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伊東静雄を聴く 鈴木亨の覚書より

伊東静雄を聴く   鈴木亨の覚書より

 縁あって清里の文芸誌『ぜぴゅろす』を取り寄せた。創刊号(2007年)のコラムに「鈴木亨さんが昨年12月9日永眠された。伊東静雄を顧問とし西垣脩、小山弘一郎、芥川比呂志らと同人誌「山の樹」(後に中村真一郎、小山正孝らも参加)を刊行・・・堀辰雄の「四季」の編集を手伝うなど・・・葬儀には小生も参列した」(桜井節)とある。折しも鈴木亨評論集『少年聖歌隊』を読み始めたところで、奇遇に驚きつつ、西風に押されながら鈴木亨の言葉を辿ることになった。
 鈴木亨が伊東静雄と出会ったのは、慶応に入学して間もない頃の事である。当時、詩を通じて交流を深めていた西垣脩に連れられて、西垣の中学担任であった伊東静雄を大阪に訪ねたことが発端であった。
 昭和39年の『本』8号に、鈴木亨が当時の思い出を記している。「三畳間の先生の書斎で、ぼくらは奇警にして峻烈なお話に耳を傾けながら、時の経つのを忘れた・・・そんなときの先生はきまって和服の着流しで、高校生ないし大学予科生のぼくらに、端座して相対された。」静雄の人柄まで偲ばせるような、見事な描写である。静雄は、 「作品が成ると、これを大書して壁にはり、日夜これをながめて口ずさみ、効果を確かめつつ自ら楽しんでいた」(桑原武夫)というが、鈴木亨はその「口ずさみ」を「低唱微吟」と称して書き残している。
「あの調べはリード風とでも称すべきものであろうか・・・けっして即興の出まかせといった態のものではなかった。練りに練り上げた、完成品であった・・・基調は一つでも、作品ごとに独自の曲節がつけられていて・・・耳にした調べのうちのいくつかは・・・今でも自分でほぼ復元できる・・・あの節々だけはいまに耳底にさやかなのは、どういうわけなのであろう。とまれそれほどに鮮烈な印象を相手に刻印せずにはやまぬもので・・・それを奏するなら、日本楽器なら琴であろうが、やはり洋楽器の方がふさわしい。調子のやや繊めな弦楽器、あるいはピアノなど。トレモロを利かし、三連音を多用した、そんな瀟洒なものである」察するに、ドイツリートのような、柔らかく重い調べのつぶやきであったようである。(御詠歌の様だった、と語る人もいる。)鈴木亨の記憶に残る「曲目」をいくつか拾ってみる。
「私が愛し/そのため私につらいひとに/太陽が幸福にする/未知の野の彼方を信ぜしめよ/そして/真白い花を私の憩ひに咲かしめよ・・・」(冷たい場所で)
「門(かど)の外(と)の ひかりまぶしき 高きところに 在りて 一羽/燕ぞ鳴く/単調にして するどく 翳(かげり)なく・・・いく夜凌(しの)げる 夜の闇と/羽うちたたきし 繁き海波(かいは)を 物語らず・・・」(燕)
「いちばん早い星が 空にかがやき出す刹那は どんなふうだらう・・・いまわたしが仰見るのは揺れさだまつた星の宿りだ・・・いつのまにか地を覆うた 六月の夜の闇の余りの深さに 驚いて・・・あの真暗な湿地の葦は その時 きつと人の耳へと/とほく鳴りはじめたのだ」(夜の葦)
 現実を越えて、心の曠野とでも言うべき孤寂の広がりを示す静雄の世界、苦闘を語ることなくただ鋭く、生の輝きを示す生き物への讃嘆、あるいは忍び寄る時代の暗雲の予感を暗示させる部分を引いた。静雄が繰り返し歌い、鈴木亨の記憶にもしかと刻まれたという「曲目」は、とりわけ静雄が気に入っていたもの、成功した、と自ら思い定めていたものとみてよいだろう。それらが、恐らくはバリトンの声音で丁寧に歌われる様が、耳の底によみがえる。
 昭和14年、静雄は春の休暇で上京していた。3月末とはいえ、夜来の雪の残る春寒の日、萩原朔太郎を訪問するから一緒に来てくれ、と頼まれた鈴木亨は、ガランとした安宿で、火鉢一つを挟んで静雄と対峙する。
「立原、きのう死にました。詩ができたので、聞いて下さい」
いつものように端座する静雄が、低く柔らかく歌いだす。
「冬は過ぎぬ 冬は過ぎぬ。匂ひやかなる沫(あわ)雪(ゆき)の/今朝わが庭にふりつみぬ・・・そは早き春の花よりもあたたかし・・・さなり やがてまた野いばらは野に咲き満たむ。さまざまなる木草の花は咲きつがむ ああ その/まつたきひかりの日にわが往きてうたはむは何処(いずこ)の野べ・・・いな いな・・・耳傾けよ。/はや庭をめぐりて競ひおつる樹々のしづくの/雪解けのせはしき歌はいま汝をぞうたふ」(沫雪)
立原の死を嘆く、というよりは、彼の生が自然の息吹の中に混然と溶け入り、その歌が自然の事象の中で立ち昇り蘇ることを祈り願う、慈愛に満ちた詩句である。
日本の近代詩史の源流は、安土桃山以来日本に流入し、当世の歌謡の韻律を取り入れて醸成され、明治に開花した聖歌の韻律や、『新体詩抄』に先駆けて生まれた小学唱歌に遡る、とする鈴木亨の卓見は、文字として書かれた言葉よりも、肉声への憧憬に根差しているように思われる。晩年、「歌謡史話会」というサークルの指導に当たっていたことからもわかるように、生涯を通じて鈴木亨は歌と共にあった。彼の胸の内に、若き日に刻まれた静雄の歌声が、通奏低音のように響き続けていたような気がしてならない。

POCULA17号
by yumiko_aoki_4649 | 2014-09-11 15:19 | 伊東静雄
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by まりも
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