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B=REVIEW 2017年12月投稿作品 選評

大賞候補 仲程 連音/ほうげんふだ 


◆優良

・地球 ケーキと福音 

・桐ケ谷忍 籠の外 

・日下悠実 冷たい夜明けの湖畔にて 


◆推薦

・弓巠 空をひらく

・北 埃立つ

clementine 産毛

・夏生 黙々と


大賞候補

★仲程 連音/ほうげんふだ http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1040

〈前に進むことを停めた友へ〉という呼びかけが意味するものは、何だろう。進歩、前進、目標に向かって・・・そんな一見するとポジティブな思考を、やめた、のではなく、停めた、友への呼びかけ。友は、前進するエネルギーを失って、小休止をせざるを得ない状況に追い込まれているのか。そんな友を励ますために、幼いころの共通の話題を、懐かしく語りかけている、のだろうか。

あるいは、葛藤に悩むことを放棄し、一時停止した友、への呼びかけ。悩みに直面することを避け、今現在の安定を「やすらぎ」と読み替え、自己欺瞞から目をそむける。葛藤しなければいけない苦悩から逃れるために、停戦状態に棚上げにして、それは善である、正しい行為である、と自分に言い聞かせて受容してしまう、そんな状態にある友への、かすかな批判も含みつつ、寄り添っていこうとする呼びかけなのか。

子供時代の思い出を、〈アガー〉という「方言」から語りだす自然な導入に惹かれる。大人になった語り手が、街角の風景から「ふと思い出す」やんちゃな子供時代の思い出。〈親父が子供の頃に本土政策で使われた方言札〉とあるので、語り手が子供の頃には、既に「罰則」として使われることはなくなっていたのだろう。それでも、方言を使わない、使わせない、ことが良いこと、であると信じ、自分の使命であると信じていたかもしれない〈本土から赴任してきた中年の女性〉である〈先生〉。

身体的な痛みという根源的な苦痛を表現するとき、自分の生まれ育った土地の言葉、生まれながらに身に着けた言葉、いわば母語が、自ずから口をついて出るのは当然のことだろうに、それを使ってはいけない、痛い、と言い換えなければいけない、と強要されることの不自然さについて、考える。教育、という名のもとに、その不自然を押し付けることに葛藤を覚える良心を持った教師は、制度と現場との間で苦悩し続けるだろう。その苦悩から逃れ、「やすらぎ」を得るには、自らの行為を正しいものと信じる他はない。子どもたちの「良心」は、〈汚い言葉を使った場合は/ちょっとは反省したのかもしれない〉というところにあり、それは他者を傷つける(痛みを与える)ことを知っているがゆえの、自然な反応なのだろうと思う。他方、〈方言での場合は/誇らしげに正座したもので〉という子供たちの反応は、方言を用いることの正当性が、子供達にも浸透していることを示している。規範を与える、規則で縛る、従わない場合は、罰則を与える。それは子供のよりよい成長の為であると信じているがゆえに、葛藤を覚えることのない〈先生〉は、罰則を与えることで反省したり羞恥を覚えたりすることを当然期待するだろうけれども・・・〈そんな僕らの明るい顔に〉恐らく気づいてしまうのだ、自己欺瞞としての「正義」に。そして、そのことを子どもたちも見抜いている。

〈先生のほうが痛かったのだろうな〉という中盤の「痛み」は、〈先生〉が自らの権威を示すことができない、自らの信じるところを実践できない、思い通りにならない。そうした苛立ちから発せられるものであり、それを子供心に見抜いていた、ということであるのかもしれない。しかし、最終連で繰り返される〈先生もやっぱり痛かったのかな〉という言葉には、〈前に進むことを停めた友〉の〈落ち着いた顔〉が重ねられている。

自らの心が、自然な呼びかけに応じることによって生じる葛藤とは、制度や社会的規範を指導する側、強制する側の立場と、その規範そのものを疑う、自然な人間としての感性の葛藤である。それが正しいことなのだ、と、確信を持つことができるならば・・・つまり、社会制度や規範と、自らの心が聴きとる自然の呼びかけとが一致している時には、なんらの葛藤も起きないだろうが、自らの人間としての感性を抑圧しながら、社会制度や規範を正しいもの、として受容する時、そこには葛藤を棚上げにした、一時的な小休止としての、仮の〈やすらぎ〉しか存在しない。

〈先生〉と〈僕ら〉の関係性を、「本土」と「沖縄」の関係性のメタファーとして読むことによって見えて来るものがある。それは拡大解釈かもしれないが、また別の拡大解釈として、社会的規範や、組織における規範、あるいは制度や慣例といったもの、人為的に作りだされたルールの適用などに際して生じる諸々の葛藤に際し、適用する側だけではなく、する側の覚える痛み、といった普遍的な問題に敷衍し得る。

語りかける文体の持つ、誰にでも届く優しさと易しさ、〈前に進むことを停めた友へ〉という、様々な読み込みの可能なフレーズで全体を挟み込むように整える形式の安定性。同一内容をリフレインしているように見えて、痛み、という同一の言葉が、異なった側面から捉えられているように読める奥行きなど、たくさんの魅力を備えている本作を、大賞作品に推したいと思う。


◆優良

☆地球 ケーキと福音 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1135

コメント欄より 〈幾つものいのちが死んで終わる〉 〈いのち全体が過呼吸〉 〈今年もまた 死にきれなかった〉 刻んでいくひとことひとことが、とても印象に残りました。 生きているかのごとく(生きるばかりに)光る月・・・物質としては「死んで」いるはずなのに。 ずっと、私なんかより、生きているじゃないか・・・その冷たくあたたかく浸みて来る月の光。 泣きながら食べるクリスマスケーキ。 なぜか、生きていることの「罪深さ」を抱えて、今年もまた生き延びてしまった、ことを歌っている語り手。 生き延びてしまったことを、言祝いでほしい。そんなクリスマスでありますように・・・


大賞候補に推したいと思った作品のひとつ。以前大賞を受賞されていることも踏まえて、優良に推した。クリスチャンである人も、そうでない人も、当たり前のように「お祝い」する習慣ができてしまっているクリスマス、ではあるが・・・人間の罪を贖う為に十字架上で苦しんで死ぬ、という運命を負った「救済者」の生誕を祝う日である。祝福の日の〈すこし前にも〉生誕に立ち会えずに死んでいったいのち、があり、「わたし」の罪を負って死ぬ命を祝福する、という、引き裂かれるような矛盾を抱えた日でもある。コメントでも引用したが、〈いのち全体が過呼吸〉この一行を中心に捉えたことを評価したい。


☆桐ケ谷忍 籠の外 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1072

コメント欄より 逃げ出さないように、風切り羽を切る。それは、語り手による、「ピーコ」への執着であったのかもしれません。花緒さんが「ダーク」と評したのは、〈もがれた翼をばたつかせるのは/見ていて不憫だった、いや、不愉快だった/私にではなく、窓の外に向かって啼くのも〉このあたりなのではないか、と思いました。 〈私〉は、自分では「飛べない」ことを自覚していて、「飛べるもの」に憧れている。なおかつ、その「飛べるもの」が自由に飛び立つ(飛び去る)ことを許さない。許さない自分に、「飛べるのに、飛べなくされたもの」がいっそ反抗しれくれればいい、と願っているのに、その「願い」は果たされない。「飛べるはずだったもの」が、ひたすら空に憧れているのを、胸騒ぎと共に見つめている・・・。 「籠の中の鳥」が、単なる愛玩動物やペット、家族、を越えて、自分自身の魂の象徴のようにとらえられているから、なのではないか、と思いました。自分の魂が、自由に羽ばたくのを、自らの意志が阻止している、というジレンマを抱えていて・・・自らの魂が、自らの意志に徹底的に抗弁してくれる、そんな強さを持つことを、実は願っているのではないか。 それなのに、魂は肉体から抜け出して、空へ還ることばかりを願っている。意志(と肉体)は、そのことに対してついて行く事ができない。 〈一緒にいる為に、だから翼をもいだ〉魂を、自らの内につなぎとめておくためには、魂の翼をもがなければならなかった・・・生きて行くために、誰もが経験するはずのこと。その痛みを、いつまでも覚えている(それゆえに、魂が、肉体の中に、なかなか居場所を見いだせない)人と、すぐに忘れて(折り合いをつけて)、魂が肉体の内に居場所を見つける人、とが、居るような気がします。

 

 自らの魂を、自由にさせたい、手放したい、と思うと同時に、執着し、手放したくない、と願うあまりに、自らその翼を切る。自分で自分の魂を切り苛むような、過酷な行為をせずにはいられない、そんな自分を、冷静に見つめる他者としての自分。空を飛びたい私と、飛べないことを知っている私、飛べることを知っているのに、飛ばしたくないがゆえに飛べなくする私。「私」の多面性を小鳥と飼い主の関係という具体的な映像に託して描いた点に惹かれた。


日下悠実 冷たい夜明けの湖畔にて http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1074

コメント欄より 指先に走る痛み、に焦点が当てられているのではなく、〈撫でる〉という言葉に含まれる愛おしむようなニュアンスが印象に残りました。 指先に刃をすべらせ、うっすら滲む血液、その血が〈誰かの/同じ血〉へと混ざっていく、とけこんでいく、のを夢想しながら・・・実際には、血が乾いて、痛みだけがそこに残されるのを、一人で見つめて居なければならない。 わたし、であることを離れて、大きな一群、誰でもない群、の中に溶け込んで、消えてしまいたい、という願望が、満たされないまま、孤独だけが切々と・・・指先にこびりついて乾いた血が目の前に突きつけられるように、そんなリアルさで迫って来る。 そんな心情が描かれているように感じました。 二連目の、〈誰か〉という、漠然とした対象設定が、全体をなんとなく曖昧にしている感もあります。耽美的な心象風景への傾きが前面に出ている、というべきか。 命のエネルギー、あふれ出す心情・・・その熱の象徴ともいえる流れる血が、乾いてしまう、というイメージと、心が冷えて、凍り付いてしまう、液体が固体になってしまう、というイメージと〈凍える指先〉〈溶けはしない〉〈霜が訪れ〉という冬の寒さのイメージとが重なっているように思いました。 〈深い底〉とは、集合的無意識が心象映像として描き出した、群青色の湖、ということになるでしょうか。 茨木のり子の「みずうみ」という作品に、〈人間は誰でも心の底に/しいんと静かな湖を持つべきなのだ〉 〈田沢湖のように深く青い湖を/かくし持っているひとは〉という印象的なフレーズがありますが、そんな心の奥底の湖を連想しました。


 普遍的な湖の心象風景と、鮮烈な血の色。白と青、そして赤。ナイフに傷つけられる、のではなく、自ら刃を迎えに行く。一滴が湖の底に落ち、誰かの同じ血へ混ざる、という2連からイメージするのは、あらゆる人々の痛みや哀しみ、苦しみの一滴を集めて、しんと静まり返っている湖の姿だ。一滴だけ、自分自身を湖に逃して(哀しみの集合体の中に、自らを溶け込ませて)、岸辺で指先の血が乾く(再び、自分自身を孤立させる)のを見ている、とも読めるかもしれない。4連に整えられた安定した詩形の美しさも評価したい。


◆推薦(優良次点)

☆弓巠 空をひらく http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1041

ひらがな、カタカナ、漢字の使い分けは、詩面の印象だけではなく、音読(脳内再生)する時のニュアンスにも影響してくる。いわば、テクストの質感にあたるものだろう。体言で止めて、助詞で改行する区切りや、言葉を重ねながら変容させていく手つきなどから、音として響かせることと、目視した時の質感の追求と言った、意味よりもニュアンスやムードといった「とらえどころのないもの」を文字に置き換えようとする意欲が感じられる。空、という文字の持つ意味と、文字そのものを解体していったときに現れて来る意味が、どのように関係してくるのか。空を分解すると穴が現れ、さらにウ、八、工(たくみ、と読める)カタカナでウハエ、どこまで行っても「文字」としての意味を見てしまいそうになる視覚の性向を問おうとするように見えて、そら、という音に戻り、何も捉えられないところに回帰していく。空を写す水、映し出すだけで、何もとらえられなかった、という喪失体験の想起が繰り返される。開放的な場の提示、文字の解体も含めた、場の解体が意図される一方で、この循環の中に閉塞、安住していくような空間の作り方に、もどかしさのようなものも覚えた。


☆北 埃立つ http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1132

ぎっしり文字を詰めることで生れる切迫感や焦燥感と、読みやすさとの兼ね合いを考えさせられた。論理に収まることを拒否するような自在な言葉の運びで詩句を進行させつつ、エキゾチックな、童話の世界で触れている外国の街のような都市空間が、断片的な描写の中からぼんやり浮かび上がって来る。蝋燭の火、火事、指先の炎、渦巻く夕陽、と、火や情熱を喚起する言葉が断続的に現れ、全体にひとつの色を付与していく(調性を整えていく)一方で、留まることなく先へ先へと進んでいく詩句の進行、全体を主導する疾走感に惹かれた。濡れたように注がれる月の光、月の光に濡れる町を映し出す最終行は、水の世界への回帰、羊水の世界への回帰願望とも読める。胎児の時の記憶までイマジネーションで遡って呼び返しつつ〈俺に故郷がない、ただ景色だけを持っていて、そこに奏でるギターがない〉と畳みかけていくあたり、ないからこそ、求める、という切迫感が伝わって来て強く惹かれるものがあったが、ロジックからの飛躍が大きすぎて、連想が追い付かすに意味を取りこぼしてしまう詩句も多く、手元に留まらず、すり抜けて行ってしまうような感覚が残った。


clementine 産毛 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1050

本文一行目と題名が被っているのだろうか。詩の立ち上がりは重要なので、一行めを整えたい。全体に、とらえられないものを捉えようとする試みが、名付けるという行為において確認される展開、匂いを感じ取る感覚、産毛を揺らすようで揺らさない、気配だけを残していく感覚と、名付けようのないものを(たとえば、みぞれと)名付けていく感覚に連続させているところに惹かれた。比較的短めの詩行の中で、リフレイン的に繰り返される〈みぞれとよんだ/呼んだ〉という詩句の重なりや、〈カルキのにほい〉といったフレーズは、淡色の絵の具を重ね塗りしながら強めていくような効果をもたらしているが、同じ色が繰り返されることによって画面が単調になっていく傾向も否めない。〈指先にぎりぎり届かない/日向〉〈産毛をかすかに揺らさない/風〉どちらも否定の強さが、逆にリアリティーを喚起する印象に残る詩行。こうしたアクセント的な部分を大切にしてほしい。


夏生 黙々と http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1058

動作を丁寧に描写していくと共に、連用止めと改行で続けていく詩句のつづりが生み出す律動感が印象に残る作品だった。糸、という言葉に喚起されるイメージが、関係が崩れないように、ほつれないように、という願いであったり、絡まることへの怯えであったり、その絡み合いを断ち切らねばならない、そうした場面に立ち会わされることへの恐れ、というように、多方向に展開していく。それでいて、全体を糸のイメージがつなげている一貫性、粘り強さが良い。いとも簡単、と糸の音にかけたユーモアが、全体のシリアスな調子とうまく調和しているか、どうか・・・ユーモアや笑いに転化する部分の取り込み方は難しいが、笑いには、息づまるようなシリアスな重さをひと息に開放する効果がある。〈一生懸命の/もろさ/と/堅さ〉は、そのままこの作品の持ち味であり、特質でもあるのだが・・・もろさ、堅さをしなやかさでつなげていくような余裕が加わると、もっと作品に自在さがうまれるのではないか、と感じた。


◆参考 優良候補作品 (順不同)

渡辺八畳 市営のシエスタ http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1122

徐々にでいいから 回送 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1053

クワン・アイ・ユウ 声だけの無名、酷い、酷いにおい http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1077

二条千河 口実 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1144

まりにゃん * http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1075

渚鳥 再開 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1086

shun kitaoka 高橋先生 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1102

蛾兆ボルカ 黄色くて丸いパン http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1107

静かな視界 shima  http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1107

北村灰色 海に砂糖を、僕には何を? http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1107

アラメルモ ドライフラワー http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1088

くつずりゆう 東風 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1039

大熊あれい 芝生で覆われた土手一面に、霜が降りて光っている http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1099

芦野夕狩 姉の自慰 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1154


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by yumiko_aoki_4649 | 2018-01-15 04:12 | B-REVIEW | Comments(0)

高良留美子著『女性・戦争・アジア』感想

『女性・戦争・アジア』の、広範で膨大、一つ一つの項目を突き詰めて考えていく高良留美子の仕事に圧倒されながら、関連書を繙きつつ、少しずつ読み進めた。高良氏の知識量と思索の深さはもちろんのことであるが、大きく包括的にとらえたり、異なった側面から光を当ててから緻密に検証していく論法からも、多くの学びを得る評論集だった。


読みながら、「modern」とは何か、ということを、考え続けていた。自然界の岩も川も、動植物もすべて「神」の作りだした被造物、という西欧の考え方が、対象を「物」と観る思考を促進し、自然界の事物を遠慮なく「利用」する発想へと繋がっていくのだとしたら・・・そして、神の似姿でもある人間には、それが許されている、という思考法が、産業革命以来の文化を創り出したのだとしたら・・・人が自然から切り離されていく(世界から分断されていく)近代化の帰結は、自然界への畏怖を忘れた人間にもたらされた「報い」であるような気がしてならない。


「詩における東と西」の中で、高良は〈日本人は過去一世紀以上のあいだ、西洋の文明をとり入れ、それに適応してきた。しかしそこには過剰適応の面が〉あった、と指摘している。漠然と抱き続けていたものの、言葉にならなかった違和感を、まさに言い当ててもらったような一節だった。本来アジアの一員である日本人が、「脱亜入欧」を急いだことが生み出すひずみ、自然との隔絶が生む不安や孤独、孤立感。西欧から見れば前近代的な心性の現れと認知されるかもしれない、龍神を祀ったり山の神や海の神への祭礼を行ったりするアニミズム的な伝統的な行為は、日本も含めアジア諸国において、自然への畏怖や敬意を次世代に引き継いでいく重要な役割を果たす儀礼でもあったはずだ。人も自然の事物も、自然(大地)が生み出した「もの」である、という、より大きな「全体」の中に、「物」も「者」も包含されている。意味の差異によって異なった漢字を当てられても、「もの」という音韻は同じ、おそらく発想の原点も同一。動植物だけではなく、岩や土や川などの自然の事物も人と同じように「一緒に存在するもの」である、という意識の中に、本来の平等が根差しているのではないのか。〈東と西のもつ二つの価値観の統一は、男性的なものと女性的なものの統一と共に、現代文化の緊急で本質的な課題である〉という言葉に、深く共感する。


人と人だけではなく、自然界に存在するものは皆平等、共に自然(大地)から生まれ、やがてまた土に還っていく。大地どうしをつないでいる海から「命」が生まれ、やがてまた大地に戻っていく、という循環。あらゆるものが平等に存在をゆるされているならば、本来そこに「価値の差」など生まれて来るはずがないのに、人間は優劣をつけ、自らを高い所に置こうとし・・・中には、より容易に自らを相対的に高めるために、他者を貶めようとする人もいる。

「戦争」がなぜ起きるのか、どうして「人間」「人類」は、それを防ぐことができないのか・・・文学には「起きてしまったこと」を伝えることはできても、事前に防いだり未然に留めることはできないのではないか、「現実」に対しては無力なのではないか、という、絶望的な気持ちになるが、「植民地主義の原罪と文学―9.11以後を考える」などを読むと、「戦争」を引き起こす直接的、表層的な要因が欲望や野望の衝突であったとしても、その衝突に到る過程に、他者の文化への無理解や差別意識、自分たちの文化や思想を押し付けようとする独善性(正当化する宗教、思想、理念)がある、ということを鮮明に意識させられる。この段階であれば、文学は未然に戦争と関わり、防ぐことができるかもしれない、という希望を持つこともできる。もちろん、微力であり、淡い希望であるには相違ないが。

「事実」を探り、確かめるということ、それを伝え、明らかにする、ということ・・・その時に、「出来事」を記述するのが歴史だとすれば、その時の「心情」を、同じ人間である、という普遍性を根拠として推し量り、自らのもののように感じて、心の中で再体験して、同時代の人々や後世に伝える、問いかける、その行為が文学なのだと思う。そして、同様の悲劇や苦悩を再び引き起こさない為に、人間には何が出来るのか考えさせる、自発的な行動へと促す・・・その段階における重要な役割を、文学は担っているのだと考え直す。外交交渉の現場や、国際会議の議場における弁論に、根の部分で繋がっているのが、そうした文学的な思考なのだ。


「弱いもの」に寄り添う、その立場に立って考える、理不尽や悲惨な現実について抗議し、非難し、改善を働きかける・・・そのことの「正しさ」についても考えさせられた。真の同情(憐憫ではなく)、真の共感とは何か。自身の理不尽や憤りを越えて、誰かの「為に」行動する、という行為に素朴な憧憬を抱いたり、理想的な生き方を見たりもするのだが・・・それは、自分自身にも内在する「英雄願望」の発露でもあるのではないか。そう考えた時、「為に」という行為の持つ両義性(それは「正義」の両義性でもある)そうした価値観にとらわれることの「恐ろしさ」について、考えざるを得ない。

「恐ろしい」というのは、ここしばらく、戦時中の詩人たちの日記や手紙を読んだり、行動について考えているせいかもしれない。戦時中の文学青年をとらえたある種のヒロイズム願望のようなもの、時代の「閉塞」を突破する為のモチベーションとなる思考。人は、何のために生きるか。レゾン・デートル、青臭い「自分探し」ともいえる、狭隘な思考かもしれないが・・・青年期だけの、あるいはある時代だけに見られる特殊なものではなくて、いつでもどこでも再び沸き起こる可能性のある感情なのではないか。その感情の渦が、熱狂的に再び「戦争」を引き起こすことに繋がりはしまいか。そして、知らぬ間に自分自身も加担することになっていく、ということになりはしまいか。その、熱狂の渦に巻き込まれずにいることと、傍観者として加担せずにいることとの相違は何か。巻き込まれないように注意喚起し続ける、という役割が、文学には求められているのではないか。


植民地主義や物質的豊かさ、国力としての強さを得ることが「近代化」であり「進歩」であると信じ、アジアのどの国にも先駆けてその「豊かさ」を「実現(獲得)」した明治維新以降の日本。日清戦争、日露戦争の「勝利」が、第一次大戦やロシア革命に揺れる「欧米列強」の勢力後退に由来するものでもあることを忘れ、「亜細亜」における「先進国」の地位を獲得したと自負していた日本。そこには西欧的近代に対するコンプレックスがあり、かつて憧憬と学びの対象であった中国や朝鮮の学問や文化への近親憎悪的な感情や、乗り越える、ために他者を矮小化し、侮蔑的に見下すことによって自らを相対的に高める、という歪んだ自尊感情の充足がある。「戦争」はもはや避けられない、武力が唯一の突破口なのだ、という「情報操作」があり、そうした中で目前に「死」が突きつけられたとき・・・(どうせ死ぬなら)野垂れ死ぬような無駄な死に方、無名の死に方ではなく、国家の「為」、英雄的な死を死ぬことによって、有名の死に方を得たい、死後に名前を残したい。なにか大きなものに自身の命を捧げることによって、無価値な死を価値ある死にしたい、というような願望が生起するだろう。同じような状況が現れた時、「国家の為」「公共の為」が強調されていくに相違ない。そのような時代的傾向が現れた時こそ・・・本来の「公共」とは何か。個々の相互的な尊重に基づく公共、権力者によって統括され、付与される公共、ではない、市民による自発的な公共をこそ、考えなければならない、と思う。

今現在の政治の動きや、「嫌韓・嫌中」のヘイトスピーチや書籍の横行、歴史修正主義者の主張などが、日中戦争や太平洋戦争が始まる前の日本と重なって見えて来る。歴史が単純に「再来」「再生」されるとは思わないが、過去を学ぶ、反省的に歴史を検証し、未来へとつなげていく、その歴史の潮流の(分子レベルの微細さではあっても)個人は一部を担っている、ということを、忘れてはならないだろう。その、庶民レベルの直感、庶民レベルの警戒心を、おろそかにしてはならないとも思う。昨今の投票率の低さや、政治的話題を日常化することへの嫌悪感、最近話題になった「お笑い」が政治風刺を行うことの是非、についての議論などについても、一人一人の市民が、自覚的に引き受けて行かねばならない課題であるはずだ。


宮沢賢治が、もう少し長生きしていたら・・・グスコーブドリのような自己犠牲を賞讃する傾向、世の為人の為、皆の幸せを考える、という生真面目さや「誠実さ」が、賢治を「国」の為に命を捧げよ、と主張する「愛国者」にしていたかもしれない。賢治の「国柱会」への入信などを見るにつけても、誠実に国家の未来を憂う青年であればあるほど、全体主義的な理想論、英雄主義に引き込まれていく恐ろしさを感じるし、それは今、現在に生きる私たちにも、突きつけられている課題であると思う。いつまた同じような選択の前に立たされるかもしれない、そのことに対する真の警戒心を、持つことができているか。

個々の命を尊重することと、自らの死を死ぬことは、きっと同義なのだ。国家や理念、といった、大きなもの、壮大なものに、自らの死を引き渡さないこと・・・同時に、死を私物化しない、自分だけのものとはしない。自然の中に還っていく始まり、としての死を意識することが、自然の一部として生き、個物としての孤独や孤立の不安を解消していくことになるのではないか。


思いが多方面に広がってなかなか自分でもまとめられずにいるのだが、以上のようなことを、『女性・戦争・アジア』を読みながら感じたり、考えたりしたのだった。


一章の「女性詩人」を読みながら思い出したことについても、書いておきたい。それは、最近読んだ三十代の男性詩人が執筆したブログ記事のことだった。日本の詩の百年を、ラップミュージックや現代のネット文化に詳しい「現代っ子」の眼で読み直す、という、面白い視点の文章だったのだが・・・そして、ほぼすべての話題に、同意したり感心したりしながら、読み進めたのでもあったが・・・戦時中の特攻隊戦士の遺した詩文に、企業戦士として疲弊していく自分たち男性の視点を重ねて共感する一方で、茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき」を、戦死した男たちのことなんか忘れて、新しい文化を享受しよう、そんな女性の変わり身の早さ、したたかさのようなものの現れ、という読み方をしていて、その一点に関しては、大きな違和感を覚えたのだった。(個人的に、批判のメールも送った。)もちろん、詩の読解は自由であるし、男性側からの貴重な視点として、尊重もしたいと思っている。思ってはいる、ものの・・・。

ときどき、男性たちの視線に、自分たちは企業戦士、労働力として社会で必死に働いていて、自分のための時間も満足に取れないのに、女性は楽をしている、得をしている、そんな「専業主婦」や「パートタイム主婦」への冷ややかな眼差しを感じることがある。逆にフルタイムで仕事をする女性に対して、女性としての役割(子育て)をなおざりにしている、一番大事な「仕事(家事育児)」をおろそかにして、自己実現に躍起になっている、というような見方が(姑など、女性の側からも)なされたりすることもある。

最近では、「女性詩」という言葉は死語になった、などと言う人もいるようだが(文学の世界で女性、男性、と分けること自体に問題もあるかもしれないが)、女性が女性の視点で女性の作品を読む、という行為は、男性が見落としたり誤解したりしている部分に光を当てていく、という意味でも、継続されていかねばならない。性差や社会的な差異を無くしていく、均質化していくという方向ではなく、むしろ差異を際立たせ、その際立つ中から立ち上がる、異なった視点、多様な視点をこそ、尊重すべきだ。多様な視点をぶつけ合い、共感は出来なくとも(安易な共感なら、むしろしない方がいい、)理解し合い、時には一定の譲歩もし、相互に尊重していく。意見、異見の尊重は、個人相互の尊重でもある。


五章の「詩と会い、世界と出会う旅」にも、強い感銘を受けた。

ムハンマド・オダイマ氏からの質問への〈人は言葉の海のなかに生まれ、言葉によって養われ、そして言葉の海のなかに死んでいきます。人は言葉を手段にすることも、目的にすることもできますが、人が本当にできるのは、言葉を生きることです〉(p194)という高良の回答に、深く感動した。また、マジシ・クネーネ氏の〈世界はバランスを失ってしまった。もう一度世界に調和を、秩序をもたらすことができなければ、わたしたちは大地への責任を果たすことができない〉(p243)という言葉にも、強く心を揺さぶられた。

人は、いのちを大地からいただき、言葉の海のなかで「人間」へと育っていくのかもしれない。そのことを忘れ、大地を所有物であるかのように切り刻み、「快適で便利」な生活の為に「役立つ物質」のみをかき集める行為。工業的物質文明が「進歩」と呼ぶもの・・・そんな、普段忘れていることを、思い出す、考え続ける、そしてそれを「言葉」にしていくことから、「言葉を生きる」ことは始まるように思う。言葉を欲望の伝達の為の手段として、「物」として使役するのではなく、「大地」の声を聴く、ということ。「言葉」が私たちの中を通り抜けていく時に、揺さぶったり満たしたり持ち去ったりしていく、その感覚を思い出す、ということ。〈人間はその土地に生える木に似てくる〉(p238)その土地こそが「ふるさと」「くに」なのだ。「国家」や「領土」は、その「くに」に生える木々をすべて無視して、模式図のように色分けできる平面と考える、そんな「いのち」を無視したやり方から生まれる発想なのではなかろうか。


カーリー女神など大地母神のイメージが、母系社会から父系社会へと変わっていく過程で残虐さや恐ろしさを強調する方向に変わって行った(貶められていった)であろう、ということも興味深かった。日本でも、伊弉諾と伊弉冉、両性の共同作業で世界は生み出されていったのに、火(文明)を手に入れると伊弉冉は穢れの域に追いやられて、「父」から生まれた天照が国全体を照らす、という構図に移っていく。伊弉冉は「いのち」を生み出す存在から、奪う存在としての側面ばかりが強調されていく。山姥の物語に以前から興味があるのだが、伊弉冉(大地母神)の多産、豊穣の面が「山姥」伝承に強く残されていて、興味深い。このあたりもしっかり調べていきたいと思う。


「日本の掛け合い恋歌の伝統について」の章で、高良は折口説を検討しているが、男女の役割分担のようなものが固定化している、その枠内から見ている折口の視点を、さらに超えたところから見ていく、ということの重要性にも気付かされた。今、自分が捕らわれている思考の枠組みや、社会通念から離れて、あるいはそれができなくとも、その枠内から見ている、ということを意識して、考えていくことが大切だと思う。

以上が、雑感的な補記も含めた、『女性・戦争・アジア』感想である。


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by yumiko_aoki_4649 | 2018-01-01 10:45 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
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