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B=REVIEW 2017年12月投稿作品 選評

大賞候補 仲程 連音/ほうげんふだ 


◆優良

・地球 ケーキと福音 

・桐ケ谷忍 籠の外 

・日下悠実 冷たい夜明けの湖畔にて 


◆推薦

・弓巠 空をひらく

・北 埃立つ

clementine 産毛

・夏生 黙々と


大賞候補

★仲程 連音/ほうげんふだ http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1040

〈前に進むことを停めた友へ〉という呼びかけが意味するものは、何だろう。進歩、前進、目標に向かって・・・そんな一見するとポジティブな思考を、やめた、のではなく、停めた、友への呼びかけ。友は、前進するエネルギーを失って、小休止をせざるを得ない状況に追い込まれているのか。そんな友を励ますために、幼いころの共通の話題を、懐かしく語りかけている、のだろうか。

あるいは、葛藤に悩むことを放棄し、一時停止した友、への呼びかけ。悩みに直面することを避け、今現在の安定を「やすらぎ」と読み替え、自己欺瞞から目をそむける。葛藤しなければいけない苦悩から逃れるために、停戦状態に棚上げにして、それは善である、正しい行為である、と自分に言い聞かせて受容してしまう、そんな状態にある友への、かすかな批判も含みつつ、寄り添っていこうとする呼びかけなのか。

子供時代の思い出を、〈アガー〉という「方言」から語りだす自然な導入に惹かれる。大人になった語り手が、街角の風景から「ふと思い出す」やんちゃな子供時代の思い出。〈親父が子供の頃に本土政策で使われた方言札〉とあるので、語り手が子供の頃には、既に「罰則」として使われることはなくなっていたのだろう。それでも、方言を使わない、使わせない、ことが良いこと、であると信じ、自分の使命であると信じていたかもしれない〈本土から赴任してきた中年の女性〉である〈先生〉。

身体的な痛みという根源的な苦痛を表現するとき、自分の生まれ育った土地の言葉、生まれながらに身に着けた言葉、いわば母語が、自ずから口をついて出るのは当然のことだろうに、それを使ってはいけない、痛い、と言い換えなければいけない、と強要されることの不自然さについて、考える。教育、という名のもとに、その不自然を押し付けることに葛藤を覚える良心を持った教師は、制度と現場との間で苦悩し続けるだろう。その苦悩から逃れ、「やすらぎ」を得るには、自らの行為を正しいものと信じる他はない。子どもたちの「良心」は、〈汚い言葉を使った場合は/ちょっとは反省したのかもしれない〉というところにあり、それは他者を傷つける(痛みを与える)ことを知っているがゆえの、自然な反応なのだろうと思う。他方、〈方言での場合は/誇らしげに正座したもので〉という子供たちの反応は、方言を用いることの正当性が、子供達にも浸透していることを示している。規範を与える、規則で縛る、従わない場合は、罰則を与える。それは子供のよりよい成長の為であると信じているがゆえに、葛藤を覚えることのない〈先生〉は、罰則を与えることで反省したり羞恥を覚えたりすることを当然期待するだろうけれども・・・〈そんな僕らの明るい顔に〉恐らく気づいてしまうのだ、自己欺瞞としての「正義」に。そして、そのことを子どもたちも見抜いている。

〈先生のほうが痛かったのだろうな〉という中盤の「痛み」は、〈先生〉が自らの権威を示すことができない、自らの信じるところを実践できない、思い通りにならない。そうした苛立ちから発せられるものであり、それを子供心に見抜いていた、ということであるのかもしれない。しかし、最終連で繰り返される〈先生もやっぱり痛かったのかな〉という言葉には、〈前に進むことを停めた友〉の〈落ち着いた顔〉が重ねられている。

自らの心が、自然な呼びかけに応じることによって生じる葛藤とは、制度や社会的規範を指導する側、強制する側の立場と、その規範そのものを疑う、自然な人間としての感性の葛藤である。それが正しいことなのだ、と、確信を持つことができるならば・・・つまり、社会制度や規範と、自らの心が聴きとる自然の呼びかけとが一致している時には、なんらの葛藤も起きないだろうが、自らの人間としての感性を抑圧しながら、社会制度や規範を正しいもの、として受容する時、そこには葛藤を棚上げにした、一時的な小休止としての、仮の〈やすらぎ〉しか存在しない。

〈先生〉と〈僕ら〉の関係性を、「本土」と「沖縄」の関係性のメタファーとして読むことによって見えて来るものがある。それは拡大解釈かもしれないが、また別の拡大解釈として、社会的規範や、組織における規範、あるいは制度や慣例といったもの、人為的に作りだされたルールの適用などに際して生じる諸々の葛藤に際し、適用する側だけではなく、する側の覚える痛み、といった普遍的な問題に敷衍し得る。

語りかける文体の持つ、誰にでも届く優しさと易しさ、〈前に進むことを停めた友へ〉という、様々な読み込みの可能なフレーズで全体を挟み込むように整える形式の安定性。同一内容をリフレインしているように見えて、痛み、という同一の言葉が、異なった側面から捉えられているように読める奥行きなど、たくさんの魅力を備えている本作を、大賞作品に推したいと思う。


◆優良

☆地球 ケーキと福音 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1135

コメント欄より 〈幾つものいのちが死んで終わる〉 〈いのち全体が過呼吸〉 〈今年もまた 死にきれなかった〉 刻んでいくひとことひとことが、とても印象に残りました。 生きているかのごとく(生きるばかりに)光る月・・・物質としては「死んで」いるはずなのに。 ずっと、私なんかより、生きているじゃないか・・・その冷たくあたたかく浸みて来る月の光。 泣きながら食べるクリスマスケーキ。 なぜか、生きていることの「罪深さ」を抱えて、今年もまた生き延びてしまった、ことを歌っている語り手。 生き延びてしまったことを、言祝いでほしい。そんなクリスマスでありますように・・・


大賞候補に推したいと思った作品のひとつ。以前大賞を受賞されていることも踏まえて、優良に推した。クリスチャンである人も、そうでない人も、当たり前のように「お祝い」する習慣ができてしまっているクリスマス、ではあるが・・・人間の罪を贖う為に十字架上で苦しんで死ぬ、という運命を負った「救済者」の生誕を祝う日である。祝福の日の〈すこし前にも〉生誕に立ち会えずに死んでいったいのち、があり、「わたし」の罪を負って死ぬ命を祝福する、という、引き裂かれるような矛盾を抱えた日でもある。コメントでも引用したが、〈いのち全体が過呼吸〉この一行を中心に捉えたことを評価したい。


☆桐ケ谷忍 籠の外 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1072

コメント欄より 逃げ出さないように、風切り羽を切る。それは、語り手による、「ピーコ」への執着であったのかもしれません。花緒さんが「ダーク」と評したのは、〈もがれた翼をばたつかせるのは/見ていて不憫だった、いや、不愉快だった/私にではなく、窓の外に向かって啼くのも〉このあたりなのではないか、と思いました。 〈私〉は、自分では「飛べない」ことを自覚していて、「飛べるもの」に憧れている。なおかつ、その「飛べるもの」が自由に飛び立つ(飛び去る)ことを許さない。許さない自分に、「飛べるのに、飛べなくされたもの」がいっそ反抗しれくれればいい、と願っているのに、その「願い」は果たされない。「飛べるはずだったもの」が、ひたすら空に憧れているのを、胸騒ぎと共に見つめている・・・。 「籠の中の鳥」が、単なる愛玩動物やペット、家族、を越えて、自分自身の魂の象徴のようにとらえられているから、なのではないか、と思いました。自分の魂が、自由に羽ばたくのを、自らの意志が阻止している、というジレンマを抱えていて・・・自らの魂が、自らの意志に徹底的に抗弁してくれる、そんな強さを持つことを、実は願っているのではないか。 それなのに、魂は肉体から抜け出して、空へ還ることばかりを願っている。意志(と肉体)は、そのことに対してついて行く事ができない。 〈一緒にいる為に、だから翼をもいだ〉魂を、自らの内につなぎとめておくためには、魂の翼をもがなければならなかった・・・生きて行くために、誰もが経験するはずのこと。その痛みを、いつまでも覚えている(それゆえに、魂が、肉体の中に、なかなか居場所を見いだせない)人と、すぐに忘れて(折り合いをつけて)、魂が肉体の内に居場所を見つける人、とが、居るような気がします。

 

 自らの魂を、自由にさせたい、手放したい、と思うと同時に、執着し、手放したくない、と願うあまりに、自らその翼を切る。自分で自分の魂を切り苛むような、過酷な行為をせずにはいられない、そんな自分を、冷静に見つめる他者としての自分。空を飛びたい私と、飛べないことを知っている私、飛べることを知っているのに、飛ばしたくないがゆえに飛べなくする私。「私」の多面性を小鳥と飼い主の関係という具体的な映像に託して描いた点に惹かれた。


日下悠実 冷たい夜明けの湖畔にて http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1074

コメント欄より 指先に走る痛み、に焦点が当てられているのではなく、〈撫でる〉という言葉に含まれる愛おしむようなニュアンスが印象に残りました。 指先に刃をすべらせ、うっすら滲む血液、その血が〈誰かの/同じ血〉へと混ざっていく、とけこんでいく、のを夢想しながら・・・実際には、血が乾いて、痛みだけがそこに残されるのを、一人で見つめて居なければならない。 わたし、であることを離れて、大きな一群、誰でもない群、の中に溶け込んで、消えてしまいたい、という願望が、満たされないまま、孤独だけが切々と・・・指先にこびりついて乾いた血が目の前に突きつけられるように、そんなリアルさで迫って来る。 そんな心情が描かれているように感じました。 二連目の、〈誰か〉という、漠然とした対象設定が、全体をなんとなく曖昧にしている感もあります。耽美的な心象風景への傾きが前面に出ている、というべきか。 命のエネルギー、あふれ出す心情・・・その熱の象徴ともいえる流れる血が、乾いてしまう、というイメージと、心が冷えて、凍り付いてしまう、液体が固体になってしまう、というイメージと〈凍える指先〉〈溶けはしない〉〈霜が訪れ〉という冬の寒さのイメージとが重なっているように思いました。 〈深い底〉とは、集合的無意識が心象映像として描き出した、群青色の湖、ということになるでしょうか。 茨木のり子の「みずうみ」という作品に、〈人間は誰でも心の底に/しいんと静かな湖を持つべきなのだ〉 〈田沢湖のように深く青い湖を/かくし持っているひとは〉という印象的なフレーズがありますが、そんな心の奥底の湖を連想しました。


 普遍的な湖の心象風景と、鮮烈な血の色。白と青、そして赤。ナイフに傷つけられる、のではなく、自ら刃を迎えに行く。一滴が湖の底に落ち、誰かの同じ血へ混ざる、という2連からイメージするのは、あらゆる人々の痛みや哀しみ、苦しみの一滴を集めて、しんと静まり返っている湖の姿だ。一滴だけ、自分自身を湖に逃して(哀しみの集合体の中に、自らを溶け込ませて)、岸辺で指先の血が乾く(再び、自分自身を孤立させる)のを見ている、とも読めるかもしれない。4連に整えられた安定した詩形の美しさも評価したい。


◆推薦(優良次点)

☆弓巠 空をひらく http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1041

ひらがな、カタカナ、漢字の使い分けは、詩面の印象だけではなく、音読(脳内再生)する時のニュアンスにも影響してくる。いわば、テクストの質感にあたるものだろう。体言で止めて、助詞で改行する区切りや、言葉を重ねながら変容させていく手つきなどから、音として響かせることと、目視した時の質感の追求と言った、意味よりもニュアンスやムードといった「とらえどころのないもの」を文字に置き換えようとする意欲が感じられる。空、という文字の持つ意味と、文字そのものを解体していったときに現れて来る意味が、どのように関係してくるのか。空を分解すると穴が現れ、さらにウ、八、工(たくみ、と読める)カタカナでウハエ、どこまで行っても「文字」としての意味を見てしまいそうになる視覚の性向を問おうとするように見えて、そら、という音に戻り、何も捉えられないところに回帰していく。空を写す水、映し出すだけで、何もとらえられなかった、という喪失体験の想起が繰り返される。開放的な場の提示、文字の解体も含めた、場の解体が意図される一方で、この循環の中に閉塞、安住していくような空間の作り方に、もどかしさのようなものも覚えた。


☆北 埃立つ http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1132

ぎっしり文字を詰めることで生れる切迫感や焦燥感と、読みやすさとの兼ね合いを考えさせられた。論理に収まることを拒否するような自在な言葉の運びで詩句を進行させつつ、エキゾチックな、童話の世界で触れている外国の街のような都市空間が、断片的な描写の中からぼんやり浮かび上がって来る。蝋燭の火、火事、指先の炎、渦巻く夕陽、と、火や情熱を喚起する言葉が断続的に現れ、全体にひとつの色を付与していく(調性を整えていく)一方で、留まることなく先へ先へと進んでいく詩句の進行、全体を主導する疾走感に惹かれた。濡れたように注がれる月の光、月の光に濡れる町を映し出す最終行は、水の世界への回帰、羊水の世界への回帰願望とも読める。胎児の時の記憶までイマジネーションで遡って呼び返しつつ〈俺に故郷がない、ただ景色だけを持っていて、そこに奏でるギターがない〉と畳みかけていくあたり、ないからこそ、求める、という切迫感が伝わって来て強く惹かれるものがあったが、ロジックからの飛躍が大きすぎて、連想が追い付かすに意味を取りこぼしてしまう詩句も多く、手元に留まらず、すり抜けて行ってしまうような感覚が残った。


clementine 産毛 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1050

本文一行目と題名が被っているのだろうか。詩の立ち上がりは重要なので、一行めを整えたい。全体に、とらえられないものを捉えようとする試みが、名付けるという行為において確認される展開、匂いを感じ取る感覚、産毛を揺らすようで揺らさない、気配だけを残していく感覚と、名付けようのないものを(たとえば、みぞれと)名付けていく感覚に連続させているところに惹かれた。比較的短めの詩行の中で、リフレイン的に繰り返される〈みぞれとよんだ/呼んだ〉という詩句の重なりや、〈カルキのにほい〉といったフレーズは、淡色の絵の具を重ね塗りしながら強めていくような効果をもたらしているが、同じ色が繰り返されることによって画面が単調になっていく傾向も否めない。〈指先にぎりぎり届かない/日向〉〈産毛をかすかに揺らさない/風〉どちらも否定の強さが、逆にリアリティーを喚起する印象に残る詩行。こうしたアクセント的な部分を大切にしてほしい。


夏生 黙々と http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1058

動作を丁寧に描写していくと共に、連用止めと改行で続けていく詩句のつづりが生み出す律動感が印象に残る作品だった。糸、という言葉に喚起されるイメージが、関係が崩れないように、ほつれないように、という願いであったり、絡まることへの怯えであったり、その絡み合いを断ち切らねばならない、そうした場面に立ち会わされることへの恐れ、というように、多方向に展開していく。それでいて、全体を糸のイメージがつなげている一貫性、粘り強さが良い。いとも簡単、と糸の音にかけたユーモアが、全体のシリアスな調子とうまく調和しているか、どうか・・・ユーモアや笑いに転化する部分の取り込み方は難しいが、笑いには、息づまるようなシリアスな重さをひと息に開放する効果がある。〈一生懸命の/もろさ/と/堅さ〉は、そのままこの作品の持ち味であり、特質でもあるのだが・・・もろさ、堅さをしなやかさでつなげていくような余裕が加わると、もっと作品に自在さがうまれるのではないか、と感じた。


◆参考 優良候補作品 (順不同)

渡辺八畳 市営のシエスタ http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1122

徐々にでいいから 回送 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1053

クワン・アイ・ユウ 声だけの無名、酷い、酷いにおい http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1077

二条千河 口実 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1144

まりにゃん * http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1075

渚鳥 再開 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1086

shun kitaoka 高橋先生 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1102

蛾兆ボルカ 黄色くて丸いパン http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1107

静かな視界 shima  http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1107

北村灰色 海に砂糖を、僕には何を? http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1107

アラメルモ ドライフラワー http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1088

くつずりゆう 東風 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1039

大熊あれい 芝生で覆われた土手一面に、霜が降りて光っている http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1099

芦野夕狩 姉の自慰 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1154


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by yumiko_aoki_4649 | 2018-01-15 04:12 | B-REVIEW | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
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