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B=REVIEW 2018年2月投稿作品 選評-2

B=REVIEW 20182月投稿作品 選評-2


雑感

「キュレーション」が、合評形式から個々の選評形式に変更になって、数か月。作品を読み、その「向こう」にいる人、「向こう」にあるもの、その気配に耳を澄ます。そのことには何も変わりはないが、それぞれのキュレーターが、どのような観点から、どのような基準で、作品を選び、評を書くのか、そのこと自体が、楽しみになってきた。

自身の情動から出発する作品、沈思黙考した思想や思考を織り込んでくる作品、自身からは離れ、ロジックや論理で緻密に構築していく作品、社会性を持ったテーマを朴訥に誠実に綴る作品・・・こうした多彩、多様な作品を前にして、優良、推薦、という区分が、果たして妥当であるのか、どうか。

先日のスカイプ会議の後、技量に優れている、情緒の伝達に優れている、想像力で異界を作り出す力に優れている・・・といったトピックを立て、「わざあり!」「じーんとくる!」「ワクワクする!」など、そんな小見出しをつけて選ぶ、というのも面白いかもしれない、などと考えたりもしている。(小見出しの付け方が、なんとも凡庸でセンスがない・・・結局、優良、推薦、という一般的な表現に落ち着くような気もするが。)

「詩」とは、なんだろう。ネット掲示板の果たすべき役割とは、なんだろう・・・などと考えている内に、詩論的なものが湧き出して来た。以下にそれを記しておきたい。


◆これは、「詩」なのか?

二月の投稿作品のうち、もっとも印象に残った作品は、実のところ、kaz氏の「カズオ・イシグロ」http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1367だった。

掲示板を埋め尽くす数字のインパクト。名前を剥奪され、数字の羅列に変換された人々の列、墓碑銘、無名者の為の慰霊碑・・・様々なイメージが、沸いては消えていく。街中の巨大な壁面に、LEDライトで数字が点滅する様を夢想したりもした。

初台のオペラシティの階段に設置された数字を用いたアート作品をご存じだろうか。あの場所に差しかかる度に、日常がずらされる違和感に遭遇する。普段は背景に没している階段が、展示場として奇妙に浮上してくる逆転現象。見えているのに、見えなくなっているもの、気配を消しているものが、存在感を持って迫って来るときの・・・ある、ということの厚みを滲ませて押し寄せて来るときの、おののきのようなもの。

「カズオ・イシグロ」という固有名のイメージと、数字に変換された「なにか」の迫力が、奇妙な均衡と緊張感とをもって対峙する本作品と遭遇した時、まさにこの、「日常がずらされる違和感」を感じたのだった。背景となる掲示板の余白が、奇妙な空間として浮かび上がって来る。整然とした形態でありながら、ざわめきが心中で収まらない。コンセプトが背後に隠している(らしい)「意味」の厚みと、その「意味」が読み解けない困惑に宙づりにされ、読み解かせない拒絶に対して、あるいは全てを読者に委ねるという作者の意図的な「放任」に対して、苛立ちにも似た感情を覚える。濃縮された沈黙が充満する混沌。数字に敏感な人ならすぐに気づいたかもしれない、素数の列記。数字に鈍感な私は、注記を読んで、また混乱に誘われる。

伝えたいが言い得ないこと、言葉にし得ないことを、必死に伝えようとするがゆえの試行と読むか。新奇な方策、耳目を引くことをもくろむスタンドプレーか。「言語芸術」の限界をさらに拡大し、革新するための、果敢な挑戦と肯定的に見るか。「言いたいこと」がない、その空虚をはぐらかすための素振りと否定的に見るか・・・。

そもそも、これは、詩、なのか。「詩」は言葉による芸術である、と定義する。「言葉」で示された表題を、同等のインパクトを持つ「図像」で代替していると見るなら、やはりこれは、詩、と呼ぶべきものなのではないか?そして、「数字」もまた、自然界からの(極度に抽象化された)メッセージであり、これも「言葉」と呼びうるもの、ではないのか。

詩史的な新奇さ、という点に関しては、おぼろに、恐らくは初の試みであろう、とは思うものの、人間の創意工夫であるから、いつかどこかで既に行われている可能性は否定できない。それゆえ、初、であるかどうか、その証明には拘らない。珍しい試みであることは相違ない、それだけは言える。


◆「選考基準」の公平性

インパクトを持って迫って来るものを推す、新奇な試みへの挑戦を評価する、解釈の多義性や詩形や技法の多様性に価値を見いだす。こうした「選考基準」に立つならば、kaz氏の「カズオ・イシグロ」は、「詩」から逸脱しようとし続ける「詩の動態」を示すひとつの実例と言えるかもしれない。

だが、「詩とは、こんな感じのもの」という、ゆるやかな共通理解を前提として人々がネット上に集い、「言葉」による芸術を各人が提示し、読み合い、感想や批評を述べあい、切磋琢磨や自己探求につなげる場において・・・さらにはその意欲を背後から「応援」「支援」するために、より広く周知したい作品を「選ぶ」、という基準に立った場合、kaz氏の「カズオ・イシグロ」は(多様な感情や、言葉にならない詩情を喚起し、多彩な思考に「私」を導くという豊かさを持った作品ではあるが)一度「行われて」しまえば、二度目はアイディアの模倣にしかならない、反復不能の試行である。

私的な区分では、「カズオ・イシグロ」はコンセプチュアルアート作品であって、私の考える「詩」ではない。あるいは、こう言い換えてもいいだろう。

「詩」として、汎用性を持った日本語を用いて創作された他の諸作品と、同等の基準で評価をし得ない。(あくまでも個人的な考えだが、同じ土俵で比較するのに適当ではない。)

以上の理由から、クリエイティブライティング作品を「展示する」という掲示板全体のミッションには合致している作品だと思いつつ、「詩」作品としての「選考」には含めなかった。(何度も繰り返すが、これは私個人の「基準」であって、掲示板運営者の意向でもなく、「キュレーター」の総意でもない。異論、反論がある場合は、私個人へご批判を乞う。)


◆「現代詩」は閉塞しているのか

とりあえず、「現代詩」を、主に戦後創作され、現在も創作が継続されている「口語自由詩」と広く定義しておく。いうまでもないが、便宜上の定義である。

上記定義による「現代詩」の歴史はおよそ70年、「口語自由詩」まで広げたとしても約100年。和歌や俳句、漢詩と比べて、圧倒的に若い文芸である。そして、「現代詩」の歴史は、新奇な試み、革新的な試みの先駆者の記念碑というべき一面を持っている。先駆者が開拓した領野を、続く少数者たちがより洗練させ、優れた作品を生み出し、やがて多数者のコロニーとなると、そこから新たな「未開の地」を求める開拓者が現れる。「先駆者」や「大成者」の名は詩史に刻まれるが、先駆者の詩作に感化され、より個々の資質に特化し、充実させていったその他大勢の名は、ほとんど顧みられることがない。

たとえば、未開の荒地が開拓され、町が生まれ、そこで生まれ育つ人が現れる。父祖が開拓した農地を維持し、より良い作物を生み出そうと日々、細やかな努力を積み重ねる人々の「創意工夫」は、開拓者が成した大きな仕事の前に霞んでしまいがちだが、この町に定住し、農地を維持し更新し続ける人々が居なければ、この土地は再び荒廃する。誰もが未開の地を目指して果敢な冒険を試み、開拓地から外へ出て行ってしまったら、町も土地も空洞化する。「前衛」と呼ばれる試みばかりに焦点が当たる傾向の強い、現在の「詩史」の記述では、地道に、誠実に個々の特性に応じた創意工夫を重ねていく人々の「更新」が、注目されにくい。(それを補うものとして、詩誌の年鑑号における年間展望や、大規模な同人誌による今年の注目詩集や注目作品などを活用してほしい。)

しかし、「現代詩」全体を、ひとつのアメーバのような生命体とイメージする時(アメーバはもちろん単細胞生物だが、ここでは流動的な集合体のイメージでとらえている)、外縁の動きにばかり注目していては、本体の動きを見失ってしまうだろう。「前衛」を自覚していた者が、いつのまにか「後衛」となっていたり、周辺に切り離されて孤立する、という事もあり得る。更新されていかない領野は枯渇する。生命活動を更新し続けている本体を「既視感がある」「類型的である」「特質に乏しい」というような理由で注視せず、先端を伸ばしたものの、ちぎれて取り残された、いわば冒険の痕跡を辿って行くばかりでは、本体の動きを見落としてしまう。

口語自由詩が登場して以降、めまぐるしく「~イズム」が試され、捨て去られ、また新たに開拓されていった時期を成長期とするなら、現在の「新しい試み」が飽和状態となり、明治以降の詩作品を一望できる状況にある現在は、壮年期、あるいは停滞期ともいえるかもしれない。過去作を学び、地道にオリジナリティーを探る者も、自己の感性や思想のみを頼って自身の身体感覚から作品を生み出したり、同時代にたまたま遭遇した作品に学んで創作する者もいるだろう。前衛的な「実験」は、アイディアがほぼ出尽くし、微細なニッチを求めていくような手法しか残されていないように見える。これは、内容ではなく形式、情動ではなく手法に限った話ではあるが、もうやり尽くされた、という閉塞感は、既存の「詩」ではないもの、を作り出す「前衛」たらんとする者にとっては、極めてリアルな感情であろうと思われる。

他方、時代が変わり、環境や条件が変わる中で生死を繰り返す人間は皆、どんなに似ている者同士であったとしても、個々人が異なった資質を持つ、一度きりの存在である。場から影響を受けながら自らを作り上げていく人間の創作物には、差がどんなに微細であっても、同じものは一つとしてあり得ない。他者と異なるオリジナリティーを追求する中で、自分らしさとは何か、という問いかけを繰り返す「芸術作品」の創造の場において、「いま、この時代に、この場に生きるわたし」を出発点とすることが、形式において類似や既視感があったとしても、内容においては豊かな多様性を担保することになる。閉塞しているどころか、これから開拓されていくべき余地が、広範に広がっている、と私は考えている。


◆ネット掲示板に、私が期待するもの

今後、動画や朗読、イラストレーションや写真など、より多彩な表現手法が展開可能な掲示板になっていく、という。そのこと自体は大歓迎だが、今まで通りの「選考」では、当然のことながら対応できなくなることは目に見えている。多ジャンルに渡る「作品」が投稿される、総合掲示板になっていくのであれば、なおさら・・・私は、言葉を用いた芸術、文字を用いた芸術に絞って、新たな「詩」を求めていきたい。

同時に、絵や写真に鋭敏なひと、動画やビデオの作成に親しんでいるひと、音楽に詳しいひと、それぞれが、それぞれの「選考センス」を活かして、独自の「選評」を発表していく、そのことによって多ジャンルが共存する場所になっていってほしい。手入れされた杉林の、整然とした美しさも捨てがたいが、熱帯雨林のジャングルのような、生物多様性が楽しめる場所、何が潜んでいるか分からない、そんなスリルも味わえる場所になると面白いな、と思う。

言葉を用いた芸術、としての「詩」に関していうなら、新奇な技法や珍しい手法を開発することを主眼とするのではなく、「現代詩」が開発してきた様々な技法や手法が、いかに内容と連動して、読者に訴えかけるものとなっているか、「現代詩」100年の技法や手法が、いかに効果的に組み合わせられ、内容をより豊かに伝えるために機能しているか、どうか、ということに注目していきたい。技法や手法が読者に与える印象や効果を十二分に活かし、言葉を補完するものとして機能しているかどうか。さらには、技法や手法のもたらす効果が、「現代詩」を読み慣れていない読者に対して、充分に機能しているか。

伝達性が担保されているか、といった課題に関しても、様々な経験値を持った読者が、双方向性のある合評を試みることができる掲示板という強みを生かして、試行錯誤してほしいと思う。様々な読者が、多彩な印象(感想、批評)を述べることによって、作者は、作品が読者に与える感動の質や多様な読解の可能性を知ることができる。作者の意図を越えた新たな発見をもたらすこともあるだろう。

読みやすさ、可読性を追求することは、読者に「おもねる」ことであるのか、どうか。読者からの反応を試したり確かめたりする場として、掲示板が有意義な場となってほしい。取捨選択は、作者に委ねられている。読者コメントを読み、見極める鍛錬も含めて、「現代詩」を読み慣れた人、読み慣れていない人、両者のコメントが活発に飛び交い、より充実していく掲示板であってほしい。今後とも、楽しく作品を読んでいきたいと思う。


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# by yumiko_aoki_4649 | 2018-03-14 21:49 | B-REVIEW | Comments(0)

B=REVIEW 2018年2月投稿作品 選評-1

B=REVIEW 20182月投稿作品 選評-1


大賞候補 Rixia_7oceans 水温


◆優良

・桐ヶ谷忍 左手の蒼穹

・徐々にでいいから birth

・弓巠 あなたにたくさんの柑橘


◆推薦

・あおのみどり ナナイロ

・なないろ ゴミ

miyastorage ストロワヤ

・岩垣弥生 電球の海

(以上、ARCHIVE掲載順)

※来月から変更になるものの、今月は従来通り、大賞作品を1点、優良作品を3点、推薦作品を4点、計8点を選出することが「運営」からの依頼である。120作という多数の投稿があった2月の投稿作品の中から、「優良相当」17点、「推薦相当」30点を選んだ(作者名と作品名を最後に列記する)。「推薦」作は「推薦相当」の中から選ぶのが本来であるのかもしれないが、「優良相当」の中から、大賞、優良、推薦を選択したことを記しておきたい。


◆作品選評 大賞候補

Rixia_7oceans さんの水温http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1348

静かだが強く印象に残る作品だった。「さかな」を、どうとらえるか。花緒氏は湖を無意識界の暗喩と読み、意識と無意識との断絶をテーマとして読んでいる。もちろん、そのような読みも可能だろう。「さかな」を胎児のイメージに重ねれば、湖は羊水の暗喩という連想も働く。未生の場所、これから生み出される場所に冷たく閉ざされている自意識、意識から断絶された心の孤独。いかいか氏は返詩を返す形でコメントしている。死と再生の暗示。どちらかというと、私の読み方はこちらに近い。

もちろん、作者の手を離れた後、作品は自由に解釈されてよい(納得できるロジックがそこに成立しているなら)。投稿者ももちろん、そのことは承知しているだろう。実際、作者の意図を越えた新しい読み方を提示されることによって、無意識のうちに志向していたものに、作者自身が気づいたりする時もあるし、作品が内包していた予想外の展開に、ひそかな喜びを見つける場合もあるだろう。

逆に、意図と異なって読まれてしまった場合、読者により伝わりやすくなるように工夫してみようとか、どの表現がズレの要因になっているのか確かめるといった、推敲や今後の創作の助けになる場合もある。

私の読み方もまた、作者から見た時は「誤読」かもしれない、と前置きをしつつ、作品を最初に読んだ時、津波で奪われた魂への共振が言葉となったのかもしれない、という思いが生じ、そのままそこから抜け出せなくなった。稲葉真弓の『心のてのひらに』や、上村肇の「みずうみ」、会田綱雄の「伝説」などを漠然と連想したことにもよるかもしれない。魚になって、いつのまにか死者の魂と同化しながら、被災地の、震災時の海の中を行く稲葉の圧倒的な想像力。『心のてのひらに』は、心で見る、感じる、という行為が、深い哀悼に変容していく様相に打たれた詩集だった。上村の「みずうみ」では、水難で失った家族を尋ね当て、共に暮らし始めた男(湖の中にいる)が、水難後に娶った妻との間に生まれた息子(湖の上にいる)に見出されるのだが、息子の目には蟹と映る。息子は父に気づかずに去る。懐かしい家族と、新たな家族との間で引き裂かれる男の切ない心情が、抑制された筆致で描き出された作品。会田の「伝説」では、父祖たちが蟹となって湖に生きている。子孫たちはその蟹を漁どり、売って生活の糧を得る。いのちの巡りを暗示する、この不思議な暮らしの中で、命を生み出す営みがくるおしく続いていく。それを、月明りが静かに照らしている。

Rixia_7oceansさんは、湖の中と外の断絶を描いている。「さかな」を主人公として描きながら、その情景を「見ている」語り手は、第三者的な立ち位置におり、「わたし」の語りからは後退している。それゆえに、自己の内的な葛藤の表明とも、より普遍的に、同様の心象を抱くものへの共振とも読むことができる。「さかな」が自らの死を自覚しないまま、いまだに水の中を漂っている死者の魂の暗喩であると見るなら、死者の視点から描き出された作品である、と読むこともできるだろう。

湖の中(未生の場所、死の世界)からは湖の外が見えているのに、恐らく、湖の外に生きる人々は、その気配にすら気づかない。確かに季節は過ぎ、「干渉しえないどこかで/何かが変わっている」のに、「さかな」は冷たく心を冷やされながら、「足がないから始められず/手がないから終わらせられない」という中途半端な状態に置かれたままだ。何も変わらず、何も変えられないまま、時間ばかりがいたずらに過ぎ去っていく。「さかな」は静かに、死んで朽ちていくのを待っている。

たまたま、私はこの作品を三月に入ってから読んだ。二月に投稿された作品なのに、三月の震災と結びつけるのは、強引な読み方かもしれない。誤読ではないか、と恐れるゆえんである。しかし、私には本作は、個人の力ではどうにもならない出来事に接し、心が停滞してしまう「わたし」の意識を平易な言葉で、美しい静けさに充ちた光景の中に描き出した作品として心に深く残った。それゆえ、本作を「大賞」に推したいと思う。


◆優良作品

Rixia_7oceansさんの作品(だけではないが)に見られる第三者的な視点は、近代小説の成立時に言われた「神の視点」に近いかもしれない。他方、私小説的な視点で、「わたし」の体験したこと、経験したこと、そこから得たものを、普遍的なものへと昇華しようとする試みもある。

桐ヶ谷忍 さんの左手の蒼穹http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1281

リストカットという(おそらくは)事実を下敷きに、「あなた」の思いによって救済されていく過程を描いている。青空のような心を持ったあなた、と安易な比喩に陥ることなく、丁寧な構成によって作品を組み立てている。丁寧、と書いたのは、わかりやすくて良いと思うものの、同時に、少しまだるっこしいような印象を与えるとも感じるからである。折り紙を重ねながら糊付けしていくように、ひとつの連で歌ったことを、次の連で(特に連の後半で)繰り返すように言い直していく進行。のりしろを、もっと少なめにしてもよいのではないか。あるいは、折り紙を少し離して机上に置いて行くように、連と連との間の飛躍を、もっと大きく取ってもよいのではないか、という読後感を持った。

希望のイメージを一般的に抱かれることの多い「青空」に重ね、春先のスカーフのような、柔らかい一枚布のイメージに変換し、その青空を「あなた」が共に分かち合い、その半分を「私」に「移植」してくれた、という切実さが胸に迫る。「私」から見た青空は、一枚布のように頼り無い、奥行きのないものかもしれないが、「あなた」は、青空を深い奥行きをもった「蒼穹」としてとらえている(「あなた」の言葉として言い直される四連に、「私」と「あなた」の捉え方の相違が現れているようにも思う)ことが面白い。

コメント欄にも記したが、不思議な文法によってアクセントを残す五連のあと、作者は今現在の日常に回帰する。傷の残る左手を振る、という行為に、語り手の思いが凝縮されているようにも思うのだが、せっかく「蒼穹」という宇宙的な広がりまで想起させた作品を閉じることになってしまわないか。「数年前の話」と日常にまで引き戻すことによって安全圏に着地したともいえるが、個人の体験からより大きな次元の体験へと広がりかけた作品を、また個人の私生活に収めてしまうような印象があり、もったいないような気もした。


徐々にでいいから さんのbirth http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1363

個人の体験から出発して、普遍的かつ、多くの人にイメージしやすい次元まで作品をひろげることに成功した作品であるように思う。誕生日を祝うというごく日常的な出来事がテーマであるが、「爛れたような」心中を凝視するところから作品は始まる。明確に書かれてはいないが、誕生日、ということで、自らが母の胎内にいた時にまで想念をひろげているかもしれない。肉体の内部が、濡れた洞窟のようなイメージでとらえられ、その空間からミクロコスモスとしての宇宙へ、想念は広がっていく。さらに万華鏡のような世界としてイメージ化する飛躍を経て、個人の想像力の範囲でしか「見えない」ものを、より多くの人に「見える」ようにしてくれている。

明確な起承転結を持った構成も、読みやすさに繋がっているだろう。いささか唐突に思われる万華鏡のイメージも、二連目の自己探求が伏線となり、多数の過去の自分、私の断片を無数に想起するという状態を、映像的な比喩として表現していることがわかる。個人の過去の記憶が断片化され、宇宙空間的な広がり(個人の内面のミクロコスモス)に分散している、きらびやかだが、迷いと混沌を喚起する情景と読むことができるが、原子の僕、にまで飛躍していく思考は、どこから生まれるのだろう。分断された無数の過去を、原子として再び集積したい、という再統合への希望が反映されているのだろうか。跳躍の幅が小気味よいものの、いささか思考や観念が勝っているのではないか、という思いもあり、優良にとどめた。


弓巠さんのあなたにたくさんの柑橘http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1346

思考や観念が感覚に勝っているのではないか、という印象を覚えた作品だった。前月の「冬、いき」は、観念的なイメージを扱っているようでありながら、具体的な層を残していて説得力があったのに対し(それは恐らく、実際に寒気の中で白い息が残す影の実在感と儚さへの共感が働いているだろう)絵本のイメージと心理的な内面把握とが重ねられ、全体に像が拡散していく傾向があるように思った。

冒頭に置かれた「柑橘色の言葉が欲しかったのです」という音の響きの硬質さ、色彩や匂、味わいが喚起するイメージ、そのイメージを強引に「言葉」という抽象的なものに結びつけることによって、明確にはとらえられないものの、質感やニュアンスに実在性を帯びた言葉、というものが想起される。息を溜めてひと息に吐き出したような調子も含め、願望が切実に表明された、優れた書き出しだと思う。

言葉遊びにも似た頭韻によるイメージの引き寄せも、強引ではあるが、作者の内でのイメージの流れを表しているような臨場感を持って読むことができた。ただ、三連の豊かな比喩の部分を、どうとらえるか。引き出しを沢山持った作者だと思うが、手持ちの素材を容易に出し過ぎているようにも感じる。一行一行が、心象風景画のような豊かさを持つ反面、次々と並置されることによって、一行一行の行間や余韻が希薄になり、平板で装飾的な印象を結ぶ結果になってはいまいか。

少女と、恐らくは少年(の語り手)が、大人になっていく、という経過も、思考や観念が先走っているように感じられた部分だった。幼年期に受け止めていた、豊かな詩情への憧憬、やがて大人になり、街に身を置くようになってからの、感受性の鈍り。それは、大人になったから、なのか。あるいは、生きる場が、街に移動したからか。あらゆる記憶を、「わたし、が食べた」という認識が体感的で、印象に残る。食べたものが、その人を形作る。感受性が得たもの、呑み込んだものが、どのように言葉となって発現するか。その先を見たい、と思わせる作品だった。


◆推薦作品

「推薦」作は、注記にも書いたように、もともとは「優良」候補に入れていたが、選択数が限定されているので、推薦に留めたものである。

あおのみどり さんのナナイロhttp://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1377

飛躍の幅が大きく、映像やストーリー、あるいは論理を順に追って読む、ということが出来ない。他方、断章を連ねたような連の一つ一つが、強いイメージ喚起力を持っていて、様々な想念に読み手を導いていく。失われていく「声」の行方に対する思いの強さ。「もうあまり残されていない」「大きな目」といったワードから、私の中に漠然と浮上したのは、痩せて目ばかり大きくなった、余命の尽きようとしている人の姿だった。虹、そして橋のイメージも、彼岸への旅立ちを想起させる。「上司」がいささか唐突に出て来るが、私は介護をする作者の悩みに、上司の言葉がひかりとして差しいってきた・・・そのように読んだ。誤読かもしれない。今現在、恋をしている人なら、大きな目の恋人を夢想するだろうか。指先が触れるのは、自らの首すじか、大切な人の肌なのか。最終連の「虹のくちばしをした君」も、どこから現れたイメージなのか、謎のままに残されている。それでも、肉体に閉じ込められた魂のイメージを連想したり、空の果てから届く「声」を思い描いたリさせてくれ、豊かな行間を感じさせる作品だった。


なないろ さんのゴミhttp://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1383

弾んでいくような軽さや、身近な言葉を切り取って来るセンスがもたらす軽快さがあり、内容の重さや深刻さとうまくバランスを取ることに成功している作品だと思った。街景をスナップ風に捉えていく、いわばロングショットから入り、一気に自己の内面へとクローズアップする映像の伸縮の度合いが小気味よい。「私の母は私を生んだ時に死にました」という、語り手による突然の告白と、そこから一気に叩きつけられるように吐露される「産んでなんて頼んでない」というフレーズの持つインパクト。物質として存在する「ゴミ」と、自らが社会のゴミとなるのではないか、という漠然とした不安、その自己認識の遠因としての、自罰感情。リーディングを意識しているのか、脚韻を踏むような語尾や、単語で区切っていくスピーディーな進行、強弱の緩急をつけた詩行などにより、音読しても心地よい作品になっていると感じた。


miyastorage さんのストロワヤhttp://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1295

明晰な意識による饒舌な語りが、次第にゆらぎ、断片的になり、イメージの連鎖や意識の流れの叙述といった印象に転化していく。論理で追っていくのが難しいので、読者によって好みがわかれる作品かもしれない。「糜爛」、「口内炎」、「青に 斑に」といった言葉が、心理的な痛みを喚起する前半から、酔いが回って来て陶酔に導かれていくような中盤を経て、水の揺らぎが喚起する火や光のイメージへと移っていく。トップノートからミドルノート、そして余韻へと変化していく香水の香りの変容にも似て、時間経過を楽しめる作品だと思った。


岩垣弥生 さんの電球の海http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1399

ボトルシップを連想させるような立ち上がりの映像が強く印象に残る作品だった。そこから視点は電球内に移り、忘却の風に吹きさらされている「あなた」への思いが抒情性豊かに表現されていく。装飾性の高い詩語を多用した三連が、その語彙ゆえに豊かな詩情をもたらしているとも言えるかもしれないが、言葉のきらめきに眼をくらまされてしまうような感覚も覚える。四連の「ナイフに映った朝」の緊張感のあるイメージ、そこから視覚的にも揺さぶられていく、いわば間奏曲的な部分を経て、再び冒頭の映像に戻る、ロンド形式。戻るといっても、単純なリフレインではなく、バリエーションが施されている。「横たわっている」というイメージが、「立ち尽くしている」イメージへと変容し、「きょうだい」を失った後に、さらに「りょうしん」すら失われていく喪失感と孤独が際立っていくのが切ない。時系列としては両親が先に逝き、続いて兄弟が鬼籍に入るのが通例だろう。だから、ここでの「いない」は、記憶の中からの消滅を暗示している。構成が巧みな作品だと思った。


他に言及したい作品としては、HAneda kyouさんの「君について行く」http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1285だろうか。とりわけ、コメント欄で渡辺八畳さんと交わされた議論が印象に残った。二次創作であることに気づかなかったという不明も含め、大変面白く、また、有意義な議論が展開されていたと思う。

カオティクルConverge!!貴音さんの「名を変える鳥」http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1359も、「鳥」が希望や憧憬の暗喩のようにも、肉体と魂との関係性のようにも、死者の魂を追悼しているようにも、外部の環境によって様々な色合いに「見られ」たり「呼ばれ」たりする自意識の象徴のようにも読め、ひとつに定まらないところがむしろ印象に残った。饒舌体の溢れるような言葉の中で次々に「名」を変えていく鳥が、最後に「閑古鳥」に落ち着くけれども・・・内容の重さや切実さ、文章の詰まり具合といった迫力と、「閑古鳥」の喚起するペーソスやユーモアと、うまく釣り合いが取れているかどうか・・・このあたりのバランス感覚が難しい作品であるようにも思う。


以下、優良、推薦候補を列記する。

優良 るるりら「おもてなし妖怪2018」/紅茶猫「家族八景」/田中修子「半身たち」/ウエキ「思い出す詩のことなど」/こうだたけみ「四駆スカンクラップアドロッカー」/アラメルモ「小網戸」/李沙英「さよなら赤ちゃん」/岡田直樹「あなのあいたサイフ」/ねむのき「未処理」/

推薦 奏熊ととと「幸福の形、不幸の形」/クヮン・アイ・ユウ「朝は歌う」/白犬「re:w」/湯煙「陳さん」/夏生「思いの断片」/仲程「虫の生態(AB説)」/stereotaype2085「脳内モルヒネ依存症/北村灰色「青信号を渡らない赤子」/蛾兆ボルカ「トイレットペーパーの芯」/完備「structure」/渚鳥「星」/survof「おわって、風」/宮田「常温の飲むヨーグルト」/二条千河「www」/夏野ほたる「振り返るといつも赤」/うたもち「迷彩」/眠莉「曖昧な憂鬱」/カオティクル貴音「名を変える鳥」/くつずりゆう「夜の掻き手」/沙一「夜の人」/ジャンブリーズ「繭玉深く夢幻」/KURA-HITO「遺された街」/奇遇「なにもない」/さしみ「きよらかなもの」/藤一紀「冬の帰り道」/佐木ノ本「コーヒー」/リーさん(リュア)「鰹節」/いしかわゆうだい「生活」/社町迅「電気に縛られて」/鹿「午前三時に痛む傷の処置」/

書体の指示や太字の指示が反映されていない部分があります、ご容赦ください。


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# by yumiko_aoki_4649 | 2018-03-14 21:39 | B-REVIEW | Comments(0)

伊東静雄ノート 10

『春のいそぎ』の全作を鑑賞しつつ、当時の静雄の思いを辿りたい、そして、その当時の詩人たちの置かれていた状況を知りたい・・・そんな想いから始まった「静雄ノート」も、既に十回を記すことになった。

当然のことながら第一詩集や第二詩集にも思いが飛び、紆余曲折を重ねている。ノート、という名の如く、覚書の域を免れずにいることを、まずはお許し願いたい。その間、『詩と思想』(20169月号)において、戦後静雄自身が全集収録を拒んだ七篇の「戦争詩」について概観し、静雄の死後に編集された『定本 伊東静雄全集』に、なぜか収録されなかった「十二月八日近く 思いを述ぶ」についても考察を試みた(『詩と思想』20175月号)。静雄の「戦争詩」については、より広く、深く、当時の社会情勢や文学について調査と反省を重ねてから、再度、詳細に考察を試みたいと思っている。


前回、エクスカーション的に静雄と妻の花子の関係に触れた。『春のいそぎ』には、戦時中の詩集としては珍しく、日常的な次元から綴られた妻子に関する思いを述べた詩が収められている。自序に〈ひとたび 大詔を拝し皇軍の雄叫びをきいてあぢはつた海闊勇進の思は、自分は自分流にわが子になりとも語り傳へたかつた〉とあり、また、今回の詩集は家族のことを書いているためか、評判が良いようだ、と手紙に認めていることからもわかるように、妻子を強く意識した詩集であったことが伺われる。静雄にとって、『春のいそぎ』を編んで残すことは、どのような意味を持つものだったのだろうか。


詩集巻頭に置かれた「わがうたさへや」には、〈大いなる戦ひとうたのとき〉であることを、一斉に声を揃えて告げ知らせる〈くにたみの高き諸聲〉が、今、新たに響いている、と記した後に、三字下げで、


そのこゑにまじればあはれ

浅茅がもとの蟲の音の

わがうたさへや

あなをかし けふの日の忝なさは


と、謙虚に、控えめな口調で戦いが始まった日の「うた」に和することを記している。自らが(例えば高村光太郎のように)率先して「くにたみ」の声を代表する、あるいは、先頭に立つ、といった気負いや責任感から歌うのではなく、あくまでも「皇国臣民」の一員として、また、一人の教師として、「わがうた」がせめてもの慰めとなれば、という心情を提示している。


たが宿の春のいそぎかすみ売の重荷に添へし梅の一枝


(炭売の重荷に、その労苦をねぎらうかのように、名も知れぬ人によってそっと添えられた梅の一枝。これは、新年(新しい世紀)を迎えるための「しつらえ」の心であろうか)


右は、『春のいそぎ』という詩集名の由来となった伴林光平(幕末の国文学者、歌人、勤王志士)の歌であるが、その梅の一枝(おそらくは白梅)のような詩集でありたい、という、偽らざる心情から生まれた詩集であったに相違ない。


「戦争詩」を書くに至った静雄を、「弁護」するつもりはない。ただ、『改造』その他、いわゆるオピニオン誌の当時の記事を見ても、欧州列強の「植民地」として虐げられたアジア諸国を解放し、欧州衰退の期に乗じて太平洋の覇権を手中に収めようとしているアメリカの野望を阻止することが、アジア全体を守るために急務である、という主張がもっぱらであった。日本の植民地政策に異を唱えたり、民族自決を尊重せよと述べる論文は悉く発禁となり(例えば、細川嘉六の横浜事件。(昭和十七年(1942)九月)大東亜文学者会議の第一回大会(昭和十七年十一月)が「満州国」「中華民国」「蒙古」の代表二十一名を招待するというパフォーマンスと共に開催され、従軍記者の記事や、「戦場ルポ」の為に(男女を問わず)派遣された作家たちの華々しい報告が文芸誌や新聞紙上を賑わせる、という情況であったことは確認しておきたい。そして、何よりもそのこと自体を、私たちは「反省」しなければならない。報道の自由の制限が、ファシズムの野望を正義と思いこませ、「国民」を「国家」の意志に従う「皇国臣民」へと醸成していくのであるから。

 こうした状況下で、昭和十七年に編まれ、翌年の一月に発刊された『春のいそぎ』であることをふまえつつ、その詩篇の並べ方から、静雄の編集意図を考えてみたい。


 『春のいそぎ』は、前半は文語詩、後半は文語と口語の混交、最後の数篇に、童謡風の口語とも文語ともつかぬ詩篇を並べる形で編集されている。

 冒頭、「わがうたさへや」(文語)で自らの思いと姿勢を述べた後、やはり文語で格調高く、「かの旅」と「那智」が続く。この二篇は六行の一連目の後、字下げで六行を綴る整った形式を持つ。(箏曲の前歌と後歌を思わせる、と私観を述べたことがあるが)旅の感慨と、帰阪後の思いを呼び交わすような形で記された文字通りの「歌」であり、共に旅をした青年たちへの思いをつづった作品でもある。〈戦局の推移、わが国の大いなる運命、近づいてゐる軍隊生活のこと〉への思いをつづった青年からの手紙への返歌として記された「久住の歌」と合わせ、この三篇は戦場に向かう青年たちの武運と無事とを祈る歌、であると言えるだろう。

 続く三篇、「秋の海」と「述懐」、「なれとわれ」も文語で綴られている。「秋の海」は「愛妻(はしづま)」を失った友を思いやる歌であり、「なれとわれ」は自身の妻を伴って、ようやくの帰郷を果たした折の感慨を歌っている。間に置かれた「述懐」は、開戦の日の思いをその一年後に歌った作品であるが、最後に置かれた〈()が思 子と(つま)にいふ〉という一文からも分かるように、妻子に自身の思いを歌い置く形を取る。つまり、戦場に向かう若者たちへのエールを三篇置いた後、妻子への呼びかけを三篇置いた、と見ることができる。

 その後に続く三篇「海戦想望」「つはものの祈」「送別」これも文語で綴られている。「海戦想望」は南洋で激しい戦闘を「勝利」で飾った後、満月の光に照らされてひとときの安らぎを得ているであろう「つはもの」たちに想いを馳せる、映画的と言うのか、絵画的な情景を描いたものであり、「つはものの祈」はパレンバン奇襲直前の落下傘部隊の写真を見て、〈いくさの場知らぬ我ながら、感迫りきていかで堪へんや。乃ち、勇士らがこころになりて〉歌った歌、と前書きがある。いずれも新聞や雑誌の報道から見聞きしたことを、ロマンティックな夢想を膨らませて歌い上げた作品、ということができるだろう。落下傘部隊を白い花に喩えた佐藤春夫を始め、多くの詩人たちが煽情的な新聞記事に感化されて高揚感のままに作詩した戦争詩、ということになろうか。「送別」も、実際に出征する田中克己へ送った歌である。いずれも戦地への思いや祈りを込めた歌、ということになろう。

 続いて名作の誉れ高い「春の雪」が置かれる。戦地を思う高揚感に充ちた歌のあとに、静かに春(新しい時代、新しい夜明け)を待つ冬の明け方の叙景歌が置かれていることになる。本作の鑑賞はまた後に譲り、ここではその次の作品を見て行こう。

 「春の雪」の後、冒頭の「わがうたさへや」(開戦の日の思いを歌ったうた)に呼応するかのように、口語で綴られた〈昭和十六年十二月八日〉を記念する「大詔」が置かれる。「大詔」を前半部の中締めと見るか、後半部の巻頭歌と見るか、意見の分かれるところかもしれないが、「わがうたさへや」から「春の雪」まで、文語で綴られた前半部をひと括りとし、口語で歌われる「大詔」を、後半部の巻頭と考える方が理にかなっているように思う。

 後半の詩篇を、以下に並べてみよう。


「菊を想う」(口語)〈吾子〉〈子供の母〉との日常詠

「淀の河辺」(文語)〈水を掬びてゑむ〉友を思う歌

「九月七日・月明」(文語)〈吾子〉の看病をする歌

「第一日」(文語)戦闘を体験した〈友〉の聞き書き

「七月二日・初蟬」(口語)娘と〈その子のはは〉と共に聴く、初蟬への思いをつづった歌


一見するとテーマがバラバラであるように見えるが、口語(そして妻子への思いを歌う日常詠)で、文語詩を挟む構成になっている。内容も、当時の日常から取材されていると見てよいだろう。

 続く四篇は下記の通り。


「なかぞら」(文語)

「羨望」(口語)

「山村遊行」(文語)

「庭の蝉」(口語)


今まで静雄ノートで読んできた私見になるが、「なかぞら」は叙景歌であると共に、物思いに沈む自身のことを、〈ふる妻〉に〈新しき恋や得たる〉とからかわれた、という日常詠を含んでいる。さらに、最終連は、〈去年(こぞ)の朽葉〉が春の水に〈かろき黄金(きん)のごと〉浮いて流れているだろう、と想像力を膨らませるのだが・・・沈んでいる自身の言の葉が、軽やかに流れ出すさまを願う自身の詩作への思いを歌った詩、あるいは祈る歌、と見ることできる。

 「羨望」は、詩人になりたい、と尋ねて来た青年との会話を記した日常詠。三好達治が『詩を読む人のために』で褒めた静雄の詩、「訪問者」に通じるような、若者との対話である。静雄は、蝉の声がうるさくて、勉強が手につかない、と愚痴をこぼす〈若い友〉を、そんなことでは〈日本の詩人にはなれまいよ〉とからかうのだが、その時の返答――「でも――それが迚も耐まらないものなのです」に、〈一種の感じ〉と、〈訳のわからぬうらやましい心持〉を抱いた、と記す。

 なんとも捉え難い、自然主義風の謎めいた詩、ということになるが・・・「七月二日・初蟬」の中で、〈初蟬をきく/はじめ/地蟲かときいてゐた〉という一節を念頭に置きつつ、第一詩集の『わがひとに與ふる哀歌』の掉尾に置かれた「鶯」を思い返してみる。「鶯」は、幼い頃に聴き馴染んだ美しい鳴き声を忘れてしまった〈私の友〉に対して、呼びかけた歌である。(解釈上、自分自身に対する呼びかけ、とも読めるが、友人の大塚を意図している、という静雄自身の言葉も残されている)さらには〈七面鳥や 蛇や 雀や/地虫や いろんな種類の家畜や/数へきれない植物・気候のなかに〉感じ取ったであろう諸々の詩情を、すっかり忘れてしまった〈君の老年のために〉、自ずから自身の唇にのぼって来る〈一篇の詩〉を書き留めること、それが私の詩作、私の使命なのだ、という、静雄自身の詩論を述べたような作品である。

 地虫かと蝉の声を聞く、という共通性も含めれば、〈私の友〉が忘れてしまった自然の声、自然の歌、の中に、蝉の声も当然含まれることになろう。静雄が「羨望」に歌われた〈剣道二段の受験生〉であり、〈年少の友人〉である青年に対して抱いた〈感じ〉とは、何だろう。なぜ、「羨望」を感じるのだろう。

 のちに作詩された「訪問者」の中で、静雄は、詩人になりたい、と訪れた少女の詩作品に〈やつと目覚めたばかりの愛〉を認め、〈自分で課した絶望で懸命に拒絶し防御してゐる〉〈純潔な何か〉を感知し、最後に〈生涯を詩に捧げたいと/少女は言つたつけ/この世での仕事の意味もまだ知らずに〉と締めくくる。無我夢中で詩作に憧れ、邁進している若者が、詩作という苦悩、青春期に通過する絶望をまだ知らずにいる、ことへの羨望、であろうか。反語的に、そうした無我夢中の情熱を失ってしまった自身を省みている、とも取れる。

「七月二日・初蟬」において、蟬の声を聴きながら、同じようにそれをきいている妻子に何か〈言つてやりたかつたが〉黙っている詩人、言葉にし得ない苦悩を抱えてしまった詩人としての自己を省み、そうした苦悩を知らずに詩作に純粋に憧れている若者への「羨望」を抱いたのではないか。このように見て来ると、「羨望」と言う作品も、自身の詩作に関わる問いかけを含んだ作品、ということになる。

「山村遊行」は、静雄ノートの一回目で触れた作品だが、これも夢想の内に迷い込んだ、イマージュを彫り出す人々への憧憬と、そうした場に到ることができない自分自身の立ち位置とのジレンマを綴った作品、と読むことができるだろう。これもまた、詩作とはなんぞや、という静雄のイマジネーションが生み出した作品である、ということになる。

文語、口語、と交互に置かれた四作の最後に「庭の蝉」が置かれている。


庭の蝉


旅からかへつてみると

この庭にはこの庭の蝉が鳴いてゐる

おれはなにか詩のやうなものを

書きたく思ひ

紙をのべると

水のやうに平明な幾行もが出て来た

そして

おれは書かれたものをまへにして

不意にそれとはまるで異様な

一種前生(ぜんしやう)のおもひと

かすかな(めま)ひをともなふ吐気とで

蝉を聞いてゐた


ここで言う「旅」とは実際の旅であると同時に、夢想世界、詩の世界への旅、でもあろう。『哀歌』の「河辺の歌」の中で〈永い不在の歳月の後に/私は再び帰つて来た〉〈けれど少年時の/飛行の夢に/私は決して見捨てられは/しなかつたのだ〉と静雄は綴っている。静雄の詩に現れる「帰還」のイメージ、幼年期の豊かさへの憧れ、〈私さへ信じない一篇の詩〉(鶯)私ですら信じられない、どこか遙か遠くから自然に沸き起こって唇に浮かぶ、幼年期に聞き覚えた美しい歌、自然の奏でる歌・・・それが静雄の理想とする詩であるとするなら。〈水のやうに〉出て来た〈平明な幾行〉とは、どのような詩行なのか。そして、その詩行を前に、〈前生〉を思い、吐き気を覚えている状況とは、何なのだろう。

静雄が、初めて詩誌に発表した「空の浴槽」を併記してみる。


午前一時の深海のとりとめない水底に坐つて、私は、後頭部に酷薄に白(えん)の溶けゆくを感じてゐる。けれど私はあの東洋の秘呪を唱する行者ではない。胸奥に例へば驚叫する食肉禽が喉を破りつゞけてゐる。然し深海に坐する悲劇はそこにあるのではない。あゝ彼が、私の内の食肉禽が、彼の前生の人間であつたことを知り抜いてさへゐなかつたなら。


鶯と、食肉禽。蟬が掻き立てる不穏な何事かと、まるで正反対のような、〈平明な幾行〉。美と醜、平穏と激烈。続いて置かれる「春浅き」に、描かれる光陰。


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# by yumiko_aoki_4649 | 2018-03-12 10:23 | 伊東静雄 | Comments(0)

B=REVIEW 2018年1月投稿作品 選評

B=REVIEW 20181月投稿作品 選評


大賞候補 弓巠 冬、いき 


◆優良

・二条千河 証―「白」字解

・カオティクルConverge!!貴音さん♪ 詩国お遍路(1/2)(2/2)

・芦野夕狩 letters 


◆推薦

kaz.瞼の彩り

・桐ヶ谷忍 光臨

・蛾兆ボルカ 薔薇

・李沙英 種子

(以上、ARCHIVE掲載順)


◆はじめに 

BREVIEWが開設されて、一年が過ぎた。初回から投稿者として、さらには「キュレーター」として関わって来た者として、「新しいなにか」が始まる現場に立ち会った、という感慨がある。その間、紙媒体と直結させる方向性や、インターネットに不慣れな読者に「ネット媒体」に発表される良作を紹介する方策を探ったり、橋がかりとなる手段を考えた時期もあったが、マーケットとしては閉塞している感もある紙媒体への進出よりも、独自の発表手段を開拓していくことに若者たちのエネルギーが向かっている、という兆候に触れる機会の方が多かった。ネット媒体の可能性と展開を注視しつつ、BREVIEWの有機的な発展を見守りたいと思う。より多彩、多様な作品が「展示」され、より活発で充実した議論や鑑賞コメント、気持ちのこもったレスが、風通しよく行き交う場であることを願ってやまない。

※大賞作品を1点、優良作品を3点、推薦作品を4点、計8点を選出することが「運営」からの依頼である。キュレーターの投稿作品や、「ビーレビ杯不参加」表明作品を除外しても100を超える投稿作品の中から、8点に絞り込むのは相当に辛い選択であった。最終的に「優良相当」12点、「推薦相当」25点を選んだ(作者名と作品名を最後に列記する)。「推薦」作は「推薦相当」の中から選ぶのが本来であるのかもしれないが、「優良」12点の「取りこぼし」が多くなるので、「優良相当」の中から、大賞、優良、推選8作を選択したことを記しておきたい。


大賞候補

★弓巠 冬/いき http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1189

言葉遊びのような軽めの立ち上がりながら、いきる、ということの意味と、息づかい、道行き、意気ごみ・・・こうした言葉のそもそもの語幹となっている いき をまっすぐに捉える姿勢に、まずは惹かれた。見えない「いき」が見える(ような気がした)、その一瞬。そこに、「影」がさす。形を持ち、存在の在り処を示しつつ、実体を持たないもの。記憶が過去の自分の生きて来た道のりを照らしだす時、そこには無数の過去の自分の姿が立ち上がる。それぞれの抱える影、実体を持たぬ記憶だけの「ぼく」への連想に誘われる繊細なイメージ。

一つの影だけを/もてたならよかった〉

〈ただよっている/と、いきがみえた/空きをたわませて/あった〉

実体のある肉体は漂わない。浮遊する、なにかとらえがたいもの、自分から発しながら、抜け出していく息のようなもの・・・あるいは自らを離れて「ただよう」意識への思い。自らが占めている空間以外の場所は、全て空虚である。その「空き」をたわませる、という空間認識は、気配だけが行き過ぎていく「痕跡」への思いを導く。あき/あった、で響き合う「あ」の音の明るさ。言葉の遊戯へと向かう志向は、限りなく存在の重さを削ぎ取っていくベクトルを持つ。肉体と言う実体を持った「ぼく」は、〈立ちすくむ〉他はない。漂うものの危うさ、気配の稀薄さ。

〈影は何度もはがれ/はがれていった〉

〈たくさんの、ぼく、の影/の、ために/ひとりだった/そうしていきを体から/離した〉

〈待ち人のような影/そこに/ぼく、が、それともその人が/いないことだけが証していた

自らを通り過ぎて行った、無数の影(出会いの痕跡、記憶)。それは、自分と他者とが束の間の関りを持ち、また、離れて行った記憶の系列を辿ることでもある。

〈ただいる、ものたちは/冬の空に浸っている/いきにまみれている/吸い、吸われながら/肺に何度も/影を巡らせていき〉

~していき、の「いき」と生き、息、そして逝き。かすかな気配を感じる「域」にも思いが至る。「言葉」によって連れ出される場所と、厳寒の大気の中で形を取っては消えていく、自らの吐いた息。他者の吐いた息も大気の中でまじりあい、その大気を吸って生きる、循環。間接的な共有。重くなりがちなテーマを、言葉の響きの軽さに誘導しながら、気配だけの、実体のないものを探ろうとする。無駄のない言葉運びも評価したい。


◆優良

☆二条千河 証―「白」字解 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1260

コメント欄より たとえば だったら もしかして だとしたら そうまでしなければ 冒頭に置かれることによって、アクセントとなって立ち上がるフレーズ。

色、とはなにか・・・・私には、愛、のように思われました。その人、との思いが、一気に様々な色と質感、苦みを伴ってあふれ出す。火葬、の現場、その衝撃を、このように表現されるとは。

「検める」「認められる」そして、「証してみせた」。あらためる、したためる、あかしする。漢字の持つ強さについて、改めて考えさせられました。白、という漢字の持つ、迫力についても。


〈あの人は言う〉〈あの人は言った〉〈あの人は証して見せたリフレインの作り出す心地よいリズムの中で、生前の姿から火葬後の「白」へ、〈あの人〉の記憶が凝縮されて語り手の中を行きすぎていく。火葬の際に去来するのは、広範な時間軸を圧縮したような、めくるめく記憶の来訪であろう。晴れた日の雲、嵐の日の暗雲、胸からあふれ出る深紅。すべては比喩だが、鮮烈な印象と質感を伴って、〈あの人〉の辿って来た人生を暗示する。歌の要素を兼ね備えた、リズミカルな進行にも注目したい。


☆カオティクルConverge!!貴音さん♪ 詩国お遍路 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1230

四国ならぬ「詩国」のお遍路。三行、もしくは四行で連ねていく形式は、連詩にも似ているが、短歌や俳句の連作にも似た印象を持つ。写真、ではなく、瀉心、と名付けたくなるような、心象スナップ。冷や水を掛けると避役の様に〉(1)(避役は一般にはカメレオンと読むようだが)ひやみずのヒと避の文字が呼び合う。〈のぼせながら昇る〉(2)など、言葉(の響き)が次の言葉を引き出していくような、半ば無意識にまかせた進行も見受けられ、直感的につかんだ印象が素材のまま置かれている感もある。〈社長の集団〉(3)〈見下ろす幾つかは、名前を授け〉(4)〈心を固め、次に身体を固める事で(5)馬鹿になって、大馬鹿の代わりに射られる・・・身代わりの最果てには誰が居るのだろう〉(6)と読み進めていくと、リストラや転職の権謀術数、無謀な達成目標などを掲げる社の圧力に疲弊して、ついにお遍路に出た魂、そんな物語を読みたくなってくる。〈私は笑みが零れ顔を無くす〉(7)本来の顔、本当の感情を無くしてしまった〈私〉。〈私は死に逃げるが・・・この世に連れ戻されて私は泣いた〉(9)〈もうそこには帰れないと言われた〉(11)無理に関連付けたり、つなげたりして読む必要はないだろう。しかし「詩国」札所で「瀉心」のスナップショットを撮る道中、つまり各章の間に隠れた彷徨の部分に、行き場を求めて「詩国」札所を廻る語り手の、切迫した想いが潜められているように思う。連続で言葉を打ち出す・・・直観的なワンショットを掴むよりも、書き継いでいくことに重点を置いたような、いささか苦し紛れの発案を思わせる部分もあるが、そうした苦闘も含めて、伝わって来る切実さに打たれた。


芦野夕狩 letters  http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1246

コメント欄より 河原に再び還された石のいのちは、ほんのひととき、現世に生きる者の気持ちの問題として「埋葬」されたとしても、そのいのちが途切れることはない・・・そんな、奇妙な直観を、否定することが出来ずにいます。作品から受ける「想い」の重さとは別に(そもそも、切り離す事自体がおかしいのですが)作品自体から受ける印象を述べるなら、物語性の強さと、歌うように、刻むように進行していくリズム・・・いわば、読み手の呼吸のリズムが心地よい余韻を残す作品でした。分量が全体に多いような気もしますが・・・感情が高ぶりすぎないように、一定の抑制されたリズムで全体を進めていく、そんな配慮もうかがわれるような気がしました。


散文体がふさわしい作品なのかもしれませんが・・・おそらく、書き手/読み手の呼吸を合わせる、というような、そんな静けさも(無意識のうちに)意図されていたのかな、と・・・そんな気もしました。ひとつの、物語る、という意識の強い散文詩を、書き手の心の進行と息遣いに合わせて、軽く区切っていく。その息遣いを読者にも共感してもらう、ための、改行。

冒頭の情景叙述部分など、特に冗長さを感じてしまう。散文体で、句読点で読みの呼吸を示しながら進行させる方がよかったのではないか。一連目は、あえて半分ほどに削って次に繋いでいった方が緊密さを保てたのではないか、という印象は否めない。しかし、後半まで読み進めると、この迂回、迂路を辿るという詩行そのものが、核心に到るまでに距離を取りたい、という心理を醸し出しているようにも思われて来る。詰めてはどうか、という「助言」めいた言葉の軽薄さを、取り下げたくなる。

〈色萎えたすみれの花びら・・・これは紗代ちゃんのおめかしなの、と/あや子が摘んできたもの〉という冒頭から、〈あなたの手ってまるですみれみたいなのね・・・すみれ、でなくともいい/す、と み、と れ、と /その全部で君に咲いていたい〉という終盤に至るまで、せめてもの慰めに、傍らに添えたい、添いたい、と願う心が「すみれ」に託されているように思う。愛する人の精神の崩壊を恐れる不安。〈細い、ひらすらに細い糸を両腕で抱くような/夜〉〈そういえば爪を一か月ほど切っていないことに気が付いた〉繊細な比喩、ささやかな「事実」の提示によって内心を暗示する手法。哀歌だが、感傷に流れ過ぎないところを評価したい。


推薦

kaz.瞼の彩り http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1215

透かし模様、蝉の翅、透明なセロファンのような質感を持った面と、かすかに区切られていくラインのイメージ。この膜を透過して世界を認めたなら、複眼を通して世界を見ている、そんな感覚を得るのではないか・・・蝉の翅の翅脈の間に、増幅された小さな画像が無数に散りばめられている様を想起させる立ち上がりから、句読点を介して言葉を綴る行為へと視点が動き、アサシンクリードに塗られた/塗布剤すなわちクリームをパンに〉言葉に引きずられるように、暗殺ゲームからクリームをパンに塗る、という日常へとスライドする。自然物のイメージ、ネットからの情報、都市生活者の日常・・・断片的に相対化され、シャッフルされて、時系列よりも言葉の響きや連なりから再編されていく生活圏が、言葉を綴る、という行為を背後から支えている(下支えしている)ことが透けて見える。言葉の過剰が意味を希薄にしていくバランスに惹かれたが、素材が多岐に渡りすぎ、詩形は緊密なのに読後感が散漫な印象を生んでしまっているようにも思う。


☆桐ヶ谷忍 光臨 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1192

神話的に綴られていく寓話。雲が凍り、あらゆるものが冬眠するように閉じこもり、死を予感するような眠りの中にいる「冬」が続くわけだが、その「冬」のさなかに常にそばにいて、春が訪れることを信じ続ける夫の存在が大きい。夫の体温をこんなにも切ないほどに温かく感じた事はなかった〉あまりにもストレートな一節で、もう少し他の表現を探すべきではなかったか、と問い掛けたくなるのだが・・・直前に置かれている〈また夫の腕の中で寝た。夫も時々起きては非常食を飲食している跡がテーブルにあったけれど、同時に起きる事はなかった。いつでも、いっそあどけないほどの顔で隣に寝ていた。〉この文章が、夫のぬくもりを感じるという切実さを、陳腐さではなく必然に変えていると思う。夫は、妻が深く寝入っているときにのみ、自らの「生きるための」行為を遂行している。妻には気づかれないように、という配慮かも知れない。生きることよりも、死に近い眠りに襲われている妻が夫を認める時、夫もまた、生を中断して死の眠りを、妻と共にしている。根気強く寄り添う、共にあることを真摯に実践している夫の存在が、幼児のような無垢なあどけなさとして傍らにある。そのぬくもりが、春の再来を語り手にもたらしたように思う。なぜ、春がやってくるのか。その唐突感を否定できず、優良ではなく推薦としたが(なおかつ、いささか恣意的な読みをしていることは承知だが)夫と共に死のような眠りを眠る冬から、夫と共に生きる春への移行が「光臨」という題に象徴されているように感じた。


蛾兆ボルカ 薔薇 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1186

薔薇、そして〈私〉。緊張感のある前半を読みながら、小惑星で「2人きり」の星の王子様と薔薇との対話を思い出した。後半、それでも私は/朝ごはんを君とたべる〉〈食卓に置かれた空の花瓶には/架空の薔薇が咲き乱れている朝ごはん、という柔らかな表現による日常が対置される。「それでも」という否定的な接続語が緊張感を持続させる。最終連の「からのかびん/かくう」と連なるk音の鋭さと緊張感、無駄なく整理された全体の構成とも相まって、命のやり取りまで辞さない冒頭部の緊張感が、最後まで持続する。欲を言えば、全体にコンパクトにまとまりすぎているのではないか、という物足りなさが残った。

愛する、ということが、相手の全てをとことん知り尽くさねば気が済まない、という、逃れようのないエゴイズムの観点から捉えられているところに惹かれた。執着、所有欲を体現するような究極の愛。薔薇の側も、知られたら死んでしまう、というほどの秘密を抱えている。「恥」の概念が隠れているように思う。

冒頭、〈私〉の側は、もし愛しているなら、という仮定から始まり、対する薔薇の側も、特定の個人ではなく(他の誰に知られたとしても構わない、けれども愛するこの人にだけは知られたくない、という限定の強さではなく)〈誰かに知られたら〉という漠然とした設定であることが、一般的な定義のような印象を生み、立ち上がりの弱さに繋がっているのではないかという思いもあった。もっとも、一連目の平坦な立ち上がりがあるゆえに、二連目の強さとの落差が際立つ、という効果もある。


李沙英 種子 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1187

映像喚起力の強さが印象に残る作品だった。長男のみを愛玩し、続いて生まれた娘たちには乳を飲ませずに死なせた、という設定。40歳を過ぎてもなお、母親の乳首にしゃぶりついている、という強烈な寓意/風刺。現実の母子として捉える読み方もあろうが、母親を国家、しゃぶりついて母子ともに衰退しつつある息子を政府になぞらえるような読み方をすると風刺性が際立ってくるような気がした。

母親が輪姦されるというシチュエーションが、何を暗示しているのか・・・この部分に関しては、語句や映像の刺激の強さに対して、暗示したいものの曖昧さが釣り合っていないような印象が残った。

割れた天井から雨水と/野鳥の糞尿と/朽ちた果実が落ちる床の上廃墟のような家屋の中で、乳房に既に大人となった息子をしゃぶりつかせたまま身を横たえている母子。母親〈よく昇天するようになったのは、エロスとタナトスの究極の一致に至ったから、かもしれない。歯が全て欠け落ちるまでしゃぶりついている息子とは、滅びに身を任せる主体性の無さを具現化しているのだろうか。題名の「種子」が、作品とうまく結びつかなかった。子房に栄養を与え続け、最後にはしなびてしまう果樹を母、熟れたあとは腐っていき、最後には核だけが残る果物を息子になぞらえるならば、種子を生むために果樹が果たす行為の擬人化でもあるのかもしれない。


選考を終えて

今月は、コンスタントに魅力ある作品に触れることのできる月であったという印象を抱いている。ここでいう「魅力」とは、詩史的に意味を持つ可能性への興味であったり、新奇の実践を試みている、といった技法や実験への興味よりも、筆者個人の琴線に響いたかどうか、という、極めて「主観的」な要因に基づいている。「わたし」の心に、残ったかどうか。訴えるものが感じられたか、どうか。表現としては新奇さや「革新性」に乏しくとも、表現しようとするものの大きさ、深さを汲み取りたいと思う。


◆参考 ARCHIVE掲載順)

優良候補作品 

湯煙 音信 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1169

夏生 未明 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1176

仲程 かでぃなー(嘉手納)http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1173

静かな視界 あな http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1232


推薦候補作品

奏熊ととと 恐怖について/クヮン・アイ・ユウ 「夢に見た」そう言ってでも~/渡辺八畳 ワタシのきもち(エルサポエム)/白犬 shepherd dog/黒髪 作られた雪だるま/HAneda kyou ここにあって/なないろ 柳/安坂 夏の標本づくりの失敗について/完備 moment/ウエキ 喪失/夏野ほたる 夢葬/こうだたけみ 春とバナナとシーラカンスの速さ/杜琴乃 Butterfly/原口昇平 語り手と聞き手のいる風景/くつずりゆう 砂の道/沙一 真珠/岡田直樹 ねがい/ライカ わたしは水になりたい/さしみ 水の誘惑/かず。 親しい他人/ネムマン シンク/石泥 プラモデル/あめり 覚醒までのスケッチ/藤一紀 感傷・冬/ユーカラ(でこちん) にぃぬぅふぁぶし(北極星)


※文字色や字体が、うまく調整できていないところがあるようです、パソコンに不慣れな者ですので、どうぞご容赦ください。


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# by yumiko_aoki_4649 | 2018-02-14 20:18 | B-REVIEW | Comments(0)

B=REVIEW 2017年12月投稿作品 選評

大賞候補 仲程 連音/ほうげんふだ 


◆優良

・地球 ケーキと福音 

・桐ケ谷忍 籠の外 

・日下悠実 冷たい夜明けの湖畔にて 


◆推薦

・弓巠 空をひらく

・北 埃立つ

clementine 産毛

・夏生 黙々と


大賞候補

★仲程 連音/ほうげんふだ http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1040

〈前に進むことを停めた友へ〉という呼びかけが意味するものは、何だろう。進歩、前進、目標に向かって・・・そんな一見するとポジティブな思考を、やめた、のではなく、停めた、友への呼びかけ。友は、前進するエネルギーを失って、小休止をせざるを得ない状況に追い込まれているのか。そんな友を励ますために、幼いころの共通の話題を、懐かしく語りかけている、のだろうか。

あるいは、葛藤に悩むことを放棄し、一時停止した友、への呼びかけ。悩みに直面することを避け、今現在の安定を「やすらぎ」と読み替え、自己欺瞞から目をそむける。葛藤しなければいけない苦悩から逃れるために、停戦状態に棚上げにして、それは善である、正しい行為である、と自分に言い聞かせて受容してしまう、そんな状態にある友への、かすかな批判も含みつつ、寄り添っていこうとする呼びかけなのか。

子供時代の思い出を、〈アガー〉という「方言」から語りだす自然な導入に惹かれる。大人になった語り手が、街角の風景から「ふと思い出す」やんちゃな子供時代の思い出。〈親父が子供の頃に本土政策で使われた方言札〉とあるので、語り手が子供の頃には、既に「罰則」として使われることはなくなっていたのだろう。それでも、方言を使わない、使わせない、ことが良いこと、であると信じ、自分の使命であると信じていたかもしれない〈本土から赴任してきた中年の女性〉である〈先生〉。

身体的な痛みという根源的な苦痛を表現するとき、自分の生まれ育った土地の言葉、生まれながらに身に着けた言葉、いわば母語が、自ずから口をついて出るのは当然のことだろうに、それを使ってはいけない、痛い、と言い換えなければいけない、と強要されることの不自然さについて、考える。教育、という名のもとに、その不自然を押し付けることに葛藤を覚える良心を持った教師は、制度と現場との間で苦悩し続けるだろう。その苦悩から逃れ、「やすらぎ」を得るには、自らの行為を正しいものと信じる他はない。子どもたちの「良心」は、〈汚い言葉を使った場合は/ちょっとは反省したのかもしれない〉というところにあり、それは他者を傷つける(痛みを与える)ことを知っているがゆえの、自然な反応なのだろうと思う。他方、〈方言での場合は/誇らしげに正座したもので〉という子供たちの反応は、方言を用いることの正当性が、子供達にも浸透していることを示している。規範を与える、規則で縛る、従わない場合は、罰則を与える。それは子供のよりよい成長の為であると信じているがゆえに、葛藤を覚えることのない〈先生〉は、罰則を与えることで反省したり羞恥を覚えたりすることを当然期待するだろうけれども・・・〈そんな僕らの明るい顔に〉恐らく気づいてしまうのだ、自己欺瞞としての「正義」に。そして、そのことを子どもたちも見抜いている。

〈先生のほうが痛かったのだろうな〉という中盤の「痛み」は、〈先生〉が自らの権威を示すことができない、自らの信じるところを実践できない、思い通りにならない。そうした苛立ちから発せられるものであり、それを子供心に見抜いていた、ということであるのかもしれない。しかし、最終連で繰り返される〈先生もやっぱり痛かったのかな〉という言葉には、〈前に進むことを停めた友〉の〈落ち着いた顔〉が重ねられている。

自らの心が、自然な呼びかけに応じることによって生じる葛藤とは、制度や社会的規範を指導する側、強制する側の立場と、その規範そのものを疑う、自然な人間としての感性の葛藤である。それが正しいことなのだ、と、確信を持つことができるならば・・・つまり、社会制度や規範と、自らの心が聴きとる自然の呼びかけとが一致している時には、なんらの葛藤も起きないだろうが、自らの人間としての感性を抑圧しながら、社会制度や規範を正しいもの、として受容する時、そこには葛藤を棚上げにした、一時的な小休止としての、仮の〈やすらぎ〉しか存在しない。

〈先生〉と〈僕ら〉の関係性を、「本土」と「沖縄」の関係性のメタファーとして読むことによって見えて来るものがある。それは拡大解釈かもしれないが、また別の拡大解釈として、社会的規範や、組織における規範、あるいは制度や慣例といったもの、人為的に作りだされたルールの適用などに際して生じる諸々の葛藤に際し、適用する側だけではなく、する側の覚える痛み、といった普遍的な問題に敷衍し得る。

語りかける文体の持つ、誰にでも届く優しさと易しさ、〈前に進むことを停めた友へ〉という、様々な読み込みの可能なフレーズで全体を挟み込むように整える形式の安定性。同一内容をリフレインしているように見えて、痛み、という同一の言葉が、異なった側面から捉えられているように読める奥行きなど、たくさんの魅力を備えている本作を、大賞作品に推したいと思う。


◆優良

☆地球 ケーキと福音 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1135

コメント欄より 〈幾つものいのちが死んで終わる〉 〈いのち全体が過呼吸〉 〈今年もまた 死にきれなかった〉 刻んでいくひとことひとことが、とても印象に残りました。 生きているかのごとく(生きるばかりに)光る月・・・物質としては「死んで」いるはずなのに。 ずっと、私なんかより、生きているじゃないか・・・その冷たくあたたかく浸みて来る月の光。 泣きながら食べるクリスマスケーキ。 なぜか、生きていることの「罪深さ」を抱えて、今年もまた生き延びてしまった、ことを歌っている語り手。 生き延びてしまったことを、言祝いでほしい。そんなクリスマスでありますように・・・


大賞候補に推したいと思った作品のひとつ。以前大賞を受賞されていることも踏まえて、優良に推した。クリスチャンである人も、そうでない人も、当たり前のように「お祝い」する習慣ができてしまっているクリスマス、ではあるが・・・人間の罪を贖う為に十字架上で苦しんで死ぬ、という運命を負った「救済者」の生誕を祝う日である。祝福の日の〈すこし前にも〉生誕に立ち会えずに死んでいったいのち、があり、「わたし」の罪を負って死ぬ命を祝福する、という、引き裂かれるような矛盾を抱えた日でもある。コメントでも引用したが、〈いのち全体が過呼吸〉この一行を中心に捉えたことを評価したい。


☆桐ケ谷忍 籠の外 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1072

コメント欄より 逃げ出さないように、風切り羽を切る。それは、語り手による、「ピーコ」への執着であったのかもしれません。花緒さんが「ダーク」と評したのは、〈もがれた翼をばたつかせるのは/見ていて不憫だった、いや、不愉快だった/私にではなく、窓の外に向かって啼くのも〉このあたりなのではないか、と思いました。 〈私〉は、自分では「飛べない」ことを自覚していて、「飛べるもの」に憧れている。なおかつ、その「飛べるもの」が自由に飛び立つ(飛び去る)ことを許さない。許さない自分に、「飛べるのに、飛べなくされたもの」がいっそ反抗しれくれればいい、と願っているのに、その「願い」は果たされない。「飛べるはずだったもの」が、ひたすら空に憧れているのを、胸騒ぎと共に見つめている・・・。 「籠の中の鳥」が、単なる愛玩動物やペット、家族、を越えて、自分自身の魂の象徴のようにとらえられているから、なのではないか、と思いました。自分の魂が、自由に羽ばたくのを、自らの意志が阻止している、というジレンマを抱えていて・・・自らの魂が、自らの意志に徹底的に抗弁してくれる、そんな強さを持つことを、実は願っているのではないか。 それなのに、魂は肉体から抜け出して、空へ還ることばかりを願っている。意志(と肉体)は、そのことに対してついて行く事ができない。 〈一緒にいる為に、だから翼をもいだ〉魂を、自らの内につなぎとめておくためには、魂の翼をもがなければならなかった・・・生きて行くために、誰もが経験するはずのこと。その痛みを、いつまでも覚えている(それゆえに、魂が、肉体の中に、なかなか居場所を見いだせない)人と、すぐに忘れて(折り合いをつけて)、魂が肉体の内に居場所を見つける人、とが、居るような気がします。

 

 自らの魂を、自由にさせたい、手放したい、と思うと同時に、執着し、手放したくない、と願うあまりに、自らその翼を切る。自分で自分の魂を切り苛むような、過酷な行為をせずにはいられない、そんな自分を、冷静に見つめる他者としての自分。空を飛びたい私と、飛べないことを知っている私、飛べることを知っているのに、飛ばしたくないがゆえに飛べなくする私。「私」の多面性を小鳥と飼い主の関係という具体的な映像に託して描いた点に惹かれた。


日下悠実 冷たい夜明けの湖畔にて http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1074

コメント欄より 指先に走る痛み、に焦点が当てられているのではなく、〈撫でる〉という言葉に含まれる愛おしむようなニュアンスが印象に残りました。 指先に刃をすべらせ、うっすら滲む血液、その血が〈誰かの/同じ血〉へと混ざっていく、とけこんでいく、のを夢想しながら・・・実際には、血が乾いて、痛みだけがそこに残されるのを、一人で見つめて居なければならない。 わたし、であることを離れて、大きな一群、誰でもない群、の中に溶け込んで、消えてしまいたい、という願望が、満たされないまま、孤独だけが切々と・・・指先にこびりついて乾いた血が目の前に突きつけられるように、そんなリアルさで迫って来る。 そんな心情が描かれているように感じました。 二連目の、〈誰か〉という、漠然とした対象設定が、全体をなんとなく曖昧にしている感もあります。耽美的な心象風景への傾きが前面に出ている、というべきか。 命のエネルギー、あふれ出す心情・・・その熱の象徴ともいえる流れる血が、乾いてしまう、というイメージと、心が冷えて、凍り付いてしまう、液体が固体になってしまう、というイメージと〈凍える指先〉〈溶けはしない〉〈霜が訪れ〉という冬の寒さのイメージとが重なっているように思いました。 〈深い底〉とは、集合的無意識が心象映像として描き出した、群青色の湖、ということになるでしょうか。 茨木のり子の「みずうみ」という作品に、〈人間は誰でも心の底に/しいんと静かな湖を持つべきなのだ〉 〈田沢湖のように深く青い湖を/かくし持っているひとは〉という印象的なフレーズがありますが、そんな心の奥底の湖を連想しました。


 普遍的な湖の心象風景と、鮮烈な血の色。白と青、そして赤。ナイフに傷つけられる、のではなく、自ら刃を迎えに行く。一滴が湖の底に落ち、誰かの同じ血へ混ざる、という2連からイメージするのは、あらゆる人々の痛みや哀しみ、苦しみの一滴を集めて、しんと静まり返っている湖の姿だ。一滴だけ、自分自身を湖に逃して(哀しみの集合体の中に、自らを溶け込ませて)、岸辺で指先の血が乾く(再び、自分自身を孤立させる)のを見ている、とも読めるかもしれない。4連に整えられた安定した詩形の美しさも評価したい。


◆推薦(優良次点)

☆弓巠 空をひらく http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1041

ひらがな、カタカナ、漢字の使い分けは、詩面の印象だけではなく、音読(脳内再生)する時のニュアンスにも影響してくる。いわば、テクストの質感にあたるものだろう。体言で止めて、助詞で改行する区切りや、言葉を重ねながら変容させていく手つきなどから、音として響かせることと、目視した時の質感の追求と言った、意味よりもニュアンスやムードといった「とらえどころのないもの」を文字に置き換えようとする意欲が感じられる。空、という文字の持つ意味と、文字そのものを解体していったときに現れて来る意味が、どのように関係してくるのか。空を分解すると穴が現れ、さらにウ、八、工(たくみ、と読める)カタカナでウハエ、どこまで行っても「文字」としての意味を見てしまいそうになる視覚の性向を問おうとするように見えて、そら、という音に戻り、何も捉えられないところに回帰していく。空を写す水、映し出すだけで、何もとらえられなかった、という喪失体験の想起が繰り返される。開放的な場の提示、文字の解体も含めた、場の解体が意図される一方で、この循環の中に閉塞、安住していくような空間の作り方に、もどかしさのようなものも覚えた。


☆北 埃立つ http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1132

ぎっしり文字を詰めることで生れる切迫感や焦燥感と、読みやすさとの兼ね合いを考えさせられた。論理に収まることを拒否するような自在な言葉の運びで詩句を進行させつつ、エキゾチックな、童話の世界で触れている外国の街のような都市空間が、断片的な描写の中からぼんやり浮かび上がって来る。蝋燭の火、火事、指先の炎、渦巻く夕陽、と、火や情熱を喚起する言葉が断続的に現れ、全体にひとつの色を付与していく(調性を整えていく)一方で、留まることなく先へ先へと進んでいく詩句の進行、全体を主導する疾走感に惹かれた。濡れたように注がれる月の光、月の光に濡れる町を映し出す最終行は、水の世界への回帰、羊水の世界への回帰願望とも読める。胎児の時の記憶までイマジネーションで遡って呼び返しつつ〈俺に故郷がない、ただ景色だけを持っていて、そこに奏でるギターがない〉と畳みかけていくあたり、ないからこそ、求める、という切迫感が伝わって来て強く惹かれるものがあったが、ロジックからの飛躍が大きすぎて、連想が追い付かすに意味を取りこぼしてしまう詩句も多く、手元に留まらず、すり抜けて行ってしまうような感覚が残った。


clementine 産毛 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1050

本文一行目と題名が被っているのだろうか。詩の立ち上がりは重要なので、一行めを整えたい。全体に、とらえられないものを捉えようとする試みが、名付けるという行為において確認される展開、匂いを感じ取る感覚、産毛を揺らすようで揺らさない、気配だけを残していく感覚と、名付けようのないものを(たとえば、みぞれと)名付けていく感覚に連続させているところに惹かれた。比較的短めの詩行の中で、リフレイン的に繰り返される〈みぞれとよんだ/呼んだ〉という詩句の重なりや、〈カルキのにほい〉といったフレーズは、淡色の絵の具を重ね塗りしながら強めていくような効果をもたらしているが、同じ色が繰り返されることによって画面が単調になっていく傾向も否めない。〈指先にぎりぎり届かない/日向〉〈産毛をかすかに揺らさない/風〉どちらも否定の強さが、逆にリアリティーを喚起する印象に残る詩行。こうしたアクセント的な部分を大切にしてほしい。


夏生 黙々と http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1058

動作を丁寧に描写していくと共に、連用止めと改行で続けていく詩句のつづりが生み出す律動感が印象に残る作品だった。糸、という言葉に喚起されるイメージが、関係が崩れないように、ほつれないように、という願いであったり、絡まることへの怯えであったり、その絡み合いを断ち切らねばならない、そうした場面に立ち会わされることへの恐れ、というように、多方向に展開していく。それでいて、全体を糸のイメージがつなげている一貫性、粘り強さが良い。いとも簡単、と糸の音にかけたユーモアが、全体のシリアスな調子とうまく調和しているか、どうか・・・ユーモアや笑いに転化する部分の取り込み方は難しいが、笑いには、息づまるようなシリアスな重さをひと息に開放する効果がある。〈一生懸命の/もろさ/と/堅さ〉は、そのままこの作品の持ち味であり、特質でもあるのだが・・・もろさ、堅さをしなやかさでつなげていくような余裕が加わると、もっと作品に自在さがうまれるのではないか、と感じた。


◆参考 優良候補作品 (順不同)

渡辺八畳 市営のシエスタ http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1122

徐々にでいいから 回送 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1053

クワン・アイ・ユウ 声だけの無名、酷い、酷いにおい http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1077

二条千河 口実 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1144

まりにゃん * http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1075

渚鳥 再開 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1086

shun kitaoka 高橋先生 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1102

蛾兆ボルカ 黄色くて丸いパン http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1107

静かな視界 shima  http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1107

北村灰色 海に砂糖を、僕には何を? http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1107

アラメルモ ドライフラワー http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1088

くつずりゆう 東風 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1039

大熊あれい 芝生で覆われた土手一面に、霜が降りて光っている http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1099

芦野夕狩 姉の自慰 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1154


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# by yumiko_aoki_4649 | 2018-01-15 04:12 | B-REVIEW | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
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