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『夜明けをぜんぶ知っているよ』北川朱実著 書評

 本当に素晴らしい詩集だった。詩的跳躍のスプリングのきいた、余白の多い行分け詩と、散文を読みの呼吸に合わせて改行したような、物語性の強い行分け詩(改行詩)との、絶妙な混交。

行分け詩から、見て行きたい。どうしてここで、こんな鮮やかな転換や飛躍を、ふっと、いかにも自然な素振りで置くことができるのだろう。断絶したり途切れたりしているのではなく、奥深いところでつながっている、目に見えない深い穴の底でつながっているような感覚。たとえば、「地図をつくる」


(前略)

貼りつけるたびに

この天体は

たくさんのシワをつくる

(中略)

――みんな、みずのあるほうへあるいたの

子供たちは目の中に

ワニとカバを連れていて

世界は

まあたらしい地図を通過する彼らのものだ

川べりで傾いたまま

無数の青い実を降らす木

おーい、

そこの空は誰の空ですか?


はるか南方(アフリカ)の子供達へのまなざし。彼らの背後に流れる目に見えない水を、北川は透視している。国境など存在しない、子供達の未来への呼びかけが温かい。

続いて置かれた「九月の境界」の中には、飲み屋のカウンターで〈〉をたぐりよせる〈一年ぶりに帰国した人〉が登場する。日常の風景が〈はげしく時化た更地〉となり、〈人だけがいなくなった〉シャッター街を見えない海がうねっていく。震災の津波の翳を感じると共に、日常に詩を呼び寄せる際のうねりが、そこには重ねられているように思う。一枚の絵のように美しい「窓」という作品では、〈岬の家は/どこか傷ついているのか/いつまでも明かりがつかず〉という詩行に、はっとさせられる。後半を引く。


日暮れて

金色の波をかぶって

沖へ出ていくもの

あれは

小さな花と

地図を抱いた私だ

美しい水をすくうように

あの窓から

名前を呼ばれたことがある


 挿入されるように置かれた、幻想掌編小説風の散文詩(長めの行で改行していく作品)にも引き込まれた。小説も書く北川らしい、いきいきと情景の立ち上がって来る細やかな文章。日常の中で出会う、違和感や驚きを覚える一瞬。憐憫や困惑、焦燥を感じた時の主人公の心理に、知らぬ間に同調して、その世界に入り込んでしまう。

「プラスチックの旅」という作品では、電車に偶然乗り合わせた若い女が、〈ここに一歳になる息子と三歳の娘が住んでいるの〉と、自らの茶髪の頭を指さすところから始まる。女の夢物語のような〈かわいいお子さんたち〉との生活(の妄想)に語り手もつい、話を合わせてしまうのだが・・・女がイチジクを取り出し、共に食しながら〈このやわらかさ〉は、〈赤ん坊の脳みたい〉と呟くあたりから、一気に不穏な世界へと突入していく。女が離婚して子供と会えなくなった顛末、〈髪の中から子供たちの声が聞こえてきた〉話を聞かされるうちに、語り手自身も〈女の髪の中〉の世界に、入り込んで行ってしまう・・・。

「水の中の用意された一日」では、がんの再発を告げられた主人公が、〈公衆電話〉に置き忘れられたビニールポーチの中に、自分と瓜二つの別人の免許証を見出すところから、話が始まる。手帳には、かつて同級生を海水浴場で溺れさせた悔恨が記され、〈あやまりたい 住所はわかっているが会う勇気がない〉と逡巡が綴られている。主人公は、自分が本人に成り代わって謝りに行くことを思いつく。14年ぶりに会った〈同級生〉は、様々な人生の重荷を負っており、〈十四年前にあなたがうらやんだ〉私ではない、と言いながらも〈あの時の海水が 何年たっても耳からこぼれる〉ことを告げ・・・〈同級生〉に対して、何の罪も犯していない主人公が、罪を犯した女性に成り代わって〈ふくよかな耳から 生温かい水が流れ出る〉のを見届ける。

人生がもうすぐ終わる、と告げられた時、あの日、あの時に言いそびれた言葉、謝りたかったのに時期を逸してしまった悔恨が、未練となって胸を締め付けるのではなかろうか・・・そんな、誰にでも起こり得るシチュエーションに重ねて、トラウマのように残り続ける出来事や、その出来事に対して、人は償い得るのか、伝え得るのか・・・そんな言葉にならない気持ちの往還が、14年という時を隔ててもなお流れ続ける〈〉というイメージの中に濃縮されているように感じた。

散文体の改行詩、「鳥カゴの鳥」は、死者と生者とを結ぶ鳥、であると同時に、死者の想いにとらわれた心、そのものを描いているように感じた。粗筋は省略するが、死者と生者とがすれ違いながら出会い、互いに深い余韻を残す掌編小説のような詩。ぜひ、一読してほしい。


◆水

この詩集で、〈〉は見えるものと見えないもの、時空の異なる空間、異質な世界どうし・・・を結びつける溶媒のような役割を果たしている。再び、行分け詩に戻る。「なにもすることがない日に」では、子供たちの遠足の群れに紛れて入り込んだ水族館で感じた、心がしんと静まっていくような感覚、解放されるような浮遊感を持った一瞬を〈この天体に/水が生まれた日のような静けさ〉と時空を超えて把握する。「末広橋」では、見えない水の上に〈死者たちと夜ふかしをした跳ね橋〉がかかっており、そう感じた瞬間を〈天体の運行のような/この一瞬〉と言い当てる。

「夜の地図」の〈立ちあがる波に/さびしい砲弾を投げ込んだ〉という、鮮烈な一行は、時代の波が、夜のような暗さと濃厚さで押し寄せて来る、そんな目に見えない海のイメージを喚起する。〈細く砂をこぼしつづける/鉢植え〉と砂時計が重なり、世界の崩壊へと静かに時をこぼしていく〈鉢植え〉に、花が咲く時は来るのだろうか、そんな北川の、祈りにも似た問いかけを背後に感じた。


◆天体

天体〉もまた、キーワードだ。「ナイトサファリ」にも、天体が出てくる。〈この天体が/海ごと空ごと/流星になる日を知っているのだろう〉夜の獣たちの咆哮/彷徨。〈体じゅうの水が/氾濫する〉という終行に描かれた見えない水、それは、命そのものが湧き立つ瞬間、ともいえる時間なのかもしれない。「小さな図書館」にも、水と天体が登場する。〈私はいつのまにか/遠い星の水に還って//青い天体を移動する/ヌーの群れをぬらす//プラチナに光る海〉書物の中に広がっている、異界。その異界に想像力ですべりこむ、それは遠い星の・・・死後の、そして未生の羊水、イマージュを生み出す世界の羊水でもあるような気がした。

具体的な風景をテーマにしている「北上川」も、〈遠く/森が揺れ/太鼓の音が轟いてくる〉と、原始のアフリカ大陸(人類の発生の地)を思わせるような詩行から詩が始まる。〈忘れてきた時間は/忘れて来た土地から流れだすだろう〉という時間の捉え方にも、時空を超えた、見えない水が、とうとうと流れ続けている。それは、時空が存在を始める、その流れの発生する地点への想いであり、命が存在を始める、その源泉への想いでもあろう。


◆夜明け

「サシバ」の〈空は土中深くしまわれたのか/歩いても歩いても/夜に入っていけず〉も鮮烈に印象に残った。反転する世界。見えない海、触れない水に満たされた夜、そこに下降/書こう、していく時間こそ、詩の生み出される時間、なのかもしれない・・・そのことがわかるのは、きっと、早朝、〈夜明け〉という、あわい、の時間なのだ。否応なしに明けてしまう世界。

「漂流するもの」の〈夏がしずくをこぼして/すぽんと抜け落ちた〉体感的な喪失感。ここでも、見えない海が寄せている。「記憶は、」の中では、〈記憶は/来なかった夜明けを口につめて/体の外側を/旅しているのではないか〉見えない水に乗って、記憶が押し寄せて来る、あわい、の時間、夜明け。

記憶とは、物語る主体であり、物語る者、と言い換えることもできるだろう。物語は見えない〈〉に満たされ、見えない〈〉の中で寄せて来る〈〉に乗って、〈夜明け〉に、私たちのもとに還って来るのだ。

「天空のポスト」、これは実際に空の中にある、ように思われるポストであると同時に、死者たち(夜に生きている者たち)が投函するポストでもあるのかもしれない。〈この天体の/不在届のような静寂〉に満たされた場所から・・・〈あなたの詩集〉がやって来た後に訪れる、輝かしい夜明け、〈肩から背中から/まぶたから/太陽が昇ってくる〉という身体感覚に、まさに共振させられた。


◆アフリカ

「演習」は、幼児が〈物語の途中で/すばやくページを〉くると、〈瞬間/冬の緯度がかたむく〉驚きが記されている。幼児が物語の時空に傾きを加えた瞬間。幼年期の持つ未来の時間と、その未来を脅かすなにか、と闘う為の演習でもあるような気がした。「虹売り」に現れる〈アフリカ〉と、〈ひるまからシャッターが降りた/駅前商店街〉。そこに響く、虹売りの声は、見えない〈〉をたたえた湖に〈ゴーギャンが描きわすれた/虹を〉渡していく。それは、見えない水の中に泳ぎ出す子供たちの時間への想い、言い換えれば希望である。

最後に置かれた作品、「夏の音」の中で、再び原始の生命力を放つ〈アフリカ〉そして、人類の祖先である〈ネアンデルタール人〉への憧れが謳われている。〈中央アジアで消えた三万年〉〈うまれた場所へ帰ろうとしてという、回遊魚のようなイメージ。「北上川」に響いていた太鼓の響きは、同時に太古の響きであり、原始からの太鼓の響きは、人類の鼓動なのだと思う。最終連を引く。


(夜明けをぜんぶ知っているよ

遠い足をもつ人々が

裸足で街を通過していく


いのちが寄せて来る夜の岸辺のような、死せる者たちも生ける者たちと共に通過していく場所が姿を現す、日の出の時刻、夜明けの時間。

(夜明けをぜんぶ知っているよ〉このフレーズは・・・目に見える者と見えない者とが交錯する一瞬、そこから物語が生まれる瞬間を目撃した、詩人のつぶやきであるように感じた。

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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-12 18:19 | 読書感想、書評、批評

中村純さんの『女たちへ Dear Women』と、森崎和江さんに関する研究発表(西亮太氏)について

中村純さんの新詩集が公刊されました。
『女たちへ Dear Women 』です。

表紙に引かれた「かげ絵―女たちへ」の一節は、三「無名」の女たちの痛みに の最終連。この作品には、中村さんが2001年に出版社に勤務されていた頃、作家の吉武輝子さんと落合恵子さんの対談を企画された折の思いや、沖縄で(またしても)起きてしまった、若い女性の性暴力殺人への、言葉にならない思いについて、ショートエッセイが添えられています。

吉武輝子さんから頂いた「純さんへ 平和憲法を次世代に無傷で手渡す」というメッセージは、「女から女への手渡しの運動」であり、「私たちは、そのようにして、多くの女性の先輩たちから、どれだけの言葉と行動の花束を肉声としていただいてきたことでしょう・・・小森香子さん、石川逸子さん、高良留美子さん、麻生直子さん、森崎和江さん、落合恵子さん。詩や文学、女性運動に関わる女性たち・・・女性がひとりで夜も歩けないような街を、女性が自分を生きられない国を、若い人が自分のやわらかな新しいいのちを、無残にも戦地にさらすような社会を、望んではいません・・・」

この詩集に関連して、偶然よりも必然に近いタイミングで拝聴の機会を得た研究発表について、ご紹介したいと思います。

昨日、中央大学法学部准教授の西亮太さんの
「九州サークル村と森崎和江 炭鉱と労働運動、女性、そしてエロス」という研究発表がありました。(中央大学 政策総合文化研究所 公開研究会)

ポストコロニアル批評を本来とする西さんが、なぜ、森崎和江を読むに至ったのか。

エドワード・サイード、レイモンド・ウィリアムズ等の批評研究を通じて、炭鉱、労働問題、搾取、所有、etc. などの諸問題に興味を抱いておられたそうですが、エネルギーを使うことは、本来ポリティカルなものであるはずなのに、それが見えなくなっていた、その問題の大きさに、3.11以降、改めて気づかされたのだそうです。

被爆労働を前提とする原発が、クリーンエネルギーと呼ばれる違和感。炭鉱における危険や劣悪な労働環境、構造的搾取の問題、朝鮮人労働者の問題等に深く通じるものがあり、谷川雁らと生活を共にしながらも、谷川たちの(男性主体の)運動そのものに強い違和感を覚えていた森崎和江による、女性視点からの運動の総括(なぜ、谷川たちの運動が挫折するに至ったのか、という根元的な問も含めて)を、再読、精読する必然を覚えた、とのことでした。

谷川雁個人の資質もあると思うのですが、理想を掲げ、革新を目指して「連帯」する谷川たち(男たち)の「運動」の陰で、女たちは切実に、したたかに、生活の糧を得るための労働に従事していたこと・・・階級、民族、性差が別個のものとしてではなく、連続体として捉えられていた森崎の広範な視野について、今一度見直す必要があること。

女たちは自らの言葉で男たちや社会と「対話」する手段を拒絶されている、そこに森崎は問題の根元を見ていたのではないか、という西さんの指摘は、明解かつ鮮烈で、説得力がありました。谷川雁の(たぶんに男性社会が作り上げてきた既成概念に影響されたであろう)「ロマンティシズム」に基づくような「エロス」の概念と比較しながら提示された、森崎の「エロス」・・・両性の均等な立場における「対話」が心身を開いていく中から噴出するエネルギーとしての「エロス」、生命力の根源としてのエロスについての考察も、非常に示唆に富むものでした。

(男性中心社会からは、対話の対手としては)非在のもの、とみなされてきた女性が、男性の論理、思考回路、男性の言葉を用いて、男性中心社会の一員となって語る、という「社会参画」ではなく、女性が女性のままで語る・・・中村さんの言葉をお借りすれば、「女性が自分を生きる」中で成立する「対話」とは、男性が自然に基づく(社会的、外部的に押し付けられたものとしてではない)男性らしさを保ち、女性も同様に自然に基づく女性らしさを保ったまま、それぞれの個性に従って、自由に、対等に意思や想いを交わしあうことの出来る「対話」ということになるでしょう。

もちろん、旧来の家父的な社会制度は、かなり変化してきていますし、男性、女性という「括り」ではなく、性差を越えた、個人としての在り方、個人としての生き方が問われる時代になって来てはいますが、ゆるやかな「男性」「女性」という差異を一元化していくことが望まれているわけではない。

より多様な価値観を持った者同士が、同じ地平で言葉を交わしあうことの大切さ。社会的に、外圧として押し付けられた「性差」や「性的役割」ではなく、自ら選びとった、その人らしさ、としての立場に、人間本来の自然な在り方で立つことが出来るように、後方支援をするための「男性/女性」という差異・・・肉体的な性差からは自由な、男性性、女性性の共存、共闘を担保する性差について、改めて考えさせられました。

『女たちへ』土曜美術社出版販売 定価1000円

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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-10 11:39 | 読書感想、書評、批評

宮城ま咲詩集『よるのはんせいかい』感想

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宮城ま咲さんの詩集『よるのはんせいかい』が、第31回福田正夫賞を受賞されました。おめでとうございます。昨年末になりますが、宮城さんに私信でお送りした感想を公開します。


『よるのはんせいかい』ご恵送ありがとうございました。

谷川俊太郎さんが、童心や幼心というものは、大人になるにつれて失われてしまうのではなく、年輪のように真ん中に残っている、そしてポエジーはその芯の部分から発してくるのだ、とどこかで書いていましたが・・・宮城さんが少女のころの気持ちにストンと入り込んで、そこで弾むように語ったり歌ったりしておられる印象があり、心惹かれる詩集でした。

悲しすぎると、困惑して微笑むしかない、そんな時がありますが・・・宮城さんの詩行の間を蝶のように飛び回っている微笑みの妖精がいて、少女が堪えられなくなって泣きそうになると、ふっと肩に手を触れて微笑ませてくれるのではないか・・・全体に適度に配された、ユーモアを感じさせる表現の数々に、そんな温もりを感じました。

「けんとうし」の〈バックアップをとる間もなく〉、「八時二十分」のリズミカルな進行や〈父が怒らなくなる予定だったことも〉、あるいは「からあげ」の中の〈香ばしい本日のひとしな〉というような、ふっと痛切さや深刻さから気持ちをずらしてくれるようなユーモア、「雪は確かに好きだけど」の〈肉体の使用権を返却しに〉行く、というような想念(私も、魂が肉体を借りて、この世でひとときの生を過ごすのだ、という想いを抱いています)が、とても魅力的だと思います。「おめかし」に描かれる体の反応は、意識では把握できていない(あるいはあまりに悲しみが大きいので、心が感じないようにセーブしている)事柄を、体は正直に素直に表現してしまうのだということの証のように感じられました。

夜の底に押し付けられるような息苦しさの中で夢想を働かせたり孤独に耐えたりする時間が、宮城さんの詩人としての資質を育んだのかもしれません。「消しゴム買わずに」の〈息の仕方を勉強し直す〉という表現や、「物知りお父さん」の〈のしかかってくる黒い天井〉にはっとさせられました。私は幸い喘息になったことはありませんが、未体験の者にも実感として伝わってきます。

 「笑顔じゃなくても」の中で、思わず写真を探し回ってしまう自分自身に出会うという部分や、「ハズレを引き当てる」の中で思いがけない共通項に嬉しくなるところが素敵ですね。怒ってばかりいるお父さんなんてキライ・・・と思っている子ども心と、そんな自分を、どこかで好きになれなかったり、お父さんの期待に応えられない、自分はダメな子なんだ、と自信を無くしてしまったりする思春期の心、そして、やっぱり自分はお父さんが大好きだったんだ、と気づいた、大人になった今の心。好きだったんだ、と気づいたとき・・・病弱な娘を力強く、たくましく育てたかったのかな、とか、病気に負けない、強い心を持った子供になってほしい、とか、自分の娘なんだからできて当たり前だ、という〝親ばか″的な絶対的な信頼が背後に隠れていたのかもしれない、とか・・・色々なことが一気に〝わかって″くる。そんな〝はんせいかい″を行っている時間が、宮城さんにとっての詩作だったのだろう、と思いました。

「未完のなぞり絵」で、お父様が手を止めてしまった瞬間を読んで、涙がこみ上げてきました。その時、娘が成人するまで生きてはいられない、ということを、ひしひしと感じて辛くなってしまったのかもしれません。娘さんの中で生き続けているからこそ、詩に現れる。詩の中で動き出す。止まっていた「お父さんの時間」が、宮城さんの中で再び動き出す・・・もしかしたら、これからお父様のイメージは、白髪が増えて、皺が増えて、腰が曲がって・・・立派になったなあ、などとニコニコ笑いながら現れる、そんな好々爺のイメージになって行くかもしれません。

私の父は64歳で亡くなりました。高校の歴史教員でした。喘息の生徒さんを、学校で亡くしてしまったことがありました。授業を抜け出すことの多い生徒さんだったので、教室にいないな、と思いながらも、すぐには探さなかったのだとか・・・トイレで強い薬を吸引していて、心臓発作で亡くなっていたことが、後でわかり・・・それからしばらく、父は言葉を失った人のように過ごしていました。どうしてすぐに探しに行かなかったのか、と悔やまれてならなかったのだと思います。授業を抜け出していたのも、苦しさを紛らわしたり、他の人に心配をかけずに薬で抑えようとしていたから、なのかもしれません。苦しいなら、そう言えばいいじゃないか、と思いがちですが・・・伝えても、きっとわかってもらえない・・・そんな孤独を積み重ねていくうちに、喘息の苦しさを自分一人で抱え込んでしまうようになるのかもしれない・・・「物知りお父さん」の中の、救急車を呼んでもいい病気だということを、大人になってから知った、というフレーズは、さりげないけれど、とても重い一行だと思いました。

 ユーモアや子供時代の瑞々しい感性、弾むような言葉のリズム感などを、大切に詩作に励んでいただきたいと思いました。良い年をお迎えください。
                                    2016年12月30日

# by yumiko_aoki_4649 | 2017-12-04 15:17 | 読書感想、書評

二宮清隆詩集『消失点』感想

近頃めずらしい、函入りの詩集である。しかも窓が切ってあって、エメラルドグリーンの海と銀色に輝く水平線、控えめに(波間の煌めきのように)記された書名、あわいブルーの空(を思わせる風景)が見えるという、凝った造本。
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 抜き出してみると、鮮やかなグリーンが現れる。
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緑の草原を思わせるカバーを外すと、
二宮清隆詩集『消失点』感想_d0264981_13220382.jpg一転して雪原のようなストイックな白が広がる。

栞ひもは目の覚めるようなブルー。


ISBNの記されていない私家版の様だが、
丁寧なハードカバーの造本とハイセンスな装幀が素晴らしい。

表紙を開くと、見返しにまで表紙の「風景」がつながっている。

あとがきによれば、詩集の編集は大学時代のクラスメートで親友の
杉村勉氏、装幀デザインは天宅正氏とのこと。

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詩集は、一章「視野狭窄」、二章「追憶」、三章「帰還」、そして最後に添えるように置かれた表題作からなるが、ひらがややカタカナの意識的な使用、読みのリズムや時間差を意識した改行やレイアウトの工夫など、随所に音読を意識した、こまやかな心遣いが伺われる。たとえ黙読であっても、心の中で文字が音声化され、その響きが他者へと届けられる・・・そんな「詩(うた)」への想いが全篇から感じられる。

巻頭に置かれた「地図がない」は、人生の見取り図としての「地図」を未だに手にし得ない・・・そんな自分を、鏡像のように客観視するところから始まる。ラストが鮮烈だ。
〈鏡の向こうのぼくに/引き返すために地図を画いておくなんてと/一直線に反撃すると/一瞬にして鏡は割れ/鏡の中の地図を持ったぼくは/細かく砕け散り/ぼくは一人で立っていた/鏡のない部屋で〉

一直線・・・その一途さが、二宮の芯を貫いている。〈エゴの晒し合い〉〈その場しのぎの小さな嘘〉〈逃げ場のない小さな裏切り〉を許せず、忘れることもできない詩人の〈眠れぬ夜〉に、心身を冷たく濡らし続ける〈そぼ降る感情の霧雨〉(「霧雨」)。あらゆる〈うそ〉を、ひらがなの柔らかな表記に置き換えてみても、うそはうそ、許せない苦悩が薄まるわけではない(「うなされる」)。学生時代に、衝動的に死を望んだ時のエピソードが「開かない扉」に記されているが・・・欺瞞や不正を許すことのできない生来の一途さが、時には生き辛さともなって二宮を繰り返し苦しめたのではあるまいか。
「殺すな」に現れる〈黒いヘルメットの中にしまい込んであった〉記憶とは、学生運動期の苦い思い出なのかもしれない。〈無定形な自由への渇望の夢も覚め/互いに生きることを認め合わないで/刺し違えるようにして/死んだまま生きることを選んでしまった/何もかも愚劣 と奥底で渦のように笑い/拠って立つべきものを失った・・・敗北という二文字を焦げるほどに烙印された〉その後の人生。〈拒める訳もなく歯を食いしばって〉生きるために打ち込んできた仕事、内心〈しゃらくせえこちとら/何でも咀嚼しなくちゃ生きちゃいけないのさ〉とうそぶきながら生きて来た人生(「磨く」)。その殺伐とした心象を癒してくれるものが〈小さな花や虫たちに教えられる慈しみ〉(「霧雨」)であり、主に二章にまとめられた少年期の故郷(北海道)への追憶であり、三章で触れられる自然や他者との交感、饗応であったのだろう。

全篇を通じて、〈雨〉が印象深く心身を濡らしていく。〈春を前にして降る雨は・・・寒く乾いた季節を生き抜くために/潔いほどきれいさっぱり/裸になっていた木々を冷たく濡らし〉鳥たちをも容赦なく凍えさせる冷酷さを持っているが、同時に〈この春生まれてくる/もの達への祝福の雨〉でもある(「春を前に降る雨」)。「長雨の」「流れ雨」「にわか雨」・・・それは身体を濡らす雨であると同時に、〈時という雨に打たれ/日々という風に吹かれ〉(「花の言葉」)生きて来た詩人の心に降り注いだ雨であり、記憶を冷たく湿らせたり、驟雨となって押し流そうとした、過去の悲哀、時には涙の喩としての雨でもあろう。

第二詩集『消失点』を、今、なぜ二宮は編もうとしたのか。人生の消失点、〈まっすぐの線路の遠いとおい先は/点になっていた〉(「消失点」)その帰着点が、いよいよ見えて来る時期に差し掛かったから、だろうか。集中には、自身の老いを予感したかのような詩句も仄見える。しかし、〈こっかいぎじどうにむかって/ひゃっぽんの せんぼんの まんぼんの旗が/こくびゃくをきっするために〉(「八月のバラ」)押し寄せるのを目撃したこと・・・そのことによって、学生運動期の熱い情熱を、再び心中に蘇らされたこともまた、詩集を編む動機になっているのではないか、という気がしてならない。
(2017年5月発行)


# by yumiko_aoki_4649 | 2017-07-30 14:58 | 読書感想、書評

陶原葵さん『帰、去来』感想

 陶原葵さんの新詩集『帰、去来』を読みながら、感じたこと、想ったことなどを記したい。

古風で格調の高い表紙、冒頭にエピグラフのように置かれた、禅の公案・・・この詩集の世界に、入っていけるだろうか?かすかに不安を抱きながら読み始めたのだが・・・余白の多い詩行の間から、向う側へと静かに迎え入れられるような、そんな広がりと奥行きを持つ詩集だった。

今、ここにある時間と、かつてあった時間、あるいは今、ここにない時間・・・その間に広がっている、河原のようなところ。中也の「観た」であろう、抑えたきらめきで光がさらさらと流れて行くような、しん、と静まり返っている空間・・・へ、降りていく、あるいは訪ねていく。その中で佇んでいる。そんな気持ちに誘われていく。

「卯木」の小花の白、のイメージ。うらじろの森、全体に白く、抑えたハレーションを起こしているような、何処とも、いつとも知れない森、の中で・・・孵化する寸前の〈青い卵〉を、そっと手にする。ひっそりと、自分のものにする。飛び立つかもしれないものを、ひそかに私のもの、にする、どこかうしろめたいような感覚を思い出す。

「眠、度、処方」、夢の狭間に広がる、不思議な空間の中で、いったい、誰と、何と、話をしているのか・・・声を聞いているのか。茫洋とした中で、くっきりしたものに触れる、ということ。〈それは切っ先が 刹那 に 触れたと思われます〉この一節に身震いした。神経のもっとも尖った、澄んだ切っ先・・・が、〈間〉から生まれて来るものに触れた。そんな気がしたのだった。

「柱」の冒頭、〈耳のおくに澄むものが〉ここは、住む、ではなくて、澄む、を用いている。何か透明に、鎮まっていくような、存在そのもの、の気配、のような。〈通夜の果て〉に出会う人は、誰なのだろう。たどり着くのは、何処なのだろう。その人の記憶、から逃れるように、前に進まなければならない足取りの重さ・・・濃度のある大気にとらわれているような、そんな重みの中で、ゆっくりと前進していく、そんな歩行を感じる。大地そのものとなっている体を、引きずって歩いているような不思議な質感もあり・・・〈翅のない蝶〉が眼をあける、目覚める最後が鮮烈だった。

「あつまってくる夜に」は、吉原幸子さんの「をさなご」を思い出しつつ・・・孩児、という耳慣れない言葉を辞書で調べることになった。幼子であると同時に、幼児の戒名でもあるという。〈金の梨地の川〉、ここはまるで、絵の中に入っていくような感覚。金粉を撒いた日本画の、墨の濃淡が茫漠と広がる世界。死者の居る場所の方が生きた空間で、永遠の春のような、秋のような、花や果実の盛りが続いているような・・・。

「著莪」、シャガ。胡蝶花とも呼ぶことを知った。〈鏡の裏に 階段をおりてくる痛みが映る/展翅板に刺されたまま 発光する螢よ〉痛み、そのものが、存在である、ということ。哀しみ、を通り越して。針で止められた、飛び立てぬまま誰かを待っている、魂、の気配。

詩集表題ともなっている「帰、去来」。しんだわたし、と、生きているわたし、が出あう様な感覚を覚えた。過去の記憶が発芽する、想い出のはざま、のような場所。何度も何度も訪れては、またそこを立ち去らねばならない。既に記憶にない、もしかしたら祖先たちの記憶であるのかもしれない、そんな古いものが、地層から芽を出しているような感覚があった。

〈(つかれていた/意味を問うことに)言葉を、すべて意味から解放できたら。どうしても、言葉が通じない、論理が届かない。そんな時、いくら説明を尽くしても、尽くしきれない、そんな時・・・なおさら、言葉、の意味を、そっと水に流してしまいたい、そんな気持ちになる。〈自転の鼓動に呼ばれてしまって〉地球そのものと一体化しているような、時を超えた存在と同化しているようなスケールに惹かれる。

44頁あたりからの、言葉がポロポロと散らばりながら集まって来るような、その余白から聞こえて来る、声。南洋で兵士として戦った者の声・・・それは、御父上なのか、あるいは・・・。書架の奥で、埃にまみれた手記を繙いているうちに、時の狭間に置き去られたような感覚になる、しんと穴ぐらの底に坐っているような気がしてくる・・・そんな想いに引き寄せられていく。

「淵」も不思議な質感を持つ作品だった。鳥の姿となった死者・・・自らはそのことに気付かないまま、そんな死者たちが、ひとり、またひとり、と訪れる、そんな明るい谷間を想い浮かべる。〈あんがい深い根 なのだと知る/なつかしいものなのだ永遠とは〉戻っていく場所。根の国、という言葉があるが、ねむりの間にながれだしているもの、とは、なんだろう・・・意識が夜ごと体を抜け出し、形をとるのかもしれない。「減築の庭」、これはまるでわらべ歌のようなリズムに乗せられて、何か懐かしい空間に呼び込まれていくような作品だった。〈ひとであることを証明できるものはなにもない〉そう、私たちは、人、であるけれど・・・人って、なんだろう。増築、ではなく、少しずつ減っていく改築、とは・・・。家を建て直す。取り壊す。そのたびに掘り返す庭・・・過去の重層の中から現れて来る、骨、影、姿・・・。記憶の中にだけ残る、かつてあった、家の形。庭の姿。

「20×5」、この題は、人の一生を示しているのだろうか。記憶にあるのは、10代から?20代から?〈それにしても正しさは寂しさを肯い続ける〉正しくあろうとすれば、寂しさに出会わねばならないのか。〈どこにも還ることのできない宇宙葬ほど/ざんこくなものはないのです〉どこにも受け入れられない、彷徨い続ける躯。もし、〈正しさ〉を選択したがゆえに、寂しさの海を漂うのだとしたら。

生きて流れて行く、その時間の中で出会う、くっきりとした硬さ、のようなもの。それが、〈高い氷点〉であるのかもしれず・・・〈冷え の純度〉であるのかもしれず・・・それこそが、〈それは切っ先が 刹那 に 触れた〉瞬間であるのかもしれない。

死者たちが集う空間に、現身のまま招き入れられるような、そんな静けさを感じる詩集だった。私の亡くなった父も、こんな場所にいるのではないか。出会ったことはないけれど、過去の詩人たちとも、ここでなら出会える。言葉が形をまとって、透き通った幼子の躰をとって、河原にしゃがんでいる、ような・・・そんなイメージの中を旅していく、そんな時間を、味わうことができる。部分引用ではなかなか、感じたことを伝えられそうにない。ぜひ、全体を通読してほしい。

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# by yumiko_aoki_4649 | 2017-06-21 11:06 | 読書感想、書評、批評
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詩や詩に関わるものごとなど。


by まりも
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