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スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ講演会感想

 『戦争は女の顔をしていない』『チェルノブイリの祈り』などの著者、スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチの講演を聴講した。易しい言葉ながら、静かに、重く、くっきりと胸に残る。身近な事柄や自身が見聞きした事から出発しているのに、時代や空間を俯瞰するような広大な視野へと広がって行く。走り書きのメモの域を出ないが、備忘録として記しておきたい。

 自己を消し、様々な声が交響する「場」を作り上げるようなあなたの文学は、どのようにして生まれて来たのか、という聞き手(小野正嗣氏)の問いへの返答の中で印象に残ったのは、祖母の話、あるいは語り方、だった。1948年生まれのスヴェトラーナが育ったベラルーシの農村地帯は、男たちの4人に1人が前線やパルチザンで命を落とし、女子供(と老人)ばかりの世界だったという。スヴェトラーナの祖母は、戦争中の悲惨な出来事を、比喩をもって語った・・・荒地を歩きながら、戦争が終わった時、ここにはたくさんの兵士たち(ドイツ兵やソ連兵の死体)が横たわっていた、だから、大地は今でも産むことを嫌がっているのだ、という風に、メタファーで語ったという。
 長い冬を、昔話や伝承を語り継ぐことを楽しみとして過ごしてきた文化が、背景にあるのかもしれない。スヴェトラーナの両親が教師であり、本に囲まれた環境にあった、ということも大いに影響しているとはいえ、他者の話を、想像力を豊かに働かせて聞き、自らの体験に同化させていく・・・そして、自らを器として他者の声を響かせる。そんなスヴェトラーナの文学的才の一端は、祖母や、その土地に古くから根付く「語りの文化」に醸造されたもののように思う。
 女たちに囲まれた中で、女たちから聴く「戦争」は、男たちがいかに英雄的に死んだか、ということではなく、いかに男たちとの時を過ごしたか、どのように戦地に送り出したか、そして、いかに男たちの帰りを待ちわびているか、という話ばかりだった、「女たちの話の内容が死についてではなく愛についてだった」「両手がなくても、両足がなくてもいいから帰ってきてほしい。私がこの腕に抱いて運ぶから」(ノーベル賞受賞記念講演録参照)という話も深く印象に残った。
 今日行われたアレクシェーヴィチの講演の中で、特に鮮烈だった部分を抜き出してみる。「男たちは〝戦争の文化″の人質になっている」「女たちはその文化(歴史)からは自由だ、肉体や宇宙、自然の中から語る」「男たちは人間の苦しみばかり語るが、女たちは鳥や獣、大地、小麦の苦しみをも語る」「自分は村で育った。村は、自然、全ての生き物と結びついている」「文学とは、いたみを語ること」などだろうか。メモによるもので、正確な再現ではないことを断った上で・・・人間らしく生きる、ということ、自然の一部としての人間であることを意識すること、それが自然に成されているのが、大地と共に生きて来た農婦たちであること、そんな確信に満ちた人間讃歌が背景にあることが、力強く伝わって来た。
 なぜ、「戦争」について書こうとしたのか・・・その応答の中で、自分が育った全体主義(ソ連時代)の世界は、「冷たいヒロイズム」の時代だった、という言葉が胸に刺さった。冷たい英雄主義・・・それは「人のいのちなど何の価値もない時代」「命をなにか大きなもの(理念、理想など)に捧げること、死に価値がある時代」だった、という言葉に、戦前のファシズム期の日本をどうしても重ねてしまう。あなたの本には、英雄が出てこない、なぜ、悲惨な死ばかり書くのか、と問われた、というアレクシェーヴィチの言葉、「小さな人」ばかりを書き続けた姿勢にも呼応している。
 「戦争」は、どれほど高邁な理念や理想を掲げたとしても、結局は「人殺し」であり、惨めで陰惨で吐き気をもよおすようなものであること・・・しかし同時に、死のドラマの中には人を引き込み、魅惑し、激しく情動を掻き立てるものがある、善なるものよりも、悪の方が芸術性が強い、文学としての魅力に満ちている、ということ・・・・武器は「美しい」、なぜそれを美しいと感じるのか。「死と美が隣り合っている、ということがしばしばある。(そのことに気付いたことが)私のトラウマでもある」という言葉・・・そうした冷静な自己分析と省察、文学者としての非情さのようなものがあって初めて、悲劇的な物語を聞き書きしながらも、その世界に飲み込まれたり埋もれたり流されたりせず、「記録」として残す、という行為を成し得たのだろう、と思う。
 聞き書きの際に重視していることは、自分が興味を持ったこと、なおかつ、既にジャーナリズムや文学書などに書かれたことではない、新しいことである、という。その際、時代の迷信や迷妄から自身を引き剥がすことが大切である、自分が語ること(創作の過程も含め)には実態がないとさえ思う、ジャーナリストはまず、謙虚であるべきだ、という言葉に、文学者としての矜持や聴き手としての真摯さが垣間見えた。
ロシア文化の中での「文学」の位置は、ドイツでの「音楽」、イタリアにおける「美術」のように中心的なものである、そして、それゆえに(言葉中心主義の文化であるゆえに)プロパガンダとして言葉が全体主義に利用された、という省察は、戦時中の日本にも通じるものがあると思う。
 ソヴィエト時代は「本」が世界の窓のような、唯一の情報源であった、それがペレストロイカ以降、「物」「商品」が「本」に取って代わった、「世界に裂け目ができ、物質的な世界から吹いてくる風に吹きさらされて生きるようになっていった」という言葉は、精神的なものが荒廃していく世相を冷静に見つめつつも、悔しさや憤りを暗に感じさせる。そして、世界がグローバル化し、「赤いユートピア」という理想も「涙の海」となって潰え、民主主義もいかに脆く、はかないものであるか、ということを露呈しつつある現在、複雑で困難な時代であるからこそ「知識人は一般の人達を勇気づけ、助けになるべき存在」「人々の諦めや、かつては充足であった「消費」にも満たされることのなくなった人々に対して、言葉の力で希望をもたらす存在」だという言葉が、まっすぐに打ち込まれた杭のように揺らぎないものとして輝いて見えた。
 アレクシェーヴィチの言葉を「崇拝」せよ、ということではない。だが、翻訳者が質疑応答の際に語ったこと・・・翻訳中に、右手が血でべたべたになっているような気がして、手が止まってしまったことがあった、という生々しさ、聴くことも、その中から「書くべきこと」「残すべきこと」を選び出し、記していく作業の困難さ、その困難を乗り越える精神力は、後の世に「記録」を遺さねばならない、という強い理念に支えられているものであろうし、『セカンドハンドの時代』を翻訳した沼野氏が語ったこと・・・死や絶望を描くことによって、逆説的に生や愛を、その讃歌になっている、という言葉が、アレクシェーヴィチの向かおうとしているところを示しているだろうと思う。
 フクシマに関して問われた時、数十年も続くカタストロフィーをどう語るのか、それは私にとっても大きな問題だ、と前置きした上で、今は理解できなくとも、それを記録していくことで後世の人が理解できるようになるかもしれない、と未来を見据えて語る姿に打たれた。今の自分の「仕事」を謙虚に、しかし誇りを持って受け止めている人の確信なのだと思う。充実した講演会だった。
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# by yumiko_aoki_4649 | 2016-11-25 18:12 | 随想 | Comments(0)

『ベルリン詩篇』冨岡悦子著 書評 『千年樹』68号

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# by yumiko_aoki_4649 | 2016-11-23 20:55 | 読書感想、書評 | Comments(0)

伊藤桂一さん詩集『竹の思想』感想

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# by yumiko_aoki_4649 | 2016-11-01 13:53 | 読書感想、書評 | Comments(0)

伊東静雄ノート1

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# by yumiko_aoki_4649 | 2016-10-14 16:05 | 伊東静雄 | Comments(2)

帰郷(『POCULA19号』)

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・・・編集時に、イメージに合う写真を添えて下さったようです・・・。
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# by yumiko_aoki_4649 | 2016-09-06 16:04 | 詩、詩論 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


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