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二宮清隆詩集『消失点』感想

近頃めずらしい、函入りの詩集である。しかも窓が切ってあって、エメラルドグリーンの海と銀色に輝く水平線、控えめに(波間の煌めきのように)記された書名、あわいブルーの空(を思わせる風景)が見えるという、凝った造本。
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 抜き出してみると、鮮やかなグリーンが現れる。
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緑の草原を思わせるカバーを外すと、
d0264981_13220382.jpg一転して雪原のようなストイックな白が広がる。

栞ひもは目の覚めるようなブルー。


ISBNの記されていない私家版の様だが、
丁寧なハードカバーの造本とハイセンスな装幀が素晴らしい。

表紙を開くと、見返しにまで表紙の「風景」がつながっている。

あとがきによれば、詩集の編集は大学時代のクラスメートで親友の
杉村勉氏、装幀デザインは天宅正氏とのこと。

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詩集は、一章「視野狭窄」、二章「追憶」、三章「帰還」、そして最後に添えるように置かれた表題作からなるが、ひらがややカタカナの意識的な使用、読みのリズムや時間差を意識した改行やレイアウトの工夫など、随所に音読を意識した、こまやかな心遣いが伺われる。たとえ黙読であっても、心の中で文字が音声化され、その響きが他者へと届けられる・・・そんな「詩(うた)」への想いが全篇から感じられる。

巻頭に置かれた「地図がない」は、人生の見取り図としての「地図」を未だに手にし得ない・・・そんな自分を、鏡像のように客観視するところから始まる。ラストが鮮烈だ。
〈鏡の向こうのぼくに/引き返すために地図を画いておくなんてと/一直線に反撃すると/一瞬にして鏡は割れ/鏡の中の地図を持ったぼくは/細かく砕け散り/ぼくは一人で立っていた/鏡のない部屋で〉

一直線・・・その一途さが、二宮の芯を貫いている。〈エゴの晒し合い〉〈その場しのぎの小さな嘘〉〈逃げ場のない小さな裏切り〉を許せず、忘れることもできない詩人の〈眠れぬ夜〉に、心身を冷たく濡らし続ける〈そぼ降る感情の霧雨〉(「霧雨」)。あらゆる〈うそ〉を、ひらがなの柔らかな表記に置き換えてみても、うそはうそ、許せない苦悩が薄まるわけではない(「うなされる」)。学生時代に、衝動的に死を望んだ時のエピソードが「開かない扉」に記されているが・・・欺瞞や不正を許すことのできない生来の一途さが、時には生き辛さともなって二宮を繰り返し苦しめたのではあるまいか。
「殺すな」に現れる〈黒いヘルメットの中にしまい込んであった〉記憶とは、学生運動期の苦い思い出なのかもしれない。〈無定形な自由への渇望の夢も覚め/互いに生きることを認め合わないで/刺し違えるようにして/死んだまま生きることを選んでしまった/何もかも愚劣 と奥底で渦のように笑い/拠って立つべきものを失った・・・敗北という二文字を焦げるほどに烙印された〉その後の人生。〈拒める訳もなく歯を食いしばって〉生きるために打ち込んできた仕事、内心〈しゃらくせえこちとら/何でも咀嚼しなくちゃ生きちゃいけないのさ〉とうそぶきながら生きて来た人生(「磨く」)。その殺伐とした心象を癒してくれるものが〈小さな花や虫たちに教えられる慈しみ〉(「霧雨」)であり、主に二章にまとめられた少年期の故郷(北海道)への追憶であり、三章で触れられる自然や他者との交感、饗応であったのだろう。

全篇を通じて、〈雨〉が印象深く心身を濡らしていく。〈春を前にして降る雨は・・・寒く乾いた季節を生き抜くために/潔いほどきれいさっぱり/裸になっていた木々を冷たく濡らし〉鳥たちをも容赦なく凍えさせる冷酷さを持っているが、同時に〈この春生まれてくる/もの達への祝福の雨〉でもある(「春を前に降る雨」)。「長雨の」「流れ雨」「にわか雨」・・・それは身体を濡らす雨であると同時に、〈時という雨に打たれ/日々という風に吹かれ〉(「花の言葉」)生きて来た詩人の心に降り注いだ雨であり、記憶を冷たく湿らせたり、驟雨となって押し流そうとした、過去の悲哀、時には涙の喩としての雨でもあろう。

第二詩集『消失点』を、今、なぜ二宮は編もうとしたのか。人生の消失点、〈まっすぐの線路の遠いとおい先は/点になっていた〉(「消失点」)その帰着点が、いよいよ見えて来る時期に差し掛かったから、だろうか。集中には、自身の老いを予感したかのような詩句も仄見える。しかし、〈こっかいぎじどうにむかって/ひゃっぽんの せんぼんの まんぼんの旗が/こくびゃくをきっするために〉(「八月のバラ」)押し寄せるのを目撃したこと・・・そのことによって、学生運動期の熱い情熱を、再び心中に蘇らされたこともまた、詩集を編む動機になっているのではないか、という気がしてならない。
(2017年5月発行)


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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-07-30 14:58 | 読書感想、書評 | Comments(0)

陶原葵さん『帰、去来』感想

陶原葵さんの新詩集『帰、去来』を読みながら、感じたこと、想ったことなどを記したい。古風で格調の高い表紙、冒頭にエピグラフのように置かれた、禅の公案・・・この詩集の世界に、入っていけるだろうか?かすかに不安を抱きながら読み始めたのだが・・・余白の多い詩行の間から、向う側へと静かに迎え入れられるような、そんな広がりと奥行きを持つ詩集だった。

今、ここにある時間と、かつてあった時間、あるいは今、ここにない時間・・・その間に広がっている、河原のようなところ。中也の「観た」であろう、抑えたきらめきで光がさらさらと流れて行くような、しん、と静まり返っている空間・・・へ、降りていく、あるいは訪ねていく。その中で佇んでいる。そんな気持ちに誘われていく。


「卯木」の小花の白、のイメージ。うらじろの森、全体に白く、抑えたハレーションを起こしているような、何処とも、いつとも知れない森、の中で・・・孵化する寸前の〈青い卵〉を、そっと手にする。ひっそりと、自分のものにする。飛び立つかもしれないものを、ひそかに私のもの、にする、どこかうしろめたいような感覚を思い出す。

「眠、度、処方」、夢の狭間に広がる、不思議な空間の中で、いったい、誰と、何と、話をしているのか・・・声を聞いているのか。茫洋とした中で、くっきりしたものに触れる、ということ。〈それは切っ先が 刹那 に 触れたと思われます〉この一節に身震いした。神経のもっとも尖った、澄んだ切っ先・・・が、〈間〉から生まれて来るものに触れた。そんな気がしたのだった。

「柱」の冒頭、〈耳のおくに澄むものが〉ここは、住む、ではなくて、澄む、を用いている。何か透明に、鎮まっていくような、存在そのもの、の気配、のような。〈通夜の果て〉に出会う人は、誰なのだろう。たどり着くのは、何処なのだろう。その人の記憶、から逃れるように、前に進まなければならない足取りの重さ・・・濃度のある大気にとらわれているような、そんな重みの中で、ゆっくりと前進していく、そんな歩行を感じる。大地そのものとなっている体を、引きずって歩いているような不思議な質感もあり・・・〈翅のない蝶〉が眼をあける、目覚める最後が鮮烈だった。

「あつまってくる夜に」は、吉原幸子さんの「をさなご」を思い出しつつ・・・孩児、という耳慣れない言葉を辞書で調べることになった。幼子であると同時に、幼児の戒名でもあるという。〈金の梨地の川〉、ここはまるで、絵の中に入っていくような感覚。金粉を撒いた日本画の、墨の濃淡が茫漠と広がる世界。死者の居る場所の方が生きた空間で、永遠の春のような、秋のような、花や果実の盛りが続いているような・・・。

「著莪」、シャガ。胡蝶花とも呼ぶことを知った。〈鏡の裏に 階段をおりてくる痛みが映る/展翅板に刺されたまま 発光する螢よ〉痛み、そのものが、存在である、ということ。哀しみ、を通り越して。針で止められた、飛び立てぬまま誰かを待っている、魂、の気配。

詩集表題ともなっている「帰、去来」。しんだわたし、と、生きているわたし、が出あう様な感覚を覚えた。過去の記憶が発芽する、想い出のはざま、のような場所。何度も何度も訪れては、またそこを立ち去らねばならない。既に記憶にない、もしかしたら祖先たちの記憶であるのかもしれない、そんな古いものが、地層から芽を出しているような感覚があった。

〈(つかれていた/意味を問うことに)言葉を、すべて意味から解放できたら。どうしても、言葉が通じない、論理が届かない。そんな時、いくら説明を尽くしても、尽くしきれない、そんな時・・・なおさら、言葉、の意味を、そっと水に流してしまいたい、そんな気持ちになる。〈自転の鼓動に呼ばれてしまって〉地球そのものと一体化しているような、時を超えた存在と同化しているようなスケールに惹かれる。

44頁あたりからの、言葉がポロポロと散らばりながら集まって来るような、その余白から聞こえて来る、声。南洋で兵士として戦った者の声・・・それは、御父上なのか、あるいは・・・。書架の奥で、埃にまみれた手記を繙いているうちに、時の狭間に置き去られたような感覚になる、しんと穴ぐらの底に坐っているような気がしてくる・・・そんな想いに引き寄せられていく。

「淵」も不思議な質感を持つ作品だった。鳥の姿となった死者・・・自らはそのことに気付かないまま、そんな死者たちが、ひとり、またひとり、と訪れる、そんな明るい谷間を想い浮かべる。〈あんがい深い根 なのだと知る/なつかしいものなのだ永遠とは〉戻っていく場所。根の国、という言葉があるが、ねむりの間にながれだしているもの、とは、なんだろう・・・意識が夜ごと体を抜け出し、形をとるのかもしれない。「減築の庭」、これはまるでわらべ歌のようなリズムに乗せられて、何か懐かしい空間に呼び込まれていくような作品だった。〈ひとであることを証明できるものはなにもない〉そう、私たちは、人、であるけれど・・・人って、なんだろう。増築、ではなく、少しずつ減っていく改築、とは・・・。家を建て直す。取り壊す。そのたびに掘り返す庭・・・過去の重層の中から現れて来る、骨、影、姿・・・。記憶の中にだけ残る、かつてあった、家の形。庭の姿。

「20×5」、この題は、人の一生を示しているのだろうか。記憶にあるのは、10代から?20代から?〈それにしても正しさは寂しさを肯い続ける〉正しくあろうとすれば、寂しさに出会わねばならないのか。〈どこにも還ることのできない宇宙葬ほど/ざんこくなものはないのです〉どこにも受け入れられない、彷徨い続ける躯。もし、〈正しさ〉を選択したがゆえに、寂しさの海を漂うのだとしたら。

生きて流れて行く、その時間の中で出会う、くっきりとした硬さ、のようなもの。それが、〈高い氷点〉であるのかもしれず・・・〈冷え の純度〉であるのかもしれず・・・それこそが、〈それは切っ先が 刹那 に 触れた〉瞬間であるのかもしれない。


死者たちが集う空間に、現身のまま招き入れられるような、そんな静けさを感じる詩集だった。私の亡くなった父も、こんな場所にいるのではないか。出会ったことはないけれど、過去の詩人たちとも、ここでなら出会える。言葉が形をまとって、透き通った幼子の躰をとって、河原にしゃがんでいる、ような・・・そんなイメージの中を旅していく、そんな時間を、味わうことができる。部分引用ではなかなか、感じたことを伝えられそうにない。ぜひ、全体を通読してほしい。

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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-06-21 11:06 | 読書感想、書評 | Comments(0)

詩と絵本と童話のお店 ティール・グリーンに行ってきました☺

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詩と絵本と童話のお店、ティール・グリーン。子供たちが小さかった頃、ずいぶんお世話になりました。色々なイベントも行っていて、中庭に面した素敵なティールームで、作家さんのお話をうかがったり、親子で工作や手芸を楽しんだり。
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ライアーという小さな竪琴の演奏会や、絵本原画展等も行われています。
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右側に立っておられるのが、店主の種村さん。ご主人が庭先で花壇の手入れをされていました。
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面出しの飾り棚の一角にもうけられた、子どもとお父さん、お母さんのための憲法の絵本コーナー。
けんぽうカフェ、等も定期的に開催されています。政治色は強くなく・・・一般庶民の目線で、子供たちの未来を考えましょう、という雰囲気でしょうか。
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ゆめある舎の新装復刊、松井啓子の『くだもののにおいのする日』を購入。美しい・・・
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最寄り駅は東急多摩川線の武蔵新田、と、ちょっとマイナーなんですが(笑)谷川俊太郎さんも何度も訪ねてくださっているとのこと。
素敵な時間を過ごせます。よかったら、ぜひ。

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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-05-16 16:03 | 随想 | Comments(0)

「微塵光―原民喜」を鑑賞して

5月7日、両国門天ホールで、宮岡秀行監督による「微塵光(みじんこう)―原民喜」というドキュメンタリー映画を鑑賞した。

 室内なのに、テント内のようなムード、裸電球(風のLEDライト?)、打ちっぱなしの風情の床板、小さめのスクリーン。パイプ椅子に絣模様の座布団を並べた、小劇場風の空間で、上映は2011年に同監督によって制作された「夏の花」という短編から始まった。

 広島カープの応援歌がドーンと観客を包み込む。暗転。やがて、爆心地の模式図がクローズアップされ、遠くから飛行機のエンジン音のようなブルルルル・・・という音が響いてくる。息づまるような緊張感の中で現在の広島の光景に切り替わると、ブルルルル・・・というエンジン音は、川面を行く遊覧船のものであることがわかる。ほっと心が緩んだ、そのほどけていく感じに合わせるように、次第に蝉の声が聞こえて来る。やがて、真夏の照りつける陽射しと共に、観客は驟雨のような蝉の大合唱に包まれる。心の動きに合わせた音響の手加減が素晴らしい。

 原民喜の当時の資料映像などを重ねながら、「夏の花」の朗読が始まった。野村喜和夫のハイ・バリトンは、柔らかく、しかしくっきり、克明に、民喜が見たもの、感じたことをなぞっていく。民喜にゆかりの深い人や、深く共感を寄せる人たちのインタビューを交えながら「夏の花」が終了すると、いよいよ本編の「微塵光―原民喜」の上映が始まった。

 冒頭、そして映画全体に差し挟まれていく舞台公演――広島の高校演劇部による渾身の原民喜伝は、プロの俳優たちとは異なる鋭さで胸に刺さった。伝えねばならない、その切実さが、明るい十代の声のトーンを鋭く尖らせるのか。詩人野木京子が、民喜が妻の貞恵とささやかな幸せを嚙みしめた旧居跡を訪ねるシーン。生前の民喜を知る人による、今、すぐそこに民喜がいる(いた)ような、声による再現。現在の空間の中に、そこにいないのに仄灯りが集う場所があって、映画が進んでいくにつれて、そこに民喜の姿が浮かび上がって来るような気がする。

 上映後、広島に生まれた詩人中本道代と、広島に住んだことがある野木京子によって対談と朗読が行われた。「夏の花」で示される克明な観察眼、抗議の自殺といった強靭な側面に光が当たりがちだが、二人の女性詩人は、寡黙な民喜が態度や文字の中に残した優しさ、弱いもの、小さいものへの眼差しを丁寧にたどっていく。「両国門天」の空間に、ぼんやりと現れてきたもの・・・その気配に溶け込むように、二人の詩人は言葉を添えていく。野木が広島に住んでいた時に感じた事・・・知識として知った過去の歴史が、見えない圧となって、体感となって大地からせりあがり、青い空からもなにか圧するような力が押し寄せ、その狭間であえぐような感覚を味わったこと・・・民喜の甥の時彦が、民喜の遺品である被災時の手帳を黙って取り出し、見せてくれた時のこと・・・民喜が座っている青年の後ろに静かに立って、黙って肩に手を置いた、そんな気持ちの伝え方をした、ということ・・・

 終演後のアフターパーティーで、先日の『詩と思想』座談会でお世話になった陶原葵さんと映画の感想について語り合ったり、吉田文憲さんから「微塵」が喚起するイメージ、両国という場所の持つ歴史性(関東大震災の折のもろもろ、折口信夫のこと、など)について伺ったり、細田傳造さんと「現代詩」と「現代の詩」について話し合ったりすることができた。

 映像と音楽、そして語りの醸し出す一連の流れの中で、スクリーンの奥と観客席とがつながり、その空間に民喜の居た気配が立ち上がって来るような、不思議な実感があった。微塵光となって、遺された言葉が降り注いでいる。空間を仄かに発光させている。そんな言葉を浴びる数時間だったように思う。


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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-05-09 21:41 | 随想 | Comments(0)

暁方ミセイさんのトーク&朗読を聞いて

 毎月第3木曜日のお昼休みに、獨協大学で行われる、ポエトリーリーディング。
 4月20日は暁方ミセイさんでした。ふわっとやわらかい、しかし芯のある語り口。右側は獨協大学の原先生。
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いずれユーチューブにアップされるとのことなので、詳細は省略しますが、お話を伺っていて面白いなあ、と思ったのは、散歩の時、通学途上など、「歩きながら」ふっと詩が浮かぶ・・・そんな暁さんの「詩」との出会い方でした。
 人の声がざわざわとしているような場所の方が、詩が浮かびやすいとのこと。
 人声が木々の葉のそよぎや風の息吹などに聞こえて来るような瞬間、あるいは逆に、草や葉のそよぎ、雲の流れ、ビルの間から吹いてくる風、そんな「わたしをとりまく世界」から吹き寄せて来るもの、やってくるものに「ことば」を感じる瞬間、暁方さんの中に「詩」の扉が開くのかもしれません。

 自分の肌の内側を流れている血が、自分を取り巻いている世界と混ざり合っていくような感じ・・・正確な表現ではないですが、暁方さんのお話を聞いていて、「詩」がやって来た時の「体感」は、そのような感じなのだ、と妙に納得しました。外部の自然と接している肌、体の境界線が、ふっと消えてしまうような感じ、とか・・・外を流れるものと内を流れるものとが一体化する、交感しあうような感じ、とか・・・肌の内側で、ざわざわと何かが疼くような感じ、とか・・・人によって、「詩」をとらえた瞬間の感覚は様々だと思いますが、暁方さんの体から目に見えない触覚が無数に伸びていて、それがゆらいだり震えたりする瞬間に、「詩」が来るのだ、そんな印象を受けました。

 詩を書き始めたきっかけを問われ、文筆で生きて行きたい、と思っていたけれど、そのためには小説やエッセイしか発表の方法がないと思っていた。
詩の投稿欄を教えられ、詩による発表の方法があるんだ、と知って投稿を始めた、それがきっかけだった、とのこと。そんな「きっかけ」で、いきなりあんなスゴイ詩を書けるの?と驚きました。
 もちろん、詩歌含め、文芸全般にもともと深く興味を持っておられたから、だとは思いますが・・・。(投稿欄、かなりのモチベーションになるようです。)

 たくさんの詩を朗読してくださいましたが、中央アジアを旅した時、目の前で(観光客向けに)生きた子羊を捌いて調理する、という出来事に遭遇した時に感じたこと、頭に浮かんだこと、心や体に訪れてきたもののこと・・・その時に生まれた詩を読んでいただいた時、体が熱くなるような体感がありました。
 死を悟っている羊が、最初は怯えているけれども、やがて・・・まるですべてを許すかのような目をして、じいっと周りを取り巻いている観光客を見る、じいっと、ゆっくり見て行く、それを「わたし」も見ている、視られている。そんな、いのちの瀬戸際の静けさに接しているような緊張感と虚脱感。その両方を、その場で(少しだけ、ですが)分かち合うことができた、そんな感覚が残りました。

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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-05-04 15:45 | 随想 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by yumiko
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