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伊東静雄ノート 10

『春のいそぎ』の全作を鑑賞しつつ、当時の静雄の思いを辿りたい、そして、その当時の詩人たちの置かれていた状況を知りたい・・・そんな想いから始まった「静雄ノート」も、既に十回を記すことになった。

当然のことながら第一詩集や第二詩集にも思いが飛び、紆余曲折を重ねている。ノート、という名の如く、覚書の域を免れずにいることを、まずはお許し願いたい。その間、『詩と思想』(20169月号)において、戦後静雄自身が全集収録を拒んだ七篇の「戦争詩」について概観し、静雄の死後に編集された『定本 伊東静雄全集』に、なぜか収録されなかった「十二月八日近く 思いを述ぶ」についても考察を試みた(『詩と思想』20175月号)。静雄の「戦争詩」については、より広く、深く、当時の社会情勢や文学について調査と反省を重ねてから、再度、詳細に考察を試みたいと思っている。


前回、エクスカーション的に静雄と妻の花子の関係に触れた。『春のいそぎ』には、戦時中の詩集としては珍しく、日常的な次元から綴られた妻子に関する思いを述べた詩が収められている。自序に〈ひとたび 大詔を拝し皇軍の雄叫びをきいてあぢはつた海闊勇進の思は、自分は自分流にわが子になりとも語り傳へたかつた〉とあり、また、今回の詩集は家族のことを書いているためか、評判が良いようだ、と手紙に認めていることからもわかるように、妻子を強く意識した詩集であったことが伺われる。静雄にとって、『春のいそぎ』を編んで残すことは、どのような意味を持つものだったのだろうか。


詩集巻頭に置かれた「わがうたさへや」には、〈大いなる戦ひとうたのとき〉であることを、一斉に声を揃えて告げ知らせる〈くにたみの高き諸聲〉が、今、新たに響いている、と記した後に、三字下げで、


そのこゑにまじればあはれ

浅茅がもとの蟲の音の

わがうたさへや

あなをかし けふの日の忝なさは


と、謙虚に、控えめな口調で戦いが始まった日の「うた」に和することを記している。自らが(例えば高村光太郎のように)率先して「くにたみ」の声を代表する、あるいは、先頭に立つ、といった気負いや責任感から歌うのではなく、あくまでも「皇国臣民」の一員として、また、一人の教師として、「わがうた」がせめてもの慰めとなれば、という心情を提示している。


たが宿の春のいそぎかすみ売の重荷に添へし梅の一枝


(炭売の重荷に、その労苦をねぎらうかのように、名も知れぬ人によってそっと添えられた梅の一枝。これは、新年(新しい世紀)を迎えるための「しつらえ」の心であろうか)


右は、『春のいそぎ』という詩集名の由来となった伴林光平(幕末の国文学者、歌人、勤王志士)の歌であるが、その梅の一枝(おそらくは白梅)のような詩集でありたい、という、偽らざる心情から生まれた詩集であったに相違ない。


「戦争詩」を書くに至った静雄を、「弁護」するつもりはない。ただ、『改造』その他、いわゆるオピニオン誌の当時の記事を見ても、欧州列強の「植民地」として虐げられたアジア諸国を解放し、欧州衰退の期に乗じて太平洋の覇権を手中に収めようとしているアメリカの野望を阻止することが、アジア全体を守るために急務である、という主張がもっぱらであった。日本の植民地政策に異を唱えたり、民族自決を尊重せよと述べる論文は悉く発禁となり(例えば、細川嘉六の横浜事件。(昭和十七年(1942)九月)大東亜文学者会議の第一回大会(昭和十七年十一月)が「満州国」「中華民国」「蒙古」の代表二十一名を招待するというパフォーマンスと共に開催され、従軍記者の記事や、「戦場ルポ」の為に(男女を問わず)派遣された作家たちの華々しい報告が文芸誌や新聞紙上を賑わせる、という情況であったことは確認しておきたい。そして、何よりもそのこと自体を、私たちは「反省」しなければならない。報道の自由の制限が、ファシズムの野望を正義と思いこませ、「国民」を「国家」の意志に従う「皇国臣民」へと醸成していくのであるから。

 こうした状況下で、昭和十七年に編まれ、翌年の一月に発刊された『春のいそぎ』であることをふまえつつ、その詩篇の並べ方から、静雄の編集意図を考えてみたい。


 『春のいそぎ』は、前半は文語詩、後半は文語と口語の混交、最後の数篇に、童謡風の口語とも文語ともつかぬ詩篇を並べる形で編集されている。

 冒頭、「わがうたさへや」(文語)で自らの思いと姿勢を述べた後、やはり文語で格調高く、「かの旅」と「那智」が続く。この二篇は六行の一連目の後、字下げで六行を綴る整った形式を持つ。(箏曲の前歌と後歌を思わせる、と私観を述べたことがあるが)旅の感慨と、帰阪後の思いを呼び交わすような形で記された文字通りの「歌」であり、共に旅をした青年たちへの思いをつづった作品でもある。〈戦局の推移、わが国の大いなる運命、近づいてゐる軍隊生活のこと〉への思いをつづった青年からの手紙への返歌として記された「久住の歌」と合わせ、この三篇は戦場に向かう青年たちの武運と無事とを祈る歌、であると言えるだろう。

 続く三篇、「秋の海」と「述懐」、「なれとわれ」も文語で綴られている。「秋の海」は「愛妻(はしづま)」を失った友を思いやる歌であり、「なれとわれ」は自身の妻を伴って、ようやくの帰郷を果たした折の感慨を歌っている。間に置かれた「述懐」は、開戦の日の思いをその一年後に歌った作品であるが、最後に置かれた〈()が思 子と(つま)にいふ〉という一文からも分かるように、妻子に自身の思いを歌い置く形を取る。つまり、戦場に向かう若者たちへのエールを三篇置いた後、妻子への呼びかけを三篇置いた、と見ることができる。

 その後に続く三篇「海戦想望」「つはものの祈」「送別」これも文語で綴られている。「海戦想望」は南洋で激しい戦闘を「勝利」で飾った後、満月の光に照らされてひとときの安らぎを得ているであろう「つはもの」たちに想いを馳せる、映画的と言うのか、絵画的な情景を描いたものであり、「つはものの祈」はパレンバン奇襲直前の落下傘部隊の写真を見て、〈いくさの場知らぬ我ながら、感迫りきていかで堪へんや。乃ち、勇士らがこころになりて〉歌った歌、と前書きがある。いずれも新聞や雑誌の報道から見聞きしたことを、ロマンティックな夢想を膨らませて歌い上げた作品、ということができるだろう。落下傘部隊を白い花に喩えた佐藤春夫を始め、多くの詩人たちが煽情的な新聞記事に感化されて高揚感のままに作詩した戦争詩、ということになろうか。「送別」も、実際に出征する田中克己へ送った歌である。いずれも戦地への思いや祈りを込めた歌、ということになろう。

 続いて名作の誉れ高い「春の雪」が置かれる。戦地を思う高揚感に充ちた歌のあとに、静かに春(新しい時代、新しい夜明け)を待つ冬の明け方の叙景歌が置かれていることになる。本作の鑑賞はまた後に譲り、ここではその次の作品を見て行こう。

 「春の雪」の後、冒頭の「わがうたさへや」(開戦の日の思いを歌ったうた)に呼応するかのように、口語で綴られた〈昭和十六年十二月八日〉を記念する「大詔」が置かれる。「大詔」を前半部の中締めと見るか、後半部の巻頭歌と見るか、意見の分かれるところかもしれないが、「わがうたさへや」から「春の雪」まで、文語で綴られた前半部をひと括りとし、口語で歌われる「大詔」を、後半部の巻頭と考える方が理にかなっているように思う。

 後半の詩篇を、以下に並べてみよう。


「菊を想う」(口語)〈吾子〉〈子供の母〉との日常詠

「淀の河辺」(文語)〈水を掬びてゑむ〉友を思う歌

「九月七日・月明」(文語)〈吾子〉の看病をする歌

「第一日」(文語)戦闘を体験した〈友〉の聞き書き

「七月二日・初蟬」(口語)娘と〈その子のはは〉と共に聴く、初蟬への思いをつづった歌


一見するとテーマがバラバラであるように見えるが、口語(そして妻子への思いを歌う日常詠)で、文語詩を挟む構成になっている。内容も、当時の日常から取材されていると見てよいだろう。

 続く四篇は下記の通り。


「なかぞら」(文語)

「羨望」(口語)

「山村遊行」(文語)

「庭の蝉」(口語)


今まで静雄ノートで読んできた私見になるが、「なかぞら」は叙景歌であると共に、物思いに沈む自身のことを、〈ふる妻〉に〈新しき恋や得たる〉とからかわれた、という日常詠を含んでいる。さらに、最終連は、〈去年(こぞ)の朽葉〉が春の水に〈かろき黄金(きん)のごと〉浮いて流れているだろう、と想像力を膨らませるのだが・・・沈んでいる自身の言の葉が、軽やかに流れ出すさまを願う自身の詩作への思いを歌った詩、あるいは祈る歌、と見ることできる。

 「羨望」は、詩人になりたい、と尋ねて来た青年との会話を記した日常詠。三好達治が『詩を読む人のために』で褒めた静雄の詩、「訪問者」に通じるような、若者との対話である。静雄は、蝉の声がうるさくて、勉強が手につかない、と愚痴をこぼす〈若い友〉を、そんなことでは〈日本の詩人にはなれまいよ〉とからかうのだが、その時の返答――「でも――それが迚も耐まらないものなのです」に、〈一種の感じ〉と、〈訳のわからぬうらやましい心持〉を抱いた、と記す。

 なんとも捉え難い、自然主義風の謎めいた詩、ということになるが・・・「七月二日・初蟬」の中で、〈初蟬をきく/はじめ/地蟲かときいてゐた〉という一節を念頭に置きつつ、第一詩集の『わがひとに與ふる哀歌』の掉尾に置かれた「鶯」を思い返してみる。「鶯」は、幼い頃に聴き馴染んだ美しい鳴き声を忘れてしまった〈私の友〉に対して、呼びかけた歌である。(解釈上、自分自身に対する呼びかけ、とも読めるが、友人の大塚を意図している、という静雄自身の言葉も残されている)さらには〈七面鳥や 蛇や 雀や/地虫や いろんな種類の家畜や/数へきれない植物・気候のなかに〉感じ取ったであろう諸々の詩情を、すっかり忘れてしまった〈君の老年のために〉、自ずから自身の唇にのぼって来る〈一篇の詩〉を書き留めること、それが私の詩作、私の使命なのだ、という、静雄自身の詩論を述べたような作品である。

 地虫かと蝉の声を聞く、という共通性も含めれば、〈私の友〉が忘れてしまった自然の声、自然の歌、の中に、蝉の声も当然含まれることになろう。静雄が「羨望」に歌われた〈剣道二段の受験生〉であり、〈年少の友人〉である青年に対して抱いた〈感じ〉とは、何だろう。なぜ、「羨望」を感じるのだろう。

 のちに作詩された「訪問者」の中で、静雄は、詩人になりたい、と訪れた少女の詩作品に〈やつと目覚めたばかりの愛〉を認め、〈自分で課した絶望で懸命に拒絶し防御してゐる〉〈純潔な何か〉を感知し、最後に〈生涯を詩に捧げたいと/少女は言つたつけ/この世での仕事の意味もまだ知らずに〉と締めくくる。無我夢中で詩作に憧れ、邁進している若者が、詩作という苦悩、青春期に通過する絶望をまだ知らずにいる、ことへの羨望、であろうか。反語的に、そうした無我夢中の情熱を失ってしまった自身を省みている、とも取れる。

「七月二日・初蟬」において、蟬の声を聴きながら、同じようにそれをきいている妻子に何か〈言つてやりたかつたが〉黙っている詩人、言葉にし得ない苦悩を抱えてしまった詩人としての自己を省み、そうした苦悩を知らずに詩作に純粋に憧れている若者への「羨望」を抱いたのではないか。このように見て来ると、「羨望」と言う作品も、自身の詩作に関わる問いかけを含んだ作品、ということになる。

「山村遊行」は、静雄ノートの一回目で触れた作品だが、これも夢想の内に迷い込んだ、イマージュを彫り出す人々への憧憬と、そうした場に到ることができない自分自身の立ち位置とのジレンマを綴った作品、と読むことができるだろう。これもまた、詩作とはなんぞや、という静雄のイマジネーションが生み出した作品である、ということになる。

文語、口語、と交互に置かれた四作の最後に「庭の蝉」が置かれている。


庭の蝉


旅からかへつてみると

この庭にはこの庭の蝉が鳴いてゐる

おれはなにか詩のやうなものを

書きたく思ひ

紙をのべると

水のやうに平明な幾行もが出て来た

そして

おれは書かれたものをまへにして

不意にそれとはまるで異様な

一種前生(ぜんしやう)のおもひと

かすかな(めま)ひをともなふ吐気とで

蝉を聞いてゐた


ここで言う「旅」とは実際の旅であると同時に、夢想世界、詩の世界への旅、でもあろう。『哀歌』の「河辺の歌」の中で〈永い不在の歳月の後に/私は再び帰つて来た〉〈けれど少年時の/飛行の夢に/私は決して見捨てられは/しなかつたのだ〉と静雄は綴っている。静雄の詩に現れる「帰還」のイメージ、幼年期の豊かさへの憧れ、〈私さへ信じない一篇の詩〉(鶯)私ですら信じられない、どこか遙か遠くから自然に沸き起こって唇に浮かぶ、幼年期に聞き覚えた美しい歌、自然の奏でる歌・・・それが静雄の理想とする詩であるとするなら。〈水のやうに〉出て来た〈平明な幾行〉とは、どのような詩行なのか。そして、その詩行を前に、〈前生〉を思い、吐き気を覚えている状況とは、何なのだろう。

静雄が、初めて詩誌に発表した「空の浴槽」を併記してみる。


午前一時の深海のとりとめない水底に坐つて、私は、後頭部に酷薄に白(えん)の溶けゆくを感じてゐる。けれど私はあの東洋の秘呪を唱する行者ではない。胸奥に例へば驚叫する食肉禽が喉を破りつゞけてゐる。然し深海に坐する悲劇はそこにあるのではない。あゝ彼が、私の内の食肉禽が、彼の前生の人間であつたことを知り抜いてさへゐなかつたなら。


鶯と、食肉禽。蟬が掻き立てる不穏な何事かと、まるで正反対のような、〈平明な幾行〉。美と醜、平穏と激烈。続いて置かれる「春浅き」に、描かれる光陰。


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by yumiko_aoki_4649 | 2018-03-12 10:23 | 伊東静雄 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
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