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『しおり紐のしまい方』上手宰詩集 感想

 皺を与えた和紙に藍の染料を沁み込ませたような表紙カバーをめくると、鮮烈な赤が眼に飛び込んでくる。着物の裏地の紅絹のようなひとすじの艶やかさ。着物の重ねのように、藍、白、赤を重ねた色合いは、和風のトリコロールとでも名付けたくなる。

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 巻頭に置かれた「詩集」は、〈紙を繰る音がきこえる/誰かが私を読んでいるのだ〉と始まる。詩集自らが、読まれることについて語っているのだ。〈広げられた見開きだけが「今」を生き〉〈灯火の下 文字たちは/煮え立つ料理のように香りたち〉やさしく音を響かせながら、読まれること(呼ばれること)によって生き始める詩集のいのち、読む人に滋味を与え、滋養となっていく文字たちの連なりそのものについて、想いを綴っていく。〈書いた人がいなくなってから/ほんとうの本の命は始まるのだが/無言でうずくまり続ける私の暗がりに/誰かが訪れて灯をともすことなどあるのだろうか〉詩集の中に眠る言葉が、心の暗がりに灯をともしてくれる・・・と考えることはしばしばある。道行きを照らしてくれる、と思うこともある。その逆の発想をしたことがなかった。読むことと読まれることが、相互補完的に互いを生かし合う。詩集たちへの深い愛が、逆照射する視座を上手に与えたのだろうか。

 

 一章の冒頭に置かれた「鹿鳴」は、〈嘘はその場で食べてしまえばおいしく終わるが/丹精して育てればこの世を豊かにする〉と、ユーモラスな箴言風に始まる。〈嘘はこの世に実在しない物体なので/柔らかさが夢と似ている〉と続く詩は、上手の詩論を歌っているといえるだろう。虚構、フィクションは、乱暴に扱えば破れたり壊れたりしてしまうような“なにか”を、自分で作りだし、心を込めて育てていくものなのだ。そうすべきもの、という厳しい規定ではなく、その場で〈食べて〉終わりにするのも“おいしい”けれど、丹精込めて育てて行けば、世の中を豊かにするもの。そして、上手は詩を〈嘘を植えても育たない砂漠というところへ/私はこれから行こうと思っている〉と締めくくる。詩の言葉、世の中を豊かにしてくれる美しいフィクションのタネを、砂漠に踏み入って蒔き育てていく行為。殺伐とした世の中に、上手は詩のタネ、詩の心を蒔きに行こうとしている。続いて置かれた「言葉のすみか」では、自分の口から生まれ、そこから旅立ってどこかに住みつく言葉の行く末に想いを馳せる。上手にとって言葉は、人から発するとしてもその後は独自の命を持ち、人の生から離れて生き続けるものなのだ。

 

 〈私がむかし愛したあらゆる人たちの顔が〉〈あなた〉となってうずくまっているのに出会ってしまう「帰宅途中」は、〈夕暮れが私に来た〉という印象的な書き出しも含めて、人生の夕暮れが訪れようとする時と二重写しになっている。〈そうして今日も 家にたどり着けない/夕暮れが私にやってくると/顔の見えない影と/ずっと話をし続けなくてはならない〉人間が、最後にほんとうに帰り着くべき家、とは、どこにあるのだろう。突然やってくる追憶に、そこに留まっていてはいけない、と諭しながら、上手は共に歩み始めるのだが・・・かといって、帰りつく家が明確に見えているわけでもない。この詩を読んで思い出した一節がある。私が愛読している伊東静雄の、〈鳥の飛翔の跡を天空(そら)にさがすな/夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな/手にふるる野花はそれを摘み/花とみづからをささへつつ歩みを運べ/問ひはそのままに答へであり/堪える痛みもすでにひとつの睡眠(ねむり)だ〉だった。

 上手の詩集では、共に歩み続ける「帰宅途中」の次に、「どこにも行けないもの」という神話のような、昔話のようなファンタジックな佳品が置かれている。〈空が大地を生んだとき/高いところから落としたので/足がこわれてしまった〉それゆえ大地は、どこにも行けずにうずくまったまま。(リルケの『神様の話』の中で、天から制作途上で落とされてしまった人間のことを思い出したりもした。)そこで生まれ育った草木は、動けない大地に替わって(その憧れを代弁するかのように)天空へと伸び、鳥たちは空へと飛び立とうとする・・・そんなある日、大地から生まれた朝露(とはむろん、人間のことでもある)は、小鳥に〈空高く私を連れて行っておくれ/私もまた 空から生まれた者なのだから〉と頼む。あらゆる命は〈どこにも行けない大地の上に〉〈雪のように〉降りしきる他ないのだが・・・それを知っているからこそ、命を与えられたものは、天へと向かわずにはいられないのだ。自身の生まれ故郷を目指して。そしてそこが、恐らくほんとうに帰るべき家、なのだろう。

 

 対岸(彼岸、此岸)という空間性を重ねつつ、人と人との関りについて、その思いの疎通を隔てるなにか、を水の流れに仮託していく「向こう岸」、〈罪〉と〈罰〉の関係を、人と小犬の追いかけっこのようなユーモラスな情景に引き写してみる「罪のひとつも」など、易しく優しい言葉の中に、象徴性を潜ませる作品が上手には多い。〈本を閉じるとき〉と人生の終りとを重ねつつ、〈しおり紐の付いた本は/疲れたらどこでも休みなさいと/木陰をもつ森のようだ〉と優しく始まる表題作は、がむしゃらに生き抜くべきだ、というような前のめりの人生訓ではなく、〈自分の物語を読み終えたとき 生は閉じられる〉のだから、時々しおり紐を挟んで、休みたいときには休んでもいい。ゆっくり、自分のペースで人生を歩きとおせばいいんだよ、と自分や読者に呼びかける柔らかさを持っている。そして、いつか突然・・・しおり紐が挟まれたまま、その生を閉じる時が来ても、きっとまた、誰かがその生を開いて読むときが来る。その開かれた場所で、物語の綴り手の命がそのとき、束の間の生を得るのだ。

 

 日常の生活の中から生まれた詩情を丁寧に拾い上げていく二章の最後に置かれた、ファンタジーのような2篇「宛名は「あなた」」、「貴婦人」も印象深かった。想いを伝える先、想いを届ける相手、その〈あなた〉は、人生の折々に出会ったたくさんの“あなた方”の中に、現れては消える人、であり、いつか出会うことを切実に願いながら、決して果たせない誰か、であるのかもしれない。憧憬が文字となって〈あなた〉へと向かうとき、詩が生まれるのであれば・・・詩は辿り着き得ぬ誰かに向かって綴られ続ける文字、ではないのか。

 

 〈戦争に反対して詩人たちが集まって/いったい何ができただろう/言葉にわずかな命を吹き込むこと以外に――〉という感慨と共に社会的な視点を踏まえた作品を三章に置いているが、人を一樹になぞらえた「きのうの樹」、〈問いは答えを招き寄せようとして/違う新たな問いばかり集めてしまう〉と始まる「やり直し」、目に見えぬ〈あなた〉が、〈やさしい大工しごと〉のように心の〈歪み〉の整え方を教えてくれた、という「木づち」の、童話のような優しさと美しさが心に残った。詩集に付けられた真っ赤なしおり紐を、どこに挟み込もう・・・読み終えた今、しおり紐の「しまい方」が新たな問いを産んでいる。


by yumiko_aoki_4649 | 2018-08-03 13:52 | 読書感想、書評、批評
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