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『名井島』時里二郎著 感想

引き込まれながら一気に読了し・・・埋め込まれた印象的なフレーズの数々、次々に立ち上がってくる謎が気になって、また振り出しに戻る。そのように、二度、三度と読み返した。

 紬の布地のような表紙カバーに、木の皮を象嵌したような「ひとがた」が施されている。石に刻んだ文字を拓本に取った時のような味わいのある書名と著者名、帯文の文字。はるかな場所から届いた本のような、不思議なオーラをまとっている。カバーをはずすと、深い黒地に白い筆文字で詩篇の一部が浮かび上がる。〈見えない島の 鳴かない鳥の〉〈このみも そのみも ひそかに ことのはを はこぶ ふね〉これは四章「名井島」の一篇、「鳥のかたこと 島のことかた」の一節だが、一章「島山」の「通訳」という詩の中に既に〈舟はことばを運ぶものだからだ/ことばを持つものは/舟でないと他の島へ渡れない〉〈人が死ぬと/人に詰めてあったことばのいっさいは/舟に積んで流すのだ/ことばは人のものではない/借りたものだから/返すにしくはない〉という〈島の人〉や〈通訳〉の言葉として現れている。

 うつろ、でなければ、入れることはできない。そして、人は自らことばを作り出すのではない。うつろな身の内に言葉をとりこみ、蓄え、複雑に醸造したり組み合わせたりして、それを時に詩(うた)につむぎ、物語として語る・・・全編を通じて、到来するものとしての詩心、言霊のイメージが揺らめいている。


以前から思っていたことがある。人は、肉体を自然から借り受け、そこに魂を住まわせてこの世の時を過ごすのではなかろうか。魂は肉体(五感)を通じてしか、世界を感受することができない。しかし、何のために魂は感覚の記憶を蓄積していくのだろう。魂が体験した記憶は、肉体から解放されたのちは、いったいどこに行ってしまうのだろう。そのことが、以前から疑問だった。また、人と人との関係、あるいは、人が生み出した書物同士の関係は、多島海の島々に似ていると、これも以前から思っていた。それぞれの島は、独自の文化を有している。植生も生き物たちの種類も、それぞれ異なる。自らの住む島(文化圏)から他島を訪ねていくということは、違った価値観、違った文化圏に触れる、ということではあるまいか。表層だけ観察して、通り過ぎて終わるのか、あるいは、上陸して奥深くまで探索するのか。その島の実りを口にするか否か、自らの身に取り込むか否かによって、その島での体験が、身の内に残るか否かが決まる。自らの島に帰った後も、その時の記憶が色濃く残っている人は、それだけ多彩な生を生きることができるだろう・・・。『名井島』は、こうした以前からの問いや思いに、不思議な物語の姿を取って直に触れてくる。


 冒頭に置かれた「朝狩」から、驚きの連続だった。〈植物図鑑の雨の中を/男は朝狩から帰還する〉図鑑片手に野山のフィールドワークを行う男・・・時里その人の姿が重なるが、この男は、〈弓と胡簶(ゆみとやなぐい)〉を身にまとった猟師の姿をしている。古代から時空を超えてやってきたような男が〈仕留めた獲物〉は、獣ではなく〈耳の形状をした集積回路の基板(チップ)の破片〉であり、しかもその〈獲物〉を男は〈閲覧室〉の机上に置く。デジタル化の進んだ、近未来図書館のような空間に出現した古代人が、〈ピンセットで今朝の獲物を〉精査している風景。

男が狩に出向いたのは、実際の野山であると同時に、植物図鑑という一つの空間(仮想の島)の中でもあるだろう。植物図鑑の中の図像はイデア、野山で手に触れる植物たちは実体という関係性を持つ、と考えてみる。(この関係性は、詩集『名井島』の中では二章「夏庭」に濃厚に表れる。具体物に触れ感受した体感と、言葉・・・名前や付随する物語・・・が体感と結びついていく過程、その結びつきが脳内に立ち上げる、体外の具体物が脳内に象として現出する不思議。身の内における世界の再生、といってもよいかもしれない。)イデアは、名づけによって・・・言葉を、名を与えられることによって記憶の蓄積から呼び出され、脳内に現出するのであり、それは耳(聴覚)を通じて記憶に蓄えられていく行為の相関関係の内にあるものではなかったか?その大元となる記憶の欠片を、男は狩に出て、集めているのだ。何のために?〈傭兵だった男は彼の世紀を逃れてこの図書館に漂着した ここを住処に自らの集積回路から剥ぎ取られた幼年の記憶の基板を探すために〉。男とは誰か。幼年とは、いつの、何の、幼年時代なのか。はやる心と疼く謎を片寄せて、一章に進む。


一章「島山」は、折口信夫へのオマージュの章と言えるだろう。『海やまのあひだ』の「島山」の、[この島に、われを見知れる人はあらず/折口]、あるいは「木地屋の家」で立ち去る折口に[友なしに遊べる子]から手渡される素朴な木の人形[木ぼっこ]と、詩集中盤に現れる時里の木偶(でく)が重なっていく。

冒頭の「をりくち」の中に、Hの音の美しいフレーズがある。〈道にたふるる人も馬も/古石のふみのひそけさ〉。フルイシ、古来からの石の霊力への想い。古い詩、とも響いてくる。踏みと文。ひそけさは[人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり 旅寝かさなるほどのかそけさ/折口]への応唱だろうか。[ゆき行きて、ひそけさあまる山路かな ひとりごゝろは もの言ひにけり/折口]

〈口を折り/開いた分包から微粒のけぶりたつ薬香にむせかへる/旅寝の/夢の/ほどろ/ほどろに/さあをい穂状の腸(わた)がふるへ〉ほどろ、ほどろ、という響きに、“淡雪のほどろほどろに降り敷けば平城(なら)の京(みやこ)しおもほゆるかも/大伴旅人”も浮上してくる。〈口を折る〉と折口が読み込まれ、冒頭の薬物のイメージが呼び込まれ・・・それと共に、四章の「脱衣」に現れる薬包紙の予示が折り重なる。ことばを失った“ひとがた”の再生を促す《伯母》が、〈うすいひかりの呼びかけに 生きているように動いたりする〉〈金属質の乾いたほそいおと〉を立てる、〈言葉の粒子〉を飲み込み・・・それから、〈専用の寝椅子に脱衣して横たわる〉〈わたしの言葉のなかに〉潜りこんでくるという、濃密なエロスの漂う場面。一章に戻る。

「をりくち」に続いておかれた「コホウを待ちながら」は、ゴドーならぬ孤峰を待つのか、古報を、あるいは呼報を待つのか。〈穴井の底の水影のくらいゆらぎ〉は[をとめ居て、ことばあらそふ聲すなり。穴井の底の くらき水影/折口]を呼びつつ、次に置かれた詩篇「島の井」へとつないでいく。緑濃い島々。[鳴く鳥の聲 いちじるくかはりたり。沖縄じまに、我は居りと思ふ/折口]。〈島のことばは さっき森で聞いた鳥の声に似ている〉〈通訳に頼むと/わたしのことばは/この島の森にいる鳥の声に似ていると/島の人は言っているそうだ〉山羊の黒々とした瞳、耳慣れぬ言葉への好奇心。島への旅は、耳慣れぬ言葉を鳥の歌と聞きあう、ことばから音への旅でもあるのだろう。その旅を、語り手は折口と共に居る。いや、旅先で心震わせた折口信夫の、その時の身と心に語り手が入り込み、その人となって見聞きしている。〈この島 今ここにいるこの島ではないこの島にいたという記憶の耳〉。

〈通訳〉、二章の「夏庭」で語り手の対手を務める〈庭師〉とは何者だろう。夏庭は、〈カテイ〉と読むという。過程、家庭、あるいは課程、仮定・・・。ヒト標本と自らを呼ぶ〈わたし〉は、詩集全体を通読すると、ヒト文明が滅びた後の〈ヒト言語系アンドロイド〉の素地となる存在である、らしいのだが・・・室内から庭を見るだけ、聞くだけ、手の届く範囲の植物に触れるだけ、という限定的な感知しか許されない〈わたし〉、また、影を持たない存在であるらしい〈わたし〉は、肉体の中に封じられて、目や耳、触覚という限定された窓口を通してしか外界に触れえない意識の本体であるようにも思われる。心身内部で意識の対話を務める相手とは、言い古された言い方だが、自分自身との内的対話の対手、ということでもあるだろう。経験や知識によって醸成される顕在意識と、さらにはるかな場所から引き継がれてきた(ものに通じているかもしれない)無意識層から現れた人格との対話、と言ってもよいものかもしれない。

三章、「歌窯」の〈わたし〉は、より肉体の側に近い能動性を持つ。「雲梯」は、肉体を持つ〈わたし〉が読み得た「名井島」の歴史、あるいは「名井島」を訪れるヒト型アンドロイドの祖型に関する物語。一文の息の長い流麗な文体は、文語の縁起を現代語訳したような幻惑に引き込まれる。後鳥羽院の御製を自らの身に潜めて運ぶ随身であった〈オキナ〉が、ことばの〈魔的な霊力〉に耐え兼ね、身から引きちぎるように、痛みと共に散らしてしまった〈コトノハ〉。ことばを失い、うつろとなって潰え去った〈オキナ〉は、新たな身体を得て再生するであろうことが語られる。

「歌窯」もユニークな旅体験記である。歌窯によって“精錬”された歌を蓄えた〈島猫〉と、まるで愛人と睦みあうような官能のひととき(体感的な快)を経た後、〈わたし〉の内から歌が生まれ落ちるという。自ら作り出すのではなく、到来するものとしてやってくる“うた”の不思議、その“うた”が自らの内で膨れ上がり、やがて零れ落ちていくまでの、高揚感と喪失感。詩人、歌人が“うた”を生み出すときの精神状態のアナロジーともいえるのかもしれないが・・・一章に現れた折口信夫、その身の内に起きたこと(それ以前にも、その後にも、歌人の内に、あるいは詩人の内に起きていたし、これからも起きるであろうこと)を伝奇や旅行記の形を借りて記していると思われてならなかった。

四章「名井島」は、〈わたし〉の対手を務めていた〈通訳〉が、その〈不具合の補修〉を行うために〈名井島の工場(ファクトリー)〉へと戻るところから始まる。〈あの大異変(カタストロフ)の後は/とみに名井島に渡る者が増えた〉・・・言葉、詩、うた、の崩壊。あるいは、圧倒的な災厄として私たちの言葉を奪った、大震災・・・様々な形で、なんらかの欠如を抱え持ってしまった現代の私たちが、いかに自らの“うた心”を修復していくのか。訪れるものを迎え入れることができなくなっている、その〈不具合〉を、いかに修復していくのか。音、響きに耳を傾けるということ、自然の作り出す諸物に触れ、驚き、その“声”を体全体で感受すること。こうした訓練を、それぞれが自覚的に、意識的に行っていかねば、“うた心”の継承そのものが、危うくなっている、かもしれない、ということ・・・。『名井島』を読みながら、そのような静かな危機感が、ひたひたと寄せてくるように思うのは、果たして私個人の錯覚だろうか。

肉体を持って生まれ、言葉を学び、文字として受け継がれてきた何百年、何千年の言霊に触れ、その霊力を身の内に取り込んでいく、ということ。身の内で個々の体験を加えながら醸成されていく“なにか”。その“なにか”が、抱え持つ身体も耐え難いほどに育ち、あふれかえるものとなったとき、身からコトノハ、言葉として剥離していくのではあるまいか。芽吹いた裸木が真夏の茂りを経て、落葉してそのサイクルを終えるように、人もまた“うた心”を受け継ぎ、茂らせては振るい落としていくのかもしれない。あるいは、“うた心”の運び手、入れ物、として、その生を繰り返すのではないか。それは、有機的肉体を持った人間の世紀が終わってしまっても、人工的に作り出されるアンドロイドの世紀に至っても、永劫、続いていくものなのかもしれない。

冒頭、朝狩に赴く男が探し求めている幼年の記憶とは、一人の生涯ではなく、無数の生涯のサイクルを通じて受け継がれてきた“うたごころ”そのものが、生まれて間もない頃に体感した記憶なのではあるまいか。男は、歌心/歌神の化身。そう、思うことにしよう、ひとまず、現段階では。
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by yumiko_aoki_4649 | 2018-11-26 13:33 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


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