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手紙

抱きしめても抱きしめても抜けがら

月光が薄く流れ込む部屋
鏡台の引き出しから取り出した手紙
文字に折りたたまれた笑顔は
鏡から引きはがされた断片
つなぎあわせても綴じあわせても
あなたの目が映していた私を
取り戻すことができない

重なりあう三面鏡の浅葱色の道の奥に
あなたのやわらかな絵筆がひかっている
私のりんかくを埋めていった
なめらかなセーブルの穂先
置き忘れられたものを
ふり返ることもせずに
ガラスの扉を閉じてしまった

 あなたがつぶてを浴びている時
 私は羽毛ふとんの中にいました
 不用意に取りこぼした
 角張った言葉のかけら
 私の落として行ったものも
 その中にあったはずです

耳をふさぐ闇の底で
かすかに鉄錆びが臭う
水の流れる音がする
あるいは血の川かもしれない
手紙を舟に折り直したら
水脈に浮かべられるだろうか
ほんとうの想いがそこにあるなら
舟は流れをさかのぼり
源を探り当てることができる
舟があなたの元にたどりつくまで
私は息を吹きかけ続ける

『ユリイカ』2014年8月号入選
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by yumiko_aoki_4649 | 2014-07-31 22:26 | 詩、詩論 | Comments(5)

俵万智の『生まれてバンザイ』

 俵万智の歌集(というより、編集者の卓抜かつ新鮮なレイアウトによる詩集)『生まれてバンザイ』を、涙のにじんでくるような想いで読み終えた。
 単なる共感ではなく・・・私は“子どもとの時間”を、こんなに濃密に過ごしてきただろうか、という、失われた時間への悔恨のような思いが少し。それから、薄れかけていた懐かしい記憶を、鮮明に呼び覚ましてくれた俵万智という詩人への感謝の思い。
 写真からよみがえる記憶は、どこかカサカサしていて、実感がない。初めて子どもを抱いたときの“しとっ”“くたっ”とした、暖かいというよりも、むしろ熱いような感覚や、もわあっと体温のこもった産毛から、そうっと薄い雲母片のような薄皮をつまみとる時のドキドキした感覚、こんなに小さいのか、と驚きつつ、体感2ミリの太さの指先に爪切りバサミを当てるときの怖さなどは、“実感”として鮮明に残っているにもかかわらず…。
 
 みどりごと散歩をすれば 人が 木が 光が 話しかけてくるなり
 気配濃く 秋は来たれり パンのこと パンとわかって パンと呼ぶ朝

 そういえば、“世界”がまるっきり違って見えた、輝くような瞬間があったような気がする。子どもは毎日新しい。出会うもの全てが新しい。そんな当たり前のことを、すっかり忘れていた自分、子どもと一緒にいると、見慣れていたものが全く生まれ変わったように見える不思議、その感動を毎日感じていたはずなのに、言葉にしておかなかったからだろうか、みんな埃をかぶって記憶の底に仕舞い込まれていたような気がして、残念で仕方がない。なにか、大きなものを取りこぼしてしまったような気さえする。
 いや、言葉にしておかなかった、のではなく、できなかったのだろう。そのもどかしさのようなものを、すっと拾い上げて言葉に留めてくれた俵万智に、だからこそ羨望よりも憧れを、「ありがとう」という一言を、伝えたくなるのかもしれない。

 一人遊びしつつ 時おり我を見る いつでもいるよ 大丈夫だよ
 抱っことは 抱きあうことか 子の肩に顔うずめ 子の匂いかぐとき

 きちんと育てられるだろうか、私はこの子を愛せるのだろうか、そんな不安が脳裏をよぎる時があった。でもここに、信頼しきったまなざしを向け、手をのばす我が子が目の前にいる。そのたびに、頭よりも先に身体が反応して、抱き上げ、頬ずりをしている。子どもの暖かさに触れているうちに、さっきまでの不安が嘘のように鎮まって、何を馬鹿なことを心配していたんだろう、大丈夫、大丈夫、と自らに声をかけ、子どもに大丈夫、と言える自分に安心し、また子どもをベッドに降ろす…よみがえってきた記憶は、俵万智が詠んだ時よりも幼い頃の我が子と自分の姿であったが、それは俵の歌が、時間という制約を越えていく普遍性を持つものであるからだと思う。
 小学生になった今でも、人の気配のする部屋でごそごそ一人遊びをしている娘。そばにいるだけでいいよ、と言ってくれる人に、人生で何回出会えるだろう。130センチを越えたのに今でもはりついてくる息子。そろそろマズイかな、と思いつつ、ペタッと頬をくっつけていると、気持ちが穏やかになる、複雑な心情・・・もちろんすぐに押しのけるのだが。息子の方は、むしろその過敏反応を楽しんだり、おたおたする母親をからかっているような余裕さえ感じさせるのが、少し悔しい。


 自分の時間 ほしくないかと問われれば 自分の時間を この子と過ごす
 外に出て 歩きはじめた君に言う 大事なものは 手から放すな

 「社会」に出て活躍している友人の報を聞くたびに、自分が取り残されていくような、根拠のない焦りを覚えたときがあった。子どもが昼寝している間に、必死になってガーデニングやら手芸やらに没頭し、汗を流し…。達成感のようなものを得たかったのだろうか、今現在の“漠然とした不安”を忘れたかったのだろうか。当時は「ストレス解消!」と叫んでいたように思うが、実際、どれほどのストレスがあったものやら、自分の事ながらよくわからない。楽しんでいた、というよりも、とにかく夢中になれるものがほしい、という、切実な思い。なんであんなにムキになっていたのだろう、もっともっと、子どもの寝顔を、ただボーっと見ていればよかった、隣で一緒に寝てやればよかった…先にも書いた、ちくりと痛いような、小さな悔恨。

 何度でも ぴょんぴょん跳ねる膝の上 ここから ここから 始まってゆく
 目覚めれば 我が太ももを越えてゆく おまえと やがて来る夏を待つ

 これからどうなるのだろう、という気持ちの中の、不安と楽しみの割合が、最近になって、ようやく逆転してきたように思う。楽しんで見守る余裕が、子育て10年目にしてようやく持てるようになってきた、ということだろうか。息子と娘、男と女でこんなにも違うものか、と驚いたり、上の子はこうだったのに、下の子はこうだ…とシチュエーションに応じて、二人の姿が二重スライドのように重なって見えたり。こうしよう、と思ってもそうならない。どうなるのかなあ、と思って見ていると、思いがけず面白いことに出会う。「いつの日も自然は無言」だけれども、その場その場を楽しんで、“状況”に流されるように生きていくうちに、“本当に自分のやりたいこと”に流れ着くのではないだろうか。「いま」を楽しむ、ということ、「いま」を味わう、ということをもっともっと大切にしたい。そんなことを感じさせられた一冊である。
俵万智『生まれてバンザイ』童話屋1250円
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by yumiko_aoki_4649 | 2014-07-03 18:10 | 読書感想、書評 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


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