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伊東静雄ノート 7

昭和十八年刊行の『春のいそぎ』から少し離れて、昭和十五年刊行の『夏花』収載の詩を見てきた。先行きの見えない日中戦争、詩友たちの死――濃度を増していく不安の中で、それでも昭和十五年の初めごろに生まれ、『春のいそぎ』に収録されることになった「小曲」や「誕生日の即興歌」は、子供への温かい眼差しによって光彩を放っている。家庭詩、生活詩として、重視されることの少なかった作品だが、光に注目して鑑賞する時、闇に光を点じていくような配置が、詩集そのものの余韻となって深い印象を残す。

静雄の憂慮が現れた「わが家はいよいよ小さし」や、迫りくる破滅の予感に対峙する「夏の終」の後に置かれた「螢」は(ノート5で見たように)子供の看病の不安の中で生れた作品だが・・・情景として見るならば、重苦しい湿った闇に仄かな明るさを点ずる蛍の光、その捉え難いもどかしさが〈美〉として描きとられている。続いて置かれた「小曲」は、明方の光の中で、夜道を金の光で照らした燈火の美しさを回想する歌である。しかもその歌は、〈子供がうたふ をさな歌〉であるという。その景を想う時、私は吉原幸子の詩の一節を思い出すにはいられない。


とほいゆきやまがゆふひにあかくそまる

きよいかはぎしのどのいしにもののとりがぢつととまつて

をさなごがふたりすんだそぷらのでうたつてゐる

わたしはまもなくしんでゆくのに

せかいがこんなにうつくしくては こまる


明方と夕方、時間帯が異なるのは、自らを取り巻く世界の〝夜明け〟を願う詩人と、世界への哀惜を歌う詩人という、スタンスの差異であるのかもしれない。いずれにせよ、子供の澄んだ歌声に二人の詩人は〈美〉を感じ、そこに詩情を覚えている。

昭和十八年の時点で、明るい未来の願いを子供に託すような詩を詩集の最後に置いた静雄の想いはどのようなものだったのだろう。単純な逆編年体による詩集の編成とは異なる、深い意図が込められているのではなかろうか。子供の歌の響く「小曲」の後に置かれた「誕生日の即興歌」を、詳しく見ていきながら、そのことについて考えてみたい。冬の嵐に翻弄される小さな〈わが家〉で、愛娘に呼びかけるざれ歌、という趣向の詩である。


くらい 西の()(すみ)に 翻筋斗(もんどり)うつて そこいらに もつるる あの響 樹々の(さけ)と 警むる 草のしつ(・・)しつ(・・) よひ毎に 吹き()る風の けふいく夜 何処(いづこ)り来て あゝにぎはしや わがいのち 生くるいはひ まあ(・・)()や この父の為 (ともしび)さげて 折つて来い 隣家(となり)の ひと住まぬ (まがき)のうちの かの山茶花の枝 いや いや 闇のお化けや 風の胴間声 それさへ 怖くないのなら (とが)むるひとの あるものか 寧ろまあ(・・)() こよひ わが祝ひに あの花のこころを 言はうなら「あゝかくて 誰がために 咲きつぐわれぞ」 さあ 折つておいで まあ(・・)()

自註 まあ(・・)()はわが女の子の愛称。私の誕生日は十二月十日。この頃、海から吹上ぐる西風烈しく、丘陵の斜面に在るわが家は動揺して、眠られぬ夜が屡々である。家の裏は、籬で隣家の大きな庭園に続いてゐて、もう永くひとが住んでゐない。一坪の庭もない私は、暖い日にはよくこつそり侵入して、そこの荒れた草木の姿を写生する。


 長歌のようでありながら、自由にリズムを崩し、しかも完全に散文とはならないところで踏みとどまる。乱拍子の囃子唄のような不思議なリズムが、全篇を支配している。警むる、は、いましむる、と読むのだろうか。木々は叫び、草は軋むようにうめいている。

風当たりの強い丘の中腹にある静雄の家は、さほど大きくはない借家であった。訪れた学生に、寒いので(外套を脱がず)そのままで、と促したという話もある。風雨の度に烈しく家鳴りし、冬場は隙間風も吹き込む厳しさがあったろう。嵐の中で、〈あゝにぎはしや わがいのち〉というように〝生〟を実感する静雄の姿は、夏場の台風、野分の際にも見出される。

『夏花』所収の「野分に寄す」は、〈野分の夜半(よは)こそ(たの)しけれ〉と始まり、〈真に独りなるひとは自然の大いなる連関のうちに/(つね)に覚めゐむことを(ねが)ふ〉という哲学的箴言――一時の生(個々の人生)を永続の生(自然の命の循環、リルケの宇宙生命的な生や、禅や老荘思想における東洋的な生)の中に見る、覚者としての眼差しを願う心――を挟み、嵐に翻弄されて落果する葡萄や、地に叩きつけられる菊や薔薇の短い生を想いながら〈(もの)(みな)の凋落の季節(とき)をえらびて咲き出でし/あはれ汝らが(ほこり)高かる心〉を称える。嵐の〝時〟に生まれてしまったことを嘆くのではなく、自らこの〝時〟を選んだのだ、滅ぼされるのではなく、自ら滅ぶのだ、という、受動ではなく能動の生への転換、と言い換えてもいいだろう。そして、〈こころ賑はしきかな〉〈野分よさらば駆けゆけ〉と詩は閉じられる。花たちよ、滅ぶなら滅びよ、嵐よ、吹くならば吹け!と、意味としては反語的に、語調としては極めてパセティックに展開する「野分に寄す」は、『春のいそぎ』の「誕生日の即興歌」の予兆であり、即興歌は季節を反転させたものともいえる。

もちろん〝滅び〟を運命づけられた生を、いかに受容するか、という当時の若者たちが直面していた実存的問いに対して、たとえいかなる末路が控えていようとも、雄々しく斃れゆく〝英雄的生〟に悲壮な美を見出そうとする、ロマンティシズム――不安や苦悩による生の断念や放棄ではなく、短くとも烈しい生を受容し、肯定しようとした日本浪漫派のパトス(中でも保田与重郎の思想)が、戦場に向かう青年たちを鼓舞することになった過去の歴史を、忘れるわけにはいかない。その過去を二度と再来させないために、当時の青年たちの想いを辿り直し、私たちの未来への反省とするために、私は今、この稿を書いている。

パセティックな情動そのものは、人生の艱難に際して生きる事にくじけそうになっている人々にとって、今もなお魅力的である。情熱を燃やし続ける、ということ、生きる実感を得る、ということ。心が折れそうになるわたし、生を逃避したい、と死へ惹かれていくわたし。その背を押し、手を取って〝生〟の方向へ力強く引き戻してくれる情動を喚起するもの。そうした、詩情の在り方が、静雄の詩のひとつの魅力となっていることは否めない。そして、その魅力は普遍的なものでもあろう。そうした威力を持つものであるからこそ、過去の戦争でもロマン派の芸術(特に英雄的生のイメージ)は権力者によって〝利用〟された。その苦い過去の反省に立って、二度とそうならないように注意深く目を注ぎながら、生の鼓舞者としての詩情そのものは大切に受け継いでいきたい、と私は思っている。

浪漫派的詩情が歪められた理由は、個々の生の価値探求を否定し、公(戦時においては国家)の為に滅私奉公する生にのみ生きる価値がある、という壮大な欺瞞の中に回収されていったからであろう。静雄は、果たしてその国家的欺瞞の中に、どのようにして呑みこまれていったのか。あるいは、どこまで染まらずに在ることができたのか。

「誕生日の即興歌」に戻ろう。暴風に翻弄される〈わが家〉で、負けじと力強く歌い返す静雄。詩人は、夜の闇と吹きすさぶ風の叫び、それが怖くさえなかったら、父である私の為に、〈(ともしび)さげて〉荒んだ無人の庭に咲いている山茶花の枝を、一枝折ってきておくれ、と愛娘に歌いかける。人が住まなくなった後も、変わることなく咲き続ける花。国破れて山河あり、城春にして草木深し――人生のはかなさと、自然の永続とに深い思いを寄せていた静雄が、山茶花の一枝を求めるのは、なぜだろう。「庭の蟬」の一節にあるように〈おれはなにか詩のやうなものを/書きたく思ひ〉ながら、なかなか思うに任せなかった静雄に、詩情をもたらすもの、詩趣を喚起させるもの、その象徴的存在として、人の住まぬ家で、冬のさなかにも咲き続ける山茶花を求めたのではなかろうか。

父が娘に、花を取って来てやる、のではない。娘に向かって、暗闇の中を灯をともして、お化けや烈風の唸りをも恐れずに、父の為に花を取ってきておくれ、と呼びかける。もちろん、これはざれ歌であって、実際に娘に命じたわけではない。しかし、暗がりで憂鬱に沈んでいる父のもとに、娘が光と共に訪れ〝花〟をもたらす、という構図は、静雄ノート1で鑑賞した「春浅き」に顕著に表れているものでもある。

〈あの花のこころを 言はうなら「あゝかくて 誰がために 咲きつぐわれぞ」〉カギかっこに収められた部分は、誰かの詩の一節なのかもしれないが、未だ確認できていない。暫定的に、強調のためのカッコとして読み進める。父が自身の誕生日に、娘に花を取ってきておくれ、と頼む。そして、その花の心は、「ああ、誰の為に私は咲き継ぐのか」なのだよ、と、父は娘に伝える。誰が為に、という問いに反語として隠されているのは君が為、でろう。花は、大切なことを〝君″に伝えるために、〈自然が與へる暗示〉として、花開くのだ――昭和十二年に『知性』に発表された「そんなに凝視めるな」において、静雄が呼びかけたように。


そんなに凝視(みつ)めるな わかい友

自然が與へる暗示は

いかにそれが光耀にみちてゐようとも

凝視めるふかい瞳にはつひに悲しみだ

鳥の飛翔の跡を天空(そら)にさがすな

夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな

手にふるる野花はそれを摘み

花とみづからをささへつつ歩みを運べ

問ひはそのままに答へであり

堪へる痛みもすでにひとつの睡眠(ねむり)

風がつたへる白い(かど)(いし)の反射を わかい友

そんなに永く凝視めるな

われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち

あゝ 歓びと意志も亦そこにあると知れ


生きる途上で出会う〝花〟、すなわち〈美〉や〝詩情〟、心に豊かさをもたらすもの・・・それらに出会ったならそれを摘み、〝花〟と共に(その花によって)自らを支えて歩み続けよ。生きるとは何か。レゾン・デートル・・・その問いの答えを求めようと焦るのではなく、むしろ問い続けることこそが生きることなのだ、その辛い歩みを支えるものこそ、途上で出会う野の花の美しさであり、砕いた大理石の煌めきのような、一瞬の輝きなのだ。その辛い歩みに堪える痛みは、問う事こそが答えであり、確たる答えなどないのだ、と気づく(覚醒する)前の、睡眠のようなものだ。

(「野分に寄す」で述べたように)人は自然の大いなる連関の内で、目覚めていることを希う。その目覚めは、(「わがひとに與ふる哀歌」で歌ったように)〈音なき空虚を/歴然と見わくる目〉を得ることでもあるだろう。それは、〈凝視(みつ)める深い瞳にはつひに悲しみ〉を与えるだけのものであるかもしれない。なぜなら、鳥の飛翔の跡や、消えていく夕陽の美しさのように、必ず消え去って行くものの痕跡を追うことは、いかなるものも永続しない、という存在の根本的な悲しみ、存在の空虚を知ることでもあるからだ。だからこそ(そのことを知ってしまった)我々は、消え去っていくものを追うのではなく、〈われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち/あゝ 歓びと意志も亦そこにある〉と知らねばならない・・・

「誕生日の即興歌」の中で、幼い娘に呼びかけるざれ歌、として描かれていても、こうした静雄の思想/詩想を見て取ることができる。嵐も恐れず、闇も恐れず〝花‟を採りに行くことを、そうした果敢な前進をし続けることを娘に望むのである。そして、その花のこころを教え、花と出会うことの意味、為すべき行為を伝えるのが、父であり、詩人である静雄の役目であろう。

名が真を表すものであるなら、花の心、その真意を明かすことと、本当の名を告げることは同義である。ここにも、「春浅き」で花の名を娘に伝えようとする父の姿が反復されている。時系列でいえば「誕生日の即興歌」の方が先に創作されているので、即興的に生み出された詩情を、「春浅き」において、より深く詩人は造形化した、とも言える。〈即興歌〉という趣向は、自分の娘に愛称で呼びかけるという、本来なら極めて私的な行為を、公刊の詩集に納めるための方便としても機能しているだろう。

詩集冒頭の自序に、〈ひとたび 大詔を拝し皇軍の雄叫びをきいてあぢはつた海闊勇進の思は、自分は自分流にわが子になりとも語り傳へたかつた〉と静雄は記した。戦時中の公刊であり、表現の際には検閲の問題(恐怖)も大きくのしかかっていたであろうことを踏まえれば、とりわけ前半部は、当時の一般的市民の心情としてごく普通の反応であったと思われる。後世、詩集から除外されることになった「戦争詩」は七篇。二八篇の詩篇から構成される『春のいそぎ』の四分の一である。「戦争詩」は戦時のカモフラージュである、というような欺瞞的な〝弁護‟をするつもりはない。静雄は市井の一国民として、ごく自然な感情の発出のままに「戦争詩」を書いたであろうし、その経緯や作品としての質について、私たちは真摯に考え続けねばならない。しかし、皇国の御為に・・・という思いのみ(・・)から詩集が編まれたわけでは無い。詩集の四分の三を占める、詩人としての在り方、父としての思い、ごく私的な家族や友人への思いもまた、詩集を編む重要な動機になっていたはずである。

詩集の掉尾を、なぜ娘への呼びかけの歌で締めくくったのだろう。静雄は『春のいそぎ』を、〈わが子〉への贈り物、戦争で死ぬであろう自分の、遺言としたのではなかろうか。自らが精神的な葛藤、苦悩を経て見出したこと、〈音なき空虚を/歴然と見わくる目〉と引き換えに、自らが得た智慧を、娘と息子に伝えたかったのだ、と思う。

改めて、『春のいそぎ』の詩篇の配列を眺める。友人の妻を哀悼する「秋の海」、故郷に初めて妻を伴って帰郷する感慨を歌った「なれとわれ」を、静雄は「戦争詩」の間にはめ込むように配置している。日米開戦時の高揚を謳った「大詔」のすぐ後に、朝顔を楽しむ余裕も失い、琴を楽しむ風流も抑えねばならない庶民の日常を描く「菊を想ふ」、語りかける言葉を飲み込んだまま、友と川面を眺めた日のことを歌う「淀の河辺」、子供の看病をしながら医者を待つ心情に託して〈わが待つものの 遅きかな〉と記す「九月七日・月明」を配する。日中戦争に従軍した兵士の体験を聞き書きした「第一日」の後に、妻子に何か〈言つてやりたかつたが〉言うべき言葉の見つからないまま、各々が黙って初蟬に耳を傾ける姿を描きとめた「七月二日・初蟬」を置く・・・。言い差したまま言葉を飲み込む日々の中で、憂鬱に沈む自分に光をもたらしてくれるわが子へ、静雄は日々の想いを〈語り傳へ〉ておきたかったのだ。


                                  『千年樹』70号 2017年5月


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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 21:02 | 伊東静雄 | Comments(0)

伊東静雄ノート 6

日記や手紙などから、『夏花』が成立した時期(昭和十一年~十五年頃)の静雄は、神経症に近いような精神的危機と戦っていたことが知られている。静雄はいかなる精神状況だったのだろう。『夏花』の後半に「孔雀の悲しみ」という不思議な小品がある。

 

 蝶はわが睡眠の周囲を舞ふ

 くるはしく旋回の輪はちぢまり音もなく

 はや清涼剤をわれはねがはず

 深く約せしこと有れば

 

 かくて衣光りわれは眠りつつ歩む

 散らばれる反射をくぐり……

 玻璃なる空はみづから堪へずして

 聴け! われを呼ぶ


 孔雀が尾を広げた時の、めくるめくような、万華鏡のような光景であろうとは思いつつ、冒頭の不眠を思わせる描写や、乱反射する光に飲み込まれながら幻聴を聴くような連に謎が残る。

 この詩と、芥川龍之介が不眠症や神経症、精神の破綻の恐怖におびえていた時期に書かれた『歯車』の一節とを比較してみよう。

 何ものかの僕を狙つてゐることは一足毎に僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つづつ僕の視野を(さへぎ)り出した。僕は(いよいよ)最後の時の近づいたことを恐れながら、頸すぢをまつ(すぐ)にして歩いて行つた。歯車は数の殖えるのにつれ、だんだん急にまはりはじめた。同時に又右の松林はひつそりと枝をかはしたまま、丁度細かい切子(きりこ)硝子を()かして見るやうになりはじめた。僕は動悸の高まるのを感じ、何度も道ばたに立ち止まらうとした。けれども誰かに押されるやうに立ち止まることさへ容易ではなかつた。

この後〈僕〉は、まな裏に〈銀色の羽根を鱗のやうに畳んだ翼〉の幻影を見、お父さんが死んでしまうのではないか、と家族が怯えるところで物語は終わる。静雄の描写との相似は比べるまでもないだろう。当時の静雄も、芥川が陥っていた精神の危機と同様の状態にあったことがうかがわれる。(就職して間もない頃にも、静雄は〈私の内の芥川的傾向を克服するために…芥川氏研究〉をしている、と手紙に記していた。自覚しつつの内省であったと思われる。)

日中戦争の行く末への不安、といった時代の諸条件に加えて、家族の病や、母や詩友たちの続けざまの死がもたらした〈茫漠・脱落の気持〉(「コギト」昭十五年)が静雄を追い詰めていた。その状況下で、時に七転八倒しながら静雄は詩を紡ぎ出していく。

『夏花』の冒頭には、〈おほかたの親しき友は(中略)さても音なくつぎつぎに憩ひにすべりおもむきぬ。//友ら去りにしこの部屋に、今夏花の/新よそほひや、楽しみてさざめく我等、/われらとて(つち)臥所(ふしど)の下びにしづみ/おのが身を臥所とすらめ、誰がために。〉という『ルバイヤット』の一節が置かれている。賑わしい生と、墓所に葬られて後の安息が、「誰がために」という問いで結ばれている。この問いは、後に詩集『春のいそぎ』の最終歌において〈あゝかくて 誰がために 咲きつぐわれぞ〉と反復されることになるのだが……『春のいそぎ』の味読に戻る前に、今しばらく、『夏花』について考えてみたい。

『哀歌』の成功の後、第二詩集の『夏花』を刊行するまでの間に〈田中克己、神保光太郎、中原中也、立原道造、津村信夫の諸氏が、大へん私を刺激した。その人達に見て貰ひたい気持が、私を元気づけたところもあつた〉と静雄は記している。さらに、〈この間に、立原道造、中原中也、辻野久憲、中村武三郎、松下武雄の諸氏が死んでゐる。これらの人々は、現実に深い交を結んだ友とは言ひ難いが、その詩精神は、私の最深部に強く作用したものである。人にはそれぞれ口には言ひ難い微妙な友情を感ずる「同時代の友」があつて、その友情は、その人の後半生をも支配する力をもつものと思ふ。上記の人々は、私にとつてそんな友ではなかつたであらうか。そして、「友ら去」つた後に、各自は、自己流に、「楽しみてさざめく」術を体得して、生きて行くのであろう〉(「コギト」昭十五年)と綴り、立原、辻野、中村の三名には、名を明記した追悼詩を捧げている。「夢からさめて」は、特に献辞はないが、母への追悼詩だろう。(怪しく獣めく夜鳥の声に夢を破られた静雄が、失われた故郷の家で独り酒を呑んでいる夢の中に母の姿を垣間見て、悲しみのあまり自ら歌っていたことに気付く、という詩である。)

『夏花』中、他に追悼と思われる詩は〈…かの蜩の哀音(あいおん)を、/いかなればかくもきみが歌はひびかする…曾て飾らざる水中花と養わざる金魚をきみの愛するはいかに。〉という、前年に発表した「水中花」に通じる詩想を持つ「いかなれば」と、〈N君に〉という献辞を持つ「若死」であろう。立原道造への追悼詩「沫雪」の直前に置かれた一篇である。


大川(おおかは)(おもて)にするどい皺がよつてゐる。

昨夜(さくや)の氷は解けはじめた。

  アロイヂオといふ名と終油(しゅうゆ)とを授かつて、

  かれは天国へ行つたのださうだ。

大川は張つてゐた氷が解けはじめた。

鉄橋のうへを汽車が通る。

  さつきの郵便でかれの形見がとゞいた、

  寝転んでおれは舞踏(ぶたふ)といふことを考へてゐた時。

しん(そこ)冷え切つた朱色(しゅいろ)小匣(こばこ)の、

真珠の花の螺鈿(らでん)

  若死をするほどの者は、

  自分のことだけしか考へないのだ。

おれはこの小匣を何処(どこ)(しま)つたものか。

 ()(うと)いアロイヂオになつてしまつて……。

   鉄橋の方を見てゐると、

   のろのろとまた汽車がやつて来た。


リフレインを用いた歌謡性の強い文体、キリスト教の用語や汽車といったモダンで垢抜けた印象、字下げの形式……N君とは、誰か。イニシャルから見て松下ではない。静雄が「コギト」に寄稿した松下への追悼文を読んでも、二人はさほど深い交友は持っていなかったらしい。残る一人は、〈私の最深部に強く作用したもの〉を持つと記された中原中也である。Nと名を伏せたのは、名を記すことに若干の躊躇い、もしくは屈折した感情を覚える相手だったから、ではあるまいか。

静雄は、中也の『山羊の歌』(昭和九年)を予約注文していたという。『わがひとに与ふる哀歌』(昭和十年)の出版記念会で初めて出会った中原中也の家に、その日の内に泊りに行ってしまったというエピソードも、静雄の抱いていた中也への親近感を示しているように思われる。しかし、二人は意気投合する、というわけにはいかなかった。中也は日記に〈コギトに、伊東静雄に関する原稿の断り状を出す。二三日前に来た伊東静雄の手紙、素直な手紙、而して素直なだけ。ああいふ人はどんな気持で生きてゐるのか。アイドントノウ〉とシニカルに記している。静雄も何か感じるところがあったろう。(高橋渡『雑誌コギトと伊東静雄』など)

エピソード的な事柄が評価にどこまで影響するものか留保すべきだが、静雄が中也の作品を批判的に見ていたことは確かなようである。富士正晴宛の手紙の中で、〈あなたの議論も、中原の晩年に完成を見てをられるやうですが、あそこから再出発を予想することは、矢張りわたしには困難です。彼の晩年が「運命的」であればあるほど、再出発は他の人によつて代つて行はるべきだといふ印象を却つてあなたの論からうけました。この点いかがです。そんなに一人の詩人に多くをのぞむべきかどうか私は甚だ疑問です。わたしはもう中原には「月の光」だけで充分。この一回きりの完成だけで充分詩人の光栄。生かしときたかつたのは矢張り立原。立原は中原について「彼は立ちどまつてゐる、問ひかけが彼にはない」と言つてゐます。〉(昭和十四年十月)と厳しい評価を下している。立原の詩を考える上で「問いかけ」は重要なキーワードであり、静雄の立原への共感の由来を探る上でも大切な問題だが、今はひとまず傍らに置く。ここでは静雄が言及している「月の光」(その一、その二)を見ておこう。


月の光が照つてゐた

月の光が照つてゐた

  お庭の(すみ)(くさ)(むら)

  隠れてゐるのは死んだ()

月の光が照つてゐた

月の光が照つてゐた

  おや、チルシスとアマントが

  芝生の上に出て来てる

ギタアを持つては来てゐるが

おつぽり出してあるばかり

月の光が照つてゐた

月の光が照つてゐた


月の光 その二 

 おゝチルシスとアマントが

 庭に出て来て遊んでる

 ほんに今夜は春の(よひ)

 なまあつたかい(もや)もある

 月の光に照らされて

 庭のベンチの上にゐる

 ギタアがそばにはあるけれど

 いつかう()き出しさうもない

 芝生のむかふは森でして

 とても黒々してゐます

 おゝチルシスとアマントが

 こそこそ話してゐる間

 森の中では死んだ子が

 (ほたる)のやうに(しゃが)んでる

※チルシスとアマントは、西欧の牧歌詩に歌われる少女と少年。ヴェルレーヌの詩などにも登場する。


 先に引用した「螢」に通じる詩想や童謡風のリズムは、中也の世界から静雄が学んだものであったかもしれない。死せる子が月下の物陰に隠れている。いなくなってしまったのではない、目に見えないだけ。気配は確かに、そこに居るのだ……子を失った中也の悲しみに、子煩悩な静雄が共鳴したことは想像に難くない。

〈夏花〉は、静雄自身が〈お盆に仏に供える花〉と語っており、また「()(ばな)」と呼ばれる仏事における供花のイメージが秘かに重ねられた、レクイエムともいえる詩集である。(田中俊廣「『夏花』*レクイエムとしての詩宇宙」『痛き夢の行方 伊東静雄論』)

『夏花』全体を覆う死のイメージ、その巻頭と中間、掉尾に配された、死の世界を振りきって生へと突き抜けていこうとする作品の放つ、エネルギーの強さ。

「燕」、「八月の石にすがりて」、「野分に寄す」「疾駆」といった作品が、生へと突き抜ける面を強調した詩だといえるが、その突破する力の源はどこから生まれるのか。「笑む稚児よ……」という詩を見てみよう。


笑む稚児(ちご)よわが膝に(すが)

水脈(みを)をつたつて(うしほ)(はし)り去れ

わたしがねがふのは日の出ではない

自若(じじゃく)として鶏鳴をきく心だ

わたしは岩の間を逍遥(さまよ)

彼らが千の()の白昼を招くのを見た

また夕べ(けもの)は水の(ほとり)に忍ぶだらう

道は遙に村から村へ通じ

平然とわたしはその上を()


我が子に膝にすがれ、と呼びかけてはいるが、すがってくれ、という願いであるのかもしれない。私を押し流そうとする大波が去ることを願い、今はまだ暗夜であるとしても、泰然自若として明け方を待つ心を欲する詩である。その先は難解。岩の間をさまようイメージは、『哀歌』に描かれた曠野における精神の彷徨を、〈千の日の白昼〉の訪れや、乾きに飢えた獣が水を得たり、村々に道が通じていくイメージは、明るく開放的な未来の訪れを祈念しているように思われる。

冒頭に引いた「孔雀の悲しみ」の中の〈深く約せしこと有れば〉という謎めいた一節、〈わが膝に縋れ〉という力強い宣言は――いささか飛躍した思考であるかもしれないが、父として子に約束しよう、どんなに辛くとも、生き抜く、ということを――という想いの現れではないだろうか。「孔雀の悲しみ」に描かれたような神経症的な逼迫、一向に黎明の兆しの見えない社会情勢、次々と死に打倒されていく詩友への想い、自身の将来への不安……そうした自己の内部に押し寄せる潮のような不安を打ち破るのは、外圧としての、やらねばならない、やらざるを得ない、という義務感ではなかったか。特に、静雄のように律儀な性格の人間にとっては。

「水中花」など、一見すると滅びを肯定し、美しく散ることを願うかのような詩句は、当時静雄が抱いていた閉塞感を突き抜けていくために自らを鼓舞する言葉であり、困難な生を前進させるための逆説的な死の措定であったように思われてならない。

蝶の生き様に、〝どんな困難が待っていようとも、最後まで生き抜け″という神(自然)からのメッセージ(言霊)を読み取りつつも、今の生は水槽の中で生かされている(ように見える)水中花に過ぎない、つくりものの生に過ぎない。これでも真に生きている、と言えるのか?いっそのこと、全てを投げ打ってしまいたい、全てを終りにしてしまいたい…そんな激情と生の渇望との間で、静雄の詩人としての精神は葛藤していたのではなかろうか。

むろん、生活者(父、教師)としての静雄は、生を投げ出してしまうわけにはいかない。いや、むしろ父であるからこそ、子供への愛、家族への想いの強さによって、生きる気力を奮い起こすことが出来たのではないか。そのために、あえて創作作品の中で、仮構としての死を疑似体験する。死の安息を希求する己の魂をいったん死の世界に鎮め、そこから再び日常生活圏に戻って来ることによって、自らの活力と成す。死への憧憬と生への義務感とに引き裂かれ、疲弊してしまった自らの精神を、一度死を疑似的に通過することによって――ふいごで衰えた炎に活力を取り戻すように――再生させる。その烈しい精神の振幅の軌跡を、『夏花』は基層としている。

『千年樹』69号 2017年2月


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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 21:01 | 伊東静雄 | Comments(0)

伊東静雄ノート 5

 戦後公刊の『反響』に再録された際、『春のいそぎ』の作品群は「わが家はいよいよ小さし」という章題のもとに自序や〝戦争詩″七篇などを省く形で収められたが、作品順にも多少の入れ替えが生じている。

 戦時中刊の『春のいそぎ』では、「夏の終」の後に「螢」が置かれ、その次に童謡風の「小曲」、「誕生日の即興歌」が配されている。一方戦後の『反響』では「小曲」「誕生日の即興歌」「夏の終り」という順番に変わり、「螢」は省かれた。『反響』の復刻版を開くと

 

そんなことは皆どうでもよいのだつた

ただ壮大なものが(しづ)かに傾いてゐるのであつた

そしてときどき吹きつける砂が脚に痛かつた


という印象的な詩句の後に、大きく黒々と〈反響終〉の文字が印字されている。何かが終わろうとしているのだ、という詩と同じページに、この詩集はこれで終り、と厳然と記す、二重の〈終〉。

 気になるのは、戦争詩でもなく、(手紙などから推測すると)我が子の病が癒えることを祈る中で生まれた詩であったはずの「螢」が、省かれたことである。


 かすかに花のにほひする

 くらひ茂みの庭の隅

 つゆの霽れ間の夜の靄が

 そこはかとなく動いてて

 しづかなしづかな樹々の黒

 今夜は犬もおとなしく

 ことりともせぬ小舎(こや)(はう)

 微温(ぬる)い空気をつたはつて

 ただをりをりの汽車のふえ

 道往く人の(しはぶき)

 それさへ親しい夜のけはひ

 立木の闇にふはふはと

 ふたつ三つ出た螢かな

 窓べにちかくよると見て

 差しのばす手の指の()

 (たり)()逃げゆく(のき)のそら

 思ひ出に似たもどかしさ


この歌うような小品は、和泉式部の「物おもへば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞみる」(『後拾遺和歌集』)を本歌取りしたとする評を散見する。しかし、和泉式部の歌と重なるのは末尾の六行に過ぎない。しかも物狂おしいような熱情を吐露する式部の歌とは、いささか異なる質感を覚える。

かすかな花の匂いが、生き物の気配を確かに伝えてはくれるが、木々はもちろん、犬すらも息を殺す静けさが梅雨晴れの闇の中に漂っている。〝なにものか″が潜んでいそうな、生暖かい夜の闇の不気味さ。暗がりの向こうから聞こえて来る汽車の警笛や道行く人の咳払いなどが、わずかに人の気配を感じさせ、ほっと体の緊張を解く。その窓辺に、ふわふわと蛍が数匹、飛び交うのである。……ぬくみを持った闇。それは、生き物のようにのしかかってくる闇であり、子供が暗がりに怯える原初的な感覚に近いものがある。

先に触れたように、当時、静雄の家のそばには陸軍病院があって、軍馬や軍の車両が深夜に地響きを立てて通り過ぎることも度々だった。見えない軍勢が過ぎていく物音を、今後の日本の行く末を案じながら聞いている。そのような折に掻き立てられる不安が、静雄を責め立て(はあはあと息が上がるような)切迫感を感じさせていたのであろうし、何事もない静けさもまた、夜陰が生き物のように家を覆う感覚を覚えさせたであろう。子供が不安を振り払うために、大きな声で歌を歌ったりすることがあるが、「螢」の耳馴染みの良い歌謡体のリズム、〈そこはかとなく動いてて〉という口語口調のような軽やかさには、そんな〝闇払い″の意識も込められているのではないか、という気がしてくる。

〈看病の傍ら、(隆達や地唄などの)古い歌謡の本を読んでゐます。これは自分の鎮魂のためと、自分の文學の模索のためであります〉(六月、池田勉宛)といういささか大仰で重苦しい内容と、中也風とでも呼びたい軽快な「螢」の印象のズレ。それは、迫って来る闇の中、不安に苛まれるあまり〈あくがれ〉出でようとする魂の深刻さを、お囃子唄や小唄の軽妙さで笑いに転じ、やり過ごそうとする意識が生み出した、コミカルな声調、その〝かろみ″が醸し出す表面上のズレなのではないだろうか。

 この時期、『コギト』の詩人保田與重郎は、「和泉式部私抄」(昭和十一年~十七年)をはじめ、近世から記紀歌謡時代に至るまで、様々な詩人、歌人を採り上げ、旺盛な評論活動を展開していた。ドイツのみならずエセーニンなど海外の詩人にも目配りをしていた保田の評論を、静雄は深い敬意を持って(時には、自分もこのような仕事がしたい、というある種の羨望の気持ちも抱きつつ)享受していた。

戦後、痛罵を浴びることになった保田のことを、静雄はどう思っていたのだろう。なおのこと、戦後、静雄が「螢」を省いたことが気になるのだが……『日本浪漫派』と静雄との関係性に関わって来る問題なので先に譲り、今は子供の為の子守歌のような「小曲」を読み解くことにしたい。

 昭和十五年六月の富士正晴宛葉書に、静雄は〈佐藤春夫の『東天紅』感心して再読三読してゐます〉と記していた。実際、『東天紅』と『春のいそぎ』を比較すると静雄が佐藤春夫から形式的にも内容的にも強い影響を受けたことが見て取れる。(米倉厳『伊東静雄』1985年など)たとえば「自嘲」という佐藤の作品。


 よき父となり

 日もすがら

 子と独楽(こま)まはす

   木の(きれ)に命授けて

   時にまた憂国の論はあれども

   わが説は人うけがはず。

 よき兄子(せこ)となり

 日もすがら

 花をうつせり

   面影を花に見いでて

   時にまた反逆あれど

   わが恋は知る人もなし。

 あはれなる詩人(うたびと)なり

 夜もすがら

 歌成りがたし

   時にまた老杜(らうと)の集を(ひもと)けば

   わが歌は自嘲の(あかし)


 『春のいそぎ』冒頭に納められた歌う形式の詩の形は、『東天紅』に学んだものであろう。〈よき父〉〈よき兄子〉である小市民的な自己を正面から受け止め、肯定する一方で、高みを目指しながら(俗世間から離れ、風雅の境地に生きる文人に憧れつつ)果たし得ずにいる自分に、あえて自嘲という言葉を投げかける〝詩人″。佐藤春夫の「自嘲」に詠われた内面世界は、たとえば静雄の「山村遊行」において、より想像力豊かに、具体的な景を伴って再現されるだろう。

子供への愛情をストレートに歌う詩も印象に残る。

佐藤春夫の「りんごのお化」という童謡風の作品は、〈頭を洗ふことのきらひな子供がよくがまんして頭を洗つて来たのを見て、お父さんがうたひはやしてほめた歌です〉という詞書が付されている。〈そら出た。そら出た。/出て来たぞ。/りんごのお化が出て来たぞ。…りんごのお化はよいお化、/にこにこ笑つてよいお化。/おつむを洗つていい匂ひ、/りんごのお化は可愛いいな。/可愛いお化のいふことに、/おのどがかわいてしかたがない。/りんごのおつゆを下さいな。〉ほっぺを真っ赤に上気させた坊やをにぎやかに囃したてる、ほほえましい家族の光景が立ち上がって来る。爽やかな林檎の香りと、真っ赤でかわいらしい形象。それ以上の意味と感情を求める必要はないかもしれない。しかし、西欧の知識や思考法の偏重に対する疑問が提示されつつあった時代に〈りんご〉の持つ象徴性と〈お化け〉という不穏なイメージを結び付け――そのイメージを詩人のもとに運んできた童(坊や)が、リンゴをジュースにして飲んでしまう、という解決策を提示するという展開に、子供の告げ知らせることに耳を一心に傾けようとする詩人の姿が現れているのではなかろうか。

 静雄の「小曲」は、のどかな田園風景の景を彷彿とさせながら、子守歌のような美しいリフレインを響かせる佳作である。


 天空(そら)には 雲の 影移り

 しづかに めぐる 水ぐるま

   手にした (ともし) いまは消し

   夜道して来た 牛方と

   五頭の牛が あゆみます

ねむたい 野辺の のこり雪

 しづかに めぐる 水ぐるま

   どんなに 黄金(きん)に 光つたろ

   (ともし)の想ひ 牛方と

   五頭の牛が あゆみます

 

 しづかに めぐる 水ぐるま

 冬木の うれの 宿り木よ

   しとしと あゆむ 牛方と

   五頭の牛の 夜のあけに

   子供がうたふ をさな歌


 暗い(そして、昏い)夜道を歩き続けた牛方が、心細い暗がりを照らしてくれたささやかな灯の、金色の光の美しさを思い返しながら、ようやく明け始めた空の下を歩いている。夜明けの薄明りに野辺の雪が白々と光り、次第に強まって来る朝陽に水車の水が輝きを増していく。そこに響いてくる、幼子の歌声。まるで、幼子の歌が夜明けをもたらすかのようだ。五頭の牛とは、何を表すのか。牛を用いた農耕や運搬と、豊かな水の流れるアジアの風土のイメージ。当時盛んに標榜された五族協和のスローガンが脳裏をよぎる。夜道を歩き続けた牛方とは、日本のことなのであろうか。

 折口信夫が昭和四年に公刊した『古代研究』の中に、「万葉集のなり立ち」という評論がある。大歌(官家の歌、宮廷詩)に対して民謡や童謡は小歌(こうた)と称されたこと、大歌は声楽が大部分であるが、雅楽(器楽・外国曲)が盛んになると大歌は衰えて来ること、などの歴史的変遷の解説と共に、〈大歌所に昔から使はれて来た大歌と、大歌に採用する目的で蒐めて置いた材料〉の数々が列挙され、その中に〈支那の為政者・音楽者の理想となつて居た民謡に正雅の声があると言ふ考へが、我が国にも這入つて居て、在来の童謡に神道が(やど)つて出ると言ふ信仰と一つになつて…(あづま)歌其外地方の民謡などの可なりの分量が、大歌所に集められて居た〉という記述がある。学生時代から万葉集に深く傾倒し、研究も重ねていた静雄は、恐らく折口の文章(もしくは思想)を学んでいたことだろう。

 童の無心・無邪気な歌の中に、神慮、神意が宿っている、という考え方は、今でも様々な民族芸能や伝統行事の中に痕跡を見ることができる。神意は人間にとって都合の良いことばかりではない。無慈悲にも子供は真実を告げる、という言い方をしてもよい。『夏花』の中の「砂の花」と「自然に、充分自然に」の二篇は、子供なればこそ、知らぬ間に真実を告げることになった顛末を歌っている作品ではなかろうか。

 困難を乗り越えて日本にたどり着いた燕が、生の勝利を告げる、その瞬間を歌った「燕」の次に置かれた「砂の花」は、富士正晴に、と献辞がある童謡風の小品である。砂場で遊ぶ幼児が、つわの花を砂場に挿し、そこにやってきた蝶を捕えようとする。


 その一撃に

花にうつ俯す 蝶のいろ

あゝ おもしろ

花にしづまる 造りもの

「死んでる?生きてる?」

・・・・・・・・・・・


造りもの、であるのは蝶なのか、切り取られて砂場に挿され、あたかも生き生きと命を保っているように見えるつわの花なのか。子供の無邪気な問い「死んでる?生きてる?」の一行は怖ろしい。神の被造物という言い方もあるが、「つくりもの」という言葉の語感は、疑似的に生きているように見えるに過ぎない〝死せるもの″である。

「八月の石にすがりて」では、ギリギリまで生き抜く蝶と、人である〈われら〉一人一人、そして雪原に倒れ伏す孤狼が比肩され、生の讃嘆が歌われていた。

その次に置かれた「水中花」を見てみよう。


()(とし)()無月(なづき)のなどかくは美しき。

(……)

(しの)ぶべき昔はなくて

(なに)をか吾の嘆きてあらむ。

六月(ろくぐわつ)()と昼のあはひに

万象のこれは(みづか)ら光る明るさの時刻(とき)

()ひ逢はざりし(ひと)の面影

(いつ)(けい)(あふひ)の花の前に立て。

堪へがたければわれ空に投げうつ水中(すゐちゆう)(くわ)

金魚(きんぎよ)の影もそこに(ひらめ)きつ。

すべてのものは吾にむかひて

()ねといふ、

わが()無月(なづき)のなどかくはうつくしき。


滅びを目前として、あらゆるものが美しく見えるという逆説、あらゆるものが〈死ね〉と迫って来るような戦時下の緊迫した意識と、その強迫に一息に〈投げ打つ〉というパセティックな行為で対抗しようとする詩人の意識が歌われる。元来死せるものである水中花が、コップや水槽という限られた空間において、まるで生き物のように美しく咲いている(そこでしか開くことができない)という痛切な思いへのアイロニーも、そこには重ねられているだろう。水中花の美もまた〈つくりもの〉である。死んでる?生きてる?と子供に問われたならば、詩人はどう答えるのだろう。

「水中花」の次に置かれた「自然に、充分自然に」は、瀕死の小鳥を愛撫しようとした子供が、思いがけず必死の抵抗にあって〈小鳥を力まかせに投げつけた〉様子を描いている。小鳥は生命を取り戻したかのように〈自然にかたへの枝を〉選んで、そこに止まるかのように見えた。しかし、結局その小鳥は死に、子供は〈(こいし)のやうにそれが地上に落ちるのを〉見ることになる。死を運命づけられた者の最後のあがきに心動かされて、気まぐれに救済しようとし、掌を返すようにそれを打ち捨てる子供の理不尽さは、人の目には理不尽に映る自然(神)の行為の寓意そのものだ。

『千年樹』68号 201611


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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 21:00 | 伊東静雄 | Comments(0)

伊東静雄ノート 4

戦争の予感と時代の閉塞感、文学探求における迷走、家族の病という切実な問題……その重苦しい沈鬱な心象が、昭和十五年から十六年にかけての詩、「春浅き」や「夏の終」などに描かれていることを見て来たわけだが、それらはいずれも詩集後半に置かれていた。『春のいそぎ』掲載順に初出を整理してみよう。


わがうたさへや      (17.4「文芸世紀」)(※昭和十七年四月 以下略記

かの旅          (18.6「コギト」)

那智           (18.7「文芸文化」)

久住の歌         (18.2「新文化」)

秋の海          (18.2「文芸世紀」)

述懐             (17.12「大阪毎日新聞」)

なれとわれ②       (17.10「コギト」)

海戦想望         (17.5「コギト」)

つはものの祈       (17.4「コギト」)

送別           17.3「コギト」)

春の雪           17.3「文芸文化」)

大詔           17.1「コギト」)

菊を想ふ        (16.12「日本読書新聞」)

淀の河邉          18.1「文芸文化」)

九月七日・月明      (17.1「四季」)

第一日          16.10「帝国大学新聞」)

七月二日・初蟬      (16.8「天性」)(※『全集』では「コギト」7月と誤記)

なかぞらのいづこより  16.4「文学界」)

羨望           16.10「天性」)

山村遊行        16.6「コギト」)

庭の蟬          16.7「コギト」)

春浅き         16.5「四季」)

百千の          15.12「文学界」)

わが家はいよいよ小さし 16.1「文芸」)

夏の終②         15.10「公論」)(※『全集』では「不明」と記載)

           15.8「天性」)

小曲           15.4「改造」)

誕生日の即興歌       15.2「文芸世紀」)  (※旧漢字は当用漢字に改めた)


太字は拙稿「静雄ノート」1~3で引用した詩、番号は各回に対応している。

並べてみると、「大詔」を中心にして前半に太平洋戦争開戦後の詩篇、後半にそれ以前の詩篇が収められていることがわかる。後半は沈鬱な開戦前夜の気分と、その中で子供の未来に寄せる希望や祈りが詠われ、前半には大詔渙発以来の明朗な心境、兵士たちへの共感や祈りを歌った詩が置かれていることになる。

「大詔」で歌われたのは、なによりもその〈清しさ〉であった。そしてその清々しさは、いよいよ本当の亜細亜創設のための戦いが始まるのだ、という自己正当性の確認であり、開戦当初の連日の戦勝の報道によって増幅された開放感であった。(子安宣邦『「近代の超克」とは何か』七章「宣戦になぜかくも感動したのか」など。)いつのまにか中国大陸で戦闘が始まっていた、という不透明感、欧米の圧力から亜細亜を解放する聖戦であるはずの戦いが、当の亜細亜で行われているという矛盾、国際的不況の中で日本が帝国主義列強に〝理不尽に″追い詰められている、というイメージが創り出され、強まって行く不満……そうした鬱屈した国民の思いを、一息に開放するのが昭和十六年十二月八日の「大詔」だったのだ。そして、その興奮の中に静雄も呑みこまれていく。

もっとも静雄の書いた〝戦争詩″は、十五年戦争期に、特に太平洋戦争期に大量に生み出された翼賛詩――命を捨てよ、と煽り、鬼畜米英と罵倒し、戦死者を軍神として崇め奉る――とは、いささか趣が異なっていた。詩集巻頭の「わがうたさへや」を見てみよう。


おほいなる 神のふるきみくにに

いまあらた

大いなる戦ひとうたのとき

(タケナワ)にして

()むる

くにたみの高き諸聲(もろごえ)

   そのこゑにまじればあはれ

   浅茅がもとの蟲の音の

   わがうたさへや

あなをかし けふの日の(カタジケ)なさは

(当用漢字に改めた。カタカナのルビは筆者の補注)


没個性的な六行の前歌と、行を減らし添えるように置かれた後歌、とでも称すべき二連構成。箏と共に奏するなら、重厚な始まりにのせて〈おほいなる~〉と歌い出し、諸聲、と途切れた後に華やかな手事、やがてゆるやかな単旋律が戻って来たところで〈わがうたさへや〉と静かに歌い納めることになろうか。

当時の愛国詩は、この詩の前半部分を漢文調の雄渾な調子で、あるいは大和歌の響きを生かして朗々と歌い上げる類のものが多い。『国民詩』や『辻詩集』など戦時中のアンソロジーでは〝個″を手放してしまった愛国詩が目につくのだが(逆に〝個″に徹した詩も散見される、)静雄のように〝個″を離れ集団に埋没するかのような詩句と、〝個″を手放さない詩句とを並置する詩は少ないように思う。静雄が二連構成の形式を取り、個の唄を添える意味、この詩を巻頭に置いた意図は、『春のいそぎ』全体の構成にも関わる、重要な意味を持つのではないだろうか。

『哀歌』の原稿を何度も差し替えるなど、静雄は詩集の構成に意を注ぐ詩人だった。『哀歌』の巻頭に置かれた「晴れた日に」は、分裂する自己もしくは理想化された恋人が登場し、故郷へのアンビバレントな感情が表出されるなど、詩集全体のテーマが複雑に織り込まれた作品である。詰屈の多い作品自体の印象と、傑作と凡作が入り混じるような『哀歌』全体の印象とは奇妙に符合している。第二詩集『夏花』の巻頭に置かれた「燕」は、死の波濤をくぐり抜けた燕が故郷で歓喜の声をあげる景を、きびきびとした音楽的な文体で歌った作品。この詩も、生と死がせめぎあう緊張感に満ちた『夏花』全体の印象を集約したような作品となっている。第四詩集『反響』の巻頭に置かれた「野の夜」は、虚脱感を抱えて〈くらい野〉を行く静雄が、〈野の空の星〉の光が水に映っていることに気付いた瞬間を描いた作品。夜の水辺にしゃがみ、水に映る星やまだ幼い螢の光の美しさに見とれる〈わが目〉を、困惑しながら見つめている〈自分〉、その静けさと虚無感、光を観る眼差しは、『反響』の中の、特に戦後作品の印象に合致する。

第三詩集『春のいそぎ』巻頭の「わがうたさへや」は、漢字の「聲」と、ひらがなの「こゑ」とが向き合い、公と私、大と小、讃嘆/歓呼と謙遜/恭順の心情とが対比されつつ響き合っている。〈まじれば〉という語からも分かるように、個の声が集団の中に吸収されていくことに〈あはれ〉を感じ、感慨を覚えている。〈あはれ〉はもちろん〝哀れ″ではなく、しみじみとした感動を呼び覚まされている様であるが、同時に〈浅茅がもと〉を頭韻的に呼ぶ詠嘆であり、無数の虫の音の一つに過ぎないささやかな〈わがうた〉ですら、〈くにたみ〉の声に和することができる今日のこの日が、もったいなくも嬉しく感じられる、と喜びを歌っているのである。

せっかく〝個″の声を歌っているにも関わらず、それを集団に埋没させることを、その機会を与えられたことを喜ぶのか……暗澹たる思いにとらわれるが、戦後民主主義教育の中で育った筆者の価値観をそのままあてはめることはできないだろう。ここでは、詩集前半の詩群が〈諸聲〉に没することによって生まれ、後半の詩群が没入直前で留まっている個の〈こゑ〉からなること――他の詩集と同様、巻頭詩が詩集全体のイメージ(配置)と相似していることを確認した上で、なぜ〝没入″が起きたのか、という問題について、静雄の教師としての側面、詩人としての側面、その双方から考えていきたい。

手始めに、「夏の終り」が掲載された『公論』昭和十五年の十月号(第一公論社)を開いてみよう。静雄を取り巻く思想状況の一端、当時の〝ムード″を知ることができる。(詩集収録時には「夏の終」と改題)

冒頭の社説は「皇国与論と宣伝教育」。「日本人の心性」というエッセイでは、小我を捨てて大我に生きることこそ日本人の美徳であることが説かれ、〈大君のへにこそ死なめ〉という「海行かば」の一節が引かれる。「旧世界の動揺と日本」という論文では、大英帝国の衰退とドイツの躍進、世界地図が塗り替えられようとしている現状が述べられ、アジアを経済的に支配下に置こうとする米国の〝野望″を断つために、日本は南進すべきである、という議論が展開される。七月に成立した第二次近衛内閣の国策にそった〝北守南進″論である。コラム的ページには「女子徴用論」などもあり、十七才になったら女子を看護婦として養成し、集団的に訓練して野戦病院の人員不足に対処せよ、と大学教授が〝女性の活用法″について論じている。「愛国運動の研究」と題した座談会や、「西北支那と回教民族」「南方アジア及西南アジア踏査記」など、広く世界に目を向けた(日本の版図拡大を意図する政府の意向に沿った)硬派な記事が続き、最後の方に紀行エッセイや詩歌の文学コーナーが設けられている。詩は伊東静雄、短歌は穂積忠、俳句は富安風生。「世界の動き」という情報コーナーの後、短編小説と連載小説が配置された、総合オピニオン誌であった。詩の寄稿に当たって、静雄が雑誌の性格を顧慮した可能性もある。

 穂積(きよし)は、北原白秋門下折口信夫に師事した歌人である。『公論』掲出の十首は


わが(いのち)またく思はね戦ふと曠野(あらの)の丘に(びょう)()捨て来つ

人間の言葉さびしとひた思ふ移動す軍を病馬追ひ来る

(いなな)きて(こた)ふる木魂(こだま)なかりけり草原(そうげん)の月に病馬さまよ


など、戦場の悲痛を格調高く詠う十首。日中戦争を主題にした〝便乗歌″と言えなくもないが、戦意高揚の翼賛歌とは誰も思わないだろう。凄まじいまでの月光の中で、疲弊した軍馬を捨てて立ち去る軍隊。戦争の非情が切々と伝わって来る。

富安風生は東京帝大独法科卒の官吏で、高浜虚子門の俳人。「四萬の夏」と題した十句は


蝉の木々(すだれ)おろせば(かす)かなり

(くつが)へす草刈籠に夏桔梗

清冽(せいれつ)山椒魚も(すん)ばかり


といった、明朗な自然観照の句である。『公論』に掲載された臨戦態勢のような論文を読んだ後にこの句と出会うと、意識的に戦争の気配から距離を置いたような印象を受ける。

 静雄の「夏の終り」は、この両者と比較するなら富安の句風に近い立場で歌われている。過度の感情移入や述志を律し、その場の自分が感じ取ったものとその時の心象を、写生した詩といえばよいだろうか。芭蕉の俳句を詩と呼ぶところから出発した静雄は、言葉の流れや響きよりもイメージの衝突や競合を重視することで『哀歌』中の秀作を生み出したように思われる。『夏花』の中の名作「八月の石にすがりて」も、苛烈なまでの自然観照と真夏と真冬、蝶と獣、明と暗といった激しいイメージの対比が作品の核となっている。「夏の終り」もまた、自然と我とを対峙させつつ写生風に綴る、俳句的発想法から生み出された詩群の中に位置づけられるだろう。だが、静雄は短歌的抒情、あるいは述志の方向へ、急速に傾いていく。その経緯を辿る前に、静雄を圧迫していく思想的な背景を、父/教師としての側面から見ておこう。

「夏の終り」が執筆された当時、静雄の家のそばには陸軍病院があった。〈ひつきりなしに、傷病兵が、バスで運ばれた。私は毎日のやうに子供をつれて路傍に立ち、敬礼した。家にじつと坐つてゐても、胸がはあ(・・)はあ(・・)と息づき強く、我慢出来ず興奮したりした。そんななかで、わたしの書く詩は、依然として、花や鳥の詩になるのであつた。〉(『コギト』昭和十五年五月号)坂下の大通りを、〈深夜覆ひをした大砲や恐ろしいほどの軍馬の数が地響きを立てて轟轟と行き過ぎていく。日中戦争の膠着状態を肌身で感じてもいた静雄が恐れていた、日本崩壊の予感、〝個″の消滅の不安……子煩悩の静雄にとって、国家の存亡と我が子の将来とは切り離せない懸念であったはずである。

この頃書かれた手紙に、〈文学は決して直接、個人の生活と体験をのみ(・・)土台としてはいけない……各自の苦しみを我慢して公の仕事をして行く、人間のいとほしさ〉(昭和十五年六月池田勉宛)という文言が見える。職場では教師に徹し、詩人であることをむしろ伏せていた静雄にとって、公の仕事、とは、まずは教師としての職務である

昭和七年、満州事変の勃発後に国民精神文化研究所が設立され、師範学校その他中等学校教員の思想再教育を行う事業部が設けられた。昭和十二年に発行された『国体の本義』の編集にも研究所は大きな影響を及ぼしている。『国体の本義』は和辻哲郎など一流文化人の助力も得て、当時の知識人層が納得できることを目安として国体概念を解説した本で、定価三十五銭の小冊子ながら初版二十万部、昭和十八年の段階で百七十万部が印刷されて一般に流布したという。中等学校では副読本的な扱いを受け、受験、特に陸海軍の学校を受験する者にとっては必読の書であった。受験指導の必要上、静雄も精読していたに相違ない。

さらに、昭和十六年には『国体の本義』に基づく国民(臣民)の道を明らかにしようとする意図で『臣民の道』が刊行されている。初版三万部、解説書も含めると百四十七万部余りも出版されたという。(阿部猛『太平洋戦争と歴史学』など)

『臣民の道』の第一章は「世界新秩序の建設」、二章は「国体と臣民の道」三章は「臣民の道の実践」――要するに、列強の圧力からアジアを開放するのが我が国の使命であり、そのために〈万世一系〉歴代の天皇は力を尽くしてきた、〈而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、()く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところ〉(『国体の本義』)という、皇国史観と武士道的倫理と宗教学や国学、民俗学……などを総合したキメラのような異様な書物が、青少年の指導者を中心に大量配布されたわけである

『公論』など民間の雑誌も動員して、国家の〝大義″は静雄のような市井の知識人をターゲットとして文章化されていった。日本の未来を憂うほど、この戦争に勝利する他に道はない、という隘路に静雄が導かれていったこともうなづける。

教師静雄にとっては、詩作は〝私″の仕事ということになろうが(教え子の西垣脩によれば、静雄は職場では詩人であることを伏せていた。知らない者も多かったという)、生涯を通じて求道者のように詩を求め続けた静雄にとって、詩作は天職(Beruf)としてのもう一つの〝公″の仕事でもあったろう。

『千年樹』67号 20168


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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 20:59 | 伊東静雄 | Comments(0)

伊東静雄ノート 3

詩集『春のいそぎ』収載の「春浅き」や「夏の終」を読むたびに思い出す俳句がある。伊東静雄の一歳年長、静雄と同様教師であった、加藤楸邨の句である。


隠岐やいま木の芽をかこむ怒涛かな

ひとは征きわれ隠岐にありつばくらめ

十二月八日の霜の屋根幾万


昭和十六年、開戦の年に発表された三句を挙げた。名句として名高い「隠岐やいま~」の句は、奇しくも静雄の『春のいそぎ』と同年、十八年刊の『雪後の天』に収められている。

〈後鳥羽院のかゝせ給ひしものにも、これらは歌に(まこと)ありて悲しびをそふるとのたまひ侍りしとかや。さればこの御ことばを力として、その細き一筋をたどりうしなふことなかれという芭蕉の言葉を胸に秘め、独り隠岐に旅立った楸邨は、のちに私の心の中の怒涛が、次第に隠岐の怒涛と一つになりはじめていた。つまり、滲みあうように内と外とが重なり合ってきたわけであると記している。(随筆隠岐

芭蕉を研究していく中で〝主客浸透″の作句理念を得た楸邨と、既に卒業論文「子規の俳論」の中で〈芭蕉は物の形よりもその形以上のものを尊ぶ詩人〉であり、〈芭蕉に於ける自然描寫(子規の所謂記實)の目的は、自然をあるがままに模倣するのではなく、自然を寫すことによつて自己の「心の色」を表現することであつた〉と看破していた静雄。自然を描写することは、その自然と対峙した際の自己の心象を描くことであり、〝外″を描くことはすなわち〝内″を描くことなのだ、と考える二人の詩人が、荒れた海の景を共に自らの「心の色」と捉え、それを言葉に残したことになる。「ひとは征き~」の感慨と焦燥も、同世代であり共に教師でもあった二人が共有するものであったろう。征く側も、作品を通じて想いを受け止めていた。十七年秋、出征前に楸邨のもとを訪ねた俳人の森澄夫は、隠岐の一連の句を〈鬱屈した、暗い表情で、一句一句噛みしめるように読み上げてくれた〉楸邨の朗読を、自身の暗鬱とした未来と重ねながら聞いている。(『加藤楸邨全集 第八巻』講談社、月報6、1981

昭和十七年一月の静雄の日記に〈二十四日土曜 午後四時頃より阪急ホテル別館に田中克己君を訪問。同君は徴用令にて、南方出發前を同ホテルに宿泊中なり。此度徴用せられし人々中われの知る者は、他に神保光太郎、北川冬彦らなりの一文が見える。

〈後に田中繁君も来る。田中君よく喋る。同君の手帳に


神人が虚空にひかりみしといふ

みんなみのいくさ

きみもみにゆく


といふ歌一首かきておくる。神人云々は同君の詩句をとれる也」と日記は続き、〈二十七日 二日ほど前より風邪にて臥床中なりまき子(長女、筆者注)熱ひきしが、身體いまだだるげなり……みささぎにふるはるのゆき 以下詩なかなか成らず〉と、何度も推敲を繰り返している様子がうかがえる。

〈よく喋る〉のは、出征の不安の裏返しの饒舌であり、常態との差異に気づいた静雄の鋭敏な観察眼が、この一言を書き留めさせたに相違ない。〈ひかり〉という言葉を贈る心境と、我が子に〈ひかりありしや〉と問いかける(あれ、と願う)心境とに、どれほどの開きがあろうか。我が子の看病をしながら〈身體いまだだるげなり〉という一言を記す心境にも、不穏な時代状況を背景として、毎日の平凡な暮らしや子供との交流が、かけがえのないものとして深く心に残るようになってきている様がうかがえる。

静雄の日記は、毎日のように書きつけられたものではない。現存する限りではあるが、戦局が厳しくなっていく昭和十八年、十九年はほぼ毎月のように詳細に記しているのに対し、昭和十四年は二月と九月のみ。年頭に詩集『夏花』を公刊した十五年は、そもそも日記の記載がない。時代の暗雲を予感する詩として先に引いた「夏の終」が発表された年でもあるが、遺された書簡をみると、家庭内でも静雄を悩ませる事態が起きている時期であったことがわかる。

三月付の小高根二郎宛書簡には、〈いつものことながら呆然として暮らしてゐます。詩はなかなか書きにくい状態です。みな註文も断つてゐる始末〉とあり、教師としての日々に忙殺されているらしい様子がうかがえるが、更に六月になると〈家内に重病人出来まして、心身共に疲労の極にあり〉(六月十日潁原退蔵宛)〈看病の傍ら、古い歌謡の本を読んでゐます。これは自分の鎮魂のためと、自分の文學の模索のためであります〉(六月、池田勉宛)という文言が見える。池田氏宛書簡には、「螢」という詩が書きつけられているが、終り三行は〈差しのばす手の指の()を/垂火逃げゆく(のき)の空/思ひ出に似たもどかしさ〉という、逃げていく命の火掴もうとしながら成しえない、という哀調を帯びた詩行「螢」は和泉式部の「物おもへば沢のもわが身よりあくがれ出(タマ)かとぞみる」を踏まえていると言われるが、物狂おしく抜け出そうとするのは、我が魂なのか、あるいは大切な家族の命なのか……。自分の鎮魂、という言葉も、抑制された筆致ながらただ事ではない。

四か月後の十月、池田勉に〈お見舞い有難う……九分通り快癒、子供もあと十日もすれば退院できます〉と書き送っているので、ひとまず窮地は脱したとも見えるが、翌十六年三月の小高根宛書簡に〈このごろ漸く私も心身共に快調、これからたんと方々に書きますから……去年はいろいろなことがありました。口には一寸云へないほどです〉と記しているところを見ると、やはり、心身を消耗する相当の苦悩だったと思われる。

十六年は四月十一日の日記のみ。いささか煩雑だが、推敲の跡がよくわかる例として、この日の日記を引く。


〈四月 十一日 疲労甚し。酒欲し。

をさながくれし草の花

きい花 白花 名はしらず

「あゝくら」と まみをひそめて

わがをさない(き)ものは へやにいりくる

あゝくら と へやにいりくる

わがをさなきものは(の)まみひそみたり

「あゝくら」と へやにいりくる

わがをさなきものをみれば

そのまみ ひそめたり

あゝくらと まみをほそめて をさなきものの しつにいりくる

いつのまに くれししつない(くらきつくゑのあたり) のはいまだ

あゝくらと めほそめて をさなきものの しつ―に―いりくる いつのまに―くれし つくゑのほとり のはいまだ ひかりありてや ひとりつみて来し くさ〉


何度も微妙に表現を変えながら繰り返される「春浅き」の推敲課程。〈へや〉が〈しつ〉になり、〈ひかりありてや〉が〈ひかりありしや〉に変化するのは、音の響きの美しさを吟味したことによろうか。杉本秀太郎が「サ行偏愛」とすら呼ぶ静雄の音韻的特徴は、ささめくような響きへの偏愛とも言い換えられよう。

冒頭の新体詩張りの七五調の歌謡体も、完成作では姿を消している。「春浅き」を音韻の上から読み直すと、字余り、字足らずを織り交ぜつつ、いわゆる五七主体の長歌のリズムを自在に組み替えていくような進行と、三行ずつに整えられた詩形の美しさが印象に残る。


  冬が来た(高村光太郎)『道程』(大正三年)

きつぱりと冬が来た            (5・5)

八つ手の白い花も消え           (7・5)

公孫樹(いちょう)の木も箒になつた        (6・7)

きりきりともみこむような冬が来た     (5・7・5)

人にいやがられる冬            (3・8)

草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た  (8・5・5・5)

冬よ                   (3)

僕に来い、僕に来い            (5・5)

僕は冬の力、冬は僕の餌食だ        (3・6・3・7)

しみ透れ、つきぬけ            (5・4)

火事を出せ、雪で埋めろ          (5・6)

刃物のやうな冬が来た           (7・5)


 竹(萩原朔太郎)『月に吠える』(大正六年)

光る地面に竹が生え、           (7・5)

青竹が生え、               (7)

地下には竹の根が生え、          (4・7)

根がしだいにほそらみ、          (6・4)

根の先より繊毛が生え、          (6・7)

かすかにけぶる繊毛が生え、        (7・7)

かすかにふるえ。(以下略)        (7)


(いし)のうへ(三好達治)『測量船』(昭和五年)

あはれ花びらながれ             (3・7)

をみなごに花びらながれ           (5・7)

をみなごしめやかに語らひあゆみ       (4・5・7)

うららかの(あし)音空にながれ         (5・4・6)

をりふしに瞳をあげて             (5・7)

(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり(以下略) (5・7・6)


静雄は、先行詩人達の工夫や試行と比して、特別目新しいことや斬新なことを試みているとは言えないかもしれない。しかし、日記に残された推敲課程からは、何度も口ずさみつつ読み返しつつ、形も音も納得のいくまで整えていこうとする、言葉の彫琢者としての姿が立ち上がって来る。

「春浅き」と同様、推敲課程を日記に書き遺している作品に「春の雪」がある。昭和十七年、病欠の生徒を見舞い、出征前の田中克己を慰めた(一月二十四日)記述の後、娘の病のこと、妹りつの忘れ物を駅で尋ねたことが記され(二十七日)、続いて「春の雪」が、三度も書き直されているのが見える。それだけ思い入れの深い作品ということでもあろう。

「春浅き」が三行十連の形であるのに対して、翌年発表された「春の雪」は三行三連の、より引き締まった美しい詩形を取る。これは第二詩集『夏花』中の「沫雪」(十四年に亡くなった立原道造の追悼詩)の形を踏襲したものであり、昭和十四年の十月に書かれた富士正晴宛書簡中の〈具體的に云ふと、三行三聯の詩形式の完成といふのが、私のいまの野心です……そのために、リルケを殊に新詩集をしつかりよんでみようと思つてゐます〉という意欲を実証する試行でもある(田中俊廣『痛き夢の行方 伊東静雄論』参照)。第三詩集『春のいそぎ』では、この詩をはさむように「送別」と「大詔」が配された。「春の雪」については後にふれることにして、前後の二篇を左記に引用する。


 送別 田中克己の南征

みそらに銀河懸くるごとく

春告ぐるたのしき泉のこゑのごと

うつくしきうた 残しつつ

南をさしてゆきにけるかな

 大詔

昭和十六年十二月八日

何といふ日であつたらう

清しさのおもひ極まり

宮城を遥拝すれば

われら(ことごと)

――誰か涙をとどめ得たらう


「送別」は、芭蕉の「荒海や~」や万葉集の「石ばしる垂水の~」のように、君のうたも後世に残るだろう、という激励の意も含んでいよう。

「大詔」の後には、戦後、『反響』に再録される際に〈昭和十七年の秋〉という添え書きが加えられた「菊を想ふ」が置かれ、その後、〈秋は来て夏過ぎがての〉から始まる「淀の河辺」と続いていく。

「菊を想ふ」は不思議な読後感を呼ぶ作品である。我が子が朝顔の種を小箱に入れ、〈しまっておいてね〉と手渡すシーンから始まるのだが、朝顔は植えられることはなかったのだろう、こぼれ種が家の周りや野菜畑の隅に〈ひなびた色の朝顔〉ばかりを咲かせていた、という淋しい夏が回想される。朝顔、などという風流なものにかまけている余裕が無くなり、人々の関心は〈トマトや芋のほうに〉向いている。後半を引く。


十月の末 気象特報のつづいた

ざわめく雨のころまで

それは咲いてをつた

昔の歌や俳諧の なるほどこれは秋の花

――世の(すがた)と花のさが

自分はひとりで面白かつた

しかしいまは誇高い菊の季節

したたかにうるはしい菊を

想ふ日多く

けふも久しぶりに琴が聴きたくて

子供の母にそれをいふと

彼女はまるでとりあはず 笑ってもみせなんだ


満州を巡ってじりじりと孤立化していく日本の状況は、報道管制や情報操作によって、世界列強に追い詰められていく日本、というイメージを庶民に植え付けていった。当初はナチスに対して批判的だった日本の知識人たちも、ヒトラーの〝躍進″を英雄的なものとみなす風潮に次第に呑みこまれていく。静雄がかつて講読していた雑誌『改造』が治安維持法違反に問われ、発売禁止となったのは、十七年の夏のことである。

「大詔」という、開戦の日の異様な高揚感に満ちた一瞬を回想風に書き留めたすぐ後に、庶民の風流の代表格でもある朝顔ですら楽しむ余裕が無くなっている世の姿を配置した静雄の意図は、どこにあったのだろう。琴を聞きたいというわがままも、笑みをもっての否定ではなく、このご時世に何を寝ぼけたことを、とでも言わんばかりの冷たい拒否である。〈いま〉〈菊〉を想う、それも〈したたかにうるはしい〉菊を想う、といういささか屈折した表現に、人心が戦争一色に傾いていくことへのシニカルな、どこか斜に構えたような視線が秘められている、と読むのは、穿ちすぎだろうか。

静雄は、マルクス主義、あるいはその〝革命的思想″を、〈頭では〉納得しつつも、〈ヘルツ(ハート)が云ふことをきかない〉と、醒めた目で見ていた。国家によるマルクス主義の弾圧、という背景があったことを差し引いても、熱狂的に一つの思想の中に巻き込まれていくことに、本質的に忌避感情を抱く性向を持っていた詩人だったと思われる。それにも関わらず、戦後自ら否定することになる〝戦争詩″七篇を、なぜ書くことになっていったのか。   

                               『千年樹』66号 20165月 一部修正


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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 20:58 | 伊東静雄 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
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