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『悲の舞 あるいはギアの秘めごと』三田洋詩集 鑑賞 

生成りの砂地のような地に、細胞の顕微鏡写真を淡い黄色の版で押したようなカバー。丁寧に織り込まれたカバーをそっとめくると、目の覚めるような青の本体が現れる。生命は海に還る、その暗示だろうか。詩集本体を形作る一葉一葉が、詩集扉のような厚地で編まれていて、触れているとしっかりとした手応えが伝わってくる。

冒頭の「悲の舞」は


悲は斜めうしろから

すくうのがよい

真正面からでは

身がまえられてしまう

悲は日常の爪先ではなく

白すぎる紙の指で

呼吸をほどこすように

すくうのがよい


と始まる。すくう、これは「掬う」であろうけれども・・・たとえば阿弥陀如来の手で「すくう」ならば、「救う」でもあるのかもしれない。わたし、の悲しみを「すくう」のか。もっと大きな、たくさんの人の「悲」にまで、想いは広げられているのか。

日常的な次元ではなく、紙に静かに言葉をつづることによって、〈悲〉を捕えたり追い払ったりするのではなく、そっと手のひらに乗せるように受け入れよ、そう歌われているような気がする。続く詩行を引用する。


太古から伝わる悲の器のように

やさしく抱えこみながら

静かな指のかたちで

すくってもすくってもこぼれてしまうけれど

傷ついたいのちのすきまを

ていねいにふさぐよう

だれもいない奥の間の

ひっそり開かれる戸から

陽がさしてくればなおよい


悲(Hi)が、〈ひっそり開かれる〉戸から漏れる〈陽〉となるとき。


 そのとき

 悲はひかりの粒子にくるまれて

 必然のつれあいのように

 すくいのみちをめざしながら

 秘奥の悲の舞を

 ひそかに演じるのでしょうか

 だれもいない開演前の舞台のように


〈だれもいない〉舞台を見ているのは、末期の眼であり、既に他界した者のまなざしであると同時に、未生の舞台をまなざす者の眼でもあろう。

 生きてここに在る肉体が、死後の、あるいは未生の世を夢想し、その地点からいずれ訪れる〈すくい〉の時を歌っているともいえる。

繰り返される悲の響きが、静かな変容を遂げる。悲がすくいとられ、紙の上で文字となり言葉となり、傷を負った〈いのちのすきま〉をさらさらと埋めていく。一人の命、一個の命ではなく、たくさんの〈いのち〉の間に生まれた空無を埋めていくのだ。それは、個々の内に閉ざされた悲しみを、〈いのち〉たちが共有し、共に〈陽〉に変容した〈悲〉にくるまれる、という〈すくい〉への願いではあるまいか。その時初めて、傷ついた個々の命は、悲のふるまいを〈悲の舞〉として、客観視し、受け入れることができるのかもしれない。

「振り向き方に」や「歳月の窓」で歌われる、何者とも知れないが、はるかな場所から〈見ている〉〈覗いてくる〉視線は、〈籠の鳥を亡くしたり近しいひとや/母親のからだを焼いたりすると〉いっそう強くなる、という。近しい人、でいったん区切り、呼吸を整えて〈母親の〉と語りだす間合い、そして、母親を、ではなく、〈からだを〉と限定するところに、母の魂の永遠を信じる心が記されているように思う。からだから解放されて、魂は天に還ったことだろう。そして、多くの死者たちの魂と共に、はるかな場所から生きる者たちを見守る視線、大きな〈いのち〉へと溶け込んでいく。「悲の舞」は、地上にある肉体が、夢想の力で〈いのち〉の側から、孤/個として存在する命を見たときの舞なのかもしれない。

全編を通読して、柳澤桂子が過酷な体験を通じて辿り着き、生命科学や素粒子物理学の概念を用いながら“現代語”に訳し直した「般若心経」の響きを感じた。三田の描く詩(うた)が、悟りを説こうとしている、ということではない。実存する自己の在り方、その肌感覚を、どのように言葉で言い表そうか、と逡巡した末に、「中性子のかなしみ」や「数字のお願い」のような物理的な用語を選んだ過程に、伝えるとはなにか、と真摯に問う心の同質性を感じのかもしれない。

夢と覚醒時との切り替えがうまくいったときの気配、〈失敗した〉ときの感覚を心の耳で聴きとってしまった際の微妙な感覚を、“ギアチェンジ”の成功、失敗になぞらえて綴る「ギアの秘めごと」もユニーク。ギア、という人名の物語を予感したが、肉体をユーモラスに客観視する姿勢と、微細なずれや違和感を感じ取る繊細さが見出した卓抜な表現である。覚醒していながら白昼夢を見てしまうような、夢幻の世界から抜けきらない、現実世界での曖昧な感覚の居心地悪さ。ピタリと覚醒した時の爽やかさ。〈迷いしくじり途方にくれて/目覚める〉時の方が、人生には多いのかもしれないが、そんな自身を〈ギアの音のいとしさ〉も含めて受け入れようとする姿勢が快い。


今まで、詩を“うたう”と記してきた。行分け詩のリズムや呼吸に、歌うような調べをかすかに感じるからだが、“うた”に乗せていくことのできなかったエピソードが「相克の崖」という散文詩に綴られているように思う。〈歳月のなかで体験と夢想との境界があいまいになるらしい。〉いわば、ギアチェンジがうまくいかなかったときに蘇る悪夢のような体験。まだ若かった語り手が、父を自死で失った友人の、あそこから見ると海がきれいだよ、という誘いに応じて、崖の中腹に腰を下ろして海を見下ろす。〈彼の境遇にそってあげたかった〉ゆえの実話なのか、〈彼の境遇〉を思うあまりに幻想が作り上げた恐怖であるのか。歳月が経つにつれて〈あの時わたしは実は海へ落下していたのではないかという懸念が消えない・・・いつからか落下したじぶんと落下しなかったじぶんとが相克を続けるようになっていた〉ここまでくると、夢想も現実も境界は無いに等しい。友人の体験への感情移入が、いつしか自己の体験に成り代わる。(私事になるが、従妹が自死した、という知らせを受けた後に、宇宙空間で、果てしなく落下していく夢を何度となく観たことがあるが、その時のことを思い出した。)

最後に置かれた「夜の椅子」は、


離別した朝の気配の

亡くした母の春の海の

救えなかった子の

暑い夏のおわりの

声のふるえる箸のはこびかたの

雨にぬれる指のかたちの

そんなひかりのような断片を

何度となく

繰り広げてみせる


と、とりわけ調べを強調した形で始まる。冒頭の〈すくい〉や〈ひかり〉、そして、悲を陽に変えてすくいあげる、はるかな場所から差し伸べられる指の気配と、この世に生きて指先を濡らす人の気配とが重なっていく。その〈ひかりの断片〉いわば、美しい記憶のかけらが現れるのを、詩人は夜の椅子に腰かけて“観て”いる。


 ときには

 遠い祖先の苦渋の痕跡があらわれたりして

 おもわず感謝しながら

 きょうも

 夜の椅子に腰をおろしている


現実と夢想との境界が限りなく曖昧になる時間、はるかな場所から差し入る〈ひかり〉としての記憶の訪れに身をゆだねる詩人。いつかそこに自身も加わり、またこの世を振り返るという安堵も重なっているように思う。読み終えて、静かな安らぎを感じる詩集だった。
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# by yumiko_aoki_4649 | 2018-11-13 15:28 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

『丈高い赤いカンナの花よ』佐古祐二詩集感想 

表紙絵にしばし見入る。

冒頭の「蝋燭」は、まさにエラン・ヴィタールの炎である。

「風花」の〈まぶしいふくらはぎ〉、「ささやかな贈り物」に登場する〝名古屋嬢″のような、おそらく女子高生の豊満な胸のふくらみ・・・西東三鬼の「おそるべき君等の乳房夏来る」を連想しつつ、異性の放つ根源的な生命力に出会うことで命の力がみなぎって来る、というのは、なんとも健康的な、南欧的なエロスである、と思う。生への躍動、たぎりたつような命の迸りへの憧憬、といえばよいだろうか。

「ある一つのシュールな暗喩」は不思議な余韻が残る作品だった。くだけたユーモラスな表現にまず驚き、〈季節はずれのハスの花〉・・・極楽浄土のすぐ傍らを、上着の襟をかき合わせて寒さに震えながらトボトボ歩く〈私〉が、〈赤いショートパンツにタンクトップ〉〈ポニーテール〉という、すっかりアメリカナイズされた、はつらつとした女性に追い越されていく、という対比が鮮烈。しかもこの女たちは、顔を後ろ前につけているというのだから(きっと、真っ赤な口紅もつけているだろう)すれ違う男を奈落へといざなう、ファム・ファタルのような不気味さもある。

「雪のペッチラさん」のようなユーモア詩もあれば、「記憶の効用」「陰・影と光」のような哲学詩もあって、多彩な詩集だ。陰影ではなく、陰と影、と区切るところに深さを感じる。デッサンではなく油彩であれば、さらに陰には色があり、影には形がある、ということにもなるだろう。それもまた、光が無ければ誰も知ることが出来ない。すべては、照らし出す光あってこそ、なのだ。

「アンスリウム・アンドレアーヌム」は、なるほど、確かにあの花の形は交合の瞬間を想起させるかもしれない、と思いつつ・・・男性が女性の性に対して持つロマンティシズム、あるいは幻想、をうかがい知るような印象を持った。性の高揚感に似ている、あるいはその高揚に連なる体験は、出産に関連する経験の中で探すなら胎動の瞬間・・・とりわけ、胎児がお腹の皮をぐいぐいとこすりあげるような・・・時の体感に近いのではないか、とも思う。性の高揚が匹敵するほどの強さ、大きさを持っているかどうかはひとまず置くとしても、小さな死、とも呼ばれる性の極点になぞらえうるものと言えば、やはり死に隣接する体験、という他はないのではないか・・・という気がする。いささか脱線したが、熱帯性植物の貪欲さや溢れかえるような生命力と、根源的な生/性の力動とが通底する、ということには、深く共感する。

「希望」「八月のボレロ」と読み進めて、闘病しながら詩作しておられる日々を想った。日常の中に生命力を喚起するささやかな、でも大事な何か、を見つけること、詩作へのエネルギーを得ること、生まれた詩からまた新たに得ること・・・それらが還流し合い、一つの流れを作っているように思う。物みな燃え盛る赤い八月、その中に重なるボレロの旋律、ジョルジュ・ドンの筋肉のうねり、しぶく汗、しなやかな動き・・・。

佐古祐二が好きだという伊東静雄の詩作品の中でも、八月の石にすがりながら燃え尽きるように果てる蝶の姿、〈燃え尽きることを恐れず〉燃える蝋燭のイメージも重なる詩集だった。

(2018年11月 佐古祐二さんの追悼にかえて)

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# by yumiko_aoki_4649 | 2018-11-12 14:00 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

クロスロード12号

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北川朱実さんの個人誌 クロスロード12号。
詩篇3篇、エッセイ2編を収める。

冒頭の「火花」は、

 大きな息を一つ吐いて
 緑の炎を噴き上げる
 シュノーケル

という、鮮烈ながら、なんとも不思議な情景から始まる。煙になる船底の板は、「鯨と旅をした話を/空にする」「燃える丸太から/チェンソーの音がはじけ飛んで/姿をくらます青大将」「砂に半分埋まった乳母車は/燃え上がった瞬間/ほら/あまやかな匂いを放った」・・・海岸に流れ着いたものを焼却処分している光景のようだが、詩人はその傍らで、燃え尽きていく物達が"語る"のを聞く。鳥の群れが飛び立っていくのを目で追うラストは、物達の時間と魂が放たれていくのを詩人の心が観ていることを映している。

連載エッセイ、「伝説のプレイヤー12」は、ジャズピアニストのソニー・クラークについて。「哀愁ただようマイナー(短調)な音」が、当時のアメリカでは受け入れられず、むしろ日本で好まれ、やがて逆輸入と言えば良いのか、「いつまでも届かない手紙のようだったソニーの、アメリカでの評価に繋がった」という。
セロニアス・モンクのピアノの魅力が「蹴つまずくようなタッチ」、バド・パウエルは「目の前で音楽が生まれる瞬間に立ちあったかのような衝撃感」であるのに対し、「ソニーの魅力は、衝撃感ではなく、少し重くて繊細なひっかかりのあるタッチ」だという。見事な描写に、いつも感嘆する。

やはり連載エッセイの「路地漂流12」は、作家の梅崎春生について。無頼というより、落第人生という感の強い生き方の作家が、雑誌編集者の山崎恵津と結婚した頃から精力的に小説を書くようになった、という背景には、やはり恵津の影響があるのだろうか。
「すべて、どんな動きをとるか見当がつかない糸の切れた凧のような存在」だという『狂い凧』は、戦時中に軍隊で睡眠薬自殺をした弟の忠生の生涯を描いた小説だという。鮮やかなイメージの源泉を問われて、「これでも詩を作っていたからね」と頬を染めながら答えたという梅崎春生。
不勉強で、まだ梅崎の小説を読んだことがない。読んでみたいと思う。

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# by yumiko_aoki_4649 | 2018-10-29 07:07 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

和田まさ子詩集『軸足をずらす』書評

 前作の『かつて孤独だったかは知らない』(2016)では、移動する身体が呼び込んだ感情や体感と、深い知性に裏打ちされた思索とが接点を求め、時に共鳴し、時に軋みあいながら、和田独自の一致点を求めてうごめいているように思われた。

 今年の夏(20187月)に刊行された『軸足をずらす』では、精神が一歩先に出て、一致しようとする身体をむしろ後ろへ、後ろへと脱ぎ捨てて行こうとしているようにみえる。それにしても、軸足をずらす、とは、ユニークな題名である。軸足を、どこから、いずこへずらすのか。ずらすことで得られる、新たな地平とはどのようなものだろうか。試みに“身体”、“アジア”、そして“ニンゲン”をキーワードとして探っていきたい。

 

 詩集は「極上の秋」という作品から始まる。冒頭と後半を引用する。

 

 シュウメイギクが咲いている団地の

 角を曲がった、その角を

 同じ角度であとから曲がる人がいて

 真似られているから

 今日のわたしを一枚めくる

 もともとはがれやすい皮でできている

 おはじきのようにからだじゅうに散らばった感情が

 ひとつに集合し、かたまりのなかで

 じぶんと親密になる

 (中略)

 もう、ここに用はない

 理由があってもなくても

 靴底は新しい

 行きなさいと声がする

 角を曲がって

 にんげんが逆さに立っている野原まで

 (以下略)

シュウメイギクがもたらす晴朗な秋の気配の中を、〈用はない〉と言い切り、〈わたし〉は颯爽と歩いていく。今、居る場所から、歩み去ることから始まる詩集なのだ。皮をめくる、という身体感覚に即した表現や、〈おはじきのように〉という手触りのある鮮やかな比喩が、千々に思い乱れて自ら進路を取りかねているような心の状態を、的確に言葉に変換していく。まるで被膜のように肌を覆う過去の〈わたし〉、〈今日のわたし〉を脱ぎ捨てて、まっさらな身体で明日へと歩いていく、そんな決意が感じられる。

 〈わたし〉を取り巻く世界との軋轢・・・折り合いをつけるストレスや、他者の思惑への気遣い、人間関係のしがらみから逃れられない、今の〈わたし〉の思考回路をサッパリと脱ぎ捨て、ハンカチの上に拡げたおはじきをザーッとひとまとめに包み込むように、自分の気持ちをしっかりとホールドすることが出来たらきっと、晴れ渡る秋空のような心地がするに相違ない。続く作品にも〈昨日の雨が洗い流したから/欲望/沈滞/憂鬱/どれもわたしの身体を離れるだろう〉というフレーズがある。〈わたし〉は気持ちの“断捨離”を行おうとしているのだ。

 冒頭に現れる、角を曲がる〈わたし〉と〈同じ角度であとから曲がる人〉とは、何者だろう。〈わたし〉と同じ道を歩もうとする人と読むなら、〈じぶん〉はあえて一人の進路を選ぶ、という選択でもあるだろう。気持ちが先に立って、身体が後から付いてくるような時のもう一人の〈わたし〉と読んでみたい気もする。いずれにせよ、独立独歩の道を行こうとする〈わたし〉の歩行を促すのは、他ならぬ〈じぶん〉、つまり、〈わたし〉の精神、〈わたし〉の意志なのである。この孤独な歩行は、〈にんげんが逆さに立っている〉ような、今までの価値観が逆転するような場所、人間とはかくあるべし、というような既成概念が存在しないような地平に〈わたし〉を導くかもしれない。タイトル作品「軸足をずらす」の最後は、〈いい人だと思われなくてもいい/いつの間にかこの世にいたが/どこかに軸足をずらす/さみしい方へ傾斜するのだ〉と締めくくられる。独立独歩の歩行は、〈さみしい方〉を選ぶ、という選択でもある。

 一つ目のキーワードに“身体”を挙げた。巷間にある身体、様々な関係から逃れられない社会的身体としての肉体から、孤独な精神の歩みに重心を移すこと。〈軸足をずらす〉という試みのもたらす自由が、そこにある。

 

 二つ目のキーワード“アジア”は、「軸足をずらす」や「乗り越える」「苔玉」に現れる。アジア、と聞いた時に思い浮かべるのは、まずは東アジアから東南アジア、西アジアにかけての広い範囲の“外国”であろう。〈逃げるときは/そしらぬふうに/ゆっくりと歩く/混雑しているアジア/みんなが追っ手の目つきで並び/左右にからだを揺らして動く…平べったいからだになって/参道の流れに乗る〉(「軸足をずらす」)ここでは国名が明示されていないので、外国を訪れた時の体感の可能性が残る。しかし、〈アジアは満杯で/逃げ場を探す人たち/血がしたたる傷口が/東南アジアの地図上のどこにもあって/弟が飲み込まれていく〉と綴る「乗り越える」では、〈富士見通りの敷石〉や〈国立(くにたち)メガネ店〉と、明確に日本の固有名が登場する。「苔玉」では〈待ち合わせの鉄道の改札口の位置を探り当てられて/そこにアジアを混乱に陥れようとする人たちが迫り/またしても魚見橋のたもとで/行き場を失くした〉と、日本の橋の名前が出て来る。この魚見橋は、川崎市多摩区にある実際の橋の名称だろう。冒頭の詩「極上の秋」に登場する、〈五反田川〉に架かる橋である。〈わたし〉がいるのは日本という国、という通常の概念をいったん捨てて、〈アジア〉という広範な場所の中の一地点、という視点に、〈軸足をずら〉しているの日本、という枠組み、日本という構造・・・日本の中で生まれ育ったがゆえに染み付いている思考回路や既成概念の檻から逃れ、自在な視点を得るために、あえて外部に出る、外部から見る、という試み。〈わたし〉はアジアの一部でもある日本、と見ることによって、自身を客体化しているのである。

 〈混雑しているアジア〉、人で満杯の〈アジア〉は、〈わたし〉が生きるには息苦しい場所であるらしい。新たな視点を獲得した〈わたし〉が見出す〈じぶん〉の姿、〈じぶん〉の体感を見て行こう。

〈とても濃い世間に/息があがって/川の魚が口をぱくぱくしているから/人といると呼吸を整えられなくて/ときどき顔を背ける〉(「軸足をずらす」)(※〈川の魚が口をぱくぱくしているから〉という挿入句も面白い表現である。川の魚のように、という直喩を避けたのだろうが、苦し気な魚を見た瞬間、自身がその身に同化しているゆえの表現とも取れる。この、別種のものに“なる”ことについては、また後に触れる。)

〈結論を急ぐ人たちに囲まれて/姿勢を正し/人の目を見て話す/それだけのことができない〉(「突入する」)

〈世の中はあらゆることが二者択一で…二十四時間人間でいることを求められる/人間が過剰だ//アジアは満杯で/逃げ場を探す人たち~〉(「乗り越える」)

〈どのシステムでも人間は最後尾にいて/足踏みをさせられている/あるいは指に熱中して/時間を忘れさせられている〉(「生きやすい路線」)(※指が触れているのは、スマホの画面と思しい。)

〈わたしは耐えているのだろうか/いい人になるためにしなければならないさまざまなこと/世の中への参加の仕方/過ぎ去った時間の忘れ方〉(「戸が叩かれ」)

 同調圧力が強く、空気を読むことが求められ、人と呼吸を合わせること、和を乱さないことが強く求められる傾向のある、日本。自己主張を抑え、群衆に身をゆだねることが〈人間〉だというなら・・・〈人間〉とは無言で社会の為に作動する、歯車の一部、部品の一部と、どこが異なるというのだろう。和田が「極上の秋」で記した平仮名の〈にんげん〉が、〈人間〉の理想的な姿であるとするなら、〈ニンゲン〉は社会の型枠に嵌め込まれ、息を殺して生きのびることに何の疑問も感じなくなってしまった、機械のように感情を失ってしまった〈人間〉のことに相違ない。

 

 第三のキーワード“ニンゲン”は、二篇の詩に登場する。

〈体温を測ったり/身長を測ったり/人との距離を測ったり/ニンゲンは測るものが多くて/ますます生者から遠のき〉(「上手くふさいでくれる唇」)ここでは、数値ばかりを追い求め、“にんげんらしさ”を失ってしまった〈人間〉が、〈ニンゲン〉に化している。

「石を嗅ぐ」では〈部屋はニンゲンの酸っぱいにおいで充満しているので/外に出て/見上げると/屋根は二枚の袖のかたちをしている/その上は空だ/人はあふれて/住むところを探している/郊外では/屋根の傾斜が急で/ニンゲンはそれぞれの屈折角度で滑り落ちていく/すると地上の悲嘆は着物のように折り畳まれて/空の箪笥にしまわれる〉というように、空が自ら袖を広げているような大きな視野の中で、人心地を取り戻せる居場所を探し続けるたくさんの人々、ラッシュアワーの通勤地獄や企業の効率主義によって人間性を奪われ、悲嘆を訴えることもままならず〈ニンゲン〉と化していく、郊外のベッドタウンの住人達が描かれている。

 第四のキーワードとして、人間でないものに成る、という願望を挙げても良かったかもしれないが、人間、あるいは人、に合わせていくことも辛い、ニンゲンには成りたくない、出来れば〈にんげん〉のままでいたい・・・それが〈わたし〉の願い、として包括できるので、項目としては挙げなかった。『なりたい わたし』の余韻が、ここにも響いている、と言えばよいだろうか。

 やわらかな餅が切り頃になって、切断を始めた母に〈ねえ、おかあさん/それ、にんげんの腕だよ〉と語りかける「のし餅」を読むと、やわらかなまとまりの状態、不定形でどんな形にでも成り得る状態が〈にんげん〉で、規律正しく切断され、整えられていくことが〈人間〉もしくは〈ニンゲン〉になっていくことだ、と和田が考えていることがわかる。自らが芽吹く野山そのものになっていくような「内藤橋」には、〈ココロをコトバに変えないで/人と接したい〉という願いが綴られている。「石を嗅ぐ」には、〈明るい草がなびいている野原に/分身を/見つけに行く〉というフレーズが現れる。「新聞になる」は言葉を運ぶ紙面そのものに成って読まれ、滅びていきたい、という願望であり、続いて置かれた「溺れる」は、一尾の魚、それも切り身となって〈人の腹に収まりたい〉という究極の夢想が展開される。詩人としての最終的な願いは、気持ちや想いをそのまま他者に伝え、そのままに消費されてしまうこと、味わい尽くしてもらうこと、であるのかもしれない。

〈みっともないことも少ししたが/ことばでもからだでもないところが/すばらしい速度で/成長している…いまはただのにんげんのくずになろうとも/まだ新しい一ページを開こうとしている/路線バスからの眺め/きっと美しい〉(「生きやすい路線」)

 〈軸足をずらす〉ことによって得た、一人の自由と、さみしさへの傾斜。大勢の人が乗り込む高速バスではなく、客もまばらな路線バスに乗ることを選んだ詩人は、こころの・・・魂の成長を、確かに感じているに相違ない。彫刻家の舟越保武が以前、美しいものがあるのではない、美しいと感じる心があるのだ、という意味のことを語っていた。〈路線バスからの眺め〉が、確かに美しい、と感じ取れるようになったとき、和田まさ子は“ほんとうのにんげん”になるのだろう。その時に生まれる詩は、さらに素晴らしいものであるに相違ない。

 

 装幀もさりげないが意匠がこらされている。打ちっぱなしのコンクリート壁のような無機質で冷たい質感を、リトグラフのような描画で写し取ることによって温もりに変えた表紙カバー。ほのかに光がさした天然石のような肌合いは、和紙の風合いを持つ紙質によるものだろう。見返しにもニュアンスのあるトレーシングペーパーを用いて、光を添えている。装幀、組版は詩人の岡本啓。

『軸足をずらす』2018.7月 思潮社刊

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# by yumiko_aoki_4649 | 2018-08-23 12:17 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

鷲谷みどり 詩集『標本づくり』書評(『詩と思想』6月号掲載記事より抜粋)


優れた詩集に出会うたびに、人の持つ奥行きの深さ、創作という行為の広範な広がりに瞠目する。「現代詩」の修辞的技法は既に飽和状態に至りつつあるのかもしれないが、その用い方、組み合わせ方の多様さや斬新さに驚く。そして、その驚きを誘発するものこそ、作者個々人の内的世界の豊かさ、かけがえのなさなのであると、改めて認識する。


作者の選び取った言葉を介して、絵画のようにイメージが展開していったり、映像作品のようにさらにそれが動いていく詩集があり、言葉の響きが次々と新たなイメージを呼び込みながら、万華鏡のように移り変わって未知の世界を見せてくれる詩集がある。今、わたしが「ここ」にあること、その意味をまっすぐに、あるいは迂回しながら問いかけて来る詩集、現代社会をドキュメンタリーのように切り取りながら、表層を剥ぎ取り、背後に蠢く人間の欲望を暴き出していく詩集、見慣れた日常に秘められた美しさを偏光顕微鏡のように露わにする詩集がある。経験から滲みだすユーモア、心の鍛錬が磨き上げた思想、同時代に生きる人々や過去の歴史への眼差しが促す深い反省。「100人の詩人・100冊の詩集」を読みながら、その多彩な色彩に触れていきたい。


鷲谷みどり『標本づくり』は、今年度(68回)H氏賞候補に会員投票でトップノミネートされた詩集。夢や記憶、自意識といった〝とらえどころのないもの〟に〈かたち〉を与える詩情や意識の働きを、透明感のある筆致で捉えた秀作である。


動物園やサーカス、水棲植物園などがモチーフとなる一章は、不思議な静寂に満ちている。〈夜のしずく〉のしたたりの中から現れ出る、フラミンゴや鳥たち、象、あるいはサーカスの猛獣のイメージ。〈私の仕事は〉〈とうめいな一日の隙間に/いきものたちが 潜り込んでいかないように/見張ること〉(鳥小屋)、〈今日のけもののいのちの範囲を/手さぐりで整えていくこと〉(猛獣使い)なのだが、たとえば〈象のかたちが 整っていけばいくほど/自分の網み目が ゆるんでいくような夜/私は ふと/象のほんとうのかたちを/知らないことに気付く〉(象使い)。象を像と読み替えることも可能かもしれない。鳥のような、猛獣のような性質を帯びた〝何か″のイデアとして現れ出るものに、〈かたち〉を与えること。それは、名付け得ないものに見合う言葉を求め、意識によって捉え得るものとする行為である。漠然とした夢に〈かたち〉が与えられたとき、そのイメージは息づき始める。〈私〉の中でいのちを持った〈いきものたち〉を見守る〈私〉の視線は、自身の〈りんかく〉の曖昧さへと向かう。


昨日の私が、明日の私へと続いていくこと、その保証は自らの記憶の内にしか存在しない。しかしその記憶は、小さな刺激でほつれていく編地のように頼りないものに過ぎない。この確かなようでいて曖昧な〈私〉の存続という哲学的な命題に、鷲谷は豊かな想像力(ファンタジー)と蝕知的なイメージを介してしなやかに向きあ。夜毎に花のように閉じられるの意識が再び広げられるとき、その白い折り目に溜まっ(魚の夢)のイメージは鮮烈である。鷲谷の底にある井戸は、こうして夜ごとに滴る詩情を汲み上げる水脈となる


もう一人の私を夢想し、あるいは有り得たかもしれない私の〈標本〉を作り上げるかのような繊細な手つきで記された二章は、記憶の中の私、早逝したらしい姉の姿に重なっていく私、想像力が作り出したかもしれないもう一人の私を、こけしや張り子の人形、あみぐるみ、刺繍などの手仕事のイメージを介在させながら、情感豊かに追っていく。〈かたち〉を持った時から、〈死〉への逃れようもない道程に置かれることになる〈いきもの〉の宿命。生の一瞬の輝きを持ち帰り、ひとつの〈かたち〉へと再構成していく「標本づくり」とは、曖昧なイメージに〈かたち〉を与え、記憶の断片を物語に再編していく詩作のアナロジーでもある。


函館出身の鷲谷ならではの冬や雪の捉え方も魅力的だ。雪男や雪女を独自に捉え直し、〈いのち〉や〈かたち〉についての詩想を展開していく。全篇を通じて、卓抜な比喩が理智と詩情とを巧みに結びつけている。


装幀も美しい。白地に砕け散るガラスの破片、その向こうに伸びる、繊細なトンボの翅脈。高島鯉水子によるデザインは、詩集の情感を見事に形象化している。


(『詩と思想』2018年6月号「100人の詩人・100冊の詩集」を読む19 より)

※ブログにアップする際、自動的に字体が変化してしまうようです。修正を試みましたがうまくいかないので、そのままにしてあります。

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# by yumiko_aoki_4649 | 2018-08-20 09:05 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
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