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カテゴリ:読書感想、書評、批評( 26 )

『とんてんかん』3号 感想と紹介

『とんてんかん』3号。東日本大震災の翌年に、「私たちの詩を」と出発した現代詩講座(講師 清岳こう)が、その後「とんてんかんの会」として継続発展していく中で発行されている詩誌である。各人の孕む詩世界のエネルギー、奥行きの深まりは、相互研鑽の成果だろう。心に残ったフレーズを紹介したい。

(行分けはスラッシュで一行に圧縮、連分けは改行、中略は・・・で表示)


安部 信嗣「ひきちぎれ」

叩き落とせ 差し出された手を/信じるな 笑顔を/使われるな 痛みを/ 心に 橋は 掛けさせない

この世で一番強いものと 戦うために/おまえの 病んだ両親を 殴り殺せ/泥の中に転がし 背骨を 踏み砕け

烈しい言葉の連打にひるみながら読み進めていく。「どこにも 安全地帯は ないぞ/海の向こうまでも 追いかけて・・・やつらの 子供たちを 病ませ/やつらに 定住の地を 与えない」という呪詛の重さ、「ひきちぎれ おまえを 制御しようとする 鉄の鎖を/ぶったぎれ/おまえを 引き留めている 真綿の鎖も」という沸騰する怒りに遭遇する。「おまえ」は作者自身であると共に、沈黙と忍耐を強いられた人々一人一人であるかもしれず・・・日本を牽引する未来のエネルギーと盛り立てられ、事故後には諸悪の元凶と指弾されている「原発」そのものであるのかもしれず・・・確定できない「おまえ」の向こうから、悲痛な叫びのようなエネルギーが直球で押し寄せて来る。抑圧されている悲しみと怒り、その母体である「おまえ」と読めば、「病んだ両親」とは、経済偏重主義に歪み、天災の悲惨の上に人災の無念をもたらすに至った人間のことではないのか。行間から血が滴るような、強烈な作品だった。


川原 あずさ「寄せては返す」「とんちき大臣 前へ」

毎年 弥生の月に/言葉が振って来る浜辺があると聞いた

そこで降り積もった言葉の見守り人を/探していると知り/あわてて名乗りを上げた・・・前任者は・・・たびたび私の様子を見に来てくれる/毎年 弥生の月には/杖を頼りに浜辺に降りて/言葉を拾い過ぎないようにと/私に声を掛けるために

短いながら、静かに胸に残る一篇。三月に降り積もる言葉とは、死者たちの声に他ならない。前任者は、その言葉を、想いを語り継ぐことを自らに課した、寡黙に言葉を紡ぐ人のことだろう。既に帰天されているのかもしれない。想いが忘れられることのないよう、寄せて来る言葉の「見守り人」になること、詩人として言葉を紡ぐことを決意し、名乗りを上げた「私」。言葉を「拾い過ぎないよう」見守られる存在でもある、という部分に深い陰影と温もりを感じる。

同じ作者の「とんちき大臣 前へ」は、ユーモアに満ちた語り口ながら、辛辣な風刺を効かせた一篇。「とんちき大臣 あんたの故郷は/まっすぐに雨が降りますか」「私が生まれた町は いかなる時もどんな場所でも風が強いから/ななめにしか 傘をさしたことがないんです・・・私はそんな 風の町を捨ててきた/ふるさとにも捨てられた お互いさまと生きてきた」「とんちき大臣 あんたは真っ直ぐな傘だけをさして大きくなったのですか」国会の質疑応答場面を彷彿とさせながら、故郷を離れざるを得ない苦悩と怒りをにじませる。


カエン「家路」

家に帰る道を教えてください/どうして帰れないのかわからないのです・・・誰かに聞こうにも/ここにはあまり人は来ないのです/誰か私を家に連れて帰ってくれませんか・・・もう一度/玄関の扉を開けて/ただいまと言いたいのです

ただ黙って、静かに読む(聴く)一篇。


いけ みき「We

わたしの痛みは/親指の腹にささった 煮干しのえら/銀色に光り 皮膚を裂いた

あなたの痛みは/のどを切り裂いた テロリストのナイフ/暗闇の中で 血管は破断した

わたしの涙は/昏睡状態だった姪の 命が助かったから/バスが揺れた拍子に 一粒こぼれた

あなたの涙は/津波から自分だけが助かったことへの 無念/バスが満員でも 嗚咽は止められない

わたしに染みついているのは/九十歳のそそうの臭い/洗っても洗っても 鼻の奥にはりついている

あなたに染みついているのは 大切にしてきた故郷が なすすべなく崩れ落ちる瞬間/冷静に話している今でも 目には映っている

こんなわたしが/あなたの思いを 受け止められるはずもなく

3パートに分かれている詩の、第1パートを全文引用した。対句や、体言止めや終止形の作りだすリズム、アンダンテのテンポ感を滲ませる整った詩形。言葉の選択が鮮烈で、意外性があるのに日常から乖離していない。他者への共感、共苦の難しさと希求とが交錯する。第2パートは、「ヒロシマの静かな公園」でオバマ大統領が行ったスピーチ。

三十九個の We/二回の We can choose

あなたの「わたしたち」の範囲に/わたしは 入っていますか

あなたが 今から選べる と言っていることは/わたしが 以前に選んだことです/七十年たっても 実現できないのは/ずっと だれかが 選ばなかったからです

唯一の被爆国である日本は、核の恐怖、放射能の脅威を世界中のどの国よりも強く、深く、知っていなければならないのに。その痛みを、二度と繰り返してはならない、という信念に基づいた願いを、発信し続けなくてはいけないのに。

第3パートは、「わたしたち」を使う時の人間心理を抉る。

「わたしたち」を使うとき

一体感という塊を持たせる/安心感を包んで持ち帰る/下心を隠して薄笑いを添付する/共感を強いて考えることを止める/結束バンドで意志を固定する

被害者同士なんだから手を携えろ/同罪なんだから同じ罰はしかたない/オレの意見には口をはさむな/オマエには選ぶ権利はない

「わたしたち」を胃に詰めたまま/ひとりで 歩いていく

いささか生硬というのか、直球過ぎる印象も受けるが、日本政府の用いる「わたしたち」に強い違和感を感じているせいか、まっすぐに言葉が入って来た。


西田 かな「進め 進め」は、文字の形を象形文字のように用いたり、音の響きによって生理的な感覚を喚起させたりするところが面白かった。「現」は小品ながら、外景が内景として反転する終行に余韻が残る。


橋本 信乃「夏の夜」「客席」は、花火を見上げる人々を「たった一人/はじめからひとり/大勢のひとりがここに居合わせ/くり返す爆音と光に心を寄せる」ととらえたり、「歌い出す楽器に息を合わせる」というように、個の集合体がひとつの空間を共に体験する様に、焦点を当てていく視点に惹かれる。


氏家 国浩「風葬の町」

誰もいるはずもない場所に辿り着いた/誰かが結んだ草が 気づかれずに枯れてしまっている

盛り土が覆い隠したのは 何丁目何番地でなく/泣き笑いし 下の名前で呼び合った面影だった

自分の過去を語れない/自分の故郷を話せない

誤解や差別に晒されるのが怖くて/生い立ちを塞ぎ 今を取り繕ってばかり・・・

飾り気のない、ナマの言葉がストレートに畳みかけられる。行間の区切り方や飛び方にリズムがあり、「語れない/話せない」「なった/しまった」「呼びかける人も もういない」「化けて出てもらってもいいのだが それも叶わない」と脚韻的な響きを残した止め方が、余韻を作りだしている。語られなかったこと、飲み込まれた言葉、省かれた言葉の奥に広がる、殺伐とした風景は、作者の心象風景でもあるだろう。

同じ作者の「運命線」「感情線」「生命線」という、手相になぞらえた三篇の小品も、「いじめられている子供に 運命ですねと言えるか/病床で苦しんでいる人に 運命ですねと言えるか」「先細りの生命線の上で狼煙を上げろ/まだ ここで生きていると表明しろ/のた打ち回ってでも 生き延びろ」など、簡潔でストレートな、力強い言葉が印象に残った。


安田 宙生「アレッポの石鹸」

オリーブオイルから手作りで作られた、アレッポの石鹸。アレッポは、現在、欧米各国やISが利権を求めて入り乱れる「内戦」に蹂躙されている国、シリアの首都である。シリアの被災者が難民として海を漂流する様を想いながら、その先の「不寛容」に心を痛めながら、作者は「紙のように薄くなった石鹸を/洗面台に置いておく」。忘れないために。シリアの内戦が始まったのは、東日本大震災が発生した2011年である。


白鳥 由紀栄「ウソ」は子供のように素直な眼差しが眩しい。「拈華微笑」は二篇の詩を呼応させているようにも、内面の応答を形にしたようにも見える工夫が楽しい。ねんげみしょう、禅問答を意識した形式でもあるのだろうか。


木村乙「アリス」は、言葉の止め方で進行のリズムを作りながら、若い女性の生態を「饒舌体」とでも呼びたい文体で活写しようとしているように見える。


實苫 潤「朝の拳銃」「淋しいオレンジ」は、モダニズム風の新鮮なイメージの展開が面白かった。「電話の傍には象がまだ眠っている。カットグラスの底に残った夢が、芝生の下のダイヤを捜している・・・いつも拳銃は窓のあちら側から狙っている。/朝のオレンジを。」


竹野 滴「病み枕」は、「草枕」を踏まえながら、自らの病の現状と治療の様相を、ユーモラスかつ克明に記していく筆力にインパクトがあった。


清岳こうの「大阿蘇」は、肥後椿の名品のイメージに託して、熊本の震災が鎮まることを願った祈りの歌。


「結い結いコーナー」(寄稿欄?)には、谷川俊太郎と植村勝明の二氏が詩篇を寄せている。
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by yumiko_aoki_4649 | 2017-03-29 16:34 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

高村光太郎「道程」を読む

大阪で行われている読書会に、メールで遠隔参加しています。
その読書会のために用意した資料。
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by yumiko_aoki_4649 | 2017-03-19 11:04 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

『ベルリン詩篇』冨岡悦子著 書評 『千年樹』68号

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by yumiko_aoki_4649 | 2016-11-23 20:55 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

伊藤桂一さん詩集『竹の思想』感想

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by yumiko_aoki_4649 | 2016-11-01 13:53 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

詩人・安水稔和さんを囲む会 に出席して・・・詩集『春よ めぐれ』を読む

 冬が過ぎれば、春は自ずから巡ってくる…それなのに、なぜわざわざ、「めぐれ」と強く念じるような言葉をつぶやかねばならないのか。本書を手に取り、なんどか読み返すうちにおぼろげながら伝わって来たこと――不毛の荒野となった心に、再び亡き人の面影が、春の芽吹きのように訪れることへの、切ない願い――について思いを巡らせていた時、安水さんをお招きして読書会を行う、とのお知らせを頂いた。五月九日、深い問いかけと熱い祈りが凝縮されたような一冊を手に、初々しい緑の風に包まれた五月の清里を訪ねた。

 1995年1月17日の阪神・淡路大震災から20年の間、著者は震災の詩を書き続けた。その中から130篇を択び文庫版にまとめたものが、この一冊である。冒頭の詩は、震災の日の光景から始まる。

 目のなかを燃えつづける炎。

 とどめようもなく広がる炎。
 炎炎炎炎炎炎炎。
 また炎さらに炎。

 目のまえに広がる焼け跡。
 ときどき噴きあがる火柱。
 くすぶる。 

 異臭漂う。

作者の中に、50年前の神戸大空襲の記憶が再来する。

 壊滅したまち。
 眼前のこのまちに
 どんなまちの姿を重ねあわせればいいのか。
 これから。(神戸 五十年目の戦争)

燃え落ちる町を前にした呆然自失の心境に、さらに、少年の日の恐怖や不安、その後の辛く苦しい時間…あの日の絶望が、その記憶が、否応もなく引き出され、重なっていく。それは50年という時を、その間に育んできたものを、尽く破壊せしめる激震でもあっただろう。

崩れた屋根のしたの/倒れた壁のなかの/折れた梁のあいだの/噴きあがる炎のむこうの//人の顔の/人の髪の毛の/人の手の/手の指の先の//あたたかさ/なつかしさ/いとおしさ/くやしさ。//人の形の/くやしさ。/人の/くやしさ。(くやしい)

焼けた水。/焦げた風。/垂れさがった電線。//ひび割れて。/傾いて。/揺れる足もと。//きしむような。/奇妙な違和感。/嘔吐。//不意にきしむ。/またきしむ。/不意にまた。(きしむ)

「いのちの焦げるにおいの漂う街」は、「いのちの記憶の引きちぎられた街」だ。生きていてよかった、という安堵と、なぜ自分だけが生き残った、という悲痛が心を引き裂く。中には、罪悪感すら感じてしまう人もいるだろう。話したい/話したくない 聞きたい/聞きたくない 覚えていたい/思い出したくない 忘れてしまいたい/忘れたくない…揺れる気持ちは、繰り返し訪れる〝痛み″となって心身を襲う。「暖をとるために一口飲んだ。/味がなかった。」(会いたいなあ ほんまに 痛い 揺れる でも このごろ 等)

角を曲がると/闇のむこうに/闇のかたまりが見える。/天から落ちてきたかたまりが。//肩口のあたりが裂けているのが/夜目にもはっきり見える。(見える)

あれから/季節がなくなって。/あるとすれば/それは冬かしら。/冬のつぎは夏で/夏のつぎは冬ということ。(あれから 季節が)

震災の冬、焦土と化した終戦の夏…季節が無くなる、という言葉が胸に刺さる。悲惨な「あのとき」以来、身体の周りで季節が巡っても、心の中は時が止まったままなのだ。時を失った心の目に留まる景は、荒涼とした更地、「草ばかりの空地」、失われた場所だ。(更地 更地があって 生きているということ 等)しかし作者の眼は、同時に新しい命の芽吹きを認める。

焦げた幹の割れ目から/おずおずと/黄みどりが/のぞいて。//焦げた幹の根もとから/われさきにと/押し包むように/のびあがって。(光る芽が)

心の中に、木が、戻って来る。

ここに帰って来る。あった木。ない木。見えない木。見えてくる木。花が帰る。葉が帰る。鳥が帰る。人の視線も。人の記憶も。人もまた。(木のねがい)

まだ眠っているのに/目を閉じているのに/ぼんやり見えている。/木の形したものが近づいてきて/幹のまわりが息づいて/枝のあたりが揺れはじめて。//土がゆっくりと盛り上がる/水が少しずつ流れる/空気が震える。/見えない町の音/遠い人の気配/わたしの心が戻ってくる。(朝の声)

冬の心を抱えた身体を、何度も春の手が抱いたことだろう。木々の芽吹きが、再び開く花が、帰って来る鳥が、心の手を引いて安水さんを春の野に連れていく。やがて、詩人は確かに実感する。

むこうから歩いてくる/すこしずつ近づいてくる。/顔の表情も読めるようで/手を振って走り出しそう。/声あげて/ああ やっと会えたんだ。//そこで姿が消える/なぜか いなくなる。(そこで)

すぐとなりに立っている/立っているのがわかる。/見なくてもわかる/おたがいにわかる。/会えてよかった/そう言いたいのを押えて。//歩き出すと/いつのまにか ひとり。(いつのまにか)

 心の中に訪れる気配を感じるだけではなく、「人の顔した花」「人の形した枝」が、「風もないのに/揺れている」のを、実際に目でも〝見る″(震えている)。思い出すことが辛さ、痛み、であった時間は、凍りついた冬の時間だったのかもしれない。自然の息吹に触れるうちに、雪解けのように流れ始める心の時間。心が春を迎えるとき、身近な草花の中に、明け方の夢の覚め際に、想い出の場所で目をつむるたびに…大切な人が、そこにいたこと、いつもいること、これからも居続けることが、実感されるのだ。
手で触れることのできない出会いは、かすかにこころに翳りをおびた出会いでもある(光のいのち)。それでも、凍りついた時間の中から、静かに流れ続ける時間の中に戻って来た心で、作者は子供たちの笑顔を見ながらつぶやくのだ。

 君たちのなかにすべてがあると言ったことがある
 それはこういうことだ。
 君たちのなかにわたしたちもいる
 わたしたちのこれまでが これからがある。
 君たちは君たち。
 わたしたちも君たち。
 
 沈む空 割れる空。
 燃える木 枯れる木。
 遠い水 見えない芽
 揺れてこぼれる花の記憶。
 ほかならぬこの世界で
 いまここに立つ君たち。

 君たちといっしょなら
 生きていける。
 君たちといっしょに
 生きたいとおもう。
 君たちの笑顔とともに
 ほかならぬこの世界で今。(君たちの笑顔とともに)

 含蓄深い安水さんのお話の後、詩集に込められた祈りについてうかがうことができた。その時の力強いひとこと、「生きる、ということです、生きている、ということです」が忘れられない。柔和な笑顔と共に、ハリのある声で、身を乗り出すようにして答えて下さった安水さん。素敵な読書会を企画してくださった清里のギャラリー「ぜぴゅろす」の桜井さんご夫妻にも、深く感謝したい。
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「春よ めぐれ」安水稔和詩集 編集工房ノア(本体1500円+税)
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by yumiko_aoki_4649 | 2016-05-26 21:29 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

詩誌『蒐』5号より 小柴節子さんの‶Wind”

札幌で発行されている詩誌『蒐』(Syuu)5号が届いた。2016年3月31日の日付。
その中から、小柴節子さんの作品、‶Wind”をご紹介したい。

 Wind

さようならで始まり
さようならで終わる物語を
思い出を開くように聞いている
さらには
樹々の葉脈が
ふるえる舌の音のように聞こえてくる朝もある

寝室にはあちこちで拾ってきた
あるいは捨ててきたものたちが
血を流し
狂い咲いている
行きつくところまで
行かなければならなかったのに
行けなかった

わたしはいつか
みうしなった耳になるかもしれない
ぬきさしならない存在を
蝸牛にみたてて
孤独の坂をくだってゆくが
辿りつけない

まだかすかに声の残っている下着を
身にまとえば
胎内にいたはずのいのちが
記憶だけになって
戻ってくる
死体を焼く臭いはいまも
つんと鼻腔をついて

四十年めの夏がきて
てのひらのなかに
死の国が宿っていることに
気づかされる
日付は無限にあとずさり
還ろうとする道には
さようならの風だけが
こっちへおいでと手招きしている

聴くということに、全神経を集中しているような静けさ。4、5連目を読むと、もしかすると亡くなったお子さんがいらしたのだろうか、という想いにもかられる・・・が、1、2、3、と畳みかけていく、乾いた砂をすくいあげるような諦念、穏やかな哀しみは、語り手自身のもののように思われる。
樹々が吸い上げ、葉脈を巡り葉先を柔らかくのばしていく命のかすかな漲り。その気配を、見るのではなく、音として聴いている。あるいは心の耳で聴いているのかもしれない。これから葉をのばすであろう裸木を想いながら。
振り返る過去が、芥子の花のように赤く、涙をしたたらせるように血を流しながら、語り手のいる寝室のそこかしこで花開いている。
蝸牛、は、かたつむり、ではなく、かぎゅう、と読みたくなる。孤独と響きあう、Kの音、硬質な響き。
手招きしている風の中には、誰が立っているのだろう。

注記が記されている。

※小柴節子同人は二月一日に急逝しました。享年六五歳。
 遺稿の中に本誌5号用と思われる作品があり、ここに掲載しました。

注記を読んで、感動したわけではない。何か胸を突かれるような、静かな哀感を感じながら読み終えたところに、控え目な、しかしそれゆえになおいっそう万感のこもる、同人への追悼の一節があらわれたのだ。

庭先で咲き始めた勿忘草を捧げたいと思う。
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by yumiko_aoki_4649 | 2016-04-12 20:52 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

今、「囚人」を読むということ――「蒼ざめたvieの犬」考

 紺色の揉み紙の地に、朱の文字で 囚人 と記されている。1949年、岩谷書店刊。後書きによれば、前半部の総題「青い酒場」には44年以降の作が、後半の「天の氷」や「巻貝の夢」には39年より43年までの作が収められている。三好が中桐雅夫の詩誌『LE BAL』に参加した39年は、中ソ国境付近のノモンハンで日本軍が大敗を喫っした年でもあった。
 集中、唯一年号を付した作品がある。「一九四一年冬の嘔吐」という副題のある「捧ぐ」。開戦の年、詩人は何を想ったのか。「私は純粋な詭弁だけしか持つてはいない/けれど 私は誇る 乾いた豊かな沙漠を/毒物も生えず 人の通らぬ/赫熱の夢想を 沈黙の献身を……かなしい権力を水に落ちた太陽のなかで/私は強く主張する」言葉しか持たない者の無力を自覚しつつ、なおも心の中には、赫熱の夢想が燃えているのだ。少なくともこの時点においては、まだ……。
 その頃、三好は肺結核により徴兵を猶予されていた。同郷の詩人難波律郎の眼には、兵役忌避のための「極端な減食による肉体破壊」に見えた。「当時三好の詩作は旺盛であった……足袋屋の二階の一間を借り……一連の散文詩「巻貝の夢」を、青ケイ和紙の原稿用紙に毛筆できざんでいた」という。(「黒髪の三好豊一郎」『Poetica』9号 小沢書店1993)
 戦後の『荒地詩集』(1953年版)に載せた評論「基督磔刑図」によると、当時の三好をとらえていた「不安」は、夢や自由が断たれるという個人的な問題よりも、「冷酷無比な自然の破壊力と同様な、否それ以上の凶暴な力……この暗愚な力を駆使する真の源泉が人間の何所にひそむのか」という、より根源的な問いから発していた。三好は壮絶なリアリズムで「死」を描きだした北方ルネサンスの磔刑図を見つめ、ダンテの地獄や源信の『往生要集』、ドストエフスキーの『白痴』やユイスマンスの『彼方』など、人間の善悪を問い、あるいは終末論的世界観を示す作品に傾倒しつつ、人間と時代への絶望感を強めていく。
 散文詩群「巻貝の夢」は、こうした根源的な不安を主題としている。「あらゆる現象が急速に、破滅的に一つの終末に近づきつゝあるとき、錯乱は到る所に現れる一つの痙攣的な自我のあがきである。私のこの詩集もその一例に洩れないであらう。」(「弁明」詩集後書き)浄らかな超俗の世界、あるいは死による安息への逃避願望が描かれる一方、「自ら望んだ囚徒の運命」を甘受し、「肉体に還つて」来なければならない魂の苦悩が、悪夢的幻想の内に示される。(「蜘蛛」傍点筆者。このサイトでは太字で表記。)
 時代と肉体の囚人として、三好は祈らずにはいられなかった。「凍つて寒い冬の夜空をひとすじ裂いて/夢におびえた犬の遠吠え/私はめざめてそれを聴いた」「おそれにおののく祈りのやうに/嘲笑(あざけ)りふるへる呪詛のやうに」響く「これら不眠の声を聴くか?/主よ イエス・キリスト」(「夜更けの祈」)三好は、額縁の中から抜け出して「俺の胸を踏み越えて室内を歩き廻」り、嘆くイエスの幻影と出会いさえする。(「部屋」)
 42年の秋、中桐や鮎川が出征し、「詩を書く意欲がまったくなくな」った田村隆一は、入営前に「どうせ死ぬなら、モダニストらしく合理的に死んでやるんだ、詩を書かないで、詩を実行してやるんだ」という手紙を三好に送った。三好からは「ヤケにならないでくれ」という返信が返ってきたという。(田村隆一「青春と戦争」『現代詩との出会い』思潮社2006)三好は、なおも詩を書き続け、43年に難波律郎と共に詩誌『故園』を創刊する。
 この頃の作品には、生者の驕りを問いかけたり、苦悩から逃れて、死の安息を願うものが多い。「彼は死んだ。俺はこの通り歩き眺め喰ふことも出来るが彼は早冷たい一握の土くれか……人々は……彼が再び我が生に物問ひたげに立ち現れることのないやうに」と願いながら立ち去っていく。墓地には、「言ふべくは口を閉され、動くべく足は埋り……内にいつぱいの言葉を蔵しながら」死んで行った者が残される(「碑」)。「さあ苦悩よ……不安や疲労やすべて己れの無力さから……わなないてゐた魂よ……解放された罪人のひそやかな安息……神の与へ給える安息の御手に……静まつてお呉れ」(「無題」)
 44年、ついに難波律郎も出征していき、同世代の詩を書く仲間は周囲から姿を消した。三好は詩的孤独の中で、『囚人』前半に収められた一群の作品を書き始める。かすかな希望としての祈りや呼びかけすらも姿を消し、代わりに「死の黒い輪郭」であるかのような自分の影、「過ぎ去ったさまざまの夢」を映し、しかも眼前に立ちふさがる「壁」、「絶望」、そして「不眠」が描き出されていく。
 「私の左の肺の尖端には虫の喰つた穴がある」と始まる「青い酒場」を見てみよう。自分の肺の穴から見える酒場に「やせて小さな男がひとり」座っている。「風と共に這入つてくるのは、凍えつきさうな悔恨ばかり」であり、「床に落ちた男の影の中には、いつの間にか、/一匹の犬が住みついてゐる/男のもてあました絶望を喰つて太つてゆく、度し難い奴だ」
 肉体を蝕む死の不安と、時代への絶望によって肥える犬。「四月馬鹿」という詩では、ついに「おれははひ廻つてゐる/苦痛が背中にかみついてゐる/おや 毛並がある 尻尾もある/裸だ!」と三好が犬になってしまう。まるで、犬が実体化し、三好の意識がその影に逆転してしまったかのようだ。
 犬と絶望はいつ結びついたのか。三好が当時、グリューネヴァルトの「磔刑図」を見て「異様な感動」に捉えられたのは、「断末魔の苦痛をたゝえた完全な腐爛しつつある屍」に、時代の姿を重ねて見ていたからであろう。三好はユイスマンスの描写を引いて、「忌まわしく弱々しい肉体を持って、天の父から捨てられ」「いやが上にも苦しみ喘ぎ、遂には山賊のように、野犬のように卑しく……腐肉を曝す屈辱と膿汁に塗れる未曽有の侮蔑」の内に死ぬ基督の図像に衝撃を受けたことを記している。「その歪曲の虚構性を支え」ているのは、宗教改革期を生きた画家の、「時代の悲劇」と「熱烈な信仰の幻想」とを描きだそうとする「はげしい表現意欲」であり、「私はここに時代の運命を生きる芸術家を見る」(三好豊一郎「基督磔刑図」、北川透「蒼ざめたvieと自然回帰」1982『北川透現代詩論集成』1巻 思潮社2014 傍点(太字)筆者)
 三好も、時代を描いた詩を残すことを欲し、そのことで孤独と絶望に耐えていた。終末を予感していた三好は、黙示録からも多くの示唆を得ていたことだろう。(後に『黙示』という作品を残してもいる。)黙示録の22章に、犬が登場する。再臨の預言が宣べられた後、「犬のような者……人を殺す者……すべて偽りを好み、また、行う者は都の外にいる。」都の外、とは、救済を拒絶されるということである。
 迫りくる肉体の死と時代の死の不安、詩友も失った孤独の中で生まれた「囚人」を、ここでもう一度読み直してみよう。

 真夜中 眼ざめると誰もゐない――
 犬は驚いて吠えはじめる 不意に
 すべての睡眠の高さに躍びあがらうと
 すべての耳はベツドの中にある
 ベツドは雲の中にある

 孤独におびえて狂奔する歯
 とびあがつてはすべり落ちる絶望の声
 そのたびに私はベツドから少しづつずり落ちる

絶望を喰って太った犬が、真夜中、孤独におびえて吠えはじめる。雲の中で眠る、死の安息を与えられた者たちの耳に、叫びは届かない。同じ場に至りたいという願いもかなわない。

 私の眼は壁にうがたれた双ツの穴
 夢は机の上で燐光のやうに凍つてゐる
 天には赤く燃える星
 地には悲しげに吠える犬
 (どこからか かすかに還つてくる木霊)

立ちふさがる壁を前に、現実を見定めねばならない眼の苦しみ。天には~地には、という歌うような一節は、「天には栄光、地には平和」と謳う讃美歌を思わせるが、地には絶望が吠えているばかり。「赤く燃える星」は、さそり座のアンタレスだろう。自死の幻影を描いた「室房にて」にも、それと思しき星が描かれている。「さそり座の尾が地平に低く 強烈な光を放つとき/私は孤独の室房で安じて瞑想する……さうして人間たることの唯一の証し/己が自愛の要求に応へるに/剃刀を軽く咽喉にふれて引く」ここには、黙示録の九章のイメージが重なる。第五の天使がラッパを吹くとき、天から星が落ち、底なしの淵から人面の怪物のようなイナゴの群れが現れ、「さそりが人を刺したときの苦痛」を人々に与える。人々は、「死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く」という一節である。

 私はその秘密を知つてゐる
 私の心臓の牢屋にも閉ぢ込められた一匹の犬が吠えてゐる
 不眠の蒼ざめたvieの犬が。

青春の謳歌を阻まれたという、同世代に共有されていた意識の域を超えて、三好の視野は常に世界に向かっていた。「囚人」を書いた時には、秘密とは世界の終末への予感であったろう。「基督磔刑図」でも、「戦争は終ったが、それは新たな辛酸への出発であった……現実が益々露骨に抽象的機械主義を以て、生命をしめつけてくるに従い、人間の精神は萎縮してゆくであろう」と暗い予感を示している。精神は薔薇色のvieを生きるどころか、蒼ざめてやせ細っていくばかりだ。世界を崩壊させるような「暗愚な力」を問うことなく生きていていいのか。言葉を封じられたまま死んでいった者たちの無念を、自らのものとして引き受けなくてよいのか。
 叫んでも、誰の耳にも届かない。「私の心臓の牢屋」にも、悲しげに吠える事しかできない犬が閉じ込められている。犬は、三好の魂の自画像であると共に、時代の肖像でもある。生きることも死ぬことも宙づりにされ、世界の崩壊におびえ続けた青春。「囚人」はそんな魂の懊悩を、「蒼ざめたvieの犬」というイメージに凝縮した作品なのである。
 三好の「囚人」が多くの人の眼に触れるのは、戦後に創刊された第二次『荒地』誌上においてであった。この号には、戦病死した森川義信の「勾配」と三好の「囚人」が掲載され、巻末に森川と三好の詩作品を題材とした鮎川信夫の評論「暗い構図」が置かれている。戦後に創刊される詩誌に、あえて戦中に書かれた作品を載せた意図は、戦時中には見るべき詩は無かった、戦時中は現代詩の空白期だった、という先行世代の詩人たちの認識に対する、激しいアンチテーゼでもあったろう。(中村不二夫『廃墟の詩学』土曜美術社2014)
 1951年の『荒地詩集』に、三好は「囚人」や「青い酒場」を含む十四篇の詩を寄せたが、その時の総題は「希望」であった。「僕達と同じように現代を荒地と考えている君は……どんな言葉の甘美な表現よりも、自己の現実の悩みの方が遥かに未来を孕んでいることに気づいている筈である」(鮎川信夫起草、荒地同人による序文「Xへの献辞」)
 暗い青春の記念であったとしても、たしかに自分が生きていたことを証する言葉。絶望の声に応じるかすかな木霊を聴く、という控えめな断言の中に、未来の読者に向けた三好の希望が託されているような気がしてならない。

『詩と思想』2015年3月号掲載
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by yumiko_aoki_4649 | 2015-08-02 15:14 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

「託されたものを手のひらに受けて」 稲葉真弓著『心のてのひらに』書評

 『エンドレス・ワルツ』など、小説家としても著名な稲葉真弓が亡くなって、一年が過ぎようとしている。遺志に添って上梓された詩集は、開くたびに、痛みは悼みでもあったことを思い出させる。
 詩集冒頭、稲葉が文明の毒気に痛めつけられたかのような「春の皮膚」を脱ぎ捨てて、「祖母あるいは父母の腕に手渡される赤ん坊へと縮み……銀色のモロコかフナか小さな川魚になって」故郷の「木曾三川の汽水域」から遡っていったのは、あの日の三陸沖の海の底だった。目の前を流されていく人々、一瞬にして奪われた団欒の悲惨を、のたうつ海のうねりの中で目撃しながら、「しかし無力であるわたしは目を見開き岩陰の洞に身を寄せたままなすすべを知らなかった」と記す時、稲葉の魂そのものであるかのような魚の心は、あの日、テレビの前で言葉を失っていた私達の心でもあった、と思う。
 「三月を過ぎてみれば/ミリシーベルトという耳慣れぬものが降り注ぐ地に/すべてのわたしたちは立っていた」。「おお 恥シラズ/私たちの心のなかに/またもそだちつつある椿の実のような胎児/私こそが文明だ と/腹を蹴りながらささやく黒いもの」を誰もが抱えて呆然としていた。確かに、そうだった。稲葉の刻む一語一語は、言葉にならなかった思いを、読む者に鮮明に思い出させる。
 お盆を迎えた故郷の海で、北の海からやってくる「無明世界のクラゲたち」に出会い、「わたしの肌を刺す鋭いとげ」の痛みを、「刺すものと刺されるものが海の上で/ともに痛みをこらえながら」過ごす夜を感じる詩人は、「海ではカツオの群れが/泡立って黒く光っている/その海底で/顔を尖らせたたくさんのたましいが/立ったまま眠っている」のを観てしまう。詩人の過敏な精神が感じ取ったものを、それを言葉にすることを、稲葉は抜き差しならない切実さで自らに課していたのかもしれない。「わたしの柔らかな肉になったものは/沈黙だけ」と嘆じ、「血肉にならなかったわたしの言葉が/少し傾いて 墓標になっている町」のありかを厳しく求めながら、「わたしの言葉は/その常世のものたちのすきまから/そこ あちら むこう かなたへとこぼれていく」「詩を書くこととは……/このこぼれていくものたちを森へと帰すこと/あの湿った大地の暗がりへと眠りに行くこと/屋根や壁のない場所で裸になること」だとつぶやく時、稲葉は、この世とあの世との間にある穏やかな広がりの中に、独りで立たされていたに違いない。それは、過ぎ去りゆくものが、ことのほか美しく映る場所でもある。
 「学校帰りの子供たちの/ビブラートを帯びた高い声」が「波打ち際の水のように……ひいては寄せる……ランドセルが/路上にふっくらとした影を落とし/子供たちは つま先で明日の背中をまさぐる」のが見える所。あの日、その穏やかな日常が突然断ち切られたのだった。「悲哀と放心と嘆きと怒り」の中で、「切り立った崖のような沈黙に金縛りになっている」詩人が、拾い上げ「森」に返そうとしていたものは何か。
 花粉となって「飛散と受粉の旅をつづけましょう」と呼びかける最後の詩篇は、こぼれていく言葉を拾い上げ、実らせ続けなさい、という、稲葉真弓が私たちに託した、深い祈りに思われてならない。
 港の人 定価(本体1800円+税) 『びーぐる』28号 書評欄掲載
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by yumiko_aoki_4649 | 2015-07-19 20:38 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

渡辺めぐみさん『ルオーのキリストの涙まで』 書評

「羽の生えた緑の馬が雪原を走る」

 テロの報が、空爆の悲惨が、テレビ画面に流れるたびに、心の中のどこかのスイッチをオフにしている自分がいる。そんな日々に、渡辺の言葉は鋭い楔を打ち込んでくる。「遠くの火は関係ないですか 生のラディッシュの硬さほどにしか もしかして関係ないのですか/流産し続けたために疲れ切った母がいた 血溜まりを愛しすぎないように泣いていた」(「遊撃」)この一節を読んだとき、なぜかヨハネ黙示録の「女と竜(12章)」を連想した。直前に、「姦淫する者の額に震えを うそぶく者のまなこに権威を 見てはいけない」という言葉があったからかもしれない。黙示録では、光をまとった女は鷲の翼を与えられ、産んだ子(救済者)を食い殺そうとする竜から無事に逃げおおせるが、「遊撃」の中では、母は子を産むことすらかなわない。「わたしは人間の奴隷ではありません」と、悲痛なつぶやきを漏らしながら、「とにかく行きます」と叫ぶ「わたし」は、使命を帯びて天界から派遣される何者かであろうか。だとすれば、渡辺はその代弁者ということになる。
 「遊撃」「晴天」「遥か」「白いもの」と続く一章の作品を通読していくと、「この世のものとあの世のもののいさかいのしるし」が「油として浮いて」いる川を「流され続け」ることを拒否し、「ハルモニアという名で/この地が眠るのはいつだろう」と慨嘆しつつ、「わたしには故郷(ふるさと)はもうありません」と決然と進んでいく「わたし」の姿が立ち現れる。続く「跛行」の中で、「羽の生えた緑の馬」に乗って飛行する「わたし」が求めているものは何だろう。親しかった死者たちに見守られつつ、「光にのみ/わたしはこの身を捧げてもいいと」願いながら、「夏が来るというのに」「雪が降る」「眠る故郷」の「地上七メートルぐらいのところを」走る緑の馬。赤い馬、の補色としての緑。テロリズムが緊迫の度を強めている現在、「子羊が第二の封印を開いたとき」「火のように赤い馬」が現れ、「その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた」(黙示録6章)という凄絶な幻視の、対極の願望としての緑であるように思われてならない。
 パセティックな使命感をにじませる一章に対して、二章では、望まない戦いを強いられたあげく、「大志のため犬になったものだけが生き残」り、「わたしは脱走した」(「娑婆」)、「明かりの足らないところに/明かりを足しにゆく仕事をしていました/その仕事のせいで/火傷をしますので」(「小笛記」)など、自らの身が負う痛苦や、逃避の願望が吐露されている。「療養型病床群の片隅で/蝋細工のように/手を組み合わせていた」祖母を看取る心象に、父や祖父や、親しい者の死の哀惜を重ね、死者を「忘れない」ことによって「喪のすべてを断ち切って」「ルオーのキリストの涙まで」進んで行こうとする三章は、死を受容してからの再生の章と言えるだろう。詩集冒頭の「夜勤」では、既に大切な人は逝去している。無人の夜の病院で、犬だけが時を超えて詩人を呼び、「犬は逆巻く星の雲海に消えていった」。詩集全篇を通じて、無言の対話者として守護霊のように何度も現れる犬。静かに、詩人の心の痛みを見守り続ける影である。

『ルオーのキリストの涙まで』渡辺めぐみ著 思潮社 定価(本体2600円+税)
『びーぐる』27号書評欄掲載
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by yumiko_aoki_4649 | 2015-04-19 17:35 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

柴田 三吉 『角度』 書評

第48回日本詩人クラブ賞 柴田 三吉 『角度』(ジャンクション・ハーベスト)

2014年『詩と思想』12月号 「新刊selection」コーナーに掲載した書評を、再掲します。

 灰色の表紙の縁に、モノクロームの福島の地図。白で印字された詩集名と作者名は、角度を変えると灰色の地と地図に紛れてしまう。さりげない趣向を凝らした表紙が、ある種の予感に誘う。
 本文は、被災地のボランティアに応じた人の、その折の心情を細やかに拾い上げた行分け詩と、震災時を含む東京における日常を、日記体で綴った散文詩とからなる。浜辺で拾った壊れたオルゴールを鳴らそうと試み、「そうか 共鳴板が必要なんだ・・・ひとの胸に重ねたら/ひとの心の響きがするだろうか」(「空」)とつぶやく。アルバムから泥を洗い落とす作業中、不手際によって写真の一部が消えてしまい「あとに残された、存在の空白」に胸を衝かれる(「洗う」)。規制線の前で「手を上げて立ちふさがる男たちの、苦しげな顔」「火葬できない柩たちの/しずかなあえぎ」に直面し、「狂った時計のような」自らの心音を聴く(「消滅」)。その時々の作者の心が、リアリズムの手法で丁寧に描かれ、胸に迫る。
 他方、窓辺に置かれた三角フラスコが、日々増えていく「水」によって育って行く、という物語を介在させつつ、衰えていく母との日常を綴る散文詩は、現実でありながら夢を内在させているような不確かさを抱えている。平穏な日常とは何か。被災地、という圧倒的な現実を前に、薄れてしまった日常を言葉で確かめつつ取り戻していく。そんな作者の思いが静かに記録されている。
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by yumiko_aoki_4649 | 2015-04-01 11:17 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
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