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伊東静雄ノート 3

詩集『春のいそぎ』収載の「春浅き」や「夏の終」を読むたびに思い出す俳句がある。伊東静雄の一歳年長、静雄と同様教師であった、加藤楸邨の句である。


隠岐やいま木の芽をかこむ怒涛かな

ひとは征きわれ隠岐にありつばくらめ

十二月八日の霜の屋根幾万


昭和十六年、開戦の年に発表された三句を挙げた。名句として名高い「隠岐やいま~」の句は、奇しくも静雄の『春のいそぎ』と同年、十八年刊の『雪後の天』に収められている。

〈後鳥羽院のかゝせ給ひしものにも、これらは歌に(まこと)ありて悲しびをそふるとのたまひ侍りしとかや。さればこの御ことばを力として、その細き一筋をたどりうしなふことなかれという芭蕉の言葉を胸に秘め、独り隠岐に旅立った楸邨は、のちに私の心の中の怒涛が、次第に隠岐の怒涛と一つになりはじめていた。つまり、滲みあうように内と外とが重なり合ってきたわけであると記している。(随筆隠岐

芭蕉を研究していく中で〝主客浸透″の作句理念を得た楸邨と、既に卒業論文「子規の俳論」の中で〈芭蕉は物の形よりもその形以上のものを尊ぶ詩人〉であり、〈芭蕉に於ける自然描寫(子規の所謂記實)の目的は、自然をあるがままに模倣するのではなく、自然を寫すことによつて自己の「心の色」を表現することであつた〉と看破していた静雄。自然を描写することは、その自然と対峙した際の自己の心象を描くことであり、〝外″を描くことはすなわち〝内″を描くことなのだ、と考える二人の詩人が、荒れた海の景を共に自らの「心の色」と捉え、それを言葉に残したことになる。「ひとは征き~」の感慨と焦燥も、同世代であり共に教師でもあった二人が共有するものであったろう。征く側も、作品を通じて想いを受け止めていた。十七年秋、出征前に楸邨のもとを訪ねた俳人の森澄夫は、隠岐の一連の句を〈鬱屈した、暗い表情で、一句一句噛みしめるように読み上げてくれた〉楸邨の朗読を、自身の暗鬱とした未来と重ねながら聞いている。(『加藤楸邨全集 第八巻』講談社、月報6、1981

昭和十七年一月の静雄の日記に〈二十四日土曜 午後四時頃より阪急ホテル別館に田中克己君を訪問。同君は徴用令にて、南方出發前を同ホテルに宿泊中なり。此度徴用せられし人々中われの知る者は、他に神保光太郎、北川冬彦らなりの一文が見える。

〈後に田中繁君も来る。田中君よく喋る。同君の手帳に


神人が虚空にひかりみしといふ

みんなみのいくさ

きみもみにゆく


といふ歌一首かきておくる。神人云々は同君の詩句をとれる也」と日記は続き、〈二十七日 二日ほど前より風邪にて臥床中なりまき子(長女、筆者注)熱ひきしが、身體いまだだるげなり……みささぎにふるはるのゆき 以下詩なかなか成らず〉と、何度も推敲を繰り返している様子がうかがえる。

〈よく喋る〉のは、出征の不安の裏返しの饒舌であり、常態との差異に気づいた静雄の鋭敏な観察眼が、この一言を書き留めさせたに相違ない。〈ひかり〉という言葉を贈る心境と、我が子に〈ひかりありしや〉と問いかける(あれ、と願う)心境とに、どれほどの開きがあろうか。我が子の看病をしながら〈身體いまだだるげなり〉という一言を記す心境にも、不穏な時代状況を背景として、毎日の平凡な暮らしや子供との交流が、かけがえのないものとして深く心に残るようになってきている様がうかがえる。

静雄の日記は、毎日のように書きつけられたものではない。現存する限りではあるが、戦局が厳しくなっていく昭和十八年、十九年はほぼ毎月のように詳細に記しているのに対し、昭和十四年は二月と九月のみ。年頭に詩集『夏花』を公刊した十五年は、そもそも日記の記載がない。時代の暗雲を予感する詩として先に引いた「夏の終」が発表された年でもあるが、遺された書簡をみると、家庭内でも静雄を悩ませる事態が起きている時期であったことがわかる。

三月付の小高根二郎宛書簡には、〈いつものことながら呆然として暮らしてゐます。詩はなかなか書きにくい状態です。みな註文も断つてゐる始末〉とあり、教師としての日々に忙殺されているらしい様子がうかがえるが、更に六月になると〈家内に重病人出来まして、心身共に疲労の極にあり〉(六月十日潁原退蔵宛)〈看病の傍ら、古い歌謡の本を読んでゐます。これは自分の鎮魂のためと、自分の文學の模索のためであります〉(六月、池田勉宛)という文言が見える。池田氏宛書簡には、「螢」という詩が書きつけられているが、終り三行は〈差しのばす手の指の()を/垂火逃げゆく(のき)の空/思ひ出に似たもどかしさ〉という、逃げていく命の火掴もうとしながら成しえない、という哀調を帯びた詩行「螢」は和泉式部の「物おもへば沢のもわが身よりあくがれ出(タマ)かとぞみる」を踏まえていると言われるが、物狂おしく抜け出そうとするのは、我が魂なのか、あるいは大切な家族の命なのか……。自分の鎮魂、という言葉も、抑制された筆致ながらただ事ではない。

四か月後の十月、池田勉に〈お見舞い有難う……九分通り快癒、子供もあと十日もすれば退院できます〉と書き送っているので、ひとまず窮地は脱したとも見えるが、翌十六年三月の小高根宛書簡に〈このごろ漸く私も心身共に快調、これからたんと方々に書きますから……去年はいろいろなことがありました。口には一寸云へないほどです〉と記しているところを見ると、やはり、心身を消耗する相当の苦悩だったと思われる。

十六年は四月十一日の日記のみ。いささか煩雑だが、推敲の跡がよくわかる例として、この日の日記を引く。


〈四月 十一日 疲労甚し。酒欲し。

をさながくれし草の花

きい花 白花 名はしらず

「あゝくら」と まみをひそめて

わがをさない(き)ものは へやにいりくる

あゝくら と へやにいりくる

わがをさなきものは(の)まみひそみたり

「あゝくら」と へやにいりくる

わがをさなきものをみれば

そのまみ ひそめたり

あゝくらと まみをほそめて をさなきものの しつにいりくる

いつのまに くれししつない(くらきつくゑのあたり) のはいまだ

あゝくらと めほそめて をさなきものの しつ―に―いりくる いつのまに―くれし つくゑのほとり のはいまだ ひかりありてや ひとりつみて来し くさ〉


何度も微妙に表現を変えながら繰り返される「春浅き」の推敲課程。〈へや〉が〈しつ〉になり、〈ひかりありてや〉が〈ひかりありしや〉に変化するのは、音の響きの美しさを吟味したことによろうか。杉本秀太郎が「サ行偏愛」とすら呼ぶ静雄の音韻的特徴は、ささめくような響きへの偏愛とも言い換えられよう。

冒頭の新体詩張りの七五調の歌謡体も、完成作では姿を消している。「春浅き」を音韻の上から読み直すと、字余り、字足らずを織り交ぜつつ、いわゆる五七主体の長歌のリズムを自在に組み替えていくような進行と、三行ずつに整えられた詩形の美しさが印象に残る。


  冬が来た(高村光太郎)『道程』(大正三年)

きつぱりと冬が来た            (5・5)

八つ手の白い花も消え           (7・5)

公孫樹(いちょう)の木も箒になつた        (6・7)

きりきりともみこむような冬が来た     (5・7・5)

人にいやがられる冬            (3・8)

草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た  (8・5・5・5)

冬よ                   (3)

僕に来い、僕に来い            (5・5)

僕は冬の力、冬は僕の餌食だ        (3・6・3・7)

しみ透れ、つきぬけ            (5・4)

火事を出せ、雪で埋めろ          (5・6)

刃物のやうな冬が来た           (7・5)


 竹(萩原朔太郎)『月に吠える』(大正六年)

光る地面に竹が生え、           (7・5)

青竹が生え、               (7)

地下には竹の根が生え、          (4・7)

根がしだいにほそらみ、          (6・4)

根の先より繊毛が生え、          (6・7)

かすかにけぶる繊毛が生え、        (7・7)

かすかにふるえ。(以下略)        (7)


(いし)のうへ(三好達治)『測量船』(昭和五年)

あはれ花びらながれ             (3・7)

をみなごに花びらながれ           (5・7)

をみなごしめやかに語らひあゆみ       (4・5・7)

うららかの(あし)音空にながれ         (5・4・6)

をりふしに瞳をあげて             (5・7)

(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり(以下略) (5・7・6)


静雄は、先行詩人達の工夫や試行と比して、特別目新しいことや斬新なことを試みているとは言えないかもしれない。しかし、日記に残された推敲課程からは、何度も口ずさみつつ読み返しつつ、形も音も納得のいくまで整えていこうとする、言葉の彫琢者としての姿が立ち上がって来る。

「春浅き」と同様、推敲課程を日記に書き遺している作品に「春の雪」がある。昭和十七年、病欠の生徒を見舞い、出征前の田中克己を慰めた(一月二十四日)記述の後、娘の病のこと、妹りつの忘れ物を駅で尋ねたことが記され(二十七日)、続いて「春の雪」が、三度も書き直されているのが見える。それだけ思い入れの深い作品ということでもあろう。

「春浅き」が三行十連の形であるのに対して、翌年発表された「春の雪」は三行三連の、より引き締まった美しい詩形を取る。これは第二詩集『夏花』中の「沫雪」(十四年に亡くなった立原道造の追悼詩)の形を踏襲したものであり、昭和十四年の十月に書かれた富士正晴宛書簡中の〈具體的に云ふと、三行三聯の詩形式の完成といふのが、私のいまの野心です……そのために、リルケを殊に新詩集をしつかりよんでみようと思つてゐます〉という意欲を実証する試行でもある(田中俊廣『痛き夢の行方 伊東静雄論』参照)。第三詩集『春のいそぎ』では、この詩をはさむように「送別」と「大詔」が配された。「春の雪」については後にふれることにして、前後の二篇を左記に引用する。


 送別 田中克己の南征

みそらに銀河懸くるごとく

春告ぐるたのしき泉のこゑのごと

うつくしきうた 残しつつ

南をさしてゆきにけるかな

 大詔

昭和十六年十二月八日

何といふ日であつたらう

清しさのおもひ極まり

宮城を遥拝すれば

われら(ことごと)

――誰か涙をとどめ得たらう


「送別」は、芭蕉の「荒海や~」や万葉集の「石ばしる垂水の~」のように、君のうたも後世に残るだろう、という激励の意も含んでいよう。

「大詔」の後には、戦後、『反響』に再録される際に〈昭和十七年の秋〉という添え書きが加えられた「菊を想ふ」が置かれ、その後、〈秋は来て夏過ぎがての〉から始まる「淀の河辺」と続いていく。

「菊を想ふ」は不思議な読後感を呼ぶ作品である。我が子が朝顔の種を小箱に入れ、〈しまっておいてね〉と手渡すシーンから始まるのだが、朝顔は植えられることはなかったのだろう、こぼれ種が家の周りや野菜畑の隅に〈ひなびた色の朝顔〉ばかりを咲かせていた、という淋しい夏が回想される。朝顔、などという風流なものにかまけている余裕が無くなり、人々の関心は〈トマトや芋のほうに〉向いている。後半を引く。


十月の末 気象特報のつづいた

ざわめく雨のころまで

それは咲いてをつた

昔の歌や俳諧の なるほどこれは秋の花

――世の(すがた)と花のさが

自分はひとりで面白かつた

しかしいまは誇高い菊の季節

したたかにうるはしい菊を

想ふ日多く

けふも久しぶりに琴が聴きたくて

子供の母にそれをいふと

彼女はまるでとりあはず 笑ってもみせなんだ


満州を巡ってじりじりと孤立化していく日本の状況は、報道管制や情報操作によって、世界列強に追い詰められていく日本、というイメージを庶民に植え付けていった。当初はナチスに対して批判的だった日本の知識人たちも、ヒトラーの〝躍進″を英雄的なものとみなす風潮に次第に呑みこまれていく。静雄がかつて講読していた雑誌『改造』が治安維持法違反に問われ、発売禁止となったのは、十七年の夏のことである。

「大詔」という、開戦の日の異様な高揚感に満ちた一瞬を回想風に書き留めたすぐ後に、庶民の風流の代表格でもある朝顔ですら楽しむ余裕が無くなっている世の姿を配置した静雄の意図は、どこにあったのだろう。琴を聞きたいというわがままも、笑みをもっての否定ではなく、このご時世に何を寝ぼけたことを、とでも言わんばかりの冷たい拒否である。〈いま〉〈菊〉を想う、それも〈したたかにうるはしい〉菊を想う、といういささか屈折した表現に、人心が戦争一色に傾いていくことへのシニカルな、どこか斜に構えたような視線が秘められている、と読むのは、穿ちすぎだろうか。

静雄は、マルクス主義、あるいはその〝革命的思想″を、〈頭では〉納得しつつも、〈ヘルツ(ハート)が云ふことをきかない〉と、醒めた目で見ていた。国家によるマルクス主義の弾圧、という背景があったことを差し引いても、熱狂的に一つの思想の中に巻き込まれていくことに、本質的に忌避感情を抱く性向を持っていた詩人だったと思われる。それにも関わらず、戦後自ら否定することになる〝戦争詩″七篇を、なぜ書くことになっていったのか。   

                               『千年樹』66号 20165月 一部修正


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by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 20:58 | 伊東静雄 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
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