Yumiko's poetic world

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カテゴリ:読書感想、書評、批評( 26 )

草野理恵子さん『パリンプセスト』書評

「硝子絵の向こうに」    

 ぬかるんだ校庭に、白い便器が並んでいる。裸で陽に照らされている少女。他には誰もいない。冒頭に置かれた「土」の、あまりにも異様な静けさに息を呑む。少女は、あえて便器を使わず、大地に自らの排泄物を流す。金色に輝きながら土に吸われ、大地の滋養となっていくそれは、やがて、「たましいの菌糸」を育み、「豊饒の地になったはずだ」と過去形で語られる。神話的な転回点。ここには、草野が詩を生み出すまさに根底が、鮮やかな価値観の反転と共に示されている。
 「土は腐っている」と断じ、少女を病だと思い込ませているのは、人物としては出てこないが、社会的な倫理や常識の代弁者たる“教師”であろう。あるいは、草野自身の“良識”であるのかもしれない。たとえば羨望や憎悪のような負の感情、真面目な“優等生”たちなら水に流して、そしらぬ顔をしているはずのもの。それこそが、実は豊かな詩の土壌を作り出しているのだ、という発見と高揚が、「土は腐っていなかったと思う」という静かな抗弁に表れている。
 「半月」や「対岸の床屋」の中で喉元から這い出ようとしていたり、強制的にあふれ出させられる虫や得体の知れない「何か蠢くもの」は、負の感情が言葉となって喉からあふれ出してくる、やり場のない苦しみと諦念を物語に託して描いた作品だと言えるだろう。「深紅山」や「焼かれる街」に出てくる赤いむくろのイメージは、自分が殺してしまった無数の自分自身でもあるような気がして、切ない。「焼かれる街」や「剥製を被る」に出てくる、人間と獣として永遠に隔てられ、意思疎通を断念させられている「君」や「彼」との関係。届かないことを知りながら、それでもなお、手紙を書き続ける、という「愚行」に駆られる私、の痛切さ。この「手紙」が、草野にとっての“詩”なのだろうか。
 草野には、生まれたときから重度の障碍を負っている息子がいる。「あとがき」を読みながら、運命を受容していく日々の重さを想った。時に抱く憎悪や呪詛に近い感情と、その反転としての自罰の感情。家族に負担を課すことへの自責、それにも増してあふれだす、抑えがたい愛情……「黒い舟」や「独房」は、息子と自分と、その二人を死後の世界へ(あるいは誰もがそこからやってくる、生まれる前の世界へ)と運んでほしい、いっそこの世から二人で抜け出してしまいたい、そんな恋慕に近い感情から生まれた抒情的な奇譚のように感じる。
 「雨期」や「青い壜」、あるいは「パリンプセスト」の奥に広がる、ガラス絵のような異界をひたす静けさ。パリンプセストとは、絵や文字の描かれた羊皮紙を削り、白紙に戻したもののことであるが、新たに重ねられていく物語の向こうに、消しても消しきれない痕跡が水の底のような冷たさで横たわっている、そんな草野の世界をそのまま体現しているかのような表題である。
 草野の描く物語は、いつも映像として立ち現れる。特異なのに、誰にもかすかに覚えがあるような、懐かしいのに初めて見るような世界。そのスクリーンに、黙って身をゆだねて欲しいと思う。

『びーぐる』26号書評欄掲載 土曜美術社出版販売 定価(本体2000円+税) 青木由弥子
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by yumiko_aoki_4649 | 2015-01-23 17:02 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

新井高子さん『ベットと織機』

「女、汝たくましきもの」
 開口一番、小気味よい語りのリズムが、読者をぐいと引きずり込むのは、一昔前の織物工場(コーバ)のど真ん中。そこには「赤ンぼオブって」汗と乳をほとばしらせて、働きづめに働いている女工たちが生きている。むせ返るような機械油と髪油の臭い、耳を圧して鳴り響く力織機の凄まじい音。生きることそのものが剥き出しにされているようなコーバでは、性の喜びも悲しみもまた、あけっぴろげで誰はばかることもない。女たちを捉えて離さぬ「業」や「宿世」からまりあう「縁(えにし)の糸」を突き抜けて、内側から噴出するエネルギーに圧倒される。
 女工、というと、過酷な労働と貧困にあえぐ悲惨な弱者、といったイメージが付きまとうが、新井の描く女工たちは、なにしろたくましい。たまたま待遇のいい工場であったのかもしれないが、仕事がきつくても陽気に闊達に時に猥雑に生を謳歌する女たちの姿が、「ジャンガンジャンガン、力織機が騒(ぞめ)くなか」陰影も色彩も色濃く立ち昇ってくる。(「ベットと織機」)
 もちろん、工場での不慮の事故や、恋人の裏切りといった不幸な事件、破産や貧窮といったやるせない悲しみもある。だが、そうした「できごと」を語る伝奇めいた物語は、物の怪や怪かしの生きものたちが住んでいる異界と「コーバ」が隣接していることを、ぞくぞくするような生々しさで知らしめる。幽霊や地霊のような見えざる者たちと共に生きている場所が、間違いなくここにあるのだ。
 この詩集の魅力は、なによりもまず、文体の生み出すエネルギーにある。織物工場の一人娘として実際に見聞きした体験を、身に馴染んだ土地の言葉で語ることによって生まれる臨場感。浄瑠璃や歌舞伎、近現代の詩歌や演劇などへの深い造詣が、生きて蠢くような言葉の群れを立ち上げていく、その道程の鮮やかさ。
織物とそれを生む女たち、という主題もまた、多重の魅力を備えている。アマテラスは機屋、織物に深く関わる女神であるし、岩戸に隠れた女神を呼び出した、アメノウズメのおおらかな歌謡と舞踏のイメージは、生が性であり同時に聖でもあった時代の、多産と豊饒の祭礼を喚起する。前作の『タマシイ・ダンス』において、陽気に天宇受売命を召還した詩人が、寝台と織機を通じて呼び出そうとしているのは、生む者であり、また産む者でもある、女の力そのものではなかろうか。
 過酷な現実を笑いのめし、洒落のめすことによって乗り越えていくたくましさ、推進力としてのイロニーもまたこの詩集の大きな魅力だろう。詩集後半にまとめられた震災、特に原発事故をめぐる一群の詩は、人間の愚かさや物欲、経済欲の果ての狂態とそれが生みだした悲惨を痛烈に抉り、文字通り怒涛のように押し寄せて来る。生半可な憤りや悲痛の叫びよりも、よほど強烈である。しかしこれが、読んでいて不思議と辛くないのだ。もう、笑うっきゃないよ、という強靭な笑いの力が全篇を貫いている。
 女たちのたくましさと、痛快な反骨精神。痺れるような「読みの楽しみ」に、どっぷりと浸ってみてはいかがだろうか。
 詩集『ベットと織機』 新井高子著    未知谷 定価(本体2000円+税) 『びーぐる』25号書評欄掲載 ※写真家の石内都さんによる、素晴らしい表紙写真が、カバーになっています!
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by yumiko_aoki_4649 | 2014-10-26 09:51 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

俵万智の『生まれてバンザイ』

 俵万智の歌集(というより、編集者の卓抜かつ新鮮なレイアウトによる詩集)『生まれてバンザイ』を、涙のにじんでくるような想いで読み終えた。
 単なる共感ではなく・・・私は“子どもとの時間”を、こんなに濃密に過ごしてきただろうか、という、失われた時間への悔恨のような思いが少し。それから、薄れかけていた懐かしい記憶を、鮮明に呼び覚ましてくれた俵万智という詩人への感謝の思い。
 写真からよみがえる記憶は、どこかカサカサしていて、実感がない。初めて子どもを抱いたときの“しとっ”“くたっ”とした、暖かいというよりも、むしろ熱いような感覚や、もわあっと体温のこもった産毛から、そうっと薄い雲母片のような薄皮をつまみとる時のドキドキした感覚、こんなに小さいのか、と驚きつつ、体感2ミリの太さの指先に爪切りバサミを当てるときの怖さなどは、“実感”として鮮明に残っているにもかかわらず…。
 
 みどりごと散歩をすれば 人が 木が 光が 話しかけてくるなり
 気配濃く 秋は来たれり パンのこと パンとわかって パンと呼ぶ朝

 そういえば、“世界”がまるっきり違って見えた、輝くような瞬間があったような気がする。子どもは毎日新しい。出会うもの全てが新しい。そんな当たり前のことを、すっかり忘れていた自分、子どもと一緒にいると、見慣れていたものが全く生まれ変わったように見える不思議、その感動を毎日感じていたはずなのに、言葉にしておかなかったからだろうか、みんな埃をかぶって記憶の底に仕舞い込まれていたような気がして、残念で仕方がない。なにか、大きなものを取りこぼしてしまったような気さえする。
 いや、言葉にしておかなかった、のではなく、できなかったのだろう。そのもどかしさのようなものを、すっと拾い上げて言葉に留めてくれた俵万智に、だからこそ羨望よりも憧れを、「ありがとう」という一言を、伝えたくなるのかもしれない。

 一人遊びしつつ 時おり我を見る いつでもいるよ 大丈夫だよ
 抱っことは 抱きあうことか 子の肩に顔うずめ 子の匂いかぐとき

 きちんと育てられるだろうか、私はこの子を愛せるのだろうか、そんな不安が脳裏をよぎる時があった。でもここに、信頼しきったまなざしを向け、手をのばす我が子が目の前にいる。そのたびに、頭よりも先に身体が反応して、抱き上げ、頬ずりをしている。子どもの暖かさに触れているうちに、さっきまでの不安が嘘のように鎮まって、何を馬鹿なことを心配していたんだろう、大丈夫、大丈夫、と自らに声をかけ、子どもに大丈夫、と言える自分に安心し、また子どもをベッドに降ろす…よみがえってきた記憶は、俵万智が詠んだ時よりも幼い頃の我が子と自分の姿であったが、それは俵の歌が、時間という制約を越えていく普遍性を持つものであるからだと思う。
 小学生になった今でも、人の気配のする部屋でごそごそ一人遊びをしている娘。そばにいるだけでいいよ、と言ってくれる人に、人生で何回出会えるだろう。130センチを越えたのに今でもはりついてくる息子。そろそろマズイかな、と思いつつ、ペタッと頬をくっつけていると、気持ちが穏やかになる、複雑な心情・・・もちろんすぐに押しのけるのだが。息子の方は、むしろその過敏反応を楽しんだり、おたおたする母親をからかっているような余裕さえ感じさせるのが、少し悔しい。


 自分の時間 ほしくないかと問われれば 自分の時間を この子と過ごす
 外に出て 歩きはじめた君に言う 大事なものは 手から放すな

 「社会」に出て活躍している友人の報を聞くたびに、自分が取り残されていくような、根拠のない焦りを覚えたときがあった。子どもが昼寝している間に、必死になってガーデニングやら手芸やらに没頭し、汗を流し…。達成感のようなものを得たかったのだろうか、今現在の“漠然とした不安”を忘れたかったのだろうか。当時は「ストレス解消!」と叫んでいたように思うが、実際、どれほどのストレスがあったものやら、自分の事ながらよくわからない。楽しんでいた、というよりも、とにかく夢中になれるものがほしい、という、切実な思い。なんであんなにムキになっていたのだろう、もっともっと、子どもの寝顔を、ただボーっと見ていればよかった、隣で一緒に寝てやればよかった…先にも書いた、ちくりと痛いような、小さな悔恨。

 何度でも ぴょんぴょん跳ねる膝の上 ここから ここから 始まってゆく
 目覚めれば 我が太ももを越えてゆく おまえと やがて来る夏を待つ

 これからどうなるのだろう、という気持ちの中の、不安と楽しみの割合が、最近になって、ようやく逆転してきたように思う。楽しんで見守る余裕が、子育て10年目にしてようやく持てるようになってきた、ということだろうか。息子と娘、男と女でこんなにも違うものか、と驚いたり、上の子はこうだったのに、下の子はこうだ…とシチュエーションに応じて、二人の姿が二重スライドのように重なって見えたり。こうしよう、と思ってもそうならない。どうなるのかなあ、と思って見ていると、思いがけず面白いことに出会う。「いつの日も自然は無言」だけれども、その場その場を楽しんで、“状況”に流されるように生きていくうちに、“本当に自分のやりたいこと”に流れ着くのではないだろうか。「いま」を楽しむ、ということ、「いま」を味わう、ということをもっともっと大切にしたい。そんなことを感じさせられた一冊である。
俵万智『生まれてバンザイ』童話屋1250円
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by yumiko_aoki_4649 | 2014-07-03 18:10 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

中島真悠子さんの 『錦繍植物園』

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 血だらけの「あなたの指」が、「私の皮膚」を剥ぎとって、夜ごと刺繍していく・・・タイトルポエムの「錦繍植物園」を読みながら、白い肌の上に熱帯性の植物の蔓や毛根が繁茂していく眩惑に、しばし捕らわれていた。イメージの生々しさに圧倒される。
 「あなた」とは誰だろう。夜になると中島の元を訪れる、もう一人の私(「ハイド」「水棲の部屋」)。見えざる者たちに囲まれて「繕いをしながら/朝と夜を溶け合わせることを目論んでいた」私(「閉ざされて」)。「私に連なる幾千の父母が湧き出る」断崖の上に立つことが出来る私(「心臓」)。内なる異世界を痛々しいまでに鮮やかに感じ取るもう一人の「私」が、今ここで詩を書いている「私」の姿に重なっていく。
 処女詩集である本書は目を射ぬく鮮烈な映像が印象に残るが、著者の語り方は静かで、なめらかな日本語の語感が美しい。永続する生命や、いのちの原初的なエネルギーといった「本質」に果敢に取りくみながらも、中島のもうひとつの世界への入り口は、身近な虫の蠢きや庭先の植物の生長といったささやかなものに開いている。
 たとえば、「岸辺の石を裏返すように/昼を裏返すと/幾千の蟲が湧いてくる」と始まる「蟲の夜」。都会の夜景が、蟲たちの明滅する眼を想起させた瞬間、「地球の外で石を裏返す」ように昼を裏返すひと、の存在が立ち現れる。「いまだ光の届かない星よりも遠く深い場所で/私たちすべての臍の緒が/結ばれている」ことに想いが至るとき、私たちはひとつの大いなる〝母体″に連なる胎児となる。
 あるいは、種を蒔いて育てると、新種の植物としてのファルスが、巨樹となって屹立する「種」。エロティシズムを喚起する「性」からは切り離され、「大地は宇宙をそなえて/はろばろと男根を育てる」というのびやかな風景に驚きつつ、「私」は自らが「新種の種」であり、「熱く 私から生まれたがっている」ものがあることに気づく。読者は中島の世界にいつしかとりこまれ、再生の予感の内に、生命力そのものを目撃するのである。
 生と死の繰り返しの、その堆積の上に〝今″がある。普段私たちは、過去との連続性を特に意識することもなく日々を過ごしているが、ひとたびその連続が断ち切られるような災害に遭遇したり、自身の生が脅かされるような状況に陥った時、現代人は自らの生の寄る辺なさと文字通り対峙させられる。中島は過去や世界とのつながりを現代に呼び覚まし、鮮やかに描き出すことで再認しようとしている。それはどこか、シャーマンが担ってきた役割にも似ている。
 神話化された世界で精霊のような兄と妹が語り合う「沈む家」の、「海もまた見えない舌でいっぱいなのだ」という一節が、生々しい実感を伴って胸に残った。押し寄せる白い紙片の海に充満する「舌」は、過去に記された死者たちの声が、中島の内で再び生を取り戻し、謳い出す様を予感させる。
 私たちはつながっている。その生命の力を可視化しようとする意識が、詩集の芯を貫いている。繰り返しの中で永続するいのち、その様相を、心眼で鮮やかに目視する詩人の登場を祝したい。

詩集『錦繍植物園』 中島真悠子著 土曜美術社出版販売 定価(本体2000円+税)
『びーぐる』23号書評欄掲載
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by yumiko_aoki_4649 | 2014-06-12 18:11 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

谷川俊太郎『こころ』について

「なおも、いのちは続いていく」 

 黒い四角の中にポッカリ空いた光の穴、その中で、手に持った「なにか」を一心不乱に見つめながらうずくまる男の子。母体の中の胎児のようにも、「向こう側」の世界へ通じる通路のようにも見える、印象的な表紙である。帯には、心は、どこにいるのだろう、と記されている。ある、ではない。集中から採られた一節だが、物、としての心を問うのではなく、生き物である「こころ」に向き合う詩人の姿を、もっともよく表している言葉ではないだろうか。
 新聞連載、という性質上、小学生から老いを迎えた人々にまで、万人に届く言葉で綴られているが、ココロとアタマ、カラダ、そして魂を、それぞれ独立した感覚器官としてとらえ、その声に耳を傾ける谷川ならではの自問自答が、全篇を貫いている。若い読者を意識したのであろうか、問いかけの後に答えを用意した丁寧な作品も多い。
 五年に渡る新聞連載中、東日本大震災が起きた。時系列で並べられた作品は、そのとき、を越えてさまよい続ける谷川自身の「こころ」を、ロードムービーのように映し出す。震災直後に書かれたという「シヴァ」。言葉を失い、思考停止を余儀なくされた詩人の脳裏に浮かんだのは、破壊と創造の神、その怒りの姿だった。高踏的と感じる読者もいるかもしれない。しかし、あまりの衝撃の大きさに、ただ無言でテレビ画面を見続ける他、なすすべがなかった当時の多くの人々にとって、天の怒りか、という詠嘆もまた、実感として思い起こされる記憶である。(なお、この作品は執筆直後ではなく、2013年の3月11日に発表された。)
 その後、「言葉」という一篇が生まれた。言葉にし得ない惨状に、言葉でしか向き合えない者はいったいどうすればいいのか、という真摯な問いかけは、「瓦礫の下の大地から」発芽する言葉、を発見していく。詩人は、「言い古された言葉」が、「新たな意味」を帯びて蘇生するのを目の当たりにする。祈りの発見、と言い換えてもいい。やがて、詩人は被災地で無数に交わされた「ありがとう」の深さを拾い上げ、生きることへと願いを運んでいく。「遠くへ」は、集中もっとも切実な哀悼歌であろう。いのちが生まれ、また帰っていく場所へ、せめて心だけでも辿り着くことを希求する鎮魂の歌。
 その後の生へと思いを寄せて、詩人の旅はひとまず閉じられる。読者もまた、詩人と共に自らの「そのあと」を想い起こしつつ、この詩集を閉じることだろう。続いていくいのちの営みを、静かに鼓舞する詩集である。

朝日新聞出版 1260円(税込) 発売日2013年6月7日 
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by yumiko_aoki_4649 | 2014-05-19 14:19 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

『青衣』138号収載「現代詩を考える 1」を読んで

*詩誌『POCULA』16号に載せていただいたエッセーの抜粋です。
 
 日本の「詩歌」は、和歌(やまとうた)と漢詩(からうた)との両輪からなる韻文として発展してきました。外来文化の象徴であり、教養水準のバロメーターともなった漢詩に対して、「人の心を種として」生まれ出る和歌は鳥が鳴き蛙が歌うように、歌わずにはいられない人間の本性に根差した、日本古来の文化として理解されていたようです。
 漢詩は見て意味が解る、いわば視覚的要素の強い詩文であり、読んで、それから朗誦する詩です。一方、和歌は聴いて判る、いわば聴覚的要素の強い詩文であり、詠い、聴く詩です。私たちはつい忘れがちですが、もともと日本には、それぞれ役割を異にする「読む詩」と「聴く詩」が併存し、しかも相互に翻案したり意味を写しあったりする、という密接なかかわりを持ち続けてきました。そして、漢詩と和歌の双方が知識人の基礎教養を形作る、という精神文化が、戦前まで存在していた、と思われるのです。

 大正元年に大学生となった西脇順三郎は、海外文化の摂取を経て、「純粋芸術はリズムを拒む・・・むしろリズムが美であるがため拒む」と詩論を展開し、韻律を持った「聴く詩」からの離脱を宣言しました。もともと画家志望であり、黒田清輝主催の白馬会に入会した経緯も持つ西脇は、視覚の人であった、と言えましょう。後にシュルレアリスム運動の中心人物となることもうなずけます。西脇の主張する「うた」からの離反は、単なる「韻律」からの離脱ではありません。「うた」の氷山の、いわば見えている部分を純粋に取り出す行為です。見える部分と見えない部分との相互浸透を拒否し、見える部分のみの純粋な自立を志向した、とも言えます。
 あるいは、次のような比喩で言いかえることが出来るかもしれません。「詩」は「歌」あるいは「響き」を母として、「イメージ」を父として生まれる子供です。聴覚は主に感性に関わり、視覚は主に理性に関わります。この比喩に従うなら、詩の「うた」としての側面は「母」(感性)から、思想性、想像性は「父」(理性)から受け継いだもの。西脇が目指した詩と音楽性の分離、あるいは音楽性(という感性的な美)の拒否、という実践は、「うた」という音楽性の母体(感性)から、父に極端に憧れた「息子」(現代詩)が、自立し独立しようとして示した「詩の反抗期」ということになります。
 「現代詩」が「成人」し、自立を果たした今、詩は父となるのか、母となるのか、自ら選び、その選択にふさわしい資質を身に着けていく時期に来ていると思います。父でもなく母でもない、モラトリアム世代ばかりが増えれば、子は産まれず「詩の家」は崩壊するでしょう。どちらか一方ばかりでも衰退します。
 いわゆる自己充足的な抒情詩、ポエム、が大量に生み出される一方、思想性、想像性と密に組んだ、一人格として自立性を持つ抒情詩が数えるほどしかない、というのは憂うべきことです。城戸朱理氏が『詩の現在』の中で「平明な詩への傾斜、それは・・・メタファーを主要な方法としてきた「戦後詩」が、その有効性を終えたあと語るべき主題を失って個人的な感慨を語る抒情詩に解体されていったもの」と喝破しているのは、現状において正鵠を射た抒情詩批判でありましょう。他方、難解、芸術至上主義、などと呼ばれる「父」となるはずの言語派の詩も、自己充足の自慰行為を繰り返すばかりで、「母」となるはずの抒情詩と手を結ぶことを恐れたまま迷走を続けているように見えます。人間の感情から遊離した「純粋芸術」に、感性の喜びはあるでしょうか。理性の充足はあるにしても・・・。
 言語派モダニズムの詩が、歌としての、音楽としての資質を保ち続けている抒情詩の側に歩み寄った時こそ、新しい詩が生まれ、育っていくのではないでしょうか。見えないものを観る理性と、聞こえないものを聴く感性双方が悟性によって結び付けられ、止揚された次元にこそ、新たな可能性が生まれる、そんな気がしてなりません。
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by yumiko_aoki_4649 | 2013-09-02 10:41 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
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