Yumiko's poetic pictures

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初めてのリトグラフ

誰もが「あるべきよう」を持っている
自ずから見つかる人は 100人にひとり 1000人にひとり
たいていの人は 探しあぐねて苦しんでいる
見つけようとしても見つからない
自分のために、と必死になればなるほど 見えなくなっていく
けれども 誰かのために、と我を忘れていると
ある日忽然と見つかる

誰かのために、ということが 目的になってはいけない
自己犠牲の苦行に 自己充足してしまうから
見つけようという探求心を 失ってしまうから

自己犠牲に甘んじるのは 自分を粗末にすることだ
自分を粗末に扱う人に 親切にされて嬉しい人がいようか

誰かのために、ではなく
誰かに笑顔になってほしい
誰かに嬉しくなってほしい
誰かによろこんでもらいたい
の、ではなく、に。
その遊び心が
正しい道を照らしてくれる

私も笑顔 あなたも笑顔
その穏やかなぬくもりの中では
あなたのため わたしのため
そんなおためごかしは雲散霧消
春の夕暮れのような
優しい明るみだけが
二人を照らしている
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by yumiko_aoki_4649 | 2013-02-27 14:41 | 絵画、詩 | Comments(2)

エル・グレコ展

 都美術館のエル・グレコ展に行く。フェルメール展の時の、ほとんど狂騒的な混み様を想定し、喧騒を覚悟して出かけたのだが、予想以上に空いていて、じっくり鑑賞することができた。
 絵のそばに立つ。未完成にすら見えるマチエールの奔放さが目に飛び込んでくる。親指の幅ほどの筆跡を残した画面。一方向に流れるように、なでつけるように、しかし筆跡は残しながら、5㎝~10㎝くらいのタッチをリズミカルに重ねていく。フランチェスコ像などでは、ぶれずに焦点の定まった部分と、放射状に広がるタッチによりかすかなブレを与えられた画面とが意識的に使い分けられ、まるで、放射状にぼかしが入る特殊フィルターを装着して撮影した写真のような迫力すら生み出している。画面の奥から、ゆらぎながら現れ出るような、動きを感じさせる画面。人物の輪郭を明確に区切らず、勢いではみ出してしまった部分をそのまま残したような一見無造作な処理が、かすかなブレを捉えた写真のような、動きの残像として人の眼に映るのだ。
 無地の背景に聖人が描かれた作品も、近寄ってみるとレンガ色と青灰色を巧みに画面上で混ぜ合わせ、変化を出していることがわかる。柔らかな筆でなでつけるようにぼかしこみながら、境い目が消える直前で止める手加減の見事さ。
 もともとイコン画家から出発した、という画家の出自のせいか、あるいはイタリアを経由してスペインに至るまでにフレスコの技法を学んだものか定かではないが、表面を強めに洗浄したらしい作品の前に立つと、人物の下地に緑系の顔料を用い、その上にピンクや黄を混ぜた白を盛り上げて、透明感のある白人の肌を表現していることがわかる。頬やあごの影、腕や体の筋肉の影などは、墨色を柔らかな筆でぼかしこむように重ねている。全体に、グレコ特有の蒼ざめた肉体の生々しい質感と、上昇していくような、あるいは手前に抜け出してくるような運動感が漂う。
 人物のプロポーションなどのダイナミックな引き伸ばしは、ミケランジェロなど同時代の画家に学ぶだけではなく、グレコ自身が書物などから多くを学び、研究していたことを知った。ウィトルウィウスなどの書物に、グレコ自身が極めて丁寧な文字で(ということは、後世の人々が読む、ということを想定していた、ということでもある)彼の発見や反論、着想などを書き込んでいる。非常に理知的な探求者であったようだ。
下から煽って観る位置に設営されていればそれほど不自然には感じなかったと思うが、視線と同じ高さで展示された作品の前に立つと、手が顔に比して大きい作品が目立つ。肉体の引き伸ばし以上に、手の比率の大きさが印象に残った。
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by yumiko_aoki_4649 | 2013-02-12 13:34 | 美術展感想 | Comments(1)

白隠展

 渋谷文化村で開催中の白隠展に行った。近年まれにみる充実した内容だった。個人コレクションや日本各地の寺宝が集められ、テーマごとに円環を描くように作品が展示されている。
 隻眼達磨図は、未だ意図が読み解けない、というようなキャプションがついていたが、じっと見つめていると丸い雲に包まれた朝日が遠い山の端に昇ってきて、全容を見せたまさにその瞬間、を描いたもののように見えてくる。太陽は、昇り始めた時は肉眼で見つめることが出来る。でも、昇りきった途端に人の眼には堪えがたい激しい光の束となって世界を照らし始める。隻眼達磨図は、まさにその得難い瞬間、人の眼にとらえうるギリギリのところを描いたのではないか。そんな印象を受けた。
 40代の頃、白隠は驚くほど繊細かつ華麗に線を駆使し、素人目にも「上手」な作品を描いている。一方、60代以降になると、線は伸びやかさを増し、時に酔狂や出鱈目に筆を走らせたのではないか、という自在さを見せる。白隠ですら、見せる、という「こだわり」から自由になれぬ時があったのだ。誰に何を思われようとたいしたことではない、私は私、という達観、理解ではなく情解、あるいは心解、とも呼ぶべき境地を得られた、ということか。体取、という言葉を想起する。
 慈、という一文字を、ふとぶとと大きく、豊かに描いた作品があった。白隠の文字にしては珍しく字形が美しく整っている。不思議に思って近づいてみると、現代でいう「レタリング」のごとく、輪郭線を細筆で描き、中を塗り絵のように塗りつぶしているのだった。この茶目っ気と余裕には脱帽である。
 白隠が好んだ、という「人心見性佛性」という六文字の讃。今、ここにはない「はるか彼方」にしかないという「なにか」を追い求めていくのではない。求めているものは、今、ここにある。自分の内に潜み眠っている。その「なにか」を、仮に佛性と呼ぼう。佛性を目覚めさせることが大切なのだ。佛性は外にはない。内にある。そして目覚めの鍵は、外の自然の風物の中に隠されている。さらに言えば、外と内の差も大したことではない。小我を脱し、自然、宇宙と一元となるとき、その目覚めは自ずから訪れよう・・・覚者の慈言は、今もなお我々の心を惹きつけて止まない。
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by yumiko_aoki_4649 | 2013-02-07 13:32 | 美術展感想 | Comments(2)
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詩や詩に関わるものごとなど。


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