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『旅の文法』柴田三吉詩集 感想

 真っ白な詩集を、石の表面のような簡素なカバーがくるんでいる。詩集『旅の文法』は、三部構成の一章と、「寓話」と題された二章からなる。

 冒頭の「椎の木林」、一瞬、椎の森、と読み、木材、と読み、椎の木ばやし、と読み直した。そういえば、昔はよく「雑木林」という言葉を使った。今は縁遠くなってしまったが、こうした身近な“はやし”のイメージなのだろう。縄文時代から私たちが食べ続けて来た椎の実を冒頭に置くことの意味を考える。地域の運動会の折に、幼児だった子どもたちと一緒に拾って、生のまま椎の実をかじったりもした(腹を壊したらどうする、と後で夫に怒られたが)。昔から私たちの糧になってきた椎の実。〈山のふもとの椎の木林で/かなしい を見つけた〉その隣では〈さびしい と/いたいたしい が見つかる〉。詩人は〈植物博士は椎の木の新種だという〉と、ユーモラスに記すのだが・・・〈やさしい は/おかしい は/うれしい はどこに と/さがし歩くひとびと〉と続く作品に、現在の日本の情景と柴田の想いが透けてみえる。

 続いて置かれた「創世記」は、除染、という言葉を一言も使わずに、除染へのやりきれない思いを綴っている。〈地面をはがす・・・ご先祖さまの魂まで袋に詰められた・・・なくなった地面に歴史を置く場所はありません〉という詩句に、被災地への深い共感と静かな怒りがにじむ。すべてを剥ぎ取られた土地で、新たに歴史を刻んでいく、ということの重さを、〈ただひとり〉という孤独を感じている者に、負わせてしまってよいわけがない。でも、私達に何ができるのだろう・・・・・・ただ、自問自答する他ない虚しさ。「やがて沸騰し」は、被災地での(まだ余震が続く中での)火葬場での光景を描いている。ここでも具体的な地名は一切出てこない。参列者と思しき語り手の最後の言葉、〈私はまだ悲しみに届かない〉という一節が響く。「靴を洗う」この作品でも、被災地の固有名は現れない。しかし記されないことによって、今私たちの居る場所が、〈その地〉にもなり得る、そのことをあぶりだしているような気がした。柴田が実際に被災地を訪れた時の体験を記したこの作品では、靴に付いた〈こまかい土〉〈見えないものを含んだ土〉を洗い落とし、〈見えないものが付着した髪を丹念に洗い/つねとは異なる泡を流す〉その泡を海へと続く排水口へと流す行為について、詩人は〈暗い家の中 灯りをともし/小さな影を映すわたしは/罪を犯したのか〉と省みる。灯りはもちろん、電気の恩恵である。文明の享受と、そのあまりにも大きい代償への想い。2014年公刊の『角度』でも、被災地への深い共感を綴っていた柴田。一部の最後に置いた「ズーム」は、グーグルの航空写真をズームして、被災地にある〈百年前、父が生まれた家〉を探し出すところから始まる。ルーツを〈その地〉に持つ詩人の心の旅。

 二部は、〈朝 台風が二つ釣れたので/目玉焼きにしてたべました〉というユーモラスな書き出しの「絵日記」で幕を開ける。群れ飛ぶ飛行機を〈ねずみ色のトンボ〉に喩え、ひとまたぎで空からサンゴ礁の島々まで足を踏み入れる見えざる存在は、青空や入道雲のような姿をしているのかもしれない。子どものようなあどけない文体で、千年をほんのひとときと見る天界の幼子が綴る絵日記。この島々は琉球弧なのだろう、続いて置かれた「沖縄」は、ストレートな題名と共に沖縄の背負う歴史そのものを体現するかのような老婆が登場する。

〈老婆の影のなかに/死者がひしめいている//影から這い出そうとする/濡れた手や足/そのたび 鎌のような日差しが/カッと照りつけては はみ出たものを/刈り取っていく・・・白くまばゆいサンゴの浜にも/死者はひしめいているが/日差しはなお激しく/だれも 地上に/這い出すことができない〉

 この詩を読んで、私自身が沖縄を訪れた時に感じた体感――葉陰や物陰から、誰かが、何かが見ている、そこに居る、ふとした折に手を伸ばしてくる、でも、なぜか怖さや不気味さは感じない、むしろ包まれるような温かさすら感じる、という不思議な“感じ”・・・・・・恐らく、事前に学んだことや、沖縄戦の資料館を訪れた時の衝撃、今でも畑を掘り返すと人骨が出て来る、というタクシードライバーの話を聞いたことも影響しているだろうと思うのだが、沖縄で体感した不思議な感覚――が、沖縄を体現するような老婆のシルエットと、目に痛いほど白く輝く骨片を敷き詰めたような浜辺との対比の中に描かれているように感じた。

 「大根だかゴボウだか」は、〈あしたから大根の引っこ抜きやな〉という若い男のつぶやきから始まる。〈大根じゃないさ ゴボウだよ/手もなくするっと抜けるさ〉本土から辺野古に集まる市民を排除する役割を担わされた青年たちなのだろう。人を、あえて人と思わないようにして、任務を果たそうとする。〈その夜 男は打ちひしがれ/かたい寝床で丸くなった//(島を引き抜くような重さだったじゃないか)//手のひらから引かない脂じみた汗/怒りには慣れているが/悲しみはつかんだことがなかった〉と締めくくられるこの作品は、人を人とも思わないように仕向ける権力構造が林立させた“椎の木”への、人間としての想いを綴っているように思われてならなかった。

 沖縄をテーマに編まれた二部に続いて、三部は朝鮮半島を旅した時の印象が主題となる。表題作の「旅の文法」は、〈はじめて訪れるとき/ただひとつの文法を覚えていった//トイレはどこですか//知らなくても死にはしないが・・・けれど忘れると/いのちにかかわることもある〉詩人は「トイレ」という一語を〈寒さをしのぐテント/かわきを癒す井戸 シェルターは/境界線はどこですか〉と応用しつつ、現状への想いを綴る。万人が必要とするトイレ。生理現象には国境も国益も主義主張も関係ない。同じ人間同志が、境界線を設け、いがみ合う切なさ。

 〈バス亭の向こうは/見渡すかぎりのトウガラシ畑/熟れた実が風に揺れ/夕日に燃える雲のようだ//かつて千の塔 千の石仏が/この野に満ちていたという〉という印象的な光景から始まる「雲住寺」では、老人が〈草むらに散らばる石くれを指さし、古い日本語で教えてくれ〉たことが、そのまま記されている。老人の日本語は、併合以来、“国語”として覚えさせられた言語でもある。〈これも仏、あれも仏、トヨトミの軍勢が壊していったのですよ。〉詩人の想いは、露わに語られることはない。しかしかの地で出された冷麺を、〈石仏の血管のような麺を/喉に詰まらせながら〉食したという行為の中に、そして、〈トウガラシをまぶされた/全羅南道の ひりひりした夏〉と感じ取った肌感覚の中にひっそりと保存され、読み手に静かに手渡される。

 二章には、柴田が社会や歴史に対する時の思いを寓話の世界に昇華して綴った作品が収められている。日常生活とからめたユーモラスな作品もあるが、「何者でもないわたしが」に現れる、根源的な倫理に触れていくような一節に胸を突かれた。〈だれもが わたしを/日本人だという なぜだろう/枝からこぼれ落ちた椎の実のように/この地の養分によって/根を伸ばしたからか・・・あの全さん あの楊さんから/額を指さされたならば/わたしは日本人であることを/引き受けなければならない・・・ひざを折って死者たちに/祈りを捧げなければならないだろう//人が 人を赦すまで/人が 人に赦されるまで〉

 柴田ひとりが負わねばならない罪ではない。しかし、私達ひとりひとりが、日本人である限り、自覚し、引き受けねばならないことであるに相違ない。その自覚を持って、死者に祈りを捧げること。互いに歴史と思いを知り、そして、赦しあう、ことにしか、道は求められないだろう。

 互いに赦しあうまで、祈り続ける。詩を綴ることは、祈りでもある。


                     『旅の文法』ジャンクション・ハーベスト刊 2018.5.20.


by yumiko_aoki_4649 | 2018-08-10 09:17 | 読書感想、書評、批評
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