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『悲の舞 あるいはギアの秘めごと』三田洋詩集 感想 

生成りの砂地のような地に、細胞の顕微鏡写真を淡い黄色の版で押したようなカバー。丁寧に織り込まれたカバーをそっとめくると、目の覚めるような青の本体が現れる。生命は海に還る、その暗示だろうか。詩集本体を形作る一葉一葉が、詩集扉のような厚地で編まれていて、触れているとしっかりとした手応えが伝わってくる。

冒頭の「悲の舞」は


悲は斜めうしろから

すくうのがよい

真正面からでは

身がまえられてしまう

悲は日常の爪先ではなく

白すぎる紙の指で

呼吸をほどこすように

すくうのがよい


と始まる。すくう、これは「掬う」であろうけれども・・・たとえば阿弥陀如来の手で「すくう」ならば、「救う」でもあるのかもしれない。わたし、の悲しみを「すくう」のか。もっと大きな、たくさんの人の「悲」にまで、想いは広げられているのか。

日常的な次元ではなく、紙に静かに言葉をつづることによって、〈悲〉を捕えたり追い払ったりするのではなく、そっと手のひらに乗せるように受け入れよ、そう歌われているような気がする。続く詩行を引用する。


太古から伝わる悲の器のように

やさしく抱えこみながら

静かな指のかたちで

すくってもすくってもこぼれてしまうけれど

傷ついたいのちのすきまを

ていねいにふさぐよう

だれもいない奥の間の

ひっそり開かれる戸から

陽がさしてくればなおよい


悲(Hi)が、〈ひっそり開かれる〉戸から漏れる〈陽〉となるとき。


 そのとき

 悲はひかりの粒子にくるまれて

 必然のつれあいのように

 すくいのみちをめざしながら

 秘奥の悲の舞を

 ひそかに演じるのでしょうか

 だれもいない開演前の舞台のように


〈だれもいない〉舞台を見ているのは、末期の眼であり、既に他界した者のまなざしであると同時に、未生の舞台をまなざす者の眼でもあろう。

 生きてここに在る肉体が、死後の、あるいは未生の世を夢想し、その地点からいずれ訪れる〈すくい〉の時を歌っているともいえる。

繰り返される悲の響きが、静かな変容を遂げる。悲がすくいとられ、紙の上で文字となり言葉となり、傷を負った〈いのちのすきま〉をさらさらと埋めていく。一人の命、一個の命ではなく、たくさんの〈いのち〉の間に生まれた空無を埋めていくのだ。それは、個々の内に閉ざされた悲しみを、〈いのち〉たちが共有し、共に〈陽〉に変容した〈悲〉にくるまれる、という〈すくい〉への願いではあるまいか。その時初めて、傷ついた個々の命は、悲のふるまいを〈悲の舞〉として、客観視し、受け入れることができるのかもしれない。

「振り向き方に」や「歳月の窓」で歌われる、何者とも知れないが、はるかな場所から〈見ている〉〈覗いてくる〉視線は、〈籠の鳥を亡くしたり近しいひとや/母親のからだを焼いたりすると〉いっそう強くなる、という。近しい人、でいったん区切り、呼吸を整えて〈母親の〉と語りだす間合い、そして、母親を、ではなく、〈からだを〉と限定するところに、母の魂の永遠を信じる心が記されているように思う。からだから解放されて、魂は天に還ったことだろう。そして、多くの死者たちの魂と共に、はるかな場所から生きる者たちを見守る視線、大きな〈いのち〉へと溶け込んでいく。「悲の舞」は、地上にある肉体が、夢想の力で〈いのち〉の側から、孤/個として存在する命を見たときの舞なのかもしれない。

全編を通読して、柳澤桂子が過酷な体験を通じて辿り着き、生命科学や素粒子物理学の概念を用いながら“現代語”に訳し直した「般若心経」の響きを感じた。三田の描く詩(うた)が、悟りを説こうとしている、ということではない。実存する自己の在り方、その肌感覚を、どのように言葉で言い表そうか、と逡巡した末に、「中性子のかなしみ」や「数字のお願い」のような物理的な用語を選んだ過程に、伝えるとはなにか、と真摯に問う心の同質性を感じのかもしれない。

夢と覚醒時との切り替えがうまくいったときの気配、〈失敗した〉ときの感覚を心の耳で聴きとってしまった際の微妙な感覚を、“ギアチェンジ”の成功、失敗になぞらえて綴る「ギアの秘めごと」もユニーク。ギア、という人名の物語を予感したが、肉体をユーモラスに客観視する姿勢と、微細なずれや違和感を感じ取る繊細さが見出した卓抜な表現である。覚醒していながら白昼夢を見てしまうような、夢幻の世界から抜けきらない、現実世界での曖昧な感覚の居心地悪さ。ピタリと覚醒した時の爽やかさ。〈迷いしくじり途方にくれて/目覚める〉時の方が、人生には多いのかもしれないが、そんな自身を〈ギアの音のいとしさ〉も含めて受け入れようとする姿勢が快い。


今まで、詩を“うたう”と記してきた。行分け詩のリズムや呼吸に、歌うような調べをかすかに感じるからだが、“うた”に乗せていくことのできなかったエピソードが「相克の崖」という散文詩に綴られているように思う。〈歳月のなかで体験と夢想との境界があいまいになるらしい。〉いわば、ギアチェンジがうまくいかなかったときに蘇る悪夢のような体験。まだ若かった語り手が、父を自死で失った友人の、あそこから見ると海がきれいだよ、という誘いに応じて、崖の中腹に腰を下ろして海を見下ろす。〈彼の境遇にそってあげたかった〉ゆえの実話なのか、〈彼の境遇〉を思うあまりに幻想が作り上げた恐怖であるのか。歳月が経つにつれて〈あの時わたしは実は海へ落下していたのではないかという懸念が消えない・・・いつからか落下したじぶんと落下しなかったじぶんとが相克を続けるようになっていた〉ここまでくると、夢想も現実も境界は無いに等しい。友人の体験への感情移入が、いつしか自己の体験に成り代わる。(私事になるが、従妹が自死した、という知らせを受けた後に、宇宙空間で、果てしなく落下していく夢を何度となく観たことがあるが、その時のことを思い出した。)

最後に置かれた「夜の椅子」は、


離別した朝の気配の

亡くした母の春の海の

救えなかった子の

暑い夏のおわりの

声のふるえる箸のはこびかたの

雨にぬれる指のかたちの

そんなひかりのような断片を

何度となく

繰り広げてみせる


と、とりわけ調べを強調した形で始まる。冒頭の〈すくい〉や〈ひかり〉、そして、悲を陽に変えてすくいあげる、はるかな場所から差し伸べられる指の気配と、この世に生きて指先を濡らす人の気配とが重なっていく。その〈ひかりの断片〉いわば、美しい記憶のかけらが現れるのを、詩人は夜の椅子に腰かけて“観て”いる。


 ときには

 遠い祖先の苦渋の痕跡があらわれたりして

 おもわず感謝しながら

 きょうも

 夜の椅子に腰をおろしている


現実と夢想との境界が限りなく曖昧になる時間、はるかな場所から差し入る〈ひかり〉としての記憶の訪れに身をゆだねる詩人。いつかそこに自身も加わり、またこの世を振り返るという安堵も重なっているように思う。読み終えて、静かな安らぎを感じる詩集だった。
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by yumiko_aoki_4649 | 2018-11-13 15:28 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
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