ける、という「愚行」に駆られる私、の痛切さ。この「手紙」が、草野にとっての“詩”なのだろうか。
 草野には、生まれたときから重度の障碍を負っている息子がいる。「あとがき」を読みながら、運命を受容していく日々の重さを想った。時に抱く憎悪や呪詛に近い感情と、その反転としての自罰の感情。家族に負担を課すことへの自責、それにも増してあふれだす、抑えがたい愛情……「黒い舟」や「独房」は、息子と自分と、その二人を死後の世界へ(あるいは誰もがそこからやってくる、生まれる前の世界へ)と運んでほしい、いっそこの世から二人で抜け出してしまいたい、そんな恋慕に近い感情から生まれた抒情的な奇譚のように感じる。
 「雨期」や「青い壜」、あるいは「パリンプセスト」の奥に広がる、ガラス絵のような異界をひたす静けさ。パリンプセストとは、絵や文字の描かれた羊皮紙を削り、白紙に戻したもののことであるが、新たに重ねられていく物語の向こうに、消しても消しきれない痕跡が水の底のような冷たさで横たわっている、そんな草野の世界をそのまま体現しているかのような表題である。
 草野の描く物語は、いつも映像として立ち現れる。特異なのに、誰にもかすかに覚えがあるような、懐かしいのに初めて見るような世界。そのスクリーンに、黙って身をゆだねて欲しいと思う。

『びーぐる』26号書評欄掲載 土曜美術社出版販売 定価(本体2000円+税) 青木由弥子
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by yumiko_aoki_4649 | 2015-01-23 17:02 | 読書感想、書評 | Comments(0)

新井高子さん『ベットと織機』

「女、汝たくましきもの」
 開口一番、小気味よい語りのリズムが、読者をぐいと引きずり込むのは、一昔前の織物工場(コーバ)のど真ん中。そこには「赤ンぼオブって」汗と乳をほとばしらせて、働きづめに働いている女工たちが生きている。むせ返るような機械油と髪油の臭い、耳を圧して鳴り響く力織機の凄まじい音。生きることそのものが剥き出しにされているようなコーバでは、性の喜びも悲しみもまた、あけっぴろげで誰はばかることもない。女たちを捉えて離さぬ「業」や「宿世」からまりあう「縁(えにし)の糸」を突き抜けて、内側から噴出するエネルギーに圧倒される。
 女工、というと、過酷な労働と貧困にあえぐ悲惨な弱者、といったイメージが付きまとうが、新井の描く女工たちは、なにしろたくましい。たまたま待遇のいい工場であったのかもしれないが、仕事がきつくても陽気に闊達に時に猥雑に生を謳歌する女たちの姿が、「ジャンガンジャンガン、力織機が騒(ぞめ)くなか」陰影も色彩も色濃く立ち昇ってくる。(「ベットと織機」)
 もちろん、工場での不慮の事故や、恋人の裏切りといった不幸な事件、破産や貧窮といったやるせない悲しみもある。だが、そうした「できごと」を語る伝奇めいた物語は、物の怪や怪かしの生きものたちが住んでいる異界と「コーバ」が隣接していることを、ぞくぞくするような生々しさで知らしめる。幽霊や地霊のような見えざる者たちと共に生きている場所が、間違いなくここにあるのだ。
 この詩集の魅力は、なによりもまず、文体の生み出すエネルギーにある。織物工場の一人娘として実際に見聞きした体験を、身に馴染んだ土地の言葉で語ることによって生まれる臨場感。浄瑠璃や歌舞伎、近現代の詩歌や演劇などへの深い造詣が、生きて蠢くような言葉の群れを立ち上げていく、その道程の鮮やかさ。
織物とそれを生む女たち、という主題もまた、多重の魅力を備えている。アマテラスは機屋、織物に深く関わる女神であるし、岩戸に隠れた女神を呼び出した、アメノウズメのおおらかな歌謡と舞踏のイメージは、生が性であり同時に聖でもあった時代の、多産と豊饒の祭礼を喚起する。前作の『タマシイ・ダンス』において、陽気に天宇受売命を召還した詩人が、寝台と織機を通じて呼び出そうとしているのは、生む者であり、また産む者でもある、女の力そのものではなかろうか。
 過酷な現実を笑いのめし、洒落のめすことによって乗り越えていくたくましさ、推進力としてのイロニーもまたこの詩集の大きな魅力だろう。詩集後半にまとめられた震災、特に原発事故をめぐる一群の詩は、人間の愚かさや物欲、経済欲の果ての狂態とそれが生みだした悲惨を痛烈に抉り、文字通り怒涛のように押し寄せて来る。生半可な憤りや悲痛の叫びよりも、よほど強烈である。しかしこれが、読んでいて不思議と辛くないのだ。もう、笑うっきゃないよ、という強靭な笑いの力が全篇を貫いている。
 女たちのたくましさと、痛快な反骨精神。痺れるような「読みの楽しみ」に、どっぷりと浸ってみてはいかがだろうか。
 詩集『ベットと織機』 新井高子著    未知谷 定価(本体2000円+税) 『びーぐる』25号書評欄掲載 ※写真家の石内都さんによる、素晴らしい表紙写真が、カバーになっています!
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by yumiko_aoki_4649 | 2014-10-26 09:51 | 読書感想、書評 | Comments(0)

俵万智の『生まれてバンザイ』

 俵万智の歌集(というより、編集者の卓抜かつ新鮮なレイアウトによる詩集)『生まれてバンザイ』を、涙のにじんでくるような想いで読み終えた。
 単なる共感ではなく・・・私は“子どもとの時間”を、こんなに濃密に過ごしてきただろうか、という、失われた時間への悔恨のような思いが少し。それから、薄れかけていた懐かしい記憶を、鮮明に呼び覚ましてくれた俵万智という詩人への感謝の思い。
 写真からよみがえる記憶は、どこかカサカサしていて、実感がない。初めて子どもを抱いたときの“しとっ”“くたっ”とした、暖かいというよりも、むしろ熱いような感覚や、もわあっと体温のこもった産毛から、そうっと薄い雲母片のような薄皮をつまみとる時のドキドキした感覚、こんなに小さいのか、と驚きつつ、体感2ミリの太さの指先に爪切りバサミを当てるときの怖さなどは、“実感”として鮮明に残っているにもかかわらず…。
 
 みどりごと散歩をすれば 人が 木が 光が 話しかけてくるなり
 気配濃く 秋は来たれり パンのこと パンとわかって パンと呼ぶ朝

 そういえば、“世界”がまるっきり違って見えた、輝くような瞬間があったような気がする。子どもは毎日新しい。出会うもの全てが新しい。そんな当たり前のことを、すっかり忘れていた自分、子どもと一緒にいると、見慣れていたものが全く生まれ変わったように見える不思議、その感動を毎日感じていたはずなのに、言葉にしておかなかったからだろうか、みんな埃をかぶって記憶の底に仕舞い込まれていたような気がして、残念で仕方がない。なにか、大きなものを取りこぼしてしまったような気さえする。
 いや、言葉にしておかなかった、のではなく、できなかったのだろう。そのもどかしさのようなものを、すっと拾い上げて言葉に留めてくれた俵万智に、だからこそ羨望よりも憧れを、「ありがとう」という一言を、伝えたくなるのかもしれない。

 一人遊びしつつ 時おり我を見る いつでもいるよ 大丈夫だよ
 抱っことは 抱きあうことか 子の肩に顔うずめ 子の匂いかぐとき

 きちんと育てられるだろうか、私はこの子を愛せるのだろうか、そんな不安が脳裏をよぎる時があった。でもここに、信頼しきったまなざしを向け、手をのばす我が子が目の前にいる。そのたびに、頭よりも先に身体が反応して、抱き上げ、頬ずりをしている。子どもの暖かさに触れているうちに、さっきまでの不安が嘘のように鎮まって、何を馬鹿なことを心配していたんだろう、大丈夫、大丈夫、と自らに声をかけ、子どもに大丈夫、と言える自分に安心し、また子どもをベッドに降ろす…よみがえってきた記憶は、俵万智が詠んだ時よりも幼い頃の我が子と自分の姿であったが、それは俵の歌が、時間という制約を越えていく普遍性を持つものであるからだと思う。
 小学生になった今でも、人の気配のする部屋でごそごそ一人遊びをしている娘。そばにいるだけでいいよ、と言ってくれる人に、人生で何回出会えるだろう。130センチを越えたのに今でもはりついてくる息子。そろそろマズイかな、と思いつつ、ペタッと頬をくっつけていると、気持ちが穏やかになる、複雑な心情・・・もちろんすぐに押しのけるのだが。息子の方は、むしろその過敏反応を楽しんだり、おたおたする母親をからかっているような余裕さえ感じさせるのが、少し悔しい。


 自分の時間 ほしくないかと問われれば 自分の時間を この子と過ごす
 外に出て 歩きはじめた君に言う 大事なものは 手から放すな

 「社会」に出て活躍している友人の報を聞くたびに、自分が取り残されていくような、根拠のない焦りを覚えたときがあった。子どもが昼寝している間に、必死になってガーデニングやら手芸やらに没頭し、汗を流し…。達成感のようなものを得たかったのだろうか、今現在の“漠然とした不安”を忘れたかったのだろうか。当時は「ストレス解消!」と叫んでいたように思うが、実際、どれほどのストレスがあったものやら、自分の事ながらよくわからない。楽しんでいた、というよりも、とにかく夢中になれるものがほしい、という、切実な思い。なんであんなにムキになっていたのだろう、もっともっと、子どもの寝顔を、ただボーっと見ていればよかった、隣で一緒に寝てやればよかった…先にも書いた、ちくりと痛いような、小さな悔恨。

 何度でも ぴょんぴょん跳ねる膝の上 ここから ここから 始まってゆく
 目覚めれば 我が太ももを越えてゆく おまえと やがて来る夏を待つ

 これからどうなるのだろう、という気持ちの中の、不安と楽しみの割合が、最近になって、ようやく逆転してきたように思う。楽しんで見守る余裕が、子育て10年目にしてようやく持てるようになってきた、ということだろうか。息子と娘、男と女でこんなにも違うものか、と驚いたり、上の子はこうだったのに、下の子はこうだ…とシチュエーションに応じて、二人の姿が二重スライドのように重なって見えたり。こうしよう、と思ってもそうならない。どうなるのかなあ、と思って見ていると、思いがけず面白いことに出会う。「いつの日も自然は無言」だけれども、その場その場を楽しんで、“状況”に流されるように生きていくうちに、“本当に自分のやりたいこと”に流れ着くのではないだろうか。「いま」を楽しむ、ということ、「いま」を味わう、ということをもっともっと大切にしたい。そんなことを感じさせられた一冊である。
俵万智『生まれてバンザイ』童話屋1250円
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by yumiko_aoki_4649 | 2014-07-03 18:10 | 読書感想、書評 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


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