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カテゴリ:読書感想、書評、批評( 23 )

中島真悠子さんの 『錦繍植物園』

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 血だらけの「あなたの指」が、「私の皮膚」を剥ぎとって、夜ごと刺繍していく・・・タイトルポエムの「錦繍植物園」を読みながら、白い肌の上に熱帯性の植物の蔓や毛根が繁茂していく眩惑に、しばし捕らわれていた。イメージの生々しさに圧倒される。
 「あなた」とは誰だろう。夜になると中島の元を訪れる、もう一人の私(「ハイド」「水棲の部屋」)。見えざる者たちに囲まれて「繕いをしながら/朝と夜を溶け合わせることを目論んでいた」私(「閉ざされて」)。「私に連なる幾千の父母が湧き出る」断崖の上に立つことが出来る私(「心臓」)。内なる異世界を痛々しいまでに鮮やかに感じ取るもう一人の「私」が、今ここで詩を書いている「私」の姿に重なっていく。
 処女詩集である本書は目を射ぬく鮮烈な映像が印象に残るが、著者の語り方は静かで、なめらかな日本語の語感が美しい。永続する生命や、いのちの原初的なエネルギーといった「本質」に果敢に取りくみながらも、中島のもうひとつの世界への入り口は、身近な虫の蠢きや庭先の植物の生長といったささやかなものに開いている。
 たとえば、「岸辺の石を裏返すように/昼を裏返すと/幾千の蟲が湧いてくる」と始まる「蟲の夜」。都会の夜景が、蟲たちの明滅する眼を想起させた瞬間、「地球の外で石を裏返す」ように昼を裏返すひと、の存在が立ち現れる。「いまだ光の届かない星よりも遠く深い場所で/私たちすべての臍の緒が/結ばれている」ことに想いが至るとき、私たちはひとつの大いなる〝母体″に連なる胎児となる。
 あるいは、種を蒔いて育てると、新種の植物としてのファルスが、巨樹となって屹立する「種」。エロティシズムを喚起する「性」からは切り離され、「大地は宇宙をそなえて/はろばろと男根を育てる」というのびやかな風景に驚きつつ、「私」は自らが「新種の種」であり、「熱く 私から生まれたがっている」ものがあることに気づく。読者は中島の世界にいつしかとりこまれ、再生の予感の内に、生命力そのものを目撃するのである。
 生と死の繰り返しの、その堆積の上に〝今″がある。普段私たちは、過去との連続性を特に意識することもなく日々を過ごしているが、ひとたびその連続が断ち切られるような災害に遭遇したり、自身の生が脅かされるような状況に陥った時、現代人は自らの生の寄る辺なさと文字通り対峙させられる。中島は過去や世界とのつながりを現代に呼び覚まし、鮮やかに描き出すことで再認しようとしている。それはどこか、シャーマンが担ってきた役割にも似ている。
 神話化された世界で精霊のような兄と妹が語り合う「沈む家」の、「海もまた見えない舌でいっぱいなのだ」という一節が、生々しい実感を伴って胸に残った。押し寄せる白い紙片の海に充満する「舌」は、過去に記された死者たちの声が、中島の内で再び生を取り戻し、謳い出す様を予感させる。
 私たちはつながっている。その生命の力を可視化しようとする意識が、詩集の芯を貫いている。繰り返しの中で永続するいのち、その様相を、心眼で鮮やかに目視する詩人の登場を祝したい。

詩集『錦繍植物園』 中島真悠子著 土曜美術社出版販売 定価(本体2000円+税)
『びーぐる』23号書評欄掲載
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by yumiko_aoki_4649 | 2014-06-12 18:11 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

谷川俊太郎『こころ』について

「なおも、いのちは続いていく」 

 黒い四角の中にポッカリ空いた光の穴、その中で、手に持った「なにか」を一心不乱に見つめながらうずくまる男の子。母体の中の胎児のようにも、「向こう側」の世界へ通じる通路のようにも見える、印象的な表紙である。帯には、心は、どこにいるのだろう、と記されている。ある、ではない。集中から採られた一節だが、物、としての心を問うのではなく、生き物である「こころ」に向き合う詩人の姿を、もっともよく表している言葉ではないだろうか。
 新聞連載、という性質上、小学生から老いを迎えた人々にまで、万人に届く言葉で綴られているが、ココロとアタマ、カラダ、そして魂を、それぞれ独立した感覚器官としてとらえ、その声に耳を傾ける谷川ならではの自問自答が、全篇を貫いている。若い読者を意識したのであろうか、問いかけの後に答えを用意した丁寧な作品も多い。
 五年に渡る新聞連載中、東日本大震災が起きた。時系列で並べられた作品は、そのとき、を越えてさまよい続ける谷川自身の「こころ」を、ロードムービーのように映し出す。震災直後に書かれたという「シヴァ」。言葉を失い、思考停止を余儀なくされた詩人の脳裏に浮かんだのは、破壊と創造の神、その怒りの姿だった。高踏的と感じる読者もいるかもしれない。しかし、あまりの衝撃の大きさに、ただ無言でテレビ画面を見続ける他、なすすべがなかった当時の多くの人々にとって、天の怒りか、という詠嘆もまた、実感として思い起こされる記憶である。(なお、この作品は執筆直後ではなく、2013年の3月11日に発表された。)
 その後、「言葉」という一篇が生まれた。言葉にし得ない惨状に、言葉でしか向き合えない者はいったいどうすればいいのか、という真摯な問いかけは、「瓦礫の下の大地から」発芽する言葉、を発見していく。詩人は、「言い古された言葉」が、「新たな意味」を帯びて蘇生するのを目の当たりにする。祈りの発見、と言い換えてもいい。やがて、詩人は被災地で無数に交わされた「ありがとう」の深さを拾い上げ、生きることへと願いを運んでいく。「遠くへ」は、集中もっとも切実な哀悼歌であろう。いのちが生まれ、また帰っていく場所へ、せめて心だけでも辿り着くことを希求する鎮魂の歌。
 その後の生へと思いを寄せて、詩人の旅はひとまず閉じられる。読者もまた、詩人と共に自らの「そのあと」を想い起こしつつ、この詩集を閉じることだろう。続いていくいのちの営みを、静かに鼓舞する詩集である。

朝日新聞出版 1260円(税込) 発売日2013年6月7日 
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by yumiko_aoki_4649 | 2014-05-19 14:19 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

『青衣』138号収載「現代詩を考える 1」を読んで

*詩誌『POCULA』16号に載せていただいたエッセーの抜粋です。
 
 日本の「詩歌」は、和歌(やまとうた)と漢詩(からうた)との両輪からなる韻文として発展してきました。外来文化の象徴であり、教養水準のバロメーターともなった漢詩に対して、「人の心を種として」生まれ出る和歌は鳥が鳴き蛙が歌うように、歌わずにはいられない人間の本性に根差した、日本古来の文化として理解されていたようです。
 漢詩は見て意味が解る、いわば視覚的要素の強い詩文であり、読んで、それから朗誦する詩です。一方、和歌は聴いて判る、いわば聴覚的要素の強い詩文であり、詠い、聴く詩です。私たちはつい忘れがちですが、もともと日本には、それぞれ役割を異にする「読む詩」と「聴く詩」が併存し、しかも相互に翻案したり意味を写しあったりする、という密接なかかわりを持ち続けてきました。そして、漢詩と和歌の双方が知識人の基礎教養を形作る、という精神文化が、戦前まで存在していた、と思われるのです。

 大正元年に大学生となった西脇順三郎は、海外文化の摂取を経て、「純粋芸術はリズムを拒む・・・むしろリズムが美であるがため拒む」と詩論を展開し、韻律を持った「聴く詩」からの離脱を宣言しました。もともと画家志望であり、黒田清輝主催の白馬会に入会した経緯も持つ西脇は、視覚の人であった、と言えましょう。後にシュルレアリスム運動の中心人物となることもうなずけます。西脇の主張する「うた」からの離反は、単なる「韻律」からの離脱ではありません。「うた」の氷山の、いわば見えている部分を純粋に取り出す行為です。見える部分と見えない部分との相互浸透を拒否し、見える部分のみの純粋な自立を志向した、とも言えます。
 あるいは、次のような比喩で言いかえることが出来るかもしれません。「詩」は「歌」あるいは「響き」を母として、「イメージ」を父として生まれる子供です。聴覚は主に感性に関わり、視覚は主に理性に関わります。この比喩に従うなら、詩の「うた」としての側面は「母」(感性)から、思想性、想像性は「父」(理性)から受け継いだもの。西脇が目指した詩と音楽性の分離、あるいは音楽性(という感性的な美)の拒否、という実践は、「うた」という音楽性の母体(感性)から、父に極端に憧れた「息子」(現代詩)が、自立し独立しようとして示した「詩の反抗期」ということになります。
 「現代詩」が「成人」し、自立を果たした今、詩は父となるのか、母となるのか、自ら選び、その選択にふさわしい資質を身に着けていく時期に来ていると思います。父でもなく母でもない、モラトリアム世代ばかりが増えれば、子は産まれず「詩の家」は崩壊するでしょう。どちらか一方ばかりでも衰退します。
 いわゆる自己充足的な抒情詩、ポエム、が大量に生み出される一方、思想性、想像性と密に組んだ、一人格として自立性を持つ抒情詩が数えるほどしかない、というのは憂うべきことです。城戸朱理氏が『詩の現在』の中で「平明な詩への傾斜、それは・・・メタファーを主要な方法としてきた「戦後詩」が、その有効性を終えたあと語るべき主題を失って個人的な感慨を語る抒情詩に解体されていったもの」と喝破しているのは、現状において正鵠を射た抒情詩批判でありましょう。他方、難解、芸術至上主義、などと呼ばれる「父」となるはずの言語派の詩も、自己充足の自慰行為を繰り返すばかりで、「母」となるはずの抒情詩と手を結ぶことを恐れたまま迷走を続けているように見えます。人間の感情から遊離した「純粋芸術」に、感性の喜びはあるでしょうか。理性の充足はあるにしても・・・。
 言語派モダニズムの詩が、歌としての、音楽としての資質を保ち続けている抒情詩の側に歩み寄った時こそ、新しい詩が生まれ、育っていくのではないでしょうか。見えないものを観る理性と、聞こえないものを聴く感性双方が悟性によって結び付けられ、止揚された次元にこそ、新たな可能性が生まれる、そんな気がしてなりません。
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by yumiko_aoki_4649 | 2013-09-02 10:41 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
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