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『端境の海』麻生直子詩集 感想

 小雪の舞う冬の原野に、黒地に青のグラデーションを響かせたアイヌ紋様刺繍が浮かび上がる。色味の異なる二種類の白で腰から下をキリリと締めたような美しい表紙カバー。中央にほうっと神秘的な光がにじみ出しているような作品は、チカップ美恵子の「シンルシ/苔」という作品だという。

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 端境(はざかい)と書いて、ハキョウ、と読ませる。破鏡にも通じる凛とした響きの美しさと、なにかが現れ出るような、海の狭間。分かたれた二者が、海のゆらぎの内に再び出逢う、その場所であるのだろうか。

 

 詩集は「死者は仮面をかぶって逝く」という作品から始まる。〈死者は仮面をかぶって逝く/だれもが/やすらかなほほえみさえ浮かべていたという〉死者のかぶる仮面とは何か。〈やすらかなほほえみ〉を浮かべているのは、恐らくは死者であろうけれども・・・そのほほえみが仮面なのか。二連目の一節〈視る意識は/生きているひとのものだ〉が胸にずしんと落ちて来る。死者がほほえみを浮かべて逝った、と〈視る意識〉は、遺された者がそう願うゆえの幻想なのだろうか。あるいは死者の側から見た時、遺る者たちが皆、〈やすらかなほほえみさえ〉浮かべていた、というのか・・・。生きているひと、遺されるひとが〈見失い/見捨てた父や母や子を/その関係の糸のなかで囲いこみ/とむらいの冷気を黒衣で曳いていく・・・わたしたちとあなたたち/わたしとあなたが/無関係をよそおっている無表情な仮面を/仮面のなかでつちかわれた想像力を〉ここで、断ち切られるように二連は途切れ、詩は大きく広がっていく。〈棄民の時代〉に響くモンゴルの民謡、〈惨死を生きた死者たち〉へ、〈わたしたちとあなたたち〉へとゆるやかに、しかし研いだ刃を返すような鋭い一閃を差し込ませながら。

 〈視る意識は/生きているひとのものだ〉〈祈りの安息は祈るひとのものだ/それが生前あなたがしてきたことだ/あなたたちとわたしたちがしてきたことだ〉読者である“私”にも、まっすぐに差し入って来る言葉。それは、生者が死者の側に立って、そこから生者を見据える言葉だ。生者の中には、この詩を書いている自らが真っ先に含まれるだろう。死者と生者が、相互に傷つかぬよう、間に置いて来たやわらかな隔たりは、実際には生者が己の心を鎮めるために偽装したなにか、ではなかったか。〈共生をうたいながら/きょうも 未成のぎまんの物腰で/死者に仮面をかぶせないで〉。まっすぐな祈りの言葉は、願いであり、〈仮面〉をかぶせてきたわたしたちへの告発でもある。個々の家族の死者と生者の間にもある“なにか”は、天災の被災者と為政者、内乱や戦乱の被害者と権力者、虐げられた人々と虐げる者たちとの間にも存在する。両者を隔て、死者に無理やりかぶせられてきた仮面を、この詩の歌い手は取り外そうとする。〈死者の黙示を/かたりえるひととなる/そのひとのこえとともに〉。最終連に記されるのは、自らが語り得る人にならねば、という強い意識であると同時に、自分を越えた何者かの訪れに寄り添い、〈そのひとのこえとともに〉この詩集の詩を紡いでいこう、という想いなのではなかろうか。

 

 詩集は三部構成となっていて、一部には麻生自身の思い出が色濃く反映されている。別れや喪失と遭遇した時、ひとりで旅をする〈冬の波濤が風笛を吹いていた〉北の町(「雪の道」)。それは、かつては母が待っていてくれた、そして今はもう、誰も待つ人のない、故郷の町であるのかもしれない。ふとしたきっかけで湧出する、許すことの出来ない父への思い。〈わたしのかなしみを葬るために/時鳥のように/旅枕に姿をあらわず母がいる〉それは、旅先の追憶の中で、先に逝ったはずの母が思いがけず身近に現れた時の想いであり、死者が生者の悲しみを鎮魂する為に訪れてくれるという逆転に気付いた瞬間でもある(「風祀り」)。結婚が破談となった時も、母は何も語らぬうちからすべてを察して待っていてくれた。上京する際、その母を捨てた、という思いが、ことあるごとに詩人を責め立てていたのかもしれない。積年の思いは幻想の砂塵となって詩人を埋め尽くそうとする。

 だが故郷は、そうした様々な思いを受け止め、〈だれもかれもごっちゃになって戻ってくる〉いつか帰りつく場所、静かに待っていてくれる場所、〈心の在り処〉であり続けている。そんな故郷へ、詩人は〈美しいものをみるときは/いつも慕わしい人を憶いましょう〉と歌いかける(「姥神まつりのころ」「江差のうた歳時記より」「江差港へ」)。思う、でもなく、想う、でもなく、追憶の憶う、を当てる繊細さの中に、先に逝った慕わしい人々への想いが込められているように感じた。

 沖縄、韓国での体験や想いを歌った詩から始まる二部は、二つの世界が触れ合った瞬間・・・まさに、端境で感じ取った想いを書き留めた作品が収められている。外海と内海がせめぎ合う、その場所からやって来た人が手渡してくれた〈貝殻骨〉は、〈精緻なセンサー〉になる、という。それは詩人が身に供えておくべき感覚であるのかもしれない。天の川で隔てられた二人を出会わせるカササギは、韓国ではカンチェギと呼ばれるとのこと。詩人のふるさと、奥尻島でも、中国でも、インドでも輝きを放つ螢たち。アイヌ語ではぺカンペ、ベンガル地方ではパニ・フォルと呼ばれる菱の実を、万葉のうた人もまた、歌に残していること・・・国、文化、時空を隔てているものが、名前を通じて出会った瞬間に生じる感慨を捉える〈精緻なセンサー〉こそが、人に詩を書かせるのかもしれない。このセンサーは、亡き人(の気配)が訪れた瞬間をもとらえる。(「フィリリリ フィリリリ」、「供花の庭」)。集中、「今日、首を切られる黒山羊のために」という詩は、迫力に息をのんだ。〈今日、首を切られるちいさな黒山羊のために/尻込みして/足を踏ん張っているのはわたしだ〉インドのカーリー女神を祀る神殿で、実際の供儀に参会した時の作品だろうか。食事もまた、自らの身を養う生贄である、という意識を、日々、私達はどれほどに抱いているか。その私たちもまた、天災や自然の摂理、宿命によって、いつか供されることになるやもしれない。いずれにせよ、地上の生は必ず終焉する。その時までをどう生きるのか。〈わたしがわたしであるために/斧を見上げる〉という終行が深く心に残った。

 「亀裂に棲む蟹の哀歌」で始まる三部は、生者と死者、現世と異界、現実界と想像力、覚醒と夢想の世界とを隔てる端境・・・その亀裂の中に身を置いて語りだされた作品と言ってもよいかもしれない。「悪魔の排泄物」は想像力の世界で生きのびて来た〈妖怪と魔物〉についてユーモラスに書き出されるが、現実界において〈人や物にとりつく/無色透明な憑き物が確かにいる/確かに存在することを見に行かないだけだ〉という鋭い指摘から〈積み重なって折重なって増殖し/犇(ひし)めいている黒の物体(フレコンバック)が丘陵をなしている〉光景に行き当たると、私達が知らぬ間に憑りつかせてきてしまったもの――経済偏重、生産性讃美の風潮――が寒々しく身に迫って来る。それを、クーラーの効いた部屋で、文明の恩恵を享受しながらパソコンに向かっている私の矛盾も、ひとつの憑き物であるには相違ないのだが・・・。

 最後に、あとがきのように置かれた「母と漁火」が、静かに明るい光を残してくれた。子どもの頃は、男たちにまじって危険な海に出て働く母への想いが、心配や恐れ、哀しみとなって詩人の胸を占めていたらしい。それは詩人の生まれ持った強い共感力によるものでもあろう。船酔い、重労働、心細さ、そうした母の辛苦を思い遣って、小さな胸を痛めていた少女が、やがて八十歳の母を伴って故郷を訪れた時、母と共に働いていた、という人の話を聞く。〈大漁の日は、男たちに敵わないが、漁の少ない日は、お母さんが一番多くイカを獲って、自慢をする明るい人だった。いつも懸命に働いていたよと、話してくれた。〉淋しく、辛いばかりではない、懸命に明るく、誇らしく働いていた母の姿。それは、自身も母とは別の、しかし時に同様の苦労を経験し、懸命に生きて来たからこそ、実感できた喜びであったのかもしれない。“私”の知る母と知らない母とが、端境の海で静かに溶け合う。そこに生まれた安堵。〈わたしとあなた〉の記憶が巡りあう場所・・・それが、端境の海であるのかもしれない。

                                  『端境の海』思潮社 2018.6.30


by yumiko_aoki_4649 | 2018-08-08 13:10 | 読書感想、書評、批評
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