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カテゴリ:読書感想、書評( 22 )

渡辺めぐみさん『ルオーのキリストの涙まで』 書評

「羽の生えた緑の馬が雪原を走る」

 テロの報が、空爆の悲惨が、テレビ画面に流れるたびに、心の中のどこかのスイッチをオフにしている自分がいる。そんな日々に、渡辺の言葉は鋭い楔を打ち込んでくる。「遠くの火は関係ないですか 生のラディッシュの硬さほどにしか もしかして関係ないのですか/流産し続けたために疲れ切った母がいた 血溜まりを愛しすぎないように泣いていた」(「遊撃」)この一節を読んだとき、なぜかヨハネ黙示録の「女と竜(12章)」を連想した。直前に、「姦淫する者の額に震えを うそぶく者のまなこに権威を 見てはいけない」という言葉があったからかもしれない。黙示録では、光をまとった女は鷲の翼を与えられ、産んだ子(救済者)を食い殺そうとする竜から無事に逃げおおせるが、「遊撃」の中では、母は子を産むことすらかなわない。「わたしは人間の奴隷ではありません」と、悲痛なつぶやきを漏らしながら、「とにかく行きます」と叫ぶ「わたし」は、使命を帯びて天界から派遣される何者かであろうか。だとすれば、渡辺はその代弁者ということになる。
 「遊撃」「晴天」「遥か」「白いもの」と続く一章の作品を通読していくと、「この世のものとあの世のもののいさかいのしるし」が「油として浮いて」いる川を「流され続け」ることを拒否し、「ハルモニアという名で/この地が眠るのはいつだろう」と慨嘆しつつ、「わたしには故郷(ふるさと)はもうありません」と決然と進んでいく「わたし」の姿が立ち現れる。続く「跛行」の中で、「羽の生えた緑の馬」に乗って飛行する「わたし」が求めているものは何だろう。親しかった死者たちに見守られつつ、「光にのみ/わたしはこの身を捧げてもいいと」願いながら、「夏が来るというのに」「雪が降る」「眠る故郷」の「地上七メートルぐらいのところを」走る緑の馬。赤い馬、の補色としての緑。テロリズムが緊迫の度を強めている現在、「子羊が第二の封印を開いたとき」「火のように赤い馬」が現れ、「その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた」(黙示録6章)という凄絶な幻視の、対極の願望としての緑であるように思われてならない。
 パセティックな使命感をにじませる一章に対して、二章では、望まない戦いを強いられたあげく、「大志のため犬になったものだけが生き残」り、「わたしは脱走した」(「娑婆」)、「明かりの足らないところに/明かりを足しにゆく仕事をしていました/その仕事のせいで/火傷をしますので」(「小笛記」)など、自らの身が負う痛苦や、逃避の願望が吐露されている。「療養型病床群の片隅で/蝋細工のように/手を組み合わせていた」祖母を看取る心象に、父や祖父や、親しい者の死の哀惜を重ね、死者を「忘れない」ことによって「喪のすべてを断ち切って」「ルオーのキリストの涙まで」進んで行こうとする三章は、死を受容してからの再生の章と言えるだろう。詩集冒頭の「夜勤」では、既に大切な人は逝去している。無人の夜の病院で、犬だけが時を超えて詩人を呼び、「犬は逆巻く星の雲海に消えていった」。詩集全篇を通じて、無言の対話者として守護霊のように何度も現れる犬。静かに、詩人の心の痛みを見守り続ける影である。

『ルオーのキリストの涙まで』渡辺めぐみ著 思潮社 定価(本体2600円+税)
『びーぐる』27号書評欄掲載
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by yumiko_aoki_4649 | 2015-04-19 17:35 | 読書感想、書評 | Comments(0)

柴田 三吉 『角度』 書評

第48回日本詩人クラブ賞 柴田 三吉 『角度』(ジャンクション・ハーベスト)

2014年『詩と思想』12月号 「新刊selection」コーナーに掲載した書評を、再掲します。

 灰色の表紙の縁に、モノクロームの福島の地図。白で印字された詩集名と作者名は、角度を変えると灰色の地と地図に紛れてしまう。さりげない趣向を凝らした表紙が、ある種の予感に誘う。
 本文は、被災地のボランティアに応じた人の、その折の心情を細やかに拾い上げた行分け詩と、震災時を含む東京における日常を、日記体で綴った散文詩とからなる。浜辺で拾った壊れたオルゴールを鳴らそうと試み、「そうか 共鳴板が必要なんだ・・・ひとの胸に重ねたら/ひとの心の響きがするだろうか」(「空」)とつぶやく。アルバムから泥を洗い落とす作業中、不手際によって写真の一部が消えてしまい「あとに残された、存在の空白」に胸を衝かれる(「洗う」)。規制線の前で「手を上げて立ちふさがる男たちの、苦しげな顔」「火葬できない柩たちの/しずかなあえぎ」に直面し、「狂った時計のような」自らの心音を聴く(「消滅」)。その時々の作者の心が、リアリズムの手法で丁寧に描かれ、胸に迫る。
 他方、窓辺に置かれた三角フラスコが、日々増えていく「水」によって育って行く、という物語を介在させつつ、衰えていく母との日常を綴る散文詩は、現実でありながら夢を内在させているような不確かさを抱えている。平穏な日常とは何か。被災地、という圧倒的な現実を前に、薄れてしまった日常を言葉で確かめつつ取り戻していく。そんな作者の思いが静かに記録されている。
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by yumiko_aoki_4649 | 2015-04-01 11:17 | 読書感想、書評 | Comments(0)

草野理恵子さん『パリンプセスト』書評

「硝子絵の向こうに」    

 ぬかるんだ校庭に、白い便器が並んでいる。裸で陽に照らされている少女。他には誰もいない。冒頭に置かれた「土」の、あまりにも異様な静けさに息を呑む。少女は、あえて便器を使わず、大地に自らの排泄物を流す。金色に輝きながら土に吸われ、大地の滋養となっていくそれは、やがて、「たましいの菌糸」を育み、「豊饒の地になったはずだ」と過去形で語られる。神話的な転回点。ここには、草野が詩を生み出すまさに根底が、鮮やかな価値観の反転と共に示されている。
 「土は腐っている」と断じ、少女を病だと思い込ませているのは、人物としては出てこないが、社会的な倫理や常識の代弁者たる“教師”であろう。あるいは、草野自身の“良識”であるのかもしれない。たとえば羨望や憎悪のような負の感情、真面目な“優等生”たちなら水に流して、そしらぬ顔をしているはずのもの。それこそが、実は豊かな詩の土壌を作り出しているのだ、という発見と高揚が、「土は腐っていなかったと思う」という静かな抗弁に表れている。
 「半月」や「対岸の床屋」の中で喉元から這い出ようとしていたり、強制的にあふれ出させられる虫や得体の知れない「何か蠢くもの」は、負の感情が言葉となって喉からあふれ出してくる、やり場のない苦しみと諦念を物語に託して描いた作品だと言えるだろう。「深紅山」や「焼かれる街」に出てくる赤いむくろのイメージは、自分が殺してしまった無数の自分自身でもあるような気がして、切ない。「焼かれる街」や「剥製を被る」に出てくる、人間と獣として永遠に隔てられ、意思疎通を断念させられている「君」や「彼」との関係。届かないことを知りながら、それでもなお、手紙を書き続ける、という「愚行」に駆られる私、の痛切さ。この「手紙」が、草野にとっての“詩”なのだろうか。
 草野には、生まれたときから重度の障碍を負っている息子がいる。「あとがき」を読みながら、運命を受容していく日々の重さを想った。時に抱く憎悪や呪詛に近い感情と、その反転としての自罰の感情。家族に負担を課すことへの自責、それにも増してあふれだす、抑えがたい愛情……「黒い舟」や「独房」は、息子と自分と、その二人を死後の世界へ(あるいは誰もがそこからやってくる、生まれる前の世界へ)と運んでほしい、いっそこの世から二人で抜け出してしまいたい、そんな恋慕に近い感情から生まれた抒情的な奇譚のように感じる。
 「雨期」や「青い壜」、あるいは「パリンプセスト」の奥に広がる、ガラス絵のような異界をひたす静けさ。パリンプセストとは、絵や文字の描かれた羊皮紙を削り、白紙に戻したもののことであるが、新たに重ねられていく物語の向こうに、消しても消しきれない痕跡が水の底のような冷たさで横たわっている、そんな草野の世界をそのまま体現しているかのような表題である。
 草野の描く物語は、いつも映像として立ち現れる。特異なのに、誰にもかすかに覚えがあるような、懐かしいのに初めて見るような世界。そのスクリーンに、黙って身をゆだねて欲しいと思う。

『びーぐる』26号書評欄掲載 土曜美術社出版販売 定価(本体2000円+税) 青木由弥子
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by yumiko_aoki_4649 | 2015-01-23 17:02 | 読書感想、書評 | Comments(0)

新井高子さん『ベットと織機』

「女、汝たくましきもの」
 開口一番、小気味よい語りのリズムが、読者をぐいと引きずり込むのは、一昔前の織物工場(コーバ)のど真ん中。そこには「赤ンぼオブって」汗と乳をほとばしらせて、働きづめに働いている女工たちが生きている。むせ返るような機械油と髪油の臭い、耳を圧して鳴り響く力織機の凄まじい音。生きることそのものが剥き出しにされているようなコーバでは、性の喜びも悲しみもまた、あけっぴろげで誰はばかることもない。女たちを捉えて離さぬ「業」や「宿世」からまりあう「縁(えにし)の糸」を突き抜けて、内側から噴出するエネルギーに圧倒される。
 女工、というと、過酷な労働と貧困にあえぐ悲惨な弱者、といったイメージが付きまとうが、新井の描く女工たちは、なにしろたくましい。たまたま待遇のいい工場であったのかもしれないが、仕事がきつくても陽気に闊達に時に猥雑に生を謳歌する女たちの姿が、「ジャンガンジャンガン、力織機が騒(ぞめ)くなか」陰影も色彩も色濃く立ち昇ってくる。(「ベットと織機」)
 もちろん、工場での不慮の事故や、恋人の裏切りといった不幸な事件、破産や貧窮といったやるせない悲しみもある。だが、そうした「できごと」を語る伝奇めいた物語は、物の怪や怪かしの生きものたちが住んでいる異界と「コーバ」が隣接していることを、ぞくぞくするような生々しさで知らしめる。幽霊や地霊のような見えざる者たちと共に生きている場所が、間違いなくここにあるのだ。
 この詩集の魅力は、なによりもまず、文体の生み出すエネルギーにある。織物工場の一人娘として実際に見聞きした体験を、身に馴染んだ土地の言葉で語ることによって生まれる臨場感。浄瑠璃や歌舞伎、近現代の詩歌や演劇などへの深い造詣が、生きて蠢くような言葉の群れを立ち上げていく、その道程の鮮やかさ。
織物とそれを生む女たち、という主題もまた、多重の魅力を備えている。アマテラスは機屋、織物に深く関わる女神であるし、岩戸に隠れた女神を呼び出した、アメノウズメのおおらかな歌謡と舞踏のイメージは、生が性であり同時に聖でもあった時代の、多産と豊饒の祭礼を喚起する。前作の『タマシイ・ダンス』において、陽気に天宇受売命を召還した詩人が、寝台と織機を通じて呼び出そうとしているのは、生む者であり、また産む者でもある、女の力そのものではなかろうか。
 過酷な現実を笑いのめし、洒落のめすことによって乗り越えていくたくましさ、推進力としてのイロニーもまたこの詩集の大きな魅力だろう。詩集後半にまとめられた震災、特に原発事故をめぐる一群の詩は、人間の愚かさや物欲、経済欲の果ての狂態とそれが生みだした悲惨を痛烈に抉り、文字通り怒涛のように押し寄せて来る。生半可な憤りや悲痛の叫びよりも、よほど強烈である。しかしこれが、読んでいて不思議と辛くないのだ。もう、笑うっきゃないよ、という強靭な笑いの力が全篇を貫いている。
 女たちのたくましさと、痛快な反骨精神。痺れるような「読みの楽しみ」に、どっぷりと浸ってみてはいかがだろうか。
 詩集『ベットと織機』 新井高子著    未知谷 定価(本体2000円+税) 『びーぐる』25号書評欄掲載 ※写真家の石内都さんによる、素晴らしい表紙写真が、カバーになっています!
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by yumiko_aoki_4649 | 2014-10-26 09:51 | 読書感想、書評 | Comments(0)

俵万智の『生まれてバンザイ』

 俵万智の歌集(というより、編集者の卓抜かつ新鮮なレイアウトによる詩集)『生まれてバンザイ』を、涙のにじんでくるような想いで読み終えた。
 単なる共感ではなく・・・私は“子どもとの時間”を、こんなに濃密に過ごしてきただろうか、という、失われた時間への悔恨のような思いが少し。それから、薄れかけていた懐かしい記憶を、鮮明に呼び覚ましてくれた俵万智という詩人への感謝の思い。
 写真からよみがえる記憶は、どこかカサカサしていて、実感がない。初めて子どもを抱いたときの“しとっ”“くたっ”とした、暖かいというよりも、むしろ熱いような感覚や、もわあっと体温のこもった産毛から、そうっと薄い雲母片のような薄皮をつまみとる時のドキドキした感覚、こんなに小さいのか、と驚きつつ、体感2ミリの太さの指先に爪切りバサミを当てるときの怖さなどは、“実感”として鮮明に残っているにもかかわらず…。
 
 みどりごと散歩をすれば 人が 木が 光が 話しかけてくるなり
 気配濃く 秋は来たれり パンのこと パンとわかって パンと呼ぶ朝

 そういえば、“世界”がまるっきり違って見えた、輝くような瞬間があったような気がする。子どもは毎日新しい。出会うもの全てが新しい。そんな当たり前のことを、すっかり忘れていた自分、子どもと一緒にいると、見慣れていたものが全く生まれ変わったように見える不思議、その感動を毎日感じていたはずなのに、言葉にしておかなかったからだろうか、みんな埃をかぶって記憶の底に仕舞い込まれていたような気がして、残念で仕方がない。なにか、大きなものを取りこぼしてしまったような気さえする。
 いや、言葉にしておかなかった、のではなく、できなかったのだろう。そのもどかしさのようなものを、すっと拾い上げて言葉に留めてくれた俵万智に、だからこそ羨望よりも憧れを、「ありがとう」という一言を、伝えたくなるのかもしれない。

 一人遊びしつつ 時おり我を見る いつでもいるよ 大丈夫だよ
 抱っことは 抱きあうことか 子の肩に顔うずめ 子の匂いかぐとき

 きちんと育てられるだろうか、私はこの子を愛せるのだろうか、そんな不安が脳裏をよぎる時があった。でもここに、信頼しきったまなざしを向け、手をのばす我が子が目の前にいる。そのたびに、頭よりも先に身体が反応して、抱き上げ、頬ずりをしている。子どもの暖かさに触れているうちに、さっきまでの不安が嘘のように鎮まって、何を馬鹿なことを心配していたんだろう、大丈夫、大丈夫、と自らに声をかけ、子どもに大丈夫、と言える自分に安心し、また子どもをベッドに降ろす…よみがえってきた記憶は、俵万智が詠んだ時よりも幼い頃の我が子と自分の姿であったが、それは俵の歌が、時間という制約を越えていく普遍性を持つものであるからだと思う。
 小学生になった今でも、人の気配のする部屋でごそごそ一人遊びをしている娘。そばにいるだけでいいよ、と言ってくれる人に、人生で何回出会えるだろう。130センチを越えたのに今でもはりついてくる息子。そろそろマズイかな、と思いつつ、ペタッと頬をくっつけていると、気持ちが穏やかになる、複雑な心情・・・もちろんすぐに押しのけるのだが。息子の方は、むしろその過敏反応を楽しんだり、おたおたする母親をからかっているような余裕さえ感じさせるのが、少し悔しい。


 自分の時間 ほしくないかと問われれば 自分の時間を この子と過ごす
 外に出て 歩きはじめた君に言う 大事なものは 手から放すな

 「社会」に出て活躍している友人の報を聞くたびに、自分が取り残されていくような、根拠のない焦りを覚えたときがあった。子どもが昼寝している間に、必死になってガーデニングやら手芸やらに没頭し、汗を流し…。達成感のようなものを得たかったのだろうか、今現在の“漠然とした不安”を忘れたかったのだろうか。当時は「ストレス解消!」と叫んでいたように思うが、実際、どれほどのストレスがあったものやら、自分の事ながらよくわからない。楽しんでいた、というよりも、とにかく夢中になれるものがほしい、という、切実な思い。なんであんなにムキになっていたのだろう、もっともっと、子どもの寝顔を、ただボーっと見ていればよかった、隣で一緒に寝てやればよかった…先にも書いた、ちくりと痛いような、小さな悔恨。

 何度でも ぴょんぴょん跳ねる膝の上 ここから ここから 始まってゆく
 目覚めれば 我が太ももを越えてゆく おまえと やがて来る夏を待つ

 これからどうなるのだろう、という気持ちの中の、不安と楽しみの割合が、最近になって、ようやく逆転してきたように思う。楽しんで見守る余裕が、子育て10年目にしてようやく持てるようになってきた、ということだろうか。息子と娘、男と女でこんなにも違うものか、と驚いたり、上の子はこうだったのに、下の子はこうだ…とシチュエーションに応じて、二人の姿が二重スライドのように重なって見えたり。こうしよう、と思ってもそうならない。どうなるのかなあ、と思って見ていると、思いがけず面白いことに出会う。「いつの日も自然は無言」だけれども、その場その場を楽しんで、“状況”に流されるように生きていくうちに、“本当に自分のやりたいこと”に流れ着くのではないだろうか。「いま」を楽しむ、ということ、「いま」を味わう、ということをもっともっと大切にしたい。そんなことを感じさせられた一冊である。
俵万智『生まれてバンザイ』童話屋1250円
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by yumiko_aoki_4649 | 2014-07-03 18:10 | 読書感想、書評 | Comments(0)

中島真悠子さんの 『錦繍植物園』

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 血だらけの「あなたの指」が、「私の皮膚」を剥ぎとって、夜ごと刺繍していく・・・タイトルポエムの「錦繍植物園」を読みながら、白い肌の上に熱帯性の植物の蔓や毛根が繁茂していく眩惑に、しばし捕らわれていた。イメージの生々しさに圧倒される。
 「あなた」とは誰だろう。夜になると中島の元を訪れる、もう一人の私(「ハイド」「水棲の部屋」)。見えざる者たちに囲まれて「繕いをしながら/朝と夜を溶け合わせることを目論んでいた」私(「閉ざされて」)。「私に連なる幾千の父母が湧き出る」断崖の上に立つことが出来る私(「心臓」)。内なる異世界を痛々しいまでに鮮やかに感じ取るもう一人の「私」が、今ここで詩を書いている「私」の姿に重なっていく。
 処女詩集である本書は目を射ぬく鮮烈な映像が印象に残るが、著者の語り方は静かで、なめらかな日本語の語感が美しい。永続する生命や、いのちの原初的なエネルギーといった「本質」に果敢に取りくみながらも、中島のもうひとつの世界への入り口は、身近な虫の蠢きや庭先の植物の生長といったささやかなものに開いている。
 たとえば、「岸辺の石を裏返すように/昼を裏返すと/幾千の蟲が湧いてくる」と始まる「蟲の夜」。都会の夜景が、蟲たちの明滅する眼を想起させた瞬間、「地球の外で石を裏返す」ように昼を裏返すひと、の存在が立ち現れる。「いまだ光の届かない星よりも遠く深い場所で/私たちすべての臍の緒が/結ばれている」ことに想いが至るとき、私たちはひとつの大いなる〝母体″に連なる胎児となる。
 あるいは、種を蒔いて育てると、新種の植物としてのファルスが、巨樹となって屹立する「種」。エロティシズムを喚起する「性」からは切り離され、「大地は宇宙をそなえて/はろばろと男根を育てる」というのびやかな風景に驚きつつ、「私」は自らが「新種の種」であり、「熱く 私から生まれたがっている」ものがあることに気づく。読者は中島の世界にいつしかとりこまれ、再生の予感の内に、生命力そのものを目撃するのである。
 生と死の繰り返しの、その堆積の上に〝今″がある。普段私たちは、過去との連続性を特に意識することもなく日々を過ごしているが、ひとたびその連続が断ち切られるような災害に遭遇したり、自身の生が脅かされるような状況に陥った時、現代人は自らの生の寄る辺なさと文字通り対峙させられる。中島は過去や世界とのつながりを現代に呼び覚まし、鮮やかに描き出すことで再認しようとしている。それはどこか、シャーマンが担ってきた役割にも似ている。
 神話化された世界で精霊のような兄と妹が語り合う「沈む家」の、「海もまた見えない舌でいっぱいなのだ」という一節が、生々しい実感を伴って胸に残った。押し寄せる白い紙片の海に充満する「舌」は、過去に記された死者たちの声が、中島の内で再び生を取り戻し、謳い出す様を予感させる。
 私たちはつながっている。その生命の力を可視化しようとする意識が、詩集の芯を貫いている。繰り返しの中で永続するいのち、その様相を、心眼で鮮やかに目視する詩人の登場を祝したい。

詩集『錦繍植物園』 中島真悠子著 土曜美術社出版販売 定価(本体2000円+税)
『びーぐる』23号書評欄掲載
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by yumiko_aoki_4649 | 2014-06-12 18:11 | 読書感想、書評 | Comments(0)

谷川俊太郎『こころ』について

「なおも、いのちは続いていく」 

 黒い四角の中にポッカリ空いた光の穴、その中で、手に持った「なにか」を一心不乱に見つめながらうずくまる男の子。母体の中の胎児のようにも、「向こう側」の世界へ通じる通路のようにも見える、印象的な表紙である。帯には、心は、どこにいるのだろう、と記されている。ある、ではない。集中から採られた一節だが、物、としての心を問うのではなく、生き物である「こころ」に向き合う詩人の姿を、もっともよく表している言葉ではないだろうか。
 新聞連載、という性質上、小学生から老いを迎えた人々にまで、万人に届く言葉で綴られているが、ココロとアタマ、カラダ、そして魂を、それぞれ独立した感覚器官としてとらえ、その声に耳を傾ける谷川ならではの自問自答が、全篇を貫いている。若い読者を意識したのであろうか、問いかけの後に答えを用意した丁寧な作品も多い。
 五年に渡る新聞連載中、東日本大震災が起きた。時系列で並べられた作品は、そのとき、を越えてさまよい続ける谷川自身の「こころ」を、ロードムービーのように映し出す。震災直後に書かれたという「シヴァ」。言葉を失い、思考停止を余儀なくされた詩人の脳裏に浮かんだのは、破壊と創造の神、その怒りの姿だった。高踏的と感じる読者もいるかもしれない。しかし、あまりの衝撃の大きさに、ただ無言でテレビ画面を見続ける他、なすすべがなかった当時の多くの人々にとって、天の怒りか、という詠嘆もまた、実感として思い起こされる記憶である。(なお、この作品は執筆直後ではなく、2013年の3月11日に発表された。)
 その後、「言葉」という一篇が生まれた。言葉にし得ない惨状に、言葉でしか向き合えない者はいったいどうすればいいのか、という真摯な問いかけは、「瓦礫の下の大地から」発芽する言葉、を発見していく。詩人は、「言い古された言葉」が、「新たな意味」を帯びて蘇生するのを目の当たりにする。祈りの発見、と言い換えてもいい。やがて、詩人は被災地で無数に交わされた「ありがとう」の深さを拾い上げ、生きることへと願いを運んでいく。「遠くへ」は、集中もっとも切実な哀悼歌であろう。いのちが生まれ、また帰っていく場所へ、せめて心だけでも辿り着くことを希求する鎮魂の歌。
 その後の生へと思いを寄せて、詩人の旅はひとまず閉じられる。読者もまた、詩人と共に自らの「そのあと」を想い起こしつつ、この詩集を閉じることだろう。続いていくいのちの営みを、静かに鼓舞する詩集である。

朝日新聞出版 1260円(税込) 発売日2013年6月7日 
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by yumiko_aoki_4649 | 2014-05-19 14:19 | 読書感想、書評 | Comments(0)

角野栄子さん講演会

 久が原図書館でJBBY主催の講演会があった。講師は角野栄子さん。何が何でも聞きに行かねばならない。
 森の中で童話の主人公がかくれんぼしているような、夢のある模様でありながら、甘くなり過ぎないスタイリッシュな茶と水色のニットに、赤の差し色を利かせた角野さんは、上品でおしゃれで、なおかつ気さくな、「雰囲気の良い」方だった。明確な発音、美しいアルトの声、穏やかに語りかけるような調子。理路整然と語りながら、学者のような硬さは皆無で、小学生の子どもでも理解できるような言葉を自然に選んで話されている。そんな印象を受けた。
 内容ももちろん素晴らしかった。一人の女性であると同時に魔女でもあるキキの物語、全6冊を、24年間かけて完成させた、という。いわば角野さんのライフワークのお話が中心であったが、物語の創造すべてに関わる「たいせつなこと」、角野さんが“物語の神様”から教わったことのエッセンスが、語りの向こう側に垣間見えるような気がした。
 物語の主人公たちは、「つくりだした」もの、というよりは、「むこうがわ」からやってきて角野さんと「出会った」という感覚の中で生み出されるのだ、という。たとえば魔女のキキは、お嬢さんがいたずら描きのようにして描いた、ラジオをぶらさげて飛ぶ魔女の絵から発想を得たとのこと。私も空を飛んでみたい、という若いころからの夢、自由に冒険してみたい、という誰もが抱く夢を、主人公に託して実現させたい、という作者としての想い。何百歳も年を取った魔女の話は書いている人がいるけれど、13歳(という大人と子供の境い目)の魔女を描いた人はまだいない、という、書き手としての矜持。子どもが実際に社会の中で経済的に自立しうるかと、主人公と共に悩み、工夫し、解決していく作者の姿。
 現代に魔女の物語は成立するか、という、物語としてのリアリティーへの目配りも、具体的で面白かった。魔女と人間との「ハーフ」だったらあり得るかもしれない、という発想。現代だからこそ、魔女になるかならないかは自分で決めさせてあげたい、という、広げていけば女性や子供の人権にまで広がる社会的な視点。魔法は一つだけにしたい、なんでも魔法で解決してしまう、というのは安易だしリアリティーに欠ける、一つしか使えなければ、その分工夫することになるだろう・・・という条件の設定方法。
 「普通」と違う、ということは、誰にとってもプライドであると同時にコンプレックスであるだろう。その両面を意識した主人公が、1年間、自分の力で生きていく話にしよう、という、心理学的な深みにまで至る物語の構想。「普通」の人以上に敏感で鋭敏で、夢想の力も強かった子どもであり、そのことにコンプレックスとプライドの双方を怜悧に感じ取っていたであろう角野さん自身の姿が、キキに重なって見えてくるような気もした。
 くらやみ、に対する感性も興味深かった。昔は夜になるとそこいらじゅうに「暗闇」があった。そして、子どもの感性は、その「暗闇」の中に、「なにか」が蠢いているのを敏感に感じ取った。それは、「不思議」がそこにある、ということを感じ取る機会でもあったろう。(角野さんは、不思議、という言葉を、言葉本来の意味での用法、思議/人間の理解、を越えたもの、という意味で使用しておられるように感じた)
 文明が発達すると同時に、明るさ、という表層的な面においても、科学の発達、という内在的な面においても「不思議」が消えていく。様々なことを感じたり、考えたりする「静けさ」もまた、消えていく。角野さんの描き出す魔女、の役目は、「不思議」がこの世にあるんだよ、ということを伝え知らせることではないか、という言葉に、物語作者の在り様そのもの、存在意義に対する思想まで含まれているように感じた。
 魔女のキキ、が「生まれた」後に、魔女のことを調査することになったお話も興味深かった。魔女が古来女性であったのは、医療の未発達の時代に、自分の子どもを何が何でも助けたい、という、母親としての想いが、知識と経験の累積を生んだのではないか、ということ。人類学的な部分にまで広げれば、「復活」を祈るアニミズムにつながるであろう、ということ。ヨーロッパ、とくにドイツや東欧では、魔女、とは、垣根の上、城壁の上にいる人、というのが本義であった、ということ。そこから敷衍して、「くらやみ」と「あかり」の世界、見える世界と見えない世界、野蛮と文明、感性と理性の境界上で、その両方を見ることの出来る存在が魔女、だったのではないか・・・お話を聞きながら、角野さんご自身が「魔女」そのものだ!という気がした。
 物語は、見えない世界で「出会ったもの」を見える世界に引っ張り出してくること、だという。人の気持ちは「見えない世界」に属している。行為や言葉が、それを見えるもの、にする。「境い目に居る時、人は生き生きする」という言葉が、とりわけ印象に残った。想像、空想によってしか「見えない」世界と、今「見えている」世界との境い目。そこに立つ、ということ。
 「本の表紙を開けると、とびら、と呼ばれるものがありますね。扉を開けて、見えない世界に、私たちは家出するんです」微笑みながら話される角野さんの言葉を聞きながら、見えない世界と見える世界を自在に飛び越え「本の扉」という私たちにも自由に出入りできる「とびら」を用意してくださった練達の魔女角野さんに、深く感謝を申し述べたい。
 ステキな講演会を企画してくださった、JBBYのスタッフの方々と久が原図書館の方々にも・・・。
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by yumiko_aoki_4649 | 2013-03-09 10:10 | 読書感想、書評 | Comments(2)

小林秀雄再考

大学入試センター試験、国語の平均点が大きく下がった、という。
小林秀雄が難解かどうか、それは好むか好まざるか、という審美眼の問題にも関わるだろうけれども、
彼のように直観的に物事を感得し、それを散文詩のような飛躍した形態で提出する作家の文体は、
点数をつけなければならない試験には本来不向きであろう、と思う。
小林秀雄の文章を読み、思うところを述べよ、という小論文の設問ならまだしも・・・

行間に余情や言葉にならざる情緒が潜む。その広がりの大きさは、言葉の飛躍に比例する。
それは、漢文を読みなれていた戦前の文学者たちには容易に越えられる距離かもしれないが、
現代の若者には千尋の谷より広い懸隔なのではないか。
あるいは・・・一つの文章に、おおよそ正しい解釈、というものが一つ対応する、
そんな試験用の文章を読みなれた者にとっては、多種多様の解釈をゆるし、
しかも一つの情緒に収斂していく、というような直観的な彼の文体は、読解不能であるかもしれない。
読み解く、のではなく、感じて、それを言葉で語る、のであるから。

残念なことだが、言わずともわかることを解説するのは無粋、というような、
ある種高踏派的な矜持はこの際脇において、様々な分野の「有識者」が、
それぞれ小林秀雄を読む、というような形でそれぞれの「卓見」を披露する文集のようなものが
あれば楽しい、と思う。おそらく、一つのテキストが、多種多様の展開を見せるだろう。
小林秀雄の文章は、それを読むひとりひとりに、それぞれ別箇の詩情をもった世界を開くであろうから。
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by yumiko_aoki_4649 | 2013-01-24 14:49 | 読書感想、書評 | Comments(0)

ムナーリのことば

誰かが
これなら僕だってつくれるよ
と言うなら
それは
僕だって真似してつくれるよ
という意味だ
でなければ
もうとっくにつくっているはずだもの 

ブルーノ・ムナーリ  『ムナーリのことば』阿部雅世訳 平凡社

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絵を描いていると、必ず突き当たるのが、「こんなの、誰だって描けるよね・・・」という
ふがいなさ、絶望、諦念がないまぜになったような、複雑な感情です。
それを乗り越えなければならないのはわかっている。
そう思う一方で・・・
趣味で描いているんだから、誰かの絵に似ていたって、特別な個性が現れていなくたって、
自分が楽しんでいるならそれでいいではないか、という甘いささやきが聞こえてきます。

そんなとき、ムナーリのことばを読み返します。
子どもの心を持ち続けるということ。
それは、知りたいという好奇心や、わかる喜び、伝えたいという気持ちを持ち続けるということ。
そうすれば、いつも新鮮な驚きと感動に出会える。
わくわくする気持ち、夢中になって遊んだ時の充実感、爽やかな疲れを、いつも体感することができる。
ムナーリという、豊かな実践者の言葉に触れていると、私も子どもの心を取り戻せる、という
「根拠のない自信」が湧き上がってくるのです。

 こどもは、オトナの常識や、経験による枠決めからいつも自由。それは、知らないから、と言い換えることもできます。知っているがゆえに、可能性を狭めてはいないか。知らなかったが故の、新鮮な驚きを見落としてはいないか。こんなこと、もうすでにやりつくされている・・・と最初から投げ出していたら、努力し、工夫し、やり遂げた、という充実感は得られない。
 こどもは、遊びを通じて知らぬ間に体を鍛え、空想力を豊かにし、自然との関わり方や人間関係を学んでいきます。こんなこと、やっても無駄、と、遊びを投げ出すこどもはいない。夢中になって遊んでいるうちに、思いがけないものができちゃった!そんな描き方から生まれた絵は、描く人にも、見る人にも心地よい絵になるだろう。そんな夢のような日々を目標としつつ・・・。
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by yumiko_aoki_4649 | 2012-08-20 21:58 | 読書感想、書評 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


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