本当に素晴らしい詩集だった。詩的跳躍のスプリングのきいた、余白の多い行分け詩と、散文を読みの呼吸に合わせて改行したような、物語性の強い行分け詩(改行詩)との、絶妙な混交。
行分け詩から、見て行きたい。どうしてここで、こんな鮮やかな転換や飛躍を、ふっと、いかにも自然な素振りで置くことができるのだろう。断絶したり途切れたりしているのではなく、奥深いところでつながっている、目に見えない深い穴の底でつながっているような感覚。たとえば、「地図をつくる」
(前略)
貼りつけるたびに
この天体は
たくさんのシワをつくる
(中略)
――みんな、みずのあるほうへあるいたの
子供たちは目の中に
ワニとカバを連れていて
世界は
まあたらしい地図を通過する彼らのものだ
川べりで傾いたまま
無数の青い実を降らす木
おーい、
そこの空は誰の空ですか?
はるか南方(アフリカ)の子供達へのまなざし。彼らの背後に流れる目に見えない水を、北川は透視している。国境など存在しない、子供達の未来への呼びかけが温かい。
続いて置かれた「九月の境界」の中には、飲み屋のカウンターで〈潮〉をたぐりよせる〈一年ぶりに帰国した人〉が登場する。日常の風景が〈はげしく時化た更地〉となり、〈人だけがいなくなった〉シャッター街を見えない海がうねっていく。震災の津波の翳を感じると共に、日常に詩を呼び寄せる際のうねりが、そこには重ねられているように思う。一枚の絵のように美しい「窓」という作品では、〈岬の家は/どこか傷ついているのか/いつまでも明かりがつかず〉という詩行に、はっとさせられる。後半を引く。
日暮れて
金色の波をかぶって
沖へ出ていくもの
あれは
小さな花と
地図を抱いた私だ
美しい水をすくうように
あの窓から
名前を呼ばれたことがある
挿入されるように置かれた、幻想掌編小説風の散文詩(長めの行で改行していく作品)にも引き込まれた。小説も書く北川らしい、いきいきと情景の立ち上がって来る細やかな文章。日常の中で出会う、違和感や驚きを覚える一瞬。憐憫や困惑、焦燥を感じた時の主人公の心理に、知らぬ間に同調して、その世界に入り込んでしまう。
「プラスチックの旅」という作品では、電車に偶然乗り合わせた若い女が、〈ここに一歳になる息子と三歳の娘が住んでいるの〉と、自らの茶髪の頭を指さすところから始まる。女の夢物語のような〈かわいいお子さんたち〉との生活(の妄想)に語り手もつい、話を合わせてしまうのだが・・・女がイチジクを取り出し、共に食しながら〈このやわらかさ〉は、〈赤ん坊の脳みたい〉と呟くあたりから、一気に不穏な世界へと突入していく。女が離婚して子供と会えなくなった顛末、〈髪の中から子供たちの声が聞こえてきた〉話を聞かされるうちに、語り手自身も〈女の髪の中〉の世界に、入り込んで行ってしまう・・・。
「水の中の用意された一日」では、がんの再発を告げられた主人公が、〈公衆電話〉に置き忘れられたビニールポーチの中に、自分と瓜二つの別人の免許証を見出すところから、話が始まる。手帳には、かつて同級生を海水浴場で溺れさせた悔恨が記され、〈あやまりたい 住所はわかっているが会う勇気がない〉と逡巡が綴られている。主人公は、自分が本人に成り代わって謝りに行くことを思いつく。14年ぶりに会った〈同級生〉は、様々な人生の重荷を負っており、〈十四年前にあなたがうらやんだ〉私ではない、と言いながらも〈あの時の海水が 何年たっても耳からこぼれる〉ことを告げ・・・〈同級生〉に対して、何の罪も犯していない主人公が、罪を犯した女性に成り代わって〈ふくよかな耳から 生温かい水が流れ出る〉のを見届ける。
人生がもうすぐ終わる、と告げられた時、あの日、あの時に言いそびれた言葉、謝りたかったのに時期を逸してしまった悔恨が、未練となって胸を締め付けるのではなかろうか・・・そんな、誰にでも起こり得るシチュエーションに重ねて、トラウマのように残り続ける出来事や、その出来事に対して、人は償い得るのか、伝え得るのか・・・そんな言葉にならない気持ちの往還が、14年という時を隔ててもなお流れ続ける〈水〉というイメージの中に濃縮されているように感じた。
散文体の改行詩、「鳥カゴの鳥」は、死者と生者とを結ぶ鳥、であると同時に、死者の想いにとらわれた心、そのものを描いているように感じた。粗筋は省略するが、死者と生者とがすれ違いながら出会い、互いに深い余韻を残す掌編小説のような詩。ぜひ、一読してほしい。
◆水
この詩集で、〈水〉は見えるものと見えないもの、時空の異なる空間、異質な世界どうし・・・を結びつける溶媒のような役割を果たしている。再び、行分け詩に戻る。「なにもすることがない日に」では、子供たちの遠足の群れに紛れて入り込んだ水族館で感じた、心がしんと静まっていくような感覚、解放されるような浮遊感を持った一瞬を〈この天体に/水が生まれた日のような静けさ〉と時空を超えて把握する。「末広橋」では、見えない水の上に〈死者たちと夜ふかしをした跳ね橋〉がかかっており、そう感じた瞬間を〈天体の運行のような/この一瞬〉と言い当てる。
「夜の地図」の〈立ちあがる波に/さびしい砲弾を投げ込んだ〉という、鮮烈な一行は、時代の波が、夜のような暗さと濃厚さで押し寄せて来る、そんな目に見えない海のイメージを喚起する。〈細く砂をこぼしつづける/鉢植え〉と砂時計が重なり、世界の崩壊へと静かに時をこぼしていく〈鉢植え〉に、花が咲く時は来るのだろうか、そんな北川の、祈りにも似た問いかけを背後に感じた。
◆天体
〈天体〉もまた、キーワードだ。「ナイトサファリ」にも、天体が出てくる。〈この天体が/海ごと空ごと/流星になる日を知っているのだろう〉夜の獣たちの咆哮/彷徨。〈体じゅうの水が/氾濫する〉という終行に描かれた見えない水、それは、命そのものが湧き立つ瞬間、ともいえる時間なのかもしれない。「小さな図書館」にも、水と天体が登場する。〈私はいつのまにか/遠い星の水に還って//青い天体を移動する/ヌーの群れをぬらす//プラチナに光る海〉書物の中に広がっている、異界。その異界に想像力ですべりこむ、それは遠い星の・・・死後の、そして未生の羊水、イマージュを生み出す世界の羊水でもあるような気がした。
具体的な風景をテーマにしている「北上川」も、〈遠く/森が揺れ/太鼓の音が轟いてくる〉と、原始のアフリカ大陸(人類の発生の地)を思わせるような詩行から詩が始まる。〈忘れてきた時間は/忘れて来た土地から流れだすだろう〉という時間の捉え方にも、時空を超えた、見えない水が、とうとうと流れ続けている。それは、時空が存在を始める、その流れの発生する地点への想いであり、命が存在を始める、その源泉への想いでもあろう。
◆夜明け
「サシバ」の〈空は土中深くしまわれたのか/歩いても歩いても/夜に入っていけず〉も鮮烈に印象に残った。反転する世界。見えない海、触れない水に満たされた夜、そこに下降/書こう、していく時間こそ、詩の生み出される時間、なのかもしれない・・・そのことがわかるのは、きっと、早朝、〈夜明け〉という、あわい、の時間なのだ。否応なしに明けてしまう世界。
「漂流するもの」の〈夏がしずくをこぼして/すぽんと抜け落ちた〉体感的な喪失感。ここでも、見えない海が寄せている。「記憶は、」の中では、〈記憶は/来なかった夜明けを口につめて/体の外側を/旅しているのではないか〉見えない水に乗って、記憶が押し寄せて来る、あわい、の時間、夜明け。
記憶とは、物語る主体であり、物語る者、と言い換えることもできるだろう。物語は見えない〈水〉に満たされ、見えない〈夜〉の中で寄せて来る〈波〉に乗って、〈夜明け〉に、私たちのもとに還って来るのだ。
「天空のポスト」、これは実際に空の中にある、ように思われるポストであると同時に、死者たち(夜に生きている者たち)が投函するポストでもあるのかもしれない。〈この天体の/不在届のような静寂〉に満たされた場所から・・・〈あなたの詩集〉がやって来た後に訪れる、輝かしい夜明け、〈肩から背中から/まぶたから/太陽が昇ってくる〉という身体感覚に、まさに共振させられた。
◆アフリカ
「演習」は、幼児が〈物語の途中で/すばやくページを〉くると、〈瞬間/冬の緯度がかたむく〉驚きが記されている。幼児が物語の時空に傾きを加えた瞬間。幼年期の持つ未来の時間と、その未来を脅かすなにか、と闘う為の演習でもあるような気がした。「虹売り」に現れる〈アフリカ〉と、〈ひるまからシャッターが降りた/駅前商店街〉。そこに響く、虹売りの声は、見えない〈水〉をたたえた湖に〈ゴーギャンが描きわすれた/虹を〉渡していく。それは、見えない水の中に泳ぎ出す子供たちの時間への想い、言い換えれば希望である。
最後に置かれた作品、「夏の音」の中で、再び原始の生命力を放つ〈アフリカ〉そして、人類の祖先である〈ネアンデルタール人〉への憧れが謳われている。〈中央アジアで消えた三万年〉〈うまれた場所へ帰ろうとして〉という、回遊魚のようなイメージ。「北上川」に響いていた太鼓の響きは、同時に太古の響きであり、原始からの太鼓の響きは、人類の鼓動なのだと思う。最終連を引く。
(夜明けをぜんぶ知っているよ
遠い足をもつ人々が
裸足で街を通過していく
いのちが寄せて来る夜の岸辺のような、死せる者たちも生ける者たちと共に通過していく場所が姿を現す、日の出の時刻、夜明けの時間。
〈(夜明けをぜんぶ知っているよ〉このフレーズは・・・目に見える者と見えない者とが交錯する一瞬、そこから物語が生まれる瞬間を目撃した、詩人のつぶやきであるように感じた。