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伊東静雄ノート 2

前号で採り上げた「春浅き」「わが家はいよいよ小さし」「山村遊行」は、一見すると庶民のささやかな生活や、詩人の内面の夢想世界が描かれているに過ぎないが、一歩そのうちに踏み入ってみると、ごく平穏な小市民の生活を脅かす不安が暗示され、若人が多数、兵士として散っていくことへの密かな悲憤があり、我が子の将来に重なる日本の命運に対する祈りにも似た感情が、静かにつづられている作品だった。この三点はいずれも開戦の年に発表されている。開戦は十二月だから、それを知る前に作詩されていたことになる。

日中戦争は既に始まっている。海外の文化や政治にも貪欲な知識欲を有していた静雄は、日本が全面的に戦争状態に入ることも予見していたように思われる。

昭和十四年九月一日、ヒトラーのポーランド侵攻の報を受けて〈思索ばかりで行動なきものは発狂す……自分の頭脳では果して戦争に堪へるだらうか〉と率直な不安を日記に記した静雄は、翌年の十月、「夏の終」を発表する。それは近衛内閣下で大政翼賛会が結成された月でもあった。(初出時は「夏の終り」)


月の出にはまだ()があるらしかつた

海上には幾重(いくへ)にもくらい雲があつた

そして雲のないところどころはしろく光つてみえた

そこでは風と波とがはげしく揉み合つてゐた

それは風が無性に波をおひ立ててゐるとも

また波が身体(からだ)風にぶつつけてゐるとも思へた

掛茶屋のお内儀(かみ)は疲れてゐるらしかつた

その顔はま向きにくらい海をながめ入つてゐたが

それは(ぼん)やり床几にすわつてゐるのだつた

同じやうに永い間わたしも呆やりすわつてゐた

わたしは疲れてゐるわけではなかつた

海に向かつてしかし心はさうあるよりほかはなかつた

そんなことは皆どうでもよいのだつた

ただ壮大なものが(しづ)かに傾いてゐるのであつた

そしてときどき吹きつける砂が脚に痛かつた


今にも嵐が起きようとする海のうねり、風の荒ぶり、吹き付けて来る砂の痛み。小さく鋭い痛みが予感させるものは何か。海を鎮めるすべはない。絶対的な無力感の中で、小さくともくっきりとした痛みを感じながら「終わり」を予感している詩人。そこには、虚無感に深く苛まれながら、時代の様相を書きとっていく他にすべのない、自身の無力感が投影されていよう。

 一時はマルクス主義に興味を抱き、小林多喜二なども執筆していた『戦旗』を購読していたことが知られるものの、静雄は行動する思想家ではなかった。

昭和四年の時点で、〈インテリゲンチヤの悩みは、唯物史観そのものの中に理論的矛盾を発見することによつておこるのではなく、頭は唯物史観を肯定しながらもヘルツ(ハート)が云ふことをきかない憂鬱なんですね……革命的情熱を持てぬ我々には頭でだけ肯定される。そして熱情的な革命理論が、熱情なしに理解される時、それが虚無的色彩を、然も破かいされたあとに茫然とたちすくんで、過ぎゆく白雲をながめる様な虚無を我々に感ぜしむるのですね〉(一二月二一日宮本新治あて書簡)と記しているが、青空を過ぎ行く白雲のような、どこか開放的な虚無感が印象に残る。およそ十年後の「夏の終り」において、詩人の世界を覆い尽くす黒雲となって、濃厚に押し寄せて来る体感的な不安との落差は大きい。

静雄が初めて詩作品「空の浴槽」を詩誌に公表するのは、宮本宛書簡を記した翌年の昭和五年。頭では理解し得ても、ヘルツ(心)が捉えきれない漠たる不安や虚無感を表現したいという想いが、静雄に詩の公表に踏み切る一つの契機を与えたのではあるまいか。「春浅き」の中に、薄暗い部屋の中で物思いにふける詩人の姿が描かれているが、『春のいそぎ』よりもう一篇、憂愁に沈む詩人の姿をとらえた詩を引こう。 

 

 なかぞらのいづこより

なかぞらのいづこより吹きくる風ならむ

わが(いへ)の屋根もひかりをらむ

ひそやかに音変ふるひねもすの風の(うしほ)

 

春寒むのひゆる書斎に (しよ)よむにあらず

物かくとにもあらず

新しき恋や得たるとふる妻の独り異しむ

思ひみよ 氷れる岩の谷間をはなれたる

去年(こぞ)の朽葉は春の水ふくるる川に浮びて

いまかろき黄金(きん)のごとからむ


 春先の澄んだ光に、静雄の「いよいよ小さき」家の屋根も美しく照らされている。肌寒いとはいえ、これから春になることを告げる風は、「ひねもすのたりのたりかな」と蕪村に詠われた春の海のような、やわらかな潮騒に似た響きを生む。(この頃、静雄の家は風当たりの強い丘の上にあったから、春の海を思わせる風とは微風であったろう。)そんなのどやかな景の中で、一人書斎で物思いに沈む詩人の姿は、なんとも不似合である。静雄と同様、教師でもあった妻の花子が、あら、また新しい恋でもしたの?と軽口をたたく。

詩人は自分に言い聞かせる。春先の雪解け水が透明にふくれあがるように流れ始めた。凍りついていた朽葉も、金色に光りながら軽やかに流れているだろう、その景のなんと美しいことか。それを思い浮かべよ。

 〈なかぞら〉は文字通り空の中程だが、古今集に「初雁のはつかに声を聞きしより中空にのみ物を思ふかな」と詠われたように、上の空で物思いにふけるイメージも呼び覚まされる言葉である。風は、家の周りを吹き通う微風であると同時に、心の中に漠然と吹き込んでくる不穏の兆でもあろう。詩人は美しい景を思い描くことで、不安から自らを解きほぐそうとしたのではないだろうか。べっとりと茶色く氷に沈んだ葉が、金の軽やかな一枚となって軽やかに流れ始める夢想と、凍てついたように締め付けられている心が解放されることへの希求とが、重なっていく。〈朽葉〉に言の葉を観ることもできよう。朽葉となって埋もれている自らの詩語を、軽やかに輝かせる清冽な流れをこそ、静雄は求めているのである。物を読む気にも書く気にもなれない、憂鬱を持て余しながら。

 『春のいそぎ』が上梓されたのは、学徒出陣が始まる昭和十八年である。島尾敏雄が処女創作集を携えて静雄のもとを訪れたのもこの頃。島尾が海軍予備学生として出征の途につくのを、静雄は教え子で後に小説家となる庄野潤三と共に見送ることになる。胸中、どれほど複雑な想いを抱えていたことだろう。武勇を祈る一般市民としての心情と、様々な不安や憂鬱から逃避したいと願う心情、前途ある若者が死地へと赴くことへの怒り、自身の無力感の自覚など、様々な感情が烈しく渦巻いていたに相違ない。

 戦後、静雄自身が頑なに全集に収めるのを拒否したいわゆる〝戦争詩″七篇も、このような時代背景と感情の中から生み出されている。今読み返すと、時代がかった言葉で装飾的に綴られたもの、ロマン的夢想に逃避しているものなどもあるが、敗走兵に深く共感を示すような作品や、戦争そのものに倦んだような、反戦とは言えないにしても非戦を望むような作品も含まれている。戦意を鼓舞するような、安易に時代に迎合した〝戦争協力詩″に類するものは、静雄は書いていないように思われるが、この問題は次号に譲ることにして、ここでは多少余談めくが、〈新しき恋〉という〈ふる妻の〉無邪気な言葉について考えてみたい。

若い頃、静雄は盛んに恋を繰り返していた。「詩へのかどで」と自ら記した若い頃の日記を読むと、イニシャルなどで伏せられた女性たちが次々に現れるのに驚くが、欲望のままに女性遍歴を重ねたというよりも、理想の恋、理想の人を求める心理的な探索であったように思われる。初恋の女性への激しい恋慕の情を、その愛の性質に到るまで問い、同時に哲学書を読み、ゲーテの『若きヴェルテルの悩み』を、有島武郎の『惜しみなく愛は奪ふ』を、倉田百三の『愛と認識との出発』を読み……

一九歳の頃の〈loverからstrangerに、strangerからloverに変転するのが今の若い女の特長である。なまぬるい刺戟では興奮せないほど神経がまひしているのが今の若い女である。自分はそんな関係よりか〝友達〟ということをどんなに嬉しく思うだろうに。M子もやっぱり普通の女だった〉などと記しているのを読むと、早熟の秀才の精神を満たす女性など、そもそも存在したのだろうか、と首を傾げたくもなるのだが、この「友達」という言葉に、静雄の求めた愛の形が隠されているような気がしている。文学的、芸術的素養を共有し、文学への情熱を理解してくれる存在。精神的な次元で対等に語り合うことの出来る、同士のような存在。

初期の代表作「わがひとに与ふる哀歌」の中で、〈太陽は美しく輝き/或は 太陽の美しく輝くことを希ひ/手をかたくくみあはせ/しづかに私たちは歩いて行つた〉と詠われる静雄と想い人(理想の恋人)の姿は鮮烈である。セガンティーニの画集の愛蔵や、やはり初期の代表作「曠野の歌」に現れるイメージを重ねていくと、恋人たちの前に開けている空間は、太陽が燦燦と照り輝き、遠くに雪を被った山稜が連なる広大な原野として見えてくる。〈ひと知れぬ泉〉が湧き、〈非時(ときじく)の木の実〉が熟れる彼岸のような場所でもあるが、そこには全く他の人影がない。

光に溢れ、泉や永遠の木の実が実る豊かな地であるにもかかわらず、曠野と呼ぶことに違和を覚えるが、手を繋いでこの場所に歩み入る恋人以外、誰一人いない、という孤独こそが〈曠野〉と名付ける他はない所以だろう。日記や書簡などからも、静雄が強烈な孤独感を抱えていたことが知られている。〈佐賀高から京大時代にかけての伊東の姿を通観してあらためて強く印象づけられるのは、そこで圧倒的に支配しているのは「孤独」「淋しい」〝einsam〟だということである〉(山本皓造「伊東静雄の詩的出発」『PO1102003

その孤独を分かち合い、共に〈曠野〉に歩み入ってくれる存在こそ、静雄が求めていた〈わがひと〉だろう。そして、わがひと、のモデルと言われる酒井百合子は、日記や、遺された百合子宛の書簡などから顧みるに、静雄の渇望を満たす数少ない存在の一人として恋慕されていたことは確かなようである。しかし結局その恋は実らず、百合子とは〝友達″、静雄文学の理解者としての関係が長く続くことになる。

だが、〈わがひと〉は酒井百合子、あるいは酒井家の姉妹のイメージのみが投影された想い人なのだろうか。〈自分は遂に人生詩人でなければならない。魂にふれるもののみを求める精進者でなければならない〉と記した二十歳の頃から、その情熱の共感者として想い続けた酒井家姉妹との交友の中からは、発表するに足ると静雄自身が決意した詩は生まれなかった。詩が次々と発表されていくのは、むしろ静雄が結婚してから後のことなのである。

小川和佑の作成した詳細な年譜を見ると、昭和七年、静雄が二十六歳の年の初めに、高等女学校教諭の山本花子との縁談が生じている。その後、二月に静雄の父親が一万円とも言われる負債を残して亡くなる。(親族の借財の裏書きをしたゆえの不幸であった。)この金額は、当時の静雄の月収の百倍近い額だったという。弟や妹の生活の面倒も静雄の肩にかかってきている。この頃、花子との結婚が上手くいかないかもしれない、という不安を、酒井百合子あての書簡に漏らしたりもしている。花子との結婚は四月。そうした困難のもろもろをすべて承知で、花子は静雄と結婚したことになる。花子が仕事を続けたのは金銭的な理由もあろうが、夫と同じ職種ということで、仕事を続けている方がお互いに資するところがあったのではないか。困難な生活を共有し、仕事上の困難も楽しみも理解し合うことができる者同士であり、なおかつ芸術文化に対しても相互に話題を提供し合える関係は、静雄にとって〈曠野〉に手を取り合って進む真の相手を得たことに他なるまい。

負債を負ってはいたものの、静雄の文学への情熱は、結婚後も衰えなかった。むしろ、盛んになったというべきだろう。結婚した年の六月、青木敬麿と同人誌『呂』を創刊。(『呂』はこの年の末に発行禁止処分を受け、編集者は警察の取り調べを受けた。)翌年、『コギト』に寄稿、盛んに詩を発表し、昭和十年の春には『日本浪漫派』の同人になる。そして同年の秋、処女詩集『わがひとに与ふる哀歌』を上梓するのである。

その頃、静雄の家を訪れたドイツ文学者の大山定一が、〈かれの書架の一段全部に、ぎっしりドイツ語の書物がつまっていて、そのすべてがヘルダーリーンとその文献だったのを、ぼくははっきりと覚えている。ヘルダーリーンの詩は極めて難解だし、当時の日本のドイツ文学者で、ようやく一部の人が注目しはじめた頃の話だ。にもかかわらず、伊東静雄は重要なヘルダーリーン関係の書物を、ほとんど洩れなく集めていた〉と記している。洋書を買い集めるのは並大抵のことではなかっただろう。借金の返済の傍ら、教職を果たしつつ同人誌を創刊するなどの文学活動を続けることもまた、容易ではなかったはずだ。妻花子の深い理解と支援、何よりも静雄の才能への敬意と、詩的情熱への共感がなければ、静雄はこんなにも自由に詩作できなかったに相違ない。妻花子という、もうひとりの〈わがひと〉を得たことが、静雄の詩の飛躍につながっているのではないだろうか。


新妻にして見すべかりし

わがふるさとに

(なれ)を伴ひけふ来れば

十歳を経たり

いまははや ()が傍らの

(わらべ)さび(かな)しきものに

わが指さしていふ

なつかしき山と河の名

走り出る吾子(あこ)に後れて

夏草の道往く なれとわれ

歳月(さいげつ)は過ぎてののちに

ただ老の思に似たり


『春のいそぎ』と後の『反響』双方に収められた作品「なれとわれ」である。『春のいそぎ』では、愛妻を失った友のことを想う「秋の海」の後に置かれているので、なおさら印象が強い。ここに、『哀歌』の中の「帰郷者」を、特にその「反歌」を並べてみる。


田舎を逃げた私が 都会よ

どうしてお前に敢て安んじよう


詩作を覚えた私が 行為よ

どうしてお前に憧れないことがあらう


芸術家としての矜持と孤独、生活者への憧憬、故郷を棄てたことへの苦渋は、トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』に通じるものがある。静雄の孤独と葛藤を誰よりも深く理解し、寄り添って共に故郷に立つのは、妻の花子をおいて他にはいない。

 〈僅か四年そこ〱の病気で……死なせて了った家族の者として色々の後悔が残る。最後まで積極的にあんなに力強く生きようと努めた人であるのに助力者として何といふ怠慢であったことか……せめて今二三年寿命を延ばし得たら作りたいといってゐた美しい小さい詩集、――戦後の優しい作品を二十程もいれて――が出来てゐたのではなからうか。なつかしい長崎へ帰って美しい故郷の山河をどんなにか得意な筆にのせたことであらうに。〉妻の花子の手になる「病床記」より引いた。〈助力者〉――この言葉の意味は重い。

『千年樹』6520162


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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 20:57 | 伊東静雄 | Comments(0)

伊東静雄ノート 1

伊東静雄は、明治三九年(一九〇六年)、諫早に生まれた詩人である。日露戦争終結の翌年に生まれ、大正から昭和初期の、欧米文化が積極的に受容された時期に青春期を過ごしたことになる。表紙に自ら「詩へのかどで」と大書し、〈思索ハ自己の世界ヲ発見セントスル努力デアリ 創作ハ自己の世界の創造デアル〉という言葉から始まる「日記」を記し始めたのは、大正末期、旧制佐賀高等学校に在学中の十七~八歳頃。その後、京都帝国大学国文科を経て、大阪府立住吉中学校に教師として就職する。

静雄が詩を同人誌などに発表するようになった時期は、満州事変(昭和六年/一九三一年)が勃発し、日本が十五年戦争に突き進んでいく時代とまさに重なっていた。終戦後に編まれた『反響』は、冒頭に終戦直後に生まれた詩を配し、その後、自らの詩作の歩みを振り返るように既刊の三冊から自選した詩を配しているが、それは、十五年戦争期の日本を詩人として生きた者の、自己の世界の発見と創造(あるいは、その頓挫)の記録である、とは言えまいか。当然のことながら、自閉的な内向によってのみ、詩人は自己の世界を作り上げるものではない。むしろ、外部からの絶えざる刺激によって生み出される心の波立ちが生み出す軌跡が、詩人の内部世界を作り上げていくものであることを考えたとき、詩人の内部世界に分け入っていくことは、彼を取り巻いていた時代を、彼の感官を通じて逆照射することにもなるだろう。

詩集『反響』の冒頭に置かれた〈これ等は何の反響やら〉という謎めいたエピグラフが意味するものは何か。それは、静雄の内に響いていた、戦中期の自己の精神の咆哮ではないのか。

この時代を代表する詩人の一人として静雄の精神世界を振り返り、戦中期に生きた一人の詩人の内部宇宙に響いた反響を、その木魂を、今の〝私″の内に蘇らせてみたい。想起(アナムネーシス)は、再びその〝時″を生きて味わうことでもある。先学の援けを借りながら、一作ずつ、静雄の詩を味読していきたいと思う。


春浅き

あゝ(くら)と まみひそめ

をさなきものの

(しつ)に入りくる

いつ暮れし

机のほとり

ひぢつきてわれ幾刻(いくとき)をありけむ

ひとりして摘みけりと

ほこりがほ子が差しいだす

あはれ野の草の一握り

その花の名をいへといふなり

わが子よかの野の上は

なほひかりありしや

目とむれば

げに花ともいへぬ

()けり

春浅き雑草の

固くいとちさき

()ににたる花の(かず)なり

名をいへと(なれ)はせがめど

いかにせむ

ちちは知らざり

すべなしや

わが子よ さなりこは

しろ花 黄い花とぞいふ

そをききて点頭(うなづ)ける

をさなきものの

あはれなるこころ足らひは

しろばな きいばな

こゑ高くうたになしつつ

走りさる ははのゐる(くりや)(かた)


初出は昭和十六年、雑誌『四季』五七号。昭和十八年に刊行された詩集『春のいそぎ』に収められ、のちに『反響』にも収載された作品である。

 難しいところは何一つない。さりげなく書かれているので、読み過ごす人も多いかもしれない。けれども、父と子、親世代と子世代、そして、詩人と詩作を促すもの、という三つの層から見ていくとき、この詩は当時の静雄の心境が最もよく表れた一作であると思う。

 冒頭、暗い室内に、早春の夕刻の冷気と共に一条の光が差して、幼い子供が室内に入ってくる。父である静雄は、昼間から何事かを思い煩い、いつ夕刻になったのかも気づかぬほど、ぼんやりとうつつを忘れて座り呆けている。その精神の眠りを目覚めさせるように現れる幼子は、誇らしげに顔を上気させて、背後に戸外の光を負いながら、このお花、ひとりで摘んだの。このお花の名前を教えて、とせがむ。

実に似たる花、とは、まだつぼみのハルジオンだろうか。白と黄色が見えているのであるから、あるいは咲き初めのハハコグサであったかもしれない。静雄は、実際にこの花の名を知らなかったのか、それとも、その花の本質を告げる名を「知らない」ということなのか。とにかく、「父」は困り果てる。すべなし、とはいかにも大げさであるが、それほどに静雄は追い詰められている。観念して、これは、しろ花 黄い花、とあてずっぽうの名を教えると、子供は全く疑うことなく、満足気に〈しろばな きいばな〉と作り歌を歌いながら、台所の方へ駆けていく。太平洋戦争の始まる前夜ではあるが、まだ庶民の生活は、さほど逼迫してはいなかっただろう。質素ながらも温かい夕餉の匂いが、冷気と共に静雄のもとにも漂ってきていたに相違ない。母が忙しく立ち働く台所の方へ、パタパタと走っていく子供の足音。静雄は暮れなずんでいく部屋の中で、一人静かに、その音を聞いている。

 当時、静雄の家は堺市の三国ヶ丘丘陵にあった。雑誌『コギト』(昭和十五年五月 九五号)に、静雄は以下のような文章を寄せている。〈この家は、丘陵上にあるうへに……西風が烈しくあたり、殊に冬の間は、夜も眠り難い程にゆれることが多い……また、そんな冬から、一、二度の淡い雪を経て、早春の来る美しさも、ここではっきり見たと思ふ。

 大阪の家で生れた女の子が、この家で段々大きくなった。閑暇の全部を、この子と遊んでゐるうちに、私はこのごろ、この女の子のために、一冊の童謡集を作ってやりたい気持ちになつてゐる。〉

 「春浅き」の中に登場する「幼き者」は、当時四~五歳の長女。生命力の塊のような、明るく笑い、でたらめ歌を歌う愛娘を見つめながら、静雄は〈わが子よ/かの野の上はなほひかりありしや〉と優しく美しい響きの文語で問いかける。詠嘆の調子で留められた静雄の想いは、いかなるものであったか。

この〈ひかり〉とは、もちろん夕刻の光であり、字義どおりに読めば、お前のいた野原の上は、まだ明るかったかい、という問いかけに過ぎない。しかし、時代の暗雲を察知していた「父」の問いかけであることを考えるとき、まだ、お前のいる場所の上には、希望の光は残されているか、という象徴的な意味を持つ〈ひかり〉であり、文語の持つささやくような響きは、〈ひかり〉が子供の上にはせめて在り続けてほしい、と願う祈りであるように感じられてくる。寒風吹きすさぶ厳しい冬を過ぎて、早春の野に訪れた春の兆しを、いち早く見つけて摘み取ってきた幼い娘。娘は、その春の兆しを〈暗〉い部屋にいる詩人にもたらし、その花に、名付けよ、と迫る天使のような存在でもある。

「春浅き」の発表と同年の一月に『文芸』に発表された「わが家はいよいよ小さし」には、当時の静雄を捉えていた不安が、漠然と暗示されている。


(みみ)(はら)の三つのみささぎつらぬる岡の()の草

ことごとく黄とくれなゐに燃ゆれば

わが(いへ)はいよいよ()さし そを出でてわれの

あゆむ時多し

うつくしき日和つきむとし

おほかたは稲穂刈られぬ

もの音絶へし岡べは

ただうごかぬ雲を仰ぐべかり

岡をおりつつふと足とどむるとある枯れし園生

落葉まじりて幾株の小菊

知らまほし

そは秋におくれし花か さては冬越す菊か


耳原の三つのみささぎ、とは、当時の静雄の家から南方に臨まれた、百舌鳥(もずの)(みみ)(はら)の三つの古墳群。燃え盛る草紅葉の中、我が家はいよいよ小さく、はかない存在に思えてくる。詩人は思いにふけりながら散策することが多くなるうつくしき日和は尽きようとしている。落ち葉の中に咲く小菊は、秋に咲き遅れた名残の菊か、あるいは、これから訪れる厳しい冬を、乗り越えて咲き続ける菊なのか。私はどうしてもそのことが知りたい……秋に遅れた菊ならば、すでに命運は尽き、あとは枯れるだけの花である。冬を越す菊ならば、まだ生き延びる希望が残されている燃えるような草紅葉に囲まれたみささぎ、落ち葉の中の……いずれも天皇家ゆかりの言葉である。菊の命運を問うとは、当時の庶民にとっては、日本の命運を暗に問うことであった、という推測にもいざなわれる。

「春浅き」と共に詩集『春のいそぎ』に収録された、当時の心境を示す作品を、もう一点挙げたい。同年六月に『コギト』一〇七号に掲載された「山村遊行」は、東洋の水墨画を思わせる標題、〈ユーカリ〉の響きの醸し出す西欧のムード、静雄が好きだったというアルプスの画家セガンティーニを想起させる〈ひかる〉山肌、さくらや卯の花、山吹の花が喚起する、美しい日本の山里のイメージがないまぜになった、なんとも不思議な、桃源郷のような村の描写から始まる。


しづかなる村に来れるかな 高きユーカリ樹の

香ぐはしくしろき葉をひるがへせる風は

はやさくらの花を散らしをはり

枝にのこりてうす赤き萼のいろのゆかしや

迫れる山の斜面は 大いなる岩くづされてひかる見ゆ

その切石のはこばれし広き庭々に

しづかなる人らおのがじし物のかたちを刻みゐて

卯の花と山吹のはなと明るし

ふくれたる腹垂れしふぐり おもしろき獣のかたちも

ふたつ三つ立ちてあり


ここにも、白と黄色の花が咲いている。明るい、花盛りの村の〈広き庭々〉で、思い思いの〈物のかたちを刻みゐ〉る、〈しづかなる〉人々。〈ひかる〉切石とは、大理石のように断面が白くきらめく石であろう。切石が運ばれてきた広場で、思い思いの形を刻む、という一節は、石像を彫る人々の姿を想起させる。リルケを愛読していた静雄は、リルケのロダン論を読んでいただろうか。物の形を刻むとは、イメージを作り出す詩人や画家の行為のアナロジーにも思われてくる。そうであるならば、この桃源郷のような村は、芸術家の集う場所なのだろうか。静雄の心の中だけにある、イメージの原型を切り出す採掘場であり、それを〈かたち〉に仕上げる人々が住まう、美と平和に満たされた場所。信楽焼の狸のような、どこかユーモラスな〈かたち〉を刻んでいる人もいるのが楽しい。


あゝいかにひさしき かかる村にぞかかる人らと

世をあり()なむわが夢

あゝいかにひさしき 黄いろき塵の舞ひあがる

巷に(から)くいきづきて

あはれめや

わが歌は漠たる憤りとするどき悲しみをかくしたり

なづな花さける道をたどりつつ

家の戸の口にはられししるしを見れば

若者らいさましくみ戦に出で立ちてここだくも命ちりける

手にふるるはな摘みゆきわがこころなほかり


長いこと、こんな村に暮らすことを夢見ていたのに、実際には塵の舞い上がる巷間にからくも生きている。私の歌は、漠たる憤りと鋭い悲しみを隠すものと成ってしまった……ここで、恐らく夢想世界の遊行は終わる。ナヅナの咲く現実の野道を静雄は歩いている。家々の戸口には、こんなにもたくさん、若者が戦死したという印が貼られている。怒りと悲しみをどうすることもできない私は、せめて手に触れる野花を摘み、心を鎮めるほかはない……。

〈ここだく〉と、いきなり上代古語が出てきて驚かされるが、迸る想いが、時代を遡行する語を選ばせたのかもしれない。未来ある若者の戦死が、教師でもある静雄にとっては何よりも悲しく、やり場のない憤りだったのではないだろうか。〈摘みゆき〉〈なほかり〉と韻を踏むように歌われる終行には、野花を摘む、という行為への深い想いが秘められているように思う。

「山村遊行」に先立つ二年前、静雄の代表作とされる「そんなに凝視めるな」が雑誌『知性』に発表されているが、そこに現れる〈白い(かど)(いし)のイメージ、手に触れる野花を摘んで歩みゆくという行為が、この詩の中でも繰り返されていることに留意したい。「山村遊行」は、抽象度の高い「そんなに凝視めるな」を、より具体的な景の中で再現して見せた、ある種のヴァリエーションだと言えるのかもしれない。この点については、また改めて考えることにして、今は「春浅き」に話を戻す。

詩人は何よりもまず、一人の「父」であった。大戦のさなかに生まれた長男の将来を憂い、〈戦争中には、その子の顔見るごとに、あゝこの子だけは死なせたくないと切に思ひました〉(昭和二〇年十一月 酒井百合子宛書簡)と、率直な心情を明かしてもいる。

幼子によって差し出された、白と黄色、光を暗示する色彩を持つ素朴な一握りの野花。幼子の上にいつまでも光があることを願う父の想いと、差し出された野花を「名付ける」という行為を成すことによって、暗い物思いに沈む〈われ〉から、幼子の未来へと思いを馳せる〝詩人″へと移行した〝私″。それはたとえ仮初のものであっても、詩を綴る、という行為が祈りとつながった瞬間ではなかったか。

野の上は なほ ひかりありしや……この美しい一節に触れるたび、光あれ、と願う静雄の強い願いが心中に響いてやまない。

『千年樹』64号 201511

 ※〈引用文〉、「作品名・強調」、『書名』の別で表記。旧漢字は当用漢字に改めた。 


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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 20:55 | 伊東静雄 | Comments(0)

宮城ま咲詩集『よるのはんせいかい』感想

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宮城ま咲さんの詩集『よるのはんせいかい』が、第31回福田正夫賞を受賞されました。おめでとうございます。昨年末になりますが、宮城さんに私信でお送りした感想を公開します。


『よるのはんせいかい』ご恵送ありがとうございました。

谷川俊太郎さんが、童心や幼心というものは、大人になるにつれて失われてしまうのではなく、年輪のように真ん中に残っている、そしてポエジーはその芯の部分から発してくるのだ、とどこかで書いていましたが・・・宮城さんが少女のころの気持ちにストンと入り込んで、そこで弾むように語ったり歌ったりしておられる印象があり、心惹かれる詩集でした。

悲しすぎると、困惑して微笑むしかない、そんな時がありますが・・・宮城さんの詩行の間を蝶のように飛び回っている微笑みの妖精がいて、少女が堪えられなくなって泣きそうになると、ふっと肩に手を触れて微笑ませてくれるのではないか・・・全体に適度に配された、ユーモアを感じさせる表現の数々に、そんな温もりを感じました。

「けんとうし」の〈バックアップをとる間もなく〉、「八時二十分」のリズミカルな進行や〈父が怒らなくなる予定だったことも〉、あるいは「からあげ」の中の〈香ばしい本日のひとしな〉というような、ふっと痛切さや深刻さから気持ちをずらしてくれるようなユーモア、「雪は確かに好きだけど」の〈肉体の使用権を返却しに〉行く、というような想念(私も、魂が肉体を借りて、この世でひとときの生を過ごすのだ、という想いを抱いています)が、とても魅力的だと思います。「おめかし」に描かれる体の反応は、意識では把握できていない(あるいはあまりに悲しみが大きいので、心が感じないようにセーブしている)事柄を、体は正直に素直に表現してしまうのだということの証のように感じられました。

夜の底に押し付けられるような息苦しさの中で夢想を働かせたり孤独に耐えたりする時間が、宮城さんの詩人としての資質を育んだのかもしれません。「消しゴム買わずに」の〈息の仕方を勉強し直す〉という表現や、「物知りお父さん」の〈のしかかってくる黒い天井〉にはっとさせられました。私は幸い喘息になったことはありませんが、未体験の者にも実感として伝わってきます。

 「笑顔じゃなくても」の中で、思わず写真を探し回ってしまう自分自身に出会うという部分や、「ハズレを引き当てる」の中で思いがけない共通項に嬉しくなるところが素敵ですね。怒ってばかりいるお父さんなんてキライ・・・と思っている子ども心と、そんな自分を、どこかで好きになれなかったり、お父さんの期待に応えられない、自分はダメな子なんだ、と自信を無くしてしまったりする思春期の心、そして、やっぱり自分はお父さんが大好きだったんだ、と気づいた、大人になった今の心。好きだったんだ、と気づいたとき・・・病弱な娘を力強く、たくましく育てたかったのかな、とか、病気に負けない、強い心を持った子供になってほしい、とか、自分の娘なんだからできて当たり前だ、という〝親ばか″的な絶対的な信頼が背後に隠れていたのかもしれない、とか・・・色々なことが一気に〝わかって″くる。そんな〝はんせいかい″を行っている時間が、宮城さんにとっての詩作だったのだろう、と思いました。

「未完のなぞり絵」で、お父様が手を止めてしまった瞬間を読んで、涙がこみ上げてきました。その時、娘が成人するまで生きてはいられない、ということを、ひしひしと感じて辛くなってしまったのかもしれません。娘さんの中で生き続けているからこそ、詩に現れる。詩の中で動き出す。止まっていた「お父さんの時間」が、宮城さんの中で再び動き出す・・・もしかしたら、これからお父様のイメージは、白髪が増えて、皺が増えて、腰が曲がって・・・立派になったなあ、などとニコニコ笑いながら現れる、そんな好々爺のイメージになって行くかもしれません。

私の父は64歳で亡くなりました。高校の歴史教員でした。喘息の生徒さんを、学校で亡くしてしまったことがありました。授業を抜け出すことの多い生徒さんだったので、教室にいないな、と思いながらも、すぐには探さなかったのだとか・・・トイレで強い薬を吸引していて、心臓発作で亡くなっていたことが、後でわかり・・・それからしばらく、父は言葉を失った人のように過ごしていました。どうしてすぐに探しに行かなかったのか、と悔やまれてならなかったのだと思います。授業を抜け出していたのも、苦しさを紛らわしたり、他の人に心配をかけずに薬で抑えようとしていたから、なのかもしれません。苦しいなら、そう言えばいいじゃないか、と思いがちですが・・・伝えても、きっとわかってもらえない・・・そんな孤独を積み重ねていくうちに、喘息の苦しさを自分一人で抱え込んでしまうようになるのかもしれない・・・「物知りお父さん」の中の、救急車を呼んでもいい病気だということを、大人になってから知った、というフレーズは、さりげないけれど、とても重い一行だと思いました。

 ユーモアや子供時代の瑞々しい感性、弾むような言葉のリズム感などを、大切に詩作に励んでいただきたいと思いました。良い年をお迎えください。
                                    2016年12月30日

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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 15:17 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

二宮清隆詩集『消失点』感想

近頃めずらしい、函入りの詩集である。しかも窓が切ってあって、エメラルドグリーンの海と銀色に輝く水平線、控えめに(波間の煌めきのように)記された書名、あわいブルーの空(を思わせる風景)が見えるという、凝った造本。
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 抜き出してみると、鮮やかなグリーンが現れる。
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緑の草原を思わせるカバーを外すと、
d0264981_13220382.jpg一転して雪原のようなストイックな白が広がる。

栞ひもは目の覚めるようなブルー。


ISBNの記されていない私家版の様だが、
丁寧なハードカバーの造本とハイセンスな装幀が素晴らしい。

表紙を開くと、見返しにまで表紙の「風景」がつながっている。

あとがきによれば、詩集の編集は大学時代のクラスメートで親友の
杉村勉氏、装幀デザインは天宅正氏とのこと。

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詩集は、一章「視野狭窄」、二章「追憶」、三章「帰還」、そして最後に添えるように置かれた表題作からなるが、ひらがややカタカナの意識的な使用、読みのリズムや時間差を意識した改行やレイアウトの工夫など、随所に音読を意識した、こまやかな心遣いが伺われる。たとえ黙読であっても、心の中で文字が音声化され、その響きが他者へと届けられる・・・そんな「詩(うた)」への想いが全篇から感じられる。

巻頭に置かれた「地図がない」は、人生の見取り図としての「地図」を未だに手にし得ない・・・そんな自分を、鏡像のように客観視するところから始まる。ラストが鮮烈だ。
〈鏡の向こうのぼくに/引き返すために地図を画いておくなんてと/一直線に反撃すると/一瞬にして鏡は割れ/鏡の中の地図を持ったぼくは/細かく砕け散り/ぼくは一人で立っていた/鏡のない部屋で〉

一直線・・・その一途さが、二宮の芯を貫いている。〈エゴの晒し合い〉〈その場しのぎの小さな嘘〉〈逃げ場のない小さな裏切り〉を許せず、忘れることもできない詩人の〈眠れぬ夜〉に、心身を冷たく濡らし続ける〈そぼ降る感情の霧雨〉(「霧雨」)。あらゆる〈うそ〉を、ひらがなの柔らかな表記に置き換えてみても、うそはうそ、許せない苦悩が薄まるわけではない(「うなされる」)。学生時代に、衝動的に死を望んだ時のエピソードが「開かない扉」に記されているが・・・欺瞞や不正を許すことのできない生来の一途さが、時には生き辛さともなって二宮を繰り返し苦しめたのではあるまいか。
「殺すな」に現れる〈黒いヘルメットの中にしまい込んであった〉記憶とは、学生運動期の苦い思い出なのかもしれない。〈無定形な自由への渇望の夢も覚め/互いに生きることを認め合わないで/刺し違えるようにして/死んだまま生きることを選んでしまった/何もかも愚劣 と奥底で渦のように笑い/拠って立つべきものを失った・・・敗北という二文字を焦げるほどに烙印された〉その後の人生。〈拒める訳もなく歯を食いしばって〉生きるために打ち込んできた仕事、内心〈しゃらくせえこちとら/何でも咀嚼しなくちゃ生きちゃいけないのさ〉とうそぶきながら生きて来た人生(「磨く」)。その殺伐とした心象を癒してくれるものが〈小さな花や虫たちに教えられる慈しみ〉(「霧雨」)であり、主に二章にまとめられた少年期の故郷(北海道)への追憶であり、三章で触れられる自然や他者との交感、饗応であったのだろう。

全篇を通じて、〈雨〉が印象深く心身を濡らしていく。〈春を前にして降る雨は・・・寒く乾いた季節を生き抜くために/潔いほどきれいさっぱり/裸になっていた木々を冷たく濡らし〉鳥たちをも容赦なく凍えさせる冷酷さを持っているが、同時に〈この春生まれてくる/もの達への祝福の雨〉でもある(「春を前に降る雨」)。「長雨の」「流れ雨」「にわか雨」・・・それは身体を濡らす雨であると同時に、〈時という雨に打たれ/日々という風に吹かれ〉(「花の言葉」)生きて来た詩人の心に降り注いだ雨であり、記憶を冷たく湿らせたり、驟雨となって押し流そうとした、過去の悲哀、時には涙の喩としての雨でもあろう。

第二詩集『消失点』を、今、なぜ二宮は編もうとしたのか。人生の消失点、〈まっすぐの線路の遠いとおい先は/点になっていた〉(「消失点」)その帰着点が、いよいよ見えて来る時期に差し掛かったから、だろうか。集中には、自身の老いを予感したかのような詩句も仄見える。しかし、〈こっかいぎじどうにむかって/ひゃっぽんの せんぼんの まんぼんの旗が/こくびゃくをきっするために〉(「八月のバラ」)押し寄せるのを目撃したこと・・・そのことによって、学生運動期の熱い情熱を、再び心中に蘇らされたこともまた、詩集を編む動機になっているのではないか、という気がしてならない。
(2017年5月発行)


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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-07-30 14:58 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)

陶原葵さん『帰、去来』感想

 陶原葵さんの新詩集『帰、去来』を読みながら、感じたこと、想ったことなどを記したい。

古風で格調の高い表紙、冒頭にエピグラフのように置かれた、禅の公案・・・この詩集の世界に、入っていけるだろうか?かすかに不安を抱きながら読み始めたのだが・・・余白の多い詩行の間から、向う側へと静かに迎え入れられるような、そんな広がりと奥行きを持つ詩集だった。

今、ここにある時間と、かつてあった時間、あるいは今、ここにない時間・・・その間に広がっている、河原のようなところ。中也の「観た」であろう、抑えたきらめきで光がさらさらと流れて行くような、しん、と静まり返っている空間・・・へ、降りていく、あるいは訪ねていく。その中で佇んでいる。そんな気持ちに誘われていく。

「卯木」の小花の白、のイメージ。うらじろの森、全体に白く、抑えたハレーションを起こしているような、何処とも、いつとも知れない森、の中で・・・孵化する寸前の〈青い卵〉を、そっと手にする。ひっそりと、自分のものにする。飛び立つかもしれないものを、ひそかに私のもの、にする、どこかうしろめたいような感覚を思い出す。

「眠、度、処方」、夢の狭間に広がる、不思議な空間の中で、いったい、誰と、何と、話をしているのか・・・声を聞いているのか。茫洋とした中で、くっきりしたものに触れる、ということ。〈それは切っ先が 刹那 に 触れたと思われます〉この一節に身震いした。神経のもっとも尖った、澄んだ切っ先・・・が、〈間〉から生まれて来るものに触れた。そんな気がしたのだった。

「柱」の冒頭、〈耳のおくに澄むものが〉ここは、住む、ではなくて、澄む、を用いている。何か透明に、鎮まっていくような、存在そのもの、の気配、のような。〈通夜の果て〉に出会う人は、誰なのだろう。たどり着くのは、何処なのだろう。その人の記憶、から逃れるように、前に進まなければならない足取りの重さ・・・濃度のある大気にとらわれているような、そんな重みの中で、ゆっくりと前進していく、そんな歩行を感じる。大地そのものとなっている体を、引きずって歩いているような不思議な質感もあり・・・〈翅のない蝶〉が眼をあける、目覚める最後が鮮烈だった。

「あつまってくる夜に」は、吉原幸子さんの「をさなご」を思い出しつつ・・・孩児、という耳慣れない言葉を辞書で調べることになった。幼子であると同時に、幼児の戒名でもあるという。〈金の梨地の川〉、ここはまるで、絵の中に入っていくような感覚。金粉を撒いた日本画の、墨の濃淡が茫漠と広がる世界。死者の居る場所の方が生きた空間で、永遠の春のような、秋のような、花や果実の盛りが続いているような・・・。

「著莪」、シャガ。胡蝶花とも呼ぶことを知った。〈鏡の裏に 階段をおりてくる痛みが映る/展翅板に刺されたまま 発光する螢よ〉痛み、そのものが、存在である、ということ。哀しみ、を通り越して。針で止められた、飛び立てぬまま誰かを待っている、魂、の気配。

詩集表題ともなっている「帰、去来」。しんだわたし、と、生きているわたし、が出あう様な感覚を覚えた。過去の記憶が発芽する、想い出のはざま、のような場所。何度も何度も訪れては、またそこを立ち去らねばならない。既に記憶にない、もしかしたら祖先たちの記憶であるのかもしれない、そんな古いものが、地層から芽を出しているような感覚があった。

〈(つかれていた/意味を問うことに)言葉を、すべて意味から解放できたら。どうしても、言葉が通じない、論理が届かない。そんな時、いくら説明を尽くしても、尽くしきれない、そんな時・・・なおさら、言葉、の意味を、そっと水に流してしまいたい、そんな気持ちになる。〈自転の鼓動に呼ばれてしまって〉地球そのものと一体化しているような、時を超えた存在と同化しているようなスケールに惹かれる。

44頁あたりからの、言葉がポロポロと散らばりながら集まって来るような、その余白から聞こえて来る、声。南洋で兵士として戦った者の声・・・それは、御父上なのか、あるいは・・・。書架の奥で、埃にまみれた手記を繙いているうちに、時の狭間に置き去られたような感覚になる、しんと穴ぐらの底に坐っているような気がしてくる・・・そんな想いに引き寄せられていく。

「淵」も不思議な質感を持つ作品だった。鳥の姿となった死者・・・自らはそのことに気付かないまま、そんな死者たちが、ひとり、またひとり、と訪れる、そんな明るい谷間を想い浮かべる。〈あんがい深い根 なのだと知る/なつかしいものなのだ永遠とは〉戻っていく場所。根の国、という言葉があるが、ねむりの間にながれだしているもの、とは、なんだろう・・・意識が夜ごと体を抜け出し、形をとるのかもしれない。「減築の庭」、これはまるでわらべ歌のようなリズムに乗せられて、何か懐かしい空間に呼び込まれていくような作品だった。〈ひとであることを証明できるものはなにもない〉そう、私たちは、人、であるけれど・・・人って、なんだろう。増築、ではなく、少しずつ減っていく改築、とは・・・。家を建て直す。取り壊す。そのたびに掘り返す庭・・・過去の重層の中から現れて来る、骨、影、姿・・・。記憶の中にだけ残る、かつてあった、家の形。庭の姿。

「20×5」、この題は、人の一生を示しているのだろうか。記憶にあるのは、10代から?20代から?〈それにしても正しさは寂しさを肯い続ける〉正しくあろうとすれば、寂しさに出会わねばならないのか。〈どこにも還ることのできない宇宙葬ほど/ざんこくなものはないのです〉どこにも受け入れられない、彷徨い続ける躯。もし、〈正しさ〉を選択したがゆえに、寂しさの海を漂うのだとしたら。

生きて流れて行く、その時間の中で出会う、くっきりとした硬さ、のようなもの。それが、〈高い氷点〉であるのかもしれず・・・〈冷え の純度〉であるのかもしれず・・・それこそが、〈それは切っ先が 刹那 に 触れた〉瞬間であるのかもしれない。

死者たちが集う空間に、現身のまま招き入れられるような、そんな静けさを感じる詩集だった。私の亡くなった父も、こんな場所にいるのではないか。出会ったことはないけれど、過去の詩人たちとも、ここでなら出会える。言葉が形をまとって、透き通った幼子の躰をとって、河原にしゃがんでいる、ような・・・そんなイメージの中を旅していく、そんな時間を、味わうことができる。部分引用ではなかなか、感じたことを伝えられそうにない。ぜひ、全体を通読してほしい。

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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-06-21 11:06 | 読書感想、書評、批評 | Comments(0)
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詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
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