Yumiko's poetic world

yumikoaoki.exblog.jp ブログトップ

柴田望 詩集『黒本』書評

 柴田望さんの詩集、『黒本』。インパクトのある名前と黒が印象的な表紙。描線と腐食によって描き出す銅版画のような装画、パート切り替えもかねて挿入された挿絵共に、柴田さんご自身が描いたものだという。

d0264981_01310622.jpg

 硬派の詩集である。たとえば、地球儀ならぬ「時計儀」という詩篇は、

 

 何をやってもダメに麻痺した世代の暁

 されたことに嫌な想いで苦しむのは

 じぶんも同様に嫌な想いをさせた証拠

 道を授ける進化すら余計な口出しを背に

 このままじゃいけない規律を腹に

 

と始まる。

 

 微糖化した虚しさを焼き払い

 避難警報の回数を動かぬ証拠に

 施錠された空白は廃駅に舞う

 

よく生きる、正しく生きる、その意味を不器用なまでにまっすぐに問い掛けながら、“常識”に反抗し、先達の老婆心的な“助言”にも抗う青さも抱え、自らを鞭打つような厳しさも垣間見せる。とはいえ、ユーモアも忘れない。「天秤」という詩篇では、

 

 だれにも知られたくないが

 わたしは壁にしか立てない

 床を歩いたことはない

 まっすぐに立って歩く

 あんたたちを垂直に欺す

 

 いやじつは、ぼくもわたしも

 他人と同じ角度に

 立って歩くふりをしてきた

 正体はひとそれぞれ

 微妙にズレますんで

 重ねるとキレイな放射線状の

 円になる

 (中略)

 こうなってしまうと

 おれの意見が正しいとか

 だれが気に入らないじゃなく

 妥当なラインの飽和でもなく

 ひとそれぞれのズレの総和へ

 転がって壁に弾く

 想い出の乱反射目がけて

 幼年の人影は奔る

 

大多数、へ無抵抗に組み込まれることへの反抗心。マジョリティーと言っても、結局は微妙な差異の集合体でしかない集団を、どこか皮肉を込めて、冷静に見る視点……それを図形という“目に見える”形へ寓意的に変換して提示する面白さ。最終二行の乱反射は、個人の思い出への遡行であると同時に、それぞれの人々の微妙なズレが、実は幼年期以来のその人の人生経験や思想体験、環境の影響の蓄積であることも示唆している。

 

 柴田(とオーバーラップする語り手)の幼年期を暗示する、寓話的な作品「空間」を見てみよう。

 

 いまの私よりも若い

 父は教員、母は養護教諭だった

 夏休みには必ず家族で旅行した

 あるキャンプ場でおどろく

 無数の黒い点による巨大な立方体が

 松の樹から飛びだし、羽音は風を破って

 草叢の空き地へ、さらに次の樹へ

 移動する距離と速さを間近で見た

 その日から囀りはいつも聴こえて

 庭の巣箱に来ているのだと

 夏休みが終わっても信じた

 

幼い少年が“見た”ものは、なんだったのか。大量のムクドリの群れ、そういった“説明”も成り立つだろう。だが、読み進めるうちに、立方体、という型枠にはめられて生きている人々の精神を、その群れ飛ぶ姿を、少年は“見た”のではなかったか。そんな気持ちが募って来る。

 

 職員が雛を虫かごに入れて

 「誰か欲しい子は?」手を挙げてしまった

 ゆで卵の黄身をつぶして与えるように言われ

 家に持ち帰った

 母に虫かごを見せて

 ゆで卵を作ってほしいと頼んだ

 忘れられないほど叱られた

 何故、雛をさらったのか

 親鳥は必死になって探しているに違いない

 どうしてそんな残酷な子に育ったのか

 いますぐ返してきなさい

 

“養護教諭の母”が、何よりも大切にしていたこと、それは他者の痛みを思いやること……身をもって知ること、だったのであろう。少年は実際に鳥の雛を飼ってみたい、自分のものにしてみたい、という誘惑に駆られたことがあったのかもしれない。その記憶に刻印された、激した“母”の教え。

 

 冬の朝、発語できない嘴の夢を見て

 あまりの悲しさに目覚めると

 一羽の囀りが聴こえた

 妹が最初に聴いた

 煙突のほうから寝室の壁に響く

 巣が昨夜の強風で煙突の底に落ちたのだ

 母はストーブを点けなかった

 厚着した妹の吐く息は白い

 父は床いちめん新聞を敷いて

 家じゅうの窓をぜんぶ開けて

 ストーブの円筒を頭上の壁から抜いた

 家じゅうの窓から陽の光が注がれ

 真っ黒い小さな塊が

 壁の穴から勢いよく飛びだし

 青空へ消えていった

 

冬場に鳥が巣を作るものかどうか。寓話と見る方が自然であるようにも思える。発語できない嘴とは、自身がくちばしをもった小さな鳥になっている夢を見た、ということの暗示だろう。小さな命が煙突に落ちた、その命を守るために北海道の厳しい冬の最中にも火を点けず、家族の連係プレーでその命を空へ(自由な世界へ)と逃すまでの顛末は、実話であるとしても、寓話であるとしても、両親の生き方とその姿勢を身をもって子どもたちに教えている。煙突の底に落ちたのは、言葉を(発語を)失いかけ、飛ぶこと(自由な精神の飛翔)を失おうとしている、少年の精神ではなかったか。両親は、それをいち早く見抜き、真っ黒に煤を被りながら、再びその鳥が、青空へと自力で飛び立っていくのを、手助けしたと読むのは、読み過ぎだろうか。この詩は、次のように閉じられる。

 

 当時の父母の齢を越えてしまった私は

 父母がしてくれたことを

 子どもたちに何一つできず

 どこで遊んでいるかも知らない

 でも、いつか話そう

 おとうさんが子どものころ

 いまのおとうさんよりも若い

 おじいちゃんとおばあちゃんが救った鳥の飛距離を

 

リアリティーのある寓話。「変形譚」も奇妙な後味を残す作品である。

 

 新しいゴミステーションの鉄カゴが

 狭い間隔で並んでいる

 

 人々は新しい鉄カゴの蓋を開けて

 次々と収まる

 

 鉄カゴには番号が刻まれている

 (内側から見ることはできない)

 

 家を出て

 鉄カゴに収まっていること以外

 普段と変わらぬ日常を生きる

 

 恐ろしいのは変化ではなく

 変化を残したまま日常が続くことだ

 

 日常から逃れたくて

 人々は喜んで収まる

 

自ら喜んで、いずれゴミとして収集され、廃棄されるゴミステーションの鉄カゴに収まっていく人々。マイナンバーを付され、そのことを忘れたまま、都会という消費生活の場に自らを嵌め込んでいく人々が暗喩されているように思われてならない。

 

 翌朝、鉄カゴに吸い込まれた人たちは消える

 戸籍上は生きたまま・・・

 どこにも見当たらない・・・

 

 マンホールの蓋を開けると

 頭だけがぎっしり詰まっており

 何も判断しない液状化された記憶が

 考えや意図の隙間に手放され

 文脈の地層を重ねる

 

 鉄カゴの脚は踊る

 

自ら判断することを放棄し、マジョリティーの意見に身を任せ、日々の楽しさ、消費の面白さにかまけているうちに、廃棄され下水に流された人々の頭(考えることをやめた人々の記憶)だけがぎっしりと詰まっている、そんな幻影。

 

 長時間労働やパワーハラスメントによる若手社員の自殺や、学校のいじめによる自殺が絶えない日本と、対照的なイタリアやフィンランドを、直球すぎるほどのストレートな、しかし小気味よいテンポの表現で比較した「デンドロカカリヤ」……平成29年、旭川市で行われた「サウンド・音楽と映像による朗読会~安部公房『デンドロカカリヤ』朗読会」をベースにした作品である。安部公房の、主人公が見慣れぬ植物に変容する物語にインスパイアされたこの作品は、安部公房の骨太かつ奇想に富んだ社会風刺、鋭い寓喩と親和性のある作者ならではの警句に満ちた作品となっている。

 

 そのほか、〈目をつぶることは/いくらでもできる……何事もなかったかのように見える日々は/新鮮な裂け目だ……目を閉じさえすれば/誰かの笑みを強烈に想い出す夜は/焦げた鏡だ!〉と、他者の痛み(身近なものから、遠い国におけるものまで)に目をつぶってやりすごす日常を鋭く突く「殺戮」、北海道らしい雪のイメージ、冬のイメージと重ねながら、あるはずのもの、見えるはずのもの…の象徴としての〈雪を《見るな》と定め〉られてしまうこと、それを常識として刷り込まれていくことへの警鐘を寓意的に描いた「文學」(この作品は、題名そのものが、文学作品を創造することの喩となっている)などが印象に残った。

d0264981_01315189.jpg

[PR]
by yumiko_aoki_4649 | 2018-06-11 01:28 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)
line

詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite