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B=REVIEW 2018年2月投稿作品 選評-2

B=REVIEW 20182月投稿作品 選評-2


雑感

「キュレーション」が、合評形式から個々の選評形式に変更になって、数か月。作品を読み、その「向こう」にいる人、「向こう」にあるもの、その気配に耳を澄ます。そのことには何も変わりはないが、それぞれのキュレーターが、どのような観点から、どのような基準で、作品を選び、評を書くのか、そのこと自体が、楽しみになってきた。

自身の情動から出発する作品、沈思黙考した思想や思考を織り込んでくる作品、自身からは離れ、ロジックや論理で緻密に構築していく作品、社会性を持ったテーマを朴訥に誠実に綴る作品・・・こうした多彩、多様な作品を前にして、優良、推薦、という区分が、果たして妥当であるのか、どうか。

先日のスカイプ会議の後、技量に優れている、情緒の伝達に優れている、想像力で異界を作り出す力に優れている・・・といったトピックを立て、「わざあり!」「じーんとくる!」「ワクワクする!」など、そんな小見出しをつけて選ぶ、というのも面白いかもしれない、などと考えたりもしている。(小見出しの付け方が、なんとも凡庸でセンスがない・・・結局、優良、推薦、という一般的な表現に落ち着くような気もするが。)

「詩」とは、なんだろう。ネット掲示板の果たすべき役割とは、なんだろう・・・などと考えている内に、詩論的なものが湧き出して来た。以下にそれを記しておきたい。


◆これは、「詩」なのか?

二月の投稿作品のうち、もっとも印象に残った作品は、実のところ、kaz氏の「カズオ・イシグロ」http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1367だった。

掲示板を埋め尽くす数字のインパクト。名前を剥奪され、数字の羅列に変換された人々の列、墓碑銘、無名者の為の慰霊碑・・・様々なイメージが、沸いては消えていく。街中の巨大な壁面に、LEDライトで数字が点滅する様を夢想したりもした。

初台のオペラシティの階段に設置された数字を用いたアート作品をご存じだろうか。あの場所に差しかかる度に、日常がずらされる違和感に遭遇する。普段は背景に没している階段が、展示場として奇妙に浮上してくる逆転現象。見えているのに、見えなくなっているもの、気配を消しているものが、存在感を持って迫って来るときの・・・ある、ということの厚みを滲ませて押し寄せて来るときの、おののきのようなもの。

「カズオ・イシグロ」という固有名のイメージと、数字に変換された「なにか」の迫力が、奇妙な均衡と緊張感とをもって対峙する本作品と遭遇した時、まさにこの、「日常がずらされる違和感」を感じたのだった。背景となる掲示板の余白が、奇妙な空間として浮かび上がって来る。整然とした形態でありながら、ざわめきが心中で収まらない。コンセプトが背後に隠している(らしい)「意味」の厚みと、その「意味」が読み解けない困惑に宙づりにされ、読み解かせない拒絶に対して、あるいは全てを読者に委ねるという作者の意図的な「放任」に対して、苛立ちにも似た感情を覚える。濃縮された沈黙が充満する混沌。数字に敏感な人ならすぐに気づいたかもしれない、素数の列記。数字に鈍感な私は、注記を読んで、また混乱に誘われる。

伝えたいが言い得ないこと、言葉にし得ないことを、必死に伝えようとするがゆえの試行と読むか。新奇な方策、耳目を引くことをもくろむスタンドプレーか。「言語芸術」の限界をさらに拡大し、革新するための、果敢な挑戦と肯定的に見るか。「言いたいこと」がない、その空虚をはぐらかすための素振りと否定的に見るか・・・。

そもそも、これは、詩、なのか。「詩」は言葉による芸術である、と定義する。「言葉」で示された表題を、同等のインパクトを持つ「図像」で代替していると見るなら、やはりこれは、詩、と呼ぶべきものなのではないか?そして、「数字」もまた、自然界からの(極度に抽象化された)メッセージであり、これも「言葉」と呼びうるもの、ではないのか。

詩史的な新奇さ、という点に関しては、おぼろに、恐らくは初の試みであろう、とは思うものの、人間の創意工夫であるから、いつかどこかで既に行われている可能性は否定できない。それゆえ、初、であるかどうか、その証明には拘らない。珍しい試みであることは相違ない、それだけは言える。


◆「選考基準」の公平性

インパクトを持って迫って来るものを推す、新奇な試みへの挑戦を評価する、解釈の多義性や詩形や技法の多様性に価値を見いだす。こうした「選考基準」に立つならば、kaz氏の「カズオ・イシグロ」は、「詩」から逸脱しようとし続ける「詩の動態」を示すひとつの実例と言えるかもしれない。

だが、「詩とは、こんな感じのもの」という、ゆるやかな共通理解を前提として人々がネット上に集い、「言葉」による芸術を各人が提示し、読み合い、感想や批評を述べあい、切磋琢磨や自己探求につなげる場において・・・さらにはその意欲を背後から「応援」「支援」するために、より広く周知したい作品を「選ぶ」、という基準に立った場合、kaz氏の「カズオ・イシグロ」は(多様な感情や、言葉にならない詩情を喚起し、多彩な思考に「私」を導くという豊かさを持った作品ではあるが)一度「行われて」しまえば、二度目はアイディアの模倣にしかならない、反復不能の試行である。

私的な区分では、「カズオ・イシグロ」はコンセプチュアルアート作品であって、私の考える「詩」ではない。あるいは、こう言い換えてもいいだろう。

「詩」として、汎用性を持った日本語を用いて創作された他の諸作品と、同等の基準で評価をし得ない。(あくまでも個人的な考えだが、同じ土俵で比較するのに適当ではない。)

以上の理由から、クリエイティブライティング作品を「展示する」という掲示板全体のミッションには合致している作品だと思いつつ、「詩」作品としての「選考」には含めなかった。(何度も繰り返すが、これは私個人の「基準」であって、掲示板運営者の意向でもなく、「キュレーター」の総意でもない。異論、反論がある場合は、私個人へご批判を乞う。)


◆「現代詩」は閉塞しているのか

とりあえず、「現代詩」を、主に戦後創作され、現在も創作が継続されている「口語自由詩」と広く定義しておく。いうまでもないが、便宜上の定義である。

上記定義による「現代詩」の歴史はおよそ70年、「口語自由詩」まで広げたとしても約100年。和歌や俳句、漢詩と比べて、圧倒的に若い文芸である。そして、「現代詩」の歴史は、新奇な試み、革新的な試みの先駆者の記念碑というべき一面を持っている。先駆者が開拓した領野を、続く少数者たちがより洗練させ、優れた作品を生み出し、やがて多数者のコロニーとなると、そこから新たな「未開の地」を求める開拓者が現れる。「先駆者」や「大成者」の名は詩史に刻まれるが、先駆者の詩作に感化され、より個々の資質に特化し、充実させていったその他大勢の名は、ほとんど顧みられることがない。

たとえば、未開の荒地が開拓され、町が生まれ、そこで生まれ育つ人が現れる。父祖が開拓した農地を維持し、より良い作物を生み出そうと日々、細やかな努力を積み重ねる人々の「創意工夫」は、開拓者が成した大きな仕事の前に霞んでしまいがちだが、この町に定住し、農地を維持し更新し続ける人々が居なければ、この土地は再び荒廃する。誰もが未開の地を目指して果敢な冒険を試み、開拓地から外へ出て行ってしまったら、町も土地も空洞化する。「前衛」と呼ばれる試みばかりに焦点が当たる傾向の強い、現在の「詩史」の記述では、地道に、誠実に個々の特性に応じた創意工夫を重ねていく人々の「更新」が、注目されにくい。(それを補うものとして、詩誌の年鑑号における年間展望や、大規模な同人誌による今年の注目詩集や注目作品などを活用してほしい。)

しかし、「現代詩」全体を、ひとつのアメーバのような生命体とイメージする時(アメーバはもちろん単細胞生物だが、ここでは流動的な集合体のイメージでとらえている)、外縁の動きにばかり注目していては、本体の動きを見失ってしまうだろう。「前衛」を自覚していた者が、いつのまにか「後衛」となっていたり、周辺に切り離されて孤立する、という事もあり得る。更新されていかない領野は枯渇する。生命活動を更新し続けている本体を「既視感がある」「類型的である」「特質に乏しい」というような理由で注視せず、先端を伸ばしたものの、ちぎれて取り残された、いわば冒険の痕跡を辿って行くばかりでは、本体の動きを見落としてしまう。

口語自由詩が登場して以降、めまぐるしく「~イズム」が試され、捨て去られ、また新たに開拓されていった時期を成長期とするなら、現在の「新しい試み」が飽和状態となり、明治以降の詩作品を一望できる状況にある現在は、壮年期、あるいは停滞期ともいえるかもしれない。過去作を学び、地道にオリジナリティーを探る者も、自己の感性や思想のみを頼って自身の身体感覚から作品を生み出したり、同時代にたまたま遭遇した作品に学んで創作する者もいるだろう。前衛的な「実験」は、アイディアがほぼ出尽くし、微細なニッチを求めていくような手法しか残されていないように見える。これは、内容ではなく形式、情動ではなく手法に限った話ではあるが、もうやり尽くされた、という閉塞感は、既存の「詩」ではないもの、を作り出す「前衛」たらんとする者にとっては、極めてリアルな感情であろうと思われる。

他方、時代が変わり、環境や条件が変わる中で生死を繰り返す人間は皆、どんなに似ている者同士であったとしても、個々人が異なった資質を持つ、一度きりの存在である。場から影響を受けながら自らを作り上げていく人間の創作物には、差がどんなに微細であっても、同じものは一つとしてあり得ない。他者と異なるオリジナリティーを追求する中で、自分らしさとは何か、という問いかけを繰り返す「芸術作品」の創造の場において、「いま、この時代に、この場に生きるわたし」を出発点とすることが、形式において類似や既視感があったとしても、内容においては豊かな多様性を担保することになる。閉塞しているどころか、これから開拓されていくべき余地が、広範に広がっている、と私は考えている。


◆ネット掲示板に、私が期待するもの

今後、動画や朗読、イラストレーションや写真など、より多彩な表現手法が展開可能な掲示板になっていく、という。そのこと自体は大歓迎だが、今まで通りの「選考」では、当然のことながら対応できなくなることは目に見えている。多ジャンルに渡る「作品」が投稿される、総合掲示板になっていくのであれば、なおさら・・・私は、言葉を用いた芸術、文字を用いた芸術に絞って、新たな「詩」を求めていきたい。

同時に、絵や写真に鋭敏なひと、動画やビデオの作成に親しんでいるひと、音楽に詳しいひと、それぞれが、それぞれの「選考センス」を活かして、独自の「選評」を発表していく、そのことによって多ジャンルが共存する場所になっていってほしい。手入れされた杉林の、整然とした美しさも捨てがたいが、熱帯雨林のジャングルのような、生物多様性が楽しめる場所、何が潜んでいるか分からない、そんなスリルも味わえる場所になると面白いな、と思う。

言葉を用いた芸術、としての「詩」に関していうなら、新奇な技法や珍しい手法を開発することを主眼とするのではなく、「現代詩」が開発してきた様々な技法や手法が、いかに内容と連動して、読者に訴えかけるものとなっているか、「現代詩」100年の技法や手法が、いかに効果的に組み合わせられ、内容をより豊かに伝えるために機能しているか、どうか、ということに注目していきたい。技法や手法が読者に与える印象や効果を十二分に活かし、言葉を補完するものとして機能しているかどうか。さらには、技法や手法のもたらす効果が、「現代詩」を読み慣れていない読者に対して、充分に機能しているか。

伝達性が担保されているか、といった課題に関しても、様々な経験値を持った読者が、双方向性のある合評を試みることができる掲示板という強みを生かして、試行錯誤してほしいと思う。様々な読者が、多彩な印象(感想、批評)を述べることによって、作者は、作品が読者に与える感動の質や多様な読解の可能性を知ることができる。作者の意図を越えた新たな発見をもたらすこともあるだろう。

読みやすさ、可読性を追求することは、読者に「おもねる」ことであるのか、どうか。読者からの反応を試したり確かめたりする場として、掲示板が有意義な場となってほしい。取捨選択は、作者に委ねられている。読者コメントを読み、見極める鍛錬も含めて、「現代詩」を読み慣れた人、読み慣れていない人、両者のコメントが活発に飛び交い、より充実していく掲示板であってほしい。今後とも、楽しく作品を読んでいきたいと思う。


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by yumiko_aoki_4649 | 2018-03-14 21:49 | B-REVIEW | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
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