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和田まさ子詩集『軸足をずらす』書評

 前作の『かつて孤独だったかは知らない』(2016)では、移動する身体が呼び込んだ感情や体感と、深い知性に裏打ちされた思索とが接点を求め、時に共鳴し、時に軋みあいながら、和田独自の一致点を求めてうごめいているように思われた。

 今年の夏(20187月)に刊行された『軸足をずらす』では、精神が一歩先に出て、一致しようとする身体をむしろ後ろへ、後ろへと脱ぎ捨てて行こうとしているようにみえる。それにしても、軸足をずらす、とは、ユニークな題名である。軸足を、どこから、いずこへずらすのか。ずらすことで得られる、新たな地平とはどのようなものだろうか。試みに“身体”、“アジア”、そして“ニンゲン”をキーワードとして探っていきたい。

 

 詩集は「極上の秋」という作品から始まる。冒頭と後半を引用する。

 

 シュウメイギクが咲いている団地の

 角を曲がった、その角を

 同じ角度であとから曲がる人がいて

 真似られているから

 今日のわたしを一枚めくる

 もともとはがれやすい皮でできている

 おはじきのようにからだじゅうに散らばった感情が

 ひとつに集合し、かたまりのなかで

 じぶんと親密になる

 (中略)

 もう、ここに用はない

 理由があってもなくても

 靴底は新しい

 行きなさいと声がする

 角を曲がって

 にんげんが逆さに立っている野原まで

 (以下略)

シュウメイギクがもたらす晴朗な秋の気配の中を、〈用はない〉と言い切り、〈わたし〉は颯爽と歩いていく。今、居る場所から、歩み去ることから始まる詩集なのだ。皮をめくる、という身体感覚に即した表現や、〈おはじきのように〉という手触りのある鮮やかな比喩が、千々に思い乱れて自ら進路を取りかねているような心の状態を、的確に言葉に変換していく。まるで被膜のように肌を覆う過去の〈わたし〉、〈今日のわたし〉を脱ぎ捨てて、まっさらな身体で明日へと歩いていく、そんな決意が感じられる。

 〈わたし〉を取り巻く世界との軋轢・・・折り合いをつけるストレスや、他者の思惑への気遣い、人間関係のしがらみから逃れられない、今の〈わたし〉の思考回路をサッパリと脱ぎ捨て、ハンカチの上に拡げたおはじきをザーッとひとまとめに包み込むように、自分の気持ちをしっかりとホールドすることが出来たらきっと、晴れ渡る秋空のような心地がするに相違ない。続く作品にも〈昨日の雨が洗い流したから/欲望/沈滞/憂鬱/どれもわたしの身体を離れるだろう〉というフレーズがある。〈わたし〉は気持ちの“断捨離”を行おうとしているのだ。

 冒頭に現れる、角を曲がる〈わたし〉と〈同じ角度であとから曲がる人〉とは、何者だろう。〈わたし〉と同じ道を歩もうとする人と読むなら、〈じぶん〉はあえて一人の進路を選ぶ、という選択でもあるだろう。気持ちが先に立って、身体が後から付いてくるような時のもう一人の〈わたし〉と読んでみたい気もする。いずれにせよ、独立独歩の道を行こうとする〈わたし〉の歩行を促すのは、他ならぬ〈じぶん〉、つまり、〈わたし〉の精神、〈わたし〉の意志なのである。この孤独な歩行は、〈にんげんが逆さに立っている〉ような、今までの価値観が逆転するような場所、人間とはかくあるべし、というような既成概念が存在しないような地平に〈わたし〉を導くかもしれない。タイトル作品「軸足をずらす」の最後は、〈いい人だと思われなくてもいい/いつの間にかこの世にいたが/どこかに軸足をずらす/さみしい方へ傾斜するのだ〉と締めくくられる。独立独歩の歩行は、〈さみしい方〉を選ぶ、という選択でもある。

 一つ目のキーワードに“身体”を挙げた。巷間にある身体、様々な関係から逃れられない社会的身体としての肉体から、孤独な精神の歩みに重心を移すこと。〈軸足をずらす〉という試みのもたらす自由が、そこにある。

 

 二つ目のキーワード“アジア”は、「軸足をずらす」や「乗り越える」「苔玉」に現れる。アジア、と聞いた時に思い浮かべるのは、まずは東アジアから東南アジア、西アジアにかけての広い範囲の“外国”であろう。〈逃げるときは/そしらぬふうに/ゆっくりと歩く/混雑しているアジア/みんなが追っ手の目つきで並び/左右にからだを揺らして動く…平べったいからだになって/参道の流れに乗る〉(「軸足をずらす」)ここでは国名が明示されていないので、外国を訪れた時の体感の可能性が残る。しかし、〈アジアは満杯で/逃げ場を探す人たち/血がしたたる傷口が/東南アジアの地図上のどこにもあって/弟が飲み込まれていく〉と綴る「乗り越える」では、〈富士見通りの敷石〉や〈国立(くにたち)メガネ店〉と、明確に日本の固有名が登場する。「苔玉」では〈待ち合わせの鉄道の改札口の位置を探り当てられて/そこにアジアを混乱に陥れようとする人たちが迫り/またしても魚見橋のたもとで/行き場を失くした〉と、日本の橋の名前が出て来る。この魚見橋は、川崎市多摩区にある実際の橋の名称だろう。冒頭の詩「極上の秋」に登場する、〈五反田川〉に架かる橋である。〈わたし〉がいるのは日本という国、という通常の概念をいったん捨てて、〈アジア〉という広範な場所の中の一地点、という視点に、〈軸足をずら〉しているの日本、という枠組み、日本という構造・・・日本の中で生まれ育ったがゆえに染み付いている思考回路や既成概念の檻から逃れ、自在な視点を得るために、あえて外部に出る、外部から見る、という試み。〈わたし〉はアジアの一部でもある日本、と見ることによって、自身を客体化しているのである。

 〈混雑しているアジア〉、人で満杯の〈アジア〉は、〈わたし〉が生きるには息苦しい場所であるらしい。新たな視点を獲得した〈わたし〉が見出す〈じぶん〉の姿、〈じぶん〉の体感を見て行こう。

〈とても濃い世間に/息があがって/川の魚が口をぱくぱくしているから/人といると呼吸を整えられなくて/ときどき顔を背ける〉(「軸足をずらす」)(※〈川の魚が口をぱくぱくしているから〉という挿入句も面白い表現である。川の魚のように、という直喩を避けたのだろうが、苦し気な魚を見た瞬間、自身がその身に同化しているゆえの表現とも取れる。この、別種のものに“なる”ことについては、また後に触れる。)

〈結論を急ぐ人たちに囲まれて/姿勢を正し/人の目を見て話す/それだけのことができない〉(「突入する」)

〈世の中はあらゆることが二者択一で…二十四時間人間でいることを求められる/人間が過剰だ//アジアは満杯で/逃げ場を探す人たち~〉(「乗り越える」)

〈どのシステムでも人間は最後尾にいて/足踏みをさせられている/あるいは指に熱中して/時間を忘れさせられている〉(「生きやすい路線」)(※指が触れているのは、スマホの画面と思しい。)

〈わたしは耐えているのだろうか/いい人になるためにしなければならないさまざまなこと/世の中への参加の仕方/過ぎ去った時間の忘れ方〉(「戸が叩かれ」)

 同調圧力が強く、空気を読むことが求められ、人と呼吸を合わせること、和を乱さないことが強く求められる傾向のある、日本。自己主張を抑え、群衆に身をゆだねることが〈人間〉だというなら・・・〈人間〉とは無言で社会の為に作動する、歯車の一部、部品の一部と、どこが異なるというのだろう。和田が「極上の秋」で記した平仮名の〈にんげん〉が、〈人間〉の理想的な姿であるとするなら、〈ニンゲン〉は社会の型枠に嵌め込まれ、息を殺して生きのびることに何の疑問も感じなくなってしまった、機械のように感情を失ってしまった〈人間〉のことに相違ない。

 

 第三のキーワード“ニンゲン”は、二篇の詩に登場する。

〈体温を測ったり/身長を測ったり/人との距離を測ったり/ニンゲンは測るものが多くて/ますます生者から遠のき〉(「上手くふさいでくれる唇」)ここでは、数値ばかりを追い求め、“にんげんらしさ”を失ってしまった〈人間〉が、〈ニンゲン〉に化している。

「石を嗅ぐ」では〈部屋はニンゲンの酸っぱいにおいで充満しているので/外に出て/見上げると/屋根は二枚の袖のかたちをしている/その上は空だ/人はあふれて/住むところを探している/郊外では/屋根の傾斜が急で/ニンゲンはそれぞれの屈折角度で滑り落ちていく/すると地上の悲嘆は着物のように折り畳まれて/空の箪笥にしまわれる〉というように、空が自ら袖を広げているような大きな視野の中で、人心地を取り戻せる居場所を探し続けるたくさんの人々、ラッシュアワーの通勤地獄や企業の効率主義によって人間性を奪われ、悲嘆を訴えることもままならず〈ニンゲン〉と化していく、郊外のベッドタウンの住人達が描かれている。

 第四のキーワードとして、人間でないものに成る、という願望を挙げても良かったかもしれないが、人間、あるいは人、に合わせていくことも辛い、ニンゲンには成りたくない、出来れば〈にんげん〉のままでいたい・・・それが〈わたし〉の願い、として包括できるので、項目としては挙げなかった。『なりたい わたし』の余韻が、ここにも響いている、と言えばよいだろうか。

 やわらかな餅が切り頃になって、切断を始めた母に〈ねえ、おかあさん/それ、にんげんの腕だよ〉と語りかける「のし餅」を読むと、やわらかなまとまりの状態、不定形でどんな形にでも成り得る状態が〈にんげん〉で、規律正しく切断され、整えられていくことが〈人間〉もしくは〈ニンゲン〉になっていくことだ、と和田が考えていることがわかる。自らが芽吹く野山そのものになっていくような「内藤橋」には、〈ココロをコトバに変えないで/人と接したい〉という願いが綴られている。「石を嗅ぐ」には、〈明るい草がなびいている野原に/分身を/見つけに行く〉というフレーズが現れる。「新聞になる」は言葉を運ぶ紙面そのものに成って読まれ、滅びていきたい、という願望であり、続いて置かれた「溺れる」は、一尾の魚、それも切り身となって〈人の腹に収まりたい〉という究極の夢想が展開される。詩人としての最終的な願いは、気持ちや想いをそのまま他者に伝え、そのままに消費されてしまうこと、味わい尽くしてもらうこと、であるのかもしれない。

〈みっともないことも少ししたが/ことばでもからだでもないところが/すばらしい速度で/成長している…いまはただのにんげんのくずになろうとも/まだ新しい一ページを開こうとしている/路線バスからの眺め/きっと美しい〉(「生きやすい路線」)

 〈軸足をずらす〉ことによって得た、一人の自由と、さみしさへの傾斜。大勢の人が乗り込む高速バスではなく、客もまばらな路線バスに乗ることを選んだ詩人は、こころの・・・魂の成長を、確かに感じているに相違ない。彫刻家の舟越保武が以前、美しいものがあるのではない、美しいと感じる心があるのだ、という意味のことを語っていた。〈路線バスからの眺め〉が、確かに美しい、と感じ取れるようになったとき、和田まさ子は“ほんとうのにんげん”になるのだろう。その時に生まれる詩は、さらに素晴らしいものであるに相違ない。

 

 装幀もさりげないが意匠がこらされている。打ちっぱなしのコンクリート壁のような無機質で冷たい質感を、リトグラフのような描画で写し取ることによって温もりに変えた表紙カバー。ほのかに光がさした天然石のような肌合いは、和紙の風合いを持つ紙質によるものだろう。見返しにもニュアンスのあるトレーシングペーパーを用いて、光を添えている。装幀、組版は詩人の岡本啓。

『軸足をずらす』2018.7月 思潮社刊

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by yumiko_aoki_4649 | 2018-08-23 12:17 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

鷲谷みどり 詩集『標本づくり』書評(『詩と思想』6月号掲載記事より抜粋)


優れた詩集に出会うたびに、人の持つ奥行きの深さ、創作という行為の広範な広がりに瞠目する。「現代詩」の修辞的技法は既に飽和状態に至りつつあるのかもしれないが、その用い方、組み合わせ方の多様さや斬新さに驚く。そして、その驚きを誘発するものこそ、作者個々人の内的世界の豊かさ、かけがえのなさなのであると、改めて認識する。


作者の選び取った言葉を介して、絵画のようにイメージが展開していったり、映像作品のようにさらにそれが動いていく詩集があり、言葉の響きが次々と新たなイメージを呼び込みながら、万華鏡のように移り変わって未知の世界を見せてくれる詩集がある。今、わたしが「ここ」にあること、その意味をまっすぐに、あるいは迂回しながら問いかけて来る詩集、現代社会をドキュメンタリーのように切り取りながら、表層を剥ぎ取り、背後に蠢く人間の欲望を暴き出していく詩集、見慣れた日常に秘められた美しさを偏光顕微鏡のように露わにする詩集がある。経験から滲みだすユーモア、心の鍛錬が磨き上げた思想、同時代に生きる人々や過去の歴史への眼差しが促す深い反省。「100人の詩人・100冊の詩集」を読みながら、その多彩な色彩に触れていきたい。


鷲谷みどり『標本づくり』は、今年度(68回)H氏賞候補に会員投票でトップノミネートされた詩集。夢や記憶、自意識といった〝とらえどころのないもの〟に〈かたち〉を与える詩情や意識の働きを、透明感のある筆致で捉えた秀作である。


動物園やサーカス、水棲植物園などがモチーフとなる一章は、不思議な静寂に満ちている。〈夜のしずく〉のしたたりの中から現れ出る、フラミンゴや鳥たち、象、あるいはサーカスの猛獣のイメージ。〈私の仕事は〉〈とうめいな一日の隙間に/いきものたちが 潜り込んでいかないように/見張ること〉(鳥小屋)、〈今日のけもののいのちの範囲を/手さぐりで整えていくこと〉(猛獣使い)なのだが、たとえば〈象のかたちが 整っていけばいくほど/自分の網み目が ゆるんでいくような夜/私は ふと/象のほんとうのかたちを/知らないことに気付く〉(象使い)。象を像と読み替えることも可能かもしれない。鳥のような、猛獣のような性質を帯びた〝何か″のイデアとして現れ出るものに、〈かたち〉を与えること。それは、名付け得ないものに見合う言葉を求め、意識によって捉え得るものとする行為である。漠然とした夢に〈かたち〉が与えられたとき、そのイメージは息づき始める。〈私〉の中でいのちを持った〈いきものたち〉を見守る〈私〉の視線は、自身の〈りんかく〉の曖昧さへと向かう。


昨日の私が、明日の私へと続いていくこと、その保証は自らの記憶の内にしか存在しない。しかしその記憶は、小さな刺激でほつれていく編地のように頼りないものに過ぎない。この確かなようでいて曖昧な〈私〉の存続という哲学的な命題に、鷲谷は豊かな想像力(ファンタジー)と蝕知的なイメージを介してしなやかに向きあ。夜毎に花のように閉じられるの意識が再び広げられるとき、その白い折り目に溜まっ(魚の夢)のイメージは鮮烈である。鷲谷の底にある井戸は、こうして夜ごとに滴る詩情を汲み上げる水脈となる


もう一人の私を夢想し、あるいは有り得たかもしれない私の〈標本〉を作り上げるかのような繊細な手つきで記された二章は、記憶の中の私、早逝したらしい姉の姿に重なっていく私、想像力が作り出したかもしれないもう一人の私を、こけしや張り子の人形、あみぐるみ、刺繍などの手仕事のイメージを介在させながら、情感豊かに追っていく。〈かたち〉を持った時から、〈死〉への逃れようもない道程に置かれることになる〈いきもの〉の宿命。生の一瞬の輝きを持ち帰り、ひとつの〈かたち〉へと再構成していく「標本づくり」とは、曖昧なイメージに〈かたち〉を与え、記憶の断片を物語に再編していく詩作のアナロジーでもある。


函館出身の鷲谷ならではの冬や雪の捉え方も魅力的だ。雪男や雪女を独自に捉え直し、〈いのち〉や〈かたち〉についての詩想を展開していく。全篇を通じて、卓抜な比喩が理智と詩情とを巧みに結びつけている。


装幀も美しい。白地に砕け散るガラスの破片、その向こうに伸びる、繊細なトンボの翅脈。高島鯉水子によるデザインは、詩集の情感を見事に形象化している。


(『詩と思想』2018年6月号「100人の詩人・100冊の詩集」を読む19 より)

※ブログにアップする際、自動的に字体が変化してしまうようです。修正を試みましたがうまくいかないので、そのままにしてあります。

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by yumiko_aoki_4649 | 2018-08-20 09:05 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

柴田三吉 詩集『旅の文法』書評

 真っ白な詩集を、石の表面のような簡素なカバーがくるんでいる。詩集『旅の文法』は、三部構成の一章と、「寓話」と題された二章からなる。

 冒頭の「椎の木林」、一瞬、椎の森、と読み、木材、と読み、椎の木ばやし、と読み直した。そういえば、昔はよく「雑木林」という言葉を使った。今は縁遠くなってしまったが、こうした身近な“はやし”のイメージなのだろう。縄文時代から私たちが食べ続けて来た椎の実を冒頭に置くことの意味を考える。地域の運動会の折に、幼児だった子どもたちと一緒に拾って、生のまま椎の実をかじったりもした(腹を壊したらどうする、と後で夫に怒られたが)。昔から私たちの糧になってきた椎の実。〈山のふもとの椎の木林で/かなしい を見つけた〉その隣では〈さびしい と/いたいたしい が見つかる〉。詩人は〈植物博士は椎の木の新種だという〉と、ユーモラスに記すのだが・・・〈やさしい は/おかしい は/うれしい はどこに と/さがし歩くひとびと〉と続く作品に、現在の日本の情景と柴田の想いが透けてみえる。

 続いて置かれた「創世記」は、除染、という言葉を一言も使わずに、除染へのやりきれない思いを綴っている。〈地面をはがす・・・ご先祖さまの魂まで袋に詰められた・・・なくなった地面に歴史を置く場所はありません〉という詩句に、被災地への深い共感と静かな怒りがにじむ。すべてを剥ぎ取られた土地で、新たに歴史を刻んでいく、ということの重さを、〈ただひとり〉という孤独を感じている者に、負わせてしまってよいわけがない。でも、私達に何ができるのだろう・・・・・・ただ、自問自答する他ない虚しさ。「やがて沸騰し」は、被災地での(まだ余震が続く中での)火葬場での光景を描いている。ここでも具体的な地名は一切出てこない。参列者と思しき語り手の最後の言葉、〈私はまだ悲しみに届かない〉という一節が響く。「靴を洗う」この作品でも、被災地の固有名は現れない。しかし記されないことによって、今私たちの居る場所が、〈その地〉にもなり得る、そのことをあぶりだしているような気がした。柴田が実際に被災地を訪れた時の体験を記したこの作品では、靴に付いた〈こまかい土〉〈見えないものを含んだ土〉を洗い落とし、〈見えないものが付着した髪を丹念に洗い/つねとは異なる泡を流す〉その泡を海へと続く排水口へと流す行為について、詩人は〈暗い家の中 灯りをともし/小さな影を映すわたしは/罪を犯したのか〉と省みる。灯りはもちろん、電気の恩恵である。文明の享受と、そのあまりにも大きい代償への想い。2014年公刊の『角度』でも、被災地への深い共感を綴っていた柴田。一部の最後に置いた「ズーム」は、グーグルの航空写真をズームして、被災地にある〈百年前、父が生まれた家〉を探し出すところから始まる。ルーツを〈その地〉に持つ詩人の心の旅。

 二部は、〈朝 台風が二つ釣れたので/目玉焼きにしてたべました〉というユーモラスな書き出しの「絵日記」で幕を開ける。群れ飛ぶ飛行機を〈ねずみ色のトンボ〉に喩え、ひとまたぎで空からサンゴ礁の島々まで足を踏み入れる見えざる存在は、青空や入道雲のような姿をしているのかもしれない。子どものようなあどけない文体で、千年をほんのひとときと見る天界の幼子が綴る絵日記。この島々は琉球弧なのだろう、続いて置かれた「沖縄」は、ストレートな題名と共に沖縄の背負う歴史そのものを体現するかのような老婆が登場する。

〈老婆の影のなかに/死者がひしめいている//影から這い出そうとする/濡れた手や足/そのたび 鎌のような日差しが/カッと照りつけては はみ出たものを/刈り取っていく・・・白くまばゆいサンゴの浜にも/死者はひしめいているが/日差しはなお激しく/だれも 地上に/這い出すことができない〉

 この詩を読んで、私自身が沖縄を訪れた時に感じた体感――葉陰や物陰から、誰かが、何かが見ている、そこに居る、ふとした折に手を伸ばしてくる、でも、なぜか怖さや不気味さは感じない、むしろ包まれるような温かさすら感じる、という不思議な“感じ”・・・・・・恐らく、事前に学んだことや、沖縄戦の資料館を訪れた時の衝撃、今でも畑を掘り返すと人骨が出て来る、というタクシードライバーの話を聞いたことも影響しているだろうと思うのだが、沖縄で体感した不思議な感覚――が、沖縄を体現するような老婆のシルエットと、目に痛いほど白く輝く骨片を敷き詰めたような浜辺との対比の中に描かれているように感じた。

 「大根だかゴボウだか」は、〈あしたから大根の引っこ抜きやな〉という若い男のつぶやきから始まる。〈大根じゃないさ ゴボウだよ/手もなくするっと抜けるさ〉本土から辺野古に集まる市民を排除する役割を担わされた青年たちなのだろう。人を、あえて人と思わないようにして、任務を果たそうとする。〈その夜 男は打ちひしがれ/かたい寝床で丸くなった//(島を引き抜くような重さだったじゃないか)//手のひらから引かない脂じみた汗/怒りには慣れているが/悲しみはつかんだことがなかった〉と締めくくられるこの作品は、人を人とも思わないように仕向ける権力構造が林立させた“椎の木”への、人間としての想いを綴っているように思われてならなかった。

 沖縄をテーマに編まれた二部に続いて、三部は朝鮮半島を旅した時の印象が主題となる。表題作の「旅の文法」は、〈はじめて訪れるとき/ただひとつの文法を覚えていった//トイレはどこですか//知らなくても死にはしないが・・・けれど忘れると/いのちにかかわることもある〉詩人は「トイレ」という一語を〈寒さをしのぐテント/かわきを癒す井戸 シェルターは/境界線はどこですか〉と応用しつつ、現状への想いを綴る。万人が必要とするトイレ。生理現象には国境も国益も主義主張も関係ない。同じ人間同志が、境界線を設け、いがみ合う切なさ。

 〈バス亭の向こうは/見渡すかぎりのトウガラシ畑/熟れた実が風に揺れ/夕日に燃える雲のようだ//かつて千の塔 千の石仏が/この野に満ちていたという〉という印象的な光景から始まる「雲住寺」では、老人が〈草むらに散らばる石くれを指さし、古い日本語で教えてくれ〉たことが、そのまま記されている。老人の日本語は、併合以来、“国語”として覚えさせられた言語でもある。〈これも仏、あれも仏、トヨトミの軍勢が壊していったのですよ。〉詩人の想いは、露わに語られることはない。しかしかの地で出された冷麺を、〈石仏の血管のような麺を/喉に詰まらせながら〉食したという行為の中に、そして、〈トウガラシをまぶされた/全羅南道の ひりひりした夏〉と感じ取った肌感覚の中にひっそりと保存され、読み手に静かに手渡される。

 二章には、柴田が社会や歴史に対する時の思いを寓話の世界に昇華して綴った作品が収められている。日常生活とからめたユーモラスな作品もあるが、「何者でもないわたしが」に現れる、根源的な倫理に触れていくような一節に胸を突かれた。〈だれもが わたしを/日本人だという なぜだろう/枝からこぼれ落ちた椎の実のように/この地の養分によって/根を伸ばしたからか・・・あの全さん あの楊さんから/額を指さされたならば/わたしは日本人であることを/引き受けなければならない・・・ひざを折って死者たちに/祈りを捧げなければならないだろう//人が 人を赦すまで/人が 人に赦されるまで〉

 柴田ひとりが負わねばならない罪ではない。しかし、私達ひとりひとりが、日本人である限り、自覚し、引き受けねばならないことであるに相違ない。その自覚を持って、死者に祈りを捧げること。互いに歴史と思いを知り、そして、赦しあう、ことにしか、道は求められないだろう。

 互いに赦しあうまで、祈り続ける。詩を綴ることは、祈りでもある。


                     『旅の文法』ジャンクション・ハーベスト刊 2018.5.20.


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by yumiko_aoki_4649 | 2018-08-10 09:17 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

岡島弘子 詩集『洋裁師の恋』書評

 格子柄のひと区画に、小さなボッブルを並べてドット模様を織り出したような、味わいある布地・・・・・・を白いトレーシングペーパーに印刷した、紗幕のようなカバーをそっとめくる。木漏れ日に照らされた、暖かそうなグレー地に藍と洋紅を控えめに配したストライプ紋様の前身ごろが眼に飛び込んでくる。大きな黒いボタンが二つ。縦に並んでいるが、じっとこちらを見つめる瞳にも見えて来る。カバーを透かして色が仄見える美しさに、しばし見入った。カバー写真は、かつて洋裁師だった詩人が自ら仕立てた、イタリア製生地によるコートだという。

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 冒頭の「息をする」は、明るい窓際で洋裁にいそしむ作者の指先が、ボタンを取り上げるところから始まる。縫っているのはやわらかなブラウス、ボタンは虹色に光を反射する貝ボタン。〈光と風の中から つまみあげると/息を吹きかえすボタン・・・あふれそうなものを おしとどめるように/きえ入りそうなものをひきとめるように/さいごの糸をむすび切ると/その旅をおえて/ボタンはブラウスの一部となる〉。ボタンが、ボタンとしての役割を果たすために布地に縫い付けられていく行為を綴るのではなく、その時にボタンがかすかに繰り返す息づかいに気付き、耳を澄ませる繊細さに心惹かれた。

 ボタンはこれから、どのような人生ならぬボタン生を送ることになるのだろう。きっとドキドキしながら、糸穴をくぐる針と糸の動きに身を固くしているに相違ない。それは、見えざる手で地上へと取り上げられ、一枚の布という一つの場所に縫い留められていく、人の一生に似ている。様々な糸(意図)がボタンの身の内をくぐり抜け、布地に固定されていく過程を経て、〈ボタンはブラウスの一部となる〉。それは幼少期から思春期を経て、様々な刺激を経験しながらやがて一つの家庭という場所、洋裁師としての/詩人としての“仕事の場”を得て自分の生を生き始める、そんなしなやかな女性の一生にも見えてくる。

 ブラウスの一部となったボタン(成人して、自らの生を生き始めたボタン)は、想いの宿るバストをつつみ、その魅力をアピールし、時には〈いつかボタンをはずしにくる 誰かの指を想って/また息をする〉。まとうものを越えて、想いに触れようとする人との出会い、それこそが、恋を待つ心情であり、期待でもあるだろう。〈ボタンが守るものは/女体のかたちをしたみず/そして息をひとつ またひとつ/ボタンは貝であったころの/うみの呼吸をとりもどす〉。自分のルーツに想いを馳せながら、自由にのびのびと息をしているボタンが守っているもの、それは、〈女体のかたちをしたみず〉だという。想いの宿る肉体は、6割から7割が水で出来ている。そうした科学的事実だけではなく、水の詩人、と呼ばれた岡島自身の詩の肉体、その〈かたち〉を守るボタンというイメージも重なっていく。詩のテクストという表層に散りばめられた、言葉というボタン。自由に息づくボタンをそっと外すと、行間や詩行の奥に包まれた詩の肉体に、触れることができるのかもしれない。

 洋裁師という名にふさわしく、洋裁の道具や小物、手仕事の実際に即した、リアリティーのある豊かな比喩が印象に残る。〈空のすそをレースでかざり/刺繍するようなクモの糸〉(「絹糸となるところまで」)。長年、〈わたしの全生涯をかけた重み〉を支えて来た足の裏を〈たいおんといのちのほてりをもったアイロンにかえて〉様々な歪みやよじれ、皺のよった日々の思いを静かに伸ばしていくような、大地を踏みしめながら立つ女性の力をも感じさせる「アイロン」。〈ミシン針のようなあめがおちてきた〉あるいは〈やまない運針に/よすみがかがりつけられる〉という表現がインパクトを持って迫って来る「カサをわすれて」では、激しい雨に降り籠められて動きが取れない様と、鋭く心身を打つ言葉や運命に逃げ場もなく刺し貫かれていく心のイメージが重なっていく。多彩な緑に彩られる大地を色とりどりのパッチワークにたとえ、〈昼のさき/太陽のかげ〉に、見えないはずの〈たくさんの星〉を感じ取る心が見た景を〈刺繍でいっぱいの空〉にたとえる「パッチワークと刺繍」は、見るもの感じるものがすべて新鮮で輝いていた子どもの頃の視線と、洋裁を身に着け、目に見える行為の背後に見えない世界を感じ取る詩人の視点をも持つようになった大人の視線との双方が溶け合って生まれた作品であるように思う。

 〈にげまわる布はおさえ/ふたしかなものはばっさり裁つ/カーブとふくらみ/あまやかなものは裁ちバサミの先端からうまれる〉〈バラバラだったものはまとめ/反発しあうものどうしをひきよせ/待ち針でとめる/しつけ糸でしばる〉・・・たとえば「ドレスができるまで」に、リズミカルに細やかに記された手仕事の描写は、人生で出会う様々なシチュエーションで詩人がどのように対処して来たか、という人生の物語のメタファーともなっている。「ビリでも」など、ミシンの物音に〈うた〉を聴き取り、そこから意味を読み取っていくユーモラスな擬音が楽しい作品もある。このような、洋裁という行為から新たな意味を読み取っていく感性や「言葉」に対する鋭敏さが、ひとりの少女、ひとりの女性を詩人へと誘ったのだろう。

 風にそよぐ木々のさやぎを聴いて、〈樹々は自分の本当の名前を/空に届けようと/くちぐちにさわいでいる〉と感じ取る詩人は、対比するように〈私は私の/本当の名前に出会えない/本当の物語をまだ読みおえていない〉と静かな、しかし強い決意をにじませる。〈風の指が私を忙しくめくっていく/私からこぼれたおびただしい言葉を/風はとても正しく読んでいく〉。一冊の本、あるいは言の葉をまとう一本の木である〈私〉。その〈私〉から知らぬ間にこぼれ落ちていく無数の言の葉、風は正しく読んでいるのに、〈私〉自身が知らない、というその言葉を、たとえば草陰から飛び立つ羽虫のように、あるいは風に種を飛ばすアザミの冠毛のように、詩人は投げ上げ、捉え直そうとする(「本当の名前」、「空をすこしください」)。はじめて詩を投稿した時の思いをつづった「洋裁師の恋」の中に、〈つかんだ詩のことばをかきあつめては/キリキリふりしぼって命中させていた/投稿欄〉というフレーズがあった。いつのまにか、〈私〉からこぼれ落ちて行ったことばを、洋服を仕立てるように、〈切れた糸で 曲がった針で/刃こぼれの裁ちバサミで/詩をつむぎ仕立てはじめた〉詩人。集中には、タイトルにふさわしく、仄かな初恋の思い出、失恋、生涯を決定づけるような大切な人との出会いなども綴られている。しかし、その中でも最も長く続く恋は、〈ことばへの憧れ〉であったのかもしれない。

 「雪」「水と駆ける」「はかりしれない水のゆくえ」と続く流れ、そして〈水にゆるされて・・・この星をはなれようとしている兄〉への思いをつづった「いのちの春」、〈天の一滴を待って/点滴につながれ私も植物になる・・・水がせせらぎとなって幹をめぐり/一滴 一秒 一滴 一秒 としずくが/私をおとずれる〉のを鋭敏に感じ取り、〈いのちの一滴を待ちながら/点滴の管をたぐると/そのむこうに父の気配〉を幻視する「天のひとつぶ」などが、読み終えた後も深く心に残った。詩を生み出す体を〈女体のかたちをしたみず〉と捉える詩人の、水への思いがみずみずしく溢れている。

 最後に置かれた作品、「もうすぐバスがくる」は、〈ふりそそぐものを太い胴で押して/もうすぐバスがくる〉と始まり、赤ん坊から老人までの待合客に命の時間を重ねながら〈私は私一人をささえるために/私によりかかって待っている//雪にかわる前の雨を押して/もうすぐバスがくる〉と締めくくられる。詩人にいのちを与え続けた〈天のひとつぶ〉のように、静かにふりそそぐ水。天と地を結ぶ雨は、押しのけられるものとして、今はやわらかくそこにある。いつかミシン針となって降り注いだ雨のように激しく身を刺すことは、もはやない、というかのように。

『洋裁師の恋』思潮社 2018.7.1.


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by yumiko_aoki_4649 | 2018-08-09 11:21 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

麻生直子 詩集『端境の海』書評

 小雪の舞う冬の原野に、黒地に青のグラデーションを響かせたアイヌ紋様刺繍が浮かび上がる。色味の異なる二種類の白で腰から下をキリリと締めたような美しい表紙カバー。中央にほうっと神秘的な光がにじみ出しているような作品は、チカップ美恵子の「シンルシ/苔」という作品だという。

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 端境(はざかい)と書いて、ハキョウ、と読ませる。破鏡にも通じる凛とした響きの美しさと、なにかが現れ出るような、海の狭間。分かたれた二者が、海のゆらぎの内に再び出逢う、その場所であるのだろうか。

 

 詩集は「死者は仮面をかぶって逝く」という作品から始まる。〈死者は仮面をかぶって逝く/だれもが/やすらかなほほえみさえ浮かべていたという〉死者のかぶる仮面とは何か。〈やすらかなほほえみ〉を浮かべているのは、恐らくは死者であろうけれども・・・そのほほえみが仮面なのか。二連目の一節〈視る意識は/生きているひとのものだ〉が胸にずしんと落ちて来る。死者がほほえみを浮かべて逝った、と〈視る意識〉は、遺された者がそう願うゆえの幻想なのだろうか。あるいは死者の側から見た時、遺る者たちが皆、〈やすらかなほほえみさえ〉浮かべていた、というのか・・・。生きているひと、遺されるひとが〈見失い/見捨てた父や母や子を/その関係の糸のなかで囲いこみ/とむらいの冷気を黒衣で曳いていく・・・わたしたちとあなたたち/わたしとあなたが/無関係をよそおっている無表情な仮面を/仮面のなかでつちかわれた想像力を〉ここで、断ち切られるように二連は途切れ、詩は大きく広がっていく。〈棄民の時代〉に響くモンゴルの民謡、〈惨死を生きた死者たち〉へ、〈わたしたちとあなたたち〉へとゆるやかに、しかし研いだ刃を返すような鋭い一閃を差し込ませながら。

 〈視る意識は/生きているひとのものだ〉〈祈りの安息は祈るひとのものだ/それが生前あなたがしてきたことだ/あなたたちとわたしたちがしてきたことだ〉読者である“私”にも、まっすぐに差し入って来る言葉。それは、生者が死者の側に立って、そこから生者を見据える言葉だ。生者の中には、この詩を書いている自らが真っ先に含まれるだろう。死者と生者が、相互に傷つかぬよう、間に置いて来たやわらかな隔たりは、実際には生者が己の心を鎮めるために偽装したなにか、ではなかったか。〈共生をうたいながら/きょうも 未成のぎまんの物腰で/死者に仮面をかぶせないで〉。まっすぐな祈りの言葉は、願いであり、〈仮面〉をかぶせてきたわたしたちへの告発でもある。個々の家族の死者と生者の間にもある“なにか”は、天災の被災者と為政者、内乱や戦乱の被害者と権力者、虐げられた人々と虐げる者たちとの間にも存在する。両者を隔て、死者に無理やりかぶせられてきた仮面を、この詩の歌い手は取り外そうとする。〈死者の黙示を/かたりえるひととなる/そのひとのこえとともに〉。最終連に記されるのは、自らが語り得る人にならねば、という強い意識であると同時に、自分を越えた何者かの訪れに寄り添い、〈そのひとのこえとともに〉この詩集の詩を紡いでいこう、という想いなのではなかろうか。

 

 詩集は三部構成となっていて、一部には麻生自身の思い出が色濃く反映されている。別れや喪失と遭遇した時、ひとりで旅をする〈冬の波濤が風笛を吹いていた〉北の町(「雪の道」)。それは、かつては母が待っていてくれた、そして今はもう、誰も待つ人のない、故郷の町であるのかもしれない。ふとしたきっかけで湧出する、許すことの出来ない父への思い。〈わたしのかなしみを葬るために/時鳥のように/旅枕に姿をあらわず母がいる〉それは、旅先の追憶の中で、先に逝ったはずの母が思いがけず身近に現れた時の想いであり、死者が生者の悲しみを鎮魂する為に訪れてくれるという逆転に気付いた瞬間でもある(「風祀り」)。結婚が破談となった時も、母は何も語らぬうちからすべてを察して待っていてくれた。上京する際、その母を捨てた、という思いが、ことあるごとに詩人を責め立てていたのかもしれない。積年の思いは幻想の砂塵となって詩人を埋め尽くそうとする。

 だが故郷は、そうした様々な思いを受け止め、〈だれもかれもごっちゃになって戻ってくる〉いつか帰りつく場所、静かに待っていてくれる場所、〈心の在り処〉であり続けている。そんな故郷へ、詩人は〈美しいものをみるときは/いつも慕わしい人を憶いましょう〉と歌いかける(「姥神まつりのころ」「江差のうた歳時記より」「江差港へ」)。思う、でもなく、想う、でもなく、追憶の憶う、を当てる繊細さの中に、先に逝った慕わしい人々への想いが込められているように感じた。

 沖縄、韓国での体験や想いを歌った詩から始まる二部は、二つの世界が触れ合った瞬間・・・まさに、端境で感じ取った想いを書き留めた作品が収められている。外海と内海がせめぎ合う、その場所からやって来た人が手渡してくれた〈貝殻骨〉は、〈精緻なセンサー〉になる、という。それは詩人が身に供えておくべき感覚であるのかもしれない。天の川で隔てられた二人を出会わせるカササギは、韓国ではカンチェギと呼ばれるとのこと。詩人のふるさと、奥尻島でも、中国でも、インドでも輝きを放つ螢たち。アイヌ語ではぺカンペ、ベンガル地方ではパニ・フォルと呼ばれる菱の実を、万葉のうた人もまた、歌に残していること・・・国、文化、時空を隔てているものが、名前を通じて出会った瞬間に生じる感慨を捉える〈精緻なセンサー〉こそが、人に詩を書かせるのかもしれない。このセンサーは、亡き人(の気配)が訪れた瞬間をもとらえる。(「フィリリリ フィリリリ」、「供花の庭」)。集中、「今日、首を切られる黒山羊のために」という詩は、迫力に息をのんだ。〈今日、首を切られるちいさな黒山羊のために/尻込みして/足を踏ん張っているのはわたしだ〉インドのカーリー女神を祀る神殿で、実際の供儀に参会した時の作品だろうか。食事もまた、自らの身を養う生贄である、という意識を、日々、私達はどれほどに抱いているか。その私たちもまた、天災や自然の摂理、宿命によって、いつか供されることになるやもしれない。いずれにせよ、地上の生は必ず終焉する。その時までをどう生きるのか。〈わたしがわたしであるために/斧を見上げる〉という終行が深く心に残った。

 「亀裂に棲む蟹の哀歌」で始まる三部は、生者と死者、現世と異界、現実界と想像力、覚醒と夢想の世界とを隔てる端境・・・その亀裂の中に身を置いて語りだされた作品と言ってもよいかもしれない。「悪魔の排泄物」は想像力の世界で生きのびて来た〈妖怪と魔物〉についてユーモラスに書き出されるが、現実界において〈人や物にとりつく/無色透明な憑き物が確かにいる/確かに存在することを見に行かないだけだ〉という鋭い指摘から〈積み重なって折重なって増殖し/犇(ひし)めいている黒の物体(フレコンバック)が丘陵をなしている〉光景に行き当たると、私達が知らぬ間に憑りつかせてきてしまったもの――経済偏重、生産性讃美の風潮――が寒々しく身に迫って来る。それを、クーラーの効いた部屋で、文明の恩恵を享受しながらパソコンに向かっている私の矛盾も、ひとつの憑き物であるには相違ないのだが・・・。

 最後に、あとがきのように置かれた「母と漁火」が、静かに明るい光を残してくれた。子どもの頃は、男たちにまじって危険な海に出て働く母への想いが、心配や恐れ、哀しみとなって詩人の胸を占めていたらしい。それは詩人の生まれ持った強い共感力によるものでもあろう。船酔い、重労働、心細さ、そうした母の辛苦を思い遣って、小さな胸を痛めていた少女が、やがて八十歳の母を伴って故郷を訪れた時、母と共に働いていた、という人の話を聞く。〈大漁の日は、男たちに敵わないが、漁の少ない日は、お母さんが一番多くイカを獲って、自慢をする明るい人だった。いつも懸命に働いていたよと、話してくれた。〉淋しく、辛いばかりではない、懸命に明るく、誇らしく働いていた母の姿。それは、自身も母とは別の、しかし時に同様の苦労を経験し、懸命に生きて来たからこそ、実感できた喜びであったのかもしれない。“私”の知る母と知らない母とが、端境の海で静かに溶け合う。そこに生まれた安堵。〈わたしとあなた〉の記憶が巡りあう場所・・・それが、端境の海であるのかもしれない。

                                  『端境の海』思潮社 2018.6.30


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by yumiko_aoki_4649 | 2018-08-08 13:10 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

上手宰 詩集『しおり紐のしまい方』書評

 皺を与えた和紙に藍の染料を沁み込ませたような表紙カバーをめくると、鮮烈な赤が眼に飛び込んでくる。着物の裏地の紅絹のようなひとすじの艶やかさ。着物の重ねのように、藍、白、赤を重ねた色合いは、和風のトリコロールとでも名付けたくなる。

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 巻頭に置かれた「詩集」は、〈紙を繰る音がきこえる/誰かが私を読んでいるのだ〉と始まる。詩集自らが、読まれることについて語っているのだ。〈広げられた見開きだけが「今」を生き〉〈灯火の下 文字たちは/煮え立つ料理のように香りたち〉やさしく音を響かせながら、読まれること(呼ばれること)によって生き始める詩集のいのち、読む人に滋味を与え、滋養となっていく文字たちの連なりそのものについて、想いを綴っていく。〈書いた人がいなくなってから/ほんとうの本の命は始まるのだが/無言でうずくまり続ける私の暗がりに/誰かが訪れて灯をともすことなどあるのだろうか〉詩集の中に眠る言葉が、心の暗がりに灯をともしてくれる・・・と考えることはしばしばある。道行きを照らしてくれる、と思うこともある。その逆の発想をしたことがなかった。読むことと読まれることが、相互補完的に互いを生かし合う。詩集たちへの深い愛が、逆照射する視座を上手に与えたのだろうか。

 

 一章の冒頭に置かれた「鹿鳴」は、〈嘘はその場で食べてしまえばおいしく終わるが/丹精して育てればこの世を豊かにする〉と、ユーモラスな箴言風に始まる。〈嘘はこの世に実在しない物体なので/柔らかさが夢と似ている〉と続く詩は、上手の詩論を歌っているといえるだろう。虚構、フィクションは、乱暴に扱えば破れたり壊れたりしてしまうような“なにか”を、自分で作りだし、心を込めて育てていくものなのだ。そうすべきもの、という厳しい規定ではなく、その場で〈食べて〉終わりにするのも“おいしい”けれど、丹精込めて育てて行けば、世の中を豊かにするもの。そして、上手は詩を〈嘘を植えても育たない砂漠というところへ/私はこれから行こうと思っている〉と締めくくる。詩の言葉、世の中を豊かにしてくれる美しいフィクションのタネを、砂漠に踏み入って蒔き育てていく行為。殺伐とした世の中に、上手は詩のタネ、詩の心を蒔きに行こうとしている。続いて置かれた「言葉のすみか」では、自分の口から生まれ、そこから旅立ってどこかに住みつく言葉の行く末に想いを馳せる。上手にとって言葉は、人から発するとしてもその後は独自の命を持ち、人の生から離れて生き続けるものなのだ。

 

 〈私がむかし愛したあらゆる人たちの顔が〉〈あなた〉となってうずくまっているのに出会ってしまう「帰宅途中」は、〈夕暮れが私に来た〉という印象的な書き出しも含めて、人生の夕暮れが訪れようとする時と二重写しになっている。〈そうして今日も 家にたどり着けない/夕暮れが私にやってくると/顔の見えない影と/ずっと話をし続けなくてはならない〉人間が、最後にほんとうに帰り着くべき家、とは、どこにあるのだろう。突然やってくる追憶に、そこに留まっていてはいけない、と諭しながら、上手は共に歩み始めるのだが・・・かといって、帰りつく家が明確に見えているわけでもない。この詩を読んで思い出した一節がある。私が愛読している伊東静雄の、〈鳥の飛翔の跡を天空(そら)にさがすな/夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな/手にふるる野花はそれを摘み/花とみづからをささへつつ歩みを運べ/問ひはそのままに答へであり/堪える痛みもすでにひとつの睡眠(ねむり)だ〉だった。

 上手の詩集では、共に歩み続ける「帰宅途中」の次に、「どこにも行けないもの」という神話のような、昔話のようなファンタジックな佳品が置かれている。〈空が大地を生んだとき/高いところから落としたので/足がこわれてしまった〉それゆえ大地は、どこにも行けずにうずくまったまま。(リルケの『神様の話』の中で、天から制作途上で落とされてしまった人間のことを思い出したりもした。)そこで生まれ育った草木は、動けない大地に替わって(その憧れを代弁するかのように)天空へと伸び、鳥たちは空へと飛び立とうとする・・・そんなある日、大地から生まれた朝露(とはむろん、人間のことでもある)は、小鳥に〈空高く私を連れて行っておくれ/私もまた 空から生まれた者なのだから〉と頼む。あらゆる命は〈どこにも行けない大地の上に〉〈雪のように〉降りしきる他ないのだが・・・それを知っているからこそ、命を与えられたものは、天へと向かわずにはいられないのだ。自身の生まれ故郷を目指して。そしてそこが、恐らくほんとうに帰るべき家、なのだろう。

 

 対岸(彼岸、此岸)という空間性を重ねつつ、人と人との関りについて、その思いの疎通を隔てるなにか、を水の流れに仮託していく「向こう岸」、〈罪〉と〈罰〉の関係を、人と小犬の追いかけっこのようなユーモラスな情景に引き写してみる「罪のひとつも」など、易しく優しい言葉の中に、象徴性を潜ませる作品が上手には多い。〈本を閉じるとき〉と人生の終りとを重ねつつ、〈しおり紐の付いた本は/疲れたらどこでも休みなさいと/木陰をもつ森のようだ〉と優しく始まる表題作は、がむしゃらに生き抜くべきだ、というような前のめりの人生訓ではなく、〈自分の物語を読み終えたとき 生は閉じられる〉のだから、時々しおり紐を挟んで、休みたいときには休んでもいい。ゆっくり、自分のペースで人生を歩きとおせばいいんだよ、と自分や読者に呼びかける柔らかさを持っている。そして、いつか突然・・・しおり紐が挟まれたまま、その生を閉じる時が来ても、きっとまた、誰かがその生を開いて読むときが来る。その開かれた場所で、物語の綴り手の命がそのとき、束の間の生を得るのだ。

 

 日常の生活の中から生まれた詩情を丁寧に拾い上げていく二章の最後に置かれた、ファンタジーのような2篇「宛名は「あなた」」、「貴婦人」も印象深かった。想いを伝える先、想いを届ける相手、その〈あなた〉は、人生の折々に出会ったたくさんの“あなた方”の中に、現れては消える人、であり、いつか出会うことを切実に願いながら、決して果たせない誰か、であるのかもしれない。憧憬が文字となって〈あなた〉へと向かうとき、詩が生まれるのであれば・・・詩は辿り着き得ぬ誰かに向かって綴られ続ける文字、ではないのか。

 

 〈戦争に反対して詩人たちが集まって/いったい何ができただろう/言葉にわずかな命を吹き込むこと以外に――〉という感慨と共に社会的な視点を踏まえた作品を三章に置いているが、人を一樹になぞらえた「きのうの樹」、〈問いは答えを招き寄せようとして/違う新たな問いばかり集めてしまう〉と始まる「やり直し」、目に見えぬ〈あなた〉が、〈やさしい大工しごと〉のように心の〈歪み〉の整え方を教えてくれた、という「木づち」の、童話のような優しさと美しさが心に残った。詩集に付けられた真っ赤なしおり紐を、どこに挟み込もう・・・読み終えた今、しおり紐の「しまい方」が新たな問いを産んでいる。


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by yumiko_aoki_4649 | 2018-08-03 13:52 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
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