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伊東静雄ノート 1

伊東静雄は、明治三九年(一九〇六年)、諫早に生まれた詩人である。日露戦争終結の翌年に生まれ、大正から昭和初期の、欧米文化が積極的に受容された時期に青春期を過ごしたことになる。表紙に自ら「詩へのかどで」と大書し、〈思索ハ自己の世界ヲ発見セントスル努力デアリ 創作ハ自己の世界の創造デアル〉という言葉から始まる「日記」を記し始めたのは、大正末期、旧制佐賀高等学校に在学中の十七~八歳頃。その後、京都帝国大学国文科を経て、大阪府立住吉中学校に教師として就職する。

静雄が詩を同人誌などに発表するようになった時期は、満州事変(昭和六年/一九三一年)が勃発し、日本が十五年戦争に突き進んでいく時代とまさに重なっていた。終戦後に編まれた『反響』は、冒頭に終戦直後に生まれた詩を配し、その後、自らの詩作の歩みを振り返るように既刊の三冊から自選した詩を配しているが、それは、十五年戦争期の日本を詩人として生きた者の、自己の世界の発見と創造(あるいは、その頓挫)の記録である、とは言えまいか。当然のことながら、自閉的な内向によってのみ、詩人は自己の世界を作り上げるものではない。むしろ、外部からの絶えざる刺激によって生み出される心の波立ちが生み出す軌跡が、詩人の内部世界を作り上げていくものであることを考えたとき、詩人の内部世界に分け入っていくことは、彼を取り巻いていた時代を、彼の感官を通じて逆照射することにもなるだろう。

詩集『反響』の冒頭に置かれた〈これ等は何の反響やら〉という謎めいたエピグラフが意味するものは何か。それは、静雄の内に響いていた、戦中期の自己の精神の咆哮ではないのか。

この時代を代表する詩人の一人として静雄の精神世界を振り返り、戦中期に生きた一人の詩人の内部宇宙に響いた反響を、その木魂を、今の〝私″の内に蘇らせてみたい。想起(アナムネーシス)は、再びその〝時″を生きて味わうことでもある。先学の援けを借りながら、一作ずつ、静雄の詩を味読していきたいと思う。


春浅き

あゝ(くら)と まみひそめ

をさなきものの

(しつ)に入りくる

いつ暮れし

机のほとり

ひぢつきてわれ幾刻(いくとき)をありけむ

ひとりして摘みけりと

ほこりがほ子が差しいだす

あはれ野の草の一握り

その花の名をいへといふなり

わが子よかの野の上は

なほひかりありしや

目とむれば

げに花ともいへぬ

()けり

春浅き雑草の

固くいとちさき

()ににたる花の(かず)なり

名をいへと(なれ)はせがめど

いかにせむ

ちちは知らざり

すべなしや

わが子よ さなりこは

しろ花 黄い花とぞいふ

そをききて点頭(うなづ)ける

をさなきものの

あはれなるこころ足らひは

しろばな きいばな

こゑ高くうたになしつつ

走りさる ははのゐる(くりや)(かた)


初出は昭和十六年、雑誌『四季』五七号。昭和十八年に刊行された詩集『春のいそぎ』に収められ、のちに『反響』にも収載された作品である。

 難しいところは何一つない。さりげなく書かれているので、読み過ごす人も多いかもしれない。けれども、父と子、親世代と子世代、そして、詩人と詩作を促すもの、という三つの層から見ていくとき、この詩は当時の静雄の心境が最もよく表れた一作であると思う。

 冒頭、暗い室内に、早春の夕刻の冷気と共に一条の光が差して、幼い子供が室内に入ってくる。父である静雄は、昼間から何事かを思い煩い、いつ夕刻になったのかも気づかぬほど、ぼんやりとうつつを忘れて座り呆けている。その精神の眠りを目覚めさせるように現れる幼子は、誇らしげに顔を上気させて、背後に戸外の光を負いながら、このお花、ひとりで摘んだの。このお花の名前を教えて、とせがむ。

実に似たる花、とは、まだつぼみのハルジオンだろうか。白と黄色が見えているのであるから、あるいは咲き初めのハハコグサであったかもしれない。静雄は、実際にこの花の名を知らなかったのか、それとも、その花の本質を告げる名を「知らない」ということなのか。とにかく、「父」は困り果てる。すべなし、とはいかにも大げさであるが、それほどに静雄は追い詰められている。観念して、これは、しろ花 黄い花、とあてずっぽうの名を教えると、子供は全く疑うことなく、満足気に〈しろばな きいばな〉と作り歌を歌いながら、台所の方へ駆けていく。太平洋戦争の始まる前夜ではあるが、まだ庶民の生活は、さほど逼迫してはいなかっただろう。質素ながらも温かい夕餉の匂いが、冷気と共に静雄のもとにも漂ってきていたに相違ない。母が忙しく立ち働く台所の方へ、パタパタと走っていく子供の足音。静雄は暮れなずんでいく部屋の中で、一人静かに、その音を聞いている。

 当時、静雄の家は堺市の三国ヶ丘丘陵にあった。雑誌『コギト』(昭和十五年五月 九五号)に、静雄は以下のような文章を寄せている。〈この家は、丘陵上にあるうへに……西風が烈しくあたり、殊に冬の間は、夜も眠り難い程にゆれることが多い……また、そんな冬から、一、二度の淡い雪を経て、早春の来る美しさも、ここではっきり見たと思ふ。

 大阪の家で生れた女の子が、この家で段々大きくなった。閑暇の全部を、この子と遊んでゐるうちに、私はこのごろ、この女の子のために、一冊の童謡集を作ってやりたい気持ちになつてゐる。〉

 「春浅き」の中に登場する「幼き者」は、当時四~五歳の長女。生命力の塊のような、明るく笑い、でたらめ歌を歌う愛娘を見つめながら、静雄は〈わが子よ/かの野の上はなほひかりありしや〉と優しく美しい響きの文語で問いかける。詠嘆の調子で留められた静雄の想いは、いかなるものであったか。

この〈ひかり〉とは、もちろん夕刻の光であり、字義どおりに読めば、お前のいた野原の上は、まだ明るかったかい、という問いかけに過ぎない。しかし、時代の暗雲を察知していた「父」の問いかけであることを考えるとき、まだ、お前のいる場所の上には、希望の光は残されているか、という象徴的な意味を持つ〈ひかり〉であり、文語の持つささやくような響きは、〈ひかり〉が子供の上にはせめて在り続けてほしい、と願う祈りであるように感じられてくる。寒風吹きすさぶ厳しい冬を過ぎて、早春の野に訪れた春の兆しを、いち早く見つけて摘み取ってきた幼い娘。娘は、その春の兆しを〈暗〉い部屋にいる詩人にもたらし、その花に、名付けよ、と迫る天使のような存在でもある。

「春浅き」の発表と同年の一月に『文芸』に発表された「わが家はいよいよ小さし」には、当時の静雄を捉えていた不安が、漠然と暗示されている。


(みみ)(はら)の三つのみささぎつらぬる岡の()の草

ことごとく黄とくれなゐに燃ゆれば

わが(いへ)はいよいよ()さし そを出でてわれの

あゆむ時多し

うつくしき日和つきむとし

おほかたは稲穂刈られぬ

もの音絶へし岡べは

ただうごかぬ雲を仰ぐべかり

岡をおりつつふと足とどむるとある枯れし園生

落葉まじりて幾株の小菊

知らまほし

そは秋におくれし花か さては冬越す菊か


耳原の三つのみささぎ、とは、当時の静雄の家から南方に臨まれた、百舌鳥(もずの)(みみ)(はら)の三つの古墳群。燃え盛る草紅葉の中、我が家はいよいよ小さく、はかない存在に思えてくる。詩人は思いにふけりながら散策することが多くなるうつくしき日和は尽きようとしている。落ち葉の中に咲く小菊は、秋に咲き遅れた名残の菊か、あるいは、これから訪れる厳しい冬を、乗り越えて咲き続ける菊なのか。私はどうしてもそのことが知りたい……秋に遅れた菊ならば、すでに命運は尽き、あとは枯れるだけの花である。冬を越す菊ならば、まだ生き延びる希望が残されている燃えるような草紅葉に囲まれたみささぎ、落ち葉の中の……いずれも天皇家ゆかりの言葉である。菊の命運を問うとは、当時の庶民にとっては、日本の命運を暗に問うことであった、という推測にもいざなわれる。

「春浅き」と共に詩集『春のいそぎ』に収録された、当時の心境を示す作品を、もう一点挙げたい。同年六月に『コギト』一〇七号に掲載された「山村遊行」は、東洋の水墨画を思わせる標題、〈ユーカリ〉の響きの醸し出す西欧のムード、静雄が好きだったというアルプスの画家セガンティーニを想起させる〈ひかる〉山肌、さくらや卯の花、山吹の花が喚起する、美しい日本の山里のイメージがないまぜになった、なんとも不思議な、桃源郷のような村の描写から始まる。


しづかなる村に来れるかな 高きユーカリ樹の

香ぐはしくしろき葉をひるがへせる風は

はやさくらの花を散らしをはり

枝にのこりてうす赤き萼のいろのゆかしや

迫れる山の斜面は 大いなる岩くづされてひかる見ゆ

その切石のはこばれし広き庭々に

しづかなる人らおのがじし物のかたちを刻みゐて

卯の花と山吹のはなと明るし

ふくれたる腹垂れしふぐり おもしろき獣のかたちも

ふたつ三つ立ちてあり


ここにも、白と黄色の花が咲いている。明るい、花盛りの村の〈広き庭々〉で、思い思いの〈物のかたちを刻みゐ〉る、〈しづかなる〉人々。〈ひかる〉切石とは、大理石のように断面が白くきらめく石であろう。切石が運ばれてきた広場で、思い思いの形を刻む、という一節は、石像を彫る人々の姿を想起させる。リルケを愛読していた静雄は、リルケのロダン論を読んでいただろうか。物の形を刻むとは、イメージを作り出す詩人や画家の行為のアナロジーにも思われてくる。そうであるならば、この桃源郷のような村は、芸術家の集う場所なのだろうか。静雄の心の中だけにある、イメージの原型を切り出す採掘場であり、それを〈かたち〉に仕上げる人々が住まう、美と平和に満たされた場所。信楽焼の狸のような、どこかユーモラスな〈かたち〉を刻んでいる人もいるのが楽しい。


あゝいかにひさしき かかる村にぞかかる人らと

世をあり()なむわが夢

あゝいかにひさしき 黄いろき塵の舞ひあがる

巷に(から)くいきづきて

あはれめや

わが歌は漠たる憤りとするどき悲しみをかくしたり

なづな花さける道をたどりつつ

家の戸の口にはられししるしを見れば

若者らいさましくみ戦に出で立ちてここだくも命ちりける

手にふるるはな摘みゆきわがこころなほかり


長いこと、こんな村に暮らすことを夢見ていたのに、実際には塵の舞い上がる巷間にからくも生きている。私の歌は、漠たる憤りと鋭い悲しみを隠すものと成ってしまった……ここで、恐らく夢想世界の遊行は終わる。ナヅナの咲く現実の野道を静雄は歩いている。家々の戸口には、こんなにもたくさん、若者が戦死したという印が貼られている。怒りと悲しみをどうすることもできない私は、せめて手に触れる野花を摘み、心を鎮めるほかはない……。

〈ここだく〉と、いきなり上代古語が出てきて驚かされるが、迸る想いが、時代を遡行する語を選ばせたのかもしれない。未来ある若者の戦死が、教師でもある静雄にとっては何よりも悲しく、やり場のない憤りだったのではないだろうか。〈摘みゆき〉〈なほかり〉と韻を踏むように歌われる終行には、野花を摘む、という行為への深い想いが秘められているように思う。

「山村遊行」に先立つ二年前、静雄の代表作とされる「そんなに凝視めるな」が雑誌『知性』に発表されているが、そこに現れる〈白い(かど)(いし)のイメージ、手に触れる野花を摘んで歩みゆくという行為が、この詩の中でも繰り返されていることに留意したい。「山村遊行」は、抽象度の高い「そんなに凝視めるな」を、より具体的な景の中で再現して見せた、ある種のヴァリエーションだと言えるのかもしれない。この点については、また改めて考えることにして、今は「春浅き」に話を戻す。

詩人は何よりもまず、一人の「父」であった。大戦のさなかに生まれた長男の将来を憂い、〈戦争中には、その子の顔見るごとに、あゝこの子だけは死なせたくないと切に思ひました〉(昭和二〇年十一月 酒井百合子宛書簡)と、率直な心情を明かしてもいる。

幼子によって差し出された、白と黄色、光を暗示する色彩を持つ素朴な一握りの野花。幼子の上にいつまでも光があることを願う父の想いと、差し出された野花を「名付ける」という行為を成すことによって、暗い物思いに沈む〈われ〉から、幼子の未来へと思いを馳せる〝詩人″へと移行した〝私″。それはたとえ仮初のものであっても、詩を綴る、という行為が祈りとつながった瞬間ではなかったか。

野の上は なほ ひかりありしや……この美しい一節に触れるたび、光あれ、と願う静雄の強い願いが心中に響いてやまない。

『千年樹』64号 201511

 ※〈引用文〉、「作品名・強調」、『書名』の別で表記。旧漢字は当用漢字に改めた。 


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by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 20:55 | 伊東静雄 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


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