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伊東静雄ノート 2

前号で採り上げた「春浅き」「わが家はいよいよ小さし」「山村遊行」は、一見すると庶民のささやかな生活や、詩人の内面の夢想世界が描かれているに過ぎないが、一歩そのうちに踏み入ってみると、ごく平穏な小市民の生活を脅かす不安が暗示され、若人が多数、兵士として散っていくことへの密かな悲憤があり、我が子の将来に重なる日本の命運に対する祈りにも似た感情が、静かにつづられている作品だった。この三点はいずれも開戦の年に発表されている。開戦は十二月だから、それを知る前に作詩されていたことになる。

日中戦争は既に始まっている。海外の文化や政治にも貪欲な知識欲を有していた静雄は、日本が全面的に戦争状態に入ることも予見していたように思われる。

昭和十四年九月一日、ヒトラーのポーランド侵攻の報を受けて〈思索ばかりで行動なきものは発狂す……自分の頭脳では果して戦争に堪へるだらうか〉と率直な不安を日記に記した静雄は、翌年の十月、「夏の終」を発表する。それは近衛内閣下で大政翼賛会が結成された月でもあった。(初出時は「夏の終り」)


月の出にはまだ()があるらしかつた

海上には幾重(いくへ)にもくらい雲があつた

そして雲のないところどころはしろく光つてみえた

そこでは風と波とがはげしく揉み合つてゐた

それは風が無性に波をおひ立ててゐるとも

また波が身体(からだ)風にぶつつけてゐるとも思へた

掛茶屋のお内儀(かみ)は疲れてゐるらしかつた

その顔はま向きにくらい海をながめ入つてゐたが

それは(ぼん)やり床几にすわつてゐるのだつた

同じやうに永い間わたしも呆やりすわつてゐた

わたしは疲れてゐるわけではなかつた

海に向かつてしかし心はさうあるよりほかはなかつた

そんなことは皆どうでもよいのだつた

ただ壮大なものが(しづ)かに傾いてゐるのであつた

そしてときどき吹きつける砂が脚に痛かつた


今にも嵐が起きようとする海のうねり、風の荒ぶり、吹き付けて来る砂の痛み。小さく鋭い痛みが予感させるものは何か。海を鎮めるすべはない。絶対的な無力感の中で、小さくともくっきりとした痛みを感じながら「終わり」を予感している詩人。そこには、虚無感に深く苛まれながら、時代の様相を書きとっていく他にすべのない、自身の無力感が投影されていよう。

 一時はマルクス主義に興味を抱き、小林多喜二なども執筆していた『戦旗』を購読していたことが知られるものの、静雄は行動する思想家ではなかった。

昭和四年の時点で、〈インテリゲンチヤの悩みは、唯物史観そのものの中に理論的矛盾を発見することによつておこるのではなく、頭は唯物史観を肯定しながらもヘルツ(ハート)が云ふことをきかない憂鬱なんですね……革命的情熱を持てぬ我々には頭でだけ肯定される。そして熱情的な革命理論が、熱情なしに理解される時、それが虚無的色彩を、然も破かいされたあとに茫然とたちすくんで、過ぎゆく白雲をながめる様な虚無を我々に感ぜしむるのですね〉(一二月二一日宮本新治あて書簡)と記しているが、青空を過ぎ行く白雲のような、どこか開放的な虚無感が印象に残る。およそ十年後の「夏の終り」において、詩人の世界を覆い尽くす黒雲となって、濃厚に押し寄せて来る体感的な不安との落差は大きい。

静雄が初めて詩作品「空の浴槽」を詩誌に公表するのは、宮本宛書簡を記した翌年の昭和五年。頭では理解し得ても、ヘルツ(心)が捉えきれない漠たる不安や虚無感を表現したいという想いが、静雄に詩の公表に踏み切る一つの契機を与えたのではあるまいか。「春浅き」の中に、薄暗い部屋の中で物思いにふける詩人の姿が描かれているが、『春のいそぎ』よりもう一篇、憂愁に沈む詩人の姿をとらえた詩を引こう。 

 

 なかぞらのいづこより

なかぞらのいづこより吹きくる風ならむ

わが(いへ)の屋根もひかりをらむ

ひそやかに音変ふるひねもすの風の(うしほ)

 

春寒むのひゆる書斎に (しよ)よむにあらず

物かくとにもあらず

新しき恋や得たるとふる妻の独り異しむ

思ひみよ 氷れる岩の谷間をはなれたる

去年(こぞ)の朽葉は春の水ふくるる川に浮びて

いまかろき黄金(きん)のごとからむ


 春先の澄んだ光に、静雄の「いよいよ小さき」家の屋根も美しく照らされている。肌寒いとはいえ、これから春になることを告げる風は、「ひねもすのたりのたりかな」と蕪村に詠われた春の海のような、やわらかな潮騒に似た響きを生む。(この頃、静雄の家は風当たりの強い丘の上にあったから、春の海を思わせる風とは微風であったろう。)そんなのどやかな景の中で、一人書斎で物思いに沈む詩人の姿は、なんとも不似合である。静雄と同様、教師でもあった妻の花子が、あら、また新しい恋でもしたの?と軽口をたたく。

詩人は自分に言い聞かせる。春先の雪解け水が透明にふくれあがるように流れ始めた。凍りついていた朽葉も、金色に光りながら軽やかに流れているだろう、その景のなんと美しいことか。それを思い浮かべよ。

 〈なかぞら〉は文字通り空の中程だが、古今集に「初雁のはつかに声を聞きしより中空にのみ物を思ふかな」と詠われたように、上の空で物思いにふけるイメージも呼び覚まされる言葉である。風は、家の周りを吹き通う微風であると同時に、心の中に漠然と吹き込んでくる不穏の兆でもあろう。詩人は美しい景を思い描くことで、不安から自らを解きほぐそうとしたのではないだろうか。べっとりと茶色く氷に沈んだ葉が、金の軽やかな一枚となって軽やかに流れ始める夢想と、凍てついたように締め付けられている心が解放されることへの希求とが、重なっていく。〈朽葉〉に言の葉を観ることもできよう。朽葉となって埋もれている自らの詩語を、軽やかに輝かせる清冽な流れをこそ、静雄は求めているのである。物を読む気にも書く気にもなれない、憂鬱を持て余しながら。

 『春のいそぎ』が上梓されたのは、学徒出陣が始まる昭和十八年である。島尾敏雄が処女創作集を携えて静雄のもとを訪れたのもこの頃。島尾が海軍予備学生として出征の途につくのを、静雄は教え子で後に小説家となる庄野潤三と共に見送ることになる。胸中、どれほど複雑な想いを抱えていたことだろう。武勇を祈る一般市民としての心情と、様々な不安や憂鬱から逃避したいと願う心情、前途ある若者が死地へと赴くことへの怒り、自身の無力感の自覚など、様々な感情が烈しく渦巻いていたに相違ない。

 戦後、静雄自身が頑なに全集に収めるのを拒否したいわゆる〝戦争詩″七篇も、このような時代背景と感情の中から生み出されている。今読み返すと、時代がかった言葉で装飾的に綴られたもの、ロマン的夢想に逃避しているものなどもあるが、敗走兵に深く共感を示すような作品や、戦争そのものに倦んだような、反戦とは言えないにしても非戦を望むような作品も含まれている。戦意を鼓舞するような、安易に時代に迎合した〝戦争協力詩″に類するものは、静雄は書いていないように思われるが、この問題は次号に譲ることにして、ここでは多少余談めくが、〈新しき恋〉という〈ふる妻の〉無邪気な言葉について考えてみたい。

若い頃、静雄は盛んに恋を繰り返していた。「詩へのかどで」と自ら記した若い頃の日記を読むと、イニシャルなどで伏せられた女性たちが次々に現れるのに驚くが、欲望のままに女性遍歴を重ねたというよりも、理想の恋、理想の人を求める心理的な探索であったように思われる。初恋の女性への激しい恋慕の情を、その愛の性質に到るまで問い、同時に哲学書を読み、ゲーテの『若きヴェルテルの悩み』を、有島武郎の『惜しみなく愛は奪ふ』を、倉田百三の『愛と認識との出発』を読み……

一九歳の頃の〈loverからstrangerに、strangerからloverに変転するのが今の若い女の特長である。なまぬるい刺戟では興奮せないほど神経がまひしているのが今の若い女である。自分はそんな関係よりか〝友達〟ということをどんなに嬉しく思うだろうに。M子もやっぱり普通の女だった〉などと記しているのを読むと、早熟の秀才の精神を満たす女性など、そもそも存在したのだろうか、と首を傾げたくもなるのだが、この「友達」という言葉に、静雄の求めた愛の形が隠されているような気がしている。文学的、芸術的素養を共有し、文学への情熱を理解してくれる存在。精神的な次元で対等に語り合うことの出来る、同士のような存在。

初期の代表作「わがひとに与ふる哀歌」の中で、〈太陽は美しく輝き/或は 太陽の美しく輝くことを希ひ/手をかたくくみあはせ/しづかに私たちは歩いて行つた〉と詠われる静雄と想い人(理想の恋人)の姿は鮮烈である。セガンティーニの画集の愛蔵や、やはり初期の代表作「曠野の歌」に現れるイメージを重ねていくと、恋人たちの前に開けている空間は、太陽が燦燦と照り輝き、遠くに雪を被った山稜が連なる広大な原野として見えてくる。〈ひと知れぬ泉〉が湧き、〈非時(ときじく)の木の実〉が熟れる彼岸のような場所でもあるが、そこには全く他の人影がない。

光に溢れ、泉や永遠の木の実が実る豊かな地であるにもかかわらず、曠野と呼ぶことに違和を覚えるが、手を繋いでこの場所に歩み入る恋人以外、誰一人いない、という孤独こそが〈曠野〉と名付ける他はない所以だろう。日記や書簡などからも、静雄が強烈な孤独感を抱えていたことが知られている。〈佐賀高から京大時代にかけての伊東の姿を通観してあらためて強く印象づけられるのは、そこで圧倒的に支配しているのは「孤独」「淋しい」〝einsam〟だということである〉(山本皓造「伊東静雄の詩的出発」『PO1102003

その孤独を分かち合い、共に〈曠野〉に歩み入ってくれる存在こそ、静雄が求めていた〈わがひと〉だろう。そして、わがひと、のモデルと言われる酒井百合子は、日記や、遺された百合子宛の書簡などから顧みるに、静雄の渇望を満たす数少ない存在の一人として恋慕されていたことは確かなようである。しかし結局その恋は実らず、百合子とは〝友達″、静雄文学の理解者としての関係が長く続くことになる。

だが、〈わがひと〉は酒井百合子、あるいは酒井家の姉妹のイメージのみが投影された想い人なのだろうか。〈自分は遂に人生詩人でなければならない。魂にふれるもののみを求める精進者でなければならない〉と記した二十歳の頃から、その情熱の共感者として想い続けた酒井家姉妹との交友の中からは、発表するに足ると静雄自身が決意した詩は生まれなかった。詩が次々と発表されていくのは、むしろ静雄が結婚してから後のことなのである。

小川和佑の作成した詳細な年譜を見ると、昭和七年、静雄が二十六歳の年の初めに、高等女学校教諭の山本花子との縁談が生じている。その後、二月に静雄の父親が一万円とも言われる負債を残して亡くなる。(親族の借財の裏書きをしたゆえの不幸であった。)この金額は、当時の静雄の月収の百倍近い額だったという。弟や妹の生活の面倒も静雄の肩にかかってきている。この頃、花子との結婚が上手くいかないかもしれない、という不安を、酒井百合子あての書簡に漏らしたりもしている。花子との結婚は四月。そうした困難のもろもろをすべて承知で、花子は静雄と結婚したことになる。花子が仕事を続けたのは金銭的な理由もあろうが、夫と同じ職種ということで、仕事を続けている方がお互いに資するところがあったのではないか。困難な生活を共有し、仕事上の困難も楽しみも理解し合うことができる者同士であり、なおかつ芸術文化に対しても相互に話題を提供し合える関係は、静雄にとって〈曠野〉に手を取り合って進む真の相手を得たことに他なるまい。

負債を負ってはいたものの、静雄の文学への情熱は、結婚後も衰えなかった。むしろ、盛んになったというべきだろう。結婚した年の六月、青木敬麿と同人誌『呂』を創刊。(『呂』はこの年の末に発行禁止処分を受け、編集者は警察の取り調べを受けた。)翌年、『コギト』に寄稿、盛んに詩を発表し、昭和十年の春には『日本浪漫派』の同人になる。そして同年の秋、処女詩集『わがひとに与ふる哀歌』を上梓するのである。

その頃、静雄の家を訪れたドイツ文学者の大山定一が、〈かれの書架の一段全部に、ぎっしりドイツ語の書物がつまっていて、そのすべてがヘルダーリーンとその文献だったのを、ぼくははっきりと覚えている。ヘルダーリーンの詩は極めて難解だし、当時の日本のドイツ文学者で、ようやく一部の人が注目しはじめた頃の話だ。にもかかわらず、伊東静雄は重要なヘルダーリーン関係の書物を、ほとんど洩れなく集めていた〉と記している。洋書を買い集めるのは並大抵のことではなかっただろう。借金の返済の傍ら、教職を果たしつつ同人誌を創刊するなどの文学活動を続けることもまた、容易ではなかったはずだ。妻花子の深い理解と支援、何よりも静雄の才能への敬意と、詩的情熱への共感がなければ、静雄はこんなにも自由に詩作できなかったに相違ない。妻花子という、もうひとりの〈わがひと〉を得たことが、静雄の詩の飛躍につながっているのではないだろうか。


新妻にして見すべかりし

わがふるさとに

(なれ)を伴ひけふ来れば

十歳を経たり

いまははや ()が傍らの

(わらべ)さび(かな)しきものに

わが指さしていふ

なつかしき山と河の名

走り出る吾子(あこ)に後れて

夏草の道往く なれとわれ

歳月(さいげつ)は過ぎてののちに

ただ老の思に似たり


『春のいそぎ』と後の『反響』双方に収められた作品「なれとわれ」である。『春のいそぎ』では、愛妻を失った友のことを想う「秋の海」の後に置かれているので、なおさら印象が強い。ここに、『哀歌』の中の「帰郷者」を、特にその「反歌」を並べてみる。


田舎を逃げた私が 都会よ

どうしてお前に敢て安んじよう


詩作を覚えた私が 行為よ

どうしてお前に憧れないことがあらう


芸術家としての矜持と孤独、生活者への憧憬、故郷を棄てたことへの苦渋は、トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』に通じるものがある。静雄の孤独と葛藤を誰よりも深く理解し、寄り添って共に故郷に立つのは、妻の花子をおいて他にはいない。

 〈僅か四年そこ〱の病気で……死なせて了った家族の者として色々の後悔が残る。最後まで積極的にあんなに力強く生きようと努めた人であるのに助力者として何といふ怠慢であったことか……せめて今二三年寿命を延ばし得たら作りたいといってゐた美しい小さい詩集、――戦後の優しい作品を二十程もいれて――が出来てゐたのではなからうか。なつかしい長崎へ帰って美しい故郷の山河をどんなにか得意な筆にのせたことであらうに。〉妻の花子の手になる「病床記」より引いた。〈助力者〉――この言葉の意味は重い。

『千年樹』6520162


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by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 20:57 | 伊東静雄 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
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