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北川朱実 個人誌 『CROSS ROAD』感想

 北川朱実個人誌『CROSS ROAD』11。詩篇4作と評伝エッセイ2篇を収める。個人誌とはいえ、リトルマガジンと呼びたくなるような充実した内容である。

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詩篇「遠くからきた」は、パプアニューギニアの高地から来た青年と部族長に年を聴いた時の応答から始まる。暦のように“年を数える”習慣のない二人の詩情に満ちた答えを記しながら、北川は〈生まれて まだ生きている/それだけだから〉と記す。月齢を数えることは知っていても、年齢を数える観念がない(そもそも必要ない)なぜなら、彼らにとっては、今こそが大切だから、今を生き続けているから。だから彼らは、歳をとった、という感慨を抱くこともないのだ・・・という話を聞いて、感動したことがあった。それがパプアニューギニア高地の話であったかどうか、定かではないのだが、年齢を重ねていく、年齢を意識する、という習慣が、果たして内的な体験や経験の蓄積に、どれほどの意味を持つものなのだろう。

 クロノスとカイロス。誰にも平等に与えられる、暦や時計で計り取ることができる身体外を流れる時間クロノスと、内的に感知される、個々人によって知覚の異なる時間カイロスの不思議について、いつも考える。楽しい時は過ぎるのが早く、退屈な時は長く感じるのに、記憶として色濃く残るのは前者。回想する際には、情報量が多い「楽しかった時間」の方が、情報量の空疎な「退屈だった時間」よりも長く再生される。太く短く、濃く生きる、それは「楽しい時間」「真剣に物事と向き合う時間」「退屈を感じることなく、次々に出来事をこなしていく時間」だろう。それでは、瞑想など、心を無にして時と向き合う時間は、どのように“体験”として蓄積されていくのだろう。消耗してへこんだり窪んだりした心を、リカバリーさせる、そんな再生の時間として働くのだろうか。

 北川は、パプアニューギニア高地の青年たちの時間に続けて、〈私は/誰も知らない/年月のない略歴を身体の奥にもっている〉と続ける。そこからさらに、〈遠い海底で地震が発生して/地軸がずれ//一日の長さが/百万分の一秒短くなった/と繰り返すニュース〉について記し、そのニュースを聞いた部族長が〈日に焼けた地球儀のような顔を/ぱかんと割った//遠くからきた〉と、ユーモラスかつ驚くような比喩を置いて、作品を締めくくる。私たちの体感を、はるかに超えてしまった数値のみの時間を示されたところで、私たちが生きていく上で、どれほどの意味があるのだろう。巨大な地震が起きて、どこまでも続く平面のように感知されていた世界が、ぱかっと真っ二つに割れてしまった、そんなイメージの方が、よほど“あの日”以前と以降に心身が感じている断絶の体感に近いのではないだろうか。

 〈地球儀のような顔を/ぱかんと割った〉このフレーズは、読む人によって様々なイメージを喚起されるに相違ない。私は仮面が割れるイメージや、脳内の世界が真っ二つに途切れるイメージを思い描いた。〈遠くからきた〉は、どうだろう。実際に、異なる習慣や感性、時間感覚を持つ人たちが、その観念を〈遠くから〉もたらした、という新鮮な驚きとの出会いとして読むこともできる。私たち人類が、遠くからやってきた・・・そして、その個人を越えた記憶が、私たちの体内に〈年月のない略歴〉として蓄えられている、と読むこともできるかもしれない。私たち内部の、心の感知する時間の測り方。思い出の総量と、心の柔軟度によって憶測する他はないのかもしれない。

 

 もう一篇、詩作品を紹介したい。「夜明けの水」である。〈パイナップルの実に残った/鋭い皮に/唇が切れた〉ところから始まる詩は、わずかな出血が誘う連想、〈どこかで/細い血が流れるけはいがする〉へと続き、やがて、病院という建物内部を血管のように、葉脈のように巡る水のイメージへと繋がっていく。なぜ、このような連鎖が起きるのだろう、と思ったとたんに眼に飛び込んでくる〈――点滴を続けます/医者は/体に鍵をかけて出ていくから〉という一節。北川自身の体験なのか、誰か体調不良の人のことを思って生まれた作品なのかは不明だが、点滴のチューブを流れる水が、どこから来るのか・・・人々の体内を巡る血液や水、入院している他の人達の腕に刺された点滴の針、病院の壁の内側を巡る配水管を流れる水へと自在に羽ばたく想念の力に引かれて、読者もまた、水となって方々を辺巡ることになる。北川のイマジネーションは、さらに病院の外へ、都市へと向かっていく。〈高い窓から/橋のない川を眺めた〉橋のない・・・それは実景かもしれない、対岸へ渡ることができない、という象徴的な意味合いも重ねられているかもしれない。〈背中の滑走路を垂直に飛び立って//無い青を抜けた〉背を真っ直ぐに昇って意識が中空に飛び立っていく体感をイメージする一節。(カッコよすぎる、ような気もしなくはないが・・・)青が自由や若さ、未熟さに結びつくものであるなら。無い青とは、既に逃れようのない事態を自覚していることの暗示であろうか。〈橋のない〉〈無い青〉と重ねられる、否定の言葉。そして、次のページをめくると現れる、〈カラスに追われた鳶が/給水塔のてっぺんで鳴きつづけている〉という、切迫した、逃れようのないイメージ。さらに作品は、〈深い入れ物の中で/ゆれる水〉と続く。点滴の容器を満たす水、身体という容器を満たす(体液や血液、といった)水、病院内を辺巡る水、都市を流れる水。それらに水を供給する、給水塔。作品は、次のように閉じられる。

 

 点滴を引きずって私は

 窓のむこうに広がる

 夜明けを待っている

 

 ふいに鳥の群れがあらわれ

 空を一枚くくって

 翻った

 

 曙光のようなあいさつ

 

 点滴が

 ゆるやかに川面に流れ込ん


題名の「夜明けの水」、に戻ったともいえるエンディング。心身の不調と夜の深まりと共に、体内を巡る水、院内を巡る水、都市を巡る水へと想念が及び、その供給(が止まる、循環が止まる・・・命が止まる)不吉な予感にがんじがらめになった精神が、暗雲の垂れこめた空を一枚、めくり取るように現れた〈鳥の群れ〉の啓示によって、夜明けの希望に辿り着く。点滴の液体が院外の川面に流れ込むというイメージの飛躍は、跳躍の幅が大きすぎるような気もするのだが・・・閉塞していた意識が、一気に解放される、その広がりや大きさを感覚的に捉え、伝えるためには、必要な幅であるのかもしれない。

 

 「夜のアンケート」は、生きている、と思うのはどんなときか、という素朴ながら答え難い問いに、ためらうように、戯れるように触れていく作品。「屋久島」は、屋久島への旅行体験と、老人ホームに居る、少し衰えの見え始めた母への思いとを重ねていく作品。〈青い稲妻ではじまる朝は いつも/滅んだものが立っている気がした〉という印象的な冒頭。母との歳月を凝縮するような一瞬と、今、まさに倒されようとしている〈枯れかけた縄文杉の根本に/斧が一本入ったままだ〉という情景・・・本来、次元が異なる出来事であるはずの二つの別個のイメージ、したたかに今もなおそびえたつ杉の命と、気丈であった母が記憶の衰えを見せながらも鋭く声を上げる在り様とが、〈血のぬくみを残し/大きな空の下で夢を見て〉という終行において重なり合い、溶け合うような気がした。

 

 伝説のジャズプレーヤーについて語るエッセイは、今回はビル・エヴァンス。ジャズのようにウィットに富んだきびきびした比喩に彩られた、簡潔にして味わい深い名文。「路地漂流」(十一)の安岡章太郎に関するエッセイは、詩篇の「屋久島」が反復しつつ、遠くに響いているようにも感じた。「路地漂流」から、一部を引用して紹介を終えたい。

 

〈昭和三十二年、母恒が死亡・・・二年後、安岡は、病んだ母、逃げようのない家族の束縛、戦争の傷、死を、人の動きと会話で淡々と書いた小説『海辺の光景』を発表。木の幹が中空で分かれる瞬間を見たような家族の物語は、翌年、芸術選奨及び野間文芸賞を受賞した。すべてが目の前にあるように生々しく具体的に書く。それが安岡の凄みだった・・・全てが終り病院前の海岸を歩くうち、干潮の海にあらわれた墓標のような光景に衝撃を受けて安岡は立ち尽くした。確かに一つの死を見たのだった。〉

 

 毎号が楽しみな詩誌である。


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# by yumiko_aoki_4649 | 2018-06-22 15:33 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

柴田望 詩集『黒本』書評

 柴田望さんの詩集、『黒本』。インパクトのある名前と黒が印象的な表紙。描線と腐食によって描き出す銅版画のような装画、パート切り替えもかねて挿入された挿絵共に、柴田さんご自身が描いたものだという。

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 硬派の詩集である。たとえば、地球儀ならぬ「時計儀」という詩篇は、

 

 何をやってもダメに麻痺した世代の暁

 されたことに嫌な想いで苦しむのは

 じぶんも同様に嫌な想いをさせた証拠

 道を授ける進化すら余計な口出しを背に

 このままじゃいけない規律を腹に

 

と始まる。

 

 微糖化した虚しさを焼き払い

 避難警報の回数を動かぬ証拠に

 施錠された空白は廃駅に舞う

 

よく生きる、正しく生きる、その意味を不器用なまでにまっすぐに問い掛けながら、“常識”に反抗し、先達の老婆心的な“助言”にも抗う青さも抱え、自らを鞭打つような厳しさも垣間見せる。とはいえ、ユーモアも忘れない。「天秤」という詩篇では、

 

 だれにも知られたくないが

 わたしは壁にしか立てない

 床を歩いたことはない

 まっすぐに立って歩く

 あんたたちを垂直に欺す

 

 いやじつは、ぼくもわたしも

 他人と同じ角度に

 立って歩くふりをしてきた

 正体はひとそれぞれ

 微妙にズレますんで

 重ねるとキレイな放射線状の

 円になる

 (中略)

 こうなってしまうと

 おれの意見が正しいとか

 だれが気に入らないじゃなく

 妥当なラインの飽和でもなく

 ひとそれぞれのズレの総和へ

 転がって壁に弾く

 想い出の乱反射目がけて

 幼年の人影は奔る

 

大多数、へ無抵抗に組み込まれることへの反抗心。マジョリティーと言っても、結局は微妙な差異の集合体でしかない集団を、どこか皮肉を込めて、冷静に見る視点……それを図形という“目に見える”形へ寓意的に変換して提示する面白さ。最終二行の乱反射は、個人の思い出への遡行であると同時に、それぞれの人々の微妙なズレが、実は幼年期以来のその人の人生経験や思想体験、環境の影響の蓄積であることも示唆している。

 

 柴田(とオーバーラップする語り手)の幼年期を暗示する、寓話的な作品「空間」を見てみよう。

 

 いまの私よりも若い

 父は教員、母は養護教諭だった

 夏休みには必ず家族で旅行した

 あるキャンプ場でおどろく

 無数の黒い点による巨大な立方体が

 松の樹から飛びだし、羽音は風を破って

 草叢の空き地へ、さらに次の樹へ

 移動する距離と速さを間近で見た

 その日から囀りはいつも聴こえて

 庭の巣箱に来ているのだと

 夏休みが終わっても信じた

 

幼い少年が“見た”ものは、なんだったのか。大量のムクドリの群れ、そういった“説明”も成り立つだろう。だが、読み進めるうちに、立方体、という型枠にはめられて生きている人々の精神を、その群れ飛ぶ姿を、少年は“見た”のではなかったか。そんな気持ちが募って来る。

 

 職員が雛を虫かごに入れて

 「誰か欲しい子は?」手を挙げてしまった

 ゆで卵の黄身をつぶして与えるように言われ

 家に持ち帰った

 母に虫かごを見せて

 ゆで卵を作ってほしいと頼んだ

 忘れられないほど叱られた

 何故、雛をさらったのか

 親鳥は必死になって探しているに違いない

 どうしてそんな残酷な子に育ったのか

 いますぐ返してきなさい

 

“養護教諭の母”が、何よりも大切にしていたこと、それは他者の痛みを思いやること……身をもって知ること、だったのであろう。少年は実際に鳥の雛を飼ってみたい、自分のものにしてみたい、という誘惑に駆られたことがあったのかもしれない。その記憶に刻印された、激した“母”の教え。

 

 冬の朝、発語できない嘴の夢を見て

 あまりの悲しさに目覚めると

 一羽の囀りが聴こえた

 妹が最初に聴いた

 煙突のほうから寝室の壁に響く

 巣が昨夜の強風で煙突の底に落ちたのだ

 母はストーブを点けなかった

 厚着した妹の吐く息は白い

 父は床いちめん新聞を敷いて

 家じゅうの窓をぜんぶ開けて

 ストーブの円筒を頭上の壁から抜いた

 家じゅうの窓から陽の光が注がれ

 真っ黒い小さな塊が

 壁の穴から勢いよく飛びだし

 青空へ消えていった

 

冬場に鳥が巣を作るものかどうか。寓話と見る方が自然であるようにも思える。発語できない嘴とは、自身がくちばしをもった小さな鳥になっている夢を見た、ということの暗示だろう。小さな命が煙突に落ちた、その命を守るために北海道の厳しい冬の最中にも火を点けず、家族の連係プレーでその命を空へ(自由な世界へ)と逃すまでの顛末は、実話であるとしても、寓話であるとしても、両親の生き方とその姿勢を身をもって子どもたちに教えている。煙突の底に落ちたのは、言葉を(発語を)失いかけ、飛ぶこと(自由な精神の飛翔)を失おうとしている、少年の精神ではなかったか。両親は、それをいち早く見抜き、真っ黒に煤を被りながら、再びその鳥が、青空へと自力で飛び立っていくのを、手助けしたと読むのは、読み過ぎだろうか。この詩は、次のように閉じられる。

 

 当時の父母の齢を越えてしまった私は

 父母がしてくれたことを

 子どもたちに何一つできず

 どこで遊んでいるかも知らない

 でも、いつか話そう

 おとうさんが子どものころ

 いまのおとうさんよりも若い

 おじいちゃんとおばあちゃんが救った鳥の飛距離を

 

リアリティーのある寓話。「変形譚」も奇妙な後味を残す作品である。

 

 新しいゴミステーションの鉄カゴが

 狭い間隔で並んでいる

 

 人々は新しい鉄カゴの蓋を開けて

 次々と収まる

 

 鉄カゴには番号が刻まれている

 (内側から見ることはできない)

 

 家を出て

 鉄カゴに収まっていること以外

 普段と変わらぬ日常を生きる

 

 恐ろしいのは変化ではなく

 変化を残したまま日常が続くことだ

 

 日常から逃れたくて

 人々は喜んで収まる

 

自ら喜んで、いずれゴミとして収集され、廃棄されるゴミステーションの鉄カゴに収まっていく人々。マイナンバーを付され、そのことを忘れたまま、都会という消費生活の場に自らを嵌め込んでいく人々が暗喩されているように思われてならない。

 

 翌朝、鉄カゴに吸い込まれた人たちは消える

 戸籍上は生きたまま・・・

 どこにも見当たらない・・・

 

 マンホールの蓋を開けると

 頭だけがぎっしり詰まっており

 何も判断しない液状化された記憶が

 考えや意図の隙間に手放され

 文脈の地層を重ねる

 

 鉄カゴの脚は踊る

 

自ら判断することを放棄し、マジョリティーの意見に身を任せ、日々の楽しさ、消費の面白さにかまけているうちに、廃棄され下水に流された人々の頭(考えることをやめた人々の記憶)だけがぎっしりと詰まっている、そんな幻影。

 

 長時間労働やパワーハラスメントによる若手社員の自殺や、学校のいじめによる自殺が絶えない日本と、対照的なイタリアやフィンランドを、直球すぎるほどのストレートな、しかし小気味よいテンポの表現で比較した「デンドロカカリヤ」……平成29年、旭川市で行われた「サウンド・音楽と映像による朗読会~安部公房『デンドロカカリヤ』朗読会」をベースにした作品である。安部公房の、主人公が見慣れぬ植物に変容する物語にインスパイアされたこの作品は、安部公房の骨太かつ奇想に富んだ社会風刺、鋭い寓喩と親和性のある作者ならではの警句に満ちた作品となっている。

 

 そのほか、〈目をつぶることは/いくらでもできる……何事もなかったかのように見える日々は/新鮮な裂け目だ……目を閉じさえすれば/誰かの笑みを強烈に想い出す夜は/焦げた鏡だ!〉と、他者の痛み(身近なものから、遠い国におけるものまで)に目をつぶってやりすごす日常を鋭く突く「殺戮」、北海道らしい雪のイメージ、冬のイメージと重ねながら、あるはずのもの、見えるはずのもの…の象徴としての〈雪を《見るな》と定め〉られてしまうこと、それを常識として刷り込まれていくことへの警鐘を寓意的に描いた「文學」(この作品は、題名そのものが、文学作品を創造することの喩となっている)などが印象に残った。

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# by yumiko_aoki_4649 | 2018-06-11 01:28 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

B=REVIEW 2018年2月投稿作品 選評-2

B=REVIEW 20182月投稿作品 選評-2


雑感

「キュレーション」が、合評形式から個々の選評形式に変更になって、数か月。作品を読み、その「向こう」にいる人、「向こう」にあるもの、その気配に耳を澄ます。そのことには何も変わりはないが、それぞれのキュレーターが、どのような観点から、どのような基準で、作品を選び、評を書くのか、そのこと自体が、楽しみになってきた。

自身の情動から出発する作品、沈思黙考した思想や思考を織り込んでくる作品、自身からは離れ、ロジックや論理で緻密に構築していく作品、社会性を持ったテーマを朴訥に誠実に綴る作品・・・こうした多彩、多様な作品を前にして、優良、推薦、という区分が、果たして妥当であるのか、どうか。

先日のスカイプ会議の後、技量に優れている、情緒の伝達に優れている、想像力で異界を作り出す力に優れている・・・といったトピックを立て、「わざあり!」「じーんとくる!」「ワクワクする!」など、そんな小見出しをつけて選ぶ、というのも面白いかもしれない、などと考えたりもしている。(小見出しの付け方が、なんとも凡庸でセンスがない・・・結局、優良、推薦、という一般的な表現に落ち着くような気もするが。)

「詩」とは、なんだろう。ネット掲示板の果たすべき役割とは、なんだろう・・・などと考えている内に、詩論的なものが湧き出して来た。以下にそれを記しておきたい。


◆これは、「詩」なのか?

二月の投稿作品のうち、もっとも印象に残った作品は、実のところ、kaz氏の「カズオ・イシグロ」http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1367だった。

掲示板を埋め尽くす数字のインパクト。名前を剥奪され、数字の羅列に変換された人々の列、墓碑銘、無名者の為の慰霊碑・・・様々なイメージが、沸いては消えていく。街中の巨大な壁面に、LEDライトで数字が点滅する様を夢想したりもした。

初台のオペラシティの階段に設置された数字を用いたアート作品をご存じだろうか。あの場所に差しかかる度に、日常がずらされる違和感に遭遇する。普段は背景に没している階段が、展示場として奇妙に浮上してくる逆転現象。見えているのに、見えなくなっているもの、気配を消しているものが、存在感を持って迫って来るときの・・・ある、ということの厚みを滲ませて押し寄せて来るときの、おののきのようなもの。

「カズオ・イシグロ」という固有名のイメージと、数字に変換された「なにか」の迫力が、奇妙な均衡と緊張感とをもって対峙する本作品と遭遇した時、まさにこの、「日常がずらされる違和感」を感じたのだった。背景となる掲示板の余白が、奇妙な空間として浮かび上がって来る。整然とした形態でありながら、ざわめきが心中で収まらない。コンセプトが背後に隠している(らしい)「意味」の厚みと、その「意味」が読み解けない困惑に宙づりにされ、読み解かせない拒絶に対して、あるいは全てを読者に委ねるという作者の意図的な「放任」に対して、苛立ちにも似た感情を覚える。濃縮された沈黙が充満する混沌。数字に敏感な人ならすぐに気づいたかもしれない、素数の列記。数字に鈍感な私は、注記を読んで、また混乱に誘われる。

伝えたいが言い得ないこと、言葉にし得ないことを、必死に伝えようとするがゆえの試行と読むか。新奇な方策、耳目を引くことをもくろむスタンドプレーか。「言語芸術」の限界をさらに拡大し、革新するための、果敢な挑戦と肯定的に見るか。「言いたいこと」がない、その空虚をはぐらかすための素振りと否定的に見るか・・・。

そもそも、これは、詩、なのか。「詩」は言葉による芸術である、と定義する。「言葉」で示された表題を、同等のインパクトを持つ「図像」で代替していると見るなら、やはりこれは、詩、と呼ぶべきものなのではないか?そして、「数字」もまた、自然界からの(極度に抽象化された)メッセージであり、これも「言葉」と呼びうるもの、ではないのか。

詩史的な新奇さ、という点に関しては、おぼろに、恐らくは初の試みであろう、とは思うものの、人間の創意工夫であるから、いつかどこかで既に行われている可能性は否定できない。それゆえ、初、であるかどうか、その証明には拘らない。珍しい試みであることは相違ない、それだけは言える。


◆「選考基準」の公平性

インパクトを持って迫って来るものを推す、新奇な試みへの挑戦を評価する、解釈の多義性や詩形や技法の多様性に価値を見いだす。こうした「選考基準」に立つならば、kaz氏の「カズオ・イシグロ」は、「詩」から逸脱しようとし続ける「詩の動態」を示すひとつの実例と言えるかもしれない。

だが、「詩とは、こんな感じのもの」という、ゆるやかな共通理解を前提として人々がネット上に集い、「言葉」による芸術を各人が提示し、読み合い、感想や批評を述べあい、切磋琢磨や自己探求につなげる場において・・・さらにはその意欲を背後から「応援」「支援」するために、より広く周知したい作品を「選ぶ」、という基準に立った場合、kaz氏の「カズオ・イシグロ」は(多様な感情や、言葉にならない詩情を喚起し、多彩な思考に「私」を導くという豊かさを持った作品ではあるが)一度「行われて」しまえば、二度目はアイディアの模倣にしかならない、反復不能の試行である。

私的な区分では、「カズオ・イシグロ」はコンセプチュアルアート作品であって、私の考える「詩」ではない。あるいは、こう言い換えてもいいだろう。

「詩」として、汎用性を持った日本語を用いて創作された他の諸作品と、同等の基準で評価をし得ない。(あくまでも個人的な考えだが、同じ土俵で比較するのに適当ではない。)

以上の理由から、クリエイティブライティング作品を「展示する」という掲示板全体のミッションには合致している作品だと思いつつ、「詩」作品としての「選考」には含めなかった。(何度も繰り返すが、これは私個人の「基準」であって、掲示板運営者の意向でもなく、「キュレーター」の総意でもない。異論、反論がある場合は、私個人へご批判を乞う。)


◆「現代詩」は閉塞しているのか

とりあえず、「現代詩」を、主に戦後創作され、現在も創作が継続されている「口語自由詩」と広く定義しておく。いうまでもないが、便宜上の定義である。

上記定義による「現代詩」の歴史はおよそ70年、「口語自由詩」まで広げたとしても約100年。和歌や俳句、漢詩と比べて、圧倒的に若い文芸である。そして、「現代詩」の歴史は、新奇な試み、革新的な試みの先駆者の記念碑というべき一面を持っている。先駆者が開拓した領野を、続く少数者たちがより洗練させ、優れた作品を生み出し、やがて多数者のコロニーとなると、そこから新たな「未開の地」を求める開拓者が現れる。「先駆者」や「大成者」の名は詩史に刻まれるが、先駆者の詩作に感化され、より個々の資質に特化し、充実させていったその他大勢の名は、ほとんど顧みられることがない。

たとえば、未開の荒地が開拓され、町が生まれ、そこで生まれ育つ人が現れる。父祖が開拓した農地を維持し、より良い作物を生み出そうと日々、細やかな努力を積み重ねる人々の「創意工夫」は、開拓者が成した大きな仕事の前に霞んでしまいがちだが、この町に定住し、農地を維持し更新し続ける人々が居なければ、この土地は再び荒廃する。誰もが未開の地を目指して果敢な冒険を試み、開拓地から外へ出て行ってしまったら、町も土地も空洞化する。「前衛」と呼ばれる試みばかりに焦点が当たる傾向の強い、現在の「詩史」の記述では、地道に、誠実に個々の特性に応じた創意工夫を重ねていく人々の「更新」が、注目されにくい。(それを補うものとして、詩誌の年鑑号における年間展望や、大規模な同人誌による今年の注目詩集や注目作品などを活用してほしい。)

しかし、「現代詩」全体を、ひとつのアメーバのような生命体とイメージする時(アメーバはもちろん単細胞生物だが、ここでは流動的な集合体のイメージでとらえている)、外縁の動きにばかり注目していては、本体の動きを見失ってしまうだろう。「前衛」を自覚していた者が、いつのまにか「後衛」となっていたり、周辺に切り離されて孤立する、という事もあり得る。更新されていかない領野は枯渇する。生命活動を更新し続けている本体を「既視感がある」「類型的である」「特質に乏しい」というような理由で注視せず、先端を伸ばしたものの、ちぎれて取り残された、いわば冒険の痕跡を辿って行くばかりでは、本体の動きを見落としてしまう。

口語自由詩が登場して以降、めまぐるしく「~イズム」が試され、捨て去られ、また新たに開拓されていった時期を成長期とするなら、現在の「新しい試み」が飽和状態となり、明治以降の詩作品を一望できる状況にある現在は、壮年期、あるいは停滞期ともいえるかもしれない。過去作を学び、地道にオリジナリティーを探る者も、自己の感性や思想のみを頼って自身の身体感覚から作品を生み出したり、同時代にたまたま遭遇した作品に学んで創作する者もいるだろう。前衛的な「実験」は、アイディアがほぼ出尽くし、微細なニッチを求めていくような手法しか残されていないように見える。これは、内容ではなく形式、情動ではなく手法に限った話ではあるが、もうやり尽くされた、という閉塞感は、既存の「詩」ではないもの、を作り出す「前衛」たらんとする者にとっては、極めてリアルな感情であろうと思われる。

他方、時代が変わり、環境や条件が変わる中で生死を繰り返す人間は皆、どんなに似ている者同士であったとしても、個々人が異なった資質を持つ、一度きりの存在である。場から影響を受けながら自らを作り上げていく人間の創作物には、差がどんなに微細であっても、同じものは一つとしてあり得ない。他者と異なるオリジナリティーを追求する中で、自分らしさとは何か、という問いかけを繰り返す「芸術作品」の創造の場において、「いま、この時代に、この場に生きるわたし」を出発点とすることが、形式において類似や既視感があったとしても、内容においては豊かな多様性を担保することになる。閉塞しているどころか、これから開拓されていくべき余地が、広範に広がっている、と私は考えている。


◆ネット掲示板に、私が期待するもの

今後、動画や朗読、イラストレーションや写真など、より多彩な表現手法が展開可能な掲示板になっていく、という。そのこと自体は大歓迎だが、今まで通りの「選考」では、当然のことながら対応できなくなることは目に見えている。多ジャンルに渡る「作品」が投稿される、総合掲示板になっていくのであれば、なおさら・・・私は、言葉を用いた芸術、文字を用いた芸術に絞って、新たな「詩」を求めていきたい。

同時に、絵や写真に鋭敏なひと、動画やビデオの作成に親しんでいるひと、音楽に詳しいひと、それぞれが、それぞれの「選考センス」を活かして、独自の「選評」を発表していく、そのことによって多ジャンルが共存する場所になっていってほしい。手入れされた杉林の、整然とした美しさも捨てがたいが、熱帯雨林のジャングルのような、生物多様性が楽しめる場所、何が潜んでいるか分からない、そんなスリルも味わえる場所になると面白いな、と思う。

言葉を用いた芸術、としての「詩」に関していうなら、新奇な技法や珍しい手法を開発することを主眼とするのではなく、「現代詩」が開発してきた様々な技法や手法が、いかに内容と連動して、読者に訴えかけるものとなっているか、「現代詩」100年の技法や手法が、いかに効果的に組み合わせられ、内容をより豊かに伝えるために機能しているか、どうか、ということに注目していきたい。技法や手法が読者に与える印象や効果を十二分に活かし、言葉を補完するものとして機能しているかどうか。さらには、技法や手法のもたらす効果が、「現代詩」を読み慣れていない読者に対して、充分に機能しているか。

伝達性が担保されているか、といった課題に関しても、様々な経験値を持った読者が、双方向性のある合評を試みることができる掲示板という強みを生かして、試行錯誤してほしいと思う。様々な読者が、多彩な印象(感想、批評)を述べることによって、作者は、作品が読者に与える感動の質や多様な読解の可能性を知ることができる。作者の意図を越えた新たな発見をもたらすこともあるだろう。

読みやすさ、可読性を追求することは、読者に「おもねる」ことであるのか、どうか。読者からの反応を試したり確かめたりする場として、掲示板が有意義な場となってほしい。取捨選択は、作者に委ねられている。読者コメントを読み、見極める鍛錬も含めて、「現代詩」を読み慣れた人、読み慣れていない人、両者のコメントが活発に飛び交い、より充実していく掲示板であってほしい。今後とも、楽しく作品を読んでいきたいと思う。


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# by yumiko_aoki_4649 | 2018-03-14 21:49 | B-REVIEW | Comments(0)

B=REVIEW 2018年2月投稿作品 選評-1

B=REVIEW 20182月投稿作品 選評-1


大賞候補 Rixia_7oceans 水温


◆優良

・桐ヶ谷忍 左手の蒼穹

・徐々にでいいから birth

・弓巠 あなたにたくさんの柑橘


◆推薦

・あおのみどり ナナイロ

・なないろ ゴミ

miyastorage ストロワヤ

・岩垣弥生 電球の海

(以上、ARCHIVE掲載順)

※来月から変更になるものの、今月は従来通り、大賞作品を1点、優良作品を3点、推薦作品を4点、計8点を選出することが「運営」からの依頼である。120作という多数の投稿があった2月の投稿作品の中から、「優良相当」17点、「推薦相当」30点を選んだ(作者名と作品名を最後に列記する)。「推薦」作は「推薦相当」の中から選ぶのが本来であるのかもしれないが、「優良相当」の中から、大賞、優良、推薦を選択したことを記しておきたい。


◆作品選評 大賞候補

Rixia_7oceans さんの水温http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1348

静かだが強く印象に残る作品だった。「さかな」を、どうとらえるか。花緒氏は湖を無意識界の暗喩と読み、意識と無意識との断絶をテーマとして読んでいる。もちろん、そのような読みも可能だろう。「さかな」を胎児のイメージに重ねれば、湖は羊水の暗喩という連想も働く。未生の場所、これから生み出される場所に冷たく閉ざされている自意識、意識から断絶された心の孤独。いかいか氏は返詩を返す形でコメントしている。死と再生の暗示。どちらかというと、私の読み方はこちらに近い。

もちろん、作者の手を離れた後、作品は自由に解釈されてよい(納得できるロジックがそこに成立しているなら)。投稿者ももちろん、そのことは承知しているだろう。実際、作者の意図を越えた新しい読み方を提示されることによって、無意識のうちに志向していたものに、作者自身が気づいたりする時もあるし、作品が内包していた予想外の展開に、ひそかな喜びを見つける場合もあるだろう。

逆に、意図と異なって読まれてしまった場合、読者により伝わりやすくなるように工夫してみようとか、どの表現がズレの要因になっているのか確かめるといった、推敲や今後の創作の助けになる場合もある。

私の読み方もまた、作者から見た時は「誤読」かもしれない、と前置きをしつつ、作品を最初に読んだ時、津波で奪われた魂への共振が言葉となったのかもしれない、という思いが生じ、そのままそこから抜け出せなくなった。稲葉真弓の『心のてのひらに』や、上村肇の「みずうみ」、会田綱雄の「伝説」などを漠然と連想したことにもよるかもしれない。魚になって、いつのまにか死者の魂と同化しながら、被災地の、震災時の海の中を行く稲葉の圧倒的な想像力。『心のてのひらに』は、心で見る、感じる、という行為が、深い哀悼に変容していく様相に打たれた詩集だった。上村の「みずうみ」では、水難で失った家族を尋ね当て、共に暮らし始めた男(湖の中にいる)が、水難後に娶った妻との間に生まれた息子(湖の上にいる)に見出されるのだが、息子の目には蟹と映る。息子は父に気づかずに去る。懐かしい家族と、新たな家族との間で引き裂かれる男の切ない心情が、抑制された筆致で描き出された作品。会田の「伝説」では、父祖たちが蟹となって湖に生きている。子孫たちはその蟹を漁どり、売って生活の糧を得る。いのちの巡りを暗示する、この不思議な暮らしの中で、命を生み出す営みがくるおしく続いていく。それを、月明りが静かに照らしている。

Rixia_7oceansさんは、湖の中と外の断絶を描いている。「さかな」を主人公として描きながら、その情景を「見ている」語り手は、第三者的な立ち位置におり、「わたし」の語りからは後退している。それゆえに、自己の内的な葛藤の表明とも、より普遍的に、同様の心象を抱くものへの共振とも読むことができる。「さかな」が自らの死を自覚しないまま、いまだに水の中を漂っている死者の魂の暗喩であると見るなら、死者の視点から描き出された作品である、と読むこともできるだろう。

湖の中(未生の場所、死の世界)からは湖の外が見えているのに、恐らく、湖の外に生きる人々は、その気配にすら気づかない。確かに季節は過ぎ、「干渉しえないどこかで/何かが変わっている」のに、「さかな」は冷たく心を冷やされながら、「足がないから始められず/手がないから終わらせられない」という中途半端な状態に置かれたままだ。何も変わらず、何も変えられないまま、時間ばかりがいたずらに過ぎ去っていく。「さかな」は静かに、死んで朽ちていくのを待っている。

たまたま、私はこの作品を三月に入ってから読んだ。二月に投稿された作品なのに、三月の震災と結びつけるのは、強引な読み方かもしれない。誤読ではないか、と恐れるゆえんである。しかし、私には本作は、個人の力ではどうにもならない出来事に接し、心が停滞してしまう「わたし」の意識を平易な言葉で、美しい静けさに充ちた光景の中に描き出した作品として心に深く残った。それゆえ、本作を「大賞」に推したいと思う。


◆優良作品

Rixia_7oceansさんの作品(だけではないが)に見られる第三者的な視点は、近代小説の成立時に言われた「神の視点」に近いかもしれない。他方、私小説的な視点で、「わたし」の体験したこと、経験したこと、そこから得たものを、普遍的なものへと昇華しようとする試みもある。

桐ヶ谷忍 さんの左手の蒼穹http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1281

リストカットという(おそらくは)事実を下敷きに、「あなた」の思いによって救済されていく過程を描いている。青空のような心を持ったあなた、と安易な比喩に陥ることなく、丁寧な構成によって作品を組み立てている。丁寧、と書いたのは、わかりやすくて良いと思うものの、同時に、少しまだるっこしいような印象を与えるとも感じるからである。折り紙を重ねながら糊付けしていくように、ひとつの連で歌ったことを、次の連で(特に連の後半で)繰り返すように言い直していく進行。のりしろを、もっと少なめにしてもよいのではないか。あるいは、折り紙を少し離して机上に置いて行くように、連と連との間の飛躍を、もっと大きく取ってもよいのではないか、という読後感を持った。

希望のイメージを一般的に抱かれることの多い「青空」に重ね、春先のスカーフのような、柔らかい一枚布のイメージに変換し、その青空を「あなた」が共に分かち合い、その半分を「私」に「移植」してくれた、という切実さが胸に迫る。「私」から見た青空は、一枚布のように頼り無い、奥行きのないものかもしれないが、「あなた」は、青空を深い奥行きをもった「蒼穹」としてとらえている(「あなた」の言葉として言い直される四連に、「私」と「あなた」の捉え方の相違が現れているようにも思う)ことが面白い。

コメント欄にも記したが、不思議な文法によってアクセントを残す五連のあと、作者は今現在の日常に回帰する。傷の残る左手を振る、という行為に、語り手の思いが凝縮されているようにも思うのだが、せっかく「蒼穹」という宇宙的な広がりまで想起させた作品を閉じることになってしまわないか。「数年前の話」と日常にまで引き戻すことによって安全圏に着地したともいえるが、個人の体験からより大きな次元の体験へと広がりかけた作品を、また個人の私生活に収めてしまうような印象があり、もったいないような気もした。


徐々にでいいから さんのbirth http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1363

個人の体験から出発して、普遍的かつ、多くの人にイメージしやすい次元まで作品をひろげることに成功した作品であるように思う。誕生日を祝うというごく日常的な出来事がテーマであるが、「爛れたような」心中を凝視するところから作品は始まる。明確に書かれてはいないが、誕生日、ということで、自らが母の胎内にいた時にまで想念をひろげているかもしれない。肉体の内部が、濡れた洞窟のようなイメージでとらえられ、その空間からミクロコスモスとしての宇宙へ、想念は広がっていく。さらに万華鏡のような世界としてイメージ化する飛躍を経て、個人の想像力の範囲でしか「見えない」ものを、より多くの人に「見える」ようにしてくれている。

明確な起承転結を持った構成も、読みやすさに繋がっているだろう。いささか唐突に思われる万華鏡のイメージも、二連目の自己探求が伏線となり、多数の過去の自分、私の断片を無数に想起するという状態を、映像的な比喩として表現していることがわかる。個人の過去の記憶が断片化され、宇宙空間的な広がり(個人の内面のミクロコスモス)に分散している、きらびやかだが、迷いと混沌を喚起する情景と読むことができるが、原子の僕、にまで飛躍していく思考は、どこから生まれるのだろう。分断された無数の過去を、原子として再び集積したい、という再統合への希望が反映されているのだろうか。跳躍の幅が小気味よいものの、いささか思考や観念が勝っているのではないか、という思いもあり、優良にとどめた。


弓巠さんのあなたにたくさんの柑橘http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1346

思考や観念が感覚に勝っているのではないか、という印象を覚えた作品だった。前月の「冬、いき」は、観念的なイメージを扱っているようでありながら、具体的な層を残していて説得力があったのに対し(それは恐らく、実際に寒気の中で白い息が残す影の実在感と儚さへの共感が働いているだろう)絵本のイメージと心理的な内面把握とが重ねられ、全体に像が拡散していく傾向があるように思った。

冒頭に置かれた「柑橘色の言葉が欲しかったのです」という音の響きの硬質さ、色彩や匂、味わいが喚起するイメージ、そのイメージを強引に「言葉」という抽象的なものに結びつけることによって、明確にはとらえられないものの、質感やニュアンスに実在性を帯びた言葉、というものが想起される。息を溜めてひと息に吐き出したような調子も含め、願望が切実に表明された、優れた書き出しだと思う。

言葉遊びにも似た頭韻によるイメージの引き寄せも、強引ではあるが、作者の内でのイメージの流れを表しているような臨場感を持って読むことができた。ただ、三連の豊かな比喩の部分を、どうとらえるか。引き出しを沢山持った作者だと思うが、手持ちの素材を容易に出し過ぎているようにも感じる。一行一行が、心象風景画のような豊かさを持つ反面、次々と並置されることによって、一行一行の行間や余韻が希薄になり、平板で装飾的な印象を結ぶ結果になってはいまいか。

少女と、恐らくは少年(の語り手)が、大人になっていく、という経過も、思考や観念が先走っているように感じられた部分だった。幼年期に受け止めていた、豊かな詩情への憧憬、やがて大人になり、街に身を置くようになってからの、感受性の鈍り。それは、大人になったから、なのか。あるいは、生きる場が、街に移動したからか。あらゆる記憶を、「わたし、が食べた」という認識が体感的で、印象に残る。食べたものが、その人を形作る。感受性が得たもの、呑み込んだものが、どのように言葉となって発現するか。その先を見たい、と思わせる作品だった。


◆推薦作品

「推薦」作は、注記にも書いたように、もともとは「優良」候補に入れていたが、選択数が限定されているので、推薦に留めたものである。

あおのみどり さんのナナイロhttp://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1377

飛躍の幅が大きく、映像やストーリー、あるいは論理を順に追って読む、ということが出来ない。他方、断章を連ねたような連の一つ一つが、強いイメージ喚起力を持っていて、様々な想念に読み手を導いていく。失われていく「声」の行方に対する思いの強さ。「もうあまり残されていない」「大きな目」といったワードから、私の中に漠然と浮上したのは、痩せて目ばかり大きくなった、余命の尽きようとしている人の姿だった。虹、そして橋のイメージも、彼岸への旅立ちを想起させる。「上司」がいささか唐突に出て来るが、私は介護をする作者の悩みに、上司の言葉がひかりとして差しいってきた・・・そのように読んだ。誤読かもしれない。今現在、恋をしている人なら、大きな目の恋人を夢想するだろうか。指先が触れるのは、自らの首すじか、大切な人の肌なのか。最終連の「虹のくちばしをした君」も、どこから現れたイメージなのか、謎のままに残されている。それでも、肉体に閉じ込められた魂のイメージを連想したり、空の果てから届く「声」を思い描いたリさせてくれ、豊かな行間を感じさせる作品だった。


なないろ さんのゴミhttp://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1383

弾んでいくような軽さや、身近な言葉を切り取って来るセンスがもたらす軽快さがあり、内容の重さや深刻さとうまくバランスを取ることに成功している作品だと思った。街景をスナップ風に捉えていく、いわばロングショットから入り、一気に自己の内面へとクローズアップする映像の伸縮の度合いが小気味よい。「私の母は私を生んだ時に死にました」という、語り手による突然の告白と、そこから一気に叩きつけられるように吐露される「産んでなんて頼んでない」というフレーズの持つインパクト。物質として存在する「ゴミ」と、自らが社会のゴミとなるのではないか、という漠然とした不安、その自己認識の遠因としての、自罰感情。リーディングを意識しているのか、脚韻を踏むような語尾や、単語で区切っていくスピーディーな進行、強弱の緩急をつけた詩行などにより、音読しても心地よい作品になっていると感じた。


miyastorage さんのストロワヤhttp://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1295

明晰な意識による饒舌な語りが、次第にゆらぎ、断片的になり、イメージの連鎖や意識の流れの叙述といった印象に転化していく。論理で追っていくのが難しいので、読者によって好みがわかれる作品かもしれない。「糜爛」、「口内炎」、「青に 斑に」といった言葉が、心理的な痛みを喚起する前半から、酔いが回って来て陶酔に導かれていくような中盤を経て、水の揺らぎが喚起する火や光のイメージへと移っていく。トップノートからミドルノート、そして余韻へと変化していく香水の香りの変容にも似て、時間経過を楽しめる作品だと思った。


岩垣弥生 さんの電球の海http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1399

ボトルシップを連想させるような立ち上がりの映像が強く印象に残る作品だった。そこから視点は電球内に移り、忘却の風に吹きさらされている「あなた」への思いが抒情性豊かに表現されていく。装飾性の高い詩語を多用した三連が、その語彙ゆえに豊かな詩情をもたらしているとも言えるかもしれないが、言葉のきらめきに眼をくらまされてしまうような感覚も覚える。四連の「ナイフに映った朝」の緊張感のあるイメージ、そこから視覚的にも揺さぶられていく、いわば間奏曲的な部分を経て、再び冒頭の映像に戻る、ロンド形式。戻るといっても、単純なリフレインではなく、バリエーションが施されている。「横たわっている」というイメージが、「立ち尽くしている」イメージへと変容し、「きょうだい」を失った後に、さらに「りょうしん」すら失われていく喪失感と孤独が際立っていくのが切ない。時系列としては両親が先に逝き、続いて兄弟が鬼籍に入るのが通例だろう。だから、ここでの「いない」は、記憶の中からの消滅を暗示している。構成が巧みな作品だと思った。


他に言及したい作品としては、HAneda kyouさんの「君について行く」http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1285だろうか。とりわけ、コメント欄で渡辺八畳さんと交わされた議論が印象に残った。二次創作であることに気づかなかったという不明も含め、大変面白く、また、有意義な議論が展開されていたと思う。

カオティクルConverge!!貴音さんの「名を変える鳥」http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1359も、「鳥」が希望や憧憬の暗喩のようにも、肉体と魂との関係性のようにも、死者の魂を追悼しているようにも、外部の環境によって様々な色合いに「見られ」たり「呼ばれ」たりする自意識の象徴のようにも読め、ひとつに定まらないところがむしろ印象に残った。饒舌体の溢れるような言葉の中で次々に「名」を変えていく鳥が、最後に「閑古鳥」に落ち着くけれども・・・内容の重さや切実さ、文章の詰まり具合といった迫力と、「閑古鳥」の喚起するペーソスやユーモアと、うまく釣り合いが取れているかどうか・・・このあたりのバランス感覚が難しい作品であるようにも思う。


以下、優良、推薦候補を列記する。

優良 るるりら「おもてなし妖怪2018」/紅茶猫「家族八景」/田中修子「半身たち」/ウエキ「思い出す詩のことなど」/こうだたけみ「四駆スカンクラップアドロッカー」/アラメルモ「小網戸」/李沙英「さよなら赤ちゃん」/岡田直樹「あなのあいたサイフ」/ねむのき「未処理」/

推薦 奏熊ととと「幸福の形、不幸の形」/クヮン・アイ・ユウ「朝は歌う」/白犬「re:w」/湯煙「陳さん」/夏生「思いの断片」/仲程「虫の生態(AB説)」/stereotaype2085「脳内モルヒネ依存症/北村灰色「青信号を渡らない赤子」/蛾兆ボルカ「トイレットペーパーの芯」/完備「structure」/渚鳥「星」/survof「おわって、風」/宮田「常温の飲むヨーグルト」/二条千河「www」/夏野ほたる「振り返るといつも赤」/うたもち「迷彩」/眠莉「曖昧な憂鬱」/カオティクル貴音「名を変える鳥」/くつずりゆう「夜の掻き手」/沙一「夜の人」/ジャンブリーズ「繭玉深く夢幻」/KURA-HITO「遺された街」/奇遇「なにもない」/さしみ「きよらかなもの」/藤一紀「冬の帰り道」/佐木ノ本「コーヒー」/リーさん(リュア)「鰹節」/いしかわゆうだい「生活」/社町迅「電気に縛られて」/鹿「午前三時に痛む傷の処置」/

書体の指示や太字の指示が反映されていない部分があります、ご容赦ください。


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# by yumiko_aoki_4649 | 2018-03-14 21:39 | B-REVIEW | Comments(0)

伊東静雄ノート 10

『春のいそぎ』の全作を鑑賞しつつ、当時の静雄の思いを辿りたい、そして、その当時の詩人たちの置かれていた状況を知りたい・・・そんな想いから始まった「静雄ノート」も、既に十回を記すことになった。

当然のことながら第一詩集や第二詩集にも思いが飛び、紆余曲折を重ねている。ノート、という名の如く、覚書の域を免れずにいることを、まずはお許し願いたい。その間、『詩と思想』(20169月号)において、戦後静雄自身が全集収録を拒んだ七篇の「戦争詩」について概観し、静雄の死後に編集された『定本 伊東静雄全集』に、なぜか収録されなかった「十二月八日近く 思いを述ぶ」についても考察を試みた(『詩と思想』20175月号)。静雄の「戦争詩」については、より広く、深く、当時の社会情勢や文学について調査と反省を重ねてから、再度、詳細に考察を試みたいと思っている。


前回、エクスカーション的に静雄と妻の花子の関係に触れた。『春のいそぎ』には、戦時中の詩集としては珍しく、日常的な次元から綴られた妻子に関する思いを述べた詩が収められている。自序に〈ひとたび 大詔を拝し皇軍の雄叫びをきいてあぢはつた海闊勇進の思は、自分は自分流にわが子になりとも語り傳へたかつた〉とあり、また、今回の詩集は家族のことを書いているためか、評判が良いようだ、と手紙に認めていることからもわかるように、妻子を強く意識した詩集であったことが伺われる。静雄にとって、『春のいそぎ』を編んで残すことは、どのような意味を持つものだったのだろうか。


詩集巻頭に置かれた「わがうたさへや」には、〈大いなる戦ひとうたのとき〉であることを、一斉に声を揃えて告げ知らせる〈くにたみの高き諸聲〉が、今、新たに響いている、と記した後に、三字下げで、


そのこゑにまじればあはれ

浅茅がもとの蟲の音の

わがうたさへや

あなをかし けふの日の忝なさは


と、謙虚に、控えめな口調で戦いが始まった日の「うた」に和することを記している。自らが(例えば高村光太郎のように)率先して「くにたみ」の声を代表する、あるいは、先頭に立つ、といった気負いや責任感から歌うのではなく、あくまでも「皇国臣民」の一員として、また、一人の教師として、「わがうた」がせめてもの慰めとなれば、という心情を提示している。


たが宿の春のいそぎかすみ売の重荷に添へし梅の一枝


(炭売の重荷に、その労苦をねぎらうかのように、名も知れぬ人によってそっと添えられた梅の一枝。これは、新年(新しい世紀)を迎えるための「しつらえ」の心であろうか)


右は、『春のいそぎ』という詩集名の由来となった伴林光平(幕末の国文学者、歌人、勤王志士)の歌であるが、その梅の一枝(おそらくは白梅)のような詩集でありたい、という、偽らざる心情から生まれた詩集であったに相違ない。


「戦争詩」を書くに至った静雄を、「弁護」するつもりはない。ただ、『改造』その他、いわゆるオピニオン誌の当時の記事を見ても、欧州列強の「植民地」として虐げられたアジア諸国を解放し、欧州衰退の期に乗じて太平洋の覇権を手中に収めようとしているアメリカの野望を阻止することが、アジア全体を守るために急務である、という主張がもっぱらであった。日本の植民地政策に異を唱えたり、民族自決を尊重せよと述べる論文は悉く発禁となり(例えば、細川嘉六の横浜事件。(昭和十七年(1942)九月)大東亜文学者会議の第一回大会(昭和十七年十一月)が「満州国」「中華民国」「蒙古」の代表二十一名を招待するというパフォーマンスと共に開催され、従軍記者の記事や、「戦場ルポ」の為に(男女を問わず)派遣された作家たちの華々しい報告が文芸誌や新聞紙上を賑わせる、という情況であったことは確認しておきたい。そして、何よりもそのこと自体を、私たちは「反省」しなければならない。報道の自由の制限が、ファシズムの野望を正義と思いこませ、「国民」を「国家」の意志に従う「皇国臣民」へと醸成していくのであるから。

 こうした状況下で、昭和十七年に編まれ、翌年の一月に発刊された『春のいそぎ』であることをふまえつつ、その詩篇の並べ方から、静雄の編集意図を考えてみたい。


 『春のいそぎ』は、前半は文語詩、後半は文語と口語の混交、最後の数篇に、童謡風の口語とも文語ともつかぬ詩篇を並べる形で編集されている。

 冒頭、「わがうたさへや」(文語)で自らの思いと姿勢を述べた後、やはり文語で格調高く、「かの旅」と「那智」が続く。この二篇は六行の一連目の後、字下げで六行を綴る整った形式を持つ。(箏曲の前歌と後歌を思わせる、と私観を述べたことがあるが)旅の感慨と、帰阪後の思いを呼び交わすような形で記された文字通りの「歌」であり、共に旅をした青年たちへの思いをつづった作品でもある。〈戦局の推移、わが国の大いなる運命、近づいてゐる軍隊生活のこと〉への思いをつづった青年からの手紙への返歌として記された「久住の歌」と合わせ、この三篇は戦場に向かう青年たちの武運と無事とを祈る歌、であると言えるだろう。

 続く三篇、「秋の海」と「述懐」、「なれとわれ」も文語で綴られている。「秋の海」は「愛妻(はしづま)」を失った友を思いやる歌であり、「なれとわれ」は自身の妻を伴って、ようやくの帰郷を果たした折の感慨を歌っている。間に置かれた「述懐」は、開戦の日の思いをその一年後に歌った作品であるが、最後に置かれた〈()が思 子と(つま)にいふ〉という一文からも分かるように、妻子に自身の思いを歌い置く形を取る。つまり、戦場に向かう若者たちへのエールを三篇置いた後、妻子への呼びかけを三篇置いた、と見ることができる。

 その後に続く三篇「海戦想望」「つはものの祈」「送別」これも文語で綴られている。「海戦想望」は南洋で激しい戦闘を「勝利」で飾った後、満月の光に照らされてひとときの安らぎを得ているであろう「つはもの」たちに想いを馳せる、映画的と言うのか、絵画的な情景を描いたものであり、「つはものの祈」はパレンバン奇襲直前の落下傘部隊の写真を見て、〈いくさの場知らぬ我ながら、感迫りきていかで堪へんや。乃ち、勇士らがこころになりて〉歌った歌、と前書きがある。いずれも新聞や雑誌の報道から見聞きしたことを、ロマンティックな夢想を膨らませて歌い上げた作品、ということができるだろう。落下傘部隊を白い花に喩えた佐藤春夫を始め、多くの詩人たちが煽情的な新聞記事に感化されて高揚感のままに作詩した戦争詩、ということになろうか。「送別」も、実際に出征する田中克己へ送った歌である。いずれも戦地への思いや祈りを込めた歌、ということになろう。

 続いて名作の誉れ高い「春の雪」が置かれる。戦地を思う高揚感に充ちた歌のあとに、静かに春(新しい時代、新しい夜明け)を待つ冬の明け方の叙景歌が置かれていることになる。本作の鑑賞はまた後に譲り、ここではその次の作品を見て行こう。

 「春の雪」の後、冒頭の「わがうたさへや」(開戦の日の思いを歌ったうた)に呼応するかのように、口語で綴られた〈昭和十六年十二月八日〉を記念する「大詔」が置かれる。「大詔」を前半部の中締めと見るか、後半部の巻頭歌と見るか、意見の分かれるところかもしれないが、「わがうたさへや」から「春の雪」まで、文語で綴られた前半部をひと括りとし、口語で歌われる「大詔」を、後半部の巻頭と考える方が理にかなっているように思う。

 後半の詩篇を、以下に並べてみよう。


「菊を想う」(口語)〈吾子〉〈子供の母〉との日常詠

「淀の河辺」(文語)〈水を掬びてゑむ〉友を思う歌

「九月七日・月明」(文語)〈吾子〉の看病をする歌

「第一日」(文語)戦闘を体験した〈友〉の聞き書き

「七月二日・初蟬」(口語)娘と〈その子のはは〉と共に聴く、初蟬への思いをつづった歌


一見するとテーマがバラバラであるように見えるが、口語(そして妻子への思いを歌う日常詠)で、文語詩を挟む構成になっている。内容も、当時の日常から取材されていると見てよいだろう。

 続く四篇は下記の通り。


「なかぞら」(文語)

「羨望」(口語)

「山村遊行」(文語)

「庭の蝉」(口語)


今まで静雄ノートで読んできた私見になるが、「なかぞら」は叙景歌であると共に、物思いに沈む自身のことを、〈ふる妻〉に〈新しき恋や得たる〉とからかわれた、という日常詠を含んでいる。さらに、最終連は、〈去年(こぞ)の朽葉〉が春の水に〈かろき黄金(きん)のごと〉浮いて流れているだろう、と想像力を膨らませるのだが・・・沈んでいる自身の言の葉が、軽やかに流れ出すさまを願う自身の詩作への思いを歌った詩、あるいは祈る歌、と見ることできる。

 「羨望」は、詩人になりたい、と尋ねて来た青年との会話を記した日常詠。三好達治が『詩を読む人のために』で褒めた静雄の詩、「訪問者」に通じるような、若者との対話である。静雄は、蝉の声がうるさくて、勉強が手につかない、と愚痴をこぼす〈若い友〉を、そんなことでは〈日本の詩人にはなれまいよ〉とからかうのだが、その時の返答――「でも――それが迚も耐まらないものなのです」に、〈一種の感じ〉と、〈訳のわからぬうらやましい心持〉を抱いた、と記す。

 なんとも捉え難い、自然主義風の謎めいた詩、ということになるが・・・「七月二日・初蟬」の中で、〈初蟬をきく/はじめ/地蟲かときいてゐた〉という一節を念頭に置きつつ、第一詩集の『わがひとに與ふる哀歌』の掉尾に置かれた「鶯」を思い返してみる。「鶯」は、幼い頃に聴き馴染んだ美しい鳴き声を忘れてしまった〈私の友〉に対して、呼びかけた歌である。(解釈上、自分自身に対する呼びかけ、とも読めるが、友人の大塚を意図している、という静雄自身の言葉も残されている)さらには〈七面鳥や 蛇や 雀や/地虫や いろんな種類の家畜や/数へきれない植物・気候のなかに〉感じ取ったであろう諸々の詩情を、すっかり忘れてしまった〈君の老年のために〉、自ずから自身の唇にのぼって来る〈一篇の詩〉を書き留めること、それが私の詩作、私の使命なのだ、という、静雄自身の詩論を述べたような作品である。

 地虫かと蝉の声を聞く、という共通性も含めれば、〈私の友〉が忘れてしまった自然の声、自然の歌、の中に、蝉の声も当然含まれることになろう。静雄が「羨望」に歌われた〈剣道二段の受験生〉であり、〈年少の友人〉である青年に対して抱いた〈感じ〉とは、何だろう。なぜ、「羨望」を感じるのだろう。

 のちに作詩された「訪問者」の中で、静雄は、詩人になりたい、と訪れた少女の詩作品に〈やつと目覚めたばかりの愛〉を認め、〈自分で課した絶望で懸命に拒絶し防御してゐる〉〈純潔な何か〉を感知し、最後に〈生涯を詩に捧げたいと/少女は言つたつけ/この世での仕事の意味もまだ知らずに〉と締めくくる。無我夢中で詩作に憧れ、邁進している若者が、詩作という苦悩、青春期に通過する絶望をまだ知らずにいる、ことへの羨望、であろうか。反語的に、そうした無我夢中の情熱を失ってしまった自身を省みている、とも取れる。

「七月二日・初蟬」において、蟬の声を聴きながら、同じようにそれをきいている妻子に何か〈言つてやりたかつたが〉黙っている詩人、言葉にし得ない苦悩を抱えてしまった詩人としての自己を省み、そうした苦悩を知らずに詩作に純粋に憧れている若者への「羨望」を抱いたのではないか。このように見て来ると、「羨望」と言う作品も、自身の詩作に関わる問いかけを含んだ作品、ということになる。

「山村遊行」は、静雄ノートの一回目で触れた作品だが、これも夢想の内に迷い込んだ、イマージュを彫り出す人々への憧憬と、そうした場に到ることができない自分自身の立ち位置とのジレンマを綴った作品、と読むことができるだろう。これもまた、詩作とはなんぞや、という静雄のイマジネーションが生み出した作品である、ということになる。

文語、口語、と交互に置かれた四作の最後に「庭の蝉」が置かれている。


庭の蝉


旅からかへつてみると

この庭にはこの庭の蝉が鳴いてゐる

おれはなにか詩のやうなものを

書きたく思ひ

紙をのべると

水のやうに平明な幾行もが出て来た

そして

おれは書かれたものをまへにして

不意にそれとはまるで異様な

一種前生(ぜんしやう)のおもひと

かすかな(めま)ひをともなふ吐気とで

蝉を聞いてゐた


ここで言う「旅」とは実際の旅であると同時に、夢想世界、詩の世界への旅、でもあろう。『哀歌』の「河辺の歌」の中で〈永い不在の歳月の後に/私は再び帰つて来た〉〈けれど少年時の/飛行の夢に/私は決して見捨てられは/しなかつたのだ〉と静雄は綴っている。静雄の詩に現れる「帰還」のイメージ、幼年期の豊かさへの憧れ、〈私さへ信じない一篇の詩〉(鶯)私ですら信じられない、どこか遙か遠くから自然に沸き起こって唇に浮かぶ、幼年期に聞き覚えた美しい歌、自然の奏でる歌・・・それが静雄の理想とする詩であるとするなら。〈水のやうに〉出て来た〈平明な幾行〉とは、どのような詩行なのか。そして、その詩行を前に、〈前生〉を思い、吐き気を覚えている状況とは、何なのだろう。

静雄が、初めて詩誌に発表した「空の浴槽」を併記してみる。


午前一時の深海のとりとめない水底に坐つて、私は、後頭部に酷薄に白(えん)の溶けゆくを感じてゐる。けれど私はあの東洋の秘呪を唱する行者ではない。胸奥に例へば驚叫する食肉禽が喉を破りつゞけてゐる。然し深海に坐する悲劇はそこにあるのではない。あゝ彼が、私の内の食肉禽が、彼の前生の人間であつたことを知り抜いてさへゐなかつたなら。


鶯と、食肉禽。蟬が掻き立てる不穏な何事かと、まるで正反対のような、〈平明な幾行〉。美と醜、平穏と激烈。続いて置かれる「春浅き」に、描かれる光陰。


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# by yumiko_aoki_4649 | 2018-03-12 10:23 | 伊東静雄 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
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