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伊東静雄ノート 6

日記や手紙などから、『夏花』が成立した時期(昭和十一年~十五年頃)の静雄は、神経症に近いような精神的危機と戦っていたことが知られている。静雄はいかなる精神状況だったのだろう。『夏花』の後半に「孔雀の悲しみ」という不思議な小品がある。

 

 蝶はわが睡眠の周囲を舞ふ

 くるはしく旋回の輪はちぢまり音もなく

 はや清涼剤をわれはねがはず

 深く約せしこと有れば

 

 かくて衣光りわれは眠りつつ歩む

 散らばれる反射をくぐり……

 玻璃なる空はみづから堪へずして

 聴け! われを呼ぶ


 孔雀が尾を広げた時の、めくるめくような、万華鏡のような光景であろうとは思いつつ、冒頭の不眠を思わせる描写や、乱反射する光に飲み込まれながら幻聴を聴くような連に謎が残る。

 この詩と、芥川龍之介が不眠症や神経症、精神の破綻の恐怖におびえていた時期に書かれた『歯車』の一節とを比較してみよう。

 何ものかの僕を狙つてゐることは一足毎に僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つづつ僕の視野を(さへぎ)り出した。僕は(いよいよ)最後の時の近づいたことを恐れながら、頸すぢをまつ(すぐ)にして歩いて行つた。歯車は数の殖えるのにつれ、だんだん急にまはりはじめた。同時に又右の松林はひつそりと枝をかはしたまま、丁度細かい切子(きりこ)硝子を()かして見るやうになりはじめた。僕は動悸の高まるのを感じ、何度も道ばたに立ち止まらうとした。けれども誰かに押されるやうに立ち止まることさへ容易ではなかつた。

この後〈僕〉は、まな裏に〈銀色の羽根を鱗のやうに畳んだ翼〉の幻影を見、お父さんが死んでしまうのではないか、と家族が怯えるところで物語は終わる。静雄の描写との相似は比べるまでもないだろう。当時の静雄も、芥川が陥っていた精神の危機と同様の状態にあったことがうかがわれる。(就職して間もない頃にも、静雄は〈私の内の芥川的傾向を克服するために…芥川氏研究〉をしている、と手紙に記していた。自覚しつつの内省であったと思われる。)

日中戦争の行く末への不安、といった時代の諸条件に加えて、家族の病や、母や詩友たちの続けざまの死がもたらした〈茫漠・脱落の気持〉(「コギト」昭十五年)が静雄を追い詰めていた。その状況下で、時に七転八倒しながら静雄は詩を紡ぎ出していく。

『夏花』の冒頭には、〈おほかたの親しき友は(中略)さても音なくつぎつぎに憩ひにすべりおもむきぬ。//友ら去りにしこの部屋に、今夏花の/新よそほひや、楽しみてさざめく我等、/われらとて(つち)臥所(ふしど)の下びにしづみ/おのが身を臥所とすらめ、誰がために。〉という『ルバイヤット』の一節が置かれている。賑わしい生と、墓所に葬られて後の安息が、「誰がために」という問いで結ばれている。この問いは、後に詩集『春のいそぎ』の最終歌において〈あゝかくて 誰がために 咲きつぐわれぞ〉と反復されることになるのだが……『春のいそぎ』の味読に戻る前に、今しばらく、『夏花』について考えてみたい。

『哀歌』の成功の後、第二詩集の『夏花』を刊行するまでの間に〈田中克己、神保光太郎、中原中也、立原道造、津村信夫の諸氏が、大へん私を刺激した。その人達に見て貰ひたい気持が、私を元気づけたところもあつた〉と静雄は記している。さらに、〈この間に、立原道造、中原中也、辻野久憲、中村武三郎、松下武雄の諸氏が死んでゐる。これらの人々は、現実に深い交を結んだ友とは言ひ難いが、その詩精神は、私の最深部に強く作用したものである。人にはそれぞれ口には言ひ難い微妙な友情を感ずる「同時代の友」があつて、その友情は、その人の後半生をも支配する力をもつものと思ふ。上記の人々は、私にとつてそんな友ではなかつたであらうか。そして、「友ら去」つた後に、各自は、自己流に、「楽しみてさざめく」術を体得して、生きて行くのであろう〉(「コギト」昭十五年)と綴り、立原、辻野、中村の三名には、名を明記した追悼詩を捧げている。「夢からさめて」は、特に献辞はないが、母への追悼詩だろう。(怪しく獣めく夜鳥の声に夢を破られた静雄が、失われた故郷の家で独り酒を呑んでいる夢の中に母の姿を垣間見て、悲しみのあまり自ら歌っていたことに気付く、という詩である。)

『夏花』中、他に追悼と思われる詩は〈…かの蜩の哀音(あいおん)を、/いかなればかくもきみが歌はひびかする…曾て飾らざる水中花と養わざる金魚をきみの愛するはいかに。〉という、前年に発表した「水中花」に通じる詩想を持つ「いかなれば」と、〈N君に〉という献辞を持つ「若死」であろう。立原道造への追悼詩「沫雪」の直前に置かれた一篇である。


大川(おおかは)(おもて)にするどい皺がよつてゐる。

昨夜(さくや)の氷は解けはじめた。

  アロイヂオといふ名と終油(しゅうゆ)とを授かつて、

  かれは天国へ行つたのださうだ。

大川は張つてゐた氷が解けはじめた。

鉄橋のうへを汽車が通る。

  さつきの郵便でかれの形見がとゞいた、

  寝転んでおれは舞踏(ぶたふ)といふことを考へてゐた時。

しん(そこ)冷え切つた朱色(しゅいろ)小匣(こばこ)の、

真珠の花の螺鈿(らでん)

  若死をするほどの者は、

  自分のことだけしか考へないのだ。

おれはこの小匣を何処(どこ)(しま)つたものか。

 ()(うと)いアロイヂオになつてしまつて……。

   鉄橋の方を見てゐると、

   のろのろとまた汽車がやつて来た。


リフレインを用いた歌謡性の強い文体、キリスト教の用語や汽車といったモダンで垢抜けた印象、字下げの形式……N君とは、誰か。イニシャルから見て松下ではない。静雄が「コギト」に寄稿した松下への追悼文を読んでも、二人はさほど深い交友は持っていなかったらしい。残る一人は、〈私の最深部に強く作用したもの〉を持つと記された中原中也である。Nと名を伏せたのは、名を記すことに若干の躊躇い、もしくは屈折した感情を覚える相手だったから、ではあるまいか。

静雄は、中也の『山羊の歌』(昭和九年)を予約注文していたという。『わがひとに与ふる哀歌』(昭和十年)の出版記念会で初めて出会った中原中也の家に、その日の内に泊りに行ってしまったというエピソードも、静雄の抱いていた中也への親近感を示しているように思われる。しかし、二人は意気投合する、というわけにはいかなかった。中也は日記に〈コギトに、伊東静雄に関する原稿の断り状を出す。二三日前に来た伊東静雄の手紙、素直な手紙、而して素直なだけ。ああいふ人はどんな気持で生きてゐるのか。アイドントノウ〉とシニカルに記している。静雄も何か感じるところがあったろう。(高橋渡『雑誌コギトと伊東静雄』など)

エピソード的な事柄が評価にどこまで影響するものか留保すべきだが、静雄が中也の作品を批判的に見ていたことは確かなようである。富士正晴宛の手紙の中で、〈あなたの議論も、中原の晩年に完成を見てをられるやうですが、あそこから再出発を予想することは、矢張りわたしには困難です。彼の晩年が「運命的」であればあるほど、再出発は他の人によつて代つて行はるべきだといふ印象を却つてあなたの論からうけました。この点いかがです。そんなに一人の詩人に多くをのぞむべきかどうか私は甚だ疑問です。わたしはもう中原には「月の光」だけで充分。この一回きりの完成だけで充分詩人の光栄。生かしときたかつたのは矢張り立原。立原は中原について「彼は立ちどまつてゐる、問ひかけが彼にはない」と言つてゐます。〉(昭和十四年十月)と厳しい評価を下している。立原の詩を考える上で「問いかけ」は重要なキーワードであり、静雄の立原への共感の由来を探る上でも大切な問題だが、今はひとまず傍らに置く。ここでは静雄が言及している「月の光」(その一、その二)を見ておこう。


月の光が照つてゐた

月の光が照つてゐた

  お庭の(すみ)(くさ)(むら)

  隠れてゐるのは死んだ()

月の光が照つてゐた

月の光が照つてゐた

  おや、チルシスとアマントが

  芝生の上に出て来てる

ギタアを持つては来てゐるが

おつぽり出してあるばかり

月の光が照つてゐた

月の光が照つてゐた


月の光 その二 

 おゝチルシスとアマントが

 庭に出て来て遊んでる

 ほんに今夜は春の(よひ)

 なまあつたかい(もや)もある

 月の光に照らされて

 庭のベンチの上にゐる

 ギタアがそばにはあるけれど

 いつかう()き出しさうもない

 芝生のむかふは森でして

 とても黒々してゐます

 おゝチルシスとアマントが

 こそこそ話してゐる間

 森の中では死んだ子が

 (ほたる)のやうに(しゃが)んでる

※チルシスとアマントは、西欧の牧歌詩に歌われる少女と少年。ヴェルレーヌの詩などにも登場する。


 先に引用した「螢」に通じる詩想や童謡風のリズムは、中也の世界から静雄が学んだものであったかもしれない。死せる子が月下の物陰に隠れている。いなくなってしまったのではない、目に見えないだけ。気配は確かに、そこに居るのだ……子を失った中也の悲しみに、子煩悩な静雄が共鳴したことは想像に難くない。

〈夏花〉は、静雄自身が〈お盆に仏に供える花〉と語っており、また「()(ばな)」と呼ばれる仏事における供花のイメージが秘かに重ねられた、レクイエムともいえる詩集である。(田中俊廣「『夏花』*レクイエムとしての詩宇宙」『痛き夢の行方 伊東静雄論』)

『夏花』全体を覆う死のイメージ、その巻頭と中間、掉尾に配された、死の世界を振りきって生へと突き抜けていこうとする作品の放つ、エネルギーの強さ。

「燕」、「八月の石にすがりて」、「野分に寄す」「疾駆」といった作品が、生へと突き抜ける面を強調した詩だといえるが、その突破する力の源はどこから生まれるのか。「笑む稚児よ……」という詩を見てみよう。


笑む稚児(ちご)よわが膝に(すが)

水脈(みを)をつたつて(うしほ)(はし)り去れ

わたしがねがふのは日の出ではない

自若(じじゃく)として鶏鳴をきく心だ

わたしは岩の間を逍遥(さまよ)

彼らが千の()の白昼を招くのを見た

また夕べ(けもの)は水の(ほとり)に忍ぶだらう

道は遙に村から村へ通じ

平然とわたしはその上を()


我が子に膝にすがれ、と呼びかけてはいるが、すがってくれ、という願いであるのかもしれない。私を押し流そうとする大波が去ることを願い、今はまだ暗夜であるとしても、泰然自若として明け方を待つ心を欲する詩である。その先は難解。岩の間をさまようイメージは、『哀歌』に描かれた曠野における精神の彷徨を、〈千の日の白昼〉の訪れや、乾きに飢えた獣が水を得たり、村々に道が通じていくイメージは、明るく開放的な未来の訪れを祈念しているように思われる。

冒頭に引いた「孔雀の悲しみ」の中の〈深く約せしこと有れば〉という謎めいた一節、〈わが膝に縋れ〉という力強い宣言は――いささか飛躍した思考であるかもしれないが、父として子に約束しよう、どんなに辛くとも、生き抜く、ということを――という想いの現れではないだろうか。「孔雀の悲しみ」に描かれたような神経症的な逼迫、一向に黎明の兆しの見えない社会情勢、次々と死に打倒されていく詩友への想い、自身の将来への不安……そうした自己の内部に押し寄せる潮のような不安を打ち破るのは、外圧としての、やらねばならない、やらざるを得ない、という義務感ではなかったか。特に、静雄のように律儀な性格の人間にとっては。

「水中花」など、一見すると滅びを肯定し、美しく散ることを願うかのような詩句は、当時静雄が抱いていた閉塞感を突き抜けていくために自らを鼓舞する言葉であり、困難な生を前進させるための逆説的な死の措定であったように思われてならない。

蝶の生き様に、〝どんな困難が待っていようとも、最後まで生き抜け″という神(自然)からのメッセージ(言霊)を読み取りつつも、今の生は水槽の中で生かされている(ように見える)水中花に過ぎない、つくりものの生に過ぎない。これでも真に生きている、と言えるのか?いっそのこと、全てを投げ打ってしまいたい、全てを終りにしてしまいたい…そんな激情と生の渇望との間で、静雄の詩人としての精神は葛藤していたのではなかろうか。

むろん、生活者(父、教師)としての静雄は、生を投げ出してしまうわけにはいかない。いや、むしろ父であるからこそ、子供への愛、家族への想いの強さによって、生きる気力を奮い起こすことが出来たのではないか。そのために、あえて創作作品の中で、仮構としての死を疑似体験する。死の安息を希求する己の魂をいったん死の世界に鎮め、そこから再び日常生活圏に戻って来ることによって、自らの活力と成す。死への憧憬と生への義務感とに引き裂かれ、疲弊してしまった自らの精神を、一度死を疑似的に通過することによって――ふいごで衰えた炎に活力を取り戻すように――再生させる。その烈しい精神の振幅の軌跡を、『夏花』は基層としている。

『千年樹』69号 2017年2月


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by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 21:01 | 伊東静雄 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


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