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伊東静雄ノート 8


関東大震災が起きた大正末から昭和十年代の状況に、2010年代以降の現代の日本が近づいてきている・・・そんな危惧を覚える中、二〇一七年六月、治安維持法を連想する(人も多い)通称「共謀罪」、「テロ等準備罪」法案が成立した。

単純に歴史は繰り返す、とは思わない。しかし、反省的に歴史を学ぶこと、結果が誤った方向に向かったことが歴史的に証明されているなら、なおさら誤った道に足を踏み入れないように事前に回避することが、何よりも大切なことであろう。

・・・と大仰に書き始めたものの、私たち庶民は、自らの生活、自らの家族、地域社会といった、身近なところから物事を考えていく他はない。戦中期に生きた詩人がどのような考え方を辿り、どのような生き方をし、結果、どのような作品を遺したのか。「静雄ノート」の連載を始めて以来、考え続けている問いは、静雄の詩に惹かれ、詩を綴り始めた者として、単なる歴史的な興味、好奇心を越えた切実な問いでもある。

伊東静雄の『春のいそぎ』集中の作品を、現代に生きる私たちの感性で、まずは読んでみる。それから、当時の社会的背景や静雄の個人的・伝記的背景に基づいて、追体験してみる。その試みは、当然のことながら『春のいそぎ』一集に留まらず、第二詩集『夏花』や、第一詩集『わがひとに與ふる哀歌』に遡っていくことになった。日中戦争開戦以降、積極的に翼賛的な詩を書き始めた詩人たちを傍目に、家族や身近な物事を歌う、という私的な詩作に沈潜していったように見える静雄も、「大東亜戦争」開戦と同時に、(一時的にせよ)翼賛的な詩を書き記している。その時の心情を今後とも継続的に考えていきたいと思っているが、今回は、少し回り道をして、詩集公刊以前の静雄の私的世界、特に妻との関係について、考えてみたい。

伊東静雄が大阪の住吉中学に着任したのは、昭和恐慌が始まった昭和四年のことである。その二年後、静雄は『呂』(昭和七年六月)という同人誌を青木敬麿らと共に創刊している。

静雄は当時としては珍しい共働きであったが、『呂』を読むと、当時の進歩的な知識人であることをある種の矜持として自覚していた彼等が、女性に対して、また、いわゆる職業婦人に対して抱いていた共感と理解の一端を知ることができる。

社会の不正や不条理に抗し、男性と対等に文学や芸術を論じあえる知性と、自立した経済力、自分の意見を持った女性。恋愛においては(ゲーテのグレートヒェンやヘルダーリンのディオティーマのように)より高次の精神的次元に導いてくれる、憧憬の対象。

たとえば、昭和七年、九月号の『呂』(四号)に、竹内てる代の第一詩集『叛く』の書評が掲載されている。〈家風に合はないといふので不合理にも結婚に敗れ、腹を痛めて生みおとした坊やとは生別させられ、たゞ残つたのは病で歪んだ躰だけだつた〉〈著者の詩は、悲しみに泣き、叫び。喜びに雀躍する一人の血の通った生活人の、心からの叫びだ〉と、同人の鳥海齋は記している。

『呂』の三号に鳥海が寄せた芸術論は、当時のプロレタリア文学は視察記や社会記事から受ける感じとどれくらいの相違があるのか、千篇一律で面白くない、と批判する一方で、〈芸術とは具体的な政治方法や社会方法を企画するといった科学的機能をもつものではなく、先験的に意識の傾向を示唆する効果をもつものに過ぎない〉と、純粋芸術論的な思想を開陳しつつ、〈生殖組織(夫婦関係)に先験する恋愛のようなものである〉という比喩を用いるなど、浪漫派的な、恋愛を精神的次元で論じようとする志向も見て取れる。

静雄の手紙や日記、花子による静雄の回想録などを読むと、静雄は女性が文学や芸術に関して知識を深め、共に語り合うことを積極的に望んでいた。初期の日記に見られる「女性遍歴」も、〈ほんとうの恋〉を求め続けたゆえらしい。つきあってみて、やはり普通の女性だった、と失望を書き記したり、М子は哲学概論を送ってくれた、と喜んだり、これは淋しさふさぎであって、本当の恋ではないのではないか、などと悩んだりしている。有島武郎の『惜しみなく愛は奪ふ』を愛読し、倉田百三の『愛と認識との出発』を読みながら、他者との関係性から立ち上がる「自己」を問い、「人間」とは何か、という問題について考えていく時の、重要なファクターの一つが「恋愛」であった。もちろん、プラトニックな関係ばかりではなく、〈放恣なる本能の一日〉というような記述からもうかがえるように、性愛的な関係もまた、重要であったらしいが・・・。

中学教師といえば、『呂』の五号(昭和七年十月)に、中学教師と思しき中村倭枝という女性の、「紀元節」という名前の短編小説が掲載されている。紀元節の意義を、尊さを説き続ける校長の話と、バタバタ貧血で倒れる子供たちを対置しながら、何バカなこと言ってるのよ、話が長すぎる、寒すぎる、子供達は(貧困のゆえ)栄養不良、朝から何も食べていない、と批判する内容。まだ、このような文章の発表が許されていたのだ、ということに驚きを覚える程である。

この号に静雄は「事物の詩抄」という総題で、「母/新月/都会/秋/廃園/朝顔」というモダニズム風の詩を載せている。


 母

妻よ 晩夏の静謐な日を

糸瓜の黄花(きばな)と蔓とで

頃日の僕等の唯一の

 幻想である母の

 家の門を飾らう

            

結婚後半年の時期であるので、妻は新妻の花子であろう。しかし、具体的な妻のイメージを越えて、象徴的な〈母〉が呼び出されている。


  新月

淡淡しい穹窿をも誘うて

新月の

私の目の前で生々と凝固する夕方に

新月に啓示を拝しつゞける太古の

港を

私は静かに出て行った


現在の私たちにとっても難解な作風だが、当時の『呂』の仲間たちにとっても、それは同様であったらしい。当時の同人たちがコラム欄「ろれつ」に〈伊東静雄、詩人ぶった詩人〉〈彼のシンボリズムはシンボリズム自体に潜む、孤独、独りよがりの道に連なってゐる〉などと、かなり辛辣に記しているのが面白い。〈伊東はうまいなあ、皆は君のものをわからん云ふけれど、そんなこと云ふたら、君はひとりで悦んでしまふだらうから、おれだけは、わかる、云はねばならん。けれど、ほんとは、どうぞも少しわかるように、書いてほしい。きれいな空気を、ひとりきりで貪らずに、ひとりでも多くの人に、わけてほしい。理屈は言はぬ。できるならば、一日でも早く、以前の君に返ってほしい〉この文章は、恐らく『呂』の創刊者でもあり、静雄と親しかった青木敬麿であろう。以前の君、とは、勤務先の住吉中学の校内誌『耕人』に載せた、次のような作品であろうか。


庭をみると

辛夷の花が 咲いてゐる

この花は この庭のもの

人の世を苦しみといふべからず

花をみる時

私は

花の心になるのである

(「庭をみると」『耕人』昭和六年二月)

のの花を

いけて

ねてみる

よろしさ

ののはなのほそばな

かずしれぬはな

ののはなの

よろしさ

ねてみつつ

おもふ

(「ののはな」『耕人』昭和六年十月)


静雄の詩に出て来る〈花〉は、あるいは意中の女性、のことではなかったか?具体的な誰か、ということではないにしても、ある種のミューズのような、憧憬の対象として、詩情を掻き立ててくれる女性。昭和六年、一一月の酒井百合子あての書簡の中で、


私が泉のそばに坐った時

噴水は白薔薇の花の影を写した

私はこの自然の反省を愛した

私が青空に身を(ゆだ)ねた時

縫ひつけられた幾(すじ)もの銀糸が光つた

私は又この自然の表現を愛した

 

 さうして 私の詩が出来た


という、読み方によっては、ありとあらゆるものに貴女の姿をみます、と告白しているような短詩を書き記してもいる。日記などから推して、百合子が、青年期の静雄の憧憬の相手であったことは間違いない。百合子の後の証言によれば、封建的な気風が色濃く残る地での、士族の娘と商家の息子、という関係性や、静雄自身の批判的な物言い(恋慕の情の韜晦であったのかもしれない)などのゆえに、百合子の方では思いもよらず、静雄の片恋であったらしい。とはいえ、百合子は静雄の書簡や詩を大切に保管し続けている。人間として、友人として、深い敬愛の念を抱いていたことも、確かなようである。

 昭和六年秋の時点で、静雄がのちの妻となる山本花子と知り合っていたかどうかは、定かではない。しかし、昭和七年二月の百合子宛て書簡の中で、山本花子との縁談がなかなかうまく進まないことを案じている旨を記し、三月の手紙では、いよいよ結婚することになった、と百合子に報告している。花子は、満たされぬ愛の〝代わりに〟妻として選ばれた女性、なのだろうか?

日記によれば、静雄は今ならさしずめ「イクメン」だったらしい。子供の世話ばかりでなく、病に倒れた妻の看病も積極的に行っている。背負ってしまった借金を返済する為に、共働きの妻が良かったのだ、というようなことも口にしていたようだが、恐らくは照れ隠しであろう。静雄と親しかった富士正晴が、詩人の小野十三郎や静雄の教え子の斎田昭吉らとの座談会で語った思い出によれば、山本花子は、奈良高等女子師範を卒業し、堺市立高等女学校の教師となっていた大柄な美人であった。一歳年下で聡明な花子に、歌会で出逢った静雄がひとめぼれし、人を介してなんとか見合いに持ち込んだ、というのが実際のところらしい。それが、昭和六年の秋か冬、縁談が起こるのが昭和七年の一月ごろ。

しかし、七年の二月に父が亡くなり、借財を負うなどの困難で、結婚話が一時、頓挫しかけた。先にあげた百合子への手紙で、結婚が上手くいかない、と記している時点で、既に静雄は花子を妻として熱望していたことになる。そして花子は、静雄の困難を、いわば引き受ける形で伊東家に嫁してきたのである。(小川和佑『伊東静雄論考』他)

花子は、もっと手を抜いてもよいのに、と静雄が思うくらいに、盆の仕度を整え、準備するような、律儀でしっかり者の妻であった。授業は自分よりもうまい、かなわない、と友人にこぼしていたこともあるという。出征するかもしれない可能性が出てきた折(昭和十九年に記された遺言)まず最初に「花子よ お前の強さには自分は信頼してゐる この上は充分に優しい母であってくれ」と書き記しているほどである。だからといって、「かかあ天下」ということでもなかったらしい。静雄夫妻と一緒に銭湯に行った教え子が「お~い、花子、出るよ」と静雄が声をかけ、「は~い」と声が返って来るのを聞いた、という微笑ましいエピソードを記している。静雄の家を訪れた教え子たちを温かくもてなしたり、生活費を入れない(!)静雄を経済面で支えたり・・・(静雄自身の給料は、借金の返済と弟妹の世話、書籍の購入、自分の勉強や詩の付き合いに当てていたらしい)何より、静雄の詩作を全面的にバックアップするマネージャーの役割を果たしてもいたのではなかろうか。

雑誌『呂』の創刊の話は、結婚前の昭和六年の三月の時点で既に進んでいたが、静雄は結婚後も同人活動に積極的に参加している。そして、学内誌での趣味的な詩風から一転して、時代の先端を行くような実験的な詩風を試してみたり(それゆえに『呂』の同人たちにわからない、と言われてみたり)後の「わがひとに與ふる哀歌」にも通じるモチーフ(朝の風の命ずる場所、白い花輪、太陽に近い湖)が現れる「事物の本抄」という詩を『呂』六号(昭和七年一一月)に発表したりしており、新進気鋭の詩人として新作を世に問う、公刊の意欲に満たされていることが伺える。

昭和七年、十月に記された百合子宛ての書簡の中で「詩少しづつ自信が出来てゐます。自分で立派だと思ふものが五十もたまつたら、出版したいと考へてゐます。二百冊くらい刷つたら二三百円で出来るさうですから、花子に金の工面など、たのみ出してゐます。これが思ふ通りに行つたらと、大変希望をもつて暮らしてゐます」と記している。

マネージャーとして生活を支え、詩作や文学への情熱に理解を示してくれるしっかり者の妻を得、文学や芸術に関して語り合える異性、同性の友を持ち、新しい詩作に向かう仲間たちに、時には独りよがりの芸術至上主義だ、と批判されたりもしながら、静雄は着々と、『わがひとに與ふる哀歌』への道を歩んでいた。

なかなか『呂』の同人たちに理解されない時に、大阪の書店で見かけた『コギト』の創刊号は、いかに静雄の眼に眩しく映ったことだろう。

『コギト』はパトロンの肥下、理論的主導者としての保田與重郎、詩人の田中克己らが創刊した高踏的な詩と評論、ドイツ詩の翻訳などを載せた雑誌で、同人は、煙草のバットが七銭、タクシーが一円の時代に十円という高額の同人費を納めねばならなかった。高価なこともあって、なかなか売れなかったらしいが、大阪の本屋では必ず一冊売れており、しかも匿名で「コギトの詩人なかなかよろしい」との葉書が発行所に届いたという。静雄の詩は『コギト』向きである、と田中克己や中島栄次郎が静雄を訪ねて行った折に(いわば、スカウトである)、その葉書は静雄が認めたものであることがわかったという逸話が残っている。やがて、静雄は『呂』を離れ、『コギト』の詩人として活動を本格化させていくことになる。

                                             『千年樹』71号2017年8月


by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 21:04 | 伊東静雄 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


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