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北川朱実 個人誌 『CROSS ROAD』感想

 北川朱実個人誌『CROSS ROAD』11。詩篇4作と評伝エッセイ2篇を収める。個人誌とはいえ、リトルマガジンと呼びたくなるような充実した内容である。

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詩篇「遠くからきた」は、パプアニューギニアの高地から来た青年と部族長に年を聴いた時の応答から始まる。暦のように“年を数える”習慣のない二人の詩情に満ちた答えを記しながら、北川は〈生まれて まだ生きている/それだけだから〉と記す。月齢を数えることは知っていても、年齢を数える観念がない(そもそも必要ない)なぜなら、彼らにとっては、今こそが大切だから、今を生き続けているから。だから彼らは、歳をとった、という感慨を抱くこともないのだ・・・という話を聞いて、感動したことがあった。それがパプアニューギニア高地の話であったかどうか、定かではないのだが、年齢を重ねていく、年齢を意識する、という習慣が、果たして内的な体験や経験の蓄積に、どれほどの意味を持つものなのだろう。

 クロノスとカイロス。誰にも平等に与えられる、暦や時計で計り取ることができる身体外を流れる時間クロノスと、内的に感知される、個々人によって知覚の異なる時間カイロスの不思議について、いつも考える。楽しい時は過ぎるのが早く、退屈な時は長く感じるのに、記憶として色濃く残るのは前者。回想する際には、情報量が多い「楽しかった時間」の方が、情報量の空疎な「退屈だった時間」よりも長く再生される。太く短く、濃く生きる、それは「楽しい時間」「真剣に物事と向き合う時間」「退屈を感じることなく、次々に出来事をこなしていく時間」だろう。それでは、瞑想など、心を無にして時と向き合う時間は、どのように“体験”として蓄積されていくのだろう。消耗してへこんだり窪んだりした心を、リカバリーさせる、そんな再生の時間として働くのだろうか。

 北川は、パプアニューギニア高地の青年たちの時間に続けて、〈私は/誰も知らない/年月のない略歴を身体の奥にもっている〉と続ける。そこからさらに、〈遠い海底で地震が発生して/地軸がずれ//一日の長さが/百万分の一秒短くなった/と繰り返すニュース〉について記し、そのニュースを聞いた部族長が〈日に焼けた地球儀のような顔を/ぱかんと割った//遠くからきた〉と、ユーモラスかつ驚くような比喩を置いて、作品を締めくくる。私たちの体感を、はるかに超えてしまった数値のみの時間を示されたところで、私たちが生きていく上で、どれほどの意味があるのだろう。巨大な地震が起きて、どこまでも続く平面のように感知されていた世界が、ぱかっと真っ二つに割れてしまった、そんなイメージの方が、よほど“あの日”以前と以降に心身が感じている断絶の体感に近いのではないだろうか。

 〈地球儀のような顔を/ぱかんと割った〉このフレーズは、読む人によって様々なイメージを喚起されるに相違ない。私は仮面が割れるイメージや、脳内の世界が真っ二つに途切れるイメージを思い描いた。〈遠くからきた〉は、どうだろう。実際に、異なる習慣や感性、時間感覚を持つ人たちが、その観念を〈遠くから〉もたらした、という新鮮な驚きとの出会いとして読むこともできる。私たち人類が、遠くからやってきた・・・そして、その個人を越えた記憶が、私たちの体内に〈年月のない略歴〉として蓄えられている、と読むこともできるかもしれない。私たち内部の、心の感知する時間の測り方。思い出の総量と、心の柔軟度によって憶測する他はないのかもしれない。

 

 もう一篇、詩作品を紹介したい。「夜明けの水」である。〈パイナップルの実に残った/鋭い皮に/唇が切れた〉ところから始まる詩は、わずかな出血が誘う連想、〈どこかで/細い血が流れるけはいがする〉へと続き、やがて、病院という建物内部を血管のように、葉脈のように巡る水のイメージへと繋がっていく。なぜ、このような連鎖が起きるのだろう、と思ったとたんに眼に飛び込んでくる〈――点滴を続けます/医者は/体に鍵をかけて出ていくから〉という一節。北川自身の体験なのか、誰か体調不良の人のことを思って生まれた作品なのかは不明だが、点滴のチューブを流れる水が、どこから来るのか・・・人々の体内を巡る血液や水、入院している他の人達の腕に刺された点滴の針、病院の壁の内側を巡る配水管を流れる水へと自在に羽ばたく想念の力に引かれて、読者もまた、水となって方々を辺巡ることになる。北川のイマジネーションは、さらに病院の外へ、都市へと向かっていく。〈高い窓から/橋のない川を眺めた〉橋のない・・・それは実景かもしれない、対岸へ渡ることができない、という象徴的な意味合いも重ねられているかもしれない。〈背中の滑走路を垂直に飛び立って//無い青を抜けた〉背を真っ直ぐに昇って意識が中空に飛び立っていく体感をイメージする一節。(カッコよすぎる、ような気もしなくはないが・・・)青が自由や若さ、未熟さに結びつくものであるなら。無い青とは、既に逃れようのない事態を自覚していることの暗示であろうか。〈橋のない〉〈無い青〉と重ねられる、否定の言葉。そして、次のページをめくると現れる、〈カラスに追われた鳶が/給水塔のてっぺんで鳴きつづけている〉という、切迫した、逃れようのないイメージ。さらに作品は、〈深い入れ物の中で/ゆれる水〉と続く。点滴の容器を満たす水、身体という容器を満たす(体液や血液、といった)水、病院内を辺巡る水、都市を流れる水。それらに水を供給する、給水塔。作品は、次のように閉じられる。

 

 点滴を引きずって私は

 窓のむこうに広がる

 夜明けを待っている

 

 ふいに鳥の群れがあらわれ

 空を一枚くくって

 翻った

 

 曙光のようなあいさつ

 

 点滴が

 ゆるやかに川面に流れ込ん


題名の「夜明けの水」、に戻ったともいえるエンディング。心身の不調と夜の深まりと共に、体内を巡る水、院内を巡る水、都市を巡る水へと想念が及び、その供給(が止まる、循環が止まる・・・命が止まる)不吉な予感にがんじがらめになった精神が、暗雲の垂れこめた空を一枚、めくり取るように現れた〈鳥の群れ〉の啓示によって、夜明けの希望に辿り着く。点滴の液体が院外の川面に流れ込むというイメージの飛躍は、跳躍の幅が大きすぎるような気もするのだが・・・閉塞していた意識が、一気に解放される、その広がりや大きさを感覚的に捉え、伝えるためには、必要な幅であるのかもしれない。

 

 「夜のアンケート」は、生きている、と思うのはどんなときか、という素朴ながら答え難い問いに、ためらうように、戯れるように触れていく作品。「屋久島」は、屋久島への旅行体験と、老人ホームに居る、少し衰えの見え始めた母への思いとを重ねていく作品。〈青い稲妻ではじまる朝は いつも/滅んだものが立っている気がした〉という印象的な冒頭。母との歳月を凝縮するような一瞬と、今、まさに倒されようとしている〈枯れかけた縄文杉の根本に/斧が一本入ったままだ〉という情景・・・本来、次元が異なる出来事であるはずの二つの別個のイメージ、したたかに今もなおそびえたつ杉の命と、気丈であった母が記憶の衰えを見せながらも鋭く声を上げる在り様とが、〈血のぬくみを残し/大きな空の下で夢を見て〉という終行において重なり合い、溶け合うような気がした。

 

 伝説のジャズプレーヤーについて語るエッセイは、今回はビル・エヴァンス。ジャズのようにウィットに富んだきびきびした比喩に彩られた、簡潔にして味わい深い名文。「路地漂流」(十一)の安岡章太郎に関するエッセイは、詩篇の「屋久島」が反復しつつ、遠くに響いているようにも感じた。「路地漂流」から、一部を引用して紹介を終えたい。

 

〈昭和三十二年、母恒が死亡・・・二年後、安岡は、病んだ母、逃げようのない家族の束縛、戦争の傷、死を、人の動きと会話で淡々と書いた小説『海辺の光景』を発表。木の幹が中空で分かれる瞬間を見たような家族の物語は、翌年、芸術選奨及び野間文芸賞を受賞した。すべてが目の前にあるように生々しく具体的に書く。それが安岡の凄みだった・・・全てが終り病院前の海岸を歩くうち、干潮の海にあらわれた墓標のような光景に衝撃を受けて安岡は立ち尽くした。確かに一つの死を見たのだった。〉

 

 毎号が楽しみな詩誌である。


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by yumiko_aoki_4649 | 2018-06-22 15:33 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

『黒本』柴田望詩集 感想

 柴田望さんの詩集、『黒本』。インパクトのある名前と黒が印象的な表紙。描線と腐食によって描き出す銅版画のような装画、パート切り替えもかねて挿入された挿絵共に、柴田さんご自身が描いたものだという。

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 硬派の詩集である。たとえば、地球儀ならぬ「時計儀」という詩篇は、

 

 何をやってもダメに麻痺した世代の暁

 されたことに嫌な想いで苦しむのは

 じぶんも同様に嫌な想いをさせた証拠

 道を授ける進化すら余計な口出しを背に

 このままじゃいけない規律を腹に

 

と始まる。

 

 微糖化した虚しさを焼き払い

 避難警報の回数を動かぬ証拠に

 施錠された空白は廃駅に舞う

 

よく生きる、正しく生きる、その意味を不器用なまでにまっすぐに問い掛けながら、“常識”に反抗し、先達の老婆心的な“助言”にも抗う青さも抱え、自らを鞭打つような厳しさも垣間見せる。とはいえ、ユーモアも忘れない。「天秤」という詩篇では、

 

 だれにも知られたくないが

 わたしは壁にしか立てない

 床を歩いたことはない

 まっすぐに立って歩く

 あんたたちを垂直に欺す

 

 いやじつは、ぼくもわたしも

 他人と同じ角度に

 立って歩くふりをしてきた

 正体はひとそれぞれ

 微妙にズレますんで

 重ねるとキレイな放射線状の

 円になる

 (中略)

 こうなってしまうと

 おれの意見が正しいとか

 だれが気に入らないじゃなく

 妥当なラインの飽和でもなく

 ひとそれぞれのズレの総和へ

 転がって壁に弾く

 想い出の乱反射目がけて

 幼年の人影は奔る

 

大多数、へ無抵抗に組み込まれることへの反抗心。マジョリティーと言っても、結局は微妙な差異の集合体でしかない集団を、どこか皮肉を込めて、冷静に見る視点……それを図形という“目に見える”形へ寓意的に変換して提示する面白さ。最終二行の乱反射は、個人の思い出への遡行であると同時に、それぞれの人々の微妙なズレが、実は幼年期以来のその人の人生経験や思想体験、環境の影響の蓄積であることも示唆している。

 

 柴田(とオーバーラップする語り手)の幼年期を暗示する、寓話的な作品「空間」を見てみよう。

 

 いまの私よりも若い

 父は教員、母は養護教諭だった

 夏休みには必ず家族で旅行した

 あるキャンプ場でおどろく

 無数の黒い点による巨大な立方体が

 松の樹から飛びだし、羽音は風を破って

 草叢の空き地へ、さらに次の樹へ

 移動する距離と速さを間近で見た

 その日から囀りはいつも聴こえて

 庭の巣箱に来ているのだと

 夏休みが終わっても信じた

 

幼い少年が“見た”ものは、なんだったのか。大量のムクドリの群れ、そういった“説明”も成り立つだろう。だが、読み進めるうちに、立方体、という型枠にはめられて生きている人々の精神を、その群れ飛ぶ姿を、少年は“見た”のではなかったか。そんな気持ちが募って来る。

 

 職員が雛を虫かごに入れて

 「誰か欲しい子は?」手を挙げてしまった

 ゆで卵の黄身をつぶして与えるように言われ

 家に持ち帰った

 母に虫かごを見せて

 ゆで卵を作ってほしいと頼んだ

 忘れられないほど叱られた

 何故、雛をさらったのか

 親鳥は必死になって探しているに違いない

 どうしてそんな残酷な子に育ったのか

 いますぐ返してきなさい

 

“養護教諭の母”が、何よりも大切にしていたこと、それは他者の痛みを思いやること……身をもって知ること、だったのであろう。少年は実際に鳥の雛を飼ってみたい、自分のものにしてみたい、という誘惑に駆られたことがあったのかもしれない。その記憶に刻印された、激した“母”の教え。

 

 冬の朝、発語できない嘴の夢を見て

 あまりの悲しさに目覚めると

 一羽の囀りが聴こえた

 妹が最初に聴いた

 煙突のほうから寝室の壁に響く

 巣が昨夜の強風で煙突の底に落ちたのだ

 母はストーブを点けなかった

 厚着した妹の吐く息は白い

 父は床いちめん新聞を敷いて

 家じゅうの窓をぜんぶ開けて

 ストーブの円筒を頭上の壁から抜いた

 家じゅうの窓から陽の光が注がれ

 真っ黒い小さな塊が

 壁の穴から勢いよく飛びだし

 青空へ消えていった

 

冬場に鳥が巣を作るものかどうか。寓話と見る方が自然であるようにも思える。発語できない嘴とは、自身がくちばしをもった小さな鳥になっている夢を見た、ということの暗示だろう。小さな命が煙突に落ちた、その命を守るために北海道の厳しい冬の最中にも火を点けず、家族の連係プレーでその命を空へ(自由な世界へ)と逃すまでの顛末は、実話であるとしても、寓話であるとしても、両親の生き方とその姿勢を身をもって子どもたちに教えている。煙突の底に落ちたのは、言葉を(発語を)失いかけ、飛ぶこと(自由な精神の飛翔)を失おうとしている、少年の精神ではなかったか。両親は、それをいち早く見抜き、真っ黒に煤を被りながら、再びその鳥が、青空へと自力で飛び立っていくのを、手助けしたと読むのは、読み過ぎだろうか。この詩は、次のように閉じられる。

 

 当時の父母の齢を越えてしまった私は

 父母がしてくれたことを

 子どもたちに何一つできず

 どこで遊んでいるかも知らない

 でも、いつか話そう

 おとうさんが子どものころ

 いまのおとうさんよりも若い

 おじいちゃんとおばあちゃんが救った鳥の飛距離を

 

リアリティーのある寓話。「変形譚」も奇妙な後味を残す作品である。

 

 新しいゴミステーションの鉄カゴが

 狭い間隔で並んでいる

 

 人々は新しい鉄カゴの蓋を開けて

 次々と収まる

 

 鉄カゴには番号が刻まれている

 (内側から見ることはできない)

 

 家を出て

 鉄カゴに収まっていること以外

 普段と変わらぬ日常を生きる

 

 恐ろしいのは変化ではなく

 変化を残したまま日常が続くことだ

 

 日常から逃れたくて

 人々は喜んで収まる

 

自ら喜んで、いずれゴミとして収集され、廃棄されるゴミステーションの鉄カゴに収まっていく人々。マイナンバーを付され、そのことを忘れたまま、都会という消費生活の場に自らを嵌め込んでいく人々が暗喩されているように思われてならない。

 

 翌朝、鉄カゴに吸い込まれた人たちは消える

 戸籍上は生きたまま・・・

 どこにも見当たらない・・・

 

 マンホールの蓋を開けると

 頭だけがぎっしり詰まっており

 何も判断しない液状化された記憶が

 考えや意図の隙間に手放され

 文脈の地層を重ねる

 

 鉄カゴの脚は踊る

 

自ら判断することを放棄し、マジョリティーの意見に身を任せ、日々の楽しさ、消費の面白さにかまけているうちに、廃棄され下水に流された人々の頭(考えることをやめた人々の記憶)だけがぎっしりと詰まっている、そんな幻影。

 

 長時間労働やパワーハラスメントによる若手社員の自殺や、学校のいじめによる自殺が絶えない日本と、対照的なイタリアやフィンランドを、直球すぎるほどのストレートな、しかし小気味よいテンポの表現で比較した「デンドロカカリヤ」……平成29年、旭川市で行われた「サウンド・音楽と映像による朗読会~安部公房『デンドロカカリヤ』朗読会」をベースにした作品である。安部公房の、主人公が見慣れぬ植物に変容する物語にインスパイアされたこの作品は、安部公房の骨太かつ奇想に富んだ社会風刺、鋭い寓喩と親和性のある作者ならではの警句に満ちた作品となっている。

 

 そのほか、〈目をつぶることは/いくらでもできる……何事もなかったかのように見える日々は/新鮮な裂け目だ……目を閉じさえすれば/誰かの笑みを強烈に想い出す夜は/焦げた鏡だ!〉と、他者の痛み(身近なものから、遠い国におけるものまで)に目をつぶってやりすごす日常を鋭く突く「殺戮」、北海道らしい雪のイメージ、冬のイメージと重ねながら、あるはずのもの、見えるはずのもの…の象徴としての〈雪を《見るな》と定め〉られてしまうこと、それを常識として刷り込まれていくことへの警鐘を寓意的に描いた「文學」(この作品は、題名そのものが、文学作品を創造することの喩となっている)などが印象に残った。

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by yumiko_aoki_4649 | 2018-06-11 01:28 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
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